【第249節】
「ーー出立〜つ!!」 進軍の号令は関平が叫んだ。馬上まなじりを決した将校団が続く。軍団が向う方角は南。目指すは本拠地・江陵の城。だが、この襄陽〜江陵間の道=いわゆる「襄江街道」は蜀にとっては 鬼門である。今を過ぐる事11年前・・・・
曹操軍の追撃に曝された劉備一行は樊城を棄て此の街道沿いに、彼を慕う
10余万の農民・荷駄数千台と共に逃げ惑い蹴散らされた。【趙雲】・【張飛】が名を挙げた その 〔長阪坡の惨劇〕 を
関羽だけは知ら無かった。それが11年後、今度は彼の身に降り掛かって来るとは、何たる因縁か。
そして劉備は助かった 此の
”開運街道”が、同じ義兄弟の関羽にとっては、死出の旅路の一本道に成るとは何と謂う皮肉な歴史の巡り合わせである事か・・・
古来より三国志の英雄の中で、その生き様が人々に強い共感を与え、どの時代に於いても、最も多くの人々から熱烈に支持されて来て居るのが関羽雲長である。ーーだが、その好感度や人気の前提に成って居るのは勧善懲悪の庶民文芸、『三国志演義』の虚構に全て由来している。 即ち、1部専門家以外の人々は、創り上げられた ヒーロー像・彼の虚像を以って 惹き付けられ、
魅惑されて来て居る・・・・本書の読者諸氏には既に常識と成っている既成の事実である。だから筆者も幾分かは安心で在るが、矢張そんな大ヒーローの哀れな末路を描くのは、遣る瀬無く辛い作業である。無論、殊更に彼の非を論い、実存以上にも以下にも貶める意図は無いが、在りの儘の関羽像を描くのには些か勇気が要るのも実際の処では有る。
因みに、歴史的事実の中には、後世の者から観ると何とも不可解な経緯を辿る場合が多々在る。「関羽の最期」も其の顕著な例の1つで有る。その直前迄の全生涯を”軍神”の名に恥じぬ美事な生き方をして来た英雄が、何で その最期に限って 斯くも無様で
情け無い姿を曝してしまったのか!?同じ最期でも、もう少しマシな、大関羽に相応しい壮烈な死に様を見せる事は出来無かったのか?ーー何故そんな事態に至ってしまったのか!?
本節は其んな疑問を解き明かしつつ、自ら破滅の淵へと向って行った風にすら見える「関羽の最期への道」をつぶさに辿る事としよう。
ーーさて、今の関羽の前には、徐晃との大会戦で1敗地に塗れたとは雖も、未だ多くの選択肢が残って居た。また可能性としては捲土重来を期し復活を遂げる事も全くのゼロでは無かった。・・・・だが此の後、関羽が辿る実際の道筋・経緯を観てゆくと、其処に現われて来るものはーー”見えざる 或る 巨きな企図 の存在”である。関羽は無意識裡に其の意志に引き込まれ、為に選択肢を狭められ、終には自由な裁量権をも奪われて亡びてゆく・・・・
即ち、此れから関羽が辿る〔破滅への道筋〕は、見えざる企図に操られた英雄が、徐々にその選択肢を狭められ、終には 生存の
可能性を失ってゆく過程だとも謂えるのである。その事をもう少し具体的に謂うならーー【大敗北】を喫した上に、【江陵の失陥】を知らされた関羽。今、そんな関羽の前には大きく2つの道が在った・・・事になる。”to be?”と ”or not to be?”である。だが実際には未だ「死を選ぶ」程に追い込まれた訳では無かったのだから現実の課題は、今の苦境を
如何に打開して 生き抜くか?であった。ーー詰り今この段階で、関羽の前には大きく 2つの”可能性”が残されて居た。1つは・・・・戦い続ける道。即ち、軍勢を率いて更に南下を続け、江陵城を奪還する策であった。そして 残る もう1つは・・・・恥を覚悟で逃走する道。詰り、江陵奪還を諦めて根拠地を放棄、西の方・劉備の元へ向う策であった。ちなみに後者の場合、水軍で漢水を溯上する方策と、山中を陸路で強行突破して行く方策とが考えられるが、いずれにせよ逃走の場合は大軍団を率いる事は難しい。ーーその軍議・・・・
「今なら未だ敵の警戒網も整っては居りませぬ。此処で軍勢を棄て、我等だけで山中を西へ抜けるならば、御主君の在る益州へ辿り着く事は可能で御座いまする。」
「水軍で漢水を溯れば、無事に本国に至る可能性は更に高まり、より確実なものに成りまする。」
「いや、たった1度の敗戦で 全てを放棄してしまうのは 余りにも早計じゃ。今ですら我等の手元には未だ3万余の軍勢が在るのだ。時が経てば更に多くの離散兵が集まって来よう。
10万とは謂わずとも 数万には成ろう。さすれば江陵の奪還は可能と成る。だから今、事を急ぐべきでは無い!」
「そうだ。もともと江陵は我等の故郷なのだから、いざ戦いと成った場合、城内に呼び掛ければ、呉軍を裏切って我等に味方する城兵も多い筈じゃ。密かに内通してから戦えば、勝利は確実と成ろう。」
「ーー戦うか!避難するか?・・・いずれにせよ、我ら将校団は、関羽様の決断に従いまする。」
最後に都督の趙累が関羽の決断を促した。ちなみに此の趙累だけは息子の関平以外で唯一、最後の最期まで関羽と行動を共にした事が確定できる人物である。大関羽が僅か数人だけとなって其の最期を迎える場面に於いては、たった1人で在っても、英雄・関羽と共に生死を一にした肉親以外の人物が居て呉れて、万人一様にホッと胸を撫で下ろす・・・・
のちにして思えば、この襄陽付近・漢水南岸に再集結した段階での決断だけが唯一の逃走可能なタイミングで在ったのだが・・・・その兵数の多さが 却って 関羽の決断を鈍らせ、遅らせた。総司令官(総督)たる関羽の面子を保つに必要な、ギリギリの兵力は満たしていたのだ。いっそ百・千などの敗残兵力で在ったならば、キッパリ諦めを着けて居たであろうが、何とも微妙な保持兵力で在ったのである。ーー関羽が口を開いた。
「いや、それは忍び無い事である。ワシを信じて今まで戦って来て呉れた将兵を、己の都合だけで見棄てる様な真似は出来ぬ。此処に将兵を放り出して行く事は、それこそ武将たる者の信義に悖る行為じゃ。ワシは飽く迄も 兵士と行動を共にしよう。最後まで兵等と共に在る道を選ぶ!!」
如何にも義を重んずる関羽らしい、感動的な発言である。だが此の言葉を表面的に受け取ってはならない。実は・・・此の関羽の言い廻しの中には、明らかな自家撞着・実態の糊塗が含まれて居るのである。即ち、今の関羽には、軍勢を率いて西へ向う事は絶対に出来無いのであった。何故なら、関羽が率いて居るのは荊州兵 なので在る。 彼等の故郷は 南の荊州で在り、西の益州盆地では無い。是れが遠征であったのなら、最後は帰郷するのだから彼等も付き従ったで在ろうが、今の場合は謂わば強制移住に成ってしまう・・・・妻子・親兄弟と引き離される事になるのだから、黙って従う筈は無い。それを敢えて強要すれば叛乱と逃亡が起きるのは必至であった。だから、破れた関羽が更に軍勢を保とうとすれば、彼等の故郷である
「南」へ向うしか方策は無かったのである。もし劉備の居る「西」へ向うとすれば、その場合は兵士達とは袂を別って、関羽独りだけでの
”出奔” と なるしか道は無いのであった。・・・・然し、人には 己の来し方に対する
〔誇り〕と 云うものが在る。〔面子〕とか〔一分〕と謂っても良かろう。関羽の場合には 常勝将軍としての 〔美学〕が在った。 と、表裏一体で〔恥辱〕と云うものが存在した。今し、其の常勝不敗の神話は地に堕ち、誇りは打ち拉がれたばかり。ガックリと来て居る更にその上に命惜しさに軍務を放棄、兵士を見棄てたと在っては男が廃る。恥の上塗り、己の名を汚す唾棄すべき所業で在る。 関羽の誇りと性向は、この時点に於ける「西への出奔」を採用する訳は絶対に無いのだった。結果、必然の成行として、関羽の選択は、「兵を率いての南進」でしか有り得無かった。しかも、このタイミングを逸すれば最後、もはや同じ選択肢は消滅。2度と取り返しの効かぬ状況へと進んでゆくのだった・・・・。
そして、この襄陽郊外で為された「南進の決定」は即ち、関羽の選択肢の中から「西方への逃避」・「蜀本国への生還」を永遠に奪い去ってしまう事に直結していたのである。何となれば、後に関羽は、隣接する西方の諸郡も、既に【陸遜】によって占領・遮断されて居る事を知らされ、もはや西方への脱出は不可能である事を悟らされるからである。畢竟、関羽は敗残の軍を率いて南進するしか道は無かったのである。それが、己の破滅への道の一里塚だったとは、つゆ知る由も無い儘に・・・・。
軍団の先頭、将校団からも独り離れ 馬上に佇む関羽雲長
・・・・言の葉を封印した彼の脳裡に浮かぶものは果して何か??はた只管のぞむ其の行く手には、一体何が待ち受けて居るので在ろうか?
「では江陵へ向う。敵の手に落ちた我が城を奪い還すのじゃ!」
方針が決まった関羽軍は再び動き出した。同じ南進でも《水軍》を用いた漢水沿いの途も考えられたが7月に溯上して来た時とは状況が一変していた。魏の江夏郡太守を数十年に渡って務める討逆将軍・文聘ぶんぺいが漢水の中流域をガッチリ制圧してしまって居たのである。関羽軍は当初、輜重の搬送にも漢水を利用していたが現在ではすっかり制水権を奪われ、往来は止まった儘であった。そこで偵察の水軍を先遣させて試た処、その悉くを文聘に焼き討ちされてしまったのである。蓋し 水軍の危うさは、常に
一挙全滅!の危険性を伴う事であった。 地上戦なら有り得ぬが 水戦では100対 0 が起こり得る。又、長江は呉軍艦隊の跳梁跋扈する水域だった。そこで結局、水軍による(漢水沿いの)南進は取り止めと成ったのである。
『正史・文聘伝』 に・・・・『関羽ノ輜重ヲ漢津ニ攻撃シ、荊城ニ於イテ其ノ船ヲ焼キ払ッタ』と在るのは、この時の事を記したものであろう。ちなみに「漢津」とは特定の港を指すものでは無く漢水の「或る港」と広義に解釈して差し支え無いであろう。
「ーー出立〜つ!!」 進軍の号令は関平が叫んだ。馬上まなじりを決した将校団が続く。軍団が向う方角は南。目指すは本拠地・江陵の城。
関羽には自信が在った。己が心血を注いで経営して来た根拠地へ戻って戦うのだ。今は【麋芳】の”個人的な裏切り”に遭って、江陵の城は呉軍に奪われて居るが元々城内に居た多くの兵士や領民は皆、関羽の信奉者で在り、気心の知れ合った者達なのばかりで在る。更には今、関羽が率いる兵士達も亦みな城兵の知り合いであり、領民の縁者同士で在るのだ。
軍議の席上で誰かが言った通り、城の外から彼等に対して気脈を通じ、内応を約した上で戦えば、勝算は充分に有る。だから余所者の呂蒙は追い出され、江陵の城は再び本来の領主に取り戻されるのだ。・・・・そんな思惑を秘めつつ、関羽軍の南進は続く。
やがて襄陽郡を通過し郡境の「編県」で大休止。此処での住民は皆、関羽軍を自国軍として熱烈に迎えて呉れた。最も気になる〔呉軍の姿〕は、未だ気配すら無かった。
お蔭で憔悴気味だった軍団は大いに息を吹き返した。そして再び行軍を開始すれば其処はもう荊州の心臓部・「南郡」の地であった。兵士の故郷・出身地に帰って来た事になるのだ。
更に南下を続ければやがて「長阪」「当陽」の古戦場跡に近づく。其処まで辿り着けば、目指す「江陵」は僅か80キロの至近距離と成る。呉軍との遭遇戦も予想される 警戒圏内 に突入するのだ。ちなみに江陵と当陽との中間の地点には「麦城」と云う軍事専門の小さな城砦も在った。何事も無く進めば多分その麦城あたりが江陵奪還作戦の為の前線基地と成るに相違無いであろう。
※ 麦城の位置は、〔もっと西寄り〕 だった とも考えられる。古代の地名は、飽くまで推定である。
だが途中、街道の上を様々な情報が飛び交い、錯綜した。その点に関し、『正史・呂蒙伝』の中には、注目すべき次の1節が記されているのである。
関羽ハ軍ヲ還スト其ノ途上、幾度モ使者ヲ遣ッテ
呂蒙ト連絡ヲ取ラセタ。呂蒙ハ使者ガ来ル毎ニ厚ク持て成し、城内ヲ隈ナク巡ラセ、家毎ニ訪問サセタ。』
この宿敵同士の対応感覚は現代の世知辛い我々にはイマイチ理解の及ばぬ部分が含まれている。・・・生きるか死ぬかの瀬戸際なのに何で関羽は其の敵対者に臆面も無く、いとも当然の如くに真っ正面から使者を送り続けたのか??そも其の発想自体が摩訶不思議ではないか!?
それに対する 呂蒙の態度の方なら 未だ 納得がゆく。明らかに
自分有利の思惑通りの情報発信が出来るからに決まっている。では、こうした場面は当時の常識だったのか?ー→まさかア〜である。虚々実々こそが現実の世界で在り、策謀渦巻く戦国乱世なのだ。こんなに思いっ切しストレートな遣り方をして通用するのは流石に特異な、〔オーラ発光者〕だけに限られる。
まあ何と云う貫禄・存在感の持主!それにしても鷹揚で大らかなモンだ!・・・で済ませても構わぬ。が然し、幾ら敗退の憂き目を味わい必死に情報を欲して居たにせよ、其の処し方の裡には、些か関羽独特の驕り・傲慢さの態度が潜んでは居まいか?まあ何も目鯨を立てて論う要点では無いのだから、いっそ無骨で可愛い気が有るとも、哀れとも滑稽とも謂えようか。ーーいずれにせよ関羽は彼なりの方法で(矢継ぎ早に使者を繰り出し)頻りに情報を求め続けながら、それでもなお半信半疑の儘に、その情報源自体に向って進んでゆくのだった。・・・・そして其の帰結が上記・呂蒙伝の続きと成って現われて来るのである。
城内の人ノ中ニハ、自ラ書イタ手紙ヲ使者ニ託シ
呂蒙ガ 信頼デキル事ヲ 伝エル者モ 在ッタ。
関羽ガ 遣わした使者ガ( 陣営に )戻ルト、人々ハ密かに其ノ使者ノ元ヲ訪レテ(故郷の)状況ヲ尋ネ、みな 自分ノ家ノ者ガ 無事デ 平素ヨリモ 手厚イ待遇ヲ受ケテ居ル事ヲ知った。
其ノ為関羽ノ配下ノ軍吏モ兵士モ呉ニ対スル敵愾心ヲ失ッタのである!
兵士達の家族が 平素よりも手厚い待遇を受けて居る様は 既に紹介したが、念の為に再録して措こう。合わせ読むと、呂蒙と云う存在の賢人ぶりが改めて良く解る。
『呂蒙は城に入って其処を占拠し、関羽や其の配下の将士達の家族を全て捕えたが、彼等を慰撫すると同時に軍中に禁令を出し、住居に押し入ったり、物品を要求したり
強奪してはならぬ!と命じた。処が、呂蒙の旗本で汝南出身の兵士が民家の笠を1つ奪い取って官の鎧の覆いに使った。鎧は公用物ではあり、私物化したのでは無かったのだが、呂蒙は是れを軍令を犯したもので、同郷の出身者であるからと言って法を曲げる事は出来ぬとして、涙を流しながら彼を 斬刑に処した。この事が有って全軍は震え上がり、道に落ちている物も自分の物とする者が無くなった。
呂蒙は毎日の如く、親近の者を遣って其の地の老人達を見舞わせ何か不足する処は無いかと尋ね、病気の者には医薬を給し、飢えや寒さに苦しむ者には衣服や食糧を与えた。その一方で、関羽が倉庫に蓄えていた財宝には全てを封印し、孫権が遣って来るのを待った。』
その孫権が大艦隊を率いて”江陵”に姿を現わしたのは
『関羽 敗るる!』の報が呂蒙の元に届けられた其の直後であった。正にジャスト・タイミング・・・・この〔荊州奪還作戦〕即ち〔関羽討滅作戦〕は全て呂蒙の思惑・計略通りに進捗している、と云う証左であった。 そして此の大艦隊の中には、
関羽を仕留める為 に選ばれた 特別クルー が
含まれて居るのであった。
「それは重畳!いよいよ大詰めの段階じゃな。」
呂蒙の出迎えを受けた孫権は 挨拶もそこそこに 現況報告を
求め促した。そして万事が2人の事前の打ち合わせ通りに運んでいる事を聞かされた孫権は、大いに満足して頷いて見せた。
「大会戦で破れた上からはベン水の北に留まる事は出来ぬのが道理。如何に 軍神・関羽とは雖も、もはや 荊州に退き戻すしか 選択の余地は残されて居りませぬ。きっと今頃は敗残兵を集め、此方に向かって進み始めた頃で御座いましょう。」
「呂蒙に掛かっては流石の関羽も丸で掌中の玉の如しじゃな」
「我が方としては現在、関羽を完全な落ち武者に仕立て上げる為の策謀を進めて居る処で御座います。いずれ関羽は一戦の要とて無く、孤立無援の憂き目を見る事と成りまする。」
「では予定通り、罠の中へと追い込むのじゃな?」
「と謂うより、罠に向って落ち延びて来る獲物の退路を絶ちつつ、勢子と猟犬を放って・・・罠の口を締める!!・・・そんな按配で御座いましょう。」
「さても、じゃな。その具体的な手配りを再確認して呉れ給え。」
「では御一同、作戦地図の廻りに集まって下され。」
因みに、この場面に会同した呉軍全幕僚の顔ぶれであるが・・・
残念ながら、個々に詳しくは判ら無い。但し、この作戦が如何に
”挙国総動員体勢”で在ったか!それを推測させる人物としては(どちらかと謂えば文官の重鎮で、後方に在るべき)諸葛瑾の名が、『関羽ノ討伐ニ参加シ』 と、「正史」に見えるのである。尤も彼の名誉の為に付言して措くならば〔平時には文、いざの時には将!〕と云のが名士の条件だったから、彼とて甲冑に身を固めて1軍の先頭に立つ事はママ在るのだが・・・。
更にもう1人、参戦が確実で『関羽ヲ捕虜ニシ、荊州ヲ平定スルについては、其ノ働キガ大キカッタ』と明記されて居る人物・・・・孫皎も居る。彼は君主一族(宗族)で、初代・孫堅の弟【孫静】の3男。孫権は最初、この作戦の総司令官として、彼を呂蒙と同じ地位の、左軍と右軍とに就かせようとした程の人物で在る。これまで呂蒙からも信頼され、益陽戦役など多くの場面で重要な役割を任され、活躍して来て居た。正に宗族の若きホープだった。然し統帥の混乱を嫌った呂蒙が、赤壁戦時の周瑜と程普の左右2軍体勢の危うさを引き合いに出し、「どちらか1人、優れていると思う方をを選んで下され!」と迫った事から、孫権は陳謝し「貴方を総指揮官に任じ、孫皎には後詰めを命じよう」と決着させた程だったのである。ただ惜しむらくは、関羽戦の決着が付いた直後、この年の暮れに急死(原因不明)してしまう・・・・。
そんな多くの、殆んど呉国の全将軍を前にした呂蒙は、〔既定方針通り、作戦には1部の変更も無い〕旨を告げた後、絵図面上に手を置き、指先を移動させながら、各部隊の進路と役割を再確認した。そして全軍15万の差配を次々と為した後、最後に言った。
「御主君と私は本軍を率いて此処・江陵に待機。事の帰趨を見守りつつ、適宜に猟犬部隊を派出させ、朗報を待って居よう。」
さて、いよいよ〆は、特別クルーの登場である。
ーーおっと、その前に、突然ですが此処で問題デス。
大英雄・関羽を最後に仕留める役割に最も相応しい呉軍の武将キャラは果して誰でしょうか??
♪Ans→そりゃあ、やっぱあの男でしょう!!と誰しもが思う。
大軍団を率いるよりも、こう云う 特殊任務こそが生き甲斐の必殺仕事人。たった独りで曹操の寝所へ乗り込んだ実績とリベンジ魂を持つメラメラ男。本来ならば、己が戦功を立てた「栄光の地名」で在るべきものを、負けた相手に
まんまと其の名を奪われた。
その呼び名も何と『関羽瀬 らい!』とは正に屈辱的な命名である。その口惜しさを放置した儘で済ませる様なやわキャラでは無い、元ヤーサンの呉軍スピリット。特殊部隊を率いた奇襲攻撃を得意とする肝っ玉男。而して私生活では一寸でも気に喰わねば直ぐに相手を殺す物騒な輩・・・・。♪そうデス。→
あの甘寧クンを置いて他に一体誰が居りましょうか!!
だが然し現実の処それはブブ〜!!の不正解なのである。何故なら惜しい哉・・・・このとき甘寧は、既に不治の病に倒れ、床に臥せって居る身なので在った。病没するのは多分、翌220年の事である。最長でも221年で、222年迄は生きて居無い事が潘璋伝の記述から読み取れる。
『甘寧ガ死去スルト、(潘璋は)其ノ配下ノ軍ヲモ 併セテ指揮シタ。』
との記述が、この219年12月の活躍の【後】に在り、222年に起こる夷陵の戦いの【前】に置かれて在る故である。※ ちなみに呂蒙の病没年も亦、之と全く同じ内容の出来事から、甘寧と同じ年だったと算出される。(此方は『朱然伝』に拠るが詳しくは後述)
ーーさて本題に戻ろう・・・で、その特別クルーの登場だが・・・
「従って”関羽狩り”の実行は別働軍の任務と成る。その内将欣殿は水軍を率いて漢水を溯上。関羽が水軍を用いての退路を遮断して戴く。」
この将欣、呂蒙とは同期の桜。晩学の経歴も同じポン友だった。然し実は此の時の将欣・・・・もはや余命幾許も無い”重病人”で在ったのだ。だからこの栄え有る任務は、呂蒙の、親友に対する最後の配慮であり、名誉職・冥土の土産であるのだった。実務は副官の誰かが補佐するのである。そして将欣は作戦が完了して母国へ帰還の途中、そのまま船中で不帰の人と成るのだった。
と、なると・・・・実質の主役・実行部隊の登場は此処からである。
「潘璋 殿は、朱然 と共に、陸路の退路を絶つ為に臨沮へと廻り込み、その後はUターンして夾石に駐屯。臨機に勢子と成って、直接関羽を追い詰める役割を果して戴こう。」
正に此の2人こそが、関羽を仕留める為の主役で在った。「おう、望む所だわい。じゃが之は戦さと謂うより、もはや落ち武者狩りで御座るな!ウッシッ、功名が向うから遣って来て呉れるとは!!」
此処でチョット〔素朴な疑問タイム〕
こんなバカッ広い中国大陸なんだから敵に出会いそうも無い場所は幾等でも在る筈でしょ?いや寧ろ、出会う方が難しい位に度デカイ中国なんだから、関羽軍は何処からでも
好きな場所から好きなコースを選んで進めば、楽勝で脱出できそうなのに何で態々 敵が手薬煉しいて待ち受けて居る所へ、ノコノコ向って行くんですか〜??信じられな〜い!!
確かに地図帳を観る限りでは、仰せの通りである。関羽が向おうとしている益州盆地への行き方は 自由自在に広い。その途中は 全て西部山岳地帯ではあるが、木の根を齧ってでも突き進む覚悟さえ有れば、その逃亡ルートは無限に存在する如くである。大軍団なら兎も角、僅かな伴廻りだけの逃避行ならば、道なき道の原野を行けば、絶対200%捕まる訳も筈も無い。ーーだのに何故、関羽は其うせずに、捕まってしまったのか!?
Answer→ 1800年も前の地上は、そんな甘っチョロイ生半可なものでは無かったのだ。限られた極く少数のルート以外に人の手は及ばず、結局の処
深い自然の驚異の前にひれ伏すしか無かったのだ。構わず踏み込めば忽ち迷って進退に窮し、唯有る結末は〔行き倒れ〕のみだった。従って如何なる豪傑英雄と雖も、その限定された道筋を辿る以外に策は無かったのである。
無限大の国土で、”待ち伏せ”が可能だった所以とも謂える。
「おう、望む所だわい。じゃが之は 戦さ と謂うより、もはや 落ち武者狩りで
御座るな!ウッシッ、功名が向うから遣って来て呉れるとは!!」
【潘璋】・・・一言で謂えば「キンキラ好きの、がさつ獰猛タイプ 」部将。4年前の合肥戦役で、『遼来来!』の襲撃を受けた孫権を遠方から駆け寄せて救ったのは有名。貧乏家庭に育った反動か贅沢を好み、分不相応の服飾物を平気で用いた。性格は粗暴。為に 部隊は 常にピリッと勇猛だった。
この辺りは 些か【甘寧】と似た部分であるが、決定的に違うのは、金銭への執着心・強欲・居汚なさであった。血眼で軍功を追う一方、略奪品市場
を 常設経営し、あざとい商売で巨利を得た。挙句には不法な殺人を犯して迄も、他人の財物を強奪する始末。しばしば監察官から訴えられるが、孫権は少年時代からの直臣だった彼の勇猛さを寵愛し、罪を問わなかった・・・・と謂う人品。現在の地位は偏将軍。
「可能なら、生け捕りの捕虜と致しますか?」 関羽の名にも全く臆せず、アッケラカンとして成功を疑わぬ小柄な38歳。
【朱然】・・・13歳の時、呉国草創期の重臣・朱治の養子と成る
( ※ 朱治は 現在64歳で 呉郡にて 隠居中。5年後に死去する
)
朱然の人品は、潘璋とは正反対の対極を為して居た。
『身の丈は7尺(158cm)に満たなかったが、カラッとした性格で内々の生活は身を修めて清潔であった。飾りも軍器にだけは施すが、其れ以外はみな質素な用具を用いた。終日謹んで職務に励み、いつも陣頭に立ち、緊急の場面に臨んでも心を動揺させる事の無い点は、誰にも真似の出来ぬ所であった。 世が平穏で在る時も、朝夕ごとに非常召集の軍鼓を鳴らし、その軍営に居る兵士達はみな装備を着けて整列した。』
※ この朱然の墓が1984年に「牛渚」で発見され、140点もの副葬品が完全な形で出土した。お蔭で我々は、一挙に1800年前の時空を目の当りにする事が出来る様になった。第3部で紹介
朱治の姉の子で元の姓は施。字は義封。現在の地位は偏将軍。
「いや、余計な忖度は無用。捕え次第、其の場で直ちに首を刎ねよ!そもそも手負いの虎は却って危険じゃぞ。老いたりとは申せ相手は大関羽じゃ。些かでも油断したら己の命は無いと思え!」
「そうは申されても、関羽は早60近い老体。如何程の事や有りましょう!」
若い朱然は些か事を安易に観て居る。呂蒙は再び嗜めた。
「確かに、呉蜀2国の戦さは既に定まったと謂えよう。じゃが事、武将としての関羽個人との決着となると、その結末は壮絶となろう。皆も古の歴史に於ける〔項羽の壮烈な最期〕は、よ〜く知って居ろう。仮令もし関羽が独りに成ったとしても、彼が本気で戦いを挑んで来れば、こちらもタダでは済むまい。どれだけの犠牲を被るやも判らぬのじゃ。きっと心して掛かって呉れよ!」
「はい、仰せ御尤もで御座いまする。決して油断は致しませぬ。」
と其の時、1人の貴公子が声を発した。22歳と若い。
「おいおい、私を忘れて貰っては困るなあ〜。」
忘れるなど滅相も無い事だ。但し、この貴公子の、この場面での登場は「正史」に拠るものでは無く補注の『呉書』の記述だから、どうしても後廻しにせざるを得無いノデアル。
孫桓ーー『風貌端正、有能聡明。博学多識で人との議論や対応に巧み。孫権は 常々 彼を 「一族内の顔淵じゃ!」 と称し、武衛都尉に抜擢した。 関羽を 華容に 討伐した際の作戦に参加し、関羽の余党を説得して5千人を呉に帰順させ、牛や馬や軍用機械などを夥しく鹵獲した。』
孫河の息子で字は叔武。『正史』には、3年後の222年、25歳の時に劉備の進攻(夷陵の戦い)での活躍が初見の人物だが急逝してしまう。
「最後に暮れ暮れも申し渡して置くが・・・・決して関羽を逃しては為らぬ。絶対に見つけよ。そして見つけたなら必ず其の場で斬り殺すのだ!!よいな、生かして置いては為らぬ。捕虜として連れ帰っては為らぬぞ。必ず、その首を持ち帰って来るのじゃ!!」
「それ程に関羽は、国にとって恐ろしい存在なのである・・・!!」
※麦城や臨沮などの地名所在地は飽く迄も推定に過ぎぬ。本図も大凡の参考と思って戴きたい。
「存外で御座いますな〜。」都督の趙累が感想洩らした。
てっきり呉の大軍団が待ち受けて居るものと覚悟して進んで来たものを、全く肩透かしを喰わされた格好で、何の支障も無い儘に関羽の軍は早120〜130キロを南下し続け、行程の8割がたを過ぎようとして居た。
「この様子であれば、この先の麦城にも無事に入れそうですね」
※ 本文では、麦城の位置を、上図よりも大分、《南寄り=黄矢印の先端あたり》に想定してある。
関平も此の辺りまで来れば、土地勘が有った。日頃、江陵の居城から時々遠乗りに来る場所で在ったのだ。
「これ程進んでも尚、1兵の姿も見せぬとは、呂蒙の奴め、一体何を考えて居るものか?油断は為るまいぞ。」
関羽には、己がすっかり罠の奥深くにまで誘い込まれ、もはや
退路は全て絶たれて居ると云う事実を、未まだに認識する事は出来無かった。・・・・やがて、有名となった”だらだら坂”の頂上に出る。急に眼の前が開けた。
「あ、あれは何じゃ!?」
ーーと、其の眼下には、将兵の誰もが夢想だにし得無かった、
トンデモナイ光景が眼の中に飛び込んで来たのである!
「おお〜、あれは!」 「ま、まさか・・・!?」
関羽軍の将兵達が 口々に驚きの声を上げるのは無理からぬ事であった。ーー遙か眼の下、だらだら坂の向うに繰り広げられて居た光景とは・・・・
何と、その坂のスロープの両脇にビッシリ、丸で彼等を出迎えに来たかの如く、黒山の人だかりが、視界の先の果ての果てまで蜿蜒と打ち連なって正座して居たのである!!その数はおよそ7〜8千。いや1万人を超えて居るやも知れ無かった。しかも其の者達は、全て軍人や兵士では無かった。
この寒空の下、吹き荒ぶ寒風を物ともせず、我が息子・我が夫・我が兄の無事な姿を求めて、わざわざ江陵や南郡各地の郷里から志願して遣って来た、関羽軍将兵の親兄弟や親戚達で在るのだった。中には腰の曲った白髪や、母親に抱えられた乳飲み子の姿すら在った。だが人々は只、息を呑んで、坂を下って来る隊列の中に、自分の探し求める相手の姿が在るか何うかだけを見守るだけで、声を上げるでもなく、ひたすら祈りを込めた眼差を必死に投げ掛けて居るだけで在った。両手を合わせて拝む老母や妻達が居た。
長い長いだらだら坂だったから、下から道を眺めれば、求める相手の姿がつぶさに見通せた。正に打って付けの集団識別の場所で在った。左右の沿道から何万もの瞳が、懸命の表情で愛する相手を求めた。するとやがて、今度は兵士の隊列の方からも、同じ動作がさざ波の如くに広がってゆくのだったーーと、やがて・・・
其処此処で、喜びと驚きの声が上がり、互いに抱き合って歓喜の涙にくれる家族・夫婦・兄弟の姿が出始めた。
軍隊の行軍は渋滞し、更に多くの再会が果され始めた。居並ぶ親族の座席は、隣近所の者達同士ごとに集まって居たから、その喜びの輪は、尚のこと大きく広がっていった。
「ーー呂蒙め、考えおったナ!どうりで姿を現わさぬ筈じゃ・・・」
馬上、苦虫を噛み潰した如き表情となった関羽の呟きだった。
「いかが致しまする?追い払いますか・・・・」
関平は不可能を承知で一応は訊いてみた。
「構わぬ、捨て置くのじゃ。皆の好きな様にさせてやれ。どの道、強制した処で、いざの時に逃げ出すのと変らぬ。その気持の有る者だけが追い付いて来るじゃろう。それだけで充分じゃ・・・・。」
全軍の先頭を行く関羽は、背後の喧騒には眼も呉れず、何時も通りに背筋を伸ばし、真っ直ぐ前だけを見据えて馬上に揺られ続けた・・・・。
「見苦しい真似は すな!!」
関羽の、己に対する激しい怒りが、屈折した形で、息子の行為に叩き付けられた。流石に後の様子が気に成る関平は、思わず身を捩って兵士達を振り返ったのだった。
「ーーハッ!!」チラと見えた限りでは、幕僚たち以外の者はみな途中で立ち止まり、家族探しに没頭して居る模様だった。
《大丈夫で在ろうか!?》・・・・一刹那、不安の翳が関平の脳裡を掠めた。然し関羽の檄した一喝の為に、幕僚の誰一人もが、もう2度とは背後を振り向か無かった。
「開門〜ん!!」 もしかしたら抵抗に遭うかと危惧したが、関羽の威令は未だ未だ健在で、麦城の守備兵達は畏まって門を開くと、恭しく一行を迎え入れるのだった。
かくて麦城に到着した関羽。このとき初めて後を振り返った。
《ーーあっ・・・・!!》
其処で関羽が見たものは・・・!?
【第250節】 ああ関羽、関羽雲長よ!(非業の死)→へ