【第252節】
ほくそ笑む 呉の鈍牛

                                  凱歌の 論功行賞

ーーその首が届いた。

日付は特定できぬが 建安24年(219年)の年の瀬も押し詰まった 大晦日に近い日の事であったろう。 敵味方に与える衝撃が大きかったと云う事は、夫れ夫れに悲喜の程度が常ならざる大きさで在ったと云う事でもある。・・・で 先ずは戦捷に沸き立つ勝利側の江陵城内、その中庭に設えられた幔幕の 首検くびあらための場。

覆いの白絹がサッと取り払われた。・・・・するや、3つ並べられた首の中で、明らかに其れと判る美鬚髯の1つだけが、カッと眼を見開いた儘の、烈迫の形相を留めて 一同の前に現われた。

「ムッ・・・この髯首が関羽か・・・!?」
孫権は終に生前の関羽に会う事は無かったのだ。いや孫権だけに限った事では無い。映像転送の方法とて無い古代の事・・
遠く離れて敵対し合う人物の顔を見知る可能性は、その生涯に於いてすら互いに殆んど絶無であった。況して広大な中国大陸、他国の重要人物との接触は貴重・稀少でしか無かった。だから今呉軍の中には自信を持って首実検し得る者は誰も居無かったのである。
(※ 唯一、僅かに 可能性の有るのは、呂蒙だが、それとて定かでは無い。)

「その脇が息子の関平。次が都督の趙累で御座います。」

今にも罵詈を浴びせて来そうな生首の眼光から眼を逸らし、伏し目がちに答えたのは
麋芳で在った。いま此の座の中で、関羽を本人確認 し得る者と謂えば・・・・私怨の果てに関羽を裏切り、進んで呉に降り、終には関羽を死の淵へと追い遣った”張本人”の麋芳士仁で在った。更には、生前の関羽に敗れ、その捕虜として地下牢に収監されて居た、現在は客将身分の于禁だけで在った。

「死んでも眼を閉じぬとは、余程に無念で在ったのだろうな・・!」

「首を刎ねられる直前に、『死んでも、決して眼を閉じさせるでは無いぞ!』と 態々 言い置いて逝った そうで御座いまする!!」

虞翻が非難の眼差で麋芳や士仁・于禁らを睨めつけながら聴き採った情報を開示して見せた。

「それにしても、実に 若々しい顔だな。とても60とは思えん!」

「老いて居る暇なぞ無かったのでしょうな。」

そう答えたのは、捕縛の立役者・
朱然

「正に千両首、いや千万両の重みで御座いますな。」

直接の功労者・
潘璋は、はや心は論功行賞に向いて居る。

「人の命や一生は儚きもの・・・・一世を風靡した稀代の英傑も、今や昔の語り草・・・・されど哀れとは申しますまい。関 雲長ーー我が人生に目標を与えて呉れた、偉大なる宿敵・大きな存在で御座いました・・・・。」

心の底から沁々と過去形の実感を込めて関羽を眺めやるのは
この荊州奪還作戦(=関羽捕捉作戦 )の立て役者・総司令官の

呂蒙
で在った・・・・実は病魔に犯されつつ在った呂蒙にとっては、此の作戦が人生最後の任務に成るのだった。その事は他でも無い、呂蒙自身が一番よく分かって居た。故にこそ呂蒙は、生涯最後の使命として、敢えて困難な 〔関羽討滅!〕を己に課し、余命の篝火を赫々と燃え立たせ、そして今、燃え尽きようとして居たので在る。

《残り時間ギリギリで、何とか使命を果す事が出来たか・・・。》

三国志の英傑・関羽を滅ぼしたのは、実に此の呂蒙で在る。もし同じ世に呂蒙子明の無かりせば、関羽雲長の最期も亦いまだ無かったであろう。

「直ちに此の関羽の無念首、曹操に送り付けて遣ろうず・・・!」

この辺りが孫権の”政治感覚”の超一流さを表わす、判断の妙で在ろう。ーー関羽を滅ぼして荊州を奪取した事実は、呉建国以来の快挙で在る。その実利たるや途轍も無くデカイ。が其の一方、関羽の骸や首を 此の儘自分の手元に置いて措くのは 如何にも拙い。只でさえ義兄弟を契った劉備からは拭い難い怨みを買うのは必定であった。そこへ殊更に 感情を逆撫でする如く 是れ見よがしに関羽の首を持ち続けて居ては、未来永劫まで劉備の怨みを買い続ける事に成る。・・・・とは謂え、いずれ時間が経ち、沈思黙考する局面ともなれば如何な劉備とて、1国の君主で在る以上は、3国鼎立の状況下、蜀が本源的に同盟すべき相手が誰で在るべきか??その答を理解するであろう。又たとえ劉備自身の気持は収まらなくとも、周囲の側近・重臣達は、主君の個人的感情よりも国家・公の利益を選び、呉国との同盟復元の方策を押し進める日が来るに違い無い。

《 その場面の招来を早める為にも、何時までも 関羽の怨念を
 ワシの手元に置いて措くべきでは無い ナ・・・・》

己に都合の好い処 (荊州奪取の実)だけを取って済ませ、残った 評判の悪い部分(関羽殺しの名)は 曹操に押し付け、後は素知らぬ顔で口を噤んで、独り密かに ほくそ笑む。 
《ーー些か、あざとい か・・・??》

「それが呉国にとっては、最も賢い方策で御座いましょう。」

呂蒙は、したたかさが備わって来た我が主君の行く末に、少しく安堵を覚えながらも、反面では敗れ去った者への一抹の憐憫を抱かざるを得無かった。

「・・・敗者の常とは申せ、生きて居る間には 己の墓所さえ 定かならずとは・・・流石に”此の世の無常”を覚えまするな・・・・」

蓋し、この”責任転嫁”とも”汚名の摩り替え”とも謂える、呉側の爾後措置の裡に窺い観えて来るモノは・・・・
〔関羽の名声〕・〔関羽の名望〕は既に其の生前から、孫権をして 人々から 「我等が英雄を殺した張本人!!」 と非難・誹謗される事 への ”惧れ”を抱かざるを得無い程に、相当な威力・影響力を持って居た!!・・・・と云う現象の顕われ・証左で在ろう。


 その翌日、駅伝の早馬で〔関羽の首〕を曹操の元へ送り飛ばした孫権は、早速にも
論功行賞を行なった

「仇敵・関羽を滅ぼし、宿願だった荊州奪還を成し遂げ得たのはひとえに此処に居る虎威将軍・呂蒙の智謀の賜物である!! その功績は筆舌に尽くし難い程の偉業である。よって、その荊州平定の功に報いる為、呂蒙子明を南郡太守に任じ、サン陵侯に封じ、銭1億枚、黄金500金を授けるものとする!!」
出席した全ての者が驚く程の、嘗て聞いた事も無い大盤振舞いであった。荊州獲得が、如何に呉国に巨万の富を齎したか!!
・・・・その成果を誇示する場面だったと謂えよう。

「ハハ〜ッ、勿体無く、畏れ多い事に御座いまする。この私めに多少の功を認めて戴きましたからには、もはや思い遺す事は何も御座いませぬ。我が余命が幾許も無き事は、この私自身が一番よく識って居りまする。そんな今の私にとって、銭や黄金は 最早 なんの価値も持ちませぬ。ゆえに其の拝領は固く辞退させて戴きまする。どうぞ国庫に納められ、より有用な事に使って戴きたく存知まする・・・・。」

「いや、罷りならぬ。そなたの功績に報いなくて、一体なんの論功行賞ぞ?仮にもし、そなたの申し出を認めたならば、後に続く者達は誰が果して勲功を申し出られようか?それでは誰一人として正当な褒美を貰え無く成ってしまうではないか。許さぬ。是非にも受け取って貰おう。さも無ければ、私の貴方への深い感謝の気持が納まらぬではないか!!」

「ーーおお〜御、御主君さま〜〜!!」  鬼の眼に涙・・・・その数日後、この一代の英傑は終に倒れて床に伏す。


「さて次に、実は今だから皆に明かせる 隠れた功労者を讃えようと思う。」座の一同が暫しざわめいた。すると孫権は顔を
全jに向けて言った。
「貴君が先に此の事
(関羽討伐作戦)を上陳して来た時、私は敢えて其れに対する返答をしなかったのでは在るが、今日の勝利は 貴方の手柄でも有るのだ!よって特に貴君を、陽華亭侯に封ずるものと致す!」
この全j 至って若い。年齢は特定でき無いが 父・「全柔」が バリバリの現役だった事から推せば、寧ろ青年の部類に属し、次代を担う若手の1人で在ったーーそして今から10年後の229年には何と孫権から娘(公主)を妻に賜るのである!!而して其の女性こそは、孫権最愛の”歩夫人の長女”であり、のち「
公主」と呼ばれる事となる、
三国志上最大の悪女
孫魯班なのである!!
ちなみに何を以って”悪女!”と為すかは議論の有る処では在るが、まあ大体は、政権に口出して引っ掻き廻し、挙句は荒野に死屍累々・・・と云うのが定番ではある。 いずれ 第3部にて、その驚くべき事件の一部始終を詳しく辿る時が来よう。今は唯、全jの登場に伴い、その関連事項として喚起を促して措く のみとする。 無論まだ其んな未来を知る者とて誰も居よう筈も無いのだが・・・


さて孫権、己の政権発足当時からの古参幕僚の1人で、還暦を迎えた騎都尉の
是儀しぎに対しても、武勲より 彼の智謀を評価して報いた。彼に呂蒙が立てた関羽襲撃策の成否を諮問した時全面的に賛成して、作戦の実施を 強く 勧告したからであった。
新たに〔忠義校尉〕の官に昇進させた。彼は辞退を申し出たが、孫権は 春秋時代の名臣・周舎に擬えて 任命した。この人物は
清廉一筋で81歳まで孫権に仕え続けるのだが、チョット面白い余談が「正史」にある。


彼の元の姓は 《氏》であったが、若い時に務めて居た北海郡の長官・あの孔融が、
「氏の字は民の上の部分が欠けたものだ。《是》に姓を改めるが良かろう。」 と、からかい半分に言った為、《是儀》に変えた・・・と謂う。何がチョイ面か?と謂うなら、先ずは〔漢字解体〕なぞと云う”何うでも好い遊び”が、当時は 機知や即妙を歓ぶ名士層の間では、知的な能力として真面目に持て囃され評価・通用して居た!と云う、末期症状的な事実の存在。 そして更に 興味深いのは、この記述に対する【斐松之】の批判文に出て来る 〔 正しい姓 の 名付け方 〕 講座である。

曰く、『古に 姓を定めるに当っては、或いは 生まれた土地の名を取り、或いは 官職の名を取り、或いは 祖先の名を取ったのであって、夫夫の姓には 然るべき 意義内容が有って、その家系を輝かすもので在った。だからこそ「春秋左氏伝」にも、「賜うに土地を以ってし、名づくる(命名)に氏を以ってす」と謂うのであって、是れが先王の定められた不変の掟なのである。その様にする事に拠って、その一族の本づく処を明らかにし、その始めを尊重し、祖先が立てた手柄や徳を顕彰して子孫達に其れを忘れさせない様にするのであ〜る!』ー→然るに孔融が文字を分解し、みだりに不吉な字だと解釈して改めさせるなぞは言語道断、また其れに応じた是儀も間違って居る〜!!

※但し、この「氏」←→「是」の置き換えは、陳羣の祖父・陳ショクの例にも観られる様に、必ずしも孔融の専門特許だった訳では無いらしい。


さて”
智謀”と来れば・・・関羽を欺いて警戒心を奪い去り、呂蒙とコンビを組んで先遣し、逸早く 西の山岳地帯に 関羽の逃亡阻止ラインを構築した男・陸遜 の存在を 忘れてはなるまい。
一連の作戦の中で彼が斬ったり、捕虜にしたり帰順させたりした者の総数は数万にも上って居たのだ。そこで孫権は、この陸遜を
右護軍鎮西将軍に任じ爵位を進めてロウ侯に封じたのである。この任務は名誉職では無い。バリバリの現役職で、然も明らかに《今後》に備えての布石だった。

ーー孫権の読みでは、此の後に必ずや劉備は、我を忘れ、周囲の諫言も聴かばこそ
義兄弟・関羽の弔い合戦を断行して来るに違い無かった。全力を挙げての復讐戦を挑んで来る筈だった。そして、その来襲ルートは唯1つしか無かった。長江を攻め下って来るしか無いのだ。事前に其れが確実に見通せるのだから、逆に其れを利用して「返り討ち」にする!!そして回復困難な程の大打撃を与え、次の段階へと駒を進める・・・・その任務を果すのが、この〔右護軍・鎮西将軍〕の役割なのだ。 もっとハッキリ謂えば・・・・西方への更なる進出を抱く 【呉国の野望】を具現化して顕す、”新世代人事の一環”なので在った!! 実際 この1年後、孫権は 陸遜を〔大都督〕に格上げして仮節を与えると、呉軍精鋭5万の総指揮を採らせる事と成るのである・・・・。

さて次なる論功行賞は、この関羽討滅作戦の”
実行部隊”に対するものであった。その筆頭は何と謂っても、臨沮から夾石へ廻り込んで網を張って居た潘璋で在った。直接に関羽を捕えた(斬った)馬忠なる部下は単に彼の手足に過ぎ無かったのだ。多少の褒美は頂戴したにせよ、其の手柄の全ては管轄の将軍に帰した。そして孫権は益々潘璋の武勲に期待を寄せ、彼をも亦、西方の抑えの 〔現地軍司令官〕に 抜擢したのである。その新たな官職は〔固陵太守〕・〔振威将軍〕・シ栗陽侯に封ず!と謂うものであった。・・・・即ち、長江が流れる「宜都郡」全体の中から、その長江部分だけを更に取り出して分割し、新しく 「固陵郡」 を設置。その荊州最深部(長江では最西端)の郡太守に潘璋を就任させたのである。 詰り、上流からの蜀の進攻(関羽の弔い合戦)に備える為だけの郡を、国境 (州境)ギリギリの位置に新設し、其処へ武勇の名も高い”荒くれ将軍”を配置した訳である。

この潘璋とはペアで、関羽狩りの”勢子役”と成った
朱然は〔昭武将軍〕に昇進、西安郷侯に封じられた。 この 38歳と若い朱然も亦、陸遜と同様に呂蒙が、次代を託すに足る人材として、強く孫権に推挙して逝く 後継者で在った。その場面は、もう少しだけ時間が後になるのだが敢えて先行公開して措くならば・・・・『正史・朱然伝』に曰く・・・・

虎威将軍の呂蒙が危篤に陥った時、孫権が呂蒙に尋ねた。
「万が一、貴方が2度と病床を離れられぬとしたならば、一体誰に後を継いで貰えば善いであろうか?」  呂蒙が答えて言った。「朱然は決断力の点でも、実行力の点でも十二分で御座いますから、彼が仕事に当れるかと愚考いたします。」
呂蒙が死去すると、孫権は、朱然に仮節を与え、江陵に軍を留めて、その守りに当らせた。
』と云う経緯を辿るのである。但し、江陵=南郡なのだが、呂蒙の跡を継いで〔南郡太守〕の任に就くのは・・・江陵に在る此の朱然では無く、別の人物なので在った。

呂蒙が倒れた為に、その南郡太守を継いだ人物とは・・・・
諸葛瑾 で在った。謂わずと知れた諸葛亮実兄
のちに関羽の討伐に参加。宜城侯に封じられ、スイ南将軍として呂蒙に代って”南郡太守”を務め、公安に家を置いた。
今し 47歳の中堅どころーー

のち諸葛亮が
蜀の丞相、この諸葛瑾呉の大将軍の任に就く・・・と云う関係。但、その割には彼自身の人と為りや業績は、必ずしも 広く知られている とは言い難く、本書でも 詳述する機会を 失して来てしまっている。そこで此の際、些かスペースを割いて、彼を紹介させて戴く事とする。矢張り、何と謂っても、諸葛亮孔明とは血の繋がった肉親で在るのだから、孔明研究の為にも其の実兄の存在業績や言動を徒や疎かに素通りは出来まい。

字は子瑜しゆ。既述の如く、諸葛兄弟は戦禍を逃れ、揃って荊州を目指したのだが年老いた母親の足では長旅も出来ず、已む無く 長男の諸葛瑾の方だけが近場の江東の地に落ち着いたのだった。とき折しも孫策が斃れ、若い孫権が 兄の偉業を引き継いだばかりの時期であった。
(※因みに 族弟いとこ諸葛誕は 魏に出仕し、結局一族は、魏・呉・蜀のいずれにも人物を送っている。 乱世ゆえの一族存続策・深謀遠慮であったか?)

彼の此処までの事蹟で 最大のものは4年前(215年)に 孫権と劉備が荊州の領有・帰属を巡って一髪触発の”あわや!”の時に呉側の使者として 単身で蜀に乗り込み、劉備に頭を下げさせ
〔荊州は両国が折半する〕事で同盟関係を再確認・合意を取り付けた事だろう。その時の様子として夙に有名なのは、『
諸葛瑾は弟の諸葛亮と、公式の席で顔を合わす事は在ったが、公の場を退いた後は私的に面会する事は無かった』事である。

ーー『
正史』には・・・・
容貌思度しど有リ
時ニ于よりテ其ノ弘雅こうがニ服ス
徳度とくど規検きけんヲ以もっテ当世ニ 器うつわトセラル

堂々たる風貌で度量が広く実直。仕事は慎重で 孫権も深く彼を信頼した。

諸葛ハ 仁じんニ敦あつク 天ニ則のっとリ 物ヲ活いか
 清論
せいろんヲ比蒙ひもうシ、以もっテ分ぶんヲ保ツ有リ

主君・孫権に接する様子も、その実直な人柄が自然と表に滲み出て来る様な 慎み深く温厚な人物であった事が彼の伝に見える

諸葛瑾が孫権と語り合ったり諌めを述べたりする時には決して強い言葉を用いたりする事なく、思う処を僅かに態度に表し、主張の大凡を述べるだけで、もし 直ぐには 孫権に受け入れられぬ様であれば、その儘にして話を移し、やがてまた他の事に託して意見を述べ、物に譬えて同意を求めた。この様にした為、孫権の気持も往々にして変わったのだった。』・・・・そして其の例として、理由は記されて居無いのだが、2つのエピソードを記している。
つは、元勲・朱治とのトラブルのケース。

『孫権は或る時 朱治に対し、心に強い不満を持った事があった。ただ平素より 朱治には礼を尽して居たので、自ら詰問するのも憚られ、孫権の怒りの気持は内向するばかりで在った。諸葛瑾はこうした事情を察知したが、正面から 明ら様に 取り挙げる事はせず、「自問自答してみたい!」と申し出た。』・・・・そして孫権の面前で2通の手紙を認めて見せる。その際諸葛瑾は、孫権にも聞こえる様に、内容を言葉に出しながら書き進めた。先ず最初の1通は朱治宛の物で、広く物の道理を論じつつ 朱治を叱責する内容であった。次の1通は、自分が遠方に居る朱治に成り代り、その理由を推量しながらの弁明の物であった。そして其の2通を同時に孫権に進上して見せたのである。
するや孫権は喜び、笑って言うのだった。「私には納得がいった。顔回の徳は人々の間に親密な関係を齎したとの事だが、貴方が今やられた様な事を謂ったものであろうか!」
つは、校尉の殷模を譴責し 死刑にしてしまおうとした時。
群臣達の多くは、殷模の為に取り成しをしたが、孫権は腹立ちを募らせるばかりで、臣下達との間で、緊迫した応酬が延々と繰り返された。そんな中、諸葛瑾 唯1人だけが 黙った儘で在った。
孫権が訳を訊ねると、席から滑り降りて答える。

「私めは殷模らと同様に共々郷里が壊滅し、生き物が根絶やしに成ると云う事態に遭遇し、墳墓の地を棄てて、老弱を引き連れ、荒野を分けて、御教化を慕って 遣って参りました。 流浪の身の上に在りましたものを、御恩愛に拠って、きちんと生活できる様にして戴いたので御座います。それなのに私は彼等を正しく導いて万分の1の御恩返しをさせる事も出来ず、却って殷模には御恩に背く様な真似をして、自らを罪咎に陥ちさせてしまいました。私は過ちを謝罪できる様な立場には無く、誠に申し上げる言葉も無いので御座います・・・。」
孫権は此の言葉を聞くと、心中悲しみに打たれて言うのだった。
「特に、貴方に免じて彼を赦そう。」

又、諸葛瑾と孫権の間には、父や兄の代から仕えて居た元勲的な家臣達とは〔一味違った主従の姿〕、〔特別の情愛・信頼感〕が存在して居たのである。ーー即ち諸葛瑾は、孫権だけしか知らぬ孫権を初の主君と仰ぐ家臣で在り、孫権にとっても亦、自身の手で最初に登用した 特別な存在・純粋培養の家臣で在るのだった。之と似た同期の人材登用では諸葛瑾とは正反対な性格の魯粛が居たが、既に2年前(217年)に46歳の若さで病没していた。
だから尚のこと孫権は、この物静かな紳士を深く愛でたのである。そんな主従の絆の強さを、「
正史」は 次の如く 記している。

『この当時
(孔明との兄弟関係から邪推して)諸葛瑾が蜀への公式な使者とは別に親しい者を遣わして劉備と気脈を通じて居ると言う者も在ったが、孫権は言うのだった。
私と子瑜とは生死を超えて、変わらぬ誓いを
結んでいる。彼が私を決して裏切ら無いのは、
私が彼を決して裏切らぬのと同然なのである!


孫権は言下に猜疑を否定や彼への揺るぎ無い信頼を表明したのである更に「江表伝」には、”もっと好い話し”が載っている。

諸葛瑾が南郡に在った時、密かに 諸葛瑾の事を 讒言する者も 在った。その言葉が些か外に泄れ聞こえた為、
陸遜は上表して、諸葛瑾にそうした事実は無いと保証すると共に、孫権からも彼に安心するようにとの言葉を掛けて遣って欲しいと申し出た。その上表に答えて孫権が言った。
「子瑜
諸葛瑾)は、私の為に長年に亘り仕えて呉れて、2人の厚い関係は肉親に異ならず、深く互いを理解し合って居る。彼は道に非ざれば行なわず!義に非ざれば言わない!と謂った人物で在るのだ。 玄徳(劉備)が昔、孔明(諸葛亮)を使者として呉に遣って来た時、私は子に此う語った事がある。
『貴方は孔明どのとは同じ御両親から生れられた兄弟であり、それに弟が兄に従うのは道理から謂っても当然の事だ。なぜ孔明どのを呉に引き留めようとされぬのか? もし孔明どのが 貴方の元に留まられるのであれば、私は手紙を書いて玄徳どのの了解を求めてやろう。思うに玄徳どのも反対は出来ぬであろう』 と。
すると子は、私に答えて言った。
『弟の諸葛亮は、ひとたび其の身を人に預け、礼式に則って君臣の固めを致しました以上、ニ心を抱く道理が御座いません。弟が呉に留まりませんのは、ちょうど私めが蜀に行ってしまわぬのと同様なので御座います』 と。
この言葉は、天地神明をも 貫き通すに足るものであった。それを何うして今になって、讒言に謂う様な事が在ったりしようぞ。私は是れ迄にも、デタラメな内容の上訴文を受け取ると直ぐさま封をして子に見せ、私自身の手紙を添えて子に送ったが、折り返し返事が在って、この世界に於いて主君と臣下の間に存する大節と、各々が守らねばならない定まった分とが論じてあった。
斯様に、私と子との関係は、心を結び合った交わりであって、他人の言葉が其れを邪魔する事なぞ出来はしないのだ。

貴方(陸遜)の敦い気持を知り、献上された上表を其の儘 封をして子瑜に示し、貴方の気持を 彼にも知って貰った。」

土台、根源的に、諸葛瑾と諸葛亮とは血の繋がった実の兄弟同士なのだ。たとえ仕える主君・住む国が異っても2人の間には生涯に亘って温かい心の交流(私的な手紙の遣り取り)が存在し続けた。最も象徴的な出来事は 最初のうち子供の無かった弟の求めに応じて
兄は自分の2男 養子 に遣った 事である。その喬は孔明と共に益州(蜀)へ入るが25歳で早逝、1子・ハン
を遺す。その後、孔明には 実子・セン(澹が目へん)が生まれる一方、兄・諸葛瑾の方は(本人死後の某大事件
・第3部により)子が全て絶えてしまう。そこで「ハン」は呉に帰り、諸葛瑾の家系を受け継ぐ・・・ノデアル。

(※尚 【】・【】兄弟
は、諸葛
王圭を父とする3人兄弟。末の弟にが居た。 但し 末弟の【均】は不詳な人物で、正史には2ヶ所・「諸葛亮伝」中に短い記述が見られるに過ぎ無い。稀少である。)

『諸葛亮は幼いとき父を亡くした。従父の諸葛玄は袁術の任命で豫州太守と成り、諸葛亮と 弟の諸葛均を 連れて赴任した。』
                                      (三顧の礼、以前の時期)
『諸葛亮の弟の諸葛均は長水校尉まで昇進した。』
ーー詰り、末の弟・【
】は、次兄の【亮】と共に〔蜀に仕えた〕のである。が是れと謂った目覚ましい業績を残す程では無かった?
恐らく早逝した為に校尉と云う小官どまりだったのであろうか?

諸葛は・・・・私生活に於いても、『質素デ在リ、軍征の途上に在ってもキラキラした服飾を身に着ける事は無かった』。
又「呉録」には、「妻が死んだあと再婚する事なく、寵愛する妾が居たが、子供を生けても、それを取り挙げさせる事をしなかった。彼の情宜に叶った慎み深い行動は、全て此んな風で在った」・・・とある。当時の〔
一夫多妻制に基く支配階級の倫理観〕が逆説的に垣間見られる記述である。すなわち再婚しない男は珍しかったので在り、「君子は生涯、独身で在ってはならぬ!」のが礼記の教えだった。

そんな諸葛瑾では在ったが、但し 呉録」はズバリ謂っている。
将としての軍事的才能は流に過ぎ無かった!と、のちの戦役を引き合いに 出しつつ、鋭い 突っ込みを入れている。所謂、〔魏呉の江陵攻防戦〕だが、詳細は其の時に述べるとして・・・・

『魏軍が江陵城の朱然を包囲したので、諸葛瑾は大軍を率いて救援に向った。 だが 諸葛瑾は、鷹揚せまらぬ性格だったので、物事の道筋を考えて計画を十分に立てた上で行動に移し、臨機応変の戦術は取らなかった為、兵役は中々埒が明かず、こうした事から孫権は諸葛瑾に不満を持った。
結局、6ヶ月に及ぶ包囲戦の末に魏軍は引き上げるのだが・・・・
諸葛瑾は華々しい勲功を立てる事は無かったが、兵士を損う事なく呉の領地を守った、と謂う事で、手柄が有った、とされた』と、歯切れが悪い。

又、面長めんちょうニシテ ニ 似タリ(正史・諸葛恪伝)に あり、
顔はロバの様に面長おもなが(馬ズラ)であった様だ。但し、決して悪口では無い。それ処か、寧ろ讃辞の意味合が強いのである。超一流の人物の場合、史家は彼の風貌が尋常一様なものでは無い様に記すのが礼儀だったからだ。まあ、馬づらで在ったのは事実であろうが。

・・・・のちの或る日、孫権は宴席の座興として、1頭のロバの顔に「
諸葛子瑜」との札をブラ下げ一座の笑いを取ろうとした。すると息子の【
諸葛恪かく】が席を立ち、札の4文字の下に「」と加筆して父親を笑いの対象からロバの所有者に変えてしまった。

それにしても、衆人の前で 〔馬ズラ〕を 笑いの種に《されても》、《しても》、どちらも一向に気にもしない様な、しっかりとした主従の関係が出来ていた、と云う事である。 蓋し、こう云った孫権の茶目っ気が、兄・孫策以来の、呉国の〔奔放気質〕・伸び伸び気質の基なのかも知れぬ?

この息子
諸葛恪も中々の人物。いや寧ろ、その才気煥発さは父親を凌ぐ!!と謂っても過言では無かろう。実際、正史のスペースも 此の息子の「伝」の方に、父親の倍以上の分量を与えているのだ。現在は未だ任官前の15歳に過ぎぬ(204〜254)がその機知を示す逸話は多々在る。
孫権から、「お前の父と叔父
諸葛亮とでは、どちらが優れていると思うか?」と問われて、直ちにこう答えている。
わたくしノ父ヲバ優まさレリト為ス。臣わたくしノ父ハ事つかウル所ヲ知ルモ 叔父しゅくふ(諸葛亮)ハ知ラズ。是これヲ以もっテ、優まさレルト為。』・・・・ちゃんと主君を好い気持にさせてしまう。
又、酒宴の席での此んなエピソードも載る。まあ大体が呉書では酒宴の話がやたら多い。呉国の版図が広まるに連れ、孫権の酒量も増え続け、やがては 尋常一様では 納まらなく成ってゆく。
ハッキシ 謂わせて貰えば・・・・元々酒好きだった

孫権は
、今し 酒乱に成りつつ在ったのでアル。

さて其の酒席での事ーー孫権は諸葛恪に酒の勧め役を命じた。一座の間を酌して廻り、あの頑固爺さん【
張昭(65歳)の前まで来ると、めっきり酒量の落ちた張昭は既に酔いが回って居て、杯を取ろうとせずに言った。
「この様に無理強い為されるのは、老人を労ると云う礼に背いておる!」→すると孫権は面白がって諸葛恪を唆して言うのだった
「君が張公を上手く言い負かせたら、きっと彼も其れを飲むであろうヨ!」 →そこで諸葛恪は、張昭の言葉に反撃を加えた。
「昔、師尚父は、90歳に成っても旗を手に取り、鉞を杖に突いて陣頭に立ち老齢を理由に役目を辞退したりは致しませんでした。軍役について現在はもう、貴方様は先頭には立たれませんが、宴会の際には、貴方様を先頭に立てようとするのであって、何で老人を大切にせぬ!などと申せましょうか?」
・・・・張昭は1言も反論できず、已むを得ず杯を飲み干した。

孫権の酒癖の悪さ の1つに、自分がグデングデンにぶっ倒れるまで 決して相手が酌を拒む事を許さ無かった点が挙げられる。君命であるから家臣は無理矢理呑むしか無い。相手が老人だろうと下戸で在ろうと、斟酌は一切無い。出席者は皆、酒には慣れて居る者達だから、流石に急性アルコール中毒で頓死する様な犠牲者は出無かったものの、最後は一種、命懸けの観すら呈した??ーー「酒を飲むと人が変わる」とは言い状・・・・上司がその典型だったとすれば、部下達には 些か 辛いものが有る。せめてもの救いは、ドンチャカの 〔明るい酒〕 だった事か。

のちの事、蜀から使者が到来し、呉国の群臣みな参集した席で、孫権は其の使者に向かって言った。
「この諸葛恪は 平素より乗馬を好んでおる。帰国されたら
 丞相どのに申されて、彼の為に良馬を送って戴くように!」
之を聞いた諸葛恪は座をすべって感謝の言葉を申し述べた。
「未だ馬は届いて居無いのに、謝意を表わすのは何故か?」
「蜀の地は、陛下の遠く離れた厩
うまやなので御座います。ただいま特別な思し召しによる詔が有りました上は、馬は 必ず遣って参ります。 どうして謝意を表わさずに居られましょうや!」
・・・・『諸葛恪の頭の巡りの良さは、みな此うした類であった。
孫権は彼の才能を高く評価し〜
』 と 続く。ーー果して此の長男 諸葛恪・・やがて太子・孫登の側近に仕え賓友として遇される。更にはいずれ孫権から臨終の枕辺に呼ばれ、〔大将軍〕・〔太傳〕として、呉国の行く末を託される。

それ程の嫡男・後継が有る
父親諸葛瑾にしてみれば、順風満帆、将来に何の心配も無い!筈なのに・・・・そんな彼にも悩みが在った。外でも無い。この才気溢れる長男に対する強い危惧・深い不安が在ったのである。「正史」は・・・・
諸葛瑾の息子の諸葛恪は、当時 名声が高く、孫権も其の非凡な才能を高く買って居たのであるが、
諸葛瑾は常々彼を嫌い、家の安全を保ってゆけない息子だとして、何時も其れを心配して居た。
』 と記し、更に具体例としては・・・周囲が疑問視する中、諸葛恪が「丹楊郡から新たに4万の兵卒を徴用して見せまする!」 と上陳した時、諸葛瑾も、事は失敗するだろうと考え、歎息して言った。
の奴めは、我が家を 大いに盛んにする代りに、我が一族を
根絶やしにしてしまうであろう
」・・・・だが、どう観ても此の部分は「後づけ」の臭いが濃厚で、後に諸葛恪が誅殺された事から、書き加えられたモノであろう。(ちなみに、この4万の徴用は成功・達成される。)
まあ確かに(既に父親も亡い)今から25年後には、 切れ過ぎ、遣り過ぎた余りに、心ならずも51歳で”誅殺”の憂き目に遭うのだがーー本音・真相部分では・・・・諸葛瑾程の人物が、我が子の其んな重大な破綻を予知し得無かった筈が無い!ーーとしたモノで在ったと観るのは、些か穿ち過ぎで在ろうか??・・・・まあ温厚静謐な父親の眼から観ると、今15歳で才気煥発の我が子も不肖の息子!として映って居た・・・・と謂う事にして措くのが1番無難ではあるけれど・・・・。
ーーと以上、お断りはして置いたものの、チト、長くなり過ぎた・・・
再び視線を元に戻し、他の家臣達の事に触れよう。 さて、

その外に呉に於ける 論功行賞が明記されて居る人物はあと「周泰」と「将欽」の2人だけで在るのだが・・・・両者とも通常の顕彰では無かった。
周泰の与えられた役職は、〔奮威将軍〕・陵陽侯・・・・そして更には、な、何と、その名も漢中太守〕!?なので在った。

ーーえっ!!もしかして「関中」じゃ無くて、劉備の「漢中」??
ーーまさか、あの曹操が鶏肋!の棄て台詞を残した「漢中」??
・・・は〜い、そうなのデス。その漢中の太守なのデス。
ーーして、その心は!?→→永年勤続に対する、御・褒・美・!
ドド〜ンと打ち上げて見せた名誉職の花・火・!!なのでした。
まあ、寒門の出身で 無口・無骨一辺倒だった 忠臣なのだから、晩年くらいは多少派手派手しく扱って遣っても、その措置は大目に見て、許してやろうでは御座いませんか。

だが、もう1人の
将欽に対しては、こんな風に 御茶羅化ては 居られ無い。何しろーー『孫権が関羽を討伐した時、将欽は水軍を指揮してベン水の流域に軍を進めた。その 帰還の途上、将欽は病気のため死去した。孫権は喪服を着け彼の死を悼んで哭礼を行なった。蕪湖の住民ニ百戸と田畑ニ百頃とを、将欽の妻子に給付した。』 のである。
2代目孫策が未だ袁術の下で雌伏して居た、旗挙げ以前からの最古参の武将だった。呂蒙同様に、孫権が晩学を勧めるまでは己の名前すら書けぬ荒くれ者だったが、〔遼来来!〕の場面では命を的に孫権を護り抜いた。トウ寇将軍に昇進し、呂蒙とも肩を並べる様な武功を屡々挙げた。而して私生活は倹約質素に徹し孫権を感動させる程で在った。 また 人間的にも大きく成長した。
”人NP”は呂蒙に次ぐか・・・?

この時に死去した者が、もう1人居た。孫権一族の 若きホープ・
孫皎急死である。 『関羽を虜にし、荊州を平定するについては、孫皎の働きが大きかった。建安24年に、孫皎は死去した。孫権は、その死後、彼の功績を評価して、息子の孫胤を丹楊侯に封じた。』 と 在るが、建安24年 とは、残す処あと僅かと成っている此の年・219年の”年内”の事であり、然も関羽が斬られた直後の12月中を指し示している。即ち彼の死は正真正銘の《突然死》だった事になる。・・・「一同、黙祷〜!」デアル

 論功行賞では無いが、降伏した敵陣営の中から、後に「烈士」の名を残す人物が、この時に新規登用されて居る。
潘叡はんしゅんで在る。字は承明。周囲が挙って呉に帰順する中この50歳前後の人物だけは病気と称して孫権に目通りしなかった。そこで孫権は 人を遣って ベットを運び込ませると、その上に彼を乗せたまま担いで来させた。だが彼は突っ伏したまま悲泣し続けた。孫権は優しく字で呼び掛け、古に 敵から抜擢されて名臣と成った人物の例を挙げ 諭した。その熱意に打たれた彼は遂に拝謝した。すると孫権は直ちに其の場で治中に任じ、以後は荊州の軍事全般について意見を求めた。・・・・・以上のエピソードは『江表伝』の記述だが、『正史』は『輔軍中郎将に任じ、兵の指揮を任せた。のちに奮威将軍に昇進し、常遷亭侯に封じられた。』 とする。いずれにせよ、呉に帰順してからは239年に死去する迄、常に主君・孫権にズバズバ物申す、貴重な人材と成ってゆく。
殊に〔
呂壱事件=第3部にて詳述〕に於ける彼の存在は、そろそろボケボロが出始める孫権への気付薬と成るので在る。



ーーと 以上、先ずは、勝利に沸く呉側の様子を観て来たのだが
思い起せば、この関羽討伐戦の直前、
孫権は何と曹操に対し「私は臣下に成ります!」と藩国宣言をして見せたのだった。そして 抜けしゃあしゃあと 己の行動を正当化して、のたくった。

「ですから 臣下として、御主君の災厄を取り除く為に、
 賊の背後を襲い、関羽の破滅を早めて御覧に入れまする!」

よくも 抜け抜けと 言ったもので在るが、言われた方とて 決して
鵜呑みにして居る訳では無い。
《だがまあ、お互いに今の処は利害が一致して居るのだからして
 この儘の状態で不都合は有るまい。》
・・・・と謂う事で取り合えずは「不均衡な」、
主従同盟?の存続が図られる結果を見る事と成るのであった。
そこで孫権は、之も亦、「お約束を果した証拠を、とくと御覧下さい!」とか何とか言い添えて、関羽の首を曹操に送り付け、勿怪の幸いとばかりに厄介払いを済ましてしまったのだった。ーーだが流石に、
《是れじゃあ余りにも、ワシ独りだけが美味し過ぎる!》 と思った孫権は、この外のプレゼントも用意して、やおら曹操の元へと送り届ける事にする。・・・・その最大のプレゼントとは、関羽に降った捕虜・
于禁の帰国である。だが未だ其の大超物の返還は時期が熟す迄 取って置き、「捕虜釈放」は 順次に送り帰そう。
さし当っては、5年前の〔皖城攻防戦〕で捕虜にした盧江太守の【朱光】辺りでも帰そうか。この朱光は曹操が盧江に送り込んだ重臣の1人。詳細は伝わらぬが 最前線の 皖城を任せられる程だったのだから可也の大物。ーーそれにしても5年も前から今日あるを意識して、ちゃんと保護して来て居たとは、孫権の周到さ
には恐れ入る。呉の鈍牛!なぞとは謂って居られ無い。

きっと近々曹操から、献帝の名を用いた正式の、何等かの沙汰・報奨が為される筈だ。ーーかくて、

《してやったり!》 と ほくそ笑む孫権に対し、



《おのれ〜許さん!!》 と、

 怒髪天を突いて戦慄く、
  関羽の義兄弟達が居た!!



【第253節】
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