【第261節】
↓ 続きです♪ (魏王・曹丕が
渋々??
帝位を応諾する迄を トクと御覧あれ!)
→
詔勅を知った
家臣団
から
〔魏王への上奏〕
=尚書令
桓階
ら
『
漢氏は天子の位を陛下に譲られました。陛下
(殿下から陛下へ呼称が変っている)
は聖く明らかな徳と 暦数の順序によって、漢の禅譲を受けられ、誠に 天の心を旨とされる事になりました。 そもそも天命は 辞退してよいものではなく、万民の希望は 反してよいものではありません。臣どもは列侯諸将、群臣侍僕を集め、璽書を発布し、天命に従い、儀礼を整えられん事を請いたし、共に上奏し奉ります。』
↓
〔
魏王の固辞=布令
E
〕
『
ワシの 絶対に引き受けないと云う意向についてだけ 論議してくれ。
猟(征伐)から帰れば、改めて布令を出すであろう。』
→
再び家臣達から
〔魏王への上奏〕
=尚書令
桓階
ら
『
昔、尭と舜は文祖に位を譲りました。漢朝になると征伐によって天命を受けた訳ですが、天の威光を敬い、敢えて疎かにせず、即座に行在所の地で即位しました。
今、禅譲の命を受けたにつきましては、百官群吏と全軍の兵士を集めて、全員地位の順に並ばせ、皆に天命を目の当たりにさせるべきかと存じます。陣営の中は手狭ですから、平坦な場所に壇場を設え、めでたき天命に答え奉るが宜しいかと思います。臣どもは速やかに侍中・常侍と会議を開き、儀礼について論議いたし、太史の官は吉日を選び、済みましたらまた上奏いたします。』
↓
〔
魏王の固辞=布令F
〕
『
ワシは全く引き受ける心算は無い。予めして措く事など何が有ろうか。』
→
家臣達から
〔
魏王への奏議〕
=侍中
劉翼
、常侍
衛秦
ら
『
漢氏が天下を私物化しなかった尭の論理を尊重し、陛下が聖徳をもって天命の移行に応えられれば、天も人も共に喜び、希望を叶えられる事になりましょう。どうか霊兆に従って速やかに帝位に登られますように。太史丞の許芝に訊ねますと、今月17日は物事が完結する吉日であり、禅譲の命を受けるのに相応しいとのこと。直ちに壇場を整えます。施行しなければならない事は別に上奏いたします。』
↓
〔
魏王の固辞=布令G
〕
『
たまたま外に出て見ると壇場が設けられていた。之は何の心算か。いま辞退して、詔勅をお受けしない決意である。ただ陣幕の前で璽書を開き、詔勅を受ける儀礼は平常どおりとする。とにかく気候の寒い時であるから、壇を作っている者達を止めさせ戻してやれ。
』
→
璽書を開いた(読んだ)のち
〔
魏王が家臣達に出した布令=固辞H
〕
璽綬返上の申し出
(1)=
(17日)
『
璽綬を還し奉って辞退の文を書いて貰いたい。
私はどうして此の詔勅を奉じ、此の賜り物を受け得ようか。
昔、尭は天下を許由・子州支甫に譲り、舜もまた全巻・石戸之農・北人無択に譲ったが彼等のうち或る者は 逃れて潁水の北で耕作に従事し、或る者は鬱積と心労から病気に罹って居ると辞退し、或る者は 遠く山林に逃げ込み居所を晦ませ、或る者は子を連れて海に行き一生帰って来ず、
或る者は 恥辱だと考え深遠に身を投じた。そのうえ顔燭は大きな璞
はく
(玉
ぎょく
の原石)が其の儘の状態を保ち得無い事に懸念を示し、限度を弁えると云う自己の分を守り、王子捜は丹穴の洞穴の調査を喜び、煙で燻り出しても出ず、柳下恵は三公の位と引き換えに其の生き方を改める事はせず、曾参は晋・楚の冨のために其の仁徳を変える事はしなかった。
この9人の人物達
は皆、節操を高くして 道義を尊び、富を軽んじ 高貴さを賤しんだ。それゆえ
千年の後までも名を記され、現在に於いても讃えられている。仁を追求して仁を手に入れたので
あって、仁はどうして遠くに存在しよう。私だけが何ゆえに及ばない事があろう。道義として、東の海に入って死を選んでも、漢朝の詔を奉ずる訳にはいかない。速やかに上書を書き、璽綬を返上し、その事を天下に布告して全ての人に聞かせるように。』
己未の日(17日)、群官に布告し、魏に布令を下し、また天下にも下した。
→
〔
魏王への上書〕
=輔国将軍清苑公
劉若
ら家臣団
120人
の連名
『
伏して布令の文を読みますに、深く謙譲の態度を保持せられ、み心は懇篤にましまし、至誠は
外に現われておりますが、臣どもの納得し兼ねる処で御座います。何故かと申しますと、石戸とか北人とかは匹夫の狷介な理想主義者であって、その行動は道義に合致せず、事跡は経典に見えない連中です。それだからこそ
司馬遷
は否定的な見方を致しており、誠に 聖明の主が 思慕する対象では御座いません。それに舜は尭の禅譲に逆らわず、禹もまた帝位を辞退する言葉を吐いては居りません。それゆえ『伝』には 『帝位に登ると、ずっと其うであったかの様だった』 と謂っているのです。これは実際、聖人が天命の逆らうべからず、暦数の辞退すべからざる事を 弁えて居たからです。伏して慮まするに、陛下には天の与える命運に該当され、至徳は聞こえ渡って天にまで届き輝いておられます。
3
霊は瑞祥を降し、人も神も和らぎ、めでたきしるは次々と重なり、万国は響きに応ずるが如き有様で御座います。起用されない様にと願ったとしても、一体どこに逃げ隠れ出来るのでしょうか。それなのに謙虚な態度を固執され、天の意に反し民衆の心に逆らって、ちっぽけな分を守った匹夫の態度を慕い、聖人の踏み行なった行為に背き、経書と予言書の明文にたがい、百家の
こじ付けの説
を信じて居られるのは、天命に応え奉り、民衆の期待に叶う事には成りません。臣どもは死罪を犯しても請願いたします。すぐにも壇場を整頓し、吉日に至れば命を受けられること、前の上奏の通りにして下さいますように。手分けして布令を書き写し、布告いたしましょう。』
↓
〔
魏王の固辞=布令I
〕
『
昔、柏成子高は夏・禹の要請を辞退して野に隠れ、顔闔は魯の礼物を辞退して跡を晦ませた。
そもそも王者の重み、諸侯の貴いが有りながら、2人は其れを軽視した。何故かというと、彼等の節義が高かったからである。それ故に激情の士は名声に身を投げ出し、正義の士は清潔さを高しとし、粗末な食物を取り瓢箪から水を飲みながらも其の生活を楽しんだ。それだからこそ孔子は
王駘を師とし、子産は申徒を讃えたのである。いま諸卿は皆、私の股肱であり腹心であって、私の気持を充分に弁えている筈なのに、いま皆このようで在るならば、諸卿は形骸に捉われた交わり方をしているのに、私は形骸に捉われ無い世界を求めている事になる。互いに理解し得無いのも怪しむに足りない。 速やかに文書を奉り、璽綬を返上し、これ以上 ゴタゴタ言うでないぞ。』
→〔
魏王への上奏文〕
=再び
劉若
ら
120
名の連名
『
臣どもは天命のしるしは理由も無く現われず民衆の心には逆らう事が出来ぬと聞いております。それゆえ孔子は『周公はいったい聖人では無いのか。天下を辞退した。これでは天地日月は簡単に万物から離れ去ってしまう』と謂っております。それだからこそ舜は天下を前にして拝礼もせずに天命を引き受けたのです。今、火徳の気は尽きはて炎火の定めは終り、帝位は明徳の人に移り、天の福は魏に栄えております。瑞祥は明白であり、天命を受け賜いし事は既に不動であり、大いなる天の下、神と人とは共に呼応しまして、舜の時代に
鳳凰が舞い降り
、周の時代に
魚が舟に踊り込んだ
事も、現在の事とは比べ物になりません。
それなのに陛下には、天命にたがって小さな品行を飾り立て、人心に逆らって個人の意志に固執されています。上は上天の示される恩顧ある命令の趣旨にもとり、中は聖人の道理を悟った生き方を忘れ、下は人臣たちの首を延ばして待ち望む期待を裏切る事になりまして、聖徳の大道を高く掲げ、永遠に残る勲を推し進める遣り方では御座いません。君に仕える場合、可とするものを献じ、否とするものを除く道があり、上を奉ずる場合、逆鱗に触れ 飽く迄も争う 義があると、臣どもは 聞いております。 臣どもは 敢えて 死を覚悟して 請願いたします。』
↓
★
〔
魏王の固辞=布令J
〕
『
そもそも 古代の聖王が統治された時、
至徳は 乾坤
あめつち
の徳 と合致
し、恵沢は
造化の神
と等しく、
礼教は昆虫にまで
手厚く、
仁徳は草木にまで
遍く行き渡った。日月の照らす此の世界に
於いて、天を戴き地を踏みしめ精気を含み 生命を保っている万物は、全て其の清風で身を包み、玄妙な徳に湯浴みしない者は無かった。それだからこそ戦争は起らず、苛酷や邪悪は存在せず、
風雨は季節に応じて在り、瑞祥は同類のものに感応して出現する
のである。
今、人民は、寒える者は未まだ暖かな衣服を着られず、飢える者は未まだ充分な食物を取れず、妻の無い男は未まだ妻を娶れず、夫の無い女は未まだ嫁に行けずに居る。
孫権
と
劉備
は
依然として存在し
、未だに 勝利の標である 干
たて
と戚
まさかり
による舞を舞わす事が出来ず、今や征伐の斧を整えんとしている処である。戦役は外で止む事なく、士民は 内で 安まる時も無く、耳は未だに 太平を寿ぐ歌を聞かず、目は未だに撃壌の遊び
(木靴の片方を地面に立て、もう1方を投げて当てる。太平時に遊ばれた)
を見ず、嬰児は未だに 安全な住居に身を寄せる事が出来ず、田畝に宿をとれる程の 余分な食糧も 未だに無い。
人事
に不充分な様は、これ程までなのだ。(更に、
瑞祥
が未だに しるし を示さない点で謂えば)
夜には未だに 有道の国に出現すると云う
景星
めでたぼし
が輝かず、
政治では未だに
真人
(天地の道を身に着けた超人)と通じあえず、
黄河は未だに図版を背負った
龍馬
を出現させず、山は未だに
象車
(??)を出さず、
尭の場合に生えたと謂う
瑞草
は未だに階段前の庭先や厨屋
くりや
に生えず、
舜の時の様に
西王母
(
女仙人
)は未だに
白環
を献上せず、
渠捜(
西方国
)は未だに珍奇な
裘
かわごろも
を奉らない。
昔の聖人君主は皆、これ等の結果が在って初めて功業を遂げ、名を記す事が出来たのである。
今、諸卿は私に心慮を尽して天と人とを和らげ、天理を極めるだけの少しの余裕をも与えて呉れ様としないうえ、かの諸々の事柄が具備し、多くの瑞兆が下されて、その後で落ち着いて此の事を論議して呉れ様ともしないのは何うしてか。なぜ慌しく此の様に私を辱め、圧迫するのだ。
速やかに辞退の文を書き、璽綬を返し奉り、これ以上わたしの不徳を大きくしないで貰いたい。』
→〔
魏王への上奏〕
=侍中・
劉翼
ら
『
伏して慮みまするに、陛下には大聖人の持つ純粋な美徳を具えられ、天命の巡り合わせに該当されております。天象を観れば祥瑞は明白であり、
図緯
(神秘的な図と書)を考えれば文義は光り輝き、人事を察すれば四海は心を均しくし、前代を参考にすれば時代を異にしながら方向を同じくしております。それなのに飽く迄も禅譲の命令を拒否され、未だに帝位に登られません。
陛下の聖意は懇篤を極めて居られますが、臣どもは敢えて陛下の詔勅を奉じましょうや。
すぐにも文書を具え、使者を派遣されますように。』
↓
〔
魏王の固辞K
〕
『泰伯は三たび天下を辞退した。他の人は称揚しなかったが、孔子は其の至徳を感歎している。 私は一体、異なる人間か。』
→〔魏王から
漢帝への上書
(1)
〕
=璽綬返上の申し出
(2)
『庚申の日(
18日
)、魏王は上書を奉った。』
『
皇帝陛下、今月乙卯の日
(13日)
に忝くも璽書を賜りました。伏して御命令を承り、五体は驚きに慄き、精神は いずこも知れず飛び去る思いが致しました。
臣
わたくし
は先に 丞相の位を返し 奉り、藩国に退居いたす事を、聖恩にて聴許されております。
臣は 徳を考慮し身の程を考えて 自己の生き方を決めた古人の志は持ちませんけれども、自己の本性を保持する事こそ、まさに個人的願望なので御座います。思いも掛けず、陛下には間違った御命令を下され 世にも稀な詔勅を発布されて、徳なき臣の上に 加えられました。 それに、
尭が舜に譲りましたのは、その家族に対する親睦の徳を 取り上げた為であり、舜が禹に授け
ましたのは、その聖人と並ぶ立派さを取り立てた為であって、それでも下は四岳
(四方の諸侯の長)
に諮り、上は
睿幾
せんき
(天文観測機:
正字は王へん
)で観察したのです。
今、臣には舜と禹の徳は無く、2君の行いは有りませんのに、暦数の問い掛けに答え、天の選択・
授命
に応じる訳に参りましょうか。心の内であれこれ考えてみましても其れに相応しい徳は持って居らないのです。 それに 許由は匹夫で在りながら尚、帝位を拒絶し、善巻は平民で在りながら
舜の詔に逆らいました。 臣はつまらぬ者では在りますが、敢えて節義を守る事を忘れて 大命を引き受けましょうや。至願を抑えきれず、謹んで上奏を記し、真情を述べ、行相国永寿少府で敝国の臣・毛宗に奉らせ、あわせて璽綬を御返し致します。
』
→〔家臣達の上奏〕
=(
19日
)、給事中博士の
蘇林
と
董巴
は上奏文を奉った。
※
12宿星
と
分野説
=(
天人相関説
の中国版
)
及び
五行の巡り合わせ=(
五行説
)
『
天には 12の星座が在って 分野を構成
しており、王公の
国々は夫れ夫れに所属する星座を持っております。歳星
(木星)
は12の星座に当たる国を巡り動き、
(その歳星の運行が最接近した位置に相当する国の)
天子は天命を受け、諸侯は領土を与えられるのです。
周は鶉火
じゅんか
(星座の名)
の地域に在り、
魏
は大梁
(星座の名)
の地域に在ります。
周の文王が初めて天命を受けた時、歳星は鶉火に位置し、武王が紂を討伐した13年後には
歳星は再び鶉火に位置しました。それ故に『春秋伝』は 『武王が紂を討伐した時、歳星は鶉火に位置した。歳星の位置する場所こそは、わが周の分野である』 と述べております。
昔、光和七年(184年)、
歳星
が大梁に 位置した時が、武王(
曹操
)の天命を受けられた 最初ですが、その時に将軍として
黄巾を討伐
され、この年は改元されて中平元年と成りました。
建安元年(196年)、歳星はまた大梁に位置し、初めて(曹操は)
大将軍
を拝命され、
十三年(208年)、又も大梁に位置し、初めて
丞相
を拝命されました。
今二十五年(220年)、歳星は又も 大梁に位置し、陛下(
曹丕
)には 天命を受けられたのです。 かくの如く
魏
に 歳星の巡り合わせが在った点、周の文王の天命を受けた事と 対応いたします。
今年は
青龍
(
歳星の別名
)の位置が庚子の年に該当します。『
詩推度災
』には『庚とは更(改める)であり、子とは滋(はぐくむ)である。聖人が命を受け、天下が治まる』 とあり、また 『王者は徳を子
ね
の年に施し、政治を 丑
うし
の年に 完成する 』 とあります。これは今年、天が 改めて 聖人に命じて天下を統治させ、人民に徳を施させる事を意味しておるのです。
魏が改めて天下を制御する事は、『詩経の予言書』とも合致します。
古代の君主・センギョクが 天命を受けた時、歳星は 豕韋
しい
(星座の名)
に位置し、衛(周一族)が
その地に居住すると、歳星は又も 豕韋に位置しました。それゆえ『春秋伝』に 『衛はセンギョクの旧地である』と述べております。いま10月であって、北斗の柄が示す方向は、センギョクが天命を受けた分野に当たります。この10月をもって 魏が禅譲を受けますと、それは始祖が天命を受け給いし時の兆候と合致する事になります。
魏の氏族はセンギョクから出ており、舜と祖先を同じくする
事は、『春秋』の系図書に見えております。舜は土徳をもって尭の火徳を受け継ぎましたが、今、
魏もまた土徳をもって漢の火徳を受け継ぐ
事になり、
五行の巡り合わせ
は、尭と舜の授受の際の順序と符合いたします。
臣どもは、天命の去就には 本来不変の定めが存在し、聖人は其れを引き受ける場合、明確に
其の事を認識して躊躇わないと聞いて居ります。それ故に、尭は骨肉を差し置いて舜に譲り、全く物惜しみする様子は無く、舜は民間から起ち上がって天下を支配し、以前から其れを所有しているかのようで、その授受のために時間を空白にする事は無く、天下は伝えられました。
天命に対して素早く反応する理由は、 天下に一日として 君主が存在しない訳には いかないからです。今、漢の命運は既に尽き、怪しげな異変が現われて最後を示している事は既に明白です。
陛下が天の命を受け給いし事は、瑞祥が繰り返し充分に、反覆して周到に告知しており、言葉によって説明したとしても、それに代わるほど明白な表現は出来無いでしょう。
いま既に詔書が発布されておりますのに璽綬を身に付けようとされず、頑固に謙譲さを保持され、上は天命に逆らい、下は民の期待に背いて居られます。
臣どもは謹んで 古代の典籍を調べ、予言の書物・図版を参照しました処、
魏の五行の巡り合わせ
、及び、
天道の存在
する処から申して、尊位に就かれるしるしは、今年の此の月に在ること、明晰かつ分明で御座います。どうか陛下には御考えを改められ、即刻み位に就かれ、はっきりと
天帝に 報告し、天下に告示
され、その後で、
年の始めの月を 改め、衣服の色を変え、
国号を正さ
れますように。さすれば天下の幸せで御座います。』
↓
〔
魏王の固辞=布令L
〕
『
およそ 此れ等の事は 全て聖徳ある者に相応しい。それ故に、『卑しくも 然るべき徳の有る人でなければ、道は自然に行なわれる事は無い』 と謂うのだ。
天の瑞祥は彰かであっても、徳が有って はじめて輝く。私は徳うすき人間であり、どうして其れを引き受ける価値があろう。いま辞退する。
願わくは聴許されん事を、内外の人々すべてに聞知らせしめて呉れ。』
→〔
漢帝
からの
任命の詔勅(2)
〕
『壬戍の日(
20日
)、任命の詔勅が下った。』
『
皇帝は 魏王に 質問して申す。毛宗を遣わして 捧げ持たせた庚申
(18日)
の上書を受け取り、説明の内容を聞き知った。然し 朕は考えるに、漢朝は 朝代は二十を越え、年数は四百を過ぎ、
天運の周期
は 終りに達し、
五行の命数
は 既に尽き、
天の御心
は 既に移り、
万民の期待
は
絶ち切れておる。天の廃し たもう事には 淵源が在るのだ。今、
天の大命には 終結点が存在し、帝位は聖徳に帰するが当然
であって、衆に背くのは道理に合わず、天に逆らうのは不吉である。
王は舜の盛徳を身に体し、暦数の目出度き巡り合わせに呼応しておるからこそ、瑞祥がしるしを告げ、神秘の図と書物が予言を表しているのであって、神も人も斉しく呼応し、天命を受けるのは全てに渉って相応しいのだ。朕は上帝を畏怖し、王に地位を引き渡す。天には背く訳にはいかず、衆には逆らう訳にいかぬ。それに舜は尭の命令に反せず、禹は舜の譲る帝位を辞退しなかった。あの許由・善巻といった匹夫は、聖人の書きし書籍には掲載されていず、全く皇帝の才能器量を持った者が、称揚し 思慕すべき連中では無いのだ。 今、張音に皇帝の璽綬を捧持させる。
王よ帝位に昇られよ。
朕の命令に背く事なく、敬しんで天の御心を奉戴せよ。
』
→〔魏王への上奏〕
=『その結果、尚書令の桓階らは上奏した。』
『
今、漢は 張音を使者として 璽書を 捧持させて参りました。臣どもが考えますに、天命の実行は遅らせてはならず、神聖な帝位のしるしは汚してはなりません。周の武王は川の中ほどで白魚の瑞兆があった時、戦さの時を待たずに、大号を建てました。舜は大麓を受けると、桑の木の落とす陰が移動せぬうちに帝位に登りました。彼らが天命を奉承した遣り方は、これほど速やかであったのです。それ故、固辞する道理は持たず、節義を守る事を貴しとする事もなく、神霊に信頼せられる道を踏み、天地に合致する符瑞を得る事を期しました。『易』に『
その命を受ける事、響きが音に応ずるが如く、遠きも近きも、隠微なものも 深遠なものも 区別なく、未来の事を予知する。世界で最も精微な者でなければ、どうして此の事に参与できよう
』 と謂っております。
今、陛下には天運の定めに当られ、皇天に子として扱われて居りますのに、辞譲の態度を取って引き伸ばし、大号を称する事を避け廻って居られます。それは天地の道に則り、万国の望みに沿う遣り方では御座いません。臣どもは敢えて死を覚悟して請願いたします。速やかに所管の役人に命じ、壇場を整備し、吉日を選び、禅譲の命を受け、璽綬を開きたまわんことを。』
↓
〔
魏王の固辞=布令M
〕
『3度めの辞退を願って居るのに認められない。どうして卿らは此の事に拘るのだ。』
→〔魏王から
漢帝への上書
(2)
〕
=璽綬の返上(2回目)
『甲子の日
(22日)
、魏王は上書した。』
『
今月壬戌の日
(20日)
の璽書を拝しましたが、重ねて聖命を被り、伏して辞令を承り、肝胆は
震え慄き、身を落ち着ける術も分からぬ程です。天下は神聖なものであり、王朝の禅譲は重大な事柄であります。それ故、尭は舜に帝位を禅ろうとする時に 予め登用して万機を統べしめ、舜は禹を任命し、成功ののちに黒い圭玉を授けて、その功業を天に報告しました。烈しい風が時節を間違って吹く事なく、中国の九つの州が安定し、事跡を考査し、言葉を考慮し、その後で初めて
帝位に任命しましたが、それでも尚、継承するに相応しい徳が無いと謙譲の態度を保持しました。まして臣は頑迷固陋で、2人の聖人の様な素質を持って居りませんのに、帝統に相当し、明詔を御受けする事ができましょうや。 敢えて小さな節義を守り、隠棲の生活をしたいと云う大願を抑えきれません。 謹んで上書を奉り、心情を述べ、あわせて
璽綬を返上し奉ります
。』
→〔魏王への上奏〕
=侍中・
劉翼
ら
『
臣どもは、「聖帝は時にたがわず、明主は人に逆らわず」 と 聞いております。 それ故に 『易』は『天下の人の意志に通暁し、天下の全ての疑問を判断する』 と讃えているのです。伏して慮するに陛下には舜の聖徳を具え、五行の上からは土徳の巡り合わせを受け、太陽が地下に潜った様な乱世に遭遇され、 漢氏の命運が尽きる定めに遭われまして、政治の根幹たる
広大中正の道
に合致し
天地陰陽
と符合しておられます。それだからこそ聖き瑞兆が示され、天下の人は共に応じまして、天運の去就は懇切にして明白なのであります。その事は天命から論じても異議を差し挟む処は無く、時代の要求から検討しても争論すべき処は御座いません。それ故、天命を受ける時期として、時節すがすがしく、日はうららかで、太陽は光を注ぎ、めでたき気は雲の様に湧き上がっております。これこそ天道が喜悦し、民心が喜んで推戴している証拠でありますのに、重ね重ね拒絶されておりますのは、何の礼に拠って居られるのでしょうか。それに人民達には1日として君主が無い訳には行かず、帝位は暫時でも継承者が無い訳には参りません。 それ故、臣下は 主君の意志に逆らっても功業を成就する事が在り、下の者は上の者を矯正しても事を打ち立てる場合が在るのです。臣どもは敢えて死罪を憚らず請願いたします。』
↓
〔
魏王の固辞=布令N
〕
『天下は 宝物の如く大切であり、王者は 正しい血統を必要とする。聖徳を具えた者が担当したと
しても、なお恐懼の念を抱く ものなのだ。 それなのに ワシを 何う云う人間だと思っているのだ。
それに公卿たちにとって 主君が存在しないち云う事態に 立ち至っている訳ではない。
この事は一体、小事であろうか。 とにかく 固辞した結果どうなるか見極めてのち、改めて可能な事を 論議すべきである。』
→〔
漢帝
からの
任命の詔勅(3)
〕
『丁卯の日
(25日)
、魏王に任命の詔勅が下った。』
『
天が漢の命運に結末をつけている事は、天文事象に明白に示されている。 朕は天命を敬い、帝位を王に引渡し、何度も暦数を詔勅に書き連ね、筆墨をもって天命を説明した。伝国の宝器は拒絶すべきではなく、皇位は辞退すべきではないから、 天命を考慮して再三にわたって説得したのである。それに、四海は1日として君主を空位にして置く訳にはいかず、万機は暫時も継承者を置かない訳にはいかない。 それ故、大業を打ち立てる者は 小さな節義に拘らず、天命を弁えている者は微細な事に左右されないのである。それだからこそ舜は大業を担う命令を受けても辞譲の言葉を述べなかったのだ。聖人の道理を弁えた生き方は、立派ではないか。
今、張音に皇帝の璽綬を捧げ持たせる。
王よ、敬んで受け取り、待ち構えている天下の期待に答えられよ。』
→〔
家臣団の
魏王への上書〕
『相国の
華
音欠
かきん
、太尉の
賈
言羽
かく
、御史大夫の
王朗
、および九卿は魏王に上書を奉った。』
『
臣どもは、お召しを受けて参内いたし、太史丞の許芝と 左中郎将・李伏の奉りました
図讖
としん
(神秘的な予言書)
と、天の下す瑞兆についての説明を拝読しました。侍中の劉翼らは人々の心の方向を明らかに述べておりまして、人間も神霊も同じ考えを抱いております。また、漢朝では陛下の聖化が神明に通じ、聖徳が舜・禹に等しい事を承知され、瑞兆が充分に訪れたのを機として、天命の所在を尊重されました結果、璽綬を献上し、飽くまでも尊号を譲っておられます。意見を述べた者どもは全て、手を打って躍り上がって居ります。『
河図
』『
洛書
』に記載された瑞兆に応じて天命は下り、人間に関する事柄は天の示す時機に合致し、民の申す言葉は天の示す意志と合致しております。それなのに陛下におかせられましては、功労が有りながら謙遜の態度を保持され、自己を抑えて辞譲する事を尊重されまして、御詔に懇ろに諭されましても、いまだ聴許されておりません。下賎の男女も心配していない者は御座いません。
臣どもは、古代から現代に至る迄、
天下を支配した者は1つの姓には限らない
と聞いております。徳義と権勢から考察しますれば、盛衰は其の強弱に掛かっており、始と終の時を論じますれば、廃興は与えられた命運に掛かっております。尭→舜の担っていた天命は、その子に移らずに舜→禹に移りました。舜・禹は辞譲の気持を抱いては居りましたが、諸侯たちが進物の玉と帛を手に参朝し、万民が大喜びで推戴して帰服し、地の果て迄も歌謡の声をあげて寿ぐと云う圧力がありました。そのために、自己の生き方を守ろうとする執着心を 何時までも保ち続ける事が出来ず、時宜を弁えた態度を取る事を 永く避けて居る訳には 行きませんでした。だからこそ或る者は帝位を去っても残念がらず、或る者は禅譲を受けても辞退しなかったのです。残念がらないのは必ずしも天の恩寵を嫌った訳ではなく、辞退しなかったのは必ずしも帝位を渇仰して居たからではありません。各人、天命に迫られて已むを得無かったのです。
禅譲が行なわれた以後は、尭の子は舜の賓客となり、舜の子孫は夏王朝の賓客となりました。とすれば王朝禅譲の建前では、単に其れを受けた者が実際に天の福に与っただけではなく、
其れを授けた者も亦、後々までも恩恵に与った
のです。
漢は章帝・和帝以後、変事の多い時代で、次第に衰微して行きました。霊帝の時代になると、不変の道義心を持たず、賢者を虐げ、仁者を害し、租税の取り立ては限度が無く、政治は気に入りの小人どもが握り、人民を仇敵の如く見做しました。
かくて
上天
を烈火の如く怒らせ、人民は風の吹く儘に あっちへ行ったり こっちへ来たりしている有様でした。当時に在っては四海の内は鼎の沸き立つ如くであり、帝が没して後は宮廷から災難が起り、寵愛を受けていた者も権勢を誇っていた者も共に滅び、その結果、帝室は衰え、ちょうど舜の末期に聖王朝を選んで其れに帝位を授け、楚の人が玉の原石
あらだま
を抱いて優れた細工師を探して其れを処理させた様な状況にあります。まして漢国は過去に於いてその状態を匡正できなかったのですから、帝位の象徴たる宝器を譲り主権を移行して、それを聖哲に委ねるのは誠に当然の事です。漢朝は礼物を捧げて既に禅譲の儀礼が速く決定する事を願っており、天が全土に福禄を下されているのは、間違いなく支配者を欲しているからです。
全国土を支配する事は、陛下以外にいったい誰が引き受けられましょうや。 「徳義を論ずれば
比較すべきものは無く、功業を考えれば辞退する訳にいかない」 と云う言葉に当て嵌まります。
天の命令を永い間ひき伸ばして置く訳にはいかず、民の希望に 長いあいだ逆らっている訳には参りません。臣どもは大願を抑えきれず切々たる思いで居ります。伏して請い奉ります。
陛下には謙遜の気持を捨て去り、禅譲を受けるための儀礼を整え、人と神の意志に沿い、内外の願いを満たされますように。』
↓
〔
魏王の固辞=布令O
〕
『
徳義からすればワシは不足しており、時機からすれば外敵は未だに滅びずにいる。もし賢人達の御蔭によって生命を全うする事が出来、魏国の君主として終れるならば、ワシの場合充分である。ワシの様な者が、どうして天下の支配者の地位を忝くする事が出来ようぞ。
天の瑞兆、人の動きと云う点になると、全て先王
(父 曹操)
の残された聖徳の御蔭であって、どうしてワシの力であろうぞ。だからこそ、敢えて命を聞こうとしないのだ。』
→〔魏王から
漢帝への上書
(3)
〕
=勅使を召還して欲しい
『己巳の日
(27日)
、魏王は上書を奉って述べた。』
『
臣が聞くところでは、舜は四方の門から来朝する諸侯を客として迎える勲功があって初めて尭の禅譲を受け、禹は治水によって700の国を存立させた功業があって 初めて舜の禄尉を継承したとのことです。臣は愚昧であって、二人の聖人の如き徳は持ちませんのに、みだりに王統を担えと申されますので、敢えて御命令に従わないのです。 敢えて度々御命令に背く上奏をいたし、ほぼ個人的な願望を述べました。上奏文が皇居に通じまして、微節を全うする事が出来、心情が玉座に達しまして、永久に本来の志望を保てる事を 願って居りました。 それなのに、張音は 重ねて御命令を胸に、臣に詔勅を伝えて参りました。臣は全く恐懼し
璽書を開きもしませんでした。
処が張音は 厳詔を楯に迫り、敢えて復命しようとしません。 どうか陛下には駅
馬を走らせて至急に
張音を御史台に召還ください
ますように。至誠を抑えきれず、慎んで毛宗に上書を奉らせます。
』
→
〔
同じ
家臣団の、
魏王への
再度の
上書〕
『相国の
華
音欠
かきん
、太尉の
賈
言羽
かく
、御史大夫の
王朗
、および九卿は魏王に上奏した。』
『
臣どもは(王の)詔書を拝読いたし、悲嘆は いよいよ激しくなっております。 臣どもは 『
易
』に
「聖人は天の与える時を遵奉する」と謂い『
論語
』に「君子は天命に対し敬虔である」と述べていると聞いております。天命には去就があり、天命が移った後に支配者の交代が行なわれるのです。それ故にこそ、
尭
が舜に禅るとき、「天命が汝の身にある」 と 申し、
舜
が尭の禅譲に従ったとき、
「終結した帝位を継承する」 と言っているのです。尭は天命が自分から去ったのを存じて居たので舜に禅らざるを得ず、舜は暦数が我が身に在るのを弁えて居たからこそ、受けない訳には行かなかったのです。禅らざるを得無かったのは、天の与える時を遵奉したからで、受けない訳に行かなかったのは、天命に敬虔であったからです。
漢朝は末期の衰微の後を継承したとは謂え、なお天命を遵奉して尭の道を模範としようと努力しております。その故にこそ、帝位を禅って
(尭の様に)2人の王女を陛下に嫁がせた
のです。
処が陛下にはまさに魏が天命を受けた当初において、舜・禹の弁えた生き方を退け
(春秋時代に王位を辞退した)
延陵の謙譲さを尊重して居られますが、間違った点の方が大きく、正しい点の方が小さく、考慮を尽された点が軽く、略された点が重い事になり、普通の人間、平凡な人物ですらなお陛下の御考えは狭いと取りましょう。
死者が霊魂を持つならば、舜は必ずや蒼梧の神墓にて憤怒し、禹は必ずや会稽の山北で心ふさぎ、武王
(曹操)
は必ずや高陵の玄室にて不機嫌になられるでありましょう。
その上、漢の政治は宦官に握られ、天禄が帝室を去ってから七代になり、ついには 矢石がその宮殿に降り注ぎ、その結果、2つの都
(洛陽と長安)
は廃墟と化しました。 その当時、四海の内は転覆し、天下は崩壊しましたが、武王が御みずから甲を着用し冑を被り、雨風に身を曝し、民の為に命乞いされた結果、万国は生き返り、世の為に乱を治められた結果、太平は将来しました。
民を鳩集して首長を立て、宮室を築いて官吏を置き、万民は 過失も無いのに 前の状況によって酷い目に会って居たのですが、はじめて中華の地まで、まともな暮らしが出来る様になりました。
陛下は御位に就かれますと、文徳を輝かせ、よって武功をたすけ、民の痛みを憐み、恰も傷つける者に対する様に労わり、不安がる者は落ち着かせ、疲労している者は休息させ、凍えて居る者は暖めてやり、飢えている者には腹を満たしておやりになりました。
遠方の人は 徳義によって服従させ、仇敵は 恩愛によって 降伏させました。その行き渡る恩愛と植え付けられた徳義は、四方の彼方まで広く蔽っております。古を参考にし篤実な点では尭よりも立派であり、法網は 舟を呑み込む大魚も 潜り抜けられるほど緩やかで、周の文王よりも寛大で在られます。だからこそ 治世に携わられてから 未だ1年も経たぬうちに、人も神も 共に和らぎ、皇天は
甘き露
を降らしたうえ、
4種の霊獣
(
四瑞=
龍
・
麒麟
・
鳳凰
・
神亀
、四神=龍・
白虎
・
朱雀
・
玄武
)を出現させ、后土
こうど
(地の神)は
霊芝
を生えさせたうえ
醴泉
れいせん
(甘い泉)
を吐き出し、
虎
・
豹
・
鹿
・
兎
は みな
白い色
となり、
雉・鳩・燕・雀
もまた白い羽をし、
連理の木
(根と幹が異なるのに枝は連なっている神木)
同心の瓜
(結び付いた2つの瓜)
、
五彩の魚
といった珍しい瑞祥、めでたい事物が、その間に重なり合い、あらゆるものが備わっておるのです。
古代の人は申しました。「禹がいなければ、水の下に沈んで、我々は魚となっていたであろう」と。
その様に大・魏が存在しなければ、臣どもの白骨は荒野に折り重なって横たわったでありましょう。内外より前後して寄せられた群臣の上奏を拝読しますに、陛下の天命を受けたまいし、しるしを説明いたす為に、『
河図
』『
洛書
』といった予言の文を書き並べ、天地の示す瑞応を根拠とし、漢朝の誠意をよすがとし、万方が影の如く付き従う事を述べていないものは無く、真実であり、明白であると謂ってよいでありましょう。3王も及びつかず、5帝もこれ以上ではありません。
民の命が 魏の国家に掛けられ、民の心が 魏の政治に掛けられている状況が、30余年の間続きました。これこそ千代絶好の機会であり、万載一遇の好機であります。 使命に対する自覚と広い度量を、この際に明らかにすべきでありまして、小さな節義に拘り引き摺られて、この時に実行せぬのは宜しくありません。永らく天命を引き伸ばした罪は臣どもに御座います。
速やかに壇場を築き、儀礼を整え、吉日を選び
昊天上帝
こうてんじょうてい
(天神)にはっきりと報告し、群神に対して夫夫の格に応じて祭礼を行い、、祭祀の終了を待って群官を朝堂に集め、
施行すべき年号
・
正朔
(年の初めとなる月)
・
服色
を論議させ、上奏させられますように。』
↓
〔
魏王の返答=布令P
〕
『
昔、大尭は 乾飯
ほしいい
を食い、草を食べ、一生を過ごそうとしたが、それがワシの以前からの
希望であった。処が尭の禅譲を受け、盛服を身に着け、尭の2人の娘を娶ると、それらを所有するのが当然であるかの様であった。それは天命に従ったからである。
群公卿士たちが 本当に 天命は拒否してはならず、民の希望は逆らってはならぬ と考えるなら、
儂
ワシ
も どうして 辞退しようぞ。
』
→〔
漢帝
からの
命令の詔勅(4)
〕
『庚午の日
(28日)
、魏王に命令の詔勅があった。』
『
昔、尭は 天と並ぶ徳をもち、天地四方を支配する重い権力を保持しながら、なお 天命の定めが舜に移行しているのを見て、帝位を委譲し、足跡を捨て行く様に あっさりとして居た。
今、天は既に 我が漢の命運に 終わりを告げ、北方(魏)に目を向けられており、帝王の事業は、実に大魏が担うべきものとして存在する。朕は虚名を保持したまま古代以来の名義を盗んでおり、前代の事を振り返って見ても、気恥ずかしい思いがする。それなのに王は三度四度まで辞退しており、朕はそのため懸念して居るのである。
そもそも万乗の位を辞退しないのは、天命を知り、使命を自覚している状況に在ればこそである。舜・禹の君は、その地位に就く事を躊躇わなかった。それ故、君侯を1万年の後まで残し、美名を無窮の世に伝えたのである。今、守尚書令侍中の衛覬を遣わして諭させる。
王よ、速やかに帝位に登り、
よって天と人の心に順応し、朕の大願に沿って呉れ。
』
→〔家臣達
から
魏王への上奏〕
『その結果、尚書令の桓階らは上奏した。』
『
今、漢氏よりの命令は既に四たび参りました。それなのに陛下には固辞し続けて居られます。
臣どもは伏して考えます。上帝が 陛下の聖徳に目を掛けられ、天の命運が 大魏の上に 盛んに下っている事は、一体ここ数年の事でしょうか。 『伝』では、「周が天下を支配したのは甲子の朝からではなく、殷が帝位を去ったのは牧野
(殷周の決戦場)
の日からではない」 と申しております。
それ故『詩経』では、殷の湯王の叙述には、溯って始祖・玄王の至徳に根拠を求め、周の姫氏の叙述には、溯って始祖・后稷の生誕を記録しているのです。だからこそ受けた天命は強固となり、その徳は横に逸れなかったのです。
漢氏は衰退し、天運は既に絶えており、日月星は其の徴
しるし
を示し、史官は其の証拠を著わし、古老は 先古の時代の占卜を記憶から呼び覚まし、人民は 聖徳を讃える歌を合唱しております。陛下には天命に応えて禅譲を受けたまい、早速に壇場に赴き、柴を焚いて上帝を祭られるべきで実際永い間 神器をとどめ、億兆の民の願いを拒むのは宜しくありません。
臣どもは直ぐに 太史令に命じて
王朝成立の初日を 選ばせました
が、今月の29日は、壇に登り天命を受けるに相応しい日で御座います。 どうか王公群卿に詔
みことのり
を賜りますように。
儀礼については詳しく箇条書きにして別に上奏いたします。』
@↓
〔
魏王の応諾
=
最後の
布令Q
〕
『布令に謂う。
よろしい !!
』
・・・・ふう〜〜、やっと終ったア〜〜!!
で、この後の厳かな儀礼・華やかな式典の様子・そして其れに関わる人間の、様々なドラマについては、いずれ『三国統一志』・
【第V部】の劈頭
を飾る事になる。・・・・だが、予め断わって措くならば、この禅譲劇は、何と曹操が死んでから10ヶ月も後の事なのである。詰り、禅譲が果される迄には其の直前10ヶ月の《間合い》が存在する訳なのだ。そして実は、其の10ヶ月の予備期間にこそ、”余りに人間的な”事どもが次々と起こるのである。また目を国外に転ずれば、曹丕みずからが「布令」の中で認めて懸念する如く「
孫権と劉備は依然として存在して居る
」のである。
どうやら【第V部】の劈頭章
、即ち
〔曹操が死んだ直後からの史劇〕は益々波瀾を含み、魏帝国・魏皇帝の行く末は、その始まりからして既に錯綜万丈な展開を孕んで幕を上げる雲行きである・・・
人類史上で初めて
龍
ドラゴンを生み出したのはB・C5千年前の「古代中国人」であった。地球上の他の地域
(4大文明)
には
龍
と云うアイデアは生まれていない
。そして
やがて龍の伝説は地球上の各地へと伝えられ、広まっていったのである。
その
龍
を筆頭に 麒麟・鳳凰・玄武・白虎などなど様々な神秘や不思議が出現して来たが、結局、
森羅万象・全宇宙の中で
1
番不可思議なるもの
それは・・・矢っ張り・・・
人間
ども
で在る
のだったとは
!!
三国統一志〔
第
U
部
〕壮大なる史劇(3国出現)
【第U部】
壮大なる史劇
:
エピローグ
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