第250節
  嗚 呼 、関 羽
関 羽  雲 長 よ !
       
             非 業 の 死



ーーあっ!!」・・・《 たった是れだけか?》 と云う言葉は、辛うじて抑えた。そして関羽は 二重の意味で、己を深く恥じた。

《 せっかく付いて来て呉れた”真の家臣達”への感謝を後廻しにして、危うく
  ワシは、逃げ帰った者達への罵倒を最初に浴びせ掛け様とした・・・!!》

激怒するより、落胆の方がひどかった。或る程度は予想した事態ではあったが、まさか是れ程の惨状を招くとは夢想だにし得無かった関羽。


出陣した時には5万余、最大時には10万の大軍団が今、関羽の眼の前に 僅か
数百!有るか 無しか・・・とは!?

ーーー・・・・》その長い沈黙が、此の男に与えた 心の傷の深さと深刻さを示して居る。そして実際、物理的にも、保持して来た兵力の殆んどに逃げられて見棄てられ最早 軍として戦う力を完全に失ってしまった現実。ほぼ全員!と謂える無残きわまりない惨状・体たらく・・・耳の中で、築き上げて来た己の牙城が崩れ落ちてゆく音が聞こえる様だった。 蓋し 関羽と云う軍神にとっては兵数の弱体化よりも、味方兵士達に逃げられた!と云う〔精神的打撃〕の方が、遙かに 致命的な苦痛と成って、その存在を揺るがすのだった。

途中、敢えて1度たりとも後を振り向かず、只管に 前方を睥睨し、ともすると
項垂れそうになる己を励まし続けて来た関羽で在った。《大丈夫、大事ない!》と兵士等を信じる一方、《もしかすると》と云う悲観的な不安が脳裡を掠めた。

 だが 暫く経つ裡に、数十年間鍛え上げて来た〔 思考停止回路 〕が自動的に作動して、自然おのずと”無我の境地”に没入し得る関羽で在った。
《心配しても始まらぬ。成る様にしか成らんのじゃ・・・・》 そう自分に言い聞かせる自分に気付ける程に、没入の度合は深まっていった。

蓋し
無念無想とは言い状、何も考えぬ事が無想ではない。また深く祈らない事が無念でもない。思い祈っても欲せず、願い求めても動じぬ、澄み渡った実存が
「空」で在ろう。更には”空”とは謂っても、ただ動かず静かにジッとして居るのが空しい状態では無い。戦場で斬るか斬られるかの大激震して居る状態にも
「空」は実存する。 必要以上にも 以下にも為らず、最も相応しい業と力が繰り出て来る状態が其れであろう。だから何もエライ坊さんだけが悟り開くものでも無い。血生臭い武将だとて一流・一級品とも成れば、其処には泰然、自若とした境地が生まれて来る。いや、生まれて来なくては生き残れ無いのだ。詰り、より好く生きる為の必要が、己に潜在して居る資質に対して求める最良の均衡。自分が更に活かされる為に、その声に応じて、元々から備わり、単に眠って居た奥処から生み出されて来る根本。・・・・大宇宙と一体化する小宇宙・・・・

関羽は今、自己崩壊寸前の際どい処で己を取り戻し、激情を抑えて、在るが儘の現実を、在るべき己の姿に 投影する事が出来たのだった。故にこそ関羽は今、その激減しても尚、付いて来て呉れる兵士等の有り難さに気付けたのであった。そして更にもう1つ
ーー
最後まで己に付いて来て呉れた者の数の、その余りの少なさ!と云う冷厳な現実


その事実を受け入れ、恥じねばならぬ我が人生航路。己の60年近い来し方に於いて、結実させるべき姿とは正反対の帰結・・・。
ーー嗚呼、何たる不覚。何たる不徳。俺は一体なにを為して来たのだ?》
胃の腑から苦い汁が込み上げて来て、関羽はゴボと緑色の液体を地面に吐いた。それは、慙愧に堪え切れぬ 苦渋の塊りで在った。その致命的な衝撃を、関羽の肉体自体が、主人の精神を保護する為に 代謝して行なった、生命維持の表現であったのだった。

正史・呂蒙伝』に拠れば、関羽が 孫権本人の荊州入りを確認自覚したのは当陽辺りの地点だったと記している。即ち呉国は君主自らが先頭に立って、本気の挙国全力態勢で臨んで居る事を関羽は此処で初めて認識した・・・・としている。 詰り、関羽が江陵への南進を中止し、コースを麦城へと西に採ったのは、この当陽辺りで在ったと記す。だが此の呂蒙伝の記述は、関羽が南進の判断を下した情報の根拠とは、些か矛盾した書き方とも謂える。まあ、それだけ関羽は何時迄もズルズルと半信半疑の状態の儘で在り続け、己に都合の好い〔希望的観測〕を捨て去り難く可なり遅い時点まで「思い込み」にしがみ付いて居た・・・と云う、如何にも人間的な実態・実像を表現する為の書き方なのであろう。

 ※ 尚、長阪〜当陽の だらだら坂の途中で、領民1万余が兵士達を迎え取りに来た場面だけは本書の虚構・脚色である。だが 兵士達の大多数が 此の地点辺りで逃走・離脱したのは、ほぼ間違い無いであろう。また『
麦城に立て籠った』と記した正史のニュアンスから推せば、この辺りで 呉軍の正規部隊と遭遇して蹴散らされた関羽軍は、取り合えず近くの「麦城」に逃げ込んだ・・・と解釈する方が、事実に近いのかも知れぬ。

関羽の使者が( 江陵から )戻ると、兵士達は 密かに使者の元を訪れて状況を尋ね、みな自分の家族が無事で平素よりも手厚い待遇を受けて居る事を知った。その為 関羽の配下の軍吏も兵士も呉に対する敵愾心を失ったそうした時、孫権が程なく 荊州に到着するであろうとの情報が入り、関羽は自分自身が孤立無援に成った事を知って、麦城に走り、更に西方のシ章郷に向った』 (正史・呂蒙伝)
関羽は当陽まで軍を還すとその西の麦城に立て籠った
                                 (同・孫権伝
 如何に小城とは雖も「麦城」の位置は、「江陵」から僅か7、80キロ圏内の至近距離に在った。万事に卒の無い呂蒙が、最も怪しい麦城に 何の手も施さぬ筈も無かった。ほぼリアルタイムで情報が届けられたから関羽の部隊が入城した直後には早くも呉の迎撃軍団が麦城を取り囲み始めた。

「正史」には、こんな記述も在る。現場からは遠い孫権は、関羽捕縛の成否を、部下に占わせながら待機して居た・・・と謂うのである。先ずは〔虞翻の筮竹占い〕・・・・
『関羽が打ち負かされると、孫権は 虞翻に此の事を筮竹ぜいちく
 占わせた。出た卦は〜〜(略)〜〜。虞翻が言った。
「2日以内に、必ずや関羽の首は断たれましょう。」
 果して虞翻の言う通りに成った。』(正史・虞翻伝)

もう1つの〔呉範の 風占い〕は 後で紹介するが、三国志の時代には、未だ未だ《占卜》が重要な地位を占めて居た事がこの記述からも窺える。


「たった500では最早、我ら単独での戦さは出来ませぬ。こう成れば残る策は唯1つ・・・敵の包囲が完成しない今の裡に直ぐ西方へと向い、
孟達殿の軍と合流を果し、共に蜀へ向う以外に道は御座いませぬぞ!」 

都督の趙累が、絶望的な状況に変りは無いにしても、せめて最も可能性の高い方策を口にした。西方の地・房陵郡に在る
孟達は再三の援軍要請にも関わらず、その都度『周辺事態の悪化に伴い、動くこと能わず!』と繰り返すばかりで結局 関羽の対戦中に1兵の増援も寄越さなかった。だが、だからこそ彼の保持する万余の兵力は、今も丸々温存されて居る訳で、此方から合流できれば、確かに助かる可能性が高まる。

だが此の時の関羽は、心身ともに参り切って居た。自己崩壊する迄には至らぬものの、将兵から見放された衝撃は大きく外見上は兎も角、その肝心な精神は一種のショック状態から抜け出せぬ儘に在るのだった。その症状として気力は萎え、全てが鬱陶しく感じられ、将来に対しても投げ遣りな、何うでも構わぬ好い加減さに蝕まれて居た。

「このワシに、敵前逃亡を勧めるのか!?」
肩を落として寝台に腰掛けた格好で、下から睨め上げる様にして関羽は捨て鉢気味に応答した。

「父上、その言い方は父上らしくも御座いませぬナ。此処に在る者は全て、命を父上に投げ出し、最後の最期まで生死を共にせんと覚悟して居る忠義の士で在りまするぞ。もっと前向きに考えて下されませ!!」

息子に言われてハッとした関羽。 「すまぬ!許して呉れ。どうも今日のワシは疲れが溜り、何処か変なのじゃ。恐らく兵士等も 今は疲労困憊の極に在ろう。だから 今宵は身体をゆっくり休め、西方への脱出は明日にしよう。」

それは事実で有った。会戦以来、連日の強行軍に、肉体も限界に近づきつつあった。
「な〜に敵も直ちには城攻めは行なわん。我等の捨て身攻撃に因る被害を恐れ、敢えて無理押しはして来ぬ。明日辺りに使者を寄越し、降伏を勧告して来よう。 だから今宵は安心して熟睡し、英気を養って爾後に備えようではないか。どうじゃ?」

     ーーその晩の事あと1旬で59歳に成ろうとする関羽雲長は前後不覚、泥の様な眠りに落ちた。心身に忍び寄る老いが、蘇生の為の眠りを貪らせたのである・・・・
と、多分、明け方の目覚め直前に違い無かった。久し振りに爽快な気分を味わう関羽は、その夢枕に愛しく懐かしい者の立つ姿をハッキリと見たのであった。
ーー不意に、中空に劉備張飛の顔が浮かんで来た。勝手に浮かんで来たのだから しょうが無い。
《 ・・・あの2人なら、俺のどんな失敗でも、ただ笑い過ごして呉れるのにな〜!!》
そう思うと、無性に、2人に自分を解って貰いたくなった。 いや 絶対に会いたくなった。会えば必ずや、夫れ夫れの持ち味で 慰めを与えて呉れるに 違い無かった。

ーー
流れる雲の神殿から劉備の「大らか笑い」と、張飛の「ガハハ顔」が見え隠れした。するや場面は 急に 懐かしい青春時代の”琢県”に成って居た。何故か関羽自身はトンビに成って、2人が見上げる上空を滑空して居る。だが2人は其のトンビが関羽で在る事に気付かず、辺りを探し廻って居る。
《 お〜い、俺は 此処に 居るぞ〜〜!!》
懸命に呼び掛けるのだが 鳥だから言葉に成らず、只カアカア鳴くばかり・・・然しやがて張飛が気付き、劉備に教えながら指を差すと、2人して頻りに手を振る。気付いて貰った心地良さに、関羽トンビは満足し、自身でも判る様な、限り無く優しい眼差と、飛び切り穏やかな表情で、地上に舞い降りた。すると2人が駆け寄って来て飛びつくと楽しそうに話し掛けて来た。

「済んだ事は仕方無いではないか。生きてお前に会えただけでワシは充分に満足じゃぞ!!」
「ガハハ、兄貴でも 失敗する時ゃあ 失敗するんだなあ〜。
デヘへ でもヨウ〜、お蔭で此うして一緒に成れたんだから全部これで 好いじゃねえかよう〜!!」


友人では無い。師でも無い。血縁でも無い。まして 主従など 後の都合で偶々
そう成った世間体に過ぎぬ。一体、誰が呼んだか 此の 間柄
ーーその名は正に

義兄弟!!
関羽はたった今、此の瞬間に、全てを悟った。事の本質・真実の在り難さを識った。
呉茶呉茶と御高説を曰まわる誰かより、スッキリきっかり全解したのだ。関羽にとっては此の2人こそが此の世に於ける 生きた実存で在り、唯一無二の得難い全存在・・・・
互いを空しくして無私無欲。ただ共に在るだけで満ち足りる存在!即ち、己の命と相い均衡する至宝なのだった!遅まきながら関羽は、其の事に今更ながらに思い至ったのである。

もう1度会いたい!会って置きたい!!


夢の中で、そう痛切に願う深層には・・・己の亡びに対する寂しさ・物悲しさが自覚されて居るからこそで在った。

己の終焉
に向き合う少し前の時間帯に生じて来る、人間(じんかん)としての疎外感・孤独感を補い、無意識裡に 抗おうとする 儚く切ない欲求行動・・・命の叫び、永遠不滅への渇き・・・若く元気な頃には到底わからぬ、静かだが 狂おしく激しい 第3の恋。蓋し色恋では無く、情欲とは無縁に隔たった、だが枯れたのは 別次元の、澄んだ希求。男と女では無く、人間の一員だった”人”として、己が納得して消滅してゆく時への備え・支えを得て置きたいと願う自尊・畏敬の念。信仰や宗教とも異なる、いや寧ろ正反対な願望。

次の春を迎える事の無い、不意に吹き荒れる冬の嵐の如く、この地上に一陣の生きた証を刻み残して置きたい。だが其の〔確認行為〕は、決して己自身では果し得無い 理不尽さが付き纏う。だから 自問自答の末に「自分は善く生きた!」と自信を持って答えたとしても 其処には必ずや 満足しきれ無い 空隙が残存する。 斯様に 「己の生きた証」とは 只管、他者からの眼差しが決める専権事項でしか在り得無いのだ。
ーーだからこそ其処に焦りを伴った狼狽が生じ、傍から見れば滑稽ですら在る様な行動さえ起こす。老人養護施設を大々的に経営するオが、その玄関先に豪華精巧な自分の銅像を飾り置くなぞ、その1例。また朽ちかけた土蔵の白壁一面に70過ぎた己の名と年齢を墨筆で書き殴るなぞは見た者の背筋を寒くする。・・・だが今、追い詰められ、齢60を迎える関羽で在るならそんな俗物的な人間の行為を全否定はしないで在ろう。


ーー その 朝関羽・・・。


「逃げよう!
何だか急に生きたくなった!

関羽は、関平に顔を会わすや開口一番、そう言ってのけた。


「つい昨夜までは、もう生きる張り合いも無く、此の世の
全ては何うでも構わぬ気に成りかけて居たのじゃが・・・
不意にまた、生きたくなってしまったのだ!」

誰に説明を求められた訳でも無いのに、この朝の関羽は極めて機嫌が好く、饒舌だった。ーー「簡単に言えば・・・

急に命が惜しく為ったんじゃ
わい


何か 憑き物でも落ちたかの如く、さばさばアッケラカンとした父・関羽の笑顔が在った。

「誇りも意地も名誉も地位も、そんな下らんモンは一切合財おっ放り出して、いっそ恥晒しで構わん!・・・無様に死ぬのも又一興、それが俺で在るなら、其れで一向に構わぬではないか・・そう思った瞬間、何だか急に、またゾクゾクッと生きたくなって来たんじゃわい。」

「一晩休まれたら、すっかり気力が回復されましたな!?」

関平には矢張り、そんな父の姿が嬉しかった。

「いや、迷いから醒めた・・・ので在ろうさ。どんな姑息な手を使ってでも生きて、生き延びて兄弟発ちに会いたい!! 素直に、そう思える様に為ったのじゃ。」

我が倅に其処まで己の心境を伝え終ると、関羽は再び毅然とした武将の顔に立ち戻って居た。

ーーして、外の様子は何うじゃ?」

「はい、昨夜よりも些かは、包囲の密度が濃く成っている
 模様で御座いまする。」

「どれ、此の眼で確かめて遣ろうず!」

幕僚ともども物見台に登って、足下眼前を見渡せば・・・・
麦城を囲む呉軍の大兵力。その包囲の兵員は”万”を遙かに超えて居た。時間の経過と共に其の数は更に急増して来るのは必定であった。

「虚を突くしか、脱出の見込みは無いナ・・・。」

「その方策は御ありですか?」

「冬場ゆえ日没は早く成っている。その闇を利用して敵の
 眼を晦まし、包囲の薄い東側を突破する事と致そう。」

「どの様にして眼を晦ましますのか?」

虚城の計を為す。」

「さて”虚城の計”とは・・・??」
「別名、
空蝉うつせみの策と申しても良かろう。」

「はて一体、どの様な策で御座いましょうや??」

象人を用いる。」

ーーあっ、成〜る程・・・!!」

「兵に1人1体、等身大のワラ人形を作らせ暗闇に篝火で
影絵と為さば、其れは恰も本物の人影に見えよう。加えて
旗指物を多数立てて、その間に象人を置けば、麦城に人影は絶えず・・・」


麦ワラなら倉庫に幾等でも在りますナ。」

「蓋し此の計の一番の眼目は、此の関羽雲長とも在ろう者が斯様な姑息な手を用いる事自体に在るのだ。まさかワシが相手を欺く挙に出るとは思うまい。そこがミソじゃ!」

だが観方によっては此の方策は、如何にも大関羽らしからぬ姑息な手段で有り
彼の最期を飾るに相応しく無い卑怯な手とも映るもっと真っ当な、正々堂々の姿の儘その最期を全うして欲しかった・・・この行為は何とも英雄・関羽にはそぐわない。
ーーだが思えば、此のとき関羽自身は、本気で生き延び様として居たのだ。まさか 其の十数時間後に ”最期を迎える”などとはつゆも思わずに居たのだから、自分の最期に相応しい漢の花道を用意する事も、英雄の名に恥じぬ最期の見せ場を準備する事も、未だ全く其の必要性を感じて居無かったのである・・・まあ、そう云う温かい観方・贔屓眼をするのが関羽ファンなので在ろう。

而して其の反面、こうした関羽の方針転換は、将兵の中に少なからぬ不満の気持を抱く純な若者達を、多数産み出してしまうのでもあった。大多数の者達が逃亡する道を選ぶ中、この時点でも尚関羽を慕って敬い、その名望に惹かれて付き従って来た者は
・・・寧ろ 華々しい討ち死・壮烈な最期をこそ望み己の生きた証を願うストイックな青年達で在ったのだ。

それが案に相違して”無様な”逃亡の道を選ぶとは!?

ーー
幻滅・愛想づかしの気持に為らされたとしても責められまい。そして彼等をして、男のロマンよりも 安寧な現実を選ばせたとしても、それは仕方の無い事であろう。実際いま未だ数百ある関羽部隊はその脱出・逃亡劇の中で、愕然悲惨の減少・離脱に辿り着くのである・・・・



孫権からの、初めての公式な使者が 関羽の元へ遣って来たのは予想通り、入城翌日の昼近く、風花が舞う中であった。 
蓋し関羽自身は其の使者に会う事をしなかった。いや都督の
趙累と主簿の寥化が関羽を敢えて出さなかったとも謂える。何故なら使者が 何を言うかは 判り切って居たからである。そんな屈辱的な申し出を聞いた途端、朝は自重して居たとは謂え関羽が何んな反応を起すかは火を見るより明らかであった。最終的には拒絶するとしても、時間稼ぎを含めた折角の選択肢を、馬鹿正直に 即座に捨ててしまう様な態度は避けて措くべきだった。だから緩衝の役割を兼ねて面談は彼等が行なった。
「我ら全員の妻子縁戚を人質としたから降伏せよ!いま大人しく降れば、それ相応の配慮を為す
・・・・との勧告で御座います。いかが返答致しまするか!?」

もしかすると激昂した怒声が返って来るかも??との危惧を他所に関羽は朝の時と全く変らぬ沈着な姿勢で在り続けた。

「フム、当然の事じゃな。『了解した』と伝えよ。」

「それで宜しいので御座いますな?」
但し、細々した条件の調整をしたいので、正式な降伏は
 明後日!と条件を付けて置く様に。」
「では、其の様に答えて措きまするが。」
「此方の真意に気付かれぬ様に、出来るだけの悪足掻きを
 して見せて措いて呉れ。明日再び来た時には今度はワシ
 自身が使者と面談する、とでも言って遣るが好いだろう」

いずれにせよ、もし孫権と呂蒙が直接に乗り出して来る様な場面を迎えるとしたなら、その時は最早、完全に万事が休し関羽の命脈が絶たれる局面でしか無い。関羽に明日は無い。今夜がギリギリのラストチャンス
・・・・

「その時になって怪しまれぬ様に、陽が落ちぬ今の内から、
 幟や旗指物を城壁に林立させて置くのじゃ。」
「物見兵の数も増やし、象人と入れ替わった時に
 不自然に成らぬ様に配慮して措くのだぞ。」

その一方 東の門内には人馬が揃い 脱出の準備が着々と整えられてゆく。星月夜の暗がりに、人馬の吐く息が白く氷る。
問題は歩兵の扱いだった。騎馬兵は開門と同時に疾風の如く敵陣を駆け抜けられる。だが歩兵の疾走できる距離はタカが知れたものだ。だからとて、騎馬部隊に先行して三々五々に隠密離脱をさせる訳にもゆかぬ。もし1人でも発見されれば後の全員の命脈が絶たれてしまう
・・そこで歩兵に限っては城内に居残ってカモフラージュ役に徹し、後は投降して構わぬとした。 この措置によって、いま麦城内に居る関羽軍・歩騎数百の部隊は脱出時には早くも騎馬300だけと成るのであった。

北半球の歳の瀬は
今も古代も同様に凍て付く寒気の中に在る見上げる夜空には無数の星々が冴え冴えと燦ざめく。
「よし、篝火を灯せ。」
城外の包囲陣からは、その篝火が背後の光源と成って、城壁上に居る将兵の影はシルエットでしか判ら無い。だから篝火が灯れたからとて、特別に警戒が厳重になった様子は無かった。そして
ーーそれが決行されたのは・・・この季節限定のシリウスが中天にせり上がった時刻であった。東の門が音も無く開け放されるや、突如、寝静まった麦城周囲に、大気を劈く馬蹄の轟きが響き渡った!!だが其の物音の継続は本の一時、呉の兵士が夢かと見紛う僅かな時間の裡の事だった。
「な、何事だ??」
それは戦場を駆け抜ける一陣の風だった。未だ不完全な包囲陣の薄味を襲った騎馬の吶喊は、その狙い通り、包囲の虚を衝く形で見事に成功。一旦、東に逃れ出た関羽部隊は程無く馬首を西に廻らせ、目指す「
臨沮」へと移動を開始。事は順調に運んでゆく・・・かに見えたが・・・闇を透かしてよ〜く見ると

その関羽部隊の直ぐ後には、その数倍の騎馬軍団が ピタリ追走を開始して居るではないか!!・・・呉の包囲軍だとてただ徒に関羽の後塵を浴びる為に其処に居た訳では無かったのだ。関羽雲長とも在ろう者が言の葉通り、そう易々と降伏するとは誰も信じては居無かったのである。いや寧ろ必ずや脱出を試みるであろうと確信し、その時に備えて待ち構えて居たのだ。
「それ、出て来たぞ!」
ばかりでは無かった。闇夜の中に明々と、烽火台の篝火が次々にリレーを開始。西方一円に対する光通信を作動させたのである。
獅子ガ逃ゲタ!・・・・当然その情報は事前に待機する道筋の大部隊へと届き、関羽部隊を撃滅すべく、待ち伏せ準備を完了させる。やがて必然の如く、関羽は其の警戒線にブチ当る。
「洒くさい奴等め!蹴散らして呉れるわ!!」
此の時点では未だ未だ関羽には己の脱出劇に自信が有った。
味方の集結を図って一旦立ち止まり、漸く白んで来た背後の闇を透かして 関羽は味方部隊の様子を窺った
・・・だが然し
・・・・此処で関羽は、人生最大の悲愴に捕われる。
《ーー嗚呼・・・!!

待てど暮せど、いっかな 味方が現われぬのであった。未だ1度の戦闘も経ぬと謂うのに、300騎あった関羽の部隊は既にして、唯1騎の兵卒の姿をも失い、いま此処に在るのは幕僚の者達ばかり
僅か10騎に過ぎ無かったのである!!

関羽が常に愛うしんで来た筈の兵士達からは100%の完全さで見放されたのである・・・・たったの1人も残る者は居無かったのだ。然も関羽付きの専任主簿で信頼も厚かった寥化の姿すらが消えて居たのだった。途中、逸れても仕方ない様な戦闘場面に遭遇した訳では無かった。だから 全ての者達が「みずから姿を晦ました」に相違無かった。すなわち
関羽は最後の場面で
将兵に見棄てられたのである。

遅い日の出を背に浴びながら打ち拉がれた関羽が落ち延びてゆく。最早涙も溜息すらも出ない極限の悲愴、究極の悲惨。
三国志の大英雄に、こんな事態が在って善いものだろうか!
こんな姿を描いて善いものだろうか!?

打ちのめされた関羽一行
・・・・正史に 名が明記されて居るのは 関羽関平の父子そして都督の趙累その3人だけである

何処を何う逃れたか?? 臨沮に近づけば近づくほど却って濃密に成ってゆく大走査線
・・・まさか此処には既に潘璋朱然の2将が呂蒙の特命を受けて10日も前から司令部を置き 関羽の首を狙って居るとは一行の知る由も無かった。
   
それでも関羽は早朝の薄闇を利用して、何とか臨沮まで辿り着いたものの、流石に市内に入る事は出来ず、其処を素通りして更に若干だけ西に進み「
シ章」と言う小さな邑に差し掛かった。此処を管轄して居たのは潘璋であった。勘の鋭い潘璋は3日程前に臨沮を出てやや西方の「夾石」に屯営を移動させて在った自分を関羽の立場に置いて思慮した結果である。果して、関羽一行は此の走査線に触れてしまった。
発見したのは、青史に名を記される程の人物とて無い末端の分遣隊であった。然し関羽は最早、是れ以上の逃走を好まなかった。
「此処で1戦して終ろう。」 関羽は愛馬を留めて言った。
「関平、最後に一暴れして見せるか?」
「はい。そうさせて下さい。この儘なにもせずに終るのは、
 武人として些か口惜しゅう御座いまする。」
「若い者には其れも嘉かろうか。」
街道上に立ち止まっての馬上対話。するうちに敵の捕り手が群を為して接近して来た。

「此れに在るは、関羽雲長の長子・関平なるぞ〜!!我と
 思わん者は掛かって来よ。眼に物みせて呉れようず!!」
名乗って叫ぶや関平は唯1騎にて真っしぐら、群れ為す敵に撃ち掛かっていった。関羽は悠然、ただ馬上涼しく其の姿を見守るのみ。気の所為か、口元には笑みさえ漂わせて居るが如し。関平が暴れること1刻
(15分)・・・その余りの強さに辟易とした敵は、ただ遠巻きに後ずさりするばかり。
「そこ迄!そこ迄じゃ。もはや良かろう。戻って参れ!」
父の声に応えて関平が戻る。

「もはや逃げも隠れもせぬ。紛れも無く此のワシが関羽雲長
 で在る。さあ遣って来てワシを捕えるが好い。はや抵抗は
 せぬゆえ 此の関羽を捕えて末代までの誉れと致せ!」

そうは言われても関平より更に数段つよい関羽だと聞く雑兵ふぜいには手の出し様も無い。只おっかなびっくり遠巻きに近づくだけの敵兵の群れ。此方は全員が下馬した。

「ほ〜れ、この通りじゃ!」

関羽は、長年愛用して来た
”青龍偃月刀”をガラリと地面に投げ出したーー正に此の動作こそ、戦う意志の放棄・生きる意欲の放擲を表わす、関羽流の身の終え方であった。
《周囲すべてに裏切られ、兵にさえも見放され、一体なんで
 生きる理由の有ろう事か・・・!?》

更に関羽は自身も亦ドッカと大地に大胡坐を掻いて見せた。其れは、武将として一世を風靡した関羽最雲長の、最後の所作であった。又それは、三国志が生んだ関羽と謂う英雄伝説の終焉であり、同時に関帝と呼ばれる新たな伝承の始まりでも在った。

「まだ足りぬか?ほれ、是れなら何うじゃ?」言うや関羽は自ら腕を後に廻し捕縛し易い姿勢を示して見せた。然し未だ誰も近づかぬ。

「ならば言って遣ろう。この部隊長は誰ぞ?その者が致せ」

かくて関羽は捕えられ、一緒に関平と趙累らも捕縛された。非業の末路!・・・と謂わざるを得まい。

のちに関羽は麦城に在って、使者を遣って降伏を申し入れ
 て来た。孫権は呉範に尋ねた。
「本当に降伏するであろうか?」呉範が言った。
「かしこに逃亡せんとの気が現われて居ります。降伏すると
 謂うのは、此方を欺こうとしての事に過ぎません。」
孫権は潘璋に命じて、関羽が逃げるであろう道筋に網を張らせた。斥候の者が戻って来て、関羽は既に居無くなった!と上言した。呉範が言った。
「居無くなったとしても逃げ遂せるものでは御座いません」
「いつ捕まるであろうか?」と尋ねると、
「明日の日中の時で御座います。」と言った。
孫権は日時計と水時計とを用意して、知らせを待った。だが正午になっても其の知らせは遣って来無かった。孫権が理由を尋ねると、呉範は言った。
「時間は未だ正確には正午になって居りません。」それから暫くして、風が帷を動かした。呉範は手を打って言った。「関羽が遣って着ました!」間も無く、遠くの方から万歳の声が上がり、関羽が捕えられたとの報告が伝えられた。
  〜〜彼の占いは、この様に見事に敵中したのである。
』(正史・呉範伝)

「待て!お前達は何で国賊を生かして置くのだ!?」

関羽らを捕えた部隊が意気揚々として、潘璋の居る司令本部へと向う途中の事であった。突然1人の男が飛び出して来ると、自分は潘璋の司馬馬忠 だと告げた。

総司令官様からは『必ず首を持ち帰って来い!』との厳命
 であるぞ。なのに何故、こうして生かした儘で連行するの
 じゃ!?此れは明らかに軍令違反である。」

上官から高飛車に其う言われては、末端部隊には返す言葉も無い。口籠もって居ると、馬忠なる司馬は言い放った。

「直ちに今、此の場に於いて、この俺が斬首する!!」

その男は潘璋の司馬で名が
馬忠とだけしか伝わらぬ。正史に唯1ヶ所、名のみ2度だけ記されるだけの人物。まあ、偶々その場面に出喰わしただけで、事実上の手柄は其の手配を完了させた潘璋および朱然・最大では呂蒙に帰すべきものなのだから当然の素っ気無さではある。
但、彼の名を覚えて置けば三国志通としてチョット自慢できる?かも知れ無い。



「最期に何か言い遺す事は御座いまするか?」

その問い掛けに対し果して関羽は何と答えたで在ろうか!?又、こうした場面では無かったとしても、関羽は其の最期に際して 如何なる言辞を 言い置いて逝ったで在ろうか!?

読者諸氏に於かれては、その事を時々に自分なりに熟考して試るのも一興であろう。きっと年年歳歳、己の変遷に連れてその答えの在り方も異なるに違い無い。・・・さて人生時間に於ける現時点での貴君なら、一体、関羽をして如何なる
《最期の言葉》を謂わしめられるので在ろうか・・・!?


A:「面白き一生で在った。思い残す事は何も無い。」
B:「晩節を汚す事に成ったのは慙愧に耐えぬ。」
C:「義兄弟に一目会って死にたかった。」
D:「無念であるが仕方無い。」
E:「今さら何も言う事は無い。」
F:「遣るだけの事は遣った。」
G:「思えば全てが夢の様である。」
H:「生まれ変わっても又、関羽で在りたい。」
I:「怨めしい。復讐できぬのが口おしい。」
J:「蜀の行く末が心配でならぬ。」
K:「すまぬ、先に行って待って居るぞ。」
L:「・・・・・・・・・・。」

尚、謂わずも哉ではあるが、本書が描いたデティールは当然ながら虚構・創作である。まあ、1つのドラマとして観て戴きたい。蓋し本筋の事実は全て『正史』の中にのみ存在する。とは謂え、その記述は簡潔に過ぎて、途中に空白を産む。読者諸氏に於かれては、その行間のニュアンスを捉える作業にこそ歴史(小説)の醍醐味を味わって戴きたい。その為の 基本史料として、以下に 正史の 関連記述を 載録して措く。

関羽は自分自身が孤立無援に成った事を知って麦城に走り更に西方のシ章県に向った。その軍勢は皆、関羽を見棄てて呉に降伏した。孫権が朱然と潘璋に命じて、関羽の逃げ道を塞がせたところ、程無く関羽父子が揃って捕虜となった。
この様にして荊州は平定されたのである。
(正史・呂蒙伝)

関羽は当陽まで軍を還すと、その西の麦城に立て籠った。孫権が使者を遣って降伏を勧めると関羽は降伏する振りをし城壁の上に旗指物を立て人形を置いて、その隙に逃走した。兵士達はバラバラになり、ただ10余騎が関羽に従うのみで在った。孫権は前以って朱然と潘璋に命じて、関羽の逃げ道を遮断させて措いた。12月、潘璋の司馬の馬忠が、関羽とその息子の関平、それに都督の趙累らを章郷で捕虜とした。この様にして荊州が平定された。(正史・孫権伝)

孫権が関羽の討伐に軍を動かすと、潘璋は朱然と共に関羽の退路を断つ為、臨沮まで進んで、夾石に軍を留めた。
潘璋の部下である司馬の馬忠が、関羽と関羽の息子の関平と都督の趙累らを捕えた。
(正史・潘璋伝)

建安24年には関羽の討伐に参加し、本隊と別れて潘璋と共に臨沮まで軍を進めて関羽を捕虜とした。(正史・朱然伝)

関羽は 曹公の将の曹仁を攻撃し、樊に於いて 于禁を生け捕りにしたが、突如孫権が襲撃して関羽を殺し、荊州を奪い取った。(正史・劉備伝)

孫権は既に江陵を占領して居り、関羽の部下や其の妻子達を悉く捕虜にしたので、関羽の軍は四散した。孫権は将軍を遣わして関羽を迎え撃ち、関羽と子の関平を、臨沮に於いて斬り殺した。(正史・関羽伝)



斯くて三国志最大の英雄武将・関羽雲長は涯てた。享年は
58か9。あと1旬で60を迎える直前の事であった。

ひたぶるに 同年同月同日に 共に死なんと誓いしものを 
独り先立つ無念さは 寒天あはれ恨みを呑んで 冬の嵐か風花か
英雄あまたの乱世に 一世風靡を其の名に残し 孤影たたずむ荊の地 
血潮湧き立つ青雲はるか 桃の花園 宴の酒は 胸に沁み込む契りの絆
波乱万丈剛勇無双 ついに其の身はつるも永久とわに その名とどむる英傑ひとり 今も轟く その名も高き 我が愛しの義兄弟 ああ忘れじの名場面
せめて眠れや 歴史の胸で 永遠不滅のララバイ聴いて
輪廻転生の筈なくも 共に生きるか明日の日を 嗚呼ひたすらの空しさよ
無常は2千年の時を越え 雲長 関羽 今も尚・・・・


もはや我々は2度と再び、彼の勇姿を見る事は無いのだ・・ 彼の活躍する場面に出会う事は無くなってしまったのだ・・

嗚呼 関羽、関羽雲長よ!!
〔第251節〕人から神へ、実像と虚像の乖離(関羽考)→へ