【第257節】
《俺は曹操の生まれ変わりかも知れん!》
ぼりぼり首筋を掻き毟りながら、吉法師 は 其う思った。
《 ひょっとしたら此の書物は、俺の為に書かれたのかも知れんナ 》
むさぼり読んだ。・・・読めば読むほど己とそっくりだった。
そして強く確信した。《 矢張り 俺は曹操なのだ!!》
今度は最初から熟読した。途中、改めて本の題名を見た。
三国志と有った。ーー是れが織田信長の原点と成った。
時代と国こそ異なれ世は同じ戦国時代。人間は生き残る為に戦い、天下統一の野望に賭ける。その為には何が必要なのか!?如何に在らねば為らぬか!?覇王の資格とは何か!?かつて日本の歴史には前例の無い、空前未曽有の戦乱の世。誰しもが始めて迎える指標無き混乱。その群雄割拠の混沌から抜け出し独り天下に君臨する為の秘策とは何か!何をすれば勝者と成れるのか!?如何なる心構えを持って臨むべきか!?
《此処には、教えて欲しい答の全てが記されている!!》
そう信長には直感できた。繰り返し読むうちに吉法師は『武帝紀』を諳んずる迄になって居た。「正史」だけでは無く寧ろ「補注」により多くの興味を抱いた。そして何より彼を惹き付けて離さなかったのは、生まれ付いての性格と情動が己とピッタリ合致する曹操孟徳の存在であった。猛々しく 果断で 斬新。合理性を好み、独尊傾向に在りながら人を惹き付け韜晦しても行ける。常人で在れば二律背反・自家撞着に陥る事も平気で方付け、こなしてしまう。寧ろ危機を愉しむかの如く、陣中に詩賦を創作する典雅。どこか醒めて達観した生死観・・・どの1つを取ってみても、全て己に無理なくフィットする肌合だった。強圧的で冷酷非情な側面すら心地良い。
それが何よりだった。
《生れ付ての性格や情動。持って生まれた資質の全て・俺とソックリではないか!》
この「気質の整合」「人格の一致」無くしては、いくら眼の前に大英傑像が現われたとしても、其れを己の手本・理想像とはすまい。秀吉や 家康に 曹操は無理である。どんなに演技して真似たとしても直ぐに化けの皮が剥がれよう。いや、そもそも真似しようとか真似したいとすら思わないで在ろう。信長なればこそ曹操と出会えたのである。更には、曹操と同じ時代状況に生まれた信長だったからこそ、その戦略・戦術に合点・納得がゆくのでも在った。もしその状況がほんの10年ズレて居ても整合はせず、同化は為し得無かったのだ。
ーー蓋し、信長が唯一、己の範としたのは曹操であった。
人を人とも思わぬ、あの織田信長が尊敬するのは唯1人、
三国時代の魏の武帝こと曹操孟徳だったのである!!
この歴史上の人物同士の邂逅条件・・・〔個性〕と〔時代状況〕と云う因子が整合した処にこそ曹操と信長と云う、個性強烈な2人の風雲児の融合が現出し得たのである。ーー即ち吉法師・若き信長は、曹操の中に己の在るべき姿を見い出し、戦国に生きる覇者像を見い出したのである。
実に
織田信長こそは『三国志』を熟知した日本人第1号で在り、
彼の戦略は全て曹操を範としたものだったのである。そして又吉法師の「吉」の字は曹操の別名:吉利の1文字から名付けられたものだった事が、信長に更なる確信を抱かせた。畢竟、
信長の理想像は、ズバリ曹操だったのだ。
より明確に謂えば、信長は曹操たらんとしたのである!
そして実際、それを実行して次々に成功してゆく。その対象は対外的な戦いに留まらない。いな寧ろ内治・対家臣団への姿勢に於いてこそ顕著であった。更に信長の優れた処は、曹操が失敗した点までを見逃さず、却って其れを己の教訓として活かしていった処である。その驚くべき両者一致の軌跡と事例は枚挙に暇が無い。今は、ほんの数例を挙げて試る。
(因みに筆者の研究の第1は信長で、三国志は第2である。いずれ世に問おう。 尚、この
信長と曹操の関係を言い出すのは本書が世界初〔2007年2月11日〕である。後には
当り前の議論と成るであろうが、最近ちょくちょく本書の真似っ子が居る様なので念の為)
惨忍な報復・・・ 〔徐州大虐殺〕←→〔髑髏杯・逆さ串刺し〕
旧権威の抱き込み活用・・〔献帝奉戴〕←→〔足利義昭招戴〕
大敵との決戦・・・ 〔官渡の戦い〕←→〔桶狭間の戦い〕
徹底した殲滅戦・・・ 万里の長城越え←→〔一向宗徒の根絶やし〕
新価値の創出・・・・ 〔詩賦・文学〕←→〔茶道・茶器〕
新兵器の案出・・・ 〔雷いかずち車〕←→〔鉄鋼船〕
旧価値観の打破・・・〔漢王朝打倒〕←→〔本願寺戦・叡山焼き討ち〕
新戦術・・・・ 〔赤壁の戦い〕←→〔長篠の戦い〕
無宗教の立場・・・ 〔黄巾の許容〕←→〔キリスト教の許容〕
新基軸の経済政策・〔屯田制の実施〕←→〔楽市楽座の実施〕
徹底した合理主義・〔唯才主義の人材登用〕←→〔旧臣追放・秀吉・光秀の重用〕
無論、順序的には相前後する事例も若干は在るが、その本質に於いては正しく同一。根本精神を受け継ぎ 同じ戦乱の世に傑出した。・・・かくて其の類似例の多さと内容酷似の度合から観て、両者の間には少なくとも単なる〔偶然の一致〕では済まされぬ〔意識的な接近〕乃至〔自覚的近似〕が存在するとは謂い得る。即ち信長は曹操及び曹操の事例を高く評価して念頭に置き、大いに参考にして策を練ったに相違無い。そして終には天下統一目前へと迫った。
だが、《俺は曹操を越えた。もはや見習うべき処は何も無い!!》そう思い上がった瞬間に信長の命運は尽きた、のである。ーー詳細な考察や論述は後日、別な作品に委ねるとしていま 此の2人の間柄を 端的かつ象徴的にコピーライトするならば、
曹操は信長へ遺産相続したのであり、
桶狭間の勝利は官渡戦の賜物!!
なのである。そして今まさに、その曹操と信長の正念場・生涯最大の危機たる、大敵袁紹との 雌雄決戦 が、刻一刻と迫りつつ在るのだった。
運命 の 官渡大決戦
(43歳〜46歳)
42歳(196年)にして漸く己の 根拠地 と兵力を確保し、群雄を出し抜いて献帝奉戴を実行した曹操では在ったが、その兵力や領土面積などを客観的に比較して観た場合、他を断然引き離し、名実共に実力bPの座に在るのは、朋友 袁紹で在った。その実力差は歴然。片や袁紹は広大な江北をほぼ平定。残すは最北の公孫讃唯1人だけと成って居たが、既に易京の土城(バベルの城)に追い詰め、江北の統一は時間の問題と成りつつあった。
対する曹操は未まだ背腹に強敵を抱えた不安定な状態の儘で在り、さて何処から手を着けて地歩を固めるべきかを検討して居る段階にしか無かったのである。
今の処は未だ黄河が緩衝ラインと成り、両者直接の衝突は無いものの、いずれ江北を平定し終えれば、天下統一を目指す袁紹が、黄河を押し渡って来るのは必至の情勢であった。その事の重大さを最も強く感じて居るのは曹操自身だった。だから此れ以後の4年間、曹操の全ての行動は、その時=「大逆転勝利の瞬間」を意識して準備されてゆくのであった。とは謂え、今の段階でさえ 兵力には 既に10倍以上の差が在った。だから世の人々は、この2人の実力差を揶揄して『至強と至弱』と呼び合うのであった。だが然し、独り曹操だけは己の天命を信じ八面六臂・己が為し得る限りの行動を次々に起こしてゆく。とかく人々は決戦の結果だけに気を取られがちだが、実は其れに先立つ此の4年間の動きこそが、曹操の真骨頂なのである。
その際 刮目すべきは、その精力絶倫な 獅子奮迅ぶりの根底には、常に最大の強敵・袁紹に対する 人間観察を含めた「鋭い洞察」が為されていた事である。詰り曹操は
最大のライバルの「人物像を完全に読み切った」上で、普通人なら《まさか!?》と思える様な行動を敢然と実行してゆくので在った。
今し客観的情勢に於いては、公孫讃を孤立無援に追い込めた袁紹は、もはや何時でも自由自在に大軍団を南下させ、曹操を襲う事が可能な状態と成って居たのである。
だから常識的には、曹操は 袁紹からの攻撃に対して 常に気を配り、先ずは「守備をガッチリ固めて襲来に備える」のが当然で、根拠地を空にして遠征するなどトンデモナイ無鉄砲・みずから敗北を招き寄せる如き 無謀な戦略と謂えた。だが曹操は 其の常識を覆して次々と遠征を敢行。袁紹との直接対決迄には、背腹の敵を全て片づけてしまうのである!!とは謂え、至強と至弱の彼我の差は更に拡大。危機的状況に変わりは無かった。また、遠方とは雖も気掛かりなのは、江東を統一した呉・孫策の動きで在った。曹操が袁紹と対峙して居る隙を突いて、許都に攻め上って来る恐れが充分に在ったのである。
そして終に西暦200年・・・運命の大決戦が官渡の地で起こる!!
( ※ 細大漏らさぬ 決戦の 全貌は、本書・第6章 にて詳述してある。)
197年1月→曹操は先ず、最も近い敵・南西の張繍掃討に乗り出す。小敵だが
背後に荊州牧の劉表が付いている。処が宛城の張繍はあっさりと
降伏。曹操は美女・鄒氏に溺れるが是れは全て策士・賈クの謀略
だった。曹操は手酷い敗北を喫し長男の曹昂・甥の曹安民・侍衛
典韋などを失う。又曹昂の死をキッカケに正妻・丁夫人と離婚。
春→寿春の袁術は皇帝を僭称する。
9月→破産した袁術は食糧を求めて領内(陳郡)へ侵入するも、まさかの
曹操の親征に出喰わして逃亡。曹操は「許都」へ戻る。
11月→曹操は「宛」まで出陣する。
198年1月→曹操は「許」に帰還。
3月→曹操は「穣」に張繍を包囲するが、袁紹の軍師・田豊が許都急襲を
進言。その緊急情報を得た荀ケからの要請に応じた曹操は、包囲を
解いて急遽撤退を開始するも、
5月→劉表の援軍に背後を断たれる。〔モグラ作戦〕で危うく逆転。
7月→曹操は「許」に帰還。一連の張繍討伐作戦は賈クの為に失敗に帰す
9月→呂布に破れた劉備が単身で、再び逃げ戻って来る。
曹操は劉備を引き連れ、呂布討伐の為に出陣する。
12月→曹操は「下丕卩」で包囲していた呂布を殺す
★江東の孫策に対しては《討逆将軍》号と《呉侯》の爵位を贈って
取りあえず慰撫政策(友好関係)を保つ。
199年2月→曹操帰還。
3月→袁紹に「易京」を包囲されて、公孫讃が自殺
これに拠り袁紹は、黄河以北(河朔)の完全制圧を果す。その結果、
袁紹軍は60万と成り、あとは南下して曹操を屠るのみに至る
4月→曹操は、袁紹の全ての官位を剥奪する。
5月→曹操みずから黄河を渡り、射犬城を奪還。
6月→淮南で袁術は野垂れ死にする。
8月→曹操は再度、黄河を渡り、業卩城 (袁紹の拠城) から僅か70キロの
「黎陽城」付近を荒らし廻る。
※この挑発的な行動の目的は必敗の長期戦を避ける為であった。
9月→曹操は許都に帰還。兵力は官渡城に残置・常駐させる。
11月→あの賈ク張繍コンビが、ぬけしゃあしゃあと帰順して来る。
之に拠り曹操も後背の憂いが除去され、対袁紹戦に専念し得る。
12月→いよいよ曹操自身も官渡城に入城し、陣地の強化に集中する。
★2年半、曹操の元に在った劉備が脱出(裏切り)、徐州・小沛で独立。
袁紹と同盟を結ぶ
200年1月→暗殺計画が有ったとして献帝周辺の廷臣派を大粛清する。
是れにより獅子身中の虫であった朝廷側に因るクーデターの懸念(内憂)を取り除き、許都に在る献帝を丸裸に孤立させ、懸念材料の払拭に成功する。
直後→曹操みずから小沛に劉備を急襲。泡を喰らった劉備は単騎逃亡。袁紹を頼って北に奔る。張飛は行方不明。下丕の関羽は其れを知り降服。曹操は特別待遇で関羽を迎える。
2月→遂に袁紹は 全軍に出撃を下命!!天下平定の第2段階へと、その
覇業の歩を進め出す。そして、其の先鋒部隊である顔良が黄河北岸に出現。本軍主力の渡河点である「白馬津」の確保に動き出す。
★ 江東を平定し終えた孫策は、好機到来とばかりに、許都襲撃に向け、
其の全軍10万近くの北上を開始する。
此の場面に思いを馳せる時、信長は思ったものだ。
《袁紹は今川義元だ。そして此の俺は正に曹操じゃ!!》
その置かれて居る立場と状況は正しく「三国志」に書かれている通りのものだった。
此方が必死の思いで〔尾張1国〕を平定して居る間に〔大名門の今川〕は先代以来の大資産を背景に準備を整え虎視眈々と上洛の機会を窺う時局に在った。そして、いざ動き出せば、真っ先にぶつかるのは信長の尾張で在った。 此方の手勢は 精々3千。対するに今川軍は4万!実に10倍強の大敵を迎え撃つ事態に直面させられるのだ。正に至強と至弱!→曹操の官渡決戦とソックリの状況だった。
《大敵を迎え撃つ場合、ただジッと籠城して居てはダメなのだ!今川の大軍に対しては、籠城戦は不可!前線に進出して機を窺うしか勝機は生まれない!!》
4月→許都襲撃を準備中の孫策が暗殺される。是で後顧の憂いが消滅。
曹操の幸運・強運としか言い様が無いが、信長の場合にはもっと深刻な
窮地で此の強運が訪れる。元の将軍・足利義昭による信長包囲網が完成
した為に身動きすら出来ぬ大ピンチの最中、その遠征途上に在った盟主
武田信玄が急死するのである。之は人智の及ぶ処では無い。
同月→袁紹軍の渡河作戦始まる。先鋒の顔良は白馬津の戦いで関羽に斬られ
延津でも敗れて 文醜が討ち死する。が所詮は1時的な戦闘に過ぎぬ。
8月→袁紹本軍が南下して前進。官渡城前面の砂山に布陣。曹操は 新兵器の
投石車・雷車などを用いて防戦するも、以後はジワジワと圧迫の度合が
強まる。そして弱気と成った曹操は、許都への撤退を打診。荀ケに一喝
されて思い留まるなど曹操側の劣勢は明白と成っていった。
10月→許攸が寝返って帰順。食糧備蓄基地の在り処を密告する。
此処で 信長は つくづく 思う。
《 何より重大なのは情報戦である!!》と。刻々の敵情報の収集 と 自軍の所在秘匿。決戦を制するのは、正に此の2点で在る事を曹操は熟知して居た。
《で在るなら此の俺も其れに即応できるだけの機動戦力を使いこなさねばならん!》
その結果、案出され実行された乾坤一擲の大勝負が
桶狭間の奇襲 即ち烏巣の奇襲 で あったのだ!
『正史』は官渡戦の記述を締め括るに、桓帝期の預言者・殷馗の言葉を用いている。
『のち50歳まさに真人あり、梁・沛の間に起こるべし。其の鋒当るべからず、と。
ここに至りて凡そ50年。公、紹を破り、むべ天下敵するなし。』
言。跡五十歳當有眞人起於梁・沛之閨B其鋒不可當。
至是凡五十年而公破紹天下莫敵矣。
天下統一・野望の軌跡
横槊賦詩の時代(47歳〜54歳)
この期間は正に順風満帆。曹操の生涯で最も充実した時期(201〜208年)で在った。
実際には袁紹一族を根絶やしにする為の、徹底的な追求と殲滅の期間に充当された。為に大遠征に明け暮れ、生活の殆んどを馬上や野営テントで過ごすも、作詩を愉しみ研鑽を怠らぬ。この間に袁紹の故地・家臣を悉く帰順させ、更には万里の長城を越えた地の果て迄をも征服。新たに黄河以北の全土を掌握。以前からの自領と合わせれば全中国の3分の2が曹操の支配下に治まり、残すは 南の長江・漢水周辺地域
(呉の孫権と荊州の劉表)のみと成ってゆく。ちなみに西方(関中・漢中・益州)は
古来より「寧ろ外国扱い」とされ、2の次3の次の存在でしか無かった。
その生涯通算の移動距離は、全く航海を含まぬ 地上の行軍のみにも関わらず、裕に地球半周2万キロに達する。(後出の遠征地図を参照)歴代の英雄にも傑出する数値である。また同時並行的に 内政の諸改革や業卩城の改築・造営などにも着手。
中央集権で独裁色の強い政権・丞相政府の完成を目指す。其処に自ずから旧来からの権威や価値観(漢王朝)との衝突・軋轢が生ずる。
曹操がいつの時点で自王朝の樹立を決意したか!?
その野望発生の瞬間は定かならぬが、少なくとも己の手で天下を平定し
「俺は覇王に成る!」と 漢王朝庇護の立場 を公言したのは 此の時期の事である。無論、本心が何辺に在るかは自明の理だったから、その野望を阻止せんとする 内外の動きも 風雲急を告げて動き出す。それに対する曹操は、献帝本人には決して手を出さず、飽く迄も慇懃鄭重に接し続ける。だが、周辺の者達に対する血の粛清は、容赦ない冷徹さと鉄の意志の下に断行してゆく。そして曹操の野望の前に立ちはだかるモノは悉く打ち砕かれ、遂には天下統一が現実的な日程に上る事となるのだった。その手順の最初は 劉表の荊州攻略。最後が呉の孫権討伐・・と云う具体的な戦略であったーー果して、その荊州では直前に劉表が死去。
跡を継いだ劉jは家臣団に押し切られて全面降伏。曹操は1兵を失う事なく濡れ手に泡の状態で豊饒の地・荊州を奪い席巻した。こう成れば最早、誰の眼にも
曹操による天下統一は実現間違い無し!と観えた。
初めて三国志を読んだ吉法師も当然ながら、「曹操の天下統一は
当然の事」と 予想しつつ、わくわくしながら読み進んだ。ーーが其処には・・・
小説よりも劇的な結末・大ドンデン返しが待ち受けて居たのだった。その時
信長は、半信半疑の裡に、溜息を吐きながら思った。
《 曹操とも在ろう者が、なんと謂う愚かさよ...!!》
《 律すべきは、絶頂に上り詰めた場合の、己の慢心・人の思い上がりである!》
そして若い信長・吉法師は三国志に学んで胸に刻み込んだ。 えてして戦国の覇者は、その野望達成の寸前で コケるものだ。どんな場合でも 己を失わず、謙虚で在る事が肝要なのだ、と。
以後、赤壁戦までの7年は袁一族の根絶の為に費やされる。
官渡戦で一敗地に塗れたとは雖も、4世三公の大名門・袁一族の底力を、
曹操が如何に畏れ警戒して居たかが窺える。と同時に滅び行く者の愚かさ・
無惨さ・哀れさが・・・
201年→官渡決戦で一発逆転の大勝利を得た曹操は、一躍 覇王候補の最有力に
踊り出た。但し、飽く迄も迎撃戦に勝ったのであり、袁紹も健在とは言い
難いが存命して居た。
4月→決戦後はじめて黄河を渡って北岸の袁紹陣地を攻撃する(威力偵察ぎみの
攻撃で 占領では無いが、彼我の攻勢が逆転した事を認知させた意義は大きい)
9月→許に帰還した曹操は、背後(南)に逃げ込んで居た汝南の劉備を攻撃。
劉備は曹操の親征と知り、劉表を頼って荊州に逃亡。以後の7年間、
客将として脾肉の嘆を囲う事となる。
202年
5月→袁紹死去。官渡戦の大敗から1年半、失意の裡に逝った。
然も後継者の決定を為さなかった為に、遺児達の骨肉の争いを招く。
(業卩に在った末弟の袁尚が跡目を名乗る。兄の袁譚は黎陽城に駐屯)
9月→曹操は渡河して河岸に駐屯。黎陽進撃の機を窺う。
★ この年、のちに諸葛亮の跡を継ぐ姜維が生まれる。
203年3月→黎陽城を攻撃して奪取。袁尚・袁譚は撤退。
4月→業卩に軍を進めて包囲。が袁紹の居城だけあり難攻不落を誇った。
5月→そこで包囲を解き、許に帰還。攻撃目標を南方の劉表に変更する・・・
而してこの突然の転進作戦は、若き大参謀・郭嘉の謀略であった。
8月→果して 曹操が南方へ立ち去った途端に、袁尚と袁譚の兄弟は支配権を
巡って対立抗争を始め、破れた袁譚は 平原城へ逃げ込むが、袁尚の
攻撃が激しい為、何と、宿敵で在る筈の曹操に救援を依頼。
郭嘉の目論み通りの展開と成った。
10月→曹操は黎陽城に到着。知った袁尚は包囲を解いて業卩へ引き返す。
204年→業卩へ戻った袁尚だったが、曹操本人の親征で無いと知るや、再び平原の
袁譚攻撃に出陣。業卩の守備は審配に任せる。かくて袁尚は2度と業卩
へは入城できぬ仕儀となる。
1月→曹操自身も渡河。
2月→業卩に着陣し、完璧な包囲態勢を築く。
4月→曹洪に包囲を任せて周辺を遊撃。袁尚が戻って来た場合の手を打つ。
5月→業卩城の周囲に濠を掘り完全水没させる。為に城内では半数が餓死。
7月→袁尚は救援に引き返して来るが曹操の手配に嵌り最後は単身で逃亡。
8月→城内からの内応がキッカケで業卩城陥落!
9月→曹操は兌州牧を返上。冀州牧の地位に就く。曹丕甄氏を正妻とする。
12月→袁譚は南皮城へ逃亡。曹操は平原へ入城する。
205年
1月→袁譚を攻撃して斬る。
4月→黒山軍(并州の山岳盆地に定着した南匈奴族)が10余万の軍勢ごと帰順。
8月→北方3郡で反乱した烏丸族を国境外へ追い出す。
10月→業卩へ帰還する。
206年
1月→袁紹の甥・高幹が并州・壺関城で叛旗。曹操みずから出陣。
3月→2ヶ月包囲して壺関城を陥落させる。
8月→曹操、今度は東征に赴き 山東半島の付け根に在る「淳于」に到着。
海賊などを征討する。緊急性の少ない遠征と謂えるが実は之が・・
翌年に敢行する世紀の大遠征の”足慣らし”で在ったとは!!
207年→曹操は万里の長城を越え前人未到の大遠征を敢行する。
その壮大すぎて途方も無い作戦を聞いた時、重臣達は全員が反対した。
遠征距離の凄絶さも然る事ながら、ほぼ丸1年の間、中国をカラッポに
してしまう訳だから、もし劉表が戦争を仕掛けて来ても、全く手の施し
様が無いのである。
「袁尚は単なる逃亡者に過ぎません。放って置くのが一番です。
敵は北では無く南に在るのです。もし劉備に唆されて劉表が攻め入って
来たら何うするのですか!!」
ーーだが此の時、唯1人、曹操の計画を強く支持した者が居た。
デカダンス軍師の郭嘉で在った。
「劉表はただ坐すだけの人物。問題外です。」
そこで信長は、独り快哉を叫んだ。
《ウンそうか、なる程ナ!!》
《俺が鉄砲の優れた有用性に着目して重要視するが如く、
曹操は当時では最強のスーパーウェポンだった烏丸の騎兵を、
烏丸突騎を独り占め状態で、手に入れる魂胆だったのじゃ!》
207年2月→淳于から業卩に帰還する。
3or4月→3郡烏丸征討の為に、北方大遠征の緒に就く(出陣日不明)
5月→幽州・長城の手前「無終」に到達する。 ※ 直線距離でも500キロ
7月→大洪水が発生。予定の海岸沿いの進撃路が完全途絶。田疇の案内で軍用
道路を開鑿しつつ「柳城」を目指す。( 詳細図は 第118節を参照の事)
8月→「白狼山」の遭遇戦でトウ頓らを斬り、柳城に入る。
9月→「柳城」から帰途に着くや、公孫康は袁尚・袁熙の首を送って寄越す。
11月→「易水」に到着。現在のテンチン辺り→ 翌年1月に業卩に帰還を果す。
★ 劉備は三顧の礼を以って諸葛亮を迎える。
但し、曹操は 生涯、彼の名を意識する事は無かった模様で在る。
208年
1月→大遠征から業卩に帰還。玄武池を造り水軍演習。その意図は!?
2百年続いた後漢王朝の三公制度を廃止して、丞相制度を復活させる。
その為に14年間も「司徒」の座に在った趙温を難癖を付けて罷免。
「太尉」は献帝奉戴時いらい空位だったから、残る「司空」の曹操が
辞職すれば、三公は自然消滅する塩梅・遠謀だった。
6月→曹操は丞相と成り、一段と権力を集中させ独裁性を強める。
7月→荊州・劉表征討の為に今度は「南方」へ遠征に赴く。途中、許都に長期間
留まる。この異様に長い滞在の理由は2つ。1つは劉表の危篤情報確認。
そしてもう1つは→漢王朝擁護の急先鋒・孔融の検挙と処刑の為だった。
8月→廷臣の巨魁孔融を告発し、一気に処刑まで持っていってしまう。
折しも劉表が没する。劉jが継ぐが家臣団の無条件降伏論に圧される。
9月→曹操が州境を越えるや、劉jは使者を急派して完全降伏。
かくて曹操は、濡れ手で泡の荊州奪取に成功。実に曹操は、中国全土の
4分の3を其の支配下に収めたのである。正に絶好調!!曹操の勢い・運勢が最大に光り輝く絶頂の瞬間だった。もしも「運勢の天秤計り」なる物が存在したなら此の時点での目盛りでは、片や最高の位置エネルギイの上皿に曹操!!一方、最低のどん底の下皿には劉備!・・・と云う按配で在っただろう。
荊州水軍の基地・江陵めざして南下する曹操の騎馬軍団に蹴散らされ踏み潰されて、死ぬ眼に遭いながら逃げ惑う劉備集団。ーーだが道は登れば必ず下る。また光輝く所に必ず陰は存在する。思えば其れを暗示する如き悲哀が、此のとき既に起っていた。それは曹操最愛の息子・神の童と仰がれる曹沖が12歳で夭逝した事で在った。絶頂の中に突然襲う悲哀!!だが其れは未だ、真の悲劇のほんの序幕に過ぎ無かったのである。
12月→曹操は絶対の自信を持って、
天下統一の実現へと船出した。但し
曹操の生涯に於いて、その最大の栄光が、官渡戦の大勝利だとすれば、
その最悪の挫折は・・・赤壁の大敗北である。
そして此の赤壁の蹉跌こそが三国時代の成立を招き寄せ、異民族の支配を呼び込み、更には中国の歴史上に、統一王朝なき「空白の400年間」を産んでしまった!!
のである。
その
運命の赤壁戦まで後1旬・・・
次回は糟糠の妻の立場から、卞夫人に 曹操の最晩年を振り返って貰おう。
〔第258節〕非常ノ人 の素顔(曹操伝3)→へ