【第255節】
「おお、おお〜、よく来たなア〜!!」
ニコニコと、両腕を一杯に広げて迎え入れて呉れる
覇王
・
曹操
。
「お前が来るのを ズ〜ッと待って 居ったぞ!」
オ
ー
ラの中にも、その如才ない人柄は相変わらずだった。
「お久し振りで御座います!!」 こちらも、堪らなく嬉しい。だが”やつれ”
観は否めない。すると勘の鋭い曹操は、それを察して言った。
「な〜に、未だ 暫くは大丈夫じゃろう。お前達と最後の別れを惜しむ時間位は
残って居るじゃろうて!」
曹操孟徳
は、今から1ヶ月後の
西暦220年の1月23日に
66歳で
崩御
する。この〔第255節〕はその最後の1ヶ月間の物語。稀代の英雄の死に様に密着したリポートを、1787年後の本日 : 西暦2007年の1月23日に、曹操の命日に因んで慎んで上梓する。
( 三国統一志 上に UPする )
「まあ、お前とワシの間柄。堅苦しい挨拶は抜きじゃ!」
これは、筆者および読者諸氏に対する 曹操の気持ち・本音である。
「処で早速じゃが、ひとつ、君の忌憚無い考えを 聴かせては 呉れまいか。」
「と、申されますと、矢張り・・・??」
「うん、そうなのじゃ。ワシの生涯最大の失敗・後悔は、矢張り・・・・
赤壁の大敗北じゃ!! あの時のワシは その心算は無かったが、矢張り驕って
居ったのじゃろうか??」
ーー
我が人生に悔い無し!
・・そう言い置いて此の世を去る事が出来る者は極めて少ない。況して 数多の君主が 現われては消えて逝った三国志世界に於いては尚更であった。そんな中、魏・呉・蜀の 君主に限って観た場合、3人の君主の内で1番
まともな死に際
を見せるのは、魏の
曹操
である。まあ、とても《悔い無し!》とは謂い難く
只単に何事も無く極く普通、当り前に66歳の天寿を全うしたと云うに過ぎ無い
のだが、是れが存外に難しい。蜀の
劉備
は ドタバタと見苦しい真似をした挙句に、没後に 大きな不安を自覚しつつ 憔悴し切って 齢63で曹操の3年後に「悶死」する。半世紀以上にも亘って呉に君臨し続けた
孫権
は、70歳と長生きし過ぎたが為に晩節を汚し、亡国の要因を撒き散らしながら
、自壊の鬼道に陥って逝く。他の者達・・・・此れ迄に
『本書・三国統一志』に続々と登場して来た【三国志の英雄達】をザッと想起してみても「董卓」「公孫讃」「陶謙」「呂布」 然り、「袁術」「袁紹」「劉表」 然り、「孫堅」「孫策」また然り、等々・・・「ただ普通に死ぬ事」が 如何に難しい事で在ったか!に気が付くのである。ほぼ 全員が及ばない。そんな中に在って、唯一、穏やかな気持で 死を迎える事が 許されたのは、後世では悪評も高き
大姦雄
・・・
魏王
曹操孟徳
その人なので在った。
念の為、その最期の1年を
『
正史・武帝紀(曹操伝)
』
に観て措く。
24年
(219年)
春
正月
曹仁は宛を落とし入れ、侯音を斬った。
夏侯淵が劉備と陽平で戦闘し、劉備に殺された。
3月
、 王は長安から斜谷を抜け、軍は要地を遮断して漢中に臨み、かくて
陽平に到達した。劉備は要害を楯に抵抗した。
夏
5月
軍を引き上げて長安に帰還した。
秋
7月
夫人の
卞
べん
氏を王后に取り立てた。
于禁を派遣し、曹仁を助けて、関羽を攻撃させた。
8月
、 漢水が氾濫し、于禁の軍陣へ流れ込み、軍陣は水没した。
関羽は于禁を捕え、更に曹仁を包囲した。徐晃を救援に赴かせた。
(武帝紀には無いが、秋に楊脩を粛清
)
9月
、相国の鐘遙が西曹・魏風の反逆に連座して免職となった。
冬
10月
、軍は洛陽に帰還した。孫権が使者を派遣して上奏文を奉り、
関羽を討伐する事によって忠誠を示したい!と述べた。王は洛陽から
関羽征討に向ったが、到着する前に、徐晃が関羽を攻撃して撃ち破り
関羽は逃走し、曹仁の包囲は解けた。王は摩陂に駐留した。
25年
(220年)
春
正月
、洛陽に到着した。
孫権は関羽を攻撃して斬り、その首を送って寄越した。
時計を半月だけ前に戻し
(未だ生きて居る)関羽が漢水の南岸へと敗走した時点に戻る。だから、我々が先程、久し振りに出会った曹操は、この時点に於ける曹操なのデアル。
ーー
その
曹操
・・・12月には未だ「
摩陂
」に在った。丁度「洛陽」と「樊」の中間地点で在る。33年後の正月には此処で、井戸の中に青い龍が現われる。そこで2月には3代目・明帝が其れを見に出かけ年号が「青龍」と成る。だから地名も「
龍陂
」に変る。ちなみに青龍が井戸に現われた日付だが、何と
ピッタシ
1月23日
の(今日)曹操の命日なのである。明帝も中々の役者で結構やる?この明帝は曹操の孫(曹丕の子)に当る訳だが筆者は曹操の子(甄氏の子だと疑っている。そう謂えば、曹操の女(美人)好きも相当なレベルで在った。関羽の恋(杜氏)に横槍を入れて人妻を盗んでも居たし、互いに若かった・・・
尚 この年(233年)、三国志の著者・陳寿は生まれる。
『関羽敗走、樊の曹仁救出!』の報を受け取るや、直ちに『追撃の要なし!』と全軍に布令。自国魏だけに終戦を齎して久方ぶりの〔
無戦状態
〕を作り出した。
《 戦争の真っ只中に死んだのでは、何かと不都合じゃろう・・・》
先ず、その思いが曹操を支配した。【
曹操の死
】は、単に政権が 次世代に引き継がれるだけでは無く、更に重大な〔
特殊事情
〕を秘めているのだった。それは
曹操が死ぬ事によってのみ、初めて成就される、曹操最大の念願
なので在った。
ワシ自身が死なねば始まらんとは 何とも皮肉な事じゃナ
!
それを曹操は彼一流の軽口で、近臣には、こう表現した。
「戦争中じゃあ、ゆっくり死んで居るヒマも無いワイ。」
「曹丕には王太子、卞氏には王后も遣った事だし、さ〜て残る問題は、
このワシが丁度いい加減な頃合に死ぬ事だワサ。」
「おっと、その前に未だ、遣りたい事が有ったナ!」
関羽は 未だ存命中だが、最早その命運は 定まったも同然だった。曹操自身より長く生きて居る事は絶対に在り得無いだろう。
「どうやら今ワシが為すべき事は、永年に渡って尽して呉れて来た兵士等を労い又 親しく懐かしい者達との再会を果し、じっくりと 旧交を 味わい尽くす事の様じゃナ。それ位の贅沢は 許されるじゃろうて。」
三国志に登場する君主の中で、最も多くの人材を「破茶目茶な基準」で登用し、適材適所に使いこなした点では曹操に比肩し得る者は絶無である。だが然し、
実は曹操と雖も内心では
・・・
何と無く波長の合う者、肌合いが合う者、ウマの合う者に甲乙が在った。まあ最期は気心の知れた、気兼ね無しの者と会ってから 旅立ちたい。その際、何と謂っても互いに如才なくツウカアなのは親族だった。但し、直系の1親等では重過ぎる。年齢的にも序列的にも従弟同士位の関係が好ましい。そして曹操の場合は その筆頭が
【
夏侯惇
】で在った。また将軍連中で謂えば【
張遼
】が最も好きだった。だから曹操は此の援軍の機会を勿怪の幸いとして、遙か遠方に在った2人に対し、此処・摩陂で会える様に段取りを付け、呼び寄せたのだった。援軍は2の次、真意は「永久の別れを交し合う」 事だったに違い無い。がその前に、此の激戦の当事者と 凱旋者には 是非にも 会う必要が有った。その【
曹仁
】と【
徐晃
】も曹操の肌合いに合う者達では在った。
順序としては先ず、樊城を最後まで守り通した従弟の
曹仁
が最初に曹操の陣屋に招かれ、目通りを果す。その場合、当然ながら、全員が本陣のテント前で最後の
誰何
すいか
を受ける。任務を遂行するのは謂う迄も無く
【
許
ネ者
ちょ
】
で在った。相手に「官位・官職・姓名」をキッチリ全部名乗らせる。「固い事を言うなヨ。」
如何に親族や顔なじみの 将軍連中で在っても、この男にだけには 顔パスは通用しない。また逆に、余計な話しも此処では一切受け付けない。曹操でさえもが「ワシは魏王の曹操で御座います」と言ったとか言わぬとかが噂になる位のクソ真面目ぶりだった。
その虎痴が珍しく、「お勤め御苦労様で御座いました。」と曹仁に声を掛けた。
「ウン、あの折は スマンかったなあ〜。」
「いえ、此方こそ、ども、その、ども・・・」
「後で魏王から理由を聞かされて得心が行ったワイ。」
ーー
それは今から3年以上も前の事・・・征南将軍を拝命して久しい曹仁が、
魏王と成った曹操に会いに荊州から業に遣って来た時の事であった。
〔
許チョ伝
〕には『
性 謹慎にして法を奉じ、質 重くして、言 少なし。
』との人物表現に続いて、その出来事が描写されている。
※
(以下、許チョには「猪」の当て字を用いるので悪しからず)
曹仁が荊州から来朝して 謁見した時、太祖が未だ 出御しない間に、宮殿の外で許猪と出会った。曹仁は許猪を呼び入れ、座って語り合おうとしたが、許猪は、
「王には、もうお出ましになられましょう。」と言い、そのまま引き返して宮殿に入った。曹仁は心中、彼を恨んだ。或る人が許猪を咎めて言った。
「征南将軍は御一族の重臣ですぞ。へりくだって君に呼び掛けられたのに、君は何の理由で御誘いを断わったのですか?」
許猪は言った。「あの方は御親族の重臣では在りますが、外のお大名です。私は朝廷内の臣下の一員でして、多勢で談合すれば充分です。どうして部屋に入って個人的に付き合いましょうや!?」
太祖は聞いていよいよ彼を愛し、大切にして、中堅将軍に昇進させた。
』のであった。
曹操が 終生
”可愛いがった”
と謂う表現にピッタリなのが、この
【
虎痴
〔こち〕こと〔きょちょ〕
許
ネ者
】
で在る。
そして又、彼の終始一貫した質朴さは、利害・出世などの
人間の欲得を超越した地平で、覇者の栄光とも無関係な、
飽く迄も個人的に惹かれ合う純粋な佇まいで在り続けた。
恐らく曹操が乞食で在っても、彼には全く関心の無い事で、不変同様な実直さで護衛し続けたであろう。そんな世俗の
欲望には無頓着な人物が、曹操と云う究極の大俗物に、常に寄り添いながら支え続けて居た事実は・・・人間を猜疑する事を些かも躊躇わ無かった「姦雄・曹操」にその対極として同時に、此の世には人間への絶対の信頼が存在する!と云う事をも亦 確信させ、「英雄・曹操」の自信の根源と成っていたに違い無い。そして又【虎痴】が存在し続けた事は、我々を含めて世の人々に、曹操と云う「出世欲の権化」への嫌悪感を薄めさせ、寧ろ好感度を上げる為の要素・清浄剤的な「清め効果」の役割さえ果して居る事に気付かされる。
ドロドロした戦国乱世の中、常に空気の如く曹操に寄り添って居た「純粋性馬鹿理論」の実践者が、曹操の一生に彩を添えて来たので在る。と同時に、そんな無骨でバカ正直な人間が通用する事への爽快感や時代への羨ましさが、我々の裡に願いにも似た憧憬を生むのでもあろう。
許猪は字を仲康といい、
言焦
国
言焦
県の人である。身長8尺余、腰廻りは大きくて10囲あり、容貌は雄毅にして、武勇・力量は人並外れて居た。
漢の末期、若者と一族数千家を集め、一緒に城壁を固めて侵略を防いだ。当時、汝南の葛樊の賊1万余人が許猪の砦を攻撃した。許猪の軍勢は少なくて敵対できず、力の限り戦って疲労困憊した。兵器・矢弾も尽き果てたので、砦の中に居る男女に命じて湯呑みカマス程の大きさの石を集めて砦の四隅に置かせた。許猪が石を飛ばし投げつけると、当った者は皆うち砕かれ、賊は思い切って進んで来なかった。食糧が欠乏したので賊と和睦すると騙し牛を賊に与え食糧と交換した。賊は遣って来て牛を受け取ったが、牛は直ぐに逃げ帰って来た。そこで許猪は陣営の前まで出て、1本の手で牛の尾を逆に引き摺って100歩あるいた。賊どもは仰天し、そのまま牛を受け取る勇気も無く逃走した。この事から、ワイ・汝・陳・梁の辺りでは、伝え聞いて皆、彼を恐れ憚った。
太祖(曹操)がワイ・汝を攻め陥とすと、許猪は軍勢を連れて太祖に帰服した。
太祖は彼を見ると勇壮さに感心して言った。「こいつはワシのハンカイじゃ!」
即日都尉に任命し、宿直警護の役に就け、許猪に従って居た侠客達を全て虎士(近衛兵)とした。付き従って張繍を征討し、先陣となり、5桁に昇る首を斬り、校尉に昇進した。付き従って袁紹を官渡に討った。当時つねに随行していた兵士の徐他らが反乱を計画したが、許猪が常に左右に侍して居る事から、彼を憚って思いきって行動に踏み切れ無いで居た。許猪が休暇を取って外出する時を狙って徐他らは刀を懐中にして中へ入った。許猪は 宿舎まで来ると胸騒ぎがしたので直ぐさま引き返して侍衛した。徐他らは知らずに帷の中へ入り、許猪を見てびっくり愕然とした。徐他の顔色が変わったので、許猪は 其れと気が付き、即座に徐他らを打ち殺した。太祖は いよいよ彼を可愛いがり信用し、出入りには同行
させ、左右から離さなかった。
付き従って韓遂・馬超をシ童関に討伐した。太祖は黄河を北に渡ろうとしたが、渡る前に先に兵を渡し、許猪および虎士100余人だけと南岸に留まって背後を遮断した。馬超は歩兵・騎兵1万余人を引き連れ太祖の軍に攻め寄せ、雨の様に矢を降り注いだ。許猪は太祖に「賊の来襲が多く今、兵の渡河も既に終ったからには去るべきだ!」と言上した。そして太祖を船に乗せた。賊の攻勢は激しく、軍兵が争って渡ろうとし、船は重みで沈没しそうになった。許猪は船に攀じ登って来る者を斬り捨て、左手で馬の鞍をかかげ太祖を庇った。船頭が流れ矢に当って死ぬと、許猪は右手で船を漕いで溯らせ、やっとの事で渡る事が出来た。この日は許猪が居無ければ全く危なかった。
そののち太祖は 韓遂・馬超らと単身馬に乗って会見し 語り合った。側近の者は誰も御伴できず、ただ許猪だけを引き連れた。馬超は自己の力を恃んで、密かに太祖に突き掛かる心算で居たが、予ねてから許猪の武勇を聞いて居たので、御伴の騎馬武者が許猪かと疑った。そこで太祖に「公の虎侯と云う者が居るそうだが何処に居るかね?」と訊ねた。太祖は振り返って許猪を指すと、許猪は目を怒らせて彼を睨んだ。馬超は敢えて行動を起さず、それぞれ引き上げる事となった。数日後に会戦し、大いに馬超らを撃ち破ったが、許猪は自身 首級を挙げ、武衛中郎将に昇進した。武衛と謂う称号は、之から始まったのである。軍中では許猪の力が虎の様であって痴で在る事から、虎痴と号した。その為に馬超は虎侯と質問したのである。現在に至るまで天下の人は彼を讃え、みな彼の姓名だと思い込んで居る。許猪は人柄が慎み深く、法律を遵守し、質朴で重々しく、言葉少なく
〜〜(以下、曹仁との件)〜〜
太祖が崩御すると許猪は号泣してその余りに咽が破れて血を吐いた
。
その昔に許猪が率いて居た者で虎士と成った人達は征伐に付き従ったが、太祖は全員壮士だと考え、同時に将校に任命した。そののち功績を挙げて将軍と成り、列侯に取り立てた者が数十人、都尉・校尉と成った者が100余人おり、全てが剣術家で在った。
』
この許猪は2代文帝(曹丕)が帝位に就くと『
万歳亭侯に昇り、武衛将軍に昇進し、中軍の宿営に当る近衛兵を指揮し、側近として大そう親しまれた。
』
更に3代明帝(曹叡)の御世には、牟郷侯に昇進。領邑は700戸。逝去しては「壮侯」とオクリ名される。
その許猪への誤解を謝った
曹仁
だが・・・・さほど遠く無い荊州の曹仁でさえ、曹操に会うのは3年ぶりなのだった。如何に戦争の緊張が長期間に渡って全土に及んでいたかが、この1例からも判ろうと謂うものである。
『
曹仁は将兵を激励し必死の覚悟を示した為に、将兵は感動して誰も二心を持つ者は居無かった。徐晃が 救援に到着した頃、水もまた段々引き始めた。徐晃が外側から関羽を攻撃したので、曹仁は包囲網を突き破って出る事が出来、関羽は退却した。
』 →「正史・曹仁伝」は此処で 曹操時代の記述を終了。2代文帝時代の活躍へと飛ぶ。(但し3年後の223年56歳で没する)従って曹操との面会の記述も無い。まあ、粘ったとは謂え、助けられた方なのだから余り大きな顔(扱い)も出来かねる、と謂った処か。
それに対して「正史」は、曹仁を救出した
徐晃
については、曹操の高評価と態度とを丁寧に記述している。そしてその1節からは更に、曹操が労苦を共にしてきた全将兵達を見廻りながら、内心では密かに”最期の別れ”を惜しんだ様子が窺い知れるのである・・・。曹操は先ず、徐晃が戦場から返って来る前に各地全軍に対して「布告」の形で徐晃の功績を顕彰して見せた。
『
賊の包囲の塹壕・逆茂木は十重も在った。将軍は戦闘を仕掛け 全て勝利し、かくて賊の包囲陣を陥れ、多数の首を斬った。ワシが兵を率いた30余年の経験でも、また聞き知っている古代の用兵上手な者にも、長駆して敵の包囲陣に真っしぐらに突入した者は存在しない。そのうえ樊と襄陽が包囲された状況はキョと即墨よりもひどかった。将軍の功績は、孫武・司馬穣且を越えるものである
。』
やがて最大級の讃辞を贈られた徐晃が凱旋して来た。するや曹操は魏王みずから7里の先まで出迎えて見せるので在った。そして更に大宴会を催して労をねぎらった。正史がわざわざ「大宴会を催した」と記すからには、その生涯に於いて屡々大宴会を開いて来た曹操が、特段の思いを込めて、此の世に別れを告げるべく催した、それこそ最期の大宴会で在ったに相違無い。その席で曹操は杯を挙げて徐晃に酒を勧め、その上に労いの言葉をも掛けるのだった。
「樊と襄陽の安全を保ったのは、将軍の手柄じゃ!!」
更に『正史・徐晃伝』は徐晃本人を讃える為に、曹操が諸軍を閲兵した時、徐晃の部隊だけが整然と隊伍を崩さずに在った為に、曹操が「徐将軍には周亜夫の風ありと謂うべし!」と感歎した事を記している。・・・だが後世の我々としては寧ろ、「徐晃伝」の狙いとは異なった部分にこそ関心を抱かせられるのである。
この大宴会の時点では既に、遙か合肥(居巣)の夏侯惇・張遼の軍も合流し、西方諸軍を除いた、ほぼ魏の主要全軍が集結を果して居た事が知れる。そして更に『
そのとき諸軍は全て集結して居た。太祖は諸陣営を巡察した
』との記述から、
曹操が労苦を共にしてきた全将兵達を見廻りながら、内心では密かに”最期の別れ”を惜しんだ様子が窺い知れる
のである!!
張遼
の「伝」にも其の様子を髣髴とさせる1節が在る。
『
関羽が曹仁を樊に包囲した時、ちょうど孫権が藩国の礼を取ったので、張遼と諸軍を全て召還して曹仁の救出に向わせた。張遼が未だ到着しない裡に、徐晃が 既に 関羽を破り、曹仁の包囲は 解けていた。
張遼は太祖と摩陂で会合した。張遼の軍が到着すると、太祖はテグルマに乗ってその軍を労った。
帰って陳郡(豫州)に駐屯した。
』とある。このテグルマの1語からも、曹操が万感の思いを込めて、諸軍の間を無蓋車(幌無しのオ
ー
プンカ
ー
)に乗って、観閲・閲兵の儀を行なった様が想像されるのである。
曹操が人生の最期に最も会いたかったであろう人物
夏侯惇
については
「正史の伝」も特別な書き方をして、その絆の強さ・深さを伝えている。
『
24年(219年)
太祖は摩陂に陣を張った際、夏侯惇を召し寄せて常に同じ車に乗って出掛け、特別に親愛と尊重の意を示し、寝室の中まで出入りさせた。諸将のうち、彼に比肩する者は無かった。前将軍に任命され
、諸軍を指揮して寿春に帰還し召陵に軍営を移動させた
。』
・・・この
夏侯惇
は、曹操の半年後に、後を追う様に没する
。
「このワシが死んだのがキッカケで新たな魏王朝が出現すると想うと、何だかチョット死ぬのが楽しみじゃ・・・。
おい惇、お前は其れをシッカリ見届けてから俺の所へ来るんだぞ。まあ、そう長い間まつ必要は無さそうだが。」
「ふん、他人事だと思って、縁起でも無えこと平気で言いやがって。俺りゃ未だ未だ くたばらんぞ。のんびり老後を楽しんで長生きするんじゃイ!」
旗挙げ以前からの50年来の付き合いだ。互いが気楽な言葉(タメぐち)で本音を曝け出し合える。
「おっと、そうだった。待て待て、順序としては先ず、俺を魏の家臣にして措いて呉れなきゃ困る。何時まで放ったらかしにして置く心算だ!?」
実は此の夏侯惇、
厳密には
今でも【魏】の家臣では無かった。伏波将軍の官号も 以前に「漢」王室から授かったもので、それが現在も続いた儘の状態で在ったのだ。魏公国→魏王国の誕生に伴い、家臣達はみな魏から官位を授かり、形式の上からも曹操の家臣と成って居た。だが曹操は夏侯惇にだけは官位を与え無かった。詰り形式上では、曹操も夏侯惇も同列で、同じ漢の家臣の儘なのだった。その世間的な意味合は、曹操の《帝位拒否宣言》・《覇王どまり宣言》の〔傍証〕としての説得効果を狙ったもので在った。
副次的には曹操個人の、夏侯惇に対する特別な配慮=臣下として扱わない〔
不臣の礼
〕を示す結果とも成っていた。だが今や其んな世間向けの配慮なぞ全く不要な段階に在る。それ処か今や時代遅れも甚だしい。立場が無いし、曹丕が困る。だから夏侯惇の言う事の方が正しい。
「そう謂やあ確かに、ワシが死んだ途端に惇は”宙ぶらりん”だワナ。」
「見届けるにも、格好が付かんでは困るじゃ無えかよ!」
「解った解った。では惇よ。今から御前は
魏の前将軍
じゃ。」
そこは曹操、ちゃんと元勲に最適な官位は空けて措いたのだった。
「何だか有り難味の薄い遣り取りだが、ま、仕様が無いか。」
ブツクサ言う間も有らばこそ、曹操の関心は既に次の事に向いて居た。
「このワシは一体どの様に書かれるのかナア〜?チト愉しみじゃ。」
三国時代の人間は全員
(庶民は人間では無い)
が司馬遷の『史記』を熟読して居り、己の生前の言動が、やがて記録に残される事を常に自覚する人生を歩んで居た。そして其の編纂を命ずるのが時の権力者皇帝で有る事も識り抜いて居た。だからより詳しく書かれる為には、何と謂っても己の一族が新王朝を樹立するに限る。そして其の可能性が最も高いのが此の曹操孟徳なので在った。
「おやおや次から次へと、よくもまあ”死ぬ楽しみ”をめっけて来るこった。
へん、どうせ善くは書かれりゃし無えサ。ま、悪玉の大親分ってトコが
精々だろサ。散々人を殺して来たんだから、俺達にゃあ安穏なんて無理ヨ!」
「まあ確かに、善い事ばかりして来た訳では無いカナ??」
「お前、今
だ
★
生まれて来る時、人で無いとしたら、何が好い??」
「ふ〜ん、惇は可笑しなこと心配してるんだナア〜!丸で虎痴なみだな。」
「心配じゃ無えよ。転ばぬ先の杖ヨ。俺なら差し詰め、米俵だがな!
喰う心配が無くて良い。」
「
ーー
俺は・・・風・・・が 好いかナア〜。」
「風かあ〜。風も良いなあ。腹が空かずに済む。」
「だが矢張り詰らん。もう1度、 人間でも 遣るか・・・」
「俺も又お前と組んで、冒険の旅にでも出るか?」
「ワシが死ぬ。お前も死ぬ。それでも此の世に人は絶えず、続いてゆく・・・」
「ああ、きっと其れが”永遠”って奴じゃあ無えんか?」
「所詮、1個の人間の生死など、問題じゃあ無い・・・って事か・・・」
司馬遷の辿り着いた結論は・・・
此の世には絶対的な善とか絶対悪は存在せず、在るのはただ絶望的な人間の営みだけである!!と云う事だった。だから歴史家の使命は、そうした人間の(時に於ける善も悪も含めた)全ての言動を記録して後世に伝え、善悪の判断材料として提供する事であった
・・・その意味する事の重大さを最も深く認識し、最も正確に把握して居たのは、三国時代では、この曹操孟徳が筆頭で在ったと謂えよう。
「俺にゃあヨ〜解らん。土台、俺など10人束に成ったって、お主の半分の
才能も無いんだから、理解不能だわな。」
「死ぬのも、好いもん かな・・・と思ってサ!」
「そう謂やあ、孟徳は昔から哲学詩人だったもんナア〜〜!!」
曹操が現代に遺した詩賦の多くには、実存主義的な哲学命題(存在と時間:存在と無:永遠:無神的人間論etc.etc...)が明確に掲げられ、歌い込まれている。
神亀は長寿と
雖
いえど
も 猶お
竟
おわ
る時 有り
騰蛇
とうだ
は霧に乗るも
終
つい
に
土灰
どかい
と為る
老騎は
木歴
うまや
に伏すも
志
こころざし
は 千里に在り
烈士は暮年となるも 壮心は
已
や
まず
盈縮
えいしゅしゅく
の期は
但
た
だ 天に在るのみならず
養台
ようい
の福は 永年を得べし
幸甚
さちはなは
だ至れる哉 歌いて以て 志を詠ぜん
万年の亀や龍ですら何時かは死ぬ。その一方、小さな人間で在っても、高邁な理想を掲げ続けて生きれば、その意志は子孫に受け継がれ、永遠の命を得る事が出来るのだ!!人間の価値は如何に生きるかの、其の生き様の中にこそ在るのだ。
老驥伏櫪
老いたる
驥
うま
は
櫪
うまや
に伏すも
志在千里
志
こころざし
こそ千里に在らん
志こそ千里に在らん
!!
烈士暮年
烈
たけ
き
士
おのこ
は
暮
おい
にしも
壮心不已
壮
たけ
き心の
已
や
む事はなし
壮き心の 已む事は無し
!!
「見た目では、俺とお主は同じ時間を生きて来たが、多分お主は俺の10倍いや100倍に相当する濃密な人生を送って来て居る。それは俺にも判る。」
今日は夏侯惇も些か形而上の問題に付き合う心算だった。
「あの世とやらは、本当に在るのかな〜・・・!?」
「無い!だろう・・・が、在っても構わん。」
「ん?何じゃ?その答えは??」
「在る!かも知れぬ・・・が、無くても構わん。」
「そうだな。どうでも構わん、のが一番の心構えかもナ・・・」
「おっ、雪が舞い始めたぞ。」
「面白かったか!?」
「ああ、面白い一生だった!!之だけは自信が有る。」
「それは好かった・・・。」
皆それぞれに持ち場に帰って行った。何の為?誰の 為に??
宴の後・・・急に寂しくなった風に感ずるのは仕方無い処であろう。
「さて、と。では、ワシも行こうか。」
ーー
何処へ??
ーー
何の為に??
ーー
何をしに??
曹操は来た道を引き返す格好で、献帝・劉協の住む「許昌」を通らずに、再び「洛陽」へと向った。今は未だ基本的には、劉蜀との戦時下なのである。
『
25年(220年)、春正月、洛陽に到着した。
』
曹操と曹丕、その側近達は、此の洛陽を、程なく開闢する魏王朝の新しい首都に復帰させるべく着々と下準備を進めていた。ハード面の象徴である宮殿の造営、その基本配置や設計の大元は曹操の頭脳から生まれたもので在る。いずれ其れは500年の時空を経て、極東の島国で平城京・平安京へと伝わり、200年後にも文化遺産として人々の目に触れる事だろう。その宮殿の姿は、外観上では殆んど完成していた。無論、宗廟の移設などなど未だ未完成な部分は在るが、取り合えず《朝廷》を遷す事は可能な状態には成っていた。住むべき人間が居無いだけで、王宮や役所の建物だけは整ってガランとした、ちょっと薄気味の悪い虚ろな感じ。謂わばニュ
ー
・ゴ
ー
ストタウンっぽい静寂に包まれた洛陽宮・・・・
残るはソフト面だが・・・曹操が心配するのは外国との戦争では無く、寧ろ身内に起こる権力闘争の可能性で有った。と謂うよりも、
【曹丕】による〔弟達の抹殺・粛清への懸念〕で在った。父親としては 慙愧に堪えぬ現実だったが、3兄弟が仲睦まじく協力し合う事は絶対に在り得ぬ構図を作って来てしまって居た。今にして思えば、最初から毅然として「嫡子相続」を公表して置くべきだったが、天童【曹沖】の出現なども在り、実際には却って兄弟相克を生み出してしまった・・・3ヶ月前に「楊脩を粛清」するなど、未然に防げる芽は全て摘み取って措いた心算だが、果して無事に収まるであろうか??最も危ういのは【曹植】の命だが、唯一の歯止め・抑止力は彼等の実母たる卞夫人の存在だった。曹操は彼女に敢えて何も注文して居無かったが、夫人は聡明で在る。彼女が長生きする事が3兄弟の命を保たせるであろう。
(が、実際には曹操の予想外の展開が待ち受けて居る。)まあ、死後の事を是れ以上おもい悩んでも始まらぬ・・・・
とは謂え、〔葬儀〕の規模や在り方についての指示までは、己の責務であろう。そこで曹操は記筆を呼んで簡潔な『遺令』を書き取らせた。
『天下尚お未まだ安定せず。未まだ古に遵うを得ず。葬畢らば皆服を徐け。其の将兵屯戊の者は皆屯部を離るるを得ず。有司各々乃の職に率え。×むるに時服を以てし金玉珍宝を蔵むること無かれ。』
『
天下が未だに安定していない以上、古式にならう訳にはゆかぬ。埋葬が終ったら皆、
服喪を去れ。兵を統率し守備の任に就いて居る者は、部署を離れてはならぬ。官吏は夫れ夫れ自己の職に努めよ。遺体を包むのには平服を用い、金銀珍宝を副葬してはならぬ。
』
曹操の葬儀が営まれるのは「業ギョウ」と決まっている。何処で曹操が死のうと、遺体=葬との別れの儀式(葬式)は居城で行なわれるのである。因みに此の当時の中国には未だ〔仏式の葬儀〕は広まっては居無いから葬式の様子も現代とは異なっていたかも知れぬ。蓋し民俗学的には殆んど同じなのかも知れぬ。
曹操の7不思議として、「何故に【仏教】に何の興味も示さなかったのか??」と云う1点が挙げられる。時代の最先端を走って来た曹操なのだから当然、最新の仏教(浮図の教え)にも関心を示す筈ではないか!?とするものだ。・・・が筆者は、曹操は100年後で在っても変らぬ!と謂おう。何故なら、その答えは曹操自身が彼の詩賦の中で謳う如く、信仰や宗教を必要としない理智の人間で在ったからである。彼は他人の教義を必要とせぬ、知的な自己を確立して居た人間だったのだ。恰も其れは1000年以上も時代を魁る近代人の如くでさえ在る。
『
孫権は関羽を攻撃して斬り、その首を送って寄越した。
』
ーー
関羽の首が届けられた。曹操は〔虚座〕こそ設け無かったものの、内心では常に関羽を招きたいとの思いを抱いた居た節が有る。 此の世で 関羽を1番高く評価して来たのは、主君の劉備よりも寧ろ曹操の方で在った、とさえ謂える。(杜氏の横取り事件は正史では無く、潤色モノの「魏氏春秋」である。)
「長い間、そなたの帰順を待って居たが、最後は此の様な形でワシの元に
遣って来るとはナア〜・・・。」
曹操は此処で初めて関羽の両眼を閉じさせた。
「関羽も此れ迄の人生・生涯であったか。」 現実に其の生首が届いてみると、何か今迄の思いが急に空々しいものの様に感じられた。
《いっそ、劉備の元へ送り返して遣ろうか?》とも考えたが、首だけでは却って惨かろうと思い、自分の手で葬儀を挙げてやる事にした。霊魂など全然信じて居無い曹操だったが、1度は縁あって仮の主従関係にも在った相手だ。
「彼の格式に見合ったキチンとした葬儀が出来る様に支度して遣って呉れ。」
宦官の話でも記した如く、身体の欠損は、その部位が何処であれ、
冥土
めいど
の王・
閏王
ジュンワン
は、欠損者を許さず、来世は人間にして呉れない と中国の人々は考えて居たのである。だから胴体部分を造型して、首と一緒の柩に納めてやるのだ。
「何か可笑しな塩梅じゃな。」
もう直ぐ葬式を出される筈の自分が、今こうして他人の葬式を差配して居る。
「ま、此れが夫れ夫れの人生なのだろう・・・。」
「
ーー
さてと・・・」 何をしようか??
「
ーー
ん? 何も無い??」 急に時間が余った。思えば、そんな状況は
嘗て無かった。何時も何かに没頭して、フル回転で生きて居た。
《贅沢な此の時間を、一体なにに使ってやろうか・・・!?》
不思議なもので、こう成ると、何か新しい事を始めるのが 億劫に感じられた。それに反比例して、思い出に浸る楽しみがドッと己を押し包み始めた。
《此れが老いと云うモノか??でもまあ、楽しいから好いじゃないか!!》
魏王・曹操の居城は「業ギョウ」で在り、此処「洛陽」は飽く迄も遠征先の事とて、周囲には妻子親族は誰1人も居無かった。寂しい最期だった、とも謂えるが又静かな終焉だったとも謂えようか。否、曹操本人には最も相応しい土地・・・
野心に燃えて居たが気楽なチョンガ
ー
でも在り多感で放埓。勉学と放蕩三昧の日々、そして巡って来た西園の八校尉・・・そんな青春時代を謳歌した思い出の地。それが華の都・洛陽だった。
《一生を思い出すには一生掛かる勘定だが、こうして反芻してみると、結構
記憶は飛んでしまって居るものなんだナア〜》
もはや改めて誰に会いたいとも思わず、何を遣り残した焦りも抱かぬ、
穏やかな静寂・・・・
「まあ、ワシの仕事・役割は此処までじゃ。よ〜やった方じゃろうて。」
曹操は、思い出探しの合間に、自分に語り掛けた。
「あとは子や孫らが引き継ぎ、受け継ぎして・・・そして
・・・永遠へ・・・と続く・・・
眠る様に死んで居た・・・
【第256節】曹操伝(その通史1):艱難辛苦を乗り越えて→へ