【第246節】
時の流れ、特に「史劇の時空」 に於いては、〔個々人〕 と 〔時代〕と云う2つの時間経過が同時に進行・更新されてゆく。今の場合は、関羽雲長と云う個人の経歴と、三国時代と云う歴史潮流の【時系列】とである。そこで我々は先ず、関羽と云う個人の全生涯を俯瞰して措こう。
以下が『三国志・関羽伝』全文である。即ち関羽雲長 と云う 人物の生涯を記した 公式履歴である。
関羽字雲長。本字長生。河東解人也。亡命奔シ豕郡。 関羽 字は雲長。もと字は長生。河東 解の人なり。亡命してシ豕郡に奔る。
先主於郷里合徒衆。而羽與張飛爲之禦侮。先主爲 先主 郷里に於いて 徒衆を合す。而して羽、張飛 と 之が為に 禦侮たり。
平原相以羽・飛爲別部司馬。分統部曲。先主與二人 先主 平原の相となり、羽・飛を以って別部司馬となし、部曲を 分統せしむ。
寝則同牀。恩若兄弟。而稠人廣坐。侍立終日。 先主 二人と 寝ぬれば 則ち 床を同じゅうし、恩は 兄弟のごとし。
随先主周旋。不避艱儉。 而して稠人広坐するも侍立すること終日。先主に随い周旋し艱険を避けず。
先主之襲殺徐州刺史車冑。使羽守下丕卩城 先主は徐州刺史車冑を襲殺するや羽をして下丕卩城を守らしめ太守の事を
行太守事。而身還小沛。建安五年。曹公東征。 行なわしむ。而して身ずから小沛に還る。建安五年、曹公東征す。
先主奔袁紹。曹公禽羽以歸。拜爲偏將軍禮之 先主、袁紹に奔る。曹公、羽を禽にし 以って帰る。拝して 偏将軍と
為し 之を
甚厚。紹遣大將軍顔良攻東郡太守劉延於白馬。 礼すること甚だ厚し。紹、大将軍 顔良を遣わして東郡太守劉延を白馬に攻む
曹公使張遼及羽爲先鋒撃之。羽望見良麾蓋。 曹公、張遼及び羽をして先鋒と為し之を撃たしむ。羽、良の麾蓋を望見し馬に
策馬刺良於萬衆之中斬其首還。紹諸將莫能當者。 策むちうって良を万衆の中に刺し、その首を斬り還る。紹の諸将よく当る者なし。
遂解白馬圍。曹公即表。封羽爲漢寿亭候。 遂に白馬の囲みを解く。曹公 即ちに表して 羽を封じて 漢寿亭候 と なす。
初曹公壯羽爲人而察其心神無久留之意。 初め曹公、羽の人となりを壮とし、その心神、久留の意なきを察し、張遼に
謂張遼曰。卿試以情問之。既而遼以問羽。 謂いて曰く、卿 試みに情を以って之に問え と。既にして遼 以って羽に問う。
羽歎曰。吾極知曹公待我厚。 羽 歎じて曰く、われ極めて曹公の我を待つこと厚きを知る。然れども 吾は
然吾受劉將軍厚恩誓以共死。不可背之。 劉将軍の厚恩を受け誓うに共に死するを以ってす。之に背くべからず。われ
吾終不留。吾要當立效以報曹公乃去。 終に留らじ。われ要ずまさに効を立て以て曹公に報いて乃めて去るべし、と
遼以羽言報曹公。曹公義之。 遼、羽の言を以って 曹公に報ず。曹公これを義とす。
及羽殺顔良曹公知其必去重加賞賜。 羽の顔良を殺すに及び、曹公 その必ず去るを知り、重く 賞賜を 加う。
羽盡封其所賜。拜書告辭。而奔先主於袁軍。 羽、尽く 其の賜う所を封じ、拝書告辞して 先主のいる 袁の軍に奔る。
左右欲追之。曹公曰。彼各爲其主。勿追也。 左右これを追わんと欲す。曹公曰く、彼各々その主の為にす。追うなかれ、と
從先主就劉表卒。曹公定荊州。先主自樊將 先主に従い劉表に就く。表卒し、曹公荊州を定む。先主、樊より正に南のかた
南渡江。別遣羽乗船数百艘合江陵。曹公追至 江を渡らんとす。別に羽を遣わし船 数百艘に乗り 江陵に会わしむ。曹公追うて
當陽長阪。先主斜趨漢津。適與羽船相値。 当陽の長阪に至る。先主 斜めに漢津に趨はしる。たまたま羽の船と あい値い
共至夏口。 共に夏口に至る。
孫権遣兵佐先主拒曹公。曹公引軍退歸。先主收 孫権兵を遣わし先主を佐け曹公を拒ぐ。曹公軍を引いて退帰す。先主、江南の
江南諸郡。乃封拜元勲。以羽爲襄陽太守・盪寇将軍。 諸郡を収む。乃ち元勲を封拝す。羽を以って襄陽太守・盪寇将軍となし江北に
駐江北。先主西定益州。拜羽董督荊州事。 駐せしむ。先主西のかた益州を定む。羽を拝し荊州の事を董督せしむ。
羽聞馬超來降。舊非故人。羽書與諸葛亮。問超人才 羽、馬超の来り降るを聞く。旧より故人に非ず。羽 書して諸葛亮に与え、超の
可誰比類。亮知羽護前。乃答之曰。 人才、誰か比類すべきかと問う。亮、羽の護前するを知る。乃ち之に答えて曰く
孟起兼資文武。雄烈過人。一世之傑黥彭之徒。 孟起、文武を兼ね資り、雄烈ひとに過ぐ。一世の傑にて黥彭の徒なり。まさに
當與益徳並驅爭先。猶未及髯之絶倫逸羣也。 益徳と並び駆け先を争うべし。猶お未まだ髯の絶倫逸群なるに及ばず、と。
羽美鬚髯。故亮謂之髯。羽省書大悦以示賓客。 羽 美鬚髯あり。故に亮これを髯と謂う。羽 書を省て大いに悦び以て賓客に示す
羽嘗爲流矢所中。貫其左臂。後創雖癒 羽 かつて 流矢の当る所 となり、その左臂を 貫く。のち 創 癒ゆと
いえども、
毎至陰雨骨常疼痛。医曰。矢鏃有毒。毒入于骨。 陰雨に至る毎に 骨、常に 疼痛す。 医曰く、 矢鏃に 毒あり、毒 骨に入る。
當破臂作創刮骨去毒。然後此患 まさに臂を破り 創を作り、骨を刮り 毒を去るべし。然る後、この患
乃徐耳。羽便伸臂令医劈之。 乃ち 除かれんのみ、と。羽 すなわち 臂を伸ばし
医をして 之を 劈かしむ。
時羽適請諸将飲食相對。臂血流離。盈於盤器。 時に羽 たまたま諸将を請きて飲食し 相い対す。 臂血 流離し 盤器に盈つ。
而羽割炙引酒言笑自若。 しかも 羽、炙を割き 酒を引き 言笑 自若たり。
二十四年。先主爲漢中王。拜羽爲前将軍假節鉞。 二十四年、先主、漢中王となる。羽を拝して前将軍となし節鉞を仮す。
是歳羽率衆攻曹仁於樊。曹公遣于禁助仁。 この歳、羽衆を率い曹仁を樊に攻む。曹公、于禁を遣わし仁を助けしむ。
秋。大霖雨。漢水汎溢。禁所督七軍皆没。禁降羽。 秋。大いに霖雨し漢水汎溢す。禁督する所の七軍みな没す。禁、羽に降る。
羽又斬将軍广龍悳。梁・夾・陸渾羣盗或遙受羽印號 羽また将軍广龍悳を斬る。梁・夾卩・陸渾の群盗、或は遙かに羽の印号を受け
爲之支党。羽威震華夏。 之が支党となる。 羽の威、華夏を震わす。
曹公議徙許都以避其鋭。司馬宣王・蒋済以爲。 曹公、許の都を徙し以って其の鋭を避けんと議す。司馬宣王・蒋済おもえらく
関羽得志。孫権必不願也。可遣人勧権躡其後。 関羽の志を得るは孫権必ず願わず、人を遣わし権に勧め其の後を躡ふむべし
許割江南以封権則樊圍自解。 江南を割いて 以って権を封ずるを許さば 則ち 樊の囲み 自ずから解けん、と
曹公従之。先是権遣使爲子索羽女。 曹公これに従う。是れより先、権、使を遣わし 子の為に羽の女むすめを索もとむ
羽罵辱其使不許婚。権大怒。 羽、その使を罵り 辱め 婚を許さず。 権、大いに怒る。
又南郡太守麋芳在江陵。将軍傅士仁屯公安。 また南郡の太守・麋芳、江陵に在り。将軍・傅士仁は 公安に屯す。
素皆嫌羽自軽己。羽之出軍芳・仁供給軍資。 素よりみな、羽 自ら 己を軽んずるを嫌う。羽の軍を出すや、芳・仁、軍資を
不悉相救。羽言。還當治之。 供給するも 悉くは 相い 救わず。羽 いう。還らば 正に 之を 治すべし と。
芳・仁咸懐懼不安。 芳・仁みな 懼おそれを 懐いだき 安んぜず。
於是権陰誘芳・仁。芳・仁使人迎権。 ここに於いて権、陰ひそかに 芳・仁を 誘う。 芳・仁、人をして 権を 迎えしむ。
而曹公遣徐晃救曹仁。羽不能克。 而して曹公、徐晃を遣わして 曹仁を 救わしむ。 羽、克かつ 能あたわず。
引軍退還。権已拠江陵盡虜羽士衆妻子。 軍を引いて 退き 還る。 権すでに江陵に拠り、尽く 羽の士衆 妻子を虜にす。
羽軍遂散。権遣将逆撃羽。 羽の軍 ついに 散ず。 権、将を遣わし 羽を 逆むかえ 撃ち、
斬羽及子平于臨沮。 羽 および 子の 平を 臨沮に 斬る。
追諡羽曰壯繆侯。 羽 を 追諡ついし して 壮繆侯そうびゅうこう と いう。
子興嗣。興字安國。少有令問。 子の 興、嗣つぐ。 興,、字は 安国。少わかく して 令問 あり。
丞相諸葛亮深器異之。弱冠爲侍中・中監軍。数歳卒。 丞相諸葛亮深く之を器異す。弱冠にして侍中・中監軍となる。数歳にして卒す
子統嗣。尚公主。官至虎賁中郎将。卒無子。 子の 統、嗣ぐ。 公主に尚す。官、虎賁中郎将に 至る。 卒して 子なし。
興庶子彜続封。 興の庶子・彜イ を以って 封を 続がしむ。
〔関羽雲長〕・三国志を代表する大英雄・最大の武将で在ると云うのに
その「伝」は口惜しい位に簡潔で短い。(※尤も 張飛はもっと短いが)蓋し、これ程の人物だ。『本伝』は簡潔でも、他のスペースでの関連記述は此の数倍ある。そもそも紀伝体は1事詳述1伝だからまあ良し、としようか。後節にて 全網羅する 予定である。
劉備と関羽・・・いかに元は意気投合し合った【義兄弟】で在ったとは雖も、人の世の観方は、飽くまでも【主君と家臣】、主従なのである。
さて次に我々は、もう1つの 〔巨大な時系列〕 を確認して措こう。
即ち、関羽が涯てる原因と成った、「時局の変遷・歴史潮流の時間的経緯」である。
時は 赤壁の大決戦 と同じ冬12月・・・・あれから丸11年の歳月が流れ 今し建安の24年。 即ち 西暦は 219年 も末の時点に在る。ーー此処まで 歴史は
事実上の3国を形成。のち 『三国時代』と呼ばれる事となる 「魏」・「呉」・「蜀」 の
3勢力鼎立の原型が形造られつつ在った。・・・・但し、214年迄は 【3国半時代】
或いは 【3,5時代】で在った。 「曹操の魏」
と 「孫権の呉」の2勢力は既存したが
未だ「劉備の蜀」は、荊州の一角に 《居候の居直り状態で0、5国》。その替わり、益州・漢中の山奥に1国分=”劉璋と張魯の政権”が生き残って居た。其れを先ず
根無し草の劉備が狙った。これ即ち諸葛亮の献策。そして214年、曹操と孫権が
対立して居る間隙を突いて 〔益州の乗っ取り〕 に、まんまと成功!トンビに油揚
の曹操は、翌215年に漢中を降し 面目を保つが、此処に於いて ようやく・・・・
『本物の三国時代』が到来した事と成る。 と同時に、3者間に新たに大問題が2つ発生した。1つは魏と蜀の《漢中問題!》。そして呉と蜀の《荊州問題!》。両方の争いに直接関係するのは「蜀」であるが、「漢中には劉備」が本軍を率いて臨み、「荊州では関羽」が事実上の独立軍を以って、呉を睥睨して居た。
ーーそんな中、先ず戦局が大きく動いたのは”漢中”の方であった。216年に魏王と成った曹操だったが218年には老骨に鞭打って再び漢中へ親征する。だが219年(今年)その
1月・・・・「宛城」で叛乱した【侯音】を、「樊城」に在った【曹仁】が討伐。前年1月に
「許都」で吉本らが叛乱した事と合わせ考えると、彼ら反曹操の者達は
《関羽の北上近し!》 との見通しや期待感、希望的観測を抱いて居た
のは間違い無いであろう。
5月・・・・漢中で劉備と対峙した【曹操】であったが『鶏肋!』の名言を残し長安へ
撤退。ここに〔蜀の漢中併合!〕が達成され、3国の原型が確立する。
6月・・・・勢いに乗る劉備は【孟達】と【劉封】に命じて「房陵」「上庸」2郡を奪取。
直後の動きから推すと、関羽の北上に備えた事前工作だった事が判然
不詳月・・・そんな時流を読んだ呉の呂蒙は、関羽を油断させるため病気を理由に
【陸遜】へバトンタッチ。密かに荊州進攻の準備に入る。
7月・・・・蜀の【劉備】は〔漢中王!〕を称し、更なる自国版図の拡大を野望する。
そして遂に関羽は北上を開始!!「江陵」の留守を【麋芳】らに任せる。
8月・・・・関羽は曹仁の樊城を包囲!折しも漢水が大氾濫し樊城は水中に孤立
それに対し 長安の曹操は 援軍を派遣するが 之も亦 水没。逆に関羽に
降伏させられ、于禁全軍が捕虜となる。曹操は〔遷都を諮問〕する程に
関羽の大攻勢を危惧。
9月・・・・泡を喰らった曹操は取り合えず【徐晃】を「宛城」へ急派するも、戦況は
好転せず。しかも「業卩」で〔魏風の謀叛が発覚!〕
10月・・・曹操は「洛陽」に帰還→そんな弱り目の機会を窺っていた【孫権】は
”臣下の礼”を取りつつ、曹操に全面協力を申し出て見せる。
閏10月・・呉は隠密行動を取りつつ【呂蒙】が先鋒と成って荊州への進撃を開始。
11月・・・呂蒙は「江陵」=荊州中枢部を無血占拠!更に陸遜は「房陵方面」を
制圧。やがて【孫権】率いる後続軍も本国を発進。最後の詰めへと向う。
12月・・・ようやく兵力の整った徐晃が関羽の包囲陣へと迫るーー即ち、関羽は
樊城包囲に、余りにも多くの時間を費してしまった観が有る。
7〜8月当初の勢いの儘であったならば関羽は とっくの以前に樊城を
片付け、魏の援軍をも蹴散らして、もはや中原一帯( 許都以南の荊州) は
全て関羽の軍門に屈して居た筈である。・・・・然し今や雲行きは予断を
許さぬ怪しさへと変って来ていたーー何故か??
いずれにせよ、冬の風雲は戦場に急を告げ、《最後の時》へと向って
まさに 動き出さんとしているのであった・・・・・
果して 関羽は いつ ”其れ”を 知ったのか!?
どんな局面に於いて、”其れ”を識ったのであろうか? そして
”其れ”を認知した関羽は、一体どんな態度を示したか? また
雲長と云う人間としては、如何なる心境を抱いたのであろうか!?
謂う迄も無く ”其れ”とは・・・・
〔呉軍の荊州進攻〕と〔全面降伏の現実〕 を指す。即ち
羽が孤軍奮闘、営々と刻苦経営して来た己の領地=農地と人民がたった一瞬の裡に全て瓦解し去った!と云う《情報》の事である
蓋し 其の第1報が味方からでは無かった点は、真偽の判定に最初から疑心暗鬼を齎し、混乱の度合を更に強める結果を生んだ。
思えば、最初に『孫権参戦!呉軍、荊州へ進撃開始!』を報せて来たのは、曹操側から射ち込まれた”矢文”であったのだ。其れを目にした時、関羽は笑い飛しながらもその真偽の程を自他に問うたであろう。謂う迄も無く、他の誰よりも常に〔呉軍の動向〕に最大の警戒心を抱いて来たのは、当の関羽自身であった。 その為に
出陣時には多くの兵力を荊州に置き残し、必要ギリギリの陣容で出撃した程であった。ーー然し、それにしてもである。そんな最重要の情報を敵側から受け取るとは何たる
《情報収集の拙劣さ》か!?いや、情報量は寧ろ過多であり、前後・敵2方向から成る発信源は過密に錯綜した程であったのだから、真に深刻だったのは・・・・
情報の”収集能力”では無く、それを分析し解読する〔情報処理能力の問題〕と謂えよう。もっと突っ込むなら、それ等を総合的に統括する〔情報管理部局の欠落〕・・・・関羽陣営内部に於ける 《システム上の欠陥》が 露わに成って来るのである。
詰り、本来は 諸葛亮に代表される如く、高級文官・名士層が其の部局の担当官と成って情報処理に専念する訳なのだが、いま関羽の周囲にはそのレベルの参謀が誰1人も居無かった。いや
関羽は 置く必要性を感じて居無かったのである・・・だがその関羽の姿勢・
スタイルは、必ずしも 「買い被り・自己過信」 とは謂いきれまい。
関羽の厖大な経験律からすれば一旦戦場に位置すれば、其処で実際に判断を下すのは
司令官たる武人=己であり、文官ごときが口を挟む場面など無いのであった。 そも 関羽の荊州経営方針は
飽く迄も【独立採算制】=孤立無援・唯我独尊を貫いて来て居た。と謂うより実態は・・・・武人・関羽の”名士への反発”に起因する軽視・蔑視の所為で、留守を預かる麋芳らとの間にはスースーと冷たい隙間風が吹き荒ぶ有様だったのだ。とてもキチンとした情報管理部局の設置なぞ望むらくも無い実情にあった。
・・・・一体全体、なんで”此んな事態”を招来してしまったのか??返す返すも悔やまれるではないか。
そこで60間近と成った筆者つらつら慮んみるに・・・・人間60歳とも成れば、如何に優良な実績・功績を上げて来た人物で在ったとしても・・・時の移ろいと共に確実に、否応無く、そして避け難く、謂わば宿命的に、時代からは置き去られ、時代の更新からは忘れ去られ終には《時代遅れ》に致至するのである。「俺は違う!」
と 幾ら力んでみても、其処は 誰しも 生身の哀しさ。 精々 抗っても、多少 その
時期を後送り にするだけであり、いずれ時代潮流からは疎外され超越する事は出来ぬのである。 ( 但し、主観的・形而上学的には却って存在価値や意義は増し深まるであろう事や、未だ洟垂れの世界が存在するを否定はしない。)
常に、肩で時代の風を切り、人々から脚光を浴び、一世を風靡して来た 三国志(前半)の英雄・関羽雲長だったとしても、この宿命からは逃れられぬのだった。 関羽が もっぱら得意として来た
〔真っ向勝負の時代〕は既に 関羽の足元から 去りつつあったのである。”信義”を、男の勲章・真情に生きて来た関羽にしてみれば
”姑息”とも映る 〔策謀〕や〔駆け引〕と云う要素が、此れから訪れる時代の趨勢・要請と成りつつ在ったのだ。畢竟《情報の重要性》が著しく増していた!!・・・・のである。此れ迄なら、多少大雑把でも構わなかった戦いの姿が今や
1分の隙も 狂いも 許されぬ頭脳戦へと移行し、その根幹を成す 〔情報戦の時代〕 へと
変貌を遂げていたのである。 之を 違った言葉で謂うならば・・・・即ち、関羽は
情報を軽視する と云う ”過ち” を 犯して来て居た!のである。 以前迄なら ”迂闊”で済んで来たものが、今は 過失の
”罪”と弾劾される時代状況へと移り変わって居たと謂う事なのだ
時代のエポックを成す此の関羽の大敗北!
《ー何故だ?何故なんだ!?》・・・・今こうして第2部最終章の筆を進めながらも常に其の自問自答の声が頭の中から離れず吾人の心をしてザワめかせ続ける。否や、是れは、”万人共通の思い”
と謂って良かろう。《余りにも情け無く、馬鹿げた結末ではないか!》
その最期は全く英雄らしからざる終わり方で寧ろ小人じみている
《何故そんな不名誉な結末へと進んでしまったのか??》
その不満な思いが、三国志ファンの鳩尾の辺りで疼き続ける。
然りながら今にして思えば、この〔関羽の北上〕は・・・その劈頭から既に最大の謎・疑問を孕んでいた事に気付かされる。ーー即ち、
関羽は 〔独断専行を為した〕 のか!?である。
そして、此処から全ての疑念・疑問は始まり、派生してゆくのだ。
★果して劉備との連繋(認可・裁諾)は在ったのか、無かったのか?
★在ったとするなら、何故に援軍を1兵も送らなかったのか?
★無かったとしても、何故に指示すら出され無かったのか?
★そも蜀本国は拡大方針だったのか?不拡大方針だったのか?
★蜀の大本営(劉備・法正・諸葛亮)は一枚岩に結束して居たのか?
★両者の間に温度差は無かったか?
・・・・などなど極めて根本的な謎・疑問は尽きる事が無く、従って議論・談論も亦
果てる事が無いのである。ーーそんな議論の1つ。
『劉備と疎遠に成って来て居た関羽は、自分の重さや互いの絆の深さを、改めて劉備に思い至らせんとして、敢えて暴発して見せたのである!』・『関羽の北上を知った諸葛亮は、思わず舌打した。』
・・などとする類の、一種 《独断専行・関羽暴発論》 を唱える見解も見受けられる。なかなかに熟慮した上での面白い捉え方だ。然し、其の観方は矢張り些か”穿ち過ぎ”であろうと思われる。幾ら何でも其処まで 関羽は小さく無かった と思う。こんなデカイ、関羽自身にとっても人生最大規模の、しかも国家の浮沈・否、存亡が懸かる大戦役なのである。個人のレベルで片が着くほど 甘い戦では無い。
この「関羽の北上」は〔時代のエポックを成す大戦役〕である!との認識は、結末の如何に関わらず、当時から強く持たれていた筈だ。
とは謂うもの、実は 筆者自身にも 此の「独断専行説」には相当に惹き付けられる
部分も有る。その拙い見解の1つがーー
《西南戦争時の西郷隆盛説》である。西郷が己の出馬を求める大きな声(郷里・士族)に突き動かされ、その心情に於いて ”已むに已む無く”暴発に加担した心境・・・・だったのでは在るまいか!?想い起こせば此処1年来、関羽は己の救援を求める中原の反曹操派(漢王室存続派)の人々の声を無視し続ける格好と成って来て居た。その為、各地に勃発した大小の叛乱・謀叛は悉く失敗に終ってしまっていた。その無念慙愧の怨みの声と共に尚も己を頼みとして北上を要請し続ける漢の忠臣達の声。義の人・関羽にとって最大の忠義は「漢朝廷の護持!」である。そも諸葛亮・劉備による建国理念自体が「漢の存続」であった。理念に於ける崇高と、心情に於ける共感、見過ごしには出来ぬ義侠の心根・・・・
だから問題は現実的な成功の見込みと時期との”板挟み”だった。
《本国との調整は不充分だが、もはや見切り発車も已むを得ず!》
ーーだったとしても、その後に何の手当ても指示すらもせず、丸で
”見放し”見棄て”見殺し”同然の如き冷淡な無為・・・・一体これは何なのだ!? 恰も 《もはや関羽は不要である!》との悪意が存在するのではないか、とさえ勘ぐりたくなる放置・無策である。結果、ストップを掛け続ける蜀本国(大本営)、好機到来と確信する現地軍(派遣軍)・・・・何がし、日中戦争(満州事変)に於ける日本軍部内の不協和音・指揮命令系統の無視・暴走を想起させる。(尤も其れは形の上だけの相似であり、日本軍の場合は個人的な功名心に過ぎ無いが)
ーーいや待て・・・三国時代に於いては「江陵」は、〔3勢力対峙〕の為の防禦拠点であり、「襄陽」は〔2勢力対決〕の為の進出(又は防衛)拠点と成り得た・・・・と謂えようか。而して「樊」は、その両方の意味合を微妙に外した縁に位置する。そして曹仁は、その「襄陽」では無く、「樊」の方に駐屯したのである。然も、1万に満たぬ是れまた微妙な兵力で関羽に対峙した。全ては曹操の命に拠る。・・・・だとしたら・・・もしかして此の〔北上〕も亦実は【関羽の誘き寄せ】=
”曹操の仕掛け”の範囲内だった、と謂うのか??
一体全体、事の真相は何処に在りや?蓋し、歴史の真実・史実は唯1つで在る筈だ!!・・・・だが、だが然し、である。結論から白状してしまうと、残念ながら、この謎解きには『絶体の正解は無い』・『見当たらない』 のである。在るのは全て憶測・推断に過ぎ無い。それ処か、謎は謎を呼び、次から次へと更なる疑問が湧き出でて来てしまい、全く収拾が着か無く成ってしまうのである。いやはや
参った!! ガックリ、である・・・。「土台、古代史の謎とは其うしたものである!」 とか 何とか 謂うしか 無い・・・・。それに付けても
関羽の最期を描く場合、矢張り気に掛かるのは・・・・
果して 関羽は ”いつ” 其れを 知ったのか!?
どんな局面に 於いて 其れ を識ったのか!?
『正史』には 期日に関する記述が一切 無い! のだから、それが大きな問題と成って来るのである。そして、其れを認知した関羽は一体どんな態度を示し、如何なる善後策を講じたのか?はた最早打つ手は無かったのか?
・・・蓋し、この問題を違う観点から謂えば、
情報を流す側 (魏・呉)それぞれの タイミング に関する疑問でもある。 己だけに有利な ”ジャストタイミング” とは
何時だったのか??その時系列(時間軸)の問題を解明してゆく際
前以って確実に言える事が2点有る。第1点は 矢文を射込ませたのだから→その時点では未だ関羽の包囲は有効だった事が判る。問題はその場面が何月何旬だったか?であるが、最早でも10月、最遅なら11月、恐らくは【閏10月頃】だったと思われるが諸氏には如何がであろうか?・・・・第2点は江陵は無抵抗で陥落=『急襲即降伏!』だったのであるから→〔呉軍来襲〕と〔拠城降伏〕の超重大情報を 関羽は2つ同時に確認した筈である。そして(半信半疑の状態を別とすれば)その場面は12月、徐晃との【大決戦直前】だった事となる。何という最悪のタイミングか!ギリギリの間際を突いての情報戦が呂蒙(孫権)と徐晃(曹操)そして関羽との水面下で、”策謀”として繰り広げられていたのである。ーー正に虚々実々、果して
関羽雲長 如何なる生死を辿るのであろうか!?
時は今、赤壁戦と同じ12月。あれから早11年の歳月が流れたのだ。また12月と謂えば・・・・三国志上最強の巨獣〔呂布〕が捕えられ縊り殺された月でもあるのだ。その ちょうど21年後の同月、今度は三国志上最強の軍神・〔関羽〕が捕えられ、殺され様としている。
そこで我々は、此処に、《関羽目線》に沿って、その時々の場面
場面を、”小説風に”振り返って措こうと思う。
※その際、それぞれの場面に居た可能性の有る人物としては・・・
荊州軍事総督【関羽】、その長男【関平】、荊州軍都督【趙累】、
主簿【寥化】の4人。(もしかすれば、荊州議曹従事の【王甫】もか?)
「おのれ〜、この肝心な時に、一体このザマは何じゃ!!」
到着した兵力は 要請の10分の1にも満たぬ弱兵ばかりだった。
「麋芳どのは、『突然に5万もの人馬の面倒を見せられる、此方の身にも成ってみろ!』・・・と申して居られました。」
「奴ら日頃から、何かと不平不満ばかり並べ立てて居りましたが、
是れは明らかな命令拒否で御座いますな!」
一度ならず、再三に及ぶサボタージュであった。手違いなどでは
無く、明らかな 嫌がらせ・意趣返し であった。
「抗命罪じゃ!許せん。我々が今、どんな戦局に直面しているか、
全く解って居らん!」
新たな兵力は、咽から手が出る程に欲しかった。苦戦だからでは無く、更なる大攻勢を掛ける絶好のチャンスだったからだった。
【8月時点】の戦局はそれ程に予想外の勝勢、兵力が幾ら在っても追い着かない程の展開と成っていた。然し、虎の子部隊(于禁軍)を失った曹操側も、此の時点では反撃の手段とて無く、関羽側には未だ未だ余裕の戦況では在った。
処が【10月時点】になっても洪水が引かず樊城の包囲が長引くに連れ関羽には焦りが生じ始めた。曹操側の反撃(徐晃の進撃)が始まってしまったのである。こう成ると、流石に切羽が詰り、もはや関羽も鷹揚な態度を見せて居る訳には行かなくなった。
「あ奴ら、還ったらタダでは置かんぞ!必ず処分して呉れるわ!」
のちに有名となる其の言葉を、関羽が衆目の中で吐き棄てたのは此の時であった。
「シ丐 水の氾濫が、こうまで長引くとは思いませんでしたナア。」
ようやく水が引き始めたものの、《樊城》の周囲は 恰も 底無し沼の泥濘状態と化していた。そのために 却って大型の戦闘艦は その
重さ故に身動きが取れず、全くの使用不能と成っていた。
「この儘では未だ暫くの間、此方から迂闊に手が出せませぬな。」
「その間に出来る事を、抜かり無くやって置く迄の事じゃ。」
そう言うと関羽は遠方への出撃を止めさせ、包囲陣地の強化を繰り返し指示した。そのため各陣地の逆茂木は10重にも及び、防衛陣形としてはほぼ鉄壁の姿と成った。そして関羽は同時に、埒の明かぬ江陵への派兵要請は後廻とし、増援を西隣の「房陵」と「上庸」に要請したのであった。ーー処が又しても、唖然とする如き返答が届けられた。・・・・『未だ周辺不穏のため、出兵・派兵は能わず。』
事ここに及んで、流石に関羽も内心に忸怩たる思いを抱いた。
胸に手を当ててみれば、いずれも思い当たる節は在った。
【麋芳】にも【劉封】に対しても、言うべきをズカリと言って来た。但しそれが此うまで根深い怨恨と成り果てて居たとは・・・夢想だにした事も無かった。いや、し得無かったのだ。常にエリートコースを歩み続け、いつも立場が強い者・上に位置し続けた者には気付けぬ
〔やられる方の切なさ〕・〔害を被る側の辛さ〕である。この愚かな事例は歴史上に繰り返し現われ続け、枚挙に暇も無い程に止む事が無い。詰り、今日でも明日にも同じ事が発生し得る行為なのだ。
今更ながら、しっぺ返しに遭って初めて、己の来し方に思い至った関羽59歳・・・・事実を眼の前にして是非も無し・・・・
「それにしても徐晃は、何をモソモソやって居るのでしょうか?
一体、どの様な部将・人物なので御座いまするか?」
かつて関羽は 曹操陣営に在った 経歴を持つ。 一流の武人同士、
幾人かと親しく成り交流も為した。徐晃もそんな相手の一人だった。
「慎重を絵に描いた様な人物だが、実は 底光りする 鋼の肝を持つ漢よ。ジッと力を蓄えて置く気質じゃ。決して侮っては為るまいぞ。」
と周囲には言いつつも、《自分よりは格下だ》 との思いが関羽には在る。諸葛亮から『絶倫逸群!』の御墨付きが届いてからは、なお一段と自信を強める 59歳の佇まい・・・・・。確かに其の自負心は
抱いて当然のハイレベルな世界での評価では在った。 だが 其の一方、そう思うこと自体が既に彼の奥行を限定してしまって居る事には、終に思い至らぬ儘で在り続ける。・・・・然りながら逆に謂えば60歳に成っても猶お何処か青っぽく、何時迄もカッカと燃える情熱執念・執着心が在る事は素晴しい。下手に枯れるより余程にマシでは在る。何がし永遠のロマンチストを髣髴とさせるではないか!!欲望と権謀の渦巻く乱世を、己に正直に、清々と生き抜くのは聖人君子では無く、生身の人間なのである。そこに一種 正直で純粋な関羽雲長の魅力の一端が有る。
「では未だ、敵側には充分な兵力が集まって居無い・・・・と観て
宜しいのですな?」
「石橋を叩いても渡らぬ様な男だが、動いた時は要注意じゃ。」
「真っ直ぐに向って参りますか?」
「来る筈じゃ。特に儂に対しては真っ向勝負を挑んで来る筈じゃ」
「駆け引きは無し・・・ですか。」
「そう在るべきだ!と考える相手じゃ。」
「呉が、我が南郡へ進撃を開始した・・・・と謂うのは本当で御座い
ましょうか!?」
敢えて息子の【関平】が、一同の不安を代弁する形で父に問うた。
曹操から矢文が射込まれた事は、既に一兵卒でさえ知って居た。
「在り得る事じゃ。」 関羽は否定し無かった。
「じゃが別に驚く事態では無い。以前から想定し、警戒して来た
事に過ぎぬ。今の儘で充分に対処できる。」
そう答えたが内心は可也のショックであった。”陸遜”と云う若僧に一杯喰わされたのだ。すっかり煽てられ、好い気にさせられた挙句裏を掻かれたのである。いや端的に謂えば、相手に見透かされる如き、”思い上がりの体質”が知らず知らずの裡に我が身に付いて来てしまって居たのである。・・・兎角 ”出来る男”の陥り易い陥穽、常日頃からテンションの高い目立ちたがり屋が得てして嵌りがちな 自業自得の落し穴。今更ながら詮無い事では有ったが、この歳に成ったから こそ 気付ける己の姿であった。 だが人には 「表向き」と云うものが在る。「意地」とか「沽券」とか「名誉」と謂ってもよいだろう。 内心では 慙愧に耐えぬ、忸怩たる思いを抱いたにしても、
今さら 己の生き様を否定する様な 言動は取れぬ。・・・・そう云う
”思いの灰汁”が寄せ集まって
、人の世とやらを造ってゆく。 況して晩年の、完結間近な人間にとっては 尚の事であった。・・・だから、ふと一瞬間、空白が生まれた。するや、忌憚無い性格の関平が、更に踏み込んで訊ねてきた。
「江陵が陥落した!とか、全面降伏した!と云う噂が流れて居り
ますが、我等としては如何に対処すべきで在りましょうか!?」
それこそ皆が一番知りたがって居る点であった。
「それは無い。窮地に追い込まれた曹操が、苦し紛れに流布させたニセ情報じゃ。時間的に考えても到底あり得ぬ事だ。」
確かに 《進攻》と《陥落》 との間が 接近し過ぎている。常識的かつ冷静に観れば、本来なら”別々に”伝わって来るべき情報が同時に伝えられ、丸で論理を無視して一緒くたにされて居る。
「確かに左様で御座いますな。荊州一の堅城が、そう易々と落ちる訳は有りますまい。」
そう自分達に言い聞かせる裏には、《幾ら個人的な怨恨を抱いたとしても、まさか麋芳は 其れを理由に 城を明け渡す様な 大それた行動は取るまい。》・・・・との自己暗示が在った。
「情報に拠れば、西の徐晃だけではなく、東から 夏侯惇や張遼 の軍も遣って来るとか。更には汝南の文聘も、漢水の途中で我が輸送船団を阻み始めたとか。我が軍は何うすべきで在りましょうか?」
ーー軍議の席上、関羽が答えてみせる。
「我等が最優先で備えるべきは、何を置いても 《徐晃の撃滅!》である。唯1点、其処に全力を絞り込む。徐晃さえ撃ち破れば、最早曹操に次の手は無い。即ち我等の勝利と成る・・・!!」
これが関羽の、魏の反撃に対応する戦術で在った。この時点では、全く正しい判断である。ーー然しながら関羽は、ここに於いて大きな 判断ミスを犯して居たのである。 と謂うよりも、相手の徐晃に対して
”高を括って居た”節が窺える。まさか頭脳戦を仕掛けて来るとは
想いもし無かったのである。・・・・その結果、折角手に入れていた「偃えん城」は、”見せ掛け”の甬道作戦に遭い、裏を掻かれる格好で陥落。重要な前線基地を失ってしまった。
「姑息な手に引っ掛かって大事な拠点を奪われるとは情け無い。」
味方の無能ぶりに臍ホゾを噛む関羽だったが、何がし〔嫌な予感〕に捕われて居た。ここへ来て発覚した後方基地での相次ぐ不祥事と前線基地での不始末・・・・今までは 全て此方に 上手く 流れていた
”時の勢い”が、少しずつだが確実に変り始めて居る。
「徐晃としては彼の面目に於いても必ずや他の軍が到着する前に単独で決戦を仕掛けて来るで有ろう。儂は其れを狙って居る。」
「それは何時、何処で・・・御座いましょうや!?」
「時はここ数日中。徐晃は、城との連絡を通じさせるよりも、先ず
儂との決着を求めて来よう。」
「では決戦場は何処と成りましょうや!?」
「流石に10重の陣を構える此の本陣には攻めては来れぬだろう。だから恐らく、儂を外に引っ張り出す作戦を採る心算であろう。」
「では、その手配りを下知して下されませ!」
一同、固唾を呑んで関羽を見守る。
と、正に其の時であった。 「御注〜進〜ん!!」
物見の伝令が転がり込んで来た。
「徐晃軍が 囲頭に攻め寄せて参りましたア!」
「おう、正しく総督さまの申された通りじゃ!」
この戦いで決定的な勝利を得れば全ての流れが 又 再び、関羽のものと成るであろう。
「ーー来たか。待って居ったぞ此の時を・・・!!」
【第247節】 已んぬる哉、無念の撤退 (届いた慙愧痛恨の報せ)→へ