【第254節】
「其れを言っちゃあ〜、お終いヨオ!」(寅) を、平気で言ってしまう。
いや、敢えて傲然と言い切って、相手を凹ませる。だから中には《 2度と顔も見たく無い!!》 と逃げ廻る被害者や、
《疎ましい奴メ!》 と 煙たがる者も 出て来る。
ドキリ!! ワっ、出た!! ど、どうしよう・・・・オロオロ
場所は水路での船同士の擦れ違い。事情を知らぬ先導の者が、「コラお前、我が将軍様の船を避けよ!」と 遣らかして しまった。
「あ、ああ〜ッ、何て事を言って呉れるのだ。」だが、もう後の祭り。するや敵は、世界中に響き渡る様な チョウ〜馬鹿デッカイ声を張り上げる。
キサマ、預かった城を2つも失いながら、
将軍なぞと名乗って善いと思ってるのかァ〜!
「窓の戸を閉めて、返答すなよ。直ちに此方が避けるのじゃ!」
そもそも忠節と信義を守れぬ者が、一体、
何に拠って主君に仕えようと謂うのかア〜!
1秒でも早くテキを遣り過ごさねば、この後も一体どの位の罵声を 浴びせ 続けられるか、判ったものでは無い。
《兎に角、頬っ被りのシカト作戦・・・触らぬ神に祟り無し・・・じゃ》
ドキリ!!ワっ、また出た!! く わばら クワバラ・・・・
「直ぐ門を閉じて、知らん振りせよ!一切、関わるでないぞ!」
するや又しても、例の割れ鐘の如き怒鳴り声が聞こえて来る。
おらァ、何をこそこそ逃げ隠れてんだヨ〜!
・・・・《アチャ〜、めっかちゃった》・・・・閉めるべき時に城門を開けて 降伏して置きながら、開けて措くべき時には、こうして門を閉ざしてしまう。キサマ 物事の正しい遣り方が解って居るのかア〜!!
グッスン・・・何も 其処まで 言わなくても いいのに・・・・イジイジ
古ノ 狂直 ニシテ、固ヨリ 末世ニ 免レ難シ。
性 疎直ニシテ、数 酒ノ失 有り。
だが底意地が悪いのでは無い。世の灯火・四海の澪みおつくしたる
名士・君子として、己の持論・人生観を徹底的に主張し貫き通して見せて居るだけなので在る。
美宝ヲ 質ト 為セバ、 彫摩スレバ 光ヲ 益ス。
然し、だから余計に始末が悪い??何故なら・・・此の世の中、往々にして正論だけでは通用しない場合がママ在るものなのだ。
「清濁あわせ呑む」、とか「酸いも甘いも」とか色々あるが、それにしても、余りと謂えば余りにも
真っ向な”唐竹割り”である。大上段からの素面1本やりで、胴とか小手なぞは全く眼中に無い。その代り烈迫の気合が込められているから、喰らった相手は手ひどい深手を負う。
『或る時、××が船に乗って出掛ける途中で、麋芳の一行と出会った。
麋芳の船には多くの人が乗って居り、××の方に水路を開けさせ様として先導している者が「将軍の船を避けよ!」と言った。××は大声で言った。
「忠と信とが守れないのに何に拠って主君に仕えると謂うのか!!預かった城を2つも失いながら、将軍だなどと名乗って善いものであろうか!!」
麋芳は船の戸を閉ざして返答せず、急いで××の船を避けさせた。
のちに又××が車に乗って出掛ける途中、麋芳の軍営の門を通りかかったが役人が門を閉ざしてしまって車は通る事が出来無かった。××はまた腹を立てて言った。
「閉めるべき時に開けて降伏したりしながら、開けて置くべき時に門を閉ざしたりする。物事の正しい遣り方が分かって居るのか!」
麋芳は之を聴いて、愧ずかしそうな顔をした。』 ーー(正史・××伝)ーー
戦い済んで 日が暮れて、赤い夕陽の丘の上・・・そんな 何処か 寂寞としながらも、内心では ホッとした安堵感が中国全土に流れ
満ち始めていた。・・・・思えば、208年の赤壁の戦い以来 今日まで、実に11年の長きに渡って、息つく間も無く
争われて来た魏・呉・蜀
3者に拠る 〔覇権の行方〕が、今 ようやく 此処に”一応の収まり”を見せようとしていたのである。就中なかんづく「豊饒の地・兵家必争の地!」と謂われる「荊州」を巡る、虚々実々の駆け引きと 三つ巴の軍争は、波乱万丈の史劇を誇る 三国志の中でも
圧巻の見せ場であった。
ーー而して其の結末は、
《収まるべき物が、収まるべき所に収まった!》と
謂えようか。そもそも中国大陸の地形上から謂ってもまた地勢学上から観ても、土台、「益州」と「荊州」が 同じ統治行政区域!とされる事自体が極めて不自然に過ぎる。【蜀】は本来、西方の大山岳地帯に囲まれて中国大平原からは独立した別個の領土・空域なので在る。黄河と長江が流れる悠久の大平野から見ればそして曹操の言葉を借りて謂うならば、四川盆地と漢中盆地は、正に「天空の牢獄!」なので在り、交通路さえもが儘ならぬ、中国本土からは 完全に区別されるべき”別世界”なので在る。
果して(案の定)、途中経過は色々有ったものの 結局、劉備の益州
政権は矢張、荊州を保つ事は出来無かった!のであり、いかな大英雄・関羽と雖も、古来永劫の天則を覆す事は、終に為し得無かった訳である。そして荊州の殆んどは(陸地続きの?)呉・孫権の掌中に納まったのである。だが此の結末は今度は又、更なる争覇の可能性を 孕んだ とも謂える。今迄は【魏】vs【蜀】の 陰に隠れて、余り 目立た無かった 【魏】vs【呉】の構図が〔漢水〜長江ライン〕を挟んだ1対1のガチンコ勝負の形で、モロに白日の下に曝し出されるのであり、早晩この儘で済む訳も無い事が、否応無く 天下に再認識されるのであった。
そう成って来ると、呉にとっては今、手元に置いて在る、客将の存在は 尚 一層の重みと意味を持つ事となる。謂わずも哉・・・・
魏の5星将の1人・「敵の敵の捕虜」の帰還問題が、重要な外交カードの1枚に成るのだ。問題は、其の見返り条件と 時期の選定だが、未だ 戦いが済んだばかりだから 当分は波風の立つ事も有るまい。だが、何れ時が経って落ち着けば、【魏】は必ず【呉】・孫権に〔藩国〕の証明として何かを要求して来よう。
恐らくは 此方が到底飲めぬ様な、無理難題を吹っ掛けて寄越し開戦の口実を作る手に出て来るであろう。下手をすれば長男を人質に寄越せ!と要求して来るかも知れぬ。いや必ずして来よう。その際は、言を左右有耶無耶にして、開戦準備の時間稼ぎをするしか手は無いが、唯それだけでは済まぬ。その時の切り札として「客将」を使う。この男なら、魏は絶対に無視は出来無い・・・・然し未だ未だ其の時節では無い。今は精々鄭重に”賓客”として遇し、帰国したら 彼の口から 友好ぶりを アピールして貰うとでもして置こうか・・・・。
そう思う孫権、此の処 至って機嫌が好い。悪かろう筈も無い。
「さあ我が賓客どの、轡を並べて御一緒いたしましょうぞ!」
人に情けを掛けて見せるのは、実に気持が好い。 まして 相手が超1級の他国の大物であるのだから余計に晴れ晴れとした気分に成る。君主として己の器の大きさを世に誇示するには打って付けの相手だった。
関羽に降って捕虜と成り、江陵城中に繋がれて居たものを解放し、その上孫権の方から出向いて行って会見をして見せた相手・于禁で在る。 「畏れ多い事で御座いまする・・・・。」 副将の广龍悳が降伏を拒絶!死を選んだのに対し、主将だった自分は全軍を率いて降伏し、獄に繋がれた身で在った。然し今でも于禁には、その行動が正しかったと云う確信が在る。・・・・人馬5万が一挙に捕虜と成る事に拠って、関羽軍の兵糧を喰い潰し、兵站事情を
更に困窮させ、結局それが魏軍に勝利を齎した!!また司令官の自分が死なぬ事に拠って5万が直ちに関羽軍に取り込まれる事を阻止し、勝利の遠因を作った!!ーーその事を超傑・曹操ならば理解し、認めて呉れる筈だ・・・だが、だが然し、決してその選択が、人に誇れる様なモノでは無い事も亦、この于禁自身が最も敏感に感じて居た。だから常に慎み深くして我が身を引いた。
「貴方は今や、魏呉両国を繋ぐ希望の架け橋なのですぞ!遠慮なぞ不要・無用の事。さあ、共に参りましょうぞ!!」
主君と轡を並べられる者は味方陣営に於いてすら常には誰1人居らず、特に声を掛けられた場合だけに限られる、超特別な優遇措置なのだった。孫権は、その特別厚遇・好意を、今や建前では呉の主筋に当たる于禁に与えようと謂うのであった。その事に拠って〔呉は魏の藩国〕たるの証拠を示し、曹操の心証を好くし、又個人的にも于禁の憂さを晴らして遣りたい。
《ーーどうしたものか・・・??》 と思案する于禁。
《折角の孫権様の好意を、無下に断るのも失礼か??》
と、其処へ鞭を手にした古の狂直が出現した!!
《あっ!こんな時に、またマズイ奴が現われもんじゃ!》 と孫権。
するや案の定、男は開口1番。大声で于禁を怒鳴り付けた。
「やい、お前!! 降伏者の御前が、何で
我が君と馬首を並べたりしようとするのか!
恥を知れ〜ィ!!」
そして鞭を振り上げるや、本当に于禁を打ち据えんと迫った。
あッ、馬、馬鹿!何をする!?や、止めんか!
驚いたのは孫権。折角の名場面に水をぶっ掛ける行為だ。
下がれ!出過ぎた真似をするで無い!消えろ!
だが、そんな主君の言葉も聞かばこそ、尚も罵声を浴びせる。
「戦いに敗れて数万の軍勢を失いながら、
捕虜に 其の身を落とし、 節を守って 死ぬ事も
出来ぬ!」 確かに、其う云う見方の方が 正しい。
「おのれ臣下で在りながら、忠誠を貫く事も出来無かった。 其れを 恥晒し と申のじゃ!!世の見せしめじゃ〜、我が鞭を受けよ!!」
于禁は微動だにせず、為すが儘に 相手の鞭を受ける心算の
様子で在る。もしも剥き出しの額にでも当れば、流血の事態にも発展し兼ねない。
「ええ〜い誰ぞ、きゃつを引き摺り出せ〜!!」
君主には君主としての立場と云うものが有るのだ。君主としては重んずる事に優先順位・建前・思惑と云う事が要求されるのだ。それを、臣下の勝手な思い込み・個人の思い入れに因って平気で台無しにしてしまう・・・・
「ったく手に負えぬ変わり者メ!あ奴なぞ気にしないで戴きたい」
相手が誰で在れ、たとえ主君で在ったとしてさえも、その心模様なぞ一切斟酌せずに、ズケズケと物を言い切って退ける。
「ホトホト困った奴で御座る。私も常々手を焼いて居りまする。」
それは本音で有った。つい最近も主君に対する無礼言動の廉で【首都・所払い】 を 喰らわせて在ったのだが、総司令官・呂蒙の
建っての願いで呼び戻され、荊州くんだり迄くっ付いて来て居た。それが実態・実感なのだった。
平謝りする孫権に対し、寧ろ好ましく、清々しい表情で彼の後姿を見送るのは、当の于禁本人で在った。
「いえ私は、ああした御仁が好きで御座いまする・・・・」
『魏の武将の于禁は関羽に捕えられ、城中に繋がれて居た。孫権は、江陵まで遣って来ると、于禁の縄目を解かせ、自分の方から会見を申し入れた。 のちに孫権が外出した時の事、于禁を招いて馬を並べて歩ませようとしたが、虞翻は于禁を怒鳴り付けて、
「降伏者の御前が、何で我が君と馬を並べたりするのか!」 と言い、鞭を振り上げて于禁を打とうとした。孫権は大声で其れを止めさせた。のちに又
孫権が楼船に群臣達を集めて酒宴を催した時の事、于禁が音楽を聞いて涙を流すと、虞翻が又もや言った。
「お前は、そんな 心にも無い事をして
赦して貰おうとするのか!」
孫権は 仏頂面に成ると 不機嫌そうで在った。』
ー(正史・虞翻伝)ー
斯様に、古の狂直たる虞翻の気概を示す記述を辿る事に因って其処には自ずから〔この于禁〕と〔劈頭の麋芳〕の呉国での待遇 ・その暮し振りが垣間見られるのである・・・・帰国が前提の于禁は兎も角、呉国に永住する事となった麋芳の方は、将軍号を授かり虞翻よりも多くの従者を与えられて居た事が判る。尚、この将軍号は全くの名誉職・捨て扶持では無く、3年後には【賀斉】の指揮下で実戦し、任務を遂行した事が「正史」に在る。
(皮肉にも魏に”寝返った”晋宗の生け捕り作戦)
まあ、虞翻独りだけが 終始一貫して キツい態度で接したものの孫権を先頭に呉の殆んどの者達は、概ね好意的な態度で、之等「新規参入者」を迎え容れて居る様子である。 まあ、元を正せば皆が最初は”部外者”で在ったのだから、無碍にも出来ぬ背景が共有されて居た訳だ。・・・・殊に、自国版図の拡大を今後も狙い続ける君主・孫権にとっては、彼等の如き「寝返り者」・「裏切り者」・「謀叛人」に対する爾後の処遇は、非情に重大な政策・政略の一環なので在った。
麋芳や士仁などの様な、敵にとっては裏切者!で在る者は即ち味方にとっては、〔重大な勝利の要因〕なので在る。今後も
続々と出現する事が期待される。その為には先例者たる麋芳や士仁の「其の後の処遇」が充分に保証され続ける必要が有るのだった。だから、その相手を罵倒するなど持っての外、鞭で打つなど言語道断な行為なのであった。ーーそんな事は百も承知な筈なのに、主君の思惑もモノカワ、独自の正論を振り翳して1歩も引かぬ。満座の中で、主君の立場を困らせて平然として居る・・・・。
但し、その博学、特に〔易〕に対する造詣の深さ・また 筮竹占いの腕前の確かさ・凄さは天下一品!!その評価に異を唱える者は誰1人居無い!!・・・・而して、そのストイックな言動・彼の姿を何う観るか??偏屈で狭量な依怙地な男・と観るか!?それともキラリ純粋の至宝と観るか!?
少なくとも今の主君・孫権には”厄介者!!”としての意味の方が極めて大きい様だ。ちなみに後世の普遍的な観方ではーー
虞翻は、語る内容が如何に正論であっても、その態度や物の言い様次第では、やがて身を亡ぼす・・・・との
”例え”に使われる人物である。そんな憎まれっ子の虞翻では在るが、今し・・・古の狂直! と云う以前からの栄誉称号(?)に加え、此処に来て更に、
虚座!と謂う新たな称号が冠せられ様として居たのである。【虚座】とは・・・アーサー王12人の円卓の騎士の彼等の着座が決められて居た様に、君主にとって最も重い家臣達の朝議の席・御前会議の席次の中に、本人不在の儘でも 常に設けて置く 「空席」の事である。・・・・だが その設置者は、当然ながら孫権では無い。何と、魏の曹丕なのだ。
ーー余っ程だったのであろう。虞翻の場合は敵国の重臣で在るのだから、その空席が使われる事は99・999%無いにも関わらず、曹丕は敢えて無駄を承知で朝廷に虚座を設置させて虞翻を顕彰、孫権との器の違いを強調して見せるのである。
但し、今や 虞翻 本人の身の上は、明日をも 知れぬ危うさ
・・・・彼を招いた最大の理解者で在った【孫策】は既に亡く、つい最近まで「所払い」されて居たのを呼び戻して呉れた庇い手の【呂蒙】も余命幾許とて無い。と謂う事は、虞翻が主君・孫権から疎まれて〔完全追放〕されてしまう日が、刻々と近づきつつ在るのだろうか!?曹丕の設けた虚座は虚座ではなく、本当に彼の定座と化してしまうのであろうか・・・!?
古の狂直の称号に加え、敵国君主から虚座(特待優遇指定席)を常設された男・この虞翻については、いずれ、其の全生涯と人物評の総括を行なう時が来る予定なので、今は此の程度に留めて措こう。(どこかしら、例の【禰衡でいこう】に似た気質が窺える。もし禰衡が自由奔放な呉国に流れ着いて居たなら、彼の寿命は可なり延びたに違い無い?もしかしたら此の虞翻のケンカ相手に最適?)
その、言いたい放題を言い捲くっている呉の奔放な(?)人物に比べ、まさに彼の主張の矢面に立たされ、その謂う処の
〔道義・忠節を失った張本人〕として、今この世で最も暗い顔をして居る
ショックを受けた男が、【蜀】に居た・・・・
外でも無い。麋芳の兄麋竺で在った。(以下、正史・麋竺伝に拠る)
『麋竺は字を子仲といい、東海郡ク県の人である。先祖は代々利殖に努め小作1万人を擁し、その資産は莫大であった。 後年、徐州牧の陶謙が招聘して 別駕従事(主君が領内を巡検する際、別の駕籠で従う重臣)に任命した。 陶謙が亡くなると、麋竺は 遺命を
奉じて、小沛から先主(劉備)を迎え入れた。
建安元年(196年)呂布は 先主が袁術防禦に出撃した隙に付け込み、下丕を襲撃し、先主の妻子を捕虜にした。先主は已む無く 軍を 広陵郡の海西に移動させた。
(※張飛の大馬鹿野郎事件=之に因り、大放浪が始まった。)そのとき麋竺は、妹を先主の夫人として差し上げ、奴僕2千人・金銀貨幣を提供して軍費を助けた。
当時、先主は困窮して居たが、この御蔭で 再び勢いを盛り返した。後に曹公が上奏して麋竺をエイ郡太守に、弟の麋芳をホウ城の相に就けたが、いずれも官位を去り、先主に従って転々とした。先主は荊州に赴かんとして、先に麋竺を遣って
劉表に挨拶させ、麋竺を左将軍従事中郎に任じた。益州が平定されたのち、安漢将軍に任命したが、席次は軍師将軍(諸葛亮)の上位に在った。 麋竺は穏やかで誠実な男で在ったが、人を統率するのは 不得手で在った。 そのため 上賓の礼を以って待遇されたが、1度も軍を統御する事は無かった。 然し、彼に匹敵する程の恩賞や寵愛を受けた者は居無かった。』
正に劉備政権の最古参!艱難辛苦の時代を物心両面から支え続けた元勲!その兄と弟とで在ったのだ。劉備が今日あるのも、この兄弟の援助に負う処が大きく、彼等の妹は 正妻第1号でも在ったのだ。(長阪坡で散華)兄・麋竺の方は、書道の”文鎮”の如き存在であった様だが名誉職とは謂い状、その席次は常に〔政権ナンバー2〕の役どころ。如何に劉備から恩人として感謝されて居たかが窺える。弟の麋芳も亦、劉備の信頼厚く、何よりの証拠には、荊州の中でも最重要な 〔南郡太守〕を
仰せ付かって居たのだった。尤も、その上に〔荊州総督〕たる関羽が居たのではあるが。
関羽死す!の衝撃波を、まともに喰らって吹き飛ばされ、栄光の座から一挙に恥辱の暗黒へと突き落とされた男・・・・一瞬にして20有余年の業績を全てフイにし、逆に謀反人・裏切者の汚名を浴びる身と成り果てた懊悩苦悶の人物。
あらゆる面目と立つ瀬を失い、この天と地の合わいに身の置き所を無くした哀れな兄・・・・蓋し、その献身的な来歴や日頃の実直な人柄からして、只ただ《気の毒》としか謂い様が無い元勲。
「ーー信じられぬ・・・・!!」
何と、事も在ろうに、自分とは全く一緒の人生行路・軌跡を歩み、ひたすら劉備一筋に仕えて来た我が弟が、まさかまさかの反逆行為を為した??
「とても信じられぬ!!そんな事が起こる筈が無いではないか!麋芳子方はこの私・麋竺子仲の弟なのだぞ・・・!!」
兄たる自分ですら、思い当たる節なぞは些かも無かった。況して敗戦の経緯や敗因など、事の詳細が未まだ伝わらぬ今の時点では、他の者達にその理由・原因が 解ろう筈も無かった。 ーーが、然し、解らないなりにも、どうやら、其の事実としての1点だけは、「紛う事の無い真実で在る!!」と謂う事だけは、時間の経過に連れて益々確実さを強めていった・・・・。
『弟の麋芳は南郡の太守と成って、関羽と共に事に当って居たが個人的感情から仲違いし、反逆して孫権を迎え入れた。関羽は其の為に敗北したのである。麋竺は、みずから・・・・・』
劉備の眼前に自らを後ろ手に縛り、死罪を覚悟した白装束姿の麋竺が見るも哀れな顔付で自首して来た
「古来より、主君に対する反逆の罪は三族に及ぶと決まっておりまする。まして血を分けた弟が犯した罪悪は、この身が八つ裂き・火あぶりの刑に処せられようとも免れぬ道理で御座いまする。もはや何を謂う事が在りましょうか。願わくは即刻に処断され、我が身が天下に生き恥を晒す時間の短くならん事を祈るのみ・・・・。」
その場には偶々張飛も在った。だが、怒髪天を突いて激怒する、然しもの張飛でさえが、日頃・幾星霜の麋竺を知るが故に敢えて面罵・面詰するなど想いも寄らぬ温厚実直一筋な人物で在った。だから劉備も自ずから直ちに麋竺の縄を解き、手を取って 立ち上がらせた。そして優しく背中に手を廻すと、諭す様に言うので在った。
「誠実で忠節一筋な貴方に対して、一体この世の中で誰が罪びとだなどと言うだろうか。この貴方の場合は、断じて兄弟の罪には該当しない!!之は天が私に命ずる声である。よって私は今後も益々、貴方を重んじ大切な家臣として処遇する事を誓うのみである!だから君も、何の苦に思う事なく、今まで通りの姿で忠勤に励んで呉れよ!!」
「嗚呼〜、我が御主君さま〜〜!!」
大粒の涙が、その元老の眼から溢れ出て止まら無かった・・・・・同席した諸葛亮はじめ、蜀の重臣達も皆、この劉備の措置に対しては深く頷き合うのであった。
『麋竺は自ずから後手に縛って処罰を乞うたが、先主は兄弟の罪に連座する事は無いと諭し、初めと同様に厚遇した。だが麋竺は恥と怒りの為に発病し、1年余りで亡くなった。』
最早2度と立ち直れぬ程の最も激しい衝撃波を被って居たのは、誰あろう、遙か離れた異国の地に在る、兄の麋竺で在ったのだ。あの虞翻の痛罵がグサグサと胸に突き刺さって来るのは、当の弟・麋芳本人よりも1500キロも彼方の兄の方だったとはーー。
そして如何に主君自からが赦して呉れようとも、臣下の面目を失った名士には何の生きる資格が残って居たで有ろうか!?・・・・在るのは慙愧の衣を身に纏い、針の蓆に起居する日々のみ。誠実で在れば在る程に募る恥辱と汚名の嘆き。そして我が弟への憤怒の余り、麋竺は終に病を発し、失意と憤激の裡に生涯する。
『〜1年余りで亡くなった。子の麋威は虎賁中郎将にまで成った。威の子の麋照は虎騎監と成った。麋竺から麋照まで、みな、弓と馬が達者で、巧みに射、御したという。』
この1文を以って彼の伝は終る。弟の以後は「語るに足らず」とてか、1字半句も現われぬ扱いとはなるのである・・・・。
曰く、『突如、孫権が襲撃して 関羽を殺し、
荊州を 奪い取った。』
〔関羽の死〕に 関する「正史」の記述の中で、その全局に及ぼす影響について、最もシビアに言い表わして居るのは、此の
『劉備伝 ( 先主伝 )』の書き方であろう。関羽の死を、”1個人の其れ”として扱い、飽く迄も主眼は荊州の行方=国家vs国家の【領土獲失】に向けられている。そちらの方がより重大で、多くの者達の運命を左右する死活の意味を持つからである。
確かに劉備玄徳と云う個人としては、関羽雲長を失った事の意味は、己の命にも替え難い、何にも優る重さで在り 全ての意味で在り 価値で在った。即ち其の心模様は、蜀の遺臣で在った陳寿にとっても共通の、彼個人の情としては最大の惜念を著わしたい相手で在った筈だ。が、陳寿は流石である。特定の個人に”入れ込み過ぎぬ”歴史家としての公平な態度は不変不動の毅然たる姿勢の儘に貫かれて居るーーその事を何故に「本書」は、殊さら強調するのか?と謂えば・・・・
三国時代に於ける、この〔荊州の帰属問題〕こそは魏・呉・蜀3国の夫れ夫れの 不沈 と存亡に、直接的な 大影響を与える 最大の因子で在り続ける故である。即ち 3国の総合的な国力、所謂=政治的・経済的な根本と基盤を成すインパクト・・・それが此の地に凝縮されて居るのである。
思い起せば、此の「荊州」は・・・・三国志の進展と共に其の時々その領有を巡って激しく
揺れ動き、多くの武将達が登場しては 覇を争い、その領地は常に2分・3分割 統治され、支配者達(領主)も亦、眼ま苦しく交代し続けて来て居たではないか!!
劉表(黄祖)vs(孫策)・(孫権)→(劉備)→曹操→(周瑜)孫権(魯粛)・(呂蒙)→劉備→関羽→孫権→??・・・・
関羽が討たれて荊州は呉に帰属が確定・・・・是にて一件落着!
と思いきや、今度は君主が代替りして皇帝を名乗った魏(曹丕)が、〔南下政策〕を打ち出して「江陵」を包囲に掛かるのである。 荊州は 正に「棘薔薇の州」・・・・その要衝の位置と豊饒の土地を有するが故に、安寧が長く続く事は無いのである!!
痛い。荊州を失ったのは痛い。いや痛すぎる!
ーー関羽、滅びる!・・・その事態を最も深刻に捕らえて居たのは矢張、益州に蜀の国家を開闢した設立の創始者たる人物・・・・
主君・劉備を此の地に誘って戴冠させ、〔天下3分の計〕を
中国の地上に実現させた、真の指導者・・・・
蜀 の 国 の命運を 一手に担うべき大軍師・その未来を見据える国家の丞相たる諸葛亮孔明で在った。その見詰める視線の先には、重苦しく垂れ込める益州の暗雲ばかりが、果てし無く続いていた。
ここで我々も、今の時点に於ける魏・呉・蜀・3国の国力を比較検討して措こう。その際、最も簡単明瞭な指針と成る基準は何と謂っても〔版図・領土面積〕の比較である。何故なら当時の産業・経済基盤の殆んど全てが農業・土地依存社会だったからだ。版図の広さ比べを 「白地図」の塗り絵手法で行えば・・・・荊州を失ったにも関わらず、蜀の国土面積は結構デッカイ。いや寧ろ、3国の中でナンバー1で在る!!
だが無論の事、是れで喜んで居たのでは軽率に過ぎる。次の実勢地図を見れば、蜀の実力は一目瞭然・・・!!
ありゃア〜〜??←”好かんタコ”が出て来ても当然の展開。〔蜀の国!〕とは謂うものの、実質的には是れまで、関羽の荊州が、恒常的に益州を支えて来て居たのである・・・・。それが突如、蜀の国(劉備や諸葛亮)は、いま突然に、国家財政の3分の1以上、いな3分の2近くを一挙に失ってしまったのである!!全く以って 《 痛過ぎる!》のである。
ーーと成れば・・・この際、利用できる物は、在りと有らゆるモノを何でも活用せねば追ッ付かない。然も軍事的に敗れたのだから、
今度は〔政治的〕に勝たねばならぬ。その軍事的失陥を、政治的な威力で輔弼せなばならぬのである!!取り合えずは、その敗北に消沈する〔時流の回復〕、そして更には、不死鳥の如くに蘇る〔国威の発揚〕こそが、大軍師たる己に課せられた特命である。
その際に肝要なのは、今後に於ける「敵の出方」の研究・情報である。張り付けて在る”密偵”からの報せでは・・・・曹操の健康・寿命に衰えが著しいとの事。詰り、曹操から曹丕への世代交代・政権の委譲が間近い!と云う事である。そして当然ながら、其処にはーーその交替を契機とした”超・重大な謀略”の発動が孕まれて居る!?と観て措くべきであろう。
曹操が望んで終に果せ無かった魏の野望
天下にとって重大な危惧・新たな局面を産む急展開・・・・其れが実行される可能性は非常に高い。その衝撃波の巨大さ・強烈さは関羽の敗北どころの比では無い!!ーーだが、然し・・・・正に其の瞬間こそが此方の狙い目!其のインパクトを逆手に取って此方も更に、其の上をゆく”快挙”に出るのだ!!
いつ何時、その〔Xディ〕が巡って来ようとも、即座に対応できる様に、既に其の準備を整え、手は打ちつつ在る。その1つの譬が、玉璽の発見!である。・・・・そう、あの秦の始皇帝から伝わる、初代・孫堅が灰燼と帰した洛陽宮の井戸から発見し、その後の所在は定かならぬ?とされる・・・・
あの白玉製の〔伝国璽〕である。それを偶然にも漢水が終る地点(=関羽が包囲戦を展開中の戦場付近)で発見し、関羽にも内緒で劉備の元に持ち込んで来た男供が在ったのだ。
「正史・先主伝」の上奏文中に、『〜襄陽の男子の張嘉と王休が玉璽を献納いたしましたが』と堂々と載せられている。無論ガセ、
1000パーセント嘘に決まっている。
臆面も無い、見え見えの「ずる賢く」、「狡い手」だが、大差を付けられて最弱小国に転落した立場からすれば、そんな綺麗事など謂っては居られ無いのだ。そもそも 世論と云う物は、小さな嘘には敏感だが、巨大な嘘には気付か無い。ゴリ押しだろうが、筋違いだろうが、一旦、結果を出してしまえさえすれば、存外たわいも無く収まってしまうのが政治の世界なのだ・・・・
既に【Xディ】向けのシナリオは、此の胸の裡に完成されて居る。其の秘策いな奇策は、我が生涯に於いて、最も破廉恥で、卑劣極まり無い!!との謗りを受けるかも知れぬ。・・・・然し、だが、土台、覇権の本質は「勝てば官軍!」なので在る。だから後で、「ああ、アレは一寸した勘違い、うっかりミスって奴ですよ」で納得して済み、既成事実だけが(亡国・破滅の道を)独り歩きしてゆくのだ。悲しい哉、この歴史の教訓は三国志の3世紀でも、20・21世紀の現代でも常に繰り返される人間国家に於ける「御定まり」なのである。
《ーーもう1つ・・・・その【Zディ】が遣って来る一足先に、関羽には「伝説」に成って貰おう》 と、諸葛亮。
天高く昇って神と成り、《関帝!》の座に就いて貰う。胡散臭い玉璽の話なんぞよりは、民衆は 何倍も 有り難がるに 違い無い。ちょうど国内の漢中には、張魯が広めた道教・五斗米道の信仰が根強い。勿怪の幸い・打って付けの舞台装置が整っているのだから、道教のネットワークに乗せて 「関羽信仰」 を広めるのは容易であろう。
《鬚ドノには、死んだ後も〔 国の守り神〕〔守護霊〕と成って我等を助け、支え続けて貰うのだ・・・・。》
だが、これ等の策は飽く迄も、緊急避難の一時凌ぎに過ぎぬ。
究極の本筋は矢張り・・・〔軍事的解決策〕に絞り込まれ、〔戦術的対応策〕に行き着く。
《ーー徒に只待って居れば必ず魏からの進攻を受けて亡びる。先手を打って”攻勢防禦策”の準備に入らねばなるまい・・・・。》
既に諸葛亮孔明の、孤独で果てし無い防国の戦いは、その端緒に着こうとして居たのである。
関羽死す!・・・・の衝撃波は中国大陸全土を一瀉千里に駆け巡った。その影響は震源地に近いほど凄まじかった。つい最近までは『許都!』と呼び慣わされていた「許昌」も其の衝撃波をもろに浴びた注目の都市で在った。
そして其処には、漢王朝のラストエンペラーと成る事を自ら望む
献帝・劉協の姿が在った。諸葛亮とは生没年ともに一緒の(181年〜234年)登場人物で在る。
「つい近くまで来て居ると謂うのに、〔魏王〕は矢張り、朕の元を
訪れては呉れぬ のか・・・・。」
《もう充分じゃ。御先祖様たちも是れ以上は望むまい。もはや私は疲れた。出来るなら、馴染み深い曹操に譲りたいものじゃが・・・・》
「曹操とは、もう久しく会って居無いの〜。
是非にも 会いたいものじゃ!!」
そう言われてみれば確かに、我々も曹操には随分と長い間の
御無沙汰である。では、そろそろ真打、大トリに相応しい英傑・・・
曹操孟徳 に 御登場 願おうか!!
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