【第240節】
閏10月・・・曹操に通告した通り、呉の孫権が動いた。
陸口に駐屯して居る 呉軍都督の 陸遜 からは逐次、関羽との
遣り取りの様子や、関羽と後方基地との不協和音が伝えられていた。その一部始終についての検討は当然、この策謀の発案者である呂蒙が共に為す。 「機は熟した様ですな。」
「ウム、そなたの策は、どうやら功を奏す事に成りそうじゃな。」
「天網恢恢、疎にして漏らさず・・・年内には全てが片付くでしょう」
「そうか。美事、仕上げて呉れ!」 孫権は満足そうに頷いた。
「では直ちに動きまする。」 「ウン、儂も後から参ろうぞ!」
準備は万端。終に 関羽討滅作戦 が 発動された!!
さて、この時点に於ける【魏】【呉】【蜀】3国の状況であるが・・・・
表面に現われる限り、ここ迄は劉備側に何の失策も無い。事は全て順調であり、いずれ曹操側が送り込むであろう救援軍に対しても、後方や側面の味方陣営からの増援で充分に対処できる。
5月 曹操撤退・劉備は漢中を奪取。8月 関羽が北上を開始。それから2ヶ月後の今10月時点では・・・確かに趨勢は劉備の手の中に在った。曹操は漢中を放棄し撤退を余儀無くされたのであるから、明らかな”敗北”である。そして劉備は、この機会を版図拡大の最大のチャンスと観、関羽に乾坤一擲の北上を命じた。
そして関羽は美事その期待に応え、開戦直後に、于禁 5万の全軍を丸ごと捕虜にしてしまうと云う
信じ難い戦果を挙げ、曹操側の拠点である 樊 と襄陽 とを完全包囲。更には別働軍を北上させ、中原一帯の諸勢力
も之に呼応。正に劉備の野望は、達成目前の完璧な状況へと向っていた。この眼を見張る様な関羽の大戦果は、恐らく劉備にとっても 想定以上の寧ろ”望外”な展開で在ったに違い無い。《荊州は関羽に任せて置けば大丈夫じゃ!儂は 曹操を長安に引き付けて 置きさえすれば善い。後は全て関羽が上手く遣って呉れるじゃろう・・・。》
対する曹操、即座に対応すること能わなかった。漢中から撤退した上、更に長安から撤退するのは、流石に”政治的配慮”からも為し得無かった。無論、軍事的・経済的・そして健康面に於いても即応は出来無かった。
ーーだが、今から思えば・・・・関羽の北上から2ヶ月後、漢中撤退からは5ヶ月後、”政治的ほとぼり”が褪めた頃合を見計らった曹操が、長安から洛陽への転進を決断した前後辺りから時局の様相は徐々に”逆転”の方向に動き出していた・・・・事になる。
即ち、曹操が次々に救援軍を送り込む状況に対し、今度は関羽軍内部に不協和音が顕在化し、後方からの支援が全く届かないと云う深刻な問題が発生しつつ在ったのである。それなら関羽は蜀本国へ直訴して兵力でも 兵糧でも 必要なものを送って貰えば良さそうなものだが、それは 関羽の沽券・誇りが許さない。そんな 見っとも無い内輪揉を理由に劉備や孔明に助力を請う姿なぞは死んでも曝したくは無かった。この作戦は
関羽にとって 飽く迄も己の管轄独力で片を着けるべき「筋合」の
ものだったのである。
それにしても・・・・である。江陵の【麋芳】・公安の【傳士仁】この2人の行為は余りにも常軌を逸している!!異常心理学の研究対象モノである。この戦役が 国の命運が懸かった 極めて
重大なものである事は 百も千も承知の筈である。にも関わらず敢えて此んな 〔私怨を晴らす行動〕 を取るとは・・・・!?常日頃からの関羽に対する怨念が余っ程に鬱積し最早 抜き差しならぬ
”強迫観念”へと追い詰められて居た証である。然しながら どうも此の2人には〔事前に語らった〕と云う特別な形跡は観られ無い。
《国を裏切る》 とか 《敵に寝返る》 なぞの、大反れた考えなどは無かった様だし、又そんな環境にも無かった。飽く迄も、関羽個人に対する”嫌がらせ”であり、日頃の怨みに対する”意趣返し”の域を出ぬものであった。だから両者ともが自然発生的に同じ心理状態に成って居た、と観るべきであろう。何故なら、完全無視でも無く、適当に 輜重だけは チョコチョコ と 送っては居るのである。まさか、その己1人の個人的な”嫌がらせ”が、諸方で積み重なり総合してみたら、その個々の忌避行為が、戦局全体に取り返しの付かぬ重大な敗因を齎していた・・・など、最初は当の本人達さえ想像して居無かったに違い無い。ところが、そんな嫌がらせをして居たのは自分だけでは無かったのである。ーーその結果、何処からも満足な補充の届かぬ事態に、関羽は激怒した。
帰還したら、こいつ等を必ず始末して呉れる!!
《えっ!!そんなに深刻な事態に成っていたのか!?》
《嫌がらせして居たのは、俺1人だけでは無かったのだ!?》
ここに至って初めて 彼等は 〔仲間〕を意識し、己の為した行為が自身を退っ引きならぬ崖っ縁に立たせてしまう程の
〔重大犯罪〕=抗命罪・国家反逆罪に該当する罪を犯して居た事に気付かされたのである。
『どうする?関羽の事だ。帰還すれば絶対、我等を殺すだろう!
ーー帰還させてはならんナ。 『引き続き、困らせてやろう』
ーーだが、帰還して来たら何うしよう!?
ーー逃げるしかあるまい。 『何処へだ??』
『まあ、暫くは様子を観よう。兎に角、関羽が破れる様に動こう』
全く、どう仕様も無い小人どもで在る。今この瞬間も尚、故郷を離れて 何万もの 味方将兵達が、命を賭けて戦って居る最中なのにである。ーーだが、この〔梯子外し〕・〔嫌がらせ〕は、偶々 特異なケースとして 此処に現われたのでは無く、上庸の【劉封】も 房陵の【孟達】も亦”梨の礫”を喰らわした儘だった・・・
こうして観ると、関羽の周囲には、選りに選って《小人》ばかりが揃って居た事になる・・・・のだろうか??ーーいやいや、こうまで揃いに揃って味方から総スカンを喰らうと云う事に成ると、一概に彼等ばかりを小人呼ばわりするだけでは済まされまい。本来なら彼等こそは〔蜀の国〕を背負って立つ選良・名士・勇将・後継者で在り、小人とは最も遠い所に居る筈の者達で在る。そんな優れた者達を悉く ”小人にしてしまった” と すれば、彼等の上に立つ、
関羽と云う人物の為して来た責任は 限り無く大きい。一体から、関羽は 「義侠の士」として 己を持して来た男で在るが、思えば
其の昔・・・劉備集団は、その「侠」の過激さ故に人材が集まらず常に用心棒集団・傭兵集団
(爪牙)にしか成り得無かった。端的な例では【陳羣の出奔】が在る。折角、仕官して来た陳羣だったが、関羽の頑な義兄弟最優先の方針
(血縁的序列に因る発言権)に嫌気を差し、その集団の成長に限界を観、劉備の元を去って曹操に仕えた。蓋し「義侠」とは聞こえは好いが、1歩誤れば「侠」では無く 「狭」 とも成る・・・・。弱きを助け、強きを挫く!!
自分よりも下の身分の者には心を開いて接するが、高い地位や身分を有する者に対しては常に身構え、頭ごなしの態度で己を誇示したくなる・・・・知識階層への武人の対抗心も加わる。己の感性・感情に気に入り、ひとたび〔義兄弟〕と云う血縁的契りを交わした相手にとっては、是れ以上は無い至上の存在であり、無条件の義を尽すが、その一方では 『人を人とも思わぬ』倣岸不遜を貫き徹す。
残念ながら関羽と云う人物には、余りにも極端な人格的偏りが内包されて居た・・・・と謂わざるを得まい。敢えてズバリ謂えば、
自業自得の涯てに招いた当然の帰結で在ったのか!?
既述の如く、『麋芳と傳士仁は、どちらも予てから、関羽が自分を軽んじていると嫌って居た。関羽が出陣すると、麋芳と傳士仁は軍資を供給するだけで、全力を挙げて援助する事は無かった。』→(正史・関羽伝) のであり、
『関羽は樊城・襄陽を包囲して以来、劉封と孟達に、軍兵を繰り出して救援して呉れ! と 何度も呼び掛けたが、劉封と 孟達は
山中の郡が従属したばかりなので動揺を与えてはならぬと断り、関羽の呼び掛けを承諾し無かった。』→(正史・劉封伝) のである。
もはや事ここに至っては、我々が今、問題とすべきは・・・・
関羽と彼等との 〔個人的な恩讐〕 では無い。本書が指摘したいのは、そう した事実を把握して善後策を構ずべき劉備本営の動向である。もっとハッキリ謂えばその”無為無策ぶり”である。ーー而して古来よりこの点に言及した書物は絶無である。有るのは専ら、お門違いな責任の転嫁ばかりである。・・・・即ち《関羽を騙した孫権の悪口》であり、その最たる例は、王鳴盛の
『孫権狡猾論』である。だが、元を辿れば、最初に孫権を騙まして荊州を掠め取ったのは劉備である。だから狡猾は御互い様の事今更ながらに「奴は狡い!」なぞ言い出すのは噴飯物の御都合主義・蜀贔屓の心情主義に過ぎぬ
と謂うものであろう。そもそも 戦乱に在る君主たる者、常に相手の動向には細心の注意を払うのが当然。もし形式上だけの同盟関係を鵜呑みにして居たなら、寧ろ逆に「余りにも御人好し!」の謗りを受けるべきである。・・・・然し、多分に『演義的な視点』の影響であろうが、本書の如く
劉備の無能さを指摘し、その責任を問う者は無いのである。何故なら劉備を追求すれば、その先には必ず諸葛亮の責任にも及ばなくては為らなくなるからであり、三国志演義のスーパースターは 飽く迄も 《完全無欠でなくてはならない!》 のである。
因みに、その源泉でもある『正史・諸葛亮伝』の記述は、214年の成都奪取蜀の建国=乗っ取り成功の後は空白にして、突然 221年から書き出されているのである。その空白期間こそが、実は正に此の 〔関羽最後の戦い〕 の 《前後に該当する》 のである。
『正史・先主伝』の記述は更にヒドイ。丸で他人事の様な書き方で関羽が勝手に独りで戦い 破れた、如き短文に過ぎ無い。
本書は既に、この不可解な劉備本営の無策に対し、大きな理由として、軍師【法正】の昏倒・危篤 を挙げて置いた。つまり、この一連の大戦略の全てを立案し、采配を振るって来て居た人物の、突然の倒病に因り、指揮命令系統の 中枢機能が
完全に停止してしまった・・・・と云う観方である。
尚 念の為に断わって置くなら、この時点では未だ、諸葛亮は後方(成都)で内治に努めて居り、軍事遠征部門を直接担当しては居無い。 言い方は残酷であるが、
危篤状態で生きて居るよりも、寧ろ法正は 此の時にキッパリ?
死んでいた方が善かったのである。軍師が未だ生きて居たればこそ劉備は期待もし、その情に於いても 任用を続けた。そして
劉備の情の深さが却ってアダに成る結果を齎し、円滑な
軍師の任務の引継ぎを阻害してしまった・・・もし死んでいたら、踏ん切りが着いた劉備の対応も素早く、大幅な人事異動・配置転換を断行していたかも知れぬ。又、法正自身も 重態の中で、低下混濁
した判断を下す事も無かったであろう。更に同郷で竹馬の友だった【孟達】に与える心境の変化は微妙かつ重大と成る。
と、以上は 「内部事情」に拠る 〔無策の理由〕である。
劉備にとっては真に”間の悪い”アンラッキーだったと謂えよう。
だが、実は是れだけが原因では無かった・・・と、今に成って漸く
判然として来た事が在る。それはーー、劉備が置かれて居た「外部事情」の存在である。そして其れは、取りも直さず、
〔曹操の遠謀深慮の為せる業〕であった事に、我々は今更ながらに気付かされるのである。
筆者は是れ迄、「曹操の長安長期滞在」をーーどちらかと謂えば劉備が曹操を牽制!して引き付け、関羽の北上を側面支援して居た・・・と記して来たが、どうも その観方は”片手落ち”で有った様だ。否、寧ろ、此処まで来ても尚、一向に劉備
本軍に於いて、関羽への増援・支援の動きが 全く観られ無いのは・・・逆に〔曹操が劉備を牽制!〕 して漢中に引き付け、
関羽への増援を封じ込み不可能にさせて居たと観る方が正しい状況へと逆転させられて居る事に気付かされるのである。
曹操は初めの裡 (5月〜7月) こそ、仕方無しに長安に踏み止まって居たものの関羽が北上を開始した時点(8月)を境にして実は此の長安滞在が逆に劉備の首根っこを押さえる事に成るのを認識し、敢えて途中からは、その事の効果が上がるのを見極めつつ後半の3ヶ月を過ごして居たのである!!・・・だから今度は、劉備の方が動くに動け無く成ってしまった。元々【曹魏】と【劉蜀】では、総兵力に10倍近くの大差が在ったのだから、劉備は1兵たりとも他の戦場への転用は困難であったーーだが敢えてもし劉備が蜀(益州盆地)から関羽に増援軍を送るとした場合・・・最も効率的で即効性が有るのは、漢中から「漢水」を下って「樊」へ直行させるルートである。
だが既述の如く漢中には”水軍”が存在して居無かった。と成ると唯一の水軍は「長江」にしか無い。だが曹操と対峙する漢中とは正反対に位置しており、江陵に出るルートだから今は全く意味を成さぬ・・・・だからこそ劉備は事前に【劉封】と【孟達】に命じて、関羽の側面に当る「房陵」と「上庸」を確保させて置いたのだった蜀本軍からの増援が出来ぬ代わりに、現地軍を用いて、関羽を支援
させ様との作戦だった・・・のだが・・・・。
孫権に見送られた呂蒙は先鋒として呉都「建業」を出帆
蒋欽・朱然・潘璋 らを率いると、先ずは「陸口」に居る陸遜 との合流を目指して、長江を溯上した。 ーーそして半月後、艦隊は
長江を凡そ 800キロ 溯上し、「陸口」に到着。待ち兼ねた様な
陸遜の出迎えを受けた。
「お待ち致して居りました。先ず、お元気そうで安心致しました。」
陸遜は、呂蒙の仮病が仮病では無い事を識って居る。
「うん、名医サマが付いて居て下さるから大丈夫じゃ。」
「ほっ、もしかして此方が・・・あの、例の・・・!?」
”古の狂直”こと偏屈男の、あの虞翻の顔も、主治医の名目で、呂蒙の横に見える。
「フン名医で悪かったな。儂が例の虞翻じゃわい。文句あっか?」
「いえいえ滅相も御座いませぬ。大先輩の胸の空く様な剛直ぶりは、呂蒙様から常々聞かされて居ります。」
「阿呆を貫き通したのはエライ!ま いいか。精々頑張ってくれヤ」
シラフの名医様は御機嫌麗しく、己の立場も心得ていらっしゃる。さっさと宴席へと去って行った。
「して何うじゃ、此方の様子は?」
「是れと謂った特別の動きは御座いません。但1つだけ、厄介な物が御座います。関羽が残していった長江沿いの”見張り所”で御座います。」 「それは儂の代の時から既に在ったぞ。」
「ですが現在では関羽の命により、その数は2倍以上に増やされしかも烽火台が完備されておりまする。ですから我等の急襲も、半日を経ずして関羽の元に届くに違い有りませぬ。」
「う〜ん、それでは奇襲では無くなってしまうな・・・・」
この〔呉の動き〕を 関羽は知って居た。いや曹操から知らされたのである。それも、孫権自筆の、曹操へ宛てた 密書の現物 を
矢文にして射ち込んで来たのである!!だが当然ながら関羽は其の曹操の行為と矢文の内容の両方ともに疑心暗鬼を抱いた。 関羽は側近達に矢文を示して言った。
「こんな物が信じられるか!?」
「左様。是れは如何にも曹操が使いそうな手で御座いますな。」
「苦し紛れの、最後の悪足掻きでしょうナ。」
「こんな事までして来るのは、却って樊城に対して打つ手無しの苦境を曝け出したも同然。正に馬脚を現わした、と申せましょう。」
「断固 樊城包囲を強めるべきです。もう陥落は目前です。こんな姦計に嵌って包囲を解き、帰還しては為りません!」
全員の見解が一致した。
「然し、完全に無視するのも危険ではあるな・・・・」
元々関羽は、呉の動きを最も警戒して居たから、曹操に唆される迄も無く、一縷の不安は常に抱いている。ただ新米都督の陸遜と云う男は、呂蒙に比べたら小物らしい。恐れるべきは呂蒙だが、情報では危篤状態に在って全軍の指揮を取れる様な状態では無いと謂う。それに、もし万一の場合は 関羽が整備して置いた、〔見張の烽火台〕からの光通信が、呉軍の急襲を半日を経ずして直ちに伝えて来る筈である。その事実が伝えられてから行動を起こしても充分に間に合うし、対処にも不足は無い。
「いざと成れば奴等も国恩に応え必死の防衛戦を行なうだろう」
関羽が言う”奴等”とは無論「江陵の麋芳」と「公安の士仁」を指す
《まあ幾ら何でも、国を売る様な真似はすまい。》
確かに己個人との確執は認めるが、国と国との決戦とも成れば人には愛国心・忠誠心と云うものが在る・・・・筈だ。 況して麋芳
には実兄で重鎮の麋竺や一族が益州に居るのだ。まあ大丈夫であろう。そんな心配より、先ず最優先すべきは 〔樊城の陥落!〕である。包囲から丸 2ヶ月、城内の飢餓は後10日も持つまい。終局が見えているのだ。
「よし、我等の方針は微動だにせず!!
必ず樊を落し、曹仁を捕えるぞ!!」
だが、その「樊城」・・・・先に【徐晃】から射ち込まれた 『救援軍到達!』の矢文に続き、更に此の日、『孫権参戦す!』の矢文を受け取り、益々その士気を昂揚させ、関羽からの降伏勧告を断固拒絶!!よろめく足元ながら将兵の全員が改めて徹底抗戦を誓い合って居たのである。
『太祖は早速、救援の将・徐晃に命じ、孫権の文書を包囲の内部と関羽の屯営の中に射込ませた。包囲の内部では、その事を聞いて、士気が倍加した。関羽は案の定、決断を下さ無かった。』
ーー(正史・董昭伝)ーー
『孫権は心中で関羽の力を侮り難く思って居た。だが自分の功を天下に示そうと考え、曹公に手紙を送り、関羽を伐って自分の手柄を著わしたいと申し出た。 曹公は、ここは1つ 関羽と孫権とを
互いに闘わせてやろうと考え駅伝に託して孫権の手紙を曹仁の元に送って、それを矢文にして射込み、関羽に読ませた。関羽はグズグズして引き返す決心が着か無かった。
閏10月、孫権は関羽征伐の軍を動かし、先に呂蒙を遣わした』
ーー(正史・呉主伝)ーー
呉軍先鋒の作戦会議・・・現役の都督は【陸遜】で在るが実質の総司令官は【呂蒙】で在った。
「本作戦の要点は、関羽に我等の動きを 一切気付かせぬ事にこそ在る。情報を最後まで秘匿し、関羽の動きを樊に釘付けとしその退路を絶ち、孤軍成り果てた所で・・・関羽を・・・捕える!!」 呂蒙の顔は自信に満ちて居た。
「その為には先ず、公安・江陵への 途中に 配置されて居る敵の
”監視所”を 何とか 始末せねばならぬ。
之に発見され、烽火で 関羽に我等の襲来を知らされては、以後の作戦に 重大な齟齬を来たす恐れが在る。陸遜、その見張所の実態を説明して呉れ。」
言われた陸遜は作戦地図を拡げると、指差しながら言った。
「数は全部で8ヶ所。 国境の”尋陽を過ぎた地点から”江陵”までほぼ
等間隔で配置されて居ります。然し その規模は小さく 精々
1ヶ所に20人程度で、専ら監視と連絡のみの人員配置に過ぎませぬ。 但し烽火台は全てが険阻な高台に在りますので、攻撃に時間が掛かりますれば、その隙に着火されてしまう恐れが御座います。」
「と、云う塩梅じゃ。ーーそこで此方も〔奇策〕を用いる事とする。」
呂蒙の顔に悪ガキ時代の”阿蒙ちゃん”の笑顔が復活していた。
「相手を騙暗かす訳じゃ。我等は尋陽で商人に変装するのだ!」
皆、《な〜る程!!》 と 云う顔で頷く。
「そこで、どうじゃ。朱然、その方、1つ酒売り商人に成って見せて呉れ。ほれ、之で頬っかむりして、やって試せよ。」
「えっ?私がで、御座いますか?」
「そうじゃ。上手ければ先陣に加えても善いぞ。」
「絶対に笑わんで下さいよ。」
「ああ、笑うものか。重大な作戦なのだ。真剣にやるのだぞ。」
「・・・・コンチワ!儂は酒売りである。美味いから買って呉れ!」
思わず全員が吹き出した。
「ああ、ああ〜、笑ってる〜! 皆〜な 笑ってる〜!」
プリプリ怒る朱然。
「あのな〜、そんな威張り腐った商人が在るもんか。買わなきゃ、今にも斬られそうだし、相手は全〜部逃げ出しちまうぞ。」
「そんそんな事いうなら、藩璋どのもやって見せて下さい!」
頬かむり用の布を手渡された藩璋はグッと詰る。すると 周囲は 無責任に催促コールを湧き起す。仕方なく言う。
「よし儂もやって見せよう。だが儂がやったら全員がやるのだぞ。いいな、約束いたせよ?」
「約束も何も、やらねば為らぬ事ですぞ。」
かくて、暫しのパフォーマンス大会とは相なった。
「・・・・酒です。美味いです。買うべきです。」
「・・・・酒じゃ。美味いんじゃ。買うんじゃ。」
「・・・・酒だよ。美味いだよ。買うだよ。」
「・・・・酒だ。美味い。買うのが当然じゃ。文句あっか?」
「まあ諸君には無理なのが、よ〜く判った。土台、諸君の厳つい体と そのゴツイ顔では とても商人を演ずる事は無理じゃろうナ。 そこで 諸君には後方の艦隊で待機して貰い、監視所の乗っ取りは、現地の者達を用いる事と致す。」
ホッと胸を撫で下ろすゴッツイ面々。
「尋陽に駐屯して居る部隊の中から精兵を選抜し、底の深い船に潜ませ、漕ぎ手も尋陽の民衆を徴用し、商人の身なりをさせて櫓を漕がせる。」
当時、〔舟冓 舟鹿〕 と 呼ばれる、深い船底の 運搬船が在った。
貨物専用で 商人が交易の為に用い、船足よりも 積載量を優先
させた ズングリした格好の 商船 で ある。軍事戦闘能力はゼロと
謂ってよい。まさか其の蔽いの下に鋭部隊が潜んで居るとは誰も想わない。念には念を入れ、本物の商人も混ぜて措く。 商人は〔賈人こじん〕と謂い、通常は白衣を着ていた。監視兵と顔見知りが1人でも在れば尚更好ましい。安心して雑談して居る処を足音を忍ばせて近づき、ワッとばかりに一網打尽。相手は所詮、見張りが専門の弱兵ばかり。鬼の様な精鋭部隊の奇襲に縮み上がって事は終わる・・・・?? ちなみに、大多数の小説は此処の部分を端折って→『呂蒙自身が 商人に変装して 見張り所を襲った!』と云う事にしてしまっている。更には『呂蒙軍は全員が商人に変装して公安・江陵を陥とした!』と、面白おかしく粉飾している。然し史書を正確に読めば、商人に変装したのは「平民の漕ぎ手」だけであり、呂蒙達は大艦隊で威風堂々と乗り込むのである。
「ヨ〜イ旦那〜!いい酒が入っただが、要りますかぁ〜??」
こちらは本物の商人。物腰が違う。船の上から岸に呼び掛ける。
「今回は急いどりますじゃで〜、御不要なら、このまま着けずに
行きますけんど〜、何う為さいますかぁ〜〜??」
手持ち無沙汰で暇を持て余して居る見張り場暮らし。こんな好い機会を断わる筈が無い。唯一の楽しみにして居るのだ。
「要る、要る!要るに決まっとるではないか!直ぐに着けろ〜!」
「分りましたぁ〜!好い肴も揃ってますだぁ〜!」
その遣り取りを聞き付けて、見張り場の兵達は、全員が急々と 船着場に集まって来る。寒さを内臓から温める意味も有る。
「毎度ご贔屓有難うごぜ〜ますだ。」
酒瓶が下ろされるや否や、群れ集まった兵達は1瞬とて待ち切れ無い様で先を争って柄杓でガブ呑みする。
「クヒ〜ッ!!ああ〜堪んねぇ〜や!!」 「早くしろ!」
「俺にも呑ませろ!」 次から次へと駆け付けて、全員集合。
ーーと・・・・、
「は〜い皆さん、残念でしたあ〜。お楽しみは其処までデ〜ス!」
「・・・はあ〜?・・・ん?ゲ、ゲゲゲのゲ!!」
見廻すと、何時の間にやら周囲は全て鬼みたいな敵兵ばかり。忽ち全員縛り上げられてしまった。
「よし、1丁あがりだ。念の為に烽火台は叩っ壊して措け。」
ものの1刻と経たぬ裡の出来事だった。
「お前達、中々の役者じゃのう!褒めて遣わす。」
「いやあ〜、冷や汗が出ました。だけんど、もう大丈夫でさあ!」
「未だ先は長い。油断するで無いぞ!」
「へい、合点承知で御座い。」
「では急ごう、直ちに次へ向うぞ!」
呂蒙の〔騙暗かし作戦〕は美事に適中した様だ。だが舟冓舟鹿の欠点は船足の遅さであった。だから此の後は、櫓を漕ぐ平民達は一睡もせず昼夜兼行の全力漕櫓を強いられた。だが其の御蔭で尋陽〜公安の間に在った全ての見張り台は、3日を経ずして悉く《呉軍》の手に落ちたのである。即ち関羽は、その後方基地からの 〔情報を得る手立て〕 を全て奪い去られ、失ったのだった。
・・・そして月は改まり、関羽が北上を開始してから4ヶ月目・・・
今や遅しと 後方に待機して居た
【呂蒙・陸遜】らの呉軍大艦隊は、
関羽の根拠地である 公安・江陵 への
大進撃を開始したのである!!
【第16章】巨人達の最期 〔241節〕 終りの始まり (裏切の実行)→へ