【第245節】
名 将 の 条 件
                                    孫子を 超える 兵法

勝つ事よりも負けた場合の事を先ず考える・・・・
勝つよりは負けない戦いを常に心掛ける・・・・
常勝将軍で在るよりは 不敗将軍で在れば好い

 如何なる場合でも、笑われる程に遙か彼方まで斥候を出し、
 進軍は陣形を保って遅く、万事慎重の上にも慎重を期す。
 パッと見はノロノロと冴え無いが、その代わり 絶対に負けない。
 但し、勝てる!と見切ったなら、乾坤一擲の大勝負を逃さない。
是れぞ正しく・・・
ドン亀将軍・徐晃公明 の 真骨頂!!

と云う訳で
関羽目線の記述は最後に廻し 今暫くは徐晃の視線に基いて、この話を進めようと思う。ーーで、唐突ではあるのだが、此処で読者諸氏には 〔映画監督〕に成って戴きたい。何故ならばその目線を、カメラと云う無機質なフィルターを透す事に因って、(歴史ドラマに)より客観的な態度で接しつつも、一層倍 それを
自分自身の肌身に触れさせ、愉しむ事に役立つと思う故である。 尚、作品のタイトルは 上記の通りだが、撮るシーンは、その運命の大会戦に至る直前
即ち関羽が自ずら出撃して行く寸前迄の「徐晃の戦さ振り」である。因みに、脚本および絵コンテは『正史・三国志』だけを参考に書き上げて戴きたい。尚 アニメやCGの方が得意な諸氏にはそちらの映像監督でも宜しいかと思念いたします。ーーで、その撮影すべきシーンだが、以下の『正史』部分をじっくりと読み込んだ上で、先ずは作品の荒筋・時間経過の構成を完成して戴きたい。それが完璧であれば、作品はほぼ出来たも同然である。後の出来映えは監督の個性・感性の範疇に属した問題であろう。・・・・では、その全ての元と成る、『正史・三国志』の該当部分・・・・先ずは念のために、直前のシーンも、もう1度、小文字で掲げて措こう。
太祖は徐晃に、曹仁を助けて 関羽を討伐させ 【宛】に駐屯させた。 たまたま漢江の水が 突然あふれ、于禁らが水没した。 関羽は 曹仁を【樊】に包囲し、また将軍・呂常を「襄陽」に包囲した。 徐晃の引き連れていた兵は、新たに味方に付いた兵卒が多く、関羽と勝敗を争うのは難しかったので、前進はしたものの、結局 【陽陵陂】に駐屯した。太祖は 又、将軍の 徐商・呂建らを 徐晃の下に派遣し 「兵馬が集結到着すれば一緒に進め!」 と命令した。 賊は【偃城】に駐屯した。徐晃は到着すると、敵を欺く手段として 甬道ようどう(塹壕の道)を作り、敵の背後を断ち切ろうとする勢いを示した。賊は屯営を焼き払って退却した。

さて次は、いよいよ本題の箇所であるが、前以って新米の監督に喚起を促して措くならば・・・・(特に此の部分は)極めて短い文章の中に、途轍も無い戦術・作戦が次々と、当り前の様に記述されている。又、古代の史書は時間的・空間的なメリハリには無頓着で、従って短文の中にも場面の切れ目・転換点(カットシーン)が幾つも出て来る。だから監督たる者は余程に注意深く心して読み進んで行かねば ならぬ。 ーーとまれ、解読作業は後廻しとして 先ず1回目は、無念無想で 楽しく読もうではありませぬか。

徐晃は【偃城】を手に入れると、両面に陣営を連ね、
徐々に前進し、賊の包囲陣から3丈ばかり離れた所まで来た。攻撃に入る前、太祖は前後何度かに渡って、殷署・朱蓋ら合計12の屯営の兵を徐晃の下に派遣した。賊は【囲頭】に屯営が在り 又別に【四冢】に屯営を置いていた。徐晃は 「囲頭の屯営を攻撃すべし!」 と宣伝して措きながら、密かに四冢を攻撃した。関羽は四冢が破壊されようとしているのを見て、自身が歩兵・騎兵5千を引き連れ、出て戦った。
では 2回目は、この中に何回の”場面転換”が在るか!に注意
しながら読もう。
『徐晃は【偃城えんじょう】を手に入れると、両面に陣営を連ね徐々に前進し、賊の包囲陣から3丈ばかり離れた所まで来た。
攻撃に入る前に、太祖は前後何度かに亘って、殷署・朱蓋ら合計12の屯営の兵を徐晃の下に派遣した。賊(関羽側)は【囲頭】に屯営が在り、又別に【四冢
しちょう】に屯営を置いていた。
徐晃は 「囲頭の屯営を攻撃すべし!」 と宣伝して措きながら、密かに四冢を攻撃した。
関羽は 四冢が破壊されようとしているのを見て、自身が歩兵・騎兵5千を引き連れ、出て戦った。

お分かりになったであろうか?どうもハッキリしないが、少なくとも3つの場面は書かれている。1つずつ 読解してゆこう。ーー但し各々の場面(出来事)についての
日時の記述が 全く無い 為に、
出来事の順番・推移は判る にしても、その準備の所要時間や、
1つの作戦に費やされた日数もわからず、従って 作戦の規模を
割り出す為の手掛かりすらつかめない。まあ有体に白状するなら
・・・・
爾後の日付は一切判ら無い!のである。 こんな
重大な戦いで在るにも関わらず、何月の事なのか特定し得無い
(10月閏10月11月12月の 4ヶ月間ではあるが)又最大の英雄・関羽雲長の最期であると謂うのに、その命日も記されて居無い(12月ではある)のだ。・・・・つまり我々は、日時も場所も判然としない状況の下で3つのシーンに 互いの整合性を持たせつつ、如何にも在り得る
”虚構”を、映像化するしか無いのである。
先ず最初は、徐晃が見せ掛けだけの〔甬道作戦〕の結果、
偃城を奪い入れた後の場面で、敵の包囲網から
僅か3丈の距離にまで迫る過程
である。
此処でも亦、徐晃は【ドン亀】の本領を遺憾なく発揮!!
慎重の上にも慎重を期した戦術 を採った事が判る。但し、その『両面に陣営を連ね、徐々に前進し』 の記述は、最早 びく びく
オドオドした 寡兵部隊の姿を指すものでは無く、退く必要を少しも持たぬ、余裕の進軍ぶりを著わしているのである。ーー即ち・・・・
中国全土を視野に収めつつ各地に展開していた魏王国軍だったが漸く支援態勢が整った今、魏王自身は微動だに動かぬ代りに曹操は何と12もの部隊を 矢継ぎ早に徐晃の下に送り込んだのである。1部隊が千人だったとしても、合計すれば1万2千。
もし3千なら→3万6千。5千なら→6万。1万だったとすれば何と合計で12万!もの増援軍が補充された事となる。まあ、徐晃が初めから調達した兵力も定かでは無いのだから、下手な憶測も出来無いが、1度に2方面の敵陣を同時に攻撃し得る様な大兵力(数万規模?)が集まった事だけは断言して良いだろう。そして
それだけの潤沢な兵力が届けば威風堂々『両面に陣営を連ね』ながら、大掛かりな包囲網の一翼を担う 敵の屯営を 次々に潰して『徐々に前進』 する事も 充分に可能である。こうなればもう、
首を竦めた”ドン亀”の姿では無い。同じ亀でも神の亀=”玄武”と謂えよう。ーー尚、この部分の和訳についてだが・・・・例えば『次々に撃破しながら』でも『じりじりと接近し』でも、やや大仰に『当るを幸いに薙ぎ倒しつつ』でも、まあ許容範囲と謂えよう。
訳し手の ”匙加減1つ”で、如何に 場面描写のニュアンスが異なって来るか・・・・漢文和訳の面白くも難しい所以である。

ーーかくて3ヶ月に及び、薄いが広範囲に展開して居た関羽側の包囲網はその外側の網の目を次々に喰い破られ、より内側の、より大きな屯営へと再編成されてゆくのだった。 但し、
賊の包囲陣から 3丈ばかり離れた所まで来た』との記述は実の処 どう云う状況・戦況を指しているのかは丸で見当が着かないそもそも此の戦いに於ける 「賊の包囲陣」自体が一体 どの様な配置・規模であったのか?それが断定でき無い。だから読者諸氏(映画監督)は以後、戦況に関する描写については 伸び伸びと臨んで戴いて結構。とは謂え、爾後の経緯から推して 少なくとも此の
”包囲網”と称する状態は→
城の周囲をグルリと”隙間ない帯状”に繋げる布陣では無く寧ろ

”飛び石”状態に拠点を構え、人と物の出入りを遮断する状態
・・・その事を包囲網と呼んだに違い無い。その点だけは考慮して措いた方が良い。ちなみに3丈は→およそ7m。 だからまあ、その謂わんとする処はーー( 関羽側勢力圏の、最も外側に当る ”或る陣地”の ) 『眼と鼻の先の至近距離にまで接近し対峙した』 との意であろう。

処で”余談”の類とも謂えるが、この時の〔
曹操位置〕は一体どこ迄進んで来て居たのか? 「洛陽」を発ち、その南東100キロ地点の摩陂まひに”親征”した処までは既述したが、その後は果して何処に大本営を置いて、此の〔関羽戦〕を司令し続けたのだろうか?・・・『正史・桓階伝』に、その答えとなる記述が有るので紹介して措こう。 曹操が若く 元気であったなら「宛城」はおろか多分「偃城」付近にまで遣って来たかも知れぬのだが、
《今や晩年を迎えた、老いた体調とも関係がある筈だ・・・むしろ桓階は魏王・曹操の面子を保つ為に、その問答を仕掛けたのではないか?》 又 《曹操も内心それを望んで居たに違い無い!》 と思いつつ読めば、更にひと味違った風景が、其処
(桓階伝)から読み取れるやも知れぬ・・・・。
『曹仁が関羽に包囲されると、太祖は徐晃を派遣して彼を救援させたが、包囲は解け無かった。太祖は自身で南方征討に赴こうと考え、群臣に意見を求めた。
群臣は皆、「王が遠征されないと、今にも 敗北 しましょう!」 と述べたが、( 尚書の) 桓階だけは言った。
「大王には曹仁らが事態に対処できると御考えですか、出来無いと御考えですか?」 ・・・・「出来る。」
「大王には 2人が力を発揮しきれないのを 懸念されて居るのでしょうか!?」  ・・・・「そうでは無い。」

2人とは、樊城の曹仁と
襄陽城の呂常を指す。この史料に拠り、漢水南岸の襄陽城も最後まで降伏し無かった!事が知れるのである。後世の者にとっては、その意味こそが最も重い貴重価値に成るとは、流石に陳寿も想像し得無かったに違い無い。
「さすれば 何故に 御自身で行かれるのですか!?」
「儂は唯、敵の軍勢が多くて、徐晃らの勢力では上手く行かない事を懸念して居るだけじゃ。」
「今、曹仁らは幾重もの包囲の中に居りながら死を賭してニ心を抱かぬのは、実際 こうして大王が遠方から威圧を掛けて居られるからです。そもそも 殆んど助かる見込みの無い状況に在れば、必ず死を覚悟して戦う気持を抱き、心中に死を覚悟して戦う気持を抱けば、外部から強力な救援が有るものです。大王には六軍(天子軍)を抑えて余力を御示しに成りながら、何で敗戦を心配されて御自身で行こうとされるのですか!!」
太祖は其の言葉をもっともだと考え、そのまま摩陂に軍を駐屯した。賊軍は、かくて引き退いた。』

実際、桓階の説得理論は全く理屈にも成って居らず、なぜ曹操がもっともだ!と思ったのかも意味不明??・・・・矢張り、曹操の健康が衰弱して居る事実を、内外に秘匿して措く為の芝居・腹芸であったのだろう。ま、何れにせよ、曹操は大本営を「摩陂」に置いた儘、以後は1歩たりとも動く事無く、戦勝後も暫くは此の摩陂に留まり、曹仁・徐晃は勿論の事、懐かしの面々(夏侯惇・張遼ら)を迎えて談笑、心置き無く”終焉に備える”のである・・・・・・
チト感傷に先走ったか。
本題に戻ろう。

第2の場面は、関羽本人を誘い出す為の
        〔
ニセ情報作戦〕発動のシーン
である。
はて、既にお気付きの事だとは思うが、又しても”ニセ”・”ガセ”である。先の「甬道」も実は見せ掛けで、『
敵を欺く為だった』と正史は記している。そして今度は亦”騙まし討ち”の為の〔ニセ情報の流布〕である。ーーすなわち「囲頭」を攻める!と見せ掛けて措きながら、実際は 「四冢」 を急襲し、
然もその最大の目的は、関羽本人を「四冢」へと誘い出し、その直属軍を叩きのめし、再起不能へと潰滅させる・・・ と云う一種の
情報戦である。その場合、敵が《最も在り得る事だ!》と予断を抱く様な、重みの有る情報を流す事が作戦の成否を決する。敵味方の陣が接近して来れば来る程、況してや包囲を逆に包囲すると謂った変則的な陣地が錯綜し合う此の戦場では、至る所に双方の”間諜”が混在し、互いの機密情報を探り出そうと血眼に成って居る。其処へ”裏付を伴った1級の情報”を流せば・・・・相手は必ず飛び付いて来る・・・・仕組み、そして仕掛けたーーそれにしても 意外である。徐晃だ。〔魏の5星将〕と来れば、泣く児も黙る鬼将軍!とのイメージが強い。若しくは徐晃の場合のみは慎重居士の〔ドン亀将軍〕である。まさか是れ程の”智将”だったとは。いや、
万人をして 《意外だ!》 と思わせしめた徐晃こそ正に名将!実に智将!だった 訳であるーー蓋し、よく考えて観れば 既に伏線は存在していたのだ。所謂、【斥候】の件くだりだ!!
常に遠くまで物見を出し、予め勝てない場合の配慮をして措き、その後で戦った
』・・・斥候イコール情報である。情報の重要性を真に識る者だからこそ、其れを操作・操縦する事の意味と結果を予測・予知し得たのである。徐晃の慎重な性格は、長い歴戦の裡に、何時しか分厚い体験律と情報量を蓄積しその統計集約が為されて来て居たのである。即ち徐晃は自身の財産を駆使して何時でも情報を操作する事が可能なスタンバイ状態にまで成長して居たので在る。だからこそ、その仕掛けのタイミングや場所の選定にも確信が在ったのだ。関羽の配下部将が続けて2度までも欺かれたのも詮方は無い。何しろ此の戦果報告を聞き知った、あの曹操をして 「将軍の功は 孫武・司馬穰且を踰えたり!」 と
絶賛させたのだから。 ( ※ 詳しくは其の時に述べる)
で、此の場合、矢張り問題に成るのは・・・・
囲頭いとう」「四冢しちょう」の位置関係。更には「関羽本陣」の位置を含めた
戦場の全体像・図である。完璧には判ら無い迄も、監督なりの予想配置図・構想イメージだけは用意して置かねば話は進まない。そこで飽くまで参考として、筆者の大まかな配置予想図を示して措く事とする。ーー但し其の予想の基盤と成る重大で確実な情報が 『正史・徐晃伝』 の中に1つだけ在る・・・大会戦の末ついに敗走を始めた関羽軍を追撃する徐晃軍・・・その最後の戦況記述。(敵・関羽軍の中には)みずから【シ丐べんすい】に身を投じて死ぬ者も有った。』 ・・・・シ丐水(べんすい)とは 平野部に出て流れる【漢水】の事である。詰り、大会戦の直後、潰走する関羽軍が逃げ込んだ〔最後の陣地〕は、”漢水北岸に接する場所に在った!”事が判るのである。そして其の最後の陣地とは「四冢」だとも受け取れるが、他の記述などから総合すれば、やはり関羽軍が大敗北を喫した場所は、「今まで関羽の本陣が構えられて居た地点」だったと断定して良かろう。ー→即ち、それ迄はドン亀の如くノロノロとして居た徐晃で在ったがいざ!と云う最大最後の戦局ではガラリ豹変。決して追撃の手を緩めず、逃げる関羽軍を徹底的に追い捲った。そして関羽軍最後の陣地だった漢水際(べん水)の元・本陣までも追い詰めた・・・・
徐晃の〔四冢奇襲作戦〕は、当然ながら《ニセ情報の流布》だけでは無く、恰もノルマンディ上陸(Dデイ)に先立つ連合軍のカレー空爆の如き、《囮部隊=ルパート》を含めた 大掛かりな
〔陽動作戦〕と連動していた筈である。 そして 関羽側も ロンメル
同様に虎の子の予備兵力
(5千〜1万程度?)を「囲頭」に注ぎ込み徐晃の進攻に備えさせた。ところが「囲頭攻撃」は詐欺で、実際は手前(南)の「四冢」に対して総攻撃を仕掛けたのである。その結果もし”手前”の「四冢」が撃破されれば、その”奥”に位置する「囲頭」は間を遮断された形と成り、おのずと孤立する事と成る。ばかりか関羽の大本営 本陣自体が直接、徐晃からの圧力を受ける事態に曝され、包囲網には大穴が開き、陥落寸前の「樊」迄をも取り逃がす羽目となるーー要するに、敵味方双方にとって最も重要な地点・・どのみち避けては通れぬ 《必争の地!》・・それが「四冢」なのだ。但し残念ながら関羽側の守将が誰なのか?それすらも判ら無いのが実体である。

そして
第3の場面はーー
「四冢」の危機を知らされ、徐晃との決戦の腹を固め、直属の精鋭部隊・歩兵と騎兵の5千を率い、ついに・・・

関羽
本人が、
本陣を出撃してゆくシーン
である。
即ち、その雄々しい出陣風景は、関羽雲長と云う不世出の武将にとって生涯最後のものと成る事を暗示する如き、超常の現象を絡ませながら、関羽の表情と軍団の奔出ショットをズームカメラに収めるのが好ましい。

・・・・と以上ここ迄、我々は〔運命の大決戦〕に至る直前までの状況を、徐晃側の視点に立って追って来たのだが、本音の処・・・・確認し得たのは、その実態把握の困難さだけであった・・・・。
   (ーーと 謂う 訳で、以下は 当然ながら 全て 想像上のシュミレーションである。)
 
眉間に深く刻まれていた縦皺の1つが、【徐晃】の顔から消えた。本人は 気付いて居無いが、この眉間の縦皺は、その時々に因って 2本に成ったり 3本に成ったりする。 徐晃の其の癖を識って居るのは 曹操はじめ極く僅かな上級者達だけで在ったが、参謀の【趙儼】も其の1人だった。
《慎重居士の不敗将軍どのも、どうやら愁眉を開かれたかな・・・・》
赴任以来、悩み続けて来た ”必要最低限の兵力”が 漸く整ったのだ。配下の部将達にしてみれば、「何時まで愚図愚図して居られるのだ!?」と不満を抱く程の慎重ぶり・・・・いや陰では「臆病」呼ばわりする者さえ出る始末であった。

「ギリギリまで待ったから最早 我々に時間は無い。」
徐晃の口ぶりが是れ迄とは明らかに違って、断定口調に成っていた。そして其処には珍しく、自信に溢れた徐晃の姿が在った。

「こと今にして思えば・・・・あの突然の大洪水こそ、
関羽雲長の運命を狂わせるものだった!
のだ。」

慎重居士の徐晃は、それでもなお、自身の確信を其う云う風に表現した。
「ですが、あの突然の洪水に因って曹仁どのは樊城に孤立し、我々は苦境に追い込まれたの御座いますぞ。」
趙儼と2人だけになったから、徐晃も気を許したのだった。

「確かに関羽は、あの大洪水に因って于禁軍5万を丸ごと捕虜とし、ホウ悳を斬り捨てると云う、およそ人間業とは思えぬ大武勲を歴史に刻んだ。だが其れは戦いの本筋では無く、飽くまでも余禄の出来事じゃったのだ。」
「ほう〜、と申されますと・・・?」 惚けて尚も問い返す。

「事は大自然界の運行が為せる業、即ち”天運”が為した事ゆえ誰に否応も無かった。だが城攻めを前にした関羽は、結果として《水攻め》・《兵糧攻め》を選択した事と成ったのだ。」

「されど、その御蔭で関羽は包囲兵力を進撃に転用でき、許都はあわや!の危機に直面いたしましたぞ。」

「その時は誰しも《天運は関羽に在り!》と感じた。だが実は其処までが、関羽の精一杯の〔攻勢限界点〕だったのだ。いくら周囲に進撃しても結局は、最大の眼目たる樊城の動向が気に掛かり、その水攻めの包囲が足枷と成り、却って関羽本来の自在な用兵術を封じ込んでしまった!・・・のだ。」

「天が関羽に味方した!!と思われた洪水も、実は却って関羽の身動きを制限してしまった・・・と申されるのですか?」

「そうだ。洪水が起きず通常で在ったなら、籠城戦は此うまで長期化せず、もうとっくの昔に樊城は陥落していた筈じゃ・・・。」

「ウム関羽の水軍が現われたのが7月でしたから、あれから凡そ5ヶ月・・・確かに関羽にしてみれば、進撃速度に大幅な誤算が生じたに違い有りませぬな!」

「逆に謂えば、その誤算こそが、我等に集兵と派兵の時間を与えて呉れたのじゃ。」
「詰り、一見した場合には関羽優勢・大有利の水没状況も、実は時々刻々に従って変容し、もはや今と成っては徐晃の時と!!」
「水の引くのがあと2月ふたつき早かったなら、泥濘が乾くのがあと1月早かったなら樊城を陥とした関羽は宛城をも手に入れ、許都を脅かして居たに違い無い。畢竟、関羽は既に勝機を逃してしまったのじゃ・・・!!」

蓋し此の〔長過ぎた水攻めの見解〕は独り、直接戦場に立った徐晃だけのもので有った。



さて我々は、いよいよ関羽の元へ帰ろう。いや
関羽自身と渾然融合し、関羽の呼吸と成り、
  その心臓の鼓動と成り、その音が絶える
   最期の時まで運命を共にしてゆこう・・・!! 【第246節】 運命の大会戦 (関羽雲長、最後の統帥)→へ