【第243節】
巨 神 罠 の 完 成
                                   悪ガキ将軍 の 真骨頂

ーー
実はこの〔大作戦〕・・・・提言者が、もう 1人 居たのである。 然し、その上奏は 僅かに遅かった。其れが届けられたのは、正に 孫権が呂蒙と額を寄せ合いながら、その作戦の詳細を検討して居る最中であったのだ。
「何うする?」 孫権、ハタと困惑して呂蒙に訊いた。
「握り潰すしか有りますまい。」 
「ウム、その時まで知らん顔を押し通すか。」事は最高の機密を要した。 しかも 1刻を争う 火急の作戦であった。相手を呼び出して説明をしている暇は無かった。
 そこで上奏は無かった事 として有耶無耶の裡に無視されたのである。その上疏を為した人物・・・
名を
全jと謂う。今は只、〔サラブレットの血統を引く2世家臣〕とだけ言って措こう。(いずれ呉国にとっては重大な軍政家と成る。但し、陸遜を憤死させる相手とも成る。無論、最大の原因は孫権の変容に在るのだが)

では本書は今、何を言いたいのか?−−それは・・・呉国の君主・家臣で在るなら誰しもが、”撃滅すべき最大の相手”として関羽は認識されて居たと云う事であり、違う言葉で謂うならば、呉では皆が”関羽を恨んで居た”と云う、〔時局の背景〕を示して措きたかったのである。
(今さら謂わずも哉ではあるが)歴史書の中に現われ、その出来事を具現するのは常に 〔代表の少数者〕であり、多くの場合その人は 大多数の意識 をも共有する者として理解されるべきであろう。この《関羽討滅戦》 の場合ではそれは当然【呂蒙】なのでは有るが、思えば若き陸遜も呂蒙に訴え、そして全jもまた上疏した様に、史書には省略されたり記され無かった多くの者達の姿や思いが在ったであろう・・・・その事を想像するのは、我々に許された醍醐味の1つと謂える。 無論、それを恰も史実が如くに虚構化してしまう事は絶対に許されぬ事では有るけれども。
ーー即ち、逆に関羽の側に立って謂えば・・・・関羽は (関羽に代表される周囲の者達は) 常に己の一挙手一投足が相手=呉国から注目・監視されて居る事を 深く心に銘じて油断せず、一瞬たりとも 警戒を怠ってはならぬ立場・状況に在った!!と云う事である。だが果して関羽は、関羽陣営は、その通りで在ったか??たとえ関羽自身が油断した場合でも、それを補填・復元する機能が存在し得たか何うか??
ちなみに、全jの上奏文の中に一体どの程度の具体的な作戦が記されていたのか?それは不明である。だが正史・全j伝の記述から推すと、可也のもので在った様だ。
(以下に其の部分を転載して措く。)

建安24年(219年)、劉備配下の部将である関羽が 樊と襄陽とを包囲すると 全jは
上疏をし、関羽の討伐が可能であるとして、その計略を陳べた。孫権は、この時すでに呂蒙と計って密かに関羽襲撃の策を議していたので、事が泄れるのを心配して、わざと 全jの上表を握り潰し、其れに対する孫権からの返答は無かった。 関羽が捕えられた後、公安に於いて祝賀の宴を開いたが、その席上、孫権は特に全jに向って言った。
「貴方が前に 此の事を上陳して来た時、私は其れに対する返答をしなかったのだが、今日の勝利は貴方の手柄でもあるのじゃ。」
これにより、全jは陽華亭侯に封ぜられた。



ーーさて、そんな”余談”は兎も角、此処で我々は、時間を再び
219年の
11月現在に戻し、江陵」を無血開城させた直後の呉軍全体の動きを追う事としよう。その場合、最も重要な視点は、実質的な総司令官たる呂蒙の動静である。関羽本人は未まだ、てっきり彼は呉本国で病床に臥せって居るものとばかり思い込んでいる相手だが、実際には、全ての命令は此の呂蒙から発せられていたのだった。 だが今の処、呂蒙自身は江陵を動く気配を全く見せぬ。恐らく、次なる作戦の準備と、その発動の機会を窺って居るのであろう。が、もし呂蒙が一旦動き出す場合、それこそは最後の最後・・・関羽との決着が付けられる直前の時となる筈だ。そうなったら最早我々は 一瞬たりとも 視線を呂蒙から離す事は 出来無くなる。 そこで今、その間隙を勿怪の幸いとして 先ずは
呂蒙の密命を受けた〔別動軍の動き〕を観て措こう。
その最たる隠密部隊は
陸遜の軍である。呂蒙とは阿吽の呼吸で此処までの作戦をまんまと運んで来た若手のホプ。正式な総司令官=偏将軍右部督として呂蒙の後任を拝命していた。今し、関羽の本拠である江陵城を急襲して降伏させ、祝賀の儀典・宴の真っ最中であった! 然し呂蒙は 陸遜に対しては休む暇
さえも与えずに、更なる進軍を求めて江陵を送り出したのである。畢竟、その目的を1言で謂うならば・・・・遠征して居る
関羽を 丸裸の”孤軍”にしてしまう事!!であった。 より具体的に言うなら関羽が気付く前に、その直ぐ西方の地域全体を奪い取る!! そして関羽への支援を完全に絶つ。と同時に、関羽が蜀本国に逃げ出すルトを完璧に封鎖、西方への動きを断念させ、望みの全てを”南下”即ち 《江陵城への帰還》 へと持って行かせる・・・・
その
を完成させる為の下準備=蟻地獄の如き奈落の壁の1方を構築してしまう事!!であった。その巨大罠の”左側”が完成すれば、この作戦は殆んど成功したも同然。 あとは東方を流れる漢水に沿って水軍を溯上させ”右側”を絞り上げ・・・そして罠の底=中央(江陵)で待ち受ける呂蒙軍の正面に、心ならずも姿を現わした関羽は万事を休し・・・・終には
狩人に 仕止められる!!と云う手筈なのだった。

さて江陵を発した陸遜軍だが、その船団が先ず最初の標的にしたのは・・・江陵のやや上流に位置する「宜都郡」の占拠であった。そして更には其の北と西に隣接する3つの郡の占領・支配であった。尚、ひと言で”郡”とは謂うものの、その馬鹿デカサは 半端では無い。 陸遜 が最終的に任される 山岳地帯の 4郡の総面積は 倭国の九州に近い。その凸凹ばかりの山岳地帯を僅かヶ月で平定してしまえ!と云うのである。
《ーー余りにも無理な注文ではないか!?》
いえいえ御懸念には及びませぬ。本書の読者諸氏には既に当り前の知識となっている通り・・・・三国時代は勿論だが、中国の戦史の根本は20世紀まで《都市の争奪戦》であり、より巨大な都市を多く手に入れた者が勝者と成った。住民の全員が城壁都市の内側に居住していたのだから、いかに広大な中国大陸と雖も、その都市(邑)1点を順次に押さえてゆけば、その支配は〔点〕に留まらず、やがては〔面の支配〕が為された訳である。つまり陸遜は、順次に各地の”郡都”を攻略してさえしまえば、所謂 それが 郡全体を支配した事と同義に成るのである。まあ、或る意味では解り易く 簡潔明快な勝敗の基準ではある。※その反面、野戦での大会戦は稀であり、両者ともが己の存亡を覚悟した上での一大決戦の場合が目立つ。
・・・・とは謂え、特に 長江沿いの
郡は、既に彼れ是れ十数年に渡って劉備の統治下に在ったのだ。おいそれとは降伏せず、寧ろ抵抗して来る可能性が強い。更に奥の山中2郡は、つい先日、劉備の特命を受けた【孟達】と【劉封】が、武力で魏側の太守を追い出したばかりなのだ。依然として可也の戦力を保持して居ると観なくてはなるまい。即ち、呂蒙との約束期日を果す事は、決して容易では無かったのである。そうした背景を理解した上で、この西方鎮圧作戦罠の左壁 構築作戦の全容を、
正史・陸遜伝』 の記述に沿いながら 観てゆこう。

孫権は、隠密に軍を動かして長江を溯らせ、陸遜と呂蒙とに命じて、その先鋒とならせた。2人は公安と南郡まで兵を進めて瞬く間に其処を陥した
・・・・と、此処までは既述の部分。なお南郡とは江陵と同義語。
陸遜は其処からまっすぐ進んで宜都に入ると、宜都太守の職務にあたり撫辺将軍の位を授けられ、華亭侯に封ぜられた。 
劉備側が任じていた宜都太守の樊友は郡を棄てて逃亡し、郡統治下の城々の長官や異民族の酋長達もみな呉に降った。陸遜は金銀銅製の官印を呉の朝廷から請い受けると、其れを新たに帰順して来た者達に仮に授けた。建安24年11月の事である。

宜都は郡の名前。”都”の字が入っている為に混同し易いが、その郡都は「夷道」。
陸遜軍は郡都を急襲し、宜都郡全体を掌握。順次に周辺の諸県が降伏・帰順した様子が判る。因みに其のやや上流の「
夷陵」は戦略上の要地で、山岳地帯が終って大平野が開ける最初の都市。特に【蜀】が長江を攻め下って行く場合には、敵への最前線基地としての位置を占める。 実際このあと、関羽の復讐戦に燃え狂った劉備が諸葛亮の諌めも聴かずに出陣し、致命的な大敗北を喫する〔夷陵の戦い〕で有名となる。 なお、この時期には”呉朝廷”が在る筈も無く、単に主君孫権を指す修辞である。
この宜都郡制圧が11月。関羽が斬られるのは 12月の事である。

陸遜は将軍の李異と謝旌らに命じ3千人を指揮して蜀の部将の・晏と陳鳳との攻撃に向わせた。李異は水軍を指揮し、謝旌は歩兵を指揮して要害の地を押さえると、直ちに攻め掛かって・晏らを撃破し、陳鳳を生け捕りにした。
陸遜の指揮下には、少なくとも”将軍”の【李異】と【謝旌】の軍が帯同されて居た事が
判る。そして2将の兵力だけでも3千は在った事から、その総兵力は万の規模だったと推測される。李異は後の〔夷陵の戦い〕にも名前が出て来る将軍だが、
謝旌の方は此処1ヶ所だけの人物。無論、・晏と陳鳳も此処1ヶ所の人物である。尚、これ等の配下部将は関羽慙死後も現地に留まり蜀の復讐戦に備えるのだが、他の記事から推せば【劉阿】と云う将軍も同道していたと想われる。
更に房陵太守のケ輔と、南郷太守の郭睦にも攻撃を掛け、これも大いに打ち破った。

陸遜の電撃作戦は更に北と西に向かい、宜都郡に引き続いて 房陵と南郷の2郡に
及んだ。「房陵」は過日に【孟達】が平定していた蜀の版図。但し「南郷」が何処を指すのかは不明。(国境付近の郡県の地名は時々に於てコロコロ変えられた。)まあ此の
隣接地域では在るのだが・・・・。更にまた、この山岳地帯の戦いについては、大きな
”曖昧な問題”が現われて来る。当然の事として激突した筈の〔呉軍 vs 蜀軍〕=
陸遜 vs 劉封・孟達の戦いの記述が皆無なのである。ーーその空白・曖昧さは、後に起こる劉封と孟達との確執や、孟達のオセロ人生を描く場合にも大きなネックと成って後世の我々を悩ませるのだが、今も、 《 もしかしたら 陸遜は、其処までは深入りし無かったのか?》 と さえ思わせるのだ。実際にも、その”回避”の可能性は高い。いずれにせよ、【劉封】と【孟達】は、関羽問題が決着した後も、「房陵」か「上庸」に駐留し続けて居た事だけは確実である。だから、この時点では陸遜軍は深入りせず、直接の戦闘も無かった・・・と観るのが妥当であろう。
蓋し
陸遜軍は、関羽と劉封・孟達との間に割って入り、両者の連絡を遮断した!−−その目的は達したのである。
禾弔しきの豪族・文布やケ凱らは、異民族の兵士数千人を指揮下に収め西方の蜀と気脈を通じていた。 そこで陸遜は、再び謝旌を指揮して文布とケ凱とを打ち破った。文布とケ凱は土地を棄てて逃亡し、蜀は彼等を部将に任じた。陸遜が人を遣って呉への帰順を勧めさせると、文布は部下達を引き連れて戻って来て投降した。
在地豪族の文布とケ凱も此処1ヶ所だけの人物。所詮は国境に住む者達の”生き残りの智恵”で、その時々の勝者に靡きながら自分達を守る。その辺りの事情を識る陸遜は、呼び戻して帰順を赦す。戦闘の後の日常には、彼ら在地豪族の協力なくしては、郷村の日々の経営は無理だったのだ。
この一連の作戦の中で、斬ったり、捕えたり、帰順させたりした者の数は 合わせると 数万にもなった。
”数万”の記述は、この作戦が如何に大掛かりで広範囲のものだったかを示している。陸遜は此の後も、【蜀】と国境を接する西方の統治に心を配り続けた。特に人材の適材適所の登用には最大の関心を払い、縷々孫権に意見具申をした事が「正史の伝」に記されている。
そこで孫権は、陸遜を右護軍・鎮西将軍に任じ、爵位を進めて婁侯に封じた。


かくて陸遜の電撃作戦は 美事に成功を収め、その目的だった、
 関羽を捕える為の〔巨大罠の左壁〕を
      12月迄には 完成させたのである!!

さて、陸遜の成功を見届けたからには、我々の眼は当然、その命令を発した大御所の元に戻らねばなるまい。
呂蒙である。彼こそが真の総司令官であり、関羽の天敵・関羽を仕留める狩人なので在るが・・・・武の巨神=関羽を倒すのには、武を以ってしても 決して通用はしないのである。では呂蒙は一体、何を以って 巨神を倒そうとするのか!?実は、その答えこそが、本節の主眼・主題なのである。即ち、呂蒙が是から始める作戦、その〔占領政策〕こそが、結局は 関羽の命を奪い去る最大の効力を発揮するのである。そして其の発想の原点に在るのは、呂蒙子明と云う風雲児の全生涯から滲み出て来た究極の策謀なのであった。
だから、その答えを探り出す為には、我々は何うしても呂蒙と云う人物の全体像を把握しなければならないのである。
前節に引き続き、悪ガキの其の後の成長を観てゆこう。

呂蒙の部隊が赤く成ったのは、未だ将軍の地位なぞは夢のまた夢の頃・・・・ 孫策が倒れ、孫権の代に成ったばかりの部隊長時代の事であった。無論まだ 文字の読み書き なんぞには無関心で、もっぱら度胸と武芸一辺倒・出世一筋の荒くれ時代で
己が目立つ事ばかり考えていた火の出る様な時代の事だった。キッカケは孫権のリストラ方針の発表だった。
『群小で目立った軍功の無い部隊は整理統合し、大軍団に併合する!』 との御達しであった。 《ーーやばい!!》 この時期の呂蒙の部隊は精々500といったところ。如何に伸び盛りとは雖も黙って居れば併合されるのは必至だった。だが、その危機を逆に 《チャン〜ス!》と捉えるのが、悪ガキの悪ガキたる所以だった。
お〜し、この際、思い〜っ切シ目立っちゃおう!
そこで考え出されたのが〔全部隊の赤備え〕であった。
但し、タダでは出来無い。それ処かトンデモナイ大金が掛かる事が判った。然し悪ガキの手元に貯えなぞ有ろう筈も無い。自慢じゃ無いが、有るのは借金だけだった。
しかも閲兵・検閲の期限までには時間が無かった。
「ええ〜い、こう成りゃ破れかぶれ。駄目で元々じゃ〜ィ!!」
てな訳で、兎に角”代金後払い”の形で先に注文してしまう。
ーーやがて、真っ赤っ赤の軍服とゲートルが大量に届けられた。

「ウム御苦労。処で相談だが、ぶっちゃけ今は手元に金は無い。」
「ええっ!?そ、そんな〜、話が違うじゃ御座いませんか!」
「すまん!そう言われても無いものは無いのじゃ。どうせ”後払い”なんだから、ついでに もう少し待ってて呉れ。ね、ね、社長〜、御願い〜!」
「もう〜勘弁してヨ〜旦那あ!!」
「その代りに出世したら2倍、いや3倍、うん5倍にして還すかんな。俺ッチの命が担保だ。だから絶っ〜対に損はさせねえよ!
・・・・って事で、ま、1つ宜しく頼まあ!!」
岩の様な大男が地面に這い蹲って頭を擦り付ける。
「ぜ、ぜ、絶対ですよ。5倍、5倍ですからね!!証文かくから
署名して下さいよ!」
「そうか!分かって呉れたか!よ〜し、じゃあ前祝じゃ。社長、此処は1つ景気よくパア〜っと行こうぜ。そうか、分かって呉れたか。うん、うん、そいつぁ〜良かった良かった!!」
独り納得しながら相手の肩を抱き寄せると、その背中をバンバン叩いては目出度がる悪ガキ。
「−−どうせ、払いはコッチ持ちなのに・・・・ぐすん・・・・」
「あっ、いま何んか言った?よく聞こえ無かったんだけど。」
「いえ、な、何も。」
「あっ、そうだ。いま思い出したけど、俺ッチ名前は書けねえんだった。」
「・・・・。−−じゃあ、○でも×でも、お好きな様に!」
「流石、社長!人間がデカイや!よっ、大統領〜!!」

孫権が呉の勢力を纏めてゆく事になった時の事、群小の部将達の中で、率いる兵が少なく、余り役に立つ働きをして居無い者達の軍団を点検して併合してしまおうと考えた。呂蒙は密かにツケ買いして、自分の兵士達に赤い衣服と脚反を作ってやって支給した。兵士の検閲の日になると、呂蒙の軍勢はヒドク目立って、兵士達もよく訓練されていた。孫権は是れを見て大いに喜び、呂蒙の兵士を増してやった。』 ーー(正史・呂蒙伝)−−

目端の利く(あざとい)金貸しの眼から観ても、ついつい
《ひとつアイツの伸び代に賭けてみようか!?》 と 期待を抱かせる様な、(それなりの実績と、それに数十倍する様な)大きな魅力・不思議な信用度=”人NP”があった!!・・・・その事の証左・証明と観て良かろうか??
このあとの呂蒙は、若き主君・孫権からの説諭や、周瑜の薫陶を受けて”刮目”すべき大変貌を遂げてゆくが、その間にも 彼本来の人柄や秘められた資質・能力の一端を示す如き、様々な出来事・逸話を残す。
:〔人柄篇・・・・目立った手柄を立てて「伸し上がる事」が望みの呂蒙では在ったが、決して”狡い手”は使わず、”旨い話”も必ず断わった。ばかりか逆に主君を諌めるのが常だった。益州から【襲粛】が帰順して来た時、孫権は其の軍勢を割いて呂蒙に与えようとしたが、呂蒙は辞退する。
「彼は肝っ玉の大きな有用な人物です。まして我が国の教化を慕って遠くから帰順して来たのであるから、その配下を増やしてやるべきであって奪い取るなど義に反する行為で御座いまするぞ!」
 又、駐屯地の近かった【成当】・【宋定】・【徐顧】の3人が揃って戦死してしまった時、彼等の子弟は皆んな幼かったので、孫権は彼等の兵士を全て呂蒙の軍に併合してしまおうと考えた。
「彼等は国家の為に力を尽した者達でありますぞ。子弟が幼い
からとて、その軍を廃してなりませぬ!」
孫権は3度の上陳でやっと受け容れたが、すると呂蒙は幼子達に教師を選んで付けてやり、成人する迄の面倒を親身になって見てやった。
呂蒙ノ 他人ヘノ 心遣イ ハ、ミナ 此ウ シタ風 デ アッタ。
更に有名なのは、
甘寧との因縁であろう。もしも呂蒙と云う”気遣いの達人”が居無かったならば、個性の濃過ぎる、よそ者の甘寧が、呉の国で大車輪の活躍をする事は出来無かったと断言し得る。多分、初期の段階で、父の仇とする【陵統】と殺し合いをして、消え去っていたに違い無い。古の狂直・虞翻の復帰を孫権に願い出たのは、つい最近の事例だ・・・斯様に、こと人柄に関しては、呂蒙は悪ガキ時代から現在に至るまで終始一貫して清廉で信義を重んじ情が厚い。また人事や人間関係に対しても優れたバランス感覚の持主で、強烈な個性揃い呉の家臣団を纏め、主君を盛り立てて来た。殊に現在の呂蒙には個人の欲望はゼロだった。何故なら・・・・最早、自分の余命が幾許も無い事を、他の誰よりも呂蒙自身が一番よく判って居たからである。半年後には、42年間の生涯を駆け抜け、もう彼は此の世に居無いのである。

:〔智謀篇・・・・古来より呂蒙の人物評価は、ややもすると勇将としての面の方が勝ってしまい、彼の智謀の面は然程では無いのが普通である。だが、よくよく振り返って観ると、彼は既に悪ガキの頃から現在まで、常に其の時々の己の地位に即した、其れなりの智恵や機知を発揮して来ていた事に気が付く。決して切れ味鋭い”策士”とは謂え無いが、呂蒙自身は其の事を逆手に取って、相手が忘れかけた頃に《まさか!?》 と虚を突く格好で、肝腎な時の1策を放っていたのである。
謂わば呂蒙の智謀は、学問を基礎にした頭脳から生まれたモノでは無く、彼自身が生活体験の中から得た機知・機転の延長線上の閃きであった、と謂えようか。
例えば、赤壁戦直後ー→曹操の敗走を助ける為に「江陵」に踏み止まった曹仁軍を追い落とす為の戦いでは・・・・膠着状態を打破する為に上流の「夷陵」を占拠した甘寧だったが、曹仁の派遣部隊に逆包囲され 救援を求めて来た。 だが部将達は、
「味方に今そんな兵力の余裕は無い。可哀想だが見殺しにするしか有るまい。」 と言った。しかし、呂蒙だけは、誰もが《まさか!》と思う大胆な策を周瑜に提言した。味方本陣は凌統1人に任せ救援には全軍が向う・・・と云うものだった。それを周瑜が採用した。そして美事に成功。曹仁の撤退へと繋がった。その際に呂蒙は又、敵の軍馬を大量に捕獲する奇策をも提案。結果300頭を丸々手に入れたのだった。
又、曹操の南下を防ぐ〔濡須戦〕に於いては、周囲が皆「無駄のモノ!」と反対した堡塁を川の中州に築き、之が功を奏して曹操は軍を引き上げた。

更に有名な逸話は・・・荊州の統治権を巡って呉と蜀が全面対決の事態に直面した時の事。そもそもの約束では、荊州は赤壁戦の勝者たる「呉」のものだが、同盟者の劉備が自立の足場を固める迄の間は、その西半分を貸与し、独立の暁には返還する・・・と謂うものだった。処が孫権が曹操の攻勢に対峙して居る隙を突いて劉備側(蜀)は全ての郡を占拠した。当時の大都督は同盟推進論者の【魯粛】であったが、流石に怒った。呂蒙に命じて、関羽が不法占拠した3郡の奪還を行なわせた。するや蜀は頭を下げる処か、益州を乗っ取った劉備本人までが駆け付けて来る始末。
だが呂蒙は直ちに2郡を奪還した。然し零陵だけが未だ帰順しない裡に、関羽が益陽で魯粛と対陣する事態となった。それを憂慮した孫権は呂蒙に「零陵郡は捨て置いて直ちに魯粛の元に駆け付けよ!」と早馬で命じた。
そこで呂蒙は、2つの課題を一挙に解決する咄嗟の策を案出した。零陵の太守は【赤卩普】であったが、未だ 最新の情報 ( 関羽が直ぐ近くに来た事)を得て居無いのを利用して、相手を欺き、降伏させてしまったのである。
その時の手順・・・・呂蒙はその以前から赤卩普を説得させようと、友人のケ玄子を帯同して居たのだが、孫権の早馬が届いたので事情は味方にも秘匿した儘に緊急の作戦会議を開いた。そしてケ玄子を同席させた上で、翌朝の総攻撃・殲滅方針を決定して見せた。直後、呂蒙はケ玄子を振り返るや、あれこれと言い包め、結局は其の夜の裡に、友人を救う為に誘降の使者に発たせた。すると案の定、友の説得に絆された赤卩普は程なく出頭して来た。そこで呂蒙は、やおら懐から孫権の手紙を取り出して赤卩普に読ませた。赤卩普は其の手紙を見て、劉備が公安に居り、しかも関羽は直ぐ隣りの益陽に居る事を知って、恥じて後悔し、床に突っ伏した。
そして今回の〔関羽捕捉作戦〕・・・・
《赤壁戦》に於ける【周瑜】が〔切れ味鋭い宝剣〕の輝きだったとすれば、《関羽戦》に於ける【呂蒙】は〔愚鈍を装った鞭〕だったとでも謂えようか!?貴公子の周瑜は絶対に、敵に頭を下げる様な作戦は採らなかった。だが呂蒙は関羽を煽てたり己が(病気と称して)引っ込む事も厭わない。
而して真に恐ろしいのは果してどちらか!?


:〔武勲篇・・・・呂蒙の出世ぶりを「正史」が記す処の彼の尉官に沿って羅列してみるとーー
〔別部司馬〕=山越討伐隊の隊長。張昭の推薦に拠り、
            義兄の後を継ぐ。
〔平北都尉〕=赤備えを褒めて貰った直後、孫権に付き
            従って国の中枢部を再統一しまくる。
〔横野中郎将〕=【vs黄祖戦】で先鋒を務め、敵都督の首を
            挙げ、勝利に大貢献する。その功に拠る。
〔偏将軍〕=【赤壁戦】と直後の「江陵・曹仁戦」の軍功に拠る。
虎威将軍=合肥戦・濡須戦の後、左護軍を拝命し兼務。
そして、「周瑜」→「魯粛」→と受け継がれた呉軍総司令官=
〔大都督〕へ・・・・無論、地方長官・郡太守への任官は略してあるが、それにしても 大活躍の割には 存外にシンプルな昇進の軌跡ではある。 とは謂え、享年が42だった事を思えば、これ以上の出世街道は無いであろう。

・・・・と、まあ、此処までキッチリ呂蒙の人生・その全体像を観て来れば、もはや充分であろう。

呂蒙が此れから始める作戦、その占領政策こそが、結局は 関羽の命を奪い去る最大の効力を発揮するのである。そして其の発想の原点に在るのは、畢竟・・・呂蒙子明と云う風雲児の全生涯から導き出された

究極の策謀
なのであった。


ーー光は射さぬ。音も無い。空気でさえも動かない。臭いは有る筈だが、既に判らない。 地下の牢獄・・・・足枷と手鎖・・・・
首枷が無いのが、せめてもの救いとでも謂うのか。
「俺は間違っては居無い。最善の方法を採ったのだ!」
はっきりと口に出して言う事にしている。然もないと滅入る。
関羽は何も言わなかったが、江陵へ護送される途中で【
广龍悳】が投降を断固拒絶して捕えられ、敢然と斬死した事が耳に入った。すると明らかに、周囲の視線が冷たくなり、扱いが低下した。
何故かは解る。
ーー2人とも全く同じ状況に立たされたのだった。片や、つい最近家臣に成ったばかりの广龍悳。一方、旗挙げ以来の恩顧の直臣。 なのに 死んで忠節を示したのは广龍悳の方で、
死んで当然の直参の方は、おめおめと降伏した!
「俺は正しい選択をしたのだ。何も恥じる事は無いのだ。」
人は、《己の命を惜しんだ為!》と言うであろう。言いたい者には言わせて置こう。
《だが、曹操様なら、必ずや全てを解って下さる筈だ!!》 
それが”支え”であった。

天然の光は一切入って来ない。だが、牢番の灯すカンテラが揺れた。 《−−ん、何か有ったか・・・・?》
何時もと違い、その数が多かった。足音も速い。だが囚人に動揺は見えず肝は据わって居る様子だった。
「左将軍さま、どうぞ御安心下さい。我が虎威将軍さまの命により、貴方様を大事な御客人として御迎えに参りました。」
「では、お前は呉の者だと謂うのか!?」
「はい。半日前に江陵城は降服し、今は既に虎威将軍の統治下に御座います。南郡は全て我が国の版図と成りました。」
「何と真か?・・・・鮮やか也!流石は呂蒙どの!!」
無論、”左将軍さま”とは 
于禁の事である。


地下牢から解放された于禁。知りたい事は山ほど有ったが、何も言わなかった。
《今更じたばたと見苦しい真似はすまい。成るが儘に従おう・・・》
程なく、別の使者が呂蒙の言葉を伝えに来た。
『今や貴方様は、魏の藩国と成った呉の国にとっては、主君筋に当る大切な御客人で御座います。あだや疎かには致しませぬ。
どうぞ魏の国に居る心算で御過ごし下さいませ。ただ、何分にも作戦中とて至らぬ面は多々有るとは存知ますが、いずれ本国へ御戻りなられる日が来る迄は、大船に乗った気でゆったりとお寛ぎ下さりませ。』・・・言葉だけでは無かった。実際に衣食住の全てに渡って最高の持て成しぶりであった。
「呂蒙どのに直接お会いして、お礼を申し上げたいのじゃが。」
すると使者は内輪話を披露して見せた。
『長い間のお勤めで、さぞや ”おやつれ”であろう。挨拶は10日ほど後で構わぬ。先ずはゆっくりと養生され、すっかり威厳を回復されてからお会い致そうと思う。』
誇り高き〔魏の5虎将〕とも在ろう者が、人に惨めな姿を見られたくは無いであろう。お為ごかしの好意が、却って恥を掻かせる事に成るに違い無かった。
「何とまあ、細やかで有り難い配慮を為される御仁なのじゃ!!」
囚われの身だった于禁なればこそ解る、呂蒙の温かさであった。そして今その本物の温かさが江陵・南郡の民草全員に施されんとしていたのである。



厳格な禁令を出して、占領地の治安・秩序を保つ・・・・一見して当り前の事(施策)の様に思われるが、実は三国志の時代(乱世)では、母国を遠く離れての遠征の場合、基本的には現地調達=略奪が当然であった。(※その略奪の権限を主君から認められるのが一流の将軍であり、自立を確保し得たのだ。)詰り、禁令を出すこと自体が稀らしかったのだ。又もし出されたとしても実際には徹底されないのが普通だった。だから厳格に禁令が遵守される事は更に珍しく、故を以って「史書に特記」されたのである。呂蒙の江陵占領の場合も わざわざ 『正史・呂蒙伝』 に記述されている。

呂蒙は城に入って其処を占拠し、関羽や其の配下の将士達の家族を全て捕えたが、彼等を慰撫すると同時に軍中に禁令を出し、住居に押し入ったり、物品を要求したり強奪してはならぬ!と命じた。処が、呂蒙の旗本で汝南出身の兵士が、民家の笠を1つ奪い取って、官の鎧の覆いに使った。鎧は公用物ではあり、私物化したのでは無かったのだが、呂蒙は、これを軍令を犯したもので、同郷の出身者であるからと言って法を曲げる事は出来ぬとして、涙を流しながら彼を斬刑に処した。この事が有って全軍は震え上がり、道に落ちている物も自分の物とする者が無くなった。

 とは謂え、此の様な厳格な禁令の徹底は、独り呂蒙に限らぬ。名将や名参謀と謂われる者達は屡々そうして来て居た。
※ 宣教師の【ルイス・フロイス】が、安土城の建設現場で【信長】に初めて謁見した時、通り掛かった女性をからかった兵士の首を、自らの刀で刎ねあげた逸話と共通する所が有る。
ーー即ち、荊州(江陵城)を占領した直後に呂蒙が為した、
関羽を真に破滅の淵へと追い込んだ最大の作戦〕は、禁令の徹底による人心掌握では無かったのだ。呂蒙と云う人物なればこそ為し得た施策=秘策とは・・・・


「自分の本当の親だと思って仕えるのじゃぞ!」
「よいか、故郷に置いて来た自分の親に孝行を尽す心算で、誠心誠意の真心をもって世話に当るのじゃ!!」
「ワシにも年老いた母が居た。今思えば、ガキの頃からず〜っと苦労と心配ばかり掛けて来た。じゃが孝行したいと思った時、既に親は無かった・・・・。今この江陵に残って居る老人達も皆、いずれは我が呉の国民・同胞と成る者達の親じゃ。我々同様、兵士達は民草でもあり、人の子である。だが哀しい哉。上から命じられれば戦場へ出掛けるしかない。然し其んな兵士達に何の罪が有ろうか?・・・無い!!たまたま今は互いに敵と味方に分かれては居るが、元々は皆んな同じ人間じゃ。必ず親が居り子が居り、愛する妻や家族が居る。そして己は何う成ろうとも、肉親だけは豊かで在った欲しいと願う。お互いにお互いを其う思い遣る。・・・その心はワシもお前達も、又、今は敵対関係に在る荊州の兵士達とて同じであろう。ーそして終らぬ戦いは無い。戦争が終れば、兵士は皆んな親や妻子を持つ普通の民に戻る。同胞に成るのだ。」
「物惜しみするな!労を厭うな!親身に成るのだ。自分の国に居ると思え。自分の故郷に居ると思え。そして自分の家族・親に接する心算で世話を見て進ぜよ。もし病人や身体不自由な老人が居る家庭が在れば、其処には必ず兵士3人を1班として張り付け温かく介護させよ。」
この3人1組と云う処がミソである。・・・・1人だと→不熱心な者が
混じる場合が有る。2人だと、怠惰な方へ流されるケースが出る。4人だと→2対2に成る可能性も有る。3人であれば、ちょうど折り合いが着け易いのだ。ーー倭国の戦国時代初期・・・・未だ群小の諸侯(武将)が割拠状態に在った頃、独り関東に確固たる大国を出現させた男が居た。【北条早雲】その人である。彼が、手に入れた領地・領民に対して、此の3人1組の完全福祉政策=善政を施して人心を掌握し、終には磐石な一国の主に伸し上がった事は余りにも有名である。
「これから真冬に向って益々寒さは厳しく成る。温かい衣服を与えよ。民家では食糧も底を突く季節じゃ。誰一人、飢えさせてはならぬ。その為の輜重は最初からたっぷりと運び込んであるから心配は無用じゃ。」
「よいな、心して当れ。我々1人1人の真心と誠実な行いこそが、程無く、関羽を敗北へと追い込む為の切り札、我が百万の味方と成るのじゃ。」
具体的には何んな効果が有り、直接的には何を指すのか??
未だ殆んどの者達には其の意味は解ら無かった。だが、いずれにせよ、戦争とは正反対の、何か善い事をしている確信だけは在った。

呂蒙は毎日の如く、親近の者を遣って其の地の老人達を見舞わせ、何か不足する処は無いかと尋ね、病気の者には医薬を給し、飢えや寒さに苦しむ者には衣服や食糧を与えた。その一方、関羽が倉庫に蓄えていた財宝は全てを封印し、孫権が遣って来るのを待った。

心の底から滲み出した温情統治・・・・
それこそが、巡り巡って、武の巨神・関羽雲長を追い詰め、破滅させる・・・・のか!?
【第244節】 ドン亀・徐晃、本領発揮! (にじり寄る 逆包囲の環)→へ