【第244節】
ドン亀 徐晃 本領発揮
                                 にじり寄る 逆包囲の環

ここで我々は、再び視線を反転させ、〔巨大罠〕から 〔直接の主戦場〕へと戻る事とする。即ち本節は
「江陵」を中心とした【呉】の動きから、樊城」を巡っての攻防戦を繰り広げて居る【魏】vs【蜀】の直接
対決・その帰趨を、細大漏らさずに追跡せんとするものである。その際、この 〔
樊城包囲戦〕を象徴する各国の部将を 1人ずつ
挙げて措く とするならば・・・・当然ながら、
関羽呂蒙であろうーーはてではは一体 誰であろうか?ハタ と戸惑う。 何故なら関羽の標的は確かに
曹仁なのだが今や為す術も無く籠城するだけの存在。 さりとて于禁は”過去形”の人。だとすれば 〔現在進行形か未来形の部将〕なのだが・・・ズバリ謂おう。・・・この【樊城包囲戦】に於いて
直接、関羽に引導を渡すのは徐晃なのである

増援された于禁軍5万は 《まさか!》の降伏。 もはや曹操に予備兵力は無くなった。泡を喰らった曹操は窮余の1策として、何と、「兵力は現地で調達せよ!」として、新たな救援軍司令官だけを単身で急派。その使命は《巨大な関羽軍の包囲網を撃破して、孤立する曹仁の救出!》であった。 その 困難極まりない任務を
与えられたのが・・・・【徐晃】なのである。ーー此れ迄の処は未だ目立たぬ存在に過ぎぬし、後世の評価も極めて地味な部将。
この戦いに於いても
ドン亀よろしく、その辺りをノソノソと這い擦り廻るだけで少しも華々しい所は無い。登場する場面も短く、然も経緯全体からすれば如何にも”途中での活躍”と見做されがち。
・・・而して実際は、
真っ正面からの大会戦で関羽と渡り合い、
終には関羽を敗走させ、事実上、関羽の滅亡を決定づける人物

なのである。 呉の【呂蒙】が 専ら”隠密作戦”を巡らし、
1兵も失う事無く、その頭脳だけで 関羽を捕え、斬った男!
』 と
譬えられるのに対し、【徐晃】の方は 万人注目の中で 逃げ隠れする事は全く許され無かった。にも関わらず、徐晃は、『
大会戦で関羽を破り、致命傷を負わせたに等しい、大武勲を挙げる!』のである。・・・・但し、その《1勝》の裏には、並々ならぬ彼の地道な努力の積み重ねと、その歴戦が育んだ臨機応変な戦術とが、巧妙に組み合わせられた帰結が潜んで居るのである。そして又、彼の中に其うした可能性が秘められて居る事を的確に見抜いて派遣した、曹操の人材配置の絶妙さこそ是亦 美事と謂えようか。
平寇将軍徐晃・・・名立たる勇将・猛将揃いの魏軍団の中から、敢えて巨神・関羽撃退を命じられたのには
矢張り、《確たる裏付》の理由が在った。即ち、苦境に強い 徐晃の人柄 と 実績
・・・・
それ だったーー切羽詰った緊急事態だからとて、〔単身〕で急行せねばならず、取り合えず《兵力は 現地調達せよ!》 と云う 困難な作戦内容であった。然も相手は天下最強の武将・関羽で、その率いる兵力は精強の大軍団。向うところ敵無しの連戦連勝で、意気は天を突く状態!!然も、泥濘に孤立した儘兵糧が枯渇した樊城に残された”許容時間”は、あと僅か・・・・碌な兵力も揃わぬ絶望的な状況下、スクランブル発進せざるを得無かった徐晃。
こうなると矢張り、最後は 〔
徐晃の人間力〕が モノを謂って来そうである。 念の為に
徐晃の履歴を簡単に見て措くと字は公明河東郡楊県の人。最初は漢の車騎将軍・楊奉に付き従い〔献帝の東帰行〕に献身し、今から 23年前の196年、〔奉戴劇〕の砌に 曹操の下へ帰伏した。 以後は曹操の全ての遠征に随伴し、目覚しい活躍の連続であった。呂布戦・官渡決戦・業卩の奪取・万里の長城越え・そして荊州進攻〜赤壁戦・・・・この間にグングン出世し〔裨将軍〕→〔偏将軍〕→〔横野将軍〕へと昇進。今や魏の5星将(譜代の旗本5大将軍)の1人と謂える。
せい 倹約ニシテ 畏慎いしん
軍ヲ将
ひきイテハ 常ニ 遠ク 斥候せっこうシ、
先ズ 勝ツカラザルヲシ、 しかル後ニ 戦ウ。
追奔ついほん
シテ利ヲ争ウ時ハ、士 食ラウニいとまアラズ。

つつましく慎重そのものの性格で、軍を率 いている時は、いつも 遠くまで物見を出し、あらかじめ勝てない場合の配慮をして措きその後で戦った。
その一方、逃走する敵を追い、いざ勝利を確定せんとする時には、兵士に食事を取る暇さえ与えず、徹底的に追求した。・・・中々に出来る事では無い。そして正に今、樊の戦況こそは、その配慮を必要とする場面ではないか!石部金吉、石橋を叩いても渡らず、ドン亀の如くに首を竦めて進まない・・・

尚、徐晃の戦歴には、この”関羽撃退作戦”に通ずる注目すべきモノが存在する。曹操が徐晃を指名した理由の1つ・・・・
樊に対する土地勘」が有ったのである。いや寧ろ精通している
と謂って良い程なのだ。ーー赤壁戦に先立つ〔荊州進攻作戦〕の折、『
徐晃ハ別動軍トシテ「樊」ニ駐屯シ(その近隣の諸県である)中盧・臨沮・宜城ノ賊ヲ討伐』していたのである。

更に又、関羽との因縁も浅からず、個人的には”友情”を交えた仲だった。一時期、曹操の元に身を置かざるを得無かった際に、【張遼】と交わした友情は夙に有名だが、徐晃も亦、関羽とは互いを敬愛する間柄で在ったのだ。然し皮肉な事に、敵味方に分かれた後の最初の公務は、その荊州での追撃戦だった。命辛々逃げ廻る劉備一行に対し、関羽水軍は漢津で合流を果し、九死に一生を得る。この時、その関羽の水軍を追撃したのが徐晃であったのだ。然も、赤壁戦直後には江陵で、〔曹仁と共に〕、周瑜と対峙した関係にも在ったのだ。
更には今、曹仁の副将である 奮威将軍の満寵とも戦友だったのである。ーー「樊」と「江陵」・「関羽」に「曹仁・満寵」・・・・奇しくも徐晃は、この全てに関わる
経歴を有して居たのである。地勢を識り曹仁や満寵の性格をも熟知し、関羽の人物にも接して居たので在るから正に敵を知り、味方を知る男。派遣するには最適任であったのだ。

そんな数々の戦歴の中、徐晃をして「苦境に強い男!」としての名を挙げさせたのは、謂う迄も無く、〔夏侯淵戦死後の漢中での籠城戦〕である。→『
太祖は業卩に帰還したが、徐晃と夏侯淵を漢中に留め置き、陽平(関)に於いて劉備を防がせた。劉備は陳式ら10余の軍営の兵を派遣し、馬鳴閣街道を断ち切った。徐晃は 別軍として 其れを征討して撃ち破った。 賊は山谷に我が身を投げ、死ぬ者が多かった。
太祖は聞いて大そう喜び、徐晃に節を与え、布告した。
「この閣道かけはしは 漢中の要害であり、咽元に当る。劉備は外と内を断絶して漢中を奪おうとした。将軍は1度の行動でよく賊の計画を失敗させた善のうち善なるものである!」 かくて太祖は自身で陽平まで行き、漢中の諸軍を引き上げさせた。

圧倒的な敵を前にしても戦況を冷静に見極め、的確にポイントを掴むや、少兵力を以って乾坤一擲の攻撃を仕掛け、戦局を好転させた。ちなみに此の籠城戦では寧ろ一緒に居た【張合卩】の方が評価が高く、人望の面でも徐晃は2番手とされる。 (※ 但し、その評価責任の一旦は、陳寿の”紙面バランス配慮”にも因るであろう。曹操の存命中に於ける張合卩の記述は漢中戦で終る為に詳しいのだが、徐晃には此の関羽撃退戦の記述が有るので、漢中戦での記述は1行どまりの”割りを喰らって”いる。)
蓋し其の張合卩は今、中国の西の端である「陳倉」に駐屯し続け馬超ら蜀軍の進出に備えて居た。(陳倉は長安より西に位置するが、シルクロードの玄関口とも謂える。)

こうした戦歴や実績の他に、曹操が徐晃を指名した理由が未だ在った。その忠誠心の強さ or 精神性の濃さ であった。
徐晃は常に歎息して言って居た。
「古人は明君と遭遇しない事に苦しんだが、幸運にも自分は今、其れに遭遇して居る。すべからく功績を上げて自己の力を尽さねばならぬ。何で個人の名声など問題にしようぞ!」
最後まで交友を広げたり後ろ楯を作ったりしなかった。

譜代の旗本・于禁が、曹操の厚い信頼を裏切り、丸で背信行為とも思える様な”呆気ない降伏”を為した直後であった。 だから、その生涯を 〔唯才主義〕に徹して来た曹操では在ったが、流石に此の際は、単に戦闘能力だけでは無く、その〔
人間性を考慮〕せざるを得無かった、で在ろう。
「名君に遭遇し幸いである。個人の名声など二の次ぞ。」

《ーー徐晃なら必ずや、死んでも使命を果すであろう!!》


「逐次、周辺の者達にも増援部隊への参加を命じるから、お前は可及的速やかさで、出来得る限りの募兵をして、曹仁の救出に向って呉れ!!」
その代りに有能な人物を”参謀”に付けた。
趙儼である。この50歳の人物は、独自色の強い曹操の帷幄の中でも、ひと際特異な立場と任務を与えられて来た不思議な存在である。曹操は早い時期から彼の”人間力”を評価し、武将と謂うよりは軍政家・乃至は政治局員とでも謂うべき、全軍の総目付の地位を適宜に与え用いた。日頃から反りの合わなかった猛者達(于禁・楽進・張遼ら)を〔参軍〕として統括し協調させたり、最大では荊州進攻の全7軍を〔都督護軍〕として統帥した経歴を持つ。今回も肩書は〔議郎〕の儘で、将軍号は保有しない。而して諸将からの畏敬の念は厚かった。
・・・だが流石に曹操は徐晃に対し、直接「樊城」へ進撃せよ!!とは命じ無かった。兵力の現地調達を為すべき”取り合えずの”目的地は
を指定したのだった。その宛城は 樊の北100余`、魏から観れば荊州への玄関口を押さえる要衝の地。 逆に謂えば 「許都」を関羽の北上から鎮護する役割をも持つ軍事中堅都市でも在った。 嘗て曹操が鄒氏に溺れて大ヤケドを負った事でも有名だが何と謂っても近々の重大事件は・・・つい半年前に勃発したの反乱劇であった。 
この219年の1月、宛城の守将であった侯音が、南陽郡全体を巻込んで曹魏に謀叛したのだった。明らかに関羽の北上を期待しての決起であったが、記述の如く齟齬を来たし、「樊の曹仁」による素早い対応に失敗した。今さら悔いても詮無い事だが、もし、その決起が半年後の”今で”在ったとしたなら、曹魏に打つ手は無く、関羽の北上は一気に「許都」へまで到達したのは確実!であった。・・・・逆に謂うなら、この「宛」が在る限り、当座は曹操も安心して居られる訳だ。然し僅か半年前の後遺症が完全に治まったとは言い難く、潜在する〔
反曹操勢力の動向〕は依然として不明・不穏の儘であった。もし関羽が攻め上がって来れば忽ち息を吹き返し、重大な事態を惹き起こす可能性が強い。いや噂では既に不穏な動きが燎原の火の如く、広範囲に及んで居ると聞こえて来る。その鎮圧・沈静化を行いつつ、徐晃は徴兵・集兵を為さねばならぬのだ。
最初から困難さを覚悟した上で、
徐晃趙儼 は 「」へと旅立って行った。ーーそれが8月の事であった。ちなみに其の時の関羽軍の勢い・中原に対する攻勢が如何に順調で、しかも天下を震撼させる規模のもので在ったか!?その状況を『正史・関羽伝』は 次の如くに記している。
24年先主 漢中王と為る。羽を拝して前将軍と為し節鉞を仮す。
是の歳、羽、衆を率い曹仁を樊に攻む。曹公、于禁を遣わし仁を助けしむ
秋 大いに霖雨し、漢水汎溢す。 禁、督する所の7軍 みな没す。 禁、羽 に 降る。 羽 また将軍・广龍悳 を斬る。
夾卩・陸渾の群盗、或いは 遙かに羽の印号を受け、之が支党と為る。  羽の威、華夏を震ふるわす
羽 威 震 華 夏!
・・・・僅か5文字が限り無く重い。

さて、問題は此処からである!!・・・・
史書には
《日時》の記述が全く無いーー是れが1つ目の困難。
2つ目は《場所》の問題。当時は当り前すぎた為に、態々2千年後の為の位置説明が無いのである。ーー3つ目は、彼我の《兵力》の記述が不足気味なのだ。一体全体、我々は何うしたら善いものやら・・・推測・憶測・考察・当てずっぽう・・・いずれにせよ我々は、羅針盤を持たぬ状態で荒海に乗り出すに等しい暴挙・快挙を為さねばならぬのである。ま、こんなのは毎度の事。今更ながら 愚痴を零しても 何んにも成らぬ。精々 出来うる限りの 智恵と想像力とを駆使して、如何にも在り得る様な
”バーチャルな世界”をシュミレートしてゆく事としよう。その際、我々の心強い味方に成って呉れるのは矢張り『正史・三国志』を置いて他には無い。


ーー徐晃が「宛」に単身で着任してから2ヶ月・・・・10月段階の戦況は圧倒的に関羽側に優勢!であった。「樊」は今も完全に水没した儘で兵糧は涸渇。「襄陽」も只管城内に籠って1度の出撃も無い。殊に樊城の事態は厳しく、偵察船からさえも、その飢餓による将兵の衰弱が判定できる程と成り果てて居るのだった。その一方、曹操が「宛城」に急派した【救援部隊】も、関羽側の堅固な阻止ラインの前に、思い切った突破作戦を敢行し得ず、停滞した儘であった。焦る救援部隊内には司令官徐晃に対する諸将の批判が噴出していた。
何時迄この宛城に留まって居る心算なのです!如何に募兵が儘ならぬとは雖も、今は緊急事態なのですぞ。直ちに出撃すべきです!このまま座して居ては樊城は餓死してしまいますぞ!」  「もしも我々が到着しない前に樊城が陥落する事にでも成ったら、我等は救援遅滞の罪に問われまする。どのみち死ぬので有れば座して汚名を被るよりは玉砕覚悟で敵陣に突っ込むべきです!」
『現地調達の兵力が整う迄は軽挙盲動は控える!』と謂う徐晃の方針に納得ゆかぬ者達が日に日に増え、陣営内は険悪な雰囲気に覆われ始めていた。そこで徐晃は参謀の趙儼に相談すると、趙儼は言った。
いま我等が率いて居る兵は、寄せ集めの新兵ばかりで、とても関羽の精兵には対抗できませぬ。然し諸将の言う事にも1理は有ります。ですから兎に角いまは宛城を出て、出来うるだけ敵の包囲陣に近づいて措くのが宜しいでしょう。もしかすれば、その間に別の部隊が追い着いて来るかも知れませんシ。
「それも そうじゃな」・・・・かくて徐晃は、部隊を 思い切って「
」から前進させ、陽陵陂=(位置不明) に 駐屯させた。だが この前進は却って強硬派を勢い付かせるだけとなった。敵の包囲陣を目前にした停滞は 如何にも中途半端。余計に焦燥感を煽る事に成ったのである。又もや繰り返される突貫論・・・・そんな10月も押し詰まった 或る日の軍議。暴発寸前の緊迫した議論の最後にそれ迄は専ら聞き役に徹し、一切の沈黙を保って居た 議郎の
趙儼が、決然として意見を述べた。

その時の状況を『正史・趙儼伝』は以下の如くに記している。
関羽が樊に居る征南将軍の曹仁を包囲した。趙儼は議郎の資格で曹仁の軍事に参画する事となり、南方に行って平寇将軍の徐晃と共に進軍した。到着したが、関羽の曹仁包囲は固まった後で、他の救援軍も 未だ到着して居無かった。徐晃の統率する
兵力では包囲を解くには不充分であるのに、諸将は徐晃に速やかに救援する様にと厳しく文句を言った。
趙儼は諸将に言った。

賊軍の包囲は前から固まって居り、今も降雨は尚盛んである。我が方の歩卒は単独
少数の上、曹仁は完全に隔離されて居て、力を合わせる事も出来ぬ。それなのに諸君等が主張する行動は、実際には内と外の両方を疲労させる結果を招くだけじゃ。現状での最善の策は、軍を前進させて包囲陣に迫り、曹仁の元に間者を派遣して連絡を取り、外からの救援が在る事を先ず知らせそれによって将兵を奮い立たせる事だ。計算すると、北方本軍の到着は10日を超えぬであろう。また曹仁の軍は未だ充分に固守し得る。本軍の到着を待ち、合流した後で、内外共に行動を起こせば、賊軍を打ち破る事は必定である。

この記述から判る事は、この時点でも未だ、激しい雨が降り続き樊城は完全水没状態。又、関羽軍の包囲網は鉄壁であり、寄せ集めの徐晃部隊では手も足も出せぬ事。但し10日後の頃には本格的な大救援軍団が来る手筈に成っていた事。樊の曹仁達はギリギリあと10日の命運と成り果てて居る事・・・である。
もし我等の救援が速やかで無い為に責任を問われ、処刑される様な事が有る場合には、この私が諸軍の責任者と成ろう!!
最後の此の一言が効いた。諸将が共に抱く1番の不安は、失敗した場合の責任論だったのだ。それを事実上の参謀総長で在る趙儼が 「俺が全ての責任を取る!」 と 明言したのだから、安心したのである。既述の如く、趙儼には魏の全軍を統括した実績が在ったのだから、その保証は”万全”と信じられる。チャッカリしたもので、『
諸将ハ大変喜ビ、さっそく地下道ヲ作リ、矢文ヲ曹仁ニ送リ、情報ヲたびたび連絡シタ。』のである。・・・・但し、地下道を作り・・・の部分は陳寿の”筆の走り過ぎ”であろう。この大洪水の最中に、一体どうやって長大な地下道が掘り貫けるのか??

一方、完全水没で終に兵糧が底を突いた
曹仁 陣営
城壁のうち 水没しない部分は数板 (2.5m) と云う有様だった。 関羽は船に乗って城に臨み数重に包囲し外部と城内の交通を遮断した。食糧は 終に底を突かん!と云う状態なのに、救援軍は遣って来無かった。
樊の城壁は水に浸かり、しばしば崩壊し人々は皆色を失った。
「今日の危機は最早、力で支えられるものでは御座いません。包囲の隙を衝き、夜間に軽船に乗って逃走すべきです。たとえ城を失っても尚、一身は全うする事が出来まする
遣って来て呉れる と信じて居た救援軍が2ヶ月経っても未だ現われぬ以上、我等には脱出の権利が生じた、と謂えましょう。我等は充分に責務を果しました。今が潮時です。是れ以上グズグズして居たら脱出さえ不能となり、我等は犬死するだけですぞ!」
曹仁は迷った・・・勝ち負は兵家の常、時の運・・・命さえ在ればいつか捲土重来を期す事も出来るーー
と、その時、奮威将軍(副官)の
満寵が進み出て言った。
山からの水は足が早いので 長引く事は無いと期待できます
※ この〔 山からの水 〕と云う記述に拠って、この大洪水が”漢水”だけの氾濫では無く、非常に広範囲に渡る 長期間の豪雨だった事が推断し得る。
「聞けば関羽は別将を派遣して、既に夾卩(のち曹操本人が洛陽から出て来る摩陂)
の辺りに行かせており、許・以南の地では民衆が混乱して居るとか。然し関羽が思い切って其のまま進撃しないのは、我が軍が其の背後を突くのを恐れて居るからですぞ。今もし我が軍が逃走すれば洪河(黄河)以南の地はもう国家のものでは在りますまい。
君にはジッと待たれるべきかと存知ます!」

その肝の据わった大局観を聴いた曹仁は、忽ち処に迷いを払拭した。「もっともじゃ!その決意を天に誓おうぞ!!」
曹仁ハ将兵ヲ激励シ、必死ノ覚悟ヲ示シタ為ニ、将兵ハ感動シ 誰も二心ヲ持ツ者ハ居無カッタ。
その頃、今は陽陵陂に前進駐屯して居た徐晃部隊の元には、漸く後発の第2陣=徐商呂建の正規部隊が追い着いた。更には第3陣=殷署朱蓋の部隊も合流を果していた。
樊城包囲から2ヶ月・・・・やっとの事、救援軍の先鋒部隊はその陣容を整え、包囲網を敷く関羽軍に対して、辛うじて対抗し得る戦力を集めて居たのだった。だが未だ その兵力では 如何な勇将の徐晃と雖も、とても強行突破を敢行するには不充分なものに過ぎ無かった。逆に関羽側の備えは、それ程までに鉄壁、かつ強大で在ったのだ。而して残された時間は、あと僅か・・・
「何としても、樊城内へ、我等が直ぐ近くまで来て居る事を、
 知らせなくては為らん!決死の連絡隊を送り込むのじゃ!!」
そこで小船を夜陰に浮かべ、関羽軍の警戒線を擦り抜けて樊城に接近。発見されたが、辛うじて矢文を射ち込む事に成功。
待ちに待たされた城内の狂喜は頂点に達した。

「嗚呼、天は我等を見棄てず! 我等の声は魏王様に通じて居たのじゃ!あと僅か じゃぞ! もう少しの辛抱じゃ。此処まで耐えて来たのだ。何としてでも頑張り貫こうぞ!!」
流石【曹仁】の眼にも大粒の涙が光っている。況して将兵の中で感涙を零さぬ者は1人とて無かった。飢餓に痩せ細り虚ろな眼で城壁に横たわって居た半病人達がその瞳に希望の光を灯した。
「死んでは為らぬぞ!絶対に生き抜くのだ!共に頑張ろうぞ!」
曹仁は自身が よろめきながらも、将兵の間を訪ね廻り1人1人の手を取っては 励まし続けるので在った・・・・。

その同じ
10月曹操は長安から洛陽まで戻った(進んだ)。
するや、孫権が、思い切った申し出をして来た。
これから”臣”は、軍兵を西方に溯らせ、関羽の不意を襲って
領地を奪取したいと思います江陵と公安は連なっており2城を失えば関羽は間違い無く自分で駆け付けて来ます。さすれば、樊に居る軍隊の包囲は、救援が無くとも自然に解けるでしょう。尚 どうか是れは秘密にして戴き、漏洩の無き様に御配慮願います。関羽に用意させては成りませぬので、宜しく願いまする。
「よし分った。
秘密にするのは当然の事じゃ。懸念には及ばぬ。」
曹操は 使者の前で 側近達に厳しく”緘口令”を敷いて見せた。大臣達も亦当然の措置である!と 皆、互いに申し述べ合った。
だが、呉の使者が帰途に着くや否や、
董昭が早速に意見具申をして来た。
「軍事には応変の策が肝要で、事態に合致する事が要求されます。この際は2賊を互いに対峙させ、居ながらにして彼等の疲弊を待つべきです。その為には、孫権の希望に応えて秘密にしつつ、一方で密かに事を洩らすのが宜しいでしょう。何故なら関羽が『孫権、西上す!』と聞き、もし引き返して防禦に廻れば、包囲は速やかに解け、直ぐに目指す利益が得られるからです。逆に、秘密にしたまま洩らさなければ、孫権にだけ思いを遂げさせる事となり、最上の策では有りません。又、包囲の中に在る将軍・官吏達は救援の在る事を知らず、食糧を計算しつつ恐怖しヒョットすると2心を抱くかも知れず、そう成ると 其の弊害は小さくありません。ですから、この事を洩らした方が、我等には都合が好いと存知ます。それに関羽は激しい気性の持主ですから2城の守備の堅固さに自信を持ち、必ずや直ぐには引き退かないでしょう。
それを聴いた曹操、唸った。 「もっともじゃ!」
まさに虚々実々、互いに一筋縄ではゆかぬ。
そこで曹操、救出作戦を万全にする為、全土に展開する諸将に対して【魏王の大号令】を発した。

「孫権が申し出の通り”合肥”に向けて居る兵を引き上げたのを確認したら夏侯惇張遼も呼び寄せよ!」
500キロ以上も東からの猛将・勇将の投入である。曹操、本腰である。が一面では《再会して 今生の別れを して置きたい!》との 密かな私情も在ったのは否めないか?

「兌州の
裴潜と、豫州の呂貢にも速度を上げさせよ!」
先には、『ゆるゆる参れ!』と抑制していた手綱を解き放たせた。
「また江夏の文聘ぶんへいには、関羽を東からも攻めさせよ!」
江夏郡は、漢水を挟んで関羽と隣接し、呉の都督陸遜が駐留する陸口とも国境を接する魏の重要拠点で在る。郡太守の文聘は、前後50余年に渡り江夏を任されるが、今は討逆将軍・延寿亭侯の称号を加えられて居た。
かくて、孫権からの申し出を受けた
曹操は、矢継ぎ早に各地への出撃命令を下した後、周囲に宣言した。
儂自身、全軍を率いて 親征するぞ!!
取合えずは洛陽から100キロ南進し、華中大平原を望む
摩陂辺りに本陣を置くのだ。魏王おん自らの出座となれば、急援軍の士気は弥増しに上がるであろう。また孤立して居る 樊 と襄陽 の将兵は 勇気づけられるに違い無いーー遅巻きながら
魏の総力を挙げた、本格的な大救援作戦が 遂に動き出したのである!!北から曹操本軍、南からは孫権本軍が迫る。
知らぬは 劉備・張飛・諸葛亮
そして関羽のみか!?

ーーだが其の南北の動き、更には東西の動き共に、今の徐晃にとっては全く無関係な動きでしか無かった。《いずれ、そのうち!》では曹仁軍は全滅してしまうのだ!兵糧の尽きた城内では既に飢餓が蔓延。最早ギリギリの極限状態に追い込まれて居るのだった。至急の救出だけが必要なのであった。ーー畢竟、
この任務は徐晃が己独りの手で、片を着ける以外に手は無い!のであった。そして、それ故にこそ、軍ヲ将ひきイテハ 常ニ 遠ク 斥候せっこうシ、
先ズ 勝ツカラザルヲシ、 しかル後ニ 戦ウ・・・徐晃は苦悩して居たので在る。関羽側の防禦陣は厚く、そして深かったのだ。いま徐晃軍が露営する 陽陵の眼の前には えん
立はだかり、更に
囲頭いとう四冢しちょうにも強靭な砦が構えられていた。それ等を全て撃ち破って樊城へ到達するのは至難の業であったのだ。
御断り・・・・此処に出て来た地名 ( 陽陵えん城・囲頭いとう四冢しちょう )については一切が不明である。夫れ夫れの座標地点は勿論の事、況してや相互の位置関係は尚更に定められぬ。それを承知の上で敢えて謂うなら
(1)→4地点共に〔宛〜樊の間〕に在った。尚、陽陵陂・偃城は其の中間点付近? 
      囲頭・四冢は樊城寄り?に在ったものと推測される。
(2)→又、互いは視認し合える様な接近した位置には無く、それぞれに独自の作戦を
      行なわねばならぬ様な、可也の距離で隔たっていた。
(3)4地点の中では「四冢」が漢水に接していて、最も南に在ったと想われる。
(4)→関羽本人は此の4地点には居らず、その本営は「樊城」の直ぐ南、船上からも
      見渡せる、漢水の岸部辺りに陣取って居た・・・と考えられる・・・
《ーー何とかせねば為らん・・・》 
苦境・困難を打開してこそ、曹操から特に選ばれた徐晃の責務である。時は待って呉れ無い。この儘では樊城は全滅する・・・・
そこで徐晃は考えた。彼独特の思考回路を働かせるのだ。即ち望ましい結末から”逆算して”現在を弾き出すのである・・・それが徐晃流であった。
今回の場合、最も望ましい結末とは〔関羽の撤退〕である。決して大敗北を強いる必要は無い。樊城の〔包囲網を放棄〕させさえすれば充分なのである。→では、その為には何が必要か?
《・・・最後は真っ正面からぶつかり会って撃破するしかあるまい》 ーーその時の事は、その時に考えれば良い。
《では、関羽を戦場に引き寄せる為には何うしたら善いか?》
→奪われては困る重要拠点を攻めれば自身で出て来るだろう。
《とすれば、その戦略拠点とは一体どこで在ろうか?》
→それは包囲陣の南側に位置する「四冢」と「囲頭」であろう。
この2屯営は漢水に面した補給線の要に位置し、南と北・本軍と別動部隊との結合部に当る。
《では其処へ攻め込む為には、何処を拠点とするべきか!?》

・・・こうやって思考を絞り込んで行くと、徐晃の眼前には、自ずと「今必要な作戦」が立ち現われて来るのだった。
《ーー矢張り、か・・・!!》    4地点のうち、この【偃】だけが元からの城砦で在った。他の3地点は、堡塁と逆茂木が何重にも組み合わせられた、野外に築かれた屯営で在る。
その事は「正史・徐晃伝」の中に、曹操の布告文の1部として、『賊ノ 包囲ノ 塹壕・逆茂木は 十重も 在ッタ』 との記述が有る事から知れる。ーーさて、そうであるとすれば・・・・今やるべき事は只1つ・・・早速にも〔偃城への総攻撃〕を仕掛けなくてはならぬ。
だが、徐晃は慌て無かった。急がば廻れ!とばかりの着実な?戦術を採用したのである。何と、徐晃が命じたのは偃城へ向っての”突進”では無く、1寸1尺ごとに甬道(塹壕の道)を掘り進めてゆく、正に〔ドン亀作戦〕であった。此の緊急を要する時だと謂うのに何たる戦術か??だが実は、これは「戦わずして勝つ!」の無手勝つ流の奥義だったのである。ーー「
甬道とは、その道の両側に防禦壁を連ねて、奇襲攻撃に備える地上のトンネル〕・地面だけは除いた小型版・万里の長城だと想えばよいであろう。徐晃は既に此の甬道作戦をvs 馬超・韓遂の黄河渡河=蒲阪津の直後に実施済みであった。アイデアは曹操の頭脳から生まれたが徐晃が実践した。ーーさて土竜モチよろしく、残土が盛られた甬道が進む先端をよ〜く観ると・・・・アレアレそれ迄は西から一直線に掘り進められて来たモノが、いざ偃城に近づくや 急に方向を転換して、南へと廻り込みだしたのである。泡を喰らったのは城内側であった。何故なら”甬道”は自軍の安全を確保する意味も有るが、主目的は寧ろ ”輜重部隊”の前進の為である。即ち、甬道を作ると云う事は・・・・輜重を含めた全軍が、本気に成って進んで来る!と云う証拠なのであった。それが城の南側に布陣しようと謂うのである。ーーまさか其の大掛かりな工作が、実は〔見せ掛けだけの作戦〕だった!などと誰が思えようか。
「や、敵は城の南側に廻り込んで、我等への補給線を絶つ作戦らしいぞ!!」
この場面に於ける徐晃軍団の総兵力は判ら無い。また偃城側の守備兵力も判ら無い。だが城側は1戦にも及ばず、『賊ハ屯営ヲ焼キ払ッテ退却シタ』のであるから、徐晃側の兵力は相当なもの(最低でも万単位)で在ったに違い無い。

太祖は徐晃に曹仁を助けて関羽を討伐させ【宛】に駐屯させた。 たまたま 漢江の水が 突然あふれ、于禁らが水没した。
関羽は曹仁を【樊】に包囲し、また将軍・呂常を襄陽に包囲した。
徐晃の引き連れていた兵は、新たに味方に付いた兵卒が多く、関羽と勝敗を争うのは難しかったので、前進はしたものの、結局【陽陵陂】に駐屯した。太祖は又、将軍の徐商・呂建らを徐晃の下に派遣し「兵馬が集結到着すれば一緒に進め!」と命令した。
賊は【偃城】に駐屯した。徐晃は到着すると、敵を欺く手段として甬道ようどう(塹壕の道)を作り、敵の背後を断ち切ろうとする勢いを示した。賊は屯営を焼き払って退却した。

かくて徐晃の第1段階=”ドン亀作戦”はズバリ敵中した。然し、キツく成るのは正に是れからである。 此処からこそが、徐晃の本領を発揮する場と成るのである。初めは処女の如く、最後は脱兎の如く・・・・関羽を追い詰め、そして・・・・
【第245節】名将条件畏慎(孫子を超える美事な兵法→へ