【第259節】
 曹 操 考
                                    ダイナミズムの終焉

二十五年(220年)春、正月。 (曹操は)洛陽ニ至ル(戻る)
 
(孫権)、(関羽)ヲ 撃チ斬リ 其ノ首ヲ伝ウ。 
 庚子(23日)洛陽ニ崩ズ年六十六
 諡
おくりなシテ武王(のち武帝)トいう。二月丁卯(21日)高陵ニ葬ル。


 曹操に 最後の別れを告げるに際して、2・3だけ「三国統一志」ならではの考察・思いの丈を書き留めて置こうと思う。
(※ちなみに『曹操論』では無い。学術論文的な、肩の凝る書き方は本書の目指す処には非ず。)

1つ・曹操最大のハンディとされる出自・宿命についての新解釈。
2つ・曹操の”真の凄さ”について。
3つ・三国志に占める曹操の比重・存在の意味(位置)づけ。

いずれの見解も、筆者が曹操と近似の年齢なればこそ気付けた謂わば ”人生の実感”だと云う処に、本書の些かのメリット・所以が在ろうか。

T〔曹操の青春時代〕贅閹の遺醜たる出自

古来より「最悪の負の遺産」だとされて来た曹操の”出自”についてだが、今こうして彼の生涯を辿り終えて改めて思うのは・・・・実際の処は必ずしもマイナスでは無く、いや寧ろ、曹操にとってはーー現世利益に於いて
天からの最大の贈り物だった!・・・のだと 改めて思う。

プラスとマイナスを相殺して試れば、断然 【経済的恩恵】の方が【悪評】を上廻って居たので在り、巷間で過剰に喧伝されて居る如く、『若き曹操を苦悩させ、その出世を妨げ、苦難の道を歩ませた』ーーのでは無い。無論、この解釈が成り立つ為には・・・
若クシテ機警、権数アリ。而シテ仁侠放蕩、行業ヲ治メヌ強烈な個性の持主・・・不屈の野心家たる曹操自身の、不退転の気概 と 『一世ヲ風靡スル才能』とが必要では在った。その必要条件を満たした上で初めて大逆転の発想は生まれ、彼にとって不条理で最悪の不運は逆に 最強の武器へと転換、昇華を果すのである。
其処が小説でも最大の見所なのだが、少し視点の角度を変えて観ると・・・実に曹操孟徳こそは 三国志の世界に於いて、
最高に幸運な星の下に生まれて来た人物で在った!】と筆者は思う。何故ならばーー他の者達には 真似したくとも 絶対に真似出来ぬ ”凄い条件”を持って生まれて来た 唯一の人物だった からで在る。蓋し、皇帝すらも及ばぬ 《その凄い条件》とは・・・・


究極の正義と絶対悪の両方を2つ同時に持つ事
神と悪魔の申し子・正邪合体の存在である事
〔正義と邪悪〕・〔清と濁〕と云う、究極の背反
命題を 両方同時に兼ね備えて生まれて来る事で在った
!!

だが然しそんな事は通常では在り得無い。無理である。そもそも人間社会に於いては、悪と善・正義と邪悪は対極を為す根本命題である。動物社会では自然の行為行動も、人の世では善と悪に振り分けられる。逆説的に謂うなら、社会的存在としての1個の人間は誰でも、どちらか1方になら成り得る。善悪どちらかの評価なら得られる。詰り、出自で謂えば、貴賎どちらかの環境に生まれて来るしか無い訳と成る。蓋し人類の歴史は、その支配構造を維持発展させる為に、貴賎の両世界・両階層に〔同時に属する〕人物の出現や存在を絶対に許さないのである。
・・・・所が此処に、その両方を同時に兼ね備えた、謂わば
〔時代が産み落としたモンスター〕が誕生して来る!!
別の言い方をするなら
〔異端児〕・〔風雲児〕の出現・来臨である。常識外れの”常ならざる者”・・・陳寿の謂う『非常ノ人』の具現である。其れは、時代を超越する為に天から命を授けられる「選良の資格」と同一で、天命を改めるに必要な、絶対的な魔力を秘めた破邪の剣を与えられた「天命の担い手」、輝ける地上の星・己を天命の子として自覚し得る、強烈な個性と万能な資質を兼ね備えた”超人”で在る事だった。そして、その条件を全てクリアした唯一の人間・風雲児こそが曹操孟徳だったので在る。
・・・・思えば、漢末の世は将に「清流」と「濁流」の暗闘時代。正規官僚と宦官の死闘が繰り広げられて居ると云う、中国史上でも類を見ぬ異常事態の最中に在った。更には漢王室と云う絶対の「正義」が、董卓と云う「邪悪」に支配される段階にまで至る時期でも在った。そんな特異な時代状況の中、その混沌を打開して天下に安寧を齎すのは・・・・強烈な個性と 万能の資質を持ち、尚かつ「清濁を兼備」して「正邪両剣」を使いこなせる人間でしか在り得無かった。そして正に此の究極の条件に唯一合致する者は・・・

贅閹遺醜ぜいえんノいしゅうたる出自を持つ 宿命の男曹操だったのである!いみじくも時の大官・橋玄は、未だ無位無官の曹操孟徳に向って予言した。

天下マサニ 乱レントス。命世ノ才ニ 非ズンバ、能ク 済ワズ。
  能ク 之ヲ 安ンズル者、其レ君ニ 在ルカ!!
」 と。

まさに此の看破の如く、以後の曹操は、その生涯を突き進んだ。

《俺は 天に選ばれた人間なのだ。俺の意志は 即ち 天の命ずる
 処なのだ。だから 俺が努力さえ惜しまずに 断じて行なえば、
 最後には必ず成功する筈である! たとえ途中で 失敗や挫折
 する事は在っても、俺が天命の子で在る以上は、絶対に死ぬ
 事は無いのだ!!》・・・・この確信・狂信に基く行動規範こそが曹操の勇気と果断さの源で在った。そう信じる事の出来るだけの能力と資質を持ち、そして何より重要な事は、其れ等を活かすべく、弛まぬ努力と厳しい自己研鑽を重ねる才能を持続した意志の強靭さこそが、曹操と云う傑物を創り上げたのだ。ーー然しながら世に出る前の「若き曹操の立場」は 常に微妙で在り続けた。
謂わずも哉、曹操の祖父で実質的な曹氏の始祖たる【曹騰】は、名立たる宦官大臣だった。宦官は権力体制の裏面を支える一種の
”必要悪”として、有史以前から常に存在意義を認められて居た。だが然し此の時期の宦官達は 明らかに 「遣り過ぎ」を犯し必要悪の域を踏み超えて、謂わば”絶対悪”へと変質してしまって居た。 当然の事として、宦官を始祖に持つ曹家=曹操への世間からの反感・蔑視は、曹操の任官にすら困難を来たす(人物評価=推薦をして呉れる名士が1人も居無い)程にまで深刻化し相当な障壁に成ってゆく。而して其れは曹操と云う個人にしてみれば己には何の責任も無い、生まれ付いての不条理で在った。然も重かった。 そこで曹操は”宦官との訣別宣言”を世に識らしめる為に、張譲の邸宅で命懸けのパフォーマンス・狼藉を働いて見せた。そうする必要性を感じたからこそ為したのである。

だが我々は、其のマイナス面ばかりに眼を奪われてなるまい。
曹家には〔名〕こそ無かったが 、その代りに 〔実〕が有った のである。即ち、巨万の富を有して居た点を見逃してはならないのである。
極貧階層の初代・祖父は、「名を棄て実を取る生き方」 に投げ込まれた。そして養子と成った2代の父は、3代目となる息子の為に相場の10倍の1億銭で「名を買った」。それ程迄にしなければ、息子・曹操の将来は立ち行かぬ事態に追い込まれて居た・・・とも謂えよう。而して此の買官は〔宦官の実利〕が〔政治の名声〕へと価値交換を果す前例・成功例と為ったので在り、程なくして 息子・曹操が全国区(朝廷)への華麗なるデビューを果す約束手形・免許証として(免罪符とは謂えずとも)価値転換の完結を見る。

とかく世の人々は其れを誤解して、やれ「贅閹」だの「遺醜」だのと罵るが、実は・・・その時々、その時局に沿って何時どちらにでも、【有利優勢な側に変身・転進可能なフリーパス】を与えられて居る宇宙人で在ったのだ。此んな美味しい立場に生まれて来たのはチョ〜ラッキー以外の何物でも無いのだった。罵られると云う事は逆に、それだけ巨大な富みの蓄積を果して居た何よりの証明で在り、現実的には如何に曹操が富裕で在り、権力の中枢(皇帝筋)とも結び付いて居たかを判然とさせて居るのだ。群雄あまた割拠する乱世の最中に在って、この2者選択可能の立場に在るのは天下広しと雖も、唯1人、曹操孟徳にのみ与えられた特権・有利条件で在ったのだった。世の評判はどう有れ、曹操自身は抜かり無く、(遠回りを厭わず用心した後に)其の利点を活用して世にデビューする。その最大の恩恵・ご利益・・・・それが、

〔議郎〕への任官
 と 〔西園の八校尉〕への抜擢であった。誰が何う見ても ”大した実績も無い” のに、次代を担うと期待される錚々たる若手メンバーの中に、ちゃ〜んと曹操が名を連ねて居る。その歴史への登場は如何にも唐突・・・・と云った感じなのだが、その背景には明らかに、祖父のコネと父の財力とが最大限の光を放って介在している。その仕掛けの効果が垣間見られようと謂うものだ。この朝廷からの抜擢および其の待遇が、後に 曹操の覇道に齎した恩恵は 限り無く巨きく 計り難い。何やかや謂われても、詰る処に於いては、此の朝廷からの御贔屓・お引き立ての実績が在ればこそ、〔献帝奉戴〕と云うビッグチャンスにも、曹操陣営の独壇場を為してスンナリと成功するのだ。天下制覇の野望が着々と進んだ後で幾ら外野から罵られたとて、もはや曹操はビクともするものでは無かった。ーーにも関わらず我々は兎角、此の【恩恵】の方は 軽視しがちで在る。だが其の態度は 曹操を余りにも買い被り過ぎる 誤謬へと 向う事となり、結局は 彼の実相を見失い、贔屓の引き倒しに通じてしまうであろう。


その事に関連して、此の際、どうしても白日の下に曝さねば腹の蟲が治まらぬ事が在る。読者諸氏に告発して措かねばならぬ事が在る。それは”贔屓”とは正反対の立場からの観方・・・・
曹操に対する
歴史家の悪意〕・〔歴史書の歪曲について である。

告発すべき”A級戦犯”は、
范曄はんよう後漢書』!!
三国志演義は、”B級戦犯”に過ぎぬ・・・のである。

    ( ※ ちなみに「後漢書」のタイトルが付く書物は幾つも存在するので要注意。)

本書『三国統一志』は、『正史・三国志』にのみ基いた世界を構築している為にフィクションの採用範囲も裴松之「補注」を限度とし、『後漢書』からの載録は拒絶して来た。また虚構の実例としては常に『演義』を引き合いに出して来た。それ故に読者の中には
《演義こそが捏造の根源!》だと思われる方も居られようが、実はもっとアクドイ犯人が、この范曄の 『後漢書』なのである。何故に
”アクドイ”かと謂えば・・・・「演義」は 端っから、庶民を対象とした娯楽〔読み物〕として記述 発行されたのに対し、「後漢書」は レッキとした国家公認の、権威ある〔正式な歴史書〕だからである。 無論、既述の如く、どんな歴史書も、その時点で正統と見做す或る王朝への配慮・制約が存在した。だから現代的な意味での公平さ・公正さは求め様も無いのだが、その事を差し引いて読み解くのが常識とされる。 三国志を記した陳寿の苦労も其処に在った訳だが、後漢書の著者・范曄(398〜445)の、曹操に対する態度は全くヒドイ!!の一語に尽きる。公正に欠ける。と謂うよりも、
范曄は最初から、《曹操を扱き下ろしてやる!》
《曹操を大悪人に仕立て上げてやる!》 との 徹底した悪意の元に記述を行なって居るのである。その意図が最も端的に示されて居る部分は・・・・かの有名な場面・・・・曹操が、大名士たる許劭 (許子将)に己への人物評価(月旦評)を求める描写に顕われている。当時の出世は万事が人物評価に拠る推薦・推挙制度の下に在ったから、未だ無位無官の曹操は必死なのだが、許劭は即答しない。そこで曹操は何とか答を得ようと粘るのだが・・・・

裴松之の補注に在る「孫盛」の『異同雑語』ではーー
「子将(許劭) 答エズ(そこで曹操は)
固ク 之ヲ 求ム。」そして終に
「治世ノ能臣、乱世ノ姦雄!」 との答を得る。 尚、この問答の解釈に当っては”姦雄!!”の響きが余りにも強烈な為、「曹操は姦雄!」との解釈が幅を効かせているが、本来の意味は”褒め言葉”なのである。→治まった世なら能臣として乱世であれば姦雄の1人として、どんな世で在っても、君は充分やって行ける人物である!・・・・蓋し『対句』なのである。

ところが同じ場面を「范曄」の『後漢書』では、
「許劭、其ノ人ヲ
いやシミテ 肯あえテ対こたエズ。曹操、乃すなわチ隙ヲ伺イテ許劭ヲ脅ス許劭、ムヲ得ズシテ曰いわク」・・・と、事前に
すっかり 曹操を、完全な悪人扱いにして措きつつ、やおら
清平ノ姦賊、乱世ノ英雄!との答えを投げつけさせる。必然、その返答の意味合も全く変質し、「治まった世でも姦雄!」との評価と化す。

因みに、巷で 《曹操を悪役に仕立てた第1の元凶!》と目されているのは、羅漢中の『三国志演義』であるが、その「演義」ですら此の場面の書き方は第1回の最終部分で”異同雑語”の「治世ノ能臣、乱世ノ姦雄」を其のまま採用しており、「固ク 之ヲ 求ム」 どころか、唯「
又 問ウ」=重ねて問わせる に過ぎ無いのである。

かくて『范曄・後漢書』の、曹操に対する悪意は明々白々であり、曹操は 限り無く 〔アコギで 卑しい人間 〕 とされる。
だが 果して 本当にアクドイのは一体 誰か!?

ちなみに孫盛は曹操没から100年程後の人。范曄は200年後の人。時代の経過と共に曹操の”悪辣度数”は益々ヒートアップしていった・・・・


U「非常ノ人」「超世ノ傑」・その究極の凄さ


僅か20代にして前人未到の7冠を達成!!将棋界の頂点に昇り詰めてしまった天才・羽生(はぶ)は其の直後、フッと生きる目標を失いかける。此れから後の人生は未だ遙かに長いのだ。
《俺は一体、此れからの人生で何を為すべきなのか?》
《果して俺は、生きて行く意味を見い出せるのだろうか?》
漠然たる不安に襲われた。天才棋士なるが故の苦悩・・・・若過ぎて、然もハイレベルな世界の事では在るが、我々と同じ一個の人間として観た場合ーーその若者がブチ当った懊悩の成り行きは、或る意味では当然の帰結なのだろうとは察しが着く。我ら凡人に当て嵌めるならば、定年退職した直後に直面する是れから先の戸惑い、狼狽、不安???ーーそんな迷える羽生を蘇生させたのは・・60代70代の先輩棋士達の姿で在った。それは普段通りに棋盤に向って淡々と将棋を指し続けて居る何時も見慣れた、至極 当り前の光景だった。だが其のとき羽生はハタと気付いて身震いした。そして其の事の余りの重さに思わず背筋を伸ばして感動した。眼の前に垂れ込めていた霧が晴れ渡る思いだった・・・・
35歳の羽生は語った。
「若い時は何も考えず、いや考えられ無いから、ただ我武者羅に指した結果が偶々7冠に成っただけの事です。いや実際一瞬の閃きとか 輝きなんて 大した事では無いんですよね。処が段々歳を取るに連れて色んな事が考えられる様に成って来ると、それだけ選択の余地、可能性が広がるんですよね。するとアレコレ迷いも生じて来る訳です。つまり《是れで善いのか?》と人生観に”ぶれ”が出て来てしまう。それで、自身で自分の中にスランプを持ち込む様な場合も出て来る。まあ、成長する為には必要な廻り道なんでしょうけれど。」

羽生青年は尚も、相変わらずの軽い調子で続けて言った。

「そんな一時的な勢いに比べ、途轍も無く凄い事が実は在ったんですよね〜。」
それが先輩棋士達の倦まず弛まぬ日々研鑽の姿で在った。彼等はいずれも嘗てはタイトルを保持して1時代を築いた先達で在る。今や髪は真っ白で体力の衰えも歴然だが、その毅然として道を求め続ける姿の中には一点の曇りも無い。

一見、当り前で何でも無い事の様ですが、同じ1つの事を途中でぶれる事なく何十年と持続する事の凄さ!1つの道を已む事無く淡々と同じ姿勢で歩み続けられる心映えの崇高さ!・・其れに優る生き方など在りません。1年2年や5年10年ではなくて、ぶれる事なく30年40年ですよ!!」

すると「玲瓏」の2文字が自然に頭に浮かんで来た。爾来、彼の対局用扇子には此の2文字が愛用されている
・・・・。

・・・ウ〜ム・・・35歳にして其んな境地に達するとは!!・・・まさに其の在り様・佇まいこそが ”天才” なのだ!!と 60歳間近に成った筆者は驚愕するのだが・・・・


そんな彼にも況して余りにも凄ご過ぎて、一体、何から枚挙していいのか戸惑う程の相手が我が曹操孟徳なのだ。而して筆者は敢えて曹操の〔究極の凄さ!〕として実感する、或る1点だけを最後に挙げて置く。

「そもさん其れは何ぞや!?」と問われれば、その答えはーー

ズバリ、情熱を保持継続する人間力である!!

と 応じよう。曹操の《生き抜いた姿》である。青春時代から最晩年まで、その生涯を通じて終始一貫して不変不動だった天下制覇への野心・野望の焔・覇望精神の強靭さ・・・羽生が気付いて謂う
「たじろぐ事の無い、ぶれの無い佇まい」である。それを別な表現で言えば、「一貫して粘り強い持続力」・「情熱の継続」 或いは「継続する情熱の保持」と云う、人間の最も不得手な”形而上の領域”の美事さである。そも他の群雄・英雄で一瞬もたじろがず、途中で腐らず、然も 健康を維持し、己の生を全うした 三国志の英雄は在っただろうか!?この事を、言葉で謂うのは容易いが、いざ本当に 50年スパンの 実人生に照らし合わせて観た時、如何に其れが至難の業であり、真に該当する事の少なきか!!
人間50年、60年と生きて来る間の毀誉褒貶は誠に定かならず、栄光の日々もただ光陰の1部に過ぎぬ。己の来し方を顧みては溜息を吐くばかりーー人間誰しも様々な事情や苦悩、思いも寄らぬ挫折に見舞われたり、取り返しの付かぬ蹉跌を味わうで在ろう。だが、そんな事は恰も無きが如く、恒に同じ佇まいで在り通せる事・・・・ただ息をして生きて居るだけで在っても、その愚かさが50年保たれ続くならば、筆者は拝跪して彼を振り仰ぐであろう。まして曹操は単に生きただけでは無く、覇道を求め続けて已む事は無かったのだ!!
俗によく用いられる 「継続は力なり!」 と云う手合の、生半可で手頃な5年10年では無い。最晩年を含む50年が対象なのだ。
その己を保持し続ける姿・生き方こそ、筆者なぞが如何に念じても決して達せられぬ”人間の究極”で在ろう。 そして曹操の其の具体的な現われの1つが、【遠征距離の物凄さである!】と筆者は思う。従って、本節の目的の最大はズバリ、

曹操生涯遠征ルート地図!!

その掲載である。無論、本書のオリジナル作で、意外にも世界初の試みなのである。(戦役毎や年代毎に記された地図は多々在るが)1枚の地図に遠征の全てを書き込んだ例は過去に無いのだ。何故なら余りにも遠征が多すぎてグチャグチャに成ってしまうからである。それを承知で無謀を行なう・・・それが本書の所以たる処!?

だから文章(テキスト)では無い。而しながら 吾人つらつら思んみるに我ら凡人が
曹操孟徳 と云う人物の凄さ を 瞬時にして且つ端的に理解できる方策としては、何万の言の葉を読む事よりも、視覚が捉える唯1枚の地図に訴えられた方が、其の凛冽な彼のインプレッシヨンを、より劇的に捉え、語り掛け、伝えて呉れるに違い無いと思う。

まあ、それにしても凄い!・・・その生涯総計の遠征距離だが、麾下部将に任せるのでは無く、自らが大軍団を率いて馬上の人と成った日月の多さには驚嘆させられる!!と同時に、その未知に挑む世界観の猛々(武々)しさで在る!!当時の人々にとっては地の果て・世界の涯てと思われて居た辺境・国境を乗り越えての冒険心で在り、所謂”親征”であるが、其のほぼ全てが物見遊山の行幸ではなく、実戦の為の本物の出撃だった。然も単に距離だけが凄いのでは無い。その地形や年齢・時期、集中度などなど、その遠征の実態を、図と表に纏めて整理して観ると、その凄まじさは尚一層の煌めきを放つ。
其処でさて、具体的な手順としては先ず、曹操の生涯を各エポック毎に区分けした〔各時期遠征地図〕を繧ゥらまで作り、最後に全部を1枚の最終図に納める・・・・。

遠征図(道程・コース)こんな事やってるから進まないんだがナア〜!!
統計表(相手・目的・走破距離・時期と年齢・備考など)





轣@    ※ (これ等のMAPは全て別ページに掲載)↑






何故に曹操は、これ程まで徹底的に(寿命の尽きる直前でさえ)自身で遠征を為したのか!? 何故、ここ迄やる必要が在ったのだろうか!?ーーその最も明快な答は、
此の世に曹操以上の指揮官は存在し無かった!からである。だが最も実態に即した答として考えられるのはーー有能で勇猛な麾下部将の多くは、さし招いてから未だ日の浅い新参者(投降者・帰順者)が大多数を占めて居たと云う実情の為であった。これは爆発的に急成長して行った曹操軍団なればこそが背負う重大な課題だった。そこで曹操は考えた筈だ。
《一体どうしたら互いが心底から信じ合える主従の関係・間柄に成れるだろうか!?》と。
自国版図・支配領域が拡大すればする程、曹操は地方を麾下部将達に委任するしかなくなってゆく。然も独立すら可能な万余の軍団を持たせてであった。

《生死を共にして、同じ釜の飯を喰い合う仲》
《同じ環境で苦楽運命を共にした間柄》・・・それこそが理屈を超えた生身の人間同士の、最も強固な信頼関係だ!!
曹操は遠征を諸将と共にする事に、自ずから
合宿的意味合を持たせ親密度を増す為の一体感を培う目的をも課したのである。
とは謂え、後方・本拠地に不安が在る場合は行なえない。まして曹操は、漢帝(献帝)を抱えて居たので在るから、余程に信頼の出来る有能な腹心が居なければ、そんな大胆な冒険を犯す事は出来無かった。だから 曹操の”親征”を可能にする条件の1つ・本拠の留守を任せるに足る〔身内部将の存在〕は見逃せない。
【夏侯惇】が其の最たる者で在った事は謂う迄も無かろう。ボケと突っ込み・・・・最初から最後まで実に絶妙なコンビが居て呉れた事は、曹操最大の幸運だったやも知れぬ。





V: 三国志に占める 曹操の比重 と 意味合

1個の人間には、たとえ我々の如き、ただ徒に空気を吸って生きながらえて居る様な者でさえ、完全には理解し得無い程の多面性・多様性を秘めて居り、(自身を含めて) 誰にも決して全部は解説できる筋合いのものでは無い。皆それぞれに異なる意味と価値を有する生涯を以って終るのだ。だから無論、どんな人間にも言い尽くせぬ「月旦評」が在り、人知れぬドラマを保持して居るので在る。まして曹操程の『超世ノ傑』『非常ノ人』に於いてをや。

とは謂え小説仕立の難点は、余りにも本人に接近し過ぎると逆に大局に於ける彼の全体像・客観的な歴史評価が困難に成る。
匙加減の難しい所であるが、その一方で、「人の重み・価値は、その人物が居無くなってこそ 改めて 実感されるものだ 」 と 云う観方も頷ける。
・・・・曹操は 矢っ張し スッゲェ〜男だった!!
ーーそれが筆者の、今更ながらにしての実感である。
実際、曹操没後の三国志は、そのスケールが俄に〔小じんまりと局地化〕してしまうのである。それは単に移動空間・距離軸だけの問題では無い。寧ろ、気宇・覇気・野望のスケール・・・・相手を一気に丸ごと併呑してしまおう!!と云う〔全宇宙的な気概〕の点に於いて、もはや2度と再び曹操を凌ぐ様な人物は現われ無いのである。無論そうした覇望を難しくした時代状況の進捗は在る。また天下統一の望みは決して完全消滅する訳でも無い。だが矢張り《百万の軍を率いて、世界の涯てまで自身の足で踏み越えて見せる!》と云うが如き、大陸横断的で躍動的なダイナミズムは、偏に覇王の個性(意欲・発想)に関わって居たのだ、と云う事が、曹操が没して改めて認識されるのである。
ーー如何に突出した逸物で在ったか!!・・・そう思えば思う程、果して本書は彼・曹操孟徳の、全人的な凄さを描き得ていたか?との念に捕われる。が、まあ、多くの時間を彼と共に生きて来れた事自体は、非常なる幸いで在った。

 かくて本書 『三国統一志』は、その第2部 「壮大なる史劇」(3国出現)を脱稿し、いよいよ第3部「諸葛亮の世紀」(3帝国物語)へと向う事になる。その第3部劈頭に臨んでは(此の節の如くロジック中心では無く)より小説的で在りたいと筆者は考えて居る。

然しながら史実では、魏王・曹操の死から→魏帝・曹丕の誕生の瞬間まで即ち、大漢帝国の滅亡=魏帝国の開闢!と云う空前の大事件の実際は我々ミーハーが期待する程の華々しいドラマは無く、其処に在るのは只、周到に根回しされ尽くし、些かの逸脱も無い、筋書き通りに繰り返される、地味な政治手続きのオンパレード(説得と固辞の繰り返し)で在る。とは謂え、事は人間界最高の出来事・権力の交替劇で在る。まして其れが
中国史上初の 完璧な形での 禅譲の実行曹操が彼の生涯を期して已まなかった〔易姓革命の実現〕だったとすれば如何に小説には不向きな出来事で在ったとしても、その内容を無視して 素通りは出来まい。いな寧ろ、歴史時代に於ける中国の人々が理想として夢にまで描いて居た、完璧なる権力の移譲劇の全容は是が非にも識って措きたい!その姿勢が本書の本書たる所以でも在る。ーーだが、第3部の出だしが、いきなり学術的史料の解析では 流石に〔歴史小説〕の名が泣こうと謂うものだ。矢張り劈頭は、より人間描写中心にするべきである。 だとすれば・・・・講ずべき措置は唯1つ・・・・
〔献帝
←→曹丕との地味な書簡の遣り取り〕の部分だけは第3部に先行して、前以って第2部の最終節へ持って来て措く。
それ以外には無い・・・・と云う事で(?)次の【第260節】は↓

魏王・曹丕が、漢帝・劉協(献帝)から 皇帝の位を譲り受けて、魏の皇帝に即位する 迄の 遣り取りを 詳細に伝える事となる。 尚その出典は、裴松之が補注に引用した『献帝伝』なる史料に全面的に頼るしかない。何故ならば此んな最重要な内容にも関わらず、建前では〔魏王朝を正統と観る〕 『三国志』の著者・陳寿は、この件に関しては煩瑣な史料掲載をばっさりとネグり捨て、簡単な1文紹介だけで御茶を濁す挙に及んで居る故である。因みに陳寿は、劉備が蜀(漢)皇帝に即位する場合には、その経緯を細大漏らさずに記す方針を採る。その真意は自ずから明々白々であろう。

尚、予め説明して措くならば・・・・魏王・曹丕は、漢帝(献帝・劉協)からの帝位譲渡の命令を再三固辞するので、漢帝は頻繁に布令(勅命)を出し続け、家臣団も入れ替わり立ち代りに説得に遣って来て、終には曹丕が渋々それを呑む・・・・と云う御膳立である。その遣り取りの回数は何と、漢帝からの勅命 4回。そして重臣らの説得をも含めると、曹丕の辞退の布令は実に20回にも及び、何と21回目にして漸く
禅譲は実現するのである。だが
《何とまあクドクドしい!》などと思っては勿体無い。其の経緯の中にこそ、三国志(古代史)理解の手掛かり・奥義が潜んで居るので在る。謂わば此の遣り取りは、当時の人々のリアルな倫理観・根本思想の実践そのものだったのだ。 だから 後世の我々にとっては 誠に有難く 貴重な、三国志研究の為の金脈・宝の山なのである。と同時に又、権力側の狡猾さ・周到な”あくどさ”が白日の下に曝される検証現場なのでも在る。ーーより煽って謂うならば何を隠そう、此の史料こそが万人共通の唯1つの原典・出典なので在り、どんなエライ研究者も、全て此の史料だけを手掛かり・論拠にし、自説を演繹・敷衍して居るのである・・・・正に宝の山!!

 その摩訶不思議で 神秘的な 古代中国人の世界観を、敢えて若者向け風に謂うならば、それは・・・・ドラゴン(龍)出現に代表される空想上の物語、即ち、幻想的大叙事詩の起源・・・・

ファースト・ファンタジーの世界
なのでもある!!
現代世界では在り得ない奇跡が龍や鳳凰・麒麟・白虎・ペガサス
(龍馬)etc.etcの出現を通じて、天上の神々と地上の人間世界の交流・現実に起った歴史事実として、その神秘現象を公式に記録し、国家を挙げて後世に伝えた証言記録集なのでもある。現代、1つの潮流を成している「ファンタジー」誕生の秘密、その原典・起源と観ても宜しかろう。そう思って読むのも一興、「三国士」の血は自ずと騒ぐであろう。

 まあ、現代の我々から観れば随分と可笑しく、不条理・非科学的な内容も多い。と言うよりも、理解不能な事ばかりかも知れぬ。だが、そうした未知の論理・倫理観・価値観を識ろうとする姿勢・態度は、自分とは異質な価値観を理解する為の訓練にもなろう。事は約2千年前・3世紀の東アジアの儒教倫理だが今後の人類に当て嵌めるならばーーキリスト教世界とイスラム教世界の価値観の相違や習俗の違いを互いに認め合う態度にも通じようか。



・・・・と念じつつ、では、第2部の最終節・第3部の序節たる〔禅譲:国譲りの舞台裏〕へと
                              参りましょうか。
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