第239節
秋10月、開戦から2ヶ月を経て 益々緊迫する戦局に 唯1点
或る 〔予想外の事実〕 が クッキリと 浮び上がって来て居た。
それは・・・襄陽城の健闘ぶりで在った!!
古来より史書は「樊の曹仁」に耳スポットを当てるばかりで南岸に孤立する 此の 襄陽城 には 殆んど眼が向けられず、
重大視もされずに見過ごされて来て居る。だが実は・・・
この襄陽城の健闘こそが魏蜀双方の戦術に大きな影響を与え、終には 関羽破滅の引き金 と成るのである。では何故
記述が無いのか?と言えば、理由は至って明快。その守将が有名人では無かったからである。
元々『国史』の本質は個人の履歴(紀と伝)を記述する事が主眼であるから必然的に知名度・評価の低い人物に纏わる事柄の記述は簡略となる。ちなみに襄陽城の守将は呂常と言う。然し彼の存在は「徐晃伝」の中に唯1ヶ所『関羽は曹仁を樊に包囲し又将軍の呂常を襄陽に包囲した』と、名のみが出て来る人物に過ぎ無い。だからその人物が守る襄陽城の動向も記述からは疎外されているのである−−だが元々から謂えばこの襄陽城こそが荊州の首都・主城で在り、樊城は其の支城の関係で在ったのだ。故に 城邑の規模も 格段に襄陽の方が巨大で在り、その要塞としての機能も優れて居た。但し その主人が北方の魏に入れ替わった時点からは、漢水を越えた唯一の”飛び地”状態に取り残される格好と成って居たのである。
曹操に本音を謂わせれば 襄陽は〔捨て城〕扱いで いざと成れば樊城へ撤収する覚悟だったと思われるーー守りの弱い「樊」には勇将と精兵を以ってし、堅固な「襄陽」には弱兵を当て、いざと成れば樊へ逃げ込ませる・・・・処が、想いも寄らぬ大洪水に関羽の急襲が重なり、襄陽は
その撤収の機会を逸した。関羽軍に完全包囲され、然も 漢水に隔てられ 救援の見込みゼロの陸の孤島。
《 遅かれ早かれ、いずれ襄陽は関羽に降るであろう。》
それが 敵味方ともに抱く観方であった。だが呂常は 其れを覆し
2ヶ月を過ぎた今も 未だ頑強に抵抗し続けて居たのである。その抵抗を可能にした最大の理由は、襄陽城の巨大さだった。先の荊州国主【劉表】が、戦乱の世にモンロー主義を貫き、その天下で最も豊饒な土地の財力を専ら築城に注ぎ込んで完成した城砦なのだ。生半可な代物では無かった。広さだけでも樊の4倍以上はある
、天下有数の巨城だったので在る。だから、さしもの関羽も直接には手が出せず、包囲をして”兵糧攻め”を施すしか方法は無かったのだった。然し襄陽には、厖大な備蓄が為されて居たのだった。既に備蓄が尽き掛けて居る樊に比べれば余裕の構えを保ち得て居たのだ。−−となれば、後は守将・呂常の精神状態・心得1つに襄陽城の命運は掛かって来る。もし呂常が将来の見通しに於いて 《いくら粘っても 救出される見込み無し!》 と判断すれば降伏・開城の場面も在り得るやも知れぬ。だが今の様子では、それは先ず
無さそうであった。
この襄陽城の意外な抵抗に遭って関羽の戦術には
誤算が生じて居た。関羽の目論見では南岸に独り取り残された格好の「襄陽城」は直ぐに降伏開城し、それによって関羽水軍は最前線基地を確保。同時にその厖大な兵糧をも獲得できる!筈であった。また、襄陽包囲の為の兵力も不要となり、その貴重な兵力を、北方進攻に用いられる筈!であった。 だが この襄陽の意外な抵抗の為に、その目論見の2つともが共に外れた。そうで無くとも 関羽は 既に 大きな誤算に 直面して居た。 嬉しい誤算では有ったが 捕虜にした于禁軍5万の兵馬に対する余分な食糧の手当を強いられて居たのだった。今は、その捕虜の群れは「江陵」へと後送され、現地には居無い。だが、関羽側の実感としては、
〔蝗の大群に、貴重な食糧を喰い荒らされた!〕 と 思わざるを得無い状況に直面して居たのである。ーーそこで関羽は已む無く後方基地の「江陵・麋芳」 と 「公安・傅士仁」 に対して更なる兵員と兵糧の供給を命じざるを得無くなったのだった。 対・于禁戦の前後に、後方からの 数次の〔兵力引き抜き〕を決行して居た関羽だったが、折しも 警戒していた呉の新都督・【陸遜】からは、遜った畏敬を示す2度目の手紙が届いており、関羽は陸遜と云う人物を”安全パイ”だと判断するに至った頃でもあった。
・・・処が・・・その命令から1ヶ月も経つのに、未まだに要請した
兵力は1兵も届かず僅かに取り合えずの輜重部隊だけが到着しただけであった。然もその兵糧も当座を凌ぐのが
やっとの量にしか過ぎず、再三再四 矢の督促に応じた後続の輜重部隊も
全く ”御座なり”の 微々たるものであった。
明らかな怠慢である。いや悪意に満ちた”抗命”である。
《あ奴等〜、この重大な時に、一体なんの心算か!?》
関羽は 憤怒の形相を顕わにすると、激怒して叫んだ。
「おのれ!帰還したら必ず始末して呉れる!!」
その関羽の怒りの言葉は、直ちに 後方の2人の耳に入った。
「あの関羽の事だ。帰還すれば本当に殺されるに違い無い!」
今更ながら悔やんだが、では直ちに改心して督促に応じたか?
と謂えば、其処が小人の小人足る所以。関羽への憎しみだけは益々強められたが、かと謂って 何の対策も無く ただオドオドして恐怖心を募らせるばかりであったーー然し、追求などは後廻し。
現実、背に腹は替えられず、そこで関羽は、手近に在った、或る禁断の果実 に手を出してしまったのである!!それはかつて劉備と孫権との同盟関係が未だ良好だった頃に設置され同盟消滅の後は、その儘ウヤムヤに放置されて居た、
両国
〔共同管理の備蓄米〕であった らしい。その場所は 双方の
国境線上付近?の「湘関」との記述が在るが詳しくは判らない。→(※原文では『 湘関の米を 勝手に 奪い取った』のみ) 恐らく誓約では、もし
使用の場合は双方の合意が必要との条項でも在ったのだろう。
きっと実物は「古古米」だったに違い無いが量的には急場を凌ぐには充分だったらしい・・・だがこの関羽の共同備蓄米無断使用行為は、直後に政治問題化し、孫呉側に格好の〔開戦の口実〕を与える事と成るのだった。そんな事は終ぞ思わず関羽は兎に角、予定外の于禁軍捕虜への食糧供与と、自陣営の補給遅滞の問題に対し、応急の措置を施さざるを得無かったのである・・・。
とは謂え10月現在の戦況は圧倒的に関羽側に優勢!であった。「樊」は今も完全に水没した儘で兵糧は涸渇。「襄陽」も只管城内に籠って1度の出撃も無い。殊に樊城の事態は厳しく
偵察船からさえも、その飢餓による将兵の衰弱が判定できる程と成り果てて居るのだった。その一方、曹操が「宛城」に急派した救援部隊も、関羽側の堅固な阻止ラインの前に、思い切った突破作戦を敢行し得ず、停滞した儘であった。
焦る救援部隊内には・・・司令官の徐晃に対する
諸将の批判が噴出していた。
「何時迄この宛城に留まって居る心算なのです!如何に募兵が儘ならぬとは雖も、今は緊急事態なのですぞ。直ちに出撃すべきです!このまま座して居ては、樊城は餓死してしまいますぞ!」
「もし我々が到着しない前に樊城が陥落する事にでも成ったら、我等は救援遅滞の罪に問われまする。どのみち死ぬので有れば
座して汚名を被るよりは玉砕覚悟で敵陣に突っ込むべきです!」
『現地調達の兵力が整う迄は軽挙盲動は控える!』と謂う徐晃の方針に納得ゆかぬ者達が日に日に増え、陣営内は険悪な雰囲気に覆われ始めていた。そこで徐晃は参謀の【趙儼】に相談すると、趙儼は言った。
「いま我等が率いて居る兵は、寄せ集めの新兵ばかりで、とても関羽の精兵には対抗できませぬ。ですが諸将の言う事にも1理は有ります。ですから兎に角いまは宛城を出て、出来うるだけ敵の包囲陣に近づいて措くのが宜しいでしょう。もしかすれば、その間に別の部隊が追い着いて来るかも知れませんシ。」
「それも そうじゃな」・・・かくて徐晃は部隊を 思い切って「宛」から前進させ、陽陵陂=(位置不明) に 駐屯させた。だが この前進は
却って強硬派を勢い付かせるだけとなった。敵の包囲陣を目前にした停滞は
如何にも中途半端。余計に 焦燥感を煽る事に成ったのである。又もや繰り返される突貫論・・・・そんな10月も押し詰まった 或る日の軍議。暴発寸前の緊迫した議論の最後に、
それ迄は専ら聞き役に徹し、一切の沈黙を保って居た 議郎の趙儼ちょうげんが、決然として意見を述べた。
その時の状況を『正史・趙儼伝』は以下の如くに記している。
『関羽が樊に居る征南将軍の曹仁を包囲した。趙儼は議郎の資格で曹仁の軍事に参画する事となり、南方に行って平寇将軍の徐晃と共に進軍した。到着したが、関羽の曹仁包囲は固まった後で、他の救援軍も未だ到着して居無かった。徐晃の統率する兵力では包囲を解くには不充分であるのに、諸将は徐晃に速やかに救援する様にと厳しく文句を言った。趙儼は諸将に向って言った。
「賊軍の包囲は前から固まって居り、今も降雨は尚盛んである。我が方の歩卒は単独少数の上、曹仁は完全に隔離されて居て、力を合わせる事も出来ぬ。それなのに諸君等が主張する行動は
実際には内と外の両方を疲労させる結果を招くだけじゃ。
現状での最善の策は、軍を前進させて包囲陣に迫り、曹仁の元に間者を派遣して連絡を取り、外からの救援が在る事を先ず知らせそれによって将兵を奮い立たせる事だ。計算すると、北方本軍の到着は10日を超えぬであろう。また曹仁の軍は未だ充分に固守し得る。本軍の到着を待ち、合流した後で、内外共に行動を起こせば、賊軍を打ち破る事は必定である。」
この記述から判る事は、この時点でも未だ、激しい雨が降り続き
樊城は完全水没状態。又、関羽軍の包囲網は鉄壁であり、寄せ集めの徐晃部隊では手も足も出せぬ事。但し10日後の頃には本格的な大救援軍団が来る手筈に成っていた事。樊の曹仁達はギリギリあと10日の命運と成り果てて居る事・・・である。
「もし我等の救援が速やかで無い為に責任を問われ、処刑される様な事が有る場合には、この私が諸軍の責任者と成ろう!!」
最後の此の一言が効いた。諸将が共に抱く1番の不安は、失敗した場合の責任論だったのだ。それを事実上の参謀総長で在る趙儼が 「俺が全ての責任を取る!」 と 明言したのだから、安心
したのである。既述の如く、趙儼には魏の全軍を統括した実績が在ったのだから、その保証は”万全”と信じられる。チャッカリしたもので、『諸将ハ大変喜ビ、さっそく地下道ヲ作リ、矢文ヲ曹仁ニ送リ、情報ヲたびたび連絡シタ。』のである。・・・・但し、地下道を作り・・の部分は陳寿の”筆の走り過ぎ”であろう。この大洪水の最中に、一体どうやって長大な地下道が掘り貫けるのか??
一方、完全水没の憂き目に遭い、終に兵糧が底を突いた
樊城の曹仁陣営・・・その実情だが・・・
『城壁のうち 水没しない部分は数板 (2.5m) と云う有様だった。
関羽は船に乗って城に臨み、数重に包囲し、外部と城内の交通を遮断した。食糧は 終に底を突かん!と云う状態なのに、救援軍は遣って来無かった。』
『樊の城壁は水に浸かり、しばしば崩壊し人々は皆色を失った。』
水没・包囲されてから既に2ヶ月ーー水を含んで軟弱と成った城壁は、至る箇所で根元から崩れ落ち、辛うじて残骸化した上部だけが濁流の中に顔を覗かせて居るだけと成り果ている。最早往時の城影は見る影も無く全面崩壊の危機にすら曝されていた
そして何より深刻に成っているのは、飢えの発生であった!!
備蓄して在った兵糧は全てを喰い尽くし、今は軍馬を潰して作った薄いスープだけが命の糧となっていたのである。だがその軍馬の残り頭数も後わずか・・・・城壁に埋め込まれていた藁クズさえ喰らったが、どう頑張ってみても武将・兵士として動ける限界は目前に迫っていた。ーーだが、頼みの綱の救援軍の姿は、その影すら見えず、烽火や 矢文による 連絡すらも無かった。こうなると
流石に軍内にも動揺する者達が出て来た。
「今日の危機は、もはや力で支えられるものでは御座いません。
包囲の隙を衝き、夜間に軽船に乗って逃走するべきです。たとえ城を失っても尚、一身は全うする事が出来まする。」
「遣って来て呉れる と信じて居た救援軍が 2ヶ月経っても 未だ
現われぬ以上、我等には脱出の権利が生じた、と謂えましょう。我等は充分 責務を果しました。今が潮時です。是以上グズグズして居たら脱出さえ不能となり、我等は犬死するだけですぞ!」
曹仁は迷った。ーー戦さの勝ち負けは兵家の常、時の運・・・命さえ在れば、いつか捲土重来を期す事も出来るーーと、その時、奮威将軍の【満寵】が進み出て言った。
「山からの水は足が早いので 長引く事は無いと期待できます
※この〔山からの水〕と云う記述に拠って、この大洪水が”漢水”だけの氾濫では無く、 非常に広範囲に渡る 長期間の豪雨だった事が推断し得る。
その満寵、字は伯寧。山陽郡の人で18歳にして郡の督郵と成るや不正をビシバシ取締り、その公正峻厳さで知られた。曹操初期の兌州時代に召し出され〔従事〕に任命された。以後は
〔西曹属〕→〔許の令〕。 曹操の身内を好い事に、不正蓄財 と 度
ケチで有名な【曹洪】周辺にも踏み込み、曹操から喝采を浴びるなど、その峻厳さは 夙に有名だった。 漢の太尉だった【楊彪】が
曹操の標的にされた時 その訊問官だったのも此の満寵。拷問を恐れた荀ケと孔融が牢獄に駆け付け、手荒な扱いをせね様求めると、無実の罪を知って居た満寵は、曹操の意向を無視して公正な態度を貫いた。以後は主に荊州との国境に在る〔汝南郡〕を担当し、当地の事情には精通して居た。
「聞けば関羽は別将を派遣して、既に夾卩(のち曹操本人が洛陽から出て来る摩陂)の辺りに行かせており、許・以南の地では民衆が混乱して居るとか。然し関羽が思い切って其のまま進撃しないのは、我が軍が其の背後を突くのを恐れて居るからですぞ。今もし我が軍が逃走すれば、洪河(黄河)以南の地は、もう国家のものでは在りますまい。君にはジッと待たれるべきかと存知ます!!」
その肝の据わった大局観を聴いた曹仁は忽ち処に迷いを払拭し答えて言った。
「もっともじゃ!! では、その決意を天に誓う儀式を全員で行なおうぞ。お前が
執り仕切って呉れ。」
そこで満寵は、水神の怒りを鎮め、かつ天の加護と 自分達の
決意を示す為に「白馬」を引き出すと、その儀式の生け贄とした。
今や軍馬は残り少ない”貴重な食材”でも在ったのだが、全軍の眼の前で、それを城壁から水中に沈め、未練無き決意の証として見せた。・・・重りを付けられた白馬が濁流に没する瞬間、曹仁は城壁に仁王立となると、曹操からの恩賜の宝剣を引き抜き、天に翳すや、全身全霊を込めた誓約の雄叫びを挙げた。
「天よ、神よ、御照覧あれ!我等の身は此処に死すも、その心は忠節の鬼と成って国恩に報いん!もし此の誓約を破る者あらば、直ちに殺されるも可なり!我等は一致結束し此の苦難を乗り越えて見せるものなり。いざ共に誓わん、我が精兵たちよ!最後の勝利を得る 不屈の闘志と忠節を!」
その鬼気迫る曹仁の 凄絶な姿を見た将兵達は、各自が改めて
決死の思いを胸に刻み込み、以後2度と弱音を吐く者は終に現われる事が無かったのである。
『曹仁ハ将兵ヲ激励シ、必死ノ覚悟ヲ示シタ為ニ、将兵ハ感動シ 誰も二心ヲ持ツ者ハ居無カッタ。』
その頃 今は陽陵陂に前進駐屯して居た徐晃部隊の元には、漸く後発の第2陣=徐商・呂建の正規部隊が追い着いた。更には第3陣=殷署・朱蓋の部隊も合流を果していた。
樊城包囲から2ヶ月・・・・やっとの事、救援軍の先鋒部隊はその陣容を整え、包囲網を敷く関羽軍に対して、辛うじて対抗し得る戦力を集めて居たのだった。だが未だ
その兵力では 如何な勇将の徐晃と雖も、とても強行突破を敢行するには不充分なものに過ぎ無かった。逆に関羽側の備えは、それ程までに鉄壁、かつ強大で在ったのだ。而して残された時間は、あと僅か・・・
「何としても、樊城内へ、我等が直ぐ近くまで来て居る事を、
知らせなくては為らん!決死の連絡隊を送り込むのじゃ!!」
そこで小船を夜陰に浮かべ、関羽軍の警戒線を擦り抜けて樊城に接近。発見されたが、辛うじて矢文を射ち込む事に成功。
待ちに待たされた城内の狂喜は頂点に達した。
「嗚呼、天は我等を見棄てず!! 我等の声は魏王様に通じて
居たのじゃ!あと僅か じゃぞ! もう少しの辛抱じゃ。此処まで
耐えて来たのだ。何としてでも頑張り貫こうぞ!!」
流石【曹仁】の眼にも大粒の涙が光っている。況して将兵の中で感涙を零さぬ者は1人とて無かった。飢餓に痩せ細り虚ろな眼で城壁に横たわって居た半病人達がその瞳に希望の光を灯した。
「死んでは為らぬぞ!絶対に生き抜くのだ!共に頑張ろうぞ!」
曹仁は自身が よろめきながらも、将兵の間を訪ね廻り1人1人の手を取っては
励まし続けるので在った・・・・。
だが然しーー実際には【徐晃】は苦悩して居たので在る。関羽側の防禦陣は厚くそして深かったのだ。いま徐晃軍が露営して居る陽陵陂の眼の前には偃城が立はだかり、更に囲頭・四冢にも強靭な砦が構えられていた。それ等を全て撃ち破って樊城へ到達するのは至難の業であった。
《ーー何とかせねば為らん・・・》
苦境を打開してこそ、曹操から特に選ばれた徐晃の責務である。
時は待って呉れ無い。この儘では樊城は全滅する・・・・
「おお、しっかり進捗して居るではないか!!」
秋10月、曹操は長安から洛陽まで帰還した。1年と2ヶ月前 (218年8月)に 「漢中」へ向う為に通過した時点では、未だ城壁だけの完成で、城内の復興作業は殆んど基礎工事に過ぎ無い状態だった。だが今、曹操の眼の前に現われたのは・・・・
曹操孟徳が青春時代を過ごした華の都・洛陽であった!!
いや、その”思い出”を 髣髴とさせる様な、宮殿の姿であった。
東西2.6キロ、南北3.8キロにも及ぶ広大な城壁の中には、未だ 民衆の居住区はサラ地の儘で 人影は無い。だが魏王朝の都と成るべき王宮と官庁街は、ほぼ往時の姿を取り戻し、前漢時代の規模以上の威容に輝き始めていたのである!! 無論まだ、完全に満足する迄には更に20余年を要するかも知れ無いが、北宮の「建始殿」だけは完璧であった。その構想・基本設計は、全て曹操の手に拠るものだった。
※ 尚 この 〔曹魏の都・洛陽〕 については、いずれ 詳述するが
【裴松之】は 補注に於いて、次の様に考察している。
『私が調べた所では 諸書に(文帝と成った曹丕は)北宮に住まい、建始殿に群臣を参朝させ、その門の名は承明と記録されている。明帝の時代になって初めて、漢の南宮・崇徳殿の在った場所に、太極・昭陽の諸殿を起工したのである。』 ーー即ち、この時点で曹操が眼にし、居住したのは・・・・未だ人気の無い必要最小限の1部の王宮だけが完成した 洛陽の姿であったのだ。 とは 謂え、
董卓の手によって灰燼に帰した、あの 無残な 灰の中から、この
不死鳥は再び曹操の手によって復活を遂げたのである。やがて其の曹操の業績は時空を越え、海を渡って倭国(大和)の藤原京・平城・平安の洛都へと受け継がれ伝えられてゆく事になる・・・・。 このとき曹操は、あの”五彩棒”で名を馳せた〔鬼の洛陽北部尉〕デビュー時代を懐かしみ、特に命じて 其の役所を 旧来の物より立派にさせた・・・・と、例の『曹瞞伝』は記している。そんな心境・感慨にも成ったであろう。
だが、その懐古も束の間・・・・差し迫った緊急課題が曹操を忽ち現実の世界に引き戻したーー
曹操が長安から洛陽に戻って来る機会を窺って居たのであろう孫権が、〔思い切った申し出〕をして来たのである!その内容は曹操が強く要請していた事柄に対する最終返答でも在った。即ち・・・関羽の根拠地を背後から襲い、その退路を絶ち関羽を破滅の淵に追い込む!と云う 具体的な提案であった。
『これから臣は軍兵を西方に溯らせ、関羽の不意を襲って領地を奪取したいと思います。江陵と公安は連なっており2城を失えば、関羽は間違い無く自分で駆け付けて来ます。さすれば、樊に居る軍隊の包囲は、救援が無くとも自然に解けるでしょう。尚 どうか
是れは秘密にして戴き、漏洩の無き様に御配慮願います。
関羽に用意させては成りませぬので、宜しく御願い致しまする。』
ギブ&テイク!・・・魏呉の双方が共に得をする!
《私は魏の臣下〜呉は魏の藩国〜》なぞと下手に出ている孫権だが、その言わんとする処は、正に此の1点を突くものであった。
【呉】は→関羽の領土を奪う が、
【魏】も亦→「襄・樊の窮地」を 脱する!ーー無論、曹操とて先刻承知の筋書き・・・内心では、その申し出を心待ちにして居たのであるから、2つ返事で即諾した。
「よし分った。この件を秘密にするのは当然の事じゃ。懸念には及ばぬ。」
曹操は 使者の前で 側近達に厳しく”緘口令”を敷いて見せた。
大臣達も亦当然の措置である!と皆、互いに申し述べ合った。
だが、呉の使者が帰途に着くや否や、【董昭】が早速に意見
具申をして来た。
「軍事には応変の策が肝要。事態に合致する事が要求されます」
この董昭はスケールの大きい策謀を得意として来た人物。軍師と云うより”懐刀”と謂うブレーンで、曹操が献帝を奉戴する迄の一切を画策して成功させた。また大反対の合唱の中、「曹操様は魏公・魏王に成るべきだ!」と最初に言い出し、仕掛けたのも、この董昭で在った。即ち、曹操の覇業をプロデュース した人物で在り当然、曹操の信頼は絶大で在った。
「この際は2賊を互いに対峙させ、居ながらにして彼等の疲弊を待つべきです。その為には、孫権の希望に応えて秘密にしつつ、一方で密かに事を洩らすのが宜しいでしょう。何故なら、関羽が『孫権、西上す!』 と聞き、もし引き返して防禦に廻れば包囲は速やかに解け、直ぐに目指す利益が得られるからです。」
「逆に、秘密にしたまま洩らさなければ、孫権にだけ 思いを遂げ
させる事となり、最上の策では有りません。又、包囲の中に在る将軍・官吏達は救援の在る事を知らず、食糧を計算しつつ恐怖しヒョットすると2心を抱くかも知れず、そう成ると 其の弊害は小さくありません。ですから、この事を洩らした方が、我等には都合が好いと存知ます。」
「それに 関羽は激しい気性の持主ですから 2城の守備の堅固さに自信を持ち、必ずや直ぐには引き退かないでしょう。」
それを聴いた曹操、唸った。 「もっともじゃ!」
まさに虚々実々、互いに一筋縄ではゆかぬ。
而して今、時代の分岐点を為す 巨大な歴史の歯車が、不気味な軋み音を上げながら終に動き出したのである・・・果して関羽はそして 劉備 や 諸葛亮 は、その事を知り、認識し得て 居るので在った だろうか・・・!?
「孫権が申し出の通り”合肥”に向けて居る兵を引き上げたのを確認したら夏侯惇と張遼も呼び寄せよ!」
500キロ以上も東からの猛将・勇将の投入である。曹操、本腰である。が一面では《再会して 今生の別れを して置きたい!》との 密かな私情も在ったのは否めないか?
「兌州の裴潜と、豫州の呂貢にも速度を上げさせよ!」
先には、『ゆるゆる参れ!』と抑制していた手綱を解き放たせた。
「また江夏の文聘ぶんへいには、関羽を東からも攻めさせよ!」
江夏郡は、漢水を挟んで関羽と隣接し、呉の都督陸遜が駐留する陸口とも国境を接する魏の重要拠点で在る。郡太守の文聘は、前後50余年に渡り江夏を任されるが、今は討逆将軍・延寿亭侯の称号を加えられて居た。
かくて、孫権からの申し出を受けた曹操は、矢継ぎ早に各地への出撃命令を下した後、周囲に宣言した。
儂自身、全軍を率いて 親征するぞ!!
取り合えずは洛陽から100キロ南進し、華中大平原を望む摩陂辺りに本陣を置くのだ。魏王おん自らの出座となれば、急援軍の士気は弥増しに上がるであろう。また孤立して居る 樊 と襄陽 の将兵は 勇気づけられるに違い無い。ーー遅巻き ながら、
魏の総力を挙げた、
本格的な大救援作戦が
遂に動き出したのである!!
北から曹操本軍、
南からは孫権本軍が迫る。
知らぬは 劉備・張飛・諸葛亮
・・・そして・・・・関羽のみか!??
【第240節】 大 関 羽 の 誤 算 ( 味方の反感・小物達の嫌がらせ) → へ