【第256節】     
    曹操伝     その通史1


無名の曹操が出会った
快男児の事を語ろう

その爽やかな人物の 壮絶な生涯を辿れば、其処には自ずから 未だ何の実力も
無かった
曹操が、何故に 覇者の資格を獲得できたか!?の サクセス秘話が顕われて来るであろう。そして実は、その人物こそが曹操をして覇王たらしめた陰の仕掛け人・真の大恩人で在った事が明らかに成ってゆくのである・・・


早い話が、その男は曹操をひと目見た瞬間に、ビリビリッ!と電撃を受けたのである。《自分の全てを投げ出しても構わない!》と
見初めたのである。
《よし、この男に、我が思いの全てを託そう!》その男は、己が 心の何処かで
捜し求めて居た理想の相手に出会えた!と直感したのだ。無論、色恋の話しでは無い。男子の本懐・君子の使命・此の世の理想の問題である。乱れゆく世を憂い天下に再び安寧と静謐を取り戻す!!・・・其れを実現できそうな資質を持った「可能性」に出会えたのである。
惚れ込み、見込んだのだ。
そして40歳の彼は、35歳の曹操に”告白”した。


「稀才に恵まれ 乱世を収める事が出来る者、それは君だ!

   「そもそも世に稀な智略を抱き、よく英雄を統率して乱を収め、
          在るべき姿に返される方・・・それは君で在ります!」

告白された方も、変な謙遜なぞせずに泰然自若として其れを受け止めた。それで尚一層燃えた相手は、究極の言葉を発した。


「文武両道を備えた君こそは、正に
天命の子である!」

「いやしくも其れに値する人物でなければ強力で在っても必ず滅びるものです。
       君は其の点、先ずは
天の導き賜う お人で在りましょう!!」

こうまで言い切って曹操を覇者に仕立ようとした人物。その男の名は・・・・
鮑信 と謂う。字は不伝。弟の鮑韜ほうとうと共に 泰山郡から歩兵2万と7百の
騎兵・輜重5千台を擁して此処「酸棗」に馳せ付けて来て居たのであった。

時に
190(初平元年)董卓の専横を憎む連合軍陣地内の事であった。
この
鮑信ほうしん、董卓の悪逆に堪り兼ねて挙兵したとは謂うものの、家は元々から儒学を修める学研の家柄で、身は節倹そのものの生活を送った。だが将兵は手厚く待遇し、住居には財産を残さぬと云う清廉な人柄だった為に、士人たちは彼によく懐いた。当然この挙兵も個人的な野心などは全く無くただ純粋に漢王室への忠節を尽くし、世に平穏を取り戻す事のみが動機なのであった。

『鮑信の父の鮑丹は、少府侍中まで官位が登り、代々儒学の教養によって有名
 だった。
鮑信は若くして人の踏むべき節義をわきまえ、寛大で人を愛し、沈着
 剛毅にして智謀が有った。
大将軍の何進は召し寄せて騎都尉に任命し、帰郷
 させて兵を募集させた。千余人を手に入れ、成皐まで引き返した処で、何進は
 既に危害を加えられていた。  鮑信が都に辿り着いた時、董卓も到着した
 処だった。鮑信は董卓が必ず乱を起す事を予知し、袁紹に董卓襲撃を勧めたが
 袁紹は董卓を恐れて思い切って行動を起こそうとはしなかった。そこで鮑信は
 軍を引き上げて郷里に帰り、歩兵2万、騎兵7百、輜重5千余台を集めた。』

一国の軍師も務まる様な人物が、曹操の資質・器に惚れ込んだのである。


さて本書に於ける曹操孟徳
の登場は 彼が既に覇王の資格を獲得した46歳の時点(司馬懿を謁見する場面から)であった。その後時間を溯って主たる出来事は網羅して来たが「曹操の個人史」と云う観点からは 些か都合を欠いている。そこで此の際、彼の生涯を時間経過通りに振り返りつつ、彼の業績功罪を有りの儘に辿り2節先の総括考察へと繋げてゆきたい。 但し折角の機会である。巷に溢れている在り来たりの、単なる権力者の通史・武帝紀では無く、本書ならではの「独自な時代区分」と「語り口」を持つ
曹操通史・
曹操伝としたい。


A:時代背景(幼年期)

   〜〜桓帝期〜宦官の全盛時代〜〜

三国時代を産む原因を作った
は、異常な王朝で在った。皇帝たる劉一族が 実際に政治に関わったのは最初の3人だけで、後は全員が早逝。だから常に現役皇帝は児童や少年で在り続けた。まともに執政できぬから劉氏では無く皇后側の親戚・外戚が政務を代行した。だが終り頃の11代桓帝は成人に達し実権を外戚から皇帝自身の手に取り戻した。この時に帝が頼みとしたクーデタアの実行者が帝の身近に侍る宦官達で在った。桓帝は 彼ら宦官達に深く感謝し、やがては全面的に政治を彼らに委ねる。何の事は無い。実権が外戚から宦官へと移行しただけの事なのだった。以後この宦官政治は絶頂期を迎え天下を席巻した。そんな宦官大臣・曹騰を祖父に持って此の世に生を受けたのが曹操孟徳で在った。生殖能力を持たぬ曹騰は養子を取る事を帝から認められ曹嵩を我が子とした。曹操の父で在る。時おりしも、政治の実権を握った宦官達は、その旨味を独占する為に先祖代々からの正規官僚で在った「士太夫」との権力闘争を展開。終には彼らの公職永久追放(党錮の禁)に成功する。
曹操が20歳で初めて出仕、小さな官職に推挙された のは、
まさに此うした清流(正規官僚・士太夫)
vs 濁流(宦官勢力)との暗闘まっ只中の時節で在ったのである。

 
 幼年期
(1歳12歳まで

     ※
 正史には20歳まで、曹操についての記述は全く無い。
          従って年表は時代背景の”おさらい”と観て戴きたい。

但ここで彼の出自・出生について再認識して置くべきは、曹操は 此の世に
生れ落ちた瞬間から既に、中国の人々が最大の禁忌とする2つの社会規範を
犯した存在であった点だ。その2つのタブーとは、
〔1〕
異姓不養=異姓の男子は養子に出来無い。
〔2〕
同姓不婚=同姓の者は結婚できない。
〔1〕は 宦官の祖父・曹騰が 恐らく 夏侯氏の子(曹嵩)を養子とした事を
〔2〕は その曹嵩が 恐らく 曹騰一族の女性と結婚して曹操を設けた事を謂う。
 更には元より〔3〕として、宦官で在る事自体が禁忌。彼は其の一族なのだ。
かくて曹操は、
贅奄ぜいえん遺醜いしゅうとしての宿命を負って、生涯を送る事となる。


        
155
年→曹操 生まれる(数え年で1歳)
        時は桓帝の治世だが、外戚の梁驥が専横を恣にして居た。この
        当時は国境周辺では異民族の侵攻・国内各地では叛乱が頻発。
        モグラ叩き状態〜放置状態となりつつ在った。

157
年→孫堅 生まれる
159
年→桓帝は宦官の協力でクーデタアに成功。外戚の梁驥は自殺。
以後は宦官が実権を握って全盛時代を迎える。宦官は政権を独占する為に邪魔な先祖代々からの正規官僚(士太夫)と対立。讒言により次々に追い落としてゆく

161年→劉備 生まれる。桓帝は、官位の1部を売りに出す。
           (臨時措置として安帝以来、時々行なわれていた。)

          官僚と宦官(清流vs濁流)との死闘が益々激しさを増す。

166
年→第1次党錮事件始まる。
宦官側は、官僚達が太学生と党派を組んで朝廷を誹謗して居ると讒訴。12月、党人に対する逮捕命令が全国に出される。対象者2百余名。或いは捕縛され或いは地下に潜行。

167年→外戚のトウ武が党人を弁護。6月、桓帝は党人を釈放するも、故郷に帰して終身禁固とする。12月、桓帝・劉志死亡。36歳。
  青春時代(霊帝期)

13歳20歳曹操の出仕は遅く20歳で初めて推挙される
20歳30歳正史は20歳で任官してから30歳迄の10年間についても、単に官職を羅列するだけである。そして漸く曹操30歳の時に黄巾の乱が勃発。直後の霊帝死去をキッカケに 魔王・董卓の登場から歴史は一挙に激震・激動の時代へと様相を一変する。青春時代は去っていたが、リーダーに成る為には 寧ろ相応しい壮年期に差し掛かる曹操では在った・・・。

168
年→1月、劉宏12歳(霊帝)が迎えられて即位。(曹操14歳)
9月、正規官僚(士太夫)側は、宦官勢力の一掃を狙うが 寸前に計画が漏れ、逆に宦官側から勅命を出されて失敗。指導層の多くが殺される。霊帝は宦官に
取り込まれ、以後の宦官偏重姿勢が確定。

169年→9月、宦官は勝利を確定すべく又も讒訴。残存する士太夫に
対して党人のレッテルを貼って逮捕殺害、或いは終身禁錮、流罪とするなど壊滅的な打撃を与える。所謂
第2次党錮事件
この2度に及ぶ党錮事件により、宦官の地位は磐石のものに強化された。

祖父を宦官大臣に持つ曹操は、折しも仕官の時期を迎え、思いの儘の任官も可能であった筈だが、そこは流石に 時代を読み取る嗅覚に鋭い曹操。直ぐには飛び付かず、世の評判・動向を見極めつつ、当時としては遅い20歳の時点まで出仕せず、然も大きな官職を避け勉学と放蕩の日々に明け暮れたものと想像される。但し祖父が存命して居たかは不明。父親も何をして居たのかも判らない。蓄財には励んで居たらしい。

171
年→15歳を迎えた霊帝は元服し、全国に大赦を施すも、
                        党人だけは除外される。

174
年→
20歳と成った曹操、孝廉に推挙されてと成る

※以後の10年間に於ける曹操の昇進について「正史」は単に次の如く記すのみである。
太祖は若年より機智があり、権謀に富み、男立て気取りで勝手放題、品行を整える事はしなかった。従って世間には彼を評価する人間は全く居無かった。ただ梁国の橋玄と南陽の何禺頁だけが彼に注目した。橋玄は太祖に向って言った。
 「天下は将に乱れんとしている。一世を風靡する才能が無ければ 救済できぬ
  であろう。よく乱世を鎮められるのは君で在ろうか
」 と。
年二十挙孝廉為。除洛陽北部尉。遷頓丘令。徴拝議郎。」

夫れ夫れの官職に 何歳の時に 就いたのかすら 明らかでは無い。最後の議郎は朝廷の参議官だからマアマアだが特に目覚ましい昇進は無い。

       この年、
孫堅が故郷で挙兵。宗教的反乱者を討伐している。

175年→孫策、周瑜 生まれる
178
年→霊帝は鴻都門学(技芸専門大学)を設置。又恒常的な 官職の
叩き売りに乗り出し儲けを万金堂に貯め込む。宦官を弾劾した蔡邑が流罪。

180
年→霊帝、郊外に畢圭苑と霊昆苑を造る。
         何皇后が立てられ、兄の何進が侍中となる。

181
年→霊帝、後宮に模擬市場を作って商人ごっこを満喫する。
      
 諸葛亮 生まれる(のちの献帝・劉協 生まれる)
182
年→孫権 生まれる
184
黄巾の乱が勃発(注:2月〜11月の8ヶ月間 )
( 曹操30歳 )

「騎都尉に任命され穎川の賊を討伐した。済南国の相に昇進した。」
※のちにして思えば、この穎川〜済南の〔地の利・地縁〕が、以後の群雄・曹操の足場根拠地と成るのである。

「国には10余りの県が存在したが、貴族や外戚に迎合する役人が多く、贈賄汚職が横行していた。そこで上奏して其の8割までを免職にした。衆を惑わす祭祀を厳禁し悪人は逃亡し、国内は襟を正した。暫くして召還され、東郡太守に任じられたが就任せず、病気にかこつけて郷里に帰った。」 
※この衆を惑わす祭祀を厳禁した事が、のちに曹操に青州兵(青州黄巾軍)30万を帰順させる一因ともなる。

「少しのち王分・許脩らは実力者達と連合して、霊帝の廃位と合肥侯の擁立を計画、その事を太祖に打ち明けた。太祖は参加を拒否、王分らは結局失敗した。」
 
※こんな重大な謀叛計画を持ち掛けられた、と云う事は・・・この時点で曹操は既に、頼り甲斐の有る清流派(反宦官派)の人物と観られて居た事が窺える。

但し此の後も、霊帝のバカ殿ぶりは益々エスカレートする。
 
隠忍雌伏30代(董卓時代)

意外な事実だが、曹操が自他共に英雄の1人として認められ 大きな地歩を築き始めるのは実に40歳からなのである。当時の40歳は 現代では60歳に当るであろう。漢の高祖も同様だが、天下を取る位の大業には 矢張り人間も50を過ぎてからが相応しいのであろうか。 だとすれば、若い時代は其の日の為の肥料なのである。

31歳37歳霊帝の死と董卓登場により、
   (185〜191年)   世は混沌の
群雄割拠時代突入。
              旗挙したものの未だ曹操には何の実力も無い。

185
年→宮殿や巨像鋳造の為に1畝10銭の重税が課せられる。
         西方で韓遂らが暴れ始める。

186年→霊帝は玉堂殿造営、銅人・黄鐘・天禄・蝦蟇など巨像を鋳る。

187年→西方では韓遂に馬騰も加わって大反乱となる。各地での叛乱
収まらず、
孫堅が長沙太守に任じられ、賊を討伐。
曹操の父・曹嵩が「太尉」に就任。曹丕が生まれる
無論、金で買った最高官職。相場の10倍・1億銭だったと謂われる。曹家の財力を髣髴とさせる仕業であるが、父親は曹操の為にその将来を買ったのである。実際、その効果は覿面で、翌年に曹操は大抜擢される。

188年→各地の反乱は最はや手の付けられぬ状態。州の長官(刺史)の統治力が弱化している事から、劉焉は 軍事権を持つ「牧」を置く事を建議。 益州・豫州・幽州で実現。
この
州牧制導入により事実上 世は群雄割拠時代突入!

霊帝は
西園八校尉を設置。曹操は典軍校尉に抜擢される

校尉はいずれ中郎将→将軍へと昇進する期待の若手。祖父と父の夢が結実した瞬間だったと謂えよう。一方では皇帝廃位派に誘われ、一方では皇帝から見込まれた曹操。その遊泳の策術は流石である。が、その祖父や父の夢は、霊帝の突然死により、アダ花と潰える。


189年→月、霊帝34歳で死去。少帝・劉弁(17)が即位。
(曹操35歳) 月、董卓が自ずから司空に就き、専横を始める。
このあと4年に渡る
董卓時代(189〜192年)の始まりである。

この最初の時点ではあの
鮑信は大名門の御曹司・袁紹に期待を寄せた。そして
 「直ちに行動して董卓の悪逆を未然に阻止すべきである!」と提案。
 だが袁紹に其の度胸は無かった。一方、曹操も董卓に誘われた。

「董卓は太祖を馬堯騎校尉に任命するようにと言上し、彼と今後の事を相談
 したいと思った。太祖は姓名を変え、間道を通って東へ帰った。」


        
月、董卓は劉弁を廃し、劉協を即位させる。(献帝9歳)

「太祖は陳留に行き着くと、家財を散じて義兵を集め、董卓を滅ぼそうと計画
 した。冬12月、己吾
(沛から50キロ)に於いて旗挙げした(思えば之は、
此の後に延々と続く天下統一への長い道程の、実に其の第1歩となる快挙であったのだ!嗚呼、銘記すべし!)
是の歳は中平六年である。」

わざわざ改めて其の年を書いて置く程に感慨深い旗挙げでは在った。が 然し、
家財を散じても集められる私兵は精々2千どまりであった。群雄の先頭を切って旗挙げしたは善いものの、各地の群雄は夫れ夫れ5、6万を擁して居たのに比べると、如何にも実力不足。だが・・・
曹操に惚れ込んだ男達が居て呉れたのだった。
1人は鮑信ほうしんで在ったが、実はもう1人・・・衛茲えいじが居た。字は子許。曹操が挙兵・旗挙げしたのは 郷里・はい言焦しょう県の北西50キロの己吾きごであったが、衛茲は其の隣りの襄邑県の士太夫で在った。曹操が洛陽から脱出して来た時に出会った。するや衛茲は「天下を平定する者は、この人に違い無い!」と言い、曹操も彼を人物だと認め、たびたび衛茲を訪れては重大事について相談するのだった。そして衛茲は、家財を提供して援助し、曹操を 挙兵させたのである。曹操に合力した 部外者の第1号が、この衛茲で在ったのである。お蔭で
曹操は2人合わせて5千の軍勢を持つ事が出来、何とか面目を保って連合軍に参加し得たのである。
ーーそして其の陣中で今度は鮑信と巡り会うのであった。


年改まった翌1月には、各地の群雄も董卓討伐の兵を挙げ、4世三公の大名門・
袁紹が其の盟主に推挙された。その動きを知った董卓は2月、長安への遷都を強行。洛陽を焼き払い郊外に駐屯した。対する連合軍側は、董卓軍が強力なのに尻込みし、誰もが自兵力の温存を図るばかりで動こうとはせず、連日の酒盛り状態で在った。そんな時に曹操と鮑信は出会ったのである。そこで曹操は、天下の耳目が集中する此の戦場で敢然 ひとり立ち向って己の名を高め、その権威を獲得しようと決意。衛茲・鮑信・鮑韜らの賛同を得た曹操は、明らかに世論(マスコミ)を意識した決意表明を行なう。

「大軍団が既に勢揃いして居るのに、一体諸君は何を躊躇って居るのか!
 今董卓の悪逆は極まり、天下は揺れ動いて何う成るか判らぬ状況に在る。
 是こそ天が奴を滅亡させる機会である。だから1度の戦いで天下の帰趨は
 定まろう。逃がしてはならんのだ。故に私は行くのである!」

自ずから顧みて直くんば、千万人と雖も我ゆかん!!・・・実にカッコイイ行動である。が其の代り、命が懸かった極限の決断だった。

「行なうべきです!」「やりましょう!」「御伴いたします!」
無私・無欲な滅私奉公の純真さを抱く者達だからこそ、曹操を後押した。
《命を捨ててでも成し遂げる価値が在る!!》
《身を捨てて見せる事こそが私の使命で在ろう。》と共鳴してくれる鮑信らが居て呉れればこそ可能な乾坤一擲、勇猛果敢な前進であった。

「かくて兵を引き連れ西へ向い成皋関せいこうかんを占拠しようとした。張獏は衛茲に兵を分け与えて太祖に随行させたが、蛍陽けいようシ卞べん水まで来ると董卓の将軍徐栄と遭遇した。交戦したが負け戦となり、士卒に多数の死傷者を出した。太祖は流れ矢に当り、乗っていた馬は傷を受けた。従弟の曹洪が自分の馬を太祖に与えたので、夜に紛れて逃れ去る事が出来た。徐栄は太祖の率いる軍が少ないのに1日中 力の限り戦ったのを見て、酸棗は未だ容易に攻め切れ無いと判断し、やはり兵を引き連れ帰還した。」

この
シ卞水の戦いで、衛茲と鮑韜が戦死した。また鮑信も傷を負った。
まさに己の命を捧げて曹操の門出に尽くした君子達が居たのだった。
酸棗さんそうに帰着した曹操は、酒盛に終始する 諸軍を前に 大演説を行なう。是れは命懸けで戦闘を実行した曹操だけに許される特権だった。
「諸君、私の計略を聞いて呉れ」
で始まり「このまま躊躇って進軍せねば天下の期待を裏切る事になる。私は密かに諸君の為に恥ずかしく思う!」で終る酸棗の演説・・・・物質的には失う物の大きい挙兵であったが、この敗北と演説とは 間違い無く 曹操の名を天下に轟かせる勲章・抜群のパフォーマンスと成ったのである。その効果は直ちには現われては来ぬが、いずれ其の名を慕って参集する者達への呼び水と成るに相違なかった。


190年→1月、各地の群雄も董卓討伐の兵を挙げ、4世三公の大名門・袁紹が其の盟主と成る。曹操も奮武将軍代行を名乗って参加。
2月、董卓は長安への遷都を強行。洛陽を焼き払い、郊外に駐屯。対する連合軍側は 誰もがみな自兵力の温存を図り、出陣を忌避するばかりで動こうとせず連日の酒盛。そんな中ひとり曹操だけが洛陽への進撃を唱え、成皇関の突破を試みる。が、ベン水で敵と遭遇。激戦の末に敗退する。だが破れたとは雖も、唯1人だけ挑戦した曹操の勲章。然し全体的には董卓の戦略が効いて、連合軍には厭戦気分が蔓延。事実上、同盟は解散状態と化す。
  
曹操は陣を離れ、長江を越えて募兵に赴く。

         ※ 独り、遅れたが荊州から
孫堅だけが北上を開始。



 漸くビッグ成った40代

37歳41歳董卓後の天下では、いよいよ群雄淘汰の

     (191〜195年)  サバイバル戦
が全土に惹起。辛うじて群雄の一角に在った曹操は徐々に力を付け、遂にはビッグ3へと台頭してゆく。それは同時に又、多くの人材を見い出して登用する「唯才主義」実現の過程でもあった。

191年→反董卓連合軍は空中分解。諸将の関心は、董卓が放棄した
「関東」を誰が支配するか!?に変って居た。ただ孫堅だけが洛陽へ入る。

    
袁紹冀州牧の地位を韓馥から搾取し、一躍ナンバーワンと成る。
                  
     ※袁術に送られて劉表の将・黄祖を深追いした
孫堅が戦死する。


揚州から戻った曹操は 客将の形で 袁紹軍に合流。その下に留まって居た。だが此の時期の曹操は 未だ 明確な人生ビジョン・まして覇業へのグランドデザインなどは描けずに居た。描こうにも、それに伴うだけの実力が無かったのである。そんな曹操に対して明確な方針戦略を授与し、勧告したのは
鮑信で在った。

「いま天下の人々が呼応して居りますのは、それが正義であるからです。現在、袁紹は盟主と成りながら権力を利用して利益を独占、今にも動乱を惹き起こそうとして居ます 之は、もう1人の董卓が存在するのと同じで在ります。然し 彼を抑えようとしても、此方には未だ 制御するだけの力が在りませんから、ただ災難を惹き起こすだけで、成功しないでしょう。先ずは 黄河の
南に手を着けて切り取り、彼に情勢の変化が起きるのを待つのが宜しいでしょう。」

この時点に於ける曹操の課題は、如何に袁紹から離脱し、黄河の南
(河南)に独立を保って群雄の仲間入りを果すか!?であったが 鮑信は明確に、曹操に覇権を争う人生を要請し、その基盤を先ず、河南の地に求めるべきである事を示した。そして更には→兌(エン)州・豫(ヨ)州を領有する→袁紹を迎え撃って破る→天下統一に乗り出す!!・・・その大戦略を示したのである。
その基本戦略が確認されるや、直ぐにチャンスが巡って来た。へい州の山岳盆地に進入して居た南匈奴の1派・
黒山軍10万が、平地への定住を狙って 袁紹の勢力圏たる魏郡・東郡へと侵攻して来たのである。東郡太守の王肱は 是れを防ぎ切れ無い。東郡は 黄河の北岸とは謂え冀(キ)州ではなく、兌(エン)州に属していた。此処に拠点を持てば、冀州牧の袁紹から 離脱する口実と成る。また
いずれ南へ渡河して「兌州」に進出すれば、実質的にも独立を果せるのだ。こんな
千載一遇の機会を逃して為るものか!!・・・曹操と鮑信は東郡へと駆け付ける。無論、袁紹から出兵許可を得てある。そして濮陽の地で黒山を破った曹操は袁紹から
〔東郡太守〕に任じられ、鮑信も済北相を領した。

更に翌
192に入ると、曹操の運命は飛躍的に変容する。(曹操38歳)

そのキッカケと成ったのは 青州黄巾農民軍の「えん州」への侵攻であった。鮑信は曹操の影の軍師として動く

黄巾を名乗る青州の飢餓農民の大群は、食糧を求めて最初は黄河を北へ渡り冀州の渤海郡へと侵入した。 だが その先鋒部隊は、北の幽州から南下して来た公孫讃の白馬義従に蹴散らされてUターン。今度は兌州へ向って押し寄せて来たのである。彼等百万の目的は、 黒山軍との合流であった。昨年 1度は曹操に阻止されたものの、黒山軍は 関東への進出を断念しては居無かったのだ。そして此の春も再び侵攻して来た為に、曹操は兌州の西部で 黒山軍との死闘を繰り広げて居たのだった。 一方の鮑信は 東部で、兌州刺史・劉岱の参謀として、善後策を献策して居た。だが後から思えば鮑信の献策、実は・・・・
〔劉岱を戦死させて、代りに曹操を就任させる〕為の策謀だった!に違い無いのである。而して其の献策自体は決して裏切や騙まし討ちの類では無く、寧ろ堂々の正論で有った。

「賊に兵糧は無く略奪によって辛うじて保って居るに過ぎません。ですから
 守りを固めて闘いを避け
敵の疲弊を待って 集中攻撃するべきです。」

正に最善策である。だが劉岱は、この方針を採用しなかった。そして鮑信は予め其の事態を予想して居た。それを策謀と謂えば謂える。何故か??
1つは劉岱の性格・人柄が攻撃型で在ったのであろう。そして最大の理由は・・
公孫讃の赫々たる勝利の誘惑が、劉岱にも存在したからに相違ない。たとえ勝利したとしても、逃げ廻った挙句の勝利では、政治的には全くの無意味でしか無いのだった。公孫讃が其の御蔭で権威・名声を高めた様に劉岱も亦、華々しい勝利を必要としたのである。だから守勢を採らずに戦って案の定、討ち死してしまったのである。
長官を失った兌州は大騒ぎに成った。このとき乗り込んで来て 周囲を説得
、曹操の兌州刺史 就任を納得させたのは、軍師の陳宮で在った。無論、全ては鮑信が仕組んだ筋書き通りの流れ。
早速呼び寄せられ、新長官に迎えられた曹操に対し、今度の鮑信は正反対な方針を進言。正面きっての激突・赫々たる勝利を目指すのであった。

「太祖は賊兵が勝利をいい事に驕り高ぶって居る事から、奇兵を伏せて置いて
 挑戦し彼等を寿張で攻撃しようと考え、鮑信と共に陣を出て戦場を下見した。
 だが未だ本隊が到着しないうち、突然 賊軍と遭遇し 白兵戦となった。鮑信は
 必死に戦い、太祖を救ったので太祖は辛うじて包囲を破って脱出できたが、
 結局
鮑信戦死した。時に41歳であった。」

「賞金を出して、鮑信の遺体を求めたが得られ無かった。そこで人々は鮑信の
 姿に似せて木を彫り、其れを祭って哭礼を行なった。」

曹操の人生にとって此の
鮑信との出会いは、丸で〔幸運の妖精に魅入らる一瞬〕だったかの如くである。 逆に謂えば、曹操の其れ迄の人生は、この鮑信を惚れ込ませる一瞬の為の人生修養・人間修業であった、とも謂える程の重みと意味が含まれているのであった。何故なら曹操は、この後の死闘を経て遂に、初めての根拠地・兌州と、30万の大兵力、更には後方の家族を含めれば新たに100万近い人的資源を獲得する事に成功するからである。今後の覇業には不可欠な 所謂〔青州兵〕の獲得と、経済基盤(農民)の拡充であった。但し30万の数字を 鵜呑みには出来無い。当時は 朝廷への報告書に、数字を10倍にした景気の好い戦果を記すのが慣例だったからである。曹操の此のケースも、爾後の苦戦ぶりなどから推して、実数は寧ろ3万に近いものだったと想われる。だが、いずれにせよ此処の戦勝により、曹操は一気に覇者候補として認められる存在と成り、天道を突き進む有資格者に躍り出たのである。それは同時に亦、艱難辛苦の始まりであり、多くの家臣との邂逅を約束する 覇業の始まりでもあった・・・その192年を(後追いになるが)年表風にまとめれば、

192年→1月、袁紹は「界橋」で公孫讃を破り中原の覇権を固める
        4月、
呂布が董卓を暗殺する。

        青州の黄巾農民軍が兌州に侵攻。刺史の劉岱は戦って敗死。

 曹操は迎えられて兌州刺史と成り黄巾軍と戦って帰順を許す。
 所謂《青州兵》。これで曹操は一挙に30万の兵力を有する事と成り、
 課題だった袁紹からの離脱が実現。群雄の1人として独立を果す。

劉岱が周囲の猛反対を押し切って、面子に拘って戦死して居なければ、こんな
僥倖は在り得無かったのだ。その強運を、曹操が《天命だ!》と感じたとしても少しも不可しく無いチョ〜ラッキーであった。

        6月、董卓の残党が長安を占拠。
呂布は関東に流れて来る。
       10月、ほぼ荊州を平定した
劉表が牧に追認される。


193年→南陽郡を食い潰した袁術はイチかバチか、曹操の根拠地・兌州の奪取を目論むが匡亭の戦いに惨敗。遙か合肥にまで落ち延び、其処で揚・徐2州の牧を自称。
北方では公孫讃が幽州を支配。袁紹との対決が鮮明となる。

陶謙が徐州牧となる。その部下が移動中の曹嵩(曹操の父)を殺害した為に、
激怒した曹操は徐州に侵攻大虐殺を行なう

1年前の黄巾戦が、曹操の輝ける栄光だったとすれば、この徐州大虐殺は 曹操にとって生涯最悪の汚点 と謂えよう。この 何の罪も無い人民へのホロコーストは、どんな言い訳も通らない。まして其の原因が 私的な復讐の為の 腹いせだったと有らば、どんな弁明も通用はしない。

それにしても、此れが鮑信に惚れ込まれた同じ人間か!?・・・思わず絶句し、《一体、人間とは何なのだ??》と考え込まざるを得無い問題にまで行き着いてしまう様な、同一人物に於ける〔ぶれ〕の恐ろしさ・一個の人間が為す 愛憎の振幅・矛盾・疑問・謎・空恐しさなどなど、我ら人間の深遠を思い知らされる。そこまで敷衍・一般化しなくとも、曹操と云う人間の中には、始皇帝や項羽・
董卓と相い通づる様な、ドロドロとした 凄まじい狂気のマグマが常に渦巻き、その体内に内在されて居るので在った。そして愛憎の嵩まりをキッカケに、その激越を大奔出してしまう如き危うさ・怪しさ・妖怪さと隣り合わせつつ、紙一重の処で常識の内側に踏み止まりながら生きて居る生命体なので在ったのだ!!
然し、矢張り、それにしても・・・何で、そんな馬鹿な狂気が、曹操自身の中で罷り通ってしまったのか???如何に 最愛の肉親を奪われた 激しい怒りだったとしても、自ずからが大量虐殺の先頭に立つとは!!!とてもの事、俄には信じられぬ様な非道で冷酷な妄動であった。然も 何と2度に渡って繰り返されたのだから、その汚名・悪名は 2千年の後々迄も消し去る事は出来ず、曹操の評価を大きく後退させる全ての根源と成るのである。また、結局は 曹操が天下統一を果せ無かった最大の理由も、この事件の後遺症・その悪業が祟った 当然の結果だった、と謂えるだろう。 無論 リアルタイムでも、曹操の狂気に対する激しい拒否反応が、その足元から曹操自身を震撼させる。


194年→劉備が陶謙の元に身を寄せ、豫州刺史に任じられる。
曹操は再び徐州侵攻を行なうが、留守を突いて根拠地兌州で謀叛が勃発!

軍師の座を荀ケに奪われて屈辱に慄く陳宮が、呂布を担いで諸郡県を引き入れ叛いたのである。その予期せぬ崩壊スピードは曹操の自業自得。みずからが 招いた蛮行のツケであり士太夫の期待を裏切ったバチが当り、彼等の一斉離反を招いたのである。叛かなかったのは僅か3城!と云う瀬戸際に追い込まれた曹操だったが、完全崩壊寸前に危うく引き返し、濮陽で呂布と対陣する。するや曹操にとっては幸運と謂うべきか?何と戦場一帯は大軍に襲われてサスペンデッドの引き分け再試合となってしまったのであった。
    新旧の世代交代も進む。陶謙が病没し劉備が徐州牧を譲られる。
    益州でも劉焉が死んで劉璋が跡を継ぐ。
    江東では孫策が急躍進して一円を平定。

天下に覇を唱えんとする者達の姿が、ハッキリ見えて来た。
      

195年→曹操呂布〔定陶の戦い〕で破り兌州を確保。
        〔兌州牧〕と成り、念願だった江南に根拠地を得る。
     ※(上図で謂えば、赤部分が東に拡大され、黄河の南岸沿い一帯に広がった)

         敗れた呂布は劉備の元に身を寄せる。

         献帝は長安を脱出するも流浪の身となる。(東帰行はじまる)

         袁紹は「鮑丘」で公孫讃を破る。

         敗れた公孫讃は以後、バベルの城(易京)に籠る。


196年→ 後漢王朝 最後の年号となる建安の元年。この改元は曹操が強いたものでは無い。事実上は 囚われの身だった献帝が 願望を込めて、曹操に会う以前の正月に偶然にも行なった改元なのだった。而して歴史の実際は恰も曹操が要求したかの如く、正に曹操の成功・出世の軌跡にズバリ合致する事と成るのである。
     曹操42歳、献帝を奉戴する。
滅亡寸前の漢王室奉戴の是非・利害について賛否渦巻き、袁紹らが躊躇して居るのを尻目に、曹操は果断すばやく献帝を許昌(許都)に迎え取る。
この決断と実行の齎す「政治的 波及効果」は測り知れない。曹操は その恩恵を最大限に活用して、己の政治的地位を更なる高みへと誘ってゆく。
だが最終的には 此の 献帝奉戴が足枷・自縛となり、自身が帝位に就く事は為し得無かった、と謂える。理知的な知識人だったが故の〔曹操の限界点〕と、その苦心惨憺が最晩年に顕わと成る。(是れ等の問題考察・検証等は別節にて)
      曹操、屯田を始める。
これも曹操が始めた人類史上的快挙の1つである。5年前に入手した黄巾百万の浮遊農民を、厄介な消費・消耗者から頼もしい生産者・経済基盤の担い手へと変貌させ、「兵戸制」と連動した独特の〔勝利の方程式〕を完成させていく。のち他国も模倣・導入する。曹操による「屯田制」の成功は、古来より城壁の中に暮して来た農民の形態が、城外に農家が散在する「田園風景」へと変貌する魁とも成ったのであり、ムラが「邑」から「村」へと移行する歴史的な意義すら在る。
呂布に破れた劉備が曹操の元に身を寄せる。曹操は劉備に豫州牧の号を与える

孫策が王朗を討って「会稽太守」を名乗り、事実上の国が出現する。

かくて「軍事」=青州兵 「政治」=献帝奉戴 「経済」=屯田制の〔三位一体〕
いわゆる〔覇王3要素〕を整え終り、いよいよ天下統一の覇業に向う曹操。然しその前途には未だ未だ多くのライバルが立ちはだかって居た。中でも最大の勢力を誇る大本命の袁紹は、ほぼ黄河以北(河北)を平定。残るは易京に立て籠もる公孫讃だけだったが、其れを片付けるのも時間の問題と成りつつ在った。いずれ河北の統一が果された暁には、いよいよ今度は黄河を南に押し渡り、曹操に向って怒濤の鉾先で襲い掛かって来る!! その危機を自覚する曹操は、与えられたタイムリミットの間に是が非でも腹背の対抗勢力を討ち果たして措かねばならなかった。そして更には、その大敵・袁紹を直接破るしか、曹操には生き残る道は無いのだった。・・・それら後半生については次に節で追う事としよう。

因みに、この建安年間は、名目上は後漢・献帝の在位を示すものだが、事実上・実質上は曹操の覇業元年(196年)から曹操の没年(220年)迄を表わす、曹操の年間なのである。

即ち、


建安曹操の年号なのである!! 〔第257節〕信長への遺産・曹操伝2(天下統一・野望の日々)→へ