【第238節】
幻の大将軍・曹植無残
                                      父王 の 置き土産
「是れでは未だオチオチあの世とやらへも行って居られんなあ〜」

曹操
の悩みは尽きない。自身で余命を実感する2世紀の65歳で在った。だが今日は 久々に 体調が好い。ここ一年程の間は2・3日措きに精神の溌剌感が交替で遣って来ては 又 去ってゆく状態だった。今し業卩の曹丕からの報告書に眼を通しながら、曹操は1度に10個以上の案件を脳細胞の中で考えて居る。何時も通りの事では在った。
「差し詰め、『
未だ死ねぬ曹操!』・・・ってトコか?」 そんな風に自分を揶揄する余裕も、今日の体調は保証して呉れる様だ。
「それにつけても、アレやコレやと用事の多い事よのう〜。」
ざっと見ても”重要案件”は 山積み状態であった。

先ずは魏風の乱への裁断・・・・「言っても詮無いが儂が居たら此んな事態を招く事は無かったろうにな〜」
独り言を呟きながらも、曹操の裁決は素早い。「この様に致せ!」 墨痕も乾かぬ命令書に記された内容を見て側近達はみな意外な顔をした。予想以上に寛大な処置であったのだ。
「まあ済んだ事じゃ。殺すのは簡単だが それよりも活かす事だ。」

既に 許し難い首謀者グループに対しては 曹丕が直ちの処刑を断行していた。だから 未決裁の儘で届けられて来た者達の運命は、曹操の考え1つで如何ようにも決定されるのだった。もし此のとき曹操の体調が悪く、丁寧な思考が不可能な状態で在ったならば「面倒じゃ、みな処刑してしまえ!」で一巻の終わりだったかも知れ無い。だが 曹操の気力は未だ未だ健在だった。
是れ迄の実績を考慮し、その人柄の本質を吟味した。そして猛省再起が果せるであろうと思われる者には 罪一等を減じ、比較的
穏な処分で済ませたのだった。その御蔭を蒙った最大の重臣は魏風を招き入れ、重用した相国の【
鐘遙】だった。免職され蟄居謹慎させられるが、曹丕の代には 復職を果す。又、死刑が当然だった武将の【文欽】も 父親・文稷の功績が考慮され笞打500回の刑で生き残り、3代の明帝まで仕える。 更に、弟の劉偉が 処刑された黄門侍郎の【劉翼】も三族皆殺しの連座罪を特に赦され、本人の罪は不問とされた。感激した劉翼は上奏した文の中で
わたくしの罪は家を覆され、咎は一族を滅亡させられても仕方の無い処で御座います。
然し天地神霊の御蔭を蒙り、時の善き巡り合わせに遭遇し、灰の中から再び煙が上がり枯れ木に花が咲く事となりました。万物は天地より受けた恵みに答えず、子は父母から受けた生命に感謝を述べませんが当然、臣は死を掛けて力を尽くします。臣の此の気持は筆先で述べる事は困難で御座います。
』 と述べて来た。
即ち、こうした個々人への適宜な対応ぶりを観ても曹操には未だ往時の気力が保たれて居ると云う証左である。

次は、樊城曹仁の救出問題・・・・
徐商呂建に軍を率いさせ、樊へ追加の派兵を させよ!」
既に半月前、士気高揚の為に「
徐晃趙儼」を曹仁救援に向わせたものの兵力は 〔現地調達〕 を命じたに過ぎ無かった。初めから大軍を持たせたら気が弛み、新規の募兵には懸命さが欠ける。
だから敢えて 〔単身赴任〕 を命じたのだった。きっと今ごろ徐晃は必死になって募兵に努めて居る事であろう。だが恐らく実際には募兵ままならず、寡兵に困って居よう。そろそろ実体の有る兵力を送り、合流させるのだ。
「引き続いて、
殷署朱蓋にも 出陣の準備をさせて措け!」
こちらも、いずれは合流させるが、別方面から樊を目指させる。
東方諸将にも、追っ付け命令が届く事を前触れ致して措け!」
1県1郡では少数だが、糾合して州単位と成れば可なりの兵力に成る筈だ。但し、一挙に現地を引き払うと、その空白を関羽派に衝かれる危惧も有る。事前の地ならしを済ませて措かせるのだ。

「いずれ
合肥にも出陣を要請をする事態に成るかも知れぬな・・・」
東方で最大の兵力は 何と謂っても
合肥に有る「夏侯惇・張遼」の軍団だ。いざと成れば、その事も視野に入れて措かねばならぬ。
そこで曹操は、
兌州刺史の 裴潜豫州刺史の 呂貢に対し
『急がずに
ゆるゆると 参れ!』 との 命令を出した。 だが、その命令書を見て、裴潜に忠告した者が在った。揚州刺史の肩書を持つ【温恢】だった。揚州の9割は長江南部の呉の本拠地だが、北の1部は「合肥・寿春」迄を含んで居たから魏側にも揚州刺史が居たのである。その温恢が、友人の裴潜に言った。
きっと此の命令の本意は、襄陽・樊の危急に対して直ちに駆け付けよ!と謂うものに相違無い。至急に我々を集めない理由は、遠方の民衆を驚かせ動揺させたくないからだ。1、2日の内には
必ず密書が届き、君に早く来る様に急き立てるだろう。張遼らも
招集を受けるだろうが、張遼らは予てから魏王の御気持を熟知して居る。もし彼等が後から召されて先に到着すれば君は御咎めを受けるぞ。急行すべきだ。

裴潜は温恢の言葉を聞き入れ、輜重を置き残すと、改めて軽装備編成で直ちに出発した。すると案の定、温恢の予想した通りに催促の命令が届いたのである。即ち〔襄陽・樊城の危機〕は、幾ら隠しても最早 天下の耳目が集中して居る事を示す史料である。

その難局と関連して孫権との交渉も 急がせなければならぬ。・・・・『呉は 魏の臣藩 と成る 所存にて、全ては魏王様の御指図に従います!』 なぞと申し入れて置きながら、合肥へは兵を差し向けている孫権だった。既に、司馬懿や蒋済の進言を受け『荊州の占有を認めて割譲する代りに、関羽を背後から急襲して貰いたい!』 との使者を送ったが、未だにハッキリした返答は無い儘であった。
「第2次の使者を送り込んで、確実な返答を急がせるのじゃ!」
孫権が「合肥」から撤兵を実行し、その鉾先を「荊州」に転ずればそれが何よりの確答である。それを見届ければ、東方最大の兵力で在る〔夏侯惇・張遼軍団〕を襄陽・樊城の救出に向わせる事が可能と成る。だがまあ最速でも、あと1月の時間を要するであろう。
《下手すりゃ曹仁の奴、干乾びてしまうナ。急がせねばならん。》

そこで出て来るのは
曹操自身洛陽への転進問題であった己の体調・病状との相談ではあるが、早晩実行せねばならぬ事ではある。この5月以来 劉備軍の進攻に備え もう5ヶ月間にも及び「長安」に駐留した儘だった。然し何うやら、劉備には其の気は無さそうである。
今この
月の時点で問題と成っている拠点はヶ所・・・・「長安」・「洛陽」・「業卩」・「許都」そして「襄と樊」であった。
《・・・
長安曹彰に任せる事としよう・・・》 猛獣男の黄鬚ならもし劉備が漢中から出て来ても10万を置いてゆけば充分対応し必ず撃退するであろう。
《・・・
業卩は矢張り曹丕が最適だな・・・・》 魏風の叛乱未遂事件を見抜けなかったとは謂え、その後の素早い処置は及第であろう。既に2代目襲名の準備も業卩で押し進めて居ようから暫は動かさぬ方が善いであろう。
《・・・と成ると、問題は
曹植の使い方だが・・・・》
最晩年を迎えた曹操の、息子達に対する思いは複雑であった。悔恨も かなりあった。
最も望ましい次期の曹魏国家の姿は・・・・、

都に在る曹丕を頂点に、曹彰・曹植の兄弟達が
地方をガッチリ押さえ、曹操血族が 全国統治を占有すると云う 〔血族支配の国家〕の形
であろう。

《だが今迄この父は、余りにも息子達にシビアな後継争いを強いて来た。もはや今更、そのシコリが払拭される事は有るまい・・・・》

最も起こり得る形は曹丕に拠る 弟達への粛清劇〕であろうとは想像も着く。だが然し心の何処かには、兄弟が相い助け合いつつ国家を盛り立ててゆく・・・・と云う蟲の好い父親の感情を消さずに抱く曹操でも在った。 実際にも 今後の時代は、【呉】と【蜀】と云う2つの敵と、常時2方面で対峙しなくてはならぬのだ。その際、
《中央には曹丕》・《vs蜀には曹彰》・《vs呉には曹植》・・・その形も可能ではないか!?
その為には先ず、曹丕の 曹植に対する警戒心を取り除いて置かねばなるまい。元々 本人同士は、仲の好い兄と弟で在ったのだからライバル視しないで済む環境さえ作ってやれば、曹丕の心も和らぐであろう・・・・。その際に1番の障害と成って居るのは、曹植の周辺に今も居る 〔
取り巻き〕の存在である。曹植自身には今や何の野心も無く成って居る事は、曹操が最も よく識って居る。だが彼等が在る限り、曹丕は其うは思わぬのは当然である。また、客観的に観ても無用な対抗勢力を放置して措く事は将来に禍根を残すものである事は、古来からの歴史が何度も証明している。
大物過ぎて 曹丕には手のだせぬ 重鎮を取り除いて措こう・・・・
これ迄にも曹操は、公私を含めて多くの〔粛清〕を平然と遣って退けて来て居た。だが今回は 己よりも、”その後”を見据えての粛清である。 《
是れが最後の置き土産じゃな・・・・
粛清、即ち権力による殺人であるが一応は正当化する為の口実・罪状が用意される。そして
その最後の標的にされた人物こそは曹植が公私共に信頼し切って居る大名族の〔後継ぎ〕であった。だが実は、その父親も亦 嘗て曹操から粛清の標的にされた因縁を有する関係に在ったのだ。今78歳で隠居して居るが未だ世間皇室内では隠然たる人望を集めて居る。 その跡を継いだ子が、是れ亦 優秀だった。曹操は此の息子の才能を高く評価し父親との確執とは切り離して、彼を引き立て重用して来て居た。
これも亦、”因果”と謂うものか?
父親では無く、その息子の方を最後に粛清する事となろうとは
・・・・
因みにその父親とは誰あろう、漢の廷臣で元司徒大尉の楊彪 ようひょうその人で在った。幼い帝(劉協・献帝)が董卓の暴虐に遭った時には司徒であった。そして董卓の長安遷都に 最後まで反対した為に 怒りを買って罷免された。だが董卓が暗殺され再び〔大尉〕に任じられた楊彪は結局その後も常に幼帝を守り通し、遂には苦難の東帰行を果した忠臣中の忠臣だった。然し献帝を奉戴した【曹操】は、漢王室の形骸化・傀儡化を狙い、邪魔者の楊彪を謀殺しようと試みた。その時に彼を救ったのが孔融と荀ケだった。特に孔融の方は 曹操との直談判に及び、「孔融文挙は男で御座る!」 と詰め寄って助命に成功。逆に自分がターゲットにされた。危うく殺されかけた楊彪だが『楊彪は、漢朝の命運が尽き様としているのを見、自分が代々三公の位を受けて居た事から、魏ノ臣下ト成ルノヲ恥ト考エ、結局ハ足の痙攣ト称シテ2度ト出掛ケ無カッタ』 と云う人物であった。
そんな父親を持つ
息子が、曹植最大のブレーンと成って居たのである。但し”息子”とは謂え父の楊彪が78歳なのだから18歳の時に生まれたとしても、今年で60歳である。曹操自身よりも歳上なのであった・・・・。 その曹植の周辺・・・・”或る時”を境にして、急に寂しく成って居た。それ迄は連日あれほど賑わっていた彼の私邸は今、嘘の様に静まり返り、この3男を訪ねて来る者は1人として無い。あの日〔太子は曹丕に決定!〕と発表された瞬間、早くも 手の平を返す様に 多くの取り巻きの姿が そそ草と彼の元を去って行った。昨日までは断わっても推し掛けて来て居た賓客の数は激減し、今では招待しても返事すら寄越さずに 無関係を装っている有様。それは ヒドイものだった。パタリと音信さえ途絶え、手紙の1通も来ない。如何に世の常とは謂え、 或る意味では 兄弟の中で 最も純粋な 曹植にとっては寧ろ、太子の座に就け無かった事よりも、人々の余りにも 明ら様なその豹変ぶりの方が、彼の心をズタズタに引き裂くものであった・・・・。その曹植の複雑な心情を示すものとして『魏略』は半年前の 次兄【曹彰】との此んな遣り取りを記している。

北方反乱(代郡烏丸)を美事に鎮圧した直後、漢中で劉備と対峙して居た曹操から、至急の召請を受けた曹彰は、勇み逸って漢中へ向う途中、業卩に立ち寄り、曹丕・曹植の兄弟と夫夫に短時間の再会をした。ーー『曹彰は到着すると、曹植に向って言った。
「父王様が俺を召されたのは、お前を 世継ぎに立てられる御積り
だったのだ!」 すると曹植は言った。
「いけない。袁氏兄弟の末路を見られ無かったのですか!?」


・・・・まあ、見て来た様な”作り話”では有るが、その暗示したい意図は2つ窺える。
1つは、後継者レースでは端っから除外されて居たとされる、次男の猛獣男・曹彰にも〔後継への野望〕は有ったのだ!と云う点。そして2つは、
レースに敗れた曹植には、お家騒動を回避しようとする〔冷静さ〕が在った!と云う点であろう。そんな曹植で在ったならば尚の事、その失意の比重は、《人の心への絶望》で有ったろう・・・・
 
そして此の日も、曹植邸に繁い茂る森陰には只、秋蝉の声だけが空しく しぐれ木霊しているだけであった。真昼だと云うのに私邸の窓にはカーテンが掛かった儘で主人たる曹植の姿は何処にも見当たらない。 と其処へ、1人の客が訪ねて来た。客は、余りに ひっそりと変貌した屋敷の様子を見遣ると、今更ながらに門前で大きな溜息を吐いた。
《 私は曹植様と云う”お人”をこそ友として来たのだ。その地位に
 惹かれて付き合って来たのでは無い。こんな時に こそ・・・・。》
楊脩ようしゅうであった。字は徳祖。父は元・漢の大尉楊彪
謙虚で慎み深く、広い才能を有して居た。建安年間に”孝廉”に推挙され郎中に任命されたが曹操 (丞相)は要請して〔倉曹属主簿〕に取り立てた。その当時、軍事・国政ともに多難であったが楊脩は内外の事を取り仕切り、携わった事は全て曹操の意に叶った。
未だ太子が決定されぬ曹操の息子達は皆、曹丕をはじめとして 先を争って彼と交友を結んだ。

有名なエピソードとしては
つの出来事が 『補注史料』に伝わる。
つは→→あの天才的気狂い? 若しくは 気狂い的天才?の禰衡でいこうが珍しくも発した毒舌では無い希少価値の褒め言葉である。曹操をボロ糞に罵倒した挙句その重臣達を撫で斬りにし司馬朗を酒売荀ケを弔問係趙融を調理人陳羣に至っては豚殺し!と評価したのだったが、「そんじゃあ一体、お前さんがマシだと思うのは誰かね?」 と問われた時に挙げた人物が2人。
「年長では孔文挙、若いのでは
楊 徳祖が居る」 と 彼のメガネに叶った?
つは→曹操が後に慙愧しひどく後悔した張松 ちょうしょう への対応。御存知〔筋金入りの売国奴〕だった張松だが、その国売りの相手を探しに、先ず 遣って来たのは 曹操の所であった。最初に応対したのが楊脩だった。張松は小男でヘチャムクレの父ッチャン坊や。然も品の無い相手だったが楊脩は彼の本質的を咄嗟に見抜き、曹操に強く推薦した。処が、面接した曹操は、何故か冷たく 「却下!」 の一言で片づけてしまった。 その結果、濡れ手で泡のボロ儲けに有り付いたのは、逃げ廻るしか能の無かった劉備
であった。言う迄も無く 〔蜀をタダで買い盗った〕!!
そして曹操はと謂えば・・・・天下統一を逃した。
つは→世にも有名な、曹操の鶏肋!命令に関してである。ーーん?何のコッチャ??と首を傾げるだけの重臣の中で唯1人、さっさと帰り支度を始めたのが此の楊脩だったのである。
「鶏の肋は棄てるには勿体無い気がするが食っても腹の足しには
成らぬ。それを漢中に譬えられたのだから
王が帰還する御心算だと解ったのだ。」 即ち、眼から鼻へ抜ける様に切れた!!

いずれも重大な場面での登場であるが、3つ共が『補注史料』である所に、何とも謂えぬ
”胡乱臭さ”も払拭できない。何処か 〔死人に口無し〕 の観ありデアル。まあ、それだけ
 楊脩と云う人物は優秀で在った証左ではあるが・・・・

そんな楊脩を心の底から慕い、心を寄せて来たのは利発さを以って曹操に可愛いがられて居た曹植であった。 その思慕の念の強さと、文学的才能の深さは、おのずから楊脩を此の3男に親づけさせた。やがて2人の交流は文学論などを通じ益々強まり互いを”真の友人” とさせていった。(その頻繁で中味の濃い 手紙の遣り取り については既述) そもそも最初から、自己の栄達を望んで接近した訳では無い楊脩だった。だから別に取り入ろうとする心算も全く無かった。だが、そこは人情である。文学以外の事でも、求められれば 何くれと無くアドバイスした。益々信頼が深まり、頼られれば応援したくなる。何時しか楊脩自身には自覚が無くも他人の眼には 〔取り巻きの筆頭株!〕に観られる様にまで成って居た。

然し結果は、【曹丕が太子に決定】された。思惑の外れた者達は 身の危険を察知して次々に去り、そして・・・・誰も居無く成った。
曹植の”深酒”が 始まったのは、その前後 からの事だった。日に日にアルコ−ルへの依存度は強まり、今や昼夜の区別も無しの呑ンダクレ状態と成り果てて居た。足腰も立たぬ程のヘベレケに酔い潰れ、詩賦の1つを創るでも無い。そんな曹植を見棄てず、今迄と少しも変らぬ心で接するのは唯この楊脩1人だけであった

「目先の小さな栄誉などに お嘆きなさいますな。」
やっと屋敷の裏庭で、地ベタに酔い潰れて居る曹植を見つけた。

「・・・・目先の・・・小さな栄誉・・・じゃと!?」
それでも曹植は尚、楊脩の前では悲しげな表情を見せた。

「はい。今から少しの間は・・・・そうですなあ、まあ、ものの50年・百年の間は上手く処世した者達の名は、一頻り世の評判を得る
やも知れませぬ。が然し、所詮はマガイ物・アブクに過ぎませぬ。千年の評価には堪えるものでは御座いませぬ。千年・2千年の時を経ても残って伝えられるのは本物だけです。貴方様の詩才と詩賦こそは、その本物で御座います。捨て鉢に為らずに千年後の世にも認められる 良い詩賦を残すので御座います。それこそが真の勝者で在り、善く生きた人間としての証です。その大宇宙・
大銀河から観れば、王の名なぞ然したる問題では在りませぬ!」

「慰めでは無く、卿は真に其う思われるのか?」
曹植の淀んだ暗い瞳の中に、微かな嬉しさが灯った。

「君は百年の野望を遂げよ!我は千年の夢を追わん!ですぞ」

「我は 千年の夢を 追わん・・・か!?」
仄かな嬉しさが、微かな希望の芽を培っていった。

「また、まやかしや、上辺だけの友人を失う事など、全く気に病む必要も御座いませぬ。幾ら表面の数だけは多くとも、真の友人は生涯に1人在れば喜ぶべきで在りましょう。少なくとも私の人生には、曹植様と云う真の友が在りました。だから私は、今でも充分に満足なので御座います。」

「そう・・・そう言って下さるのか!!」
曹植の心の暗渠に、人間が蘇ってゆき、涙が溢れ出た。

「私は遅かれ早かれ、いずれは処分を受け、貴方様とは今生の
お別れする事に成るでしょう。いえ、その事は自明の理ですからお嘆き下さいますな。寧ろ私は、其の限り有る己の命を識る事によって、却って貴方様との友情が深められる事を喜んで居るので御座います。この命ある限りジタバタせずに精一杯の真心を以って貴方様との交友を尽し、愉しむだけで御座います。」

「嗚呼 何と、未だ此の世には、曹植子建と云う男を 真に理解して呉れる御方が残って居て下さったのか!!」

だが皮肉な事に、その曹植の父・曹操は、我が子の行く末を思い遣ってこそ、最後の粛清に着手したのである。無論、曹植個人の為だけの 理由では無い。 否、魏王たる曹操に 本音を言わせるならば、真っ先に”大局的見地”を挙げるであろう。
ーー実は、この楊脩には・・・その血の半分に、曹氏の宿敵・袁一族の血が直系で受け継がれて居たのである!父・楊彪の妻、即ち楊脩の母親は袁術の妹で在ったのだ。
楊彪は袁術と縁組を結んでいた。&楊脩は袁氏の甥おい・・・との記述から推測し得る

当然ながら、巨大化した現在の曹魏国家=政権には、嘗ては敵だった者達が多数を占めて居る。今は名臣・勇将と謳われる重臣部将達も、その大多数は元・敵側の家臣で在る。いや実際は彼等こそが魏国を支え今の国家を形成して居るとさえ謂えるのが現実なのであった。畢竟、その方針は今後とも継続されて行かねば、更なる魏国の拡大・繁栄は望めない。だが、然しである。それは飽くまで〔家臣〕に対する方針であり、決して〔主〕に対する方針では無かった。主家筋に対しては 《徹底的な根絶やし!》が貫徹されて来ていたのである。想い起せば、曹操は袁氏の直系を滅ぼす為に、何と執拗にも、万里の長城迄をも乗り越え、袁尚・袁熙の命を断ったではないか・・・・これまで表向きでは〔謀叛の可能性は殆んど無い!〕 と謂われて来たが、今や其んな事を本気で信ずる者は誰1人も居無い。
劉蜀】が成立した最近だけでも =許都・吉本=宛・侯音、そして今【関羽北上】の所為で=業卩・魏風の乱が政権中枢で画策されていたのである。全く予想できぬ 《まさか!》 の連続で、立て続けに起きたのだもはや、何時?何処で?誰が!反逆を企てても不可しく無い事態を迎えている!!・・・・と観るのが当然であった。況して標的にされる当事者である曹操が過敏に反応し、その警戒心と疑心暗鬼とを最大限に緊張させのは必然の成行であった。
《少しでも懸念の有る禍根の芽は、今ここで断固、取り除く!!》
所謂
予防的先制攻撃ドクトリンの発動である。そして在り得るケースとして曹操が最も恐れ、妄想 (想定) した最大の理由が・・・・・
曹植を担ぎ出しての御家騒動
即ち、
国を2分する如き内乱の発生の可能性で在った。
その場合、
楊脩は 充分に、その煽動者たるの嫌疑を所有する
危険分子であるのだ。更に楊脩にとって不幸だったのは、父親・楊彪の存在だった。楊彪は天下で知らぬ者とて無い〔漢王室尊皇の忠臣〕で在ったから、その子の楊脩も亦、あの禰衡が特に名を挙げる程の、若い頃からの尊皇派 と思われて居た点であろう。史書には、其れを証明する様な具体的記述は皆無である。だが粛清劇の本質は嫌疑だけで充分なのであり、証拠なぞは一切不要。時の権力者に、そう思われる事自体が既に有罪なのである。
無論
世間向けの為に何等かの罪状をデッチ上げる。楊脩に対して見つけ出して来た罪名は・・・・国家機密 漏洩罪!!であった。その具体的な嫌疑として断罪されたのは、もう、とっくの昔の話となっている曹植への情報提供を罪に仕立てたのである。楊脩の地位は〔主簿〕で在ったから曹操が重臣達に”下問”する全ての案件を、真っ先に知る立場に在った。そして其の立場を利用して、国家の機密たる曹操の原案を密かに持ち帰っては、事前に曹植に伝え、下問に備えての事前回答を常に準備させていた!!・・・・その事を引っ張り出して来て機密漏洩の罪として断罪したのである。ーー然し、この程度の事は 独り曹植に限らずどの陣営でも日常茶飯事に行なわれていた事であり、寧ろ下問に答える責務を負う家臣なら当然の態度である。それ処か曹丕などは完全な不法行為をしてまで下問への準備をして居たのである。本来ならば登殿できぬ地位だった腹心の【呉質】を、密かに行李の中に潜ませて登殿させては、事前協議して居たのである。その不法行為に気付いたのは楊脩だった。だから曹操に報告したが直ぐには調査され無かった。窮地に立たされた曹丕だったが、呉質は其れを逆手に取って、2度目の訴えの時には空の行李を調べさせ、却って楊脩を誣告の嫌疑に追い詰めたのだった。
つまり
ーー楊脩に対する機密漏洩罪は、今更ながらの、明らかなデッチ上げ以外の何物でも無かったのである。

流石に曹操も、この罪状だけでは楊脩を死罪に処す事に無理を感じた。そこで更に、もう1つの罪を加えた。その罪名とは・・・・
反逆幇助罪!であった。之は罠を仕掛けて楊脩を陥れた。出典の『世語』は与太話集だが・・・・
『太祖は、太子と曹植に夫れ夫れ業城の1つの門から出て行かせ内密に門の係に 外へ出さぬように命令して措き2人の行為を観察した。太子は門まで来たが出る事が出来ず引き返した。だが楊脩は事前に曹植に忠告して言った。「もし係の者が邪魔した場合、曹植様は王の命令を受けて居るのですから、係を斬ってでも 門を出るのが宜しい!」 と教唆した。曹植は、その通りにした。その為に 楊脩は 結局、結託の廉で死を賜った。』
この与太話の元と成ったと想われる 『
正史・曹植伝』 の記述には此う在る。『曹植は或る時、車に乗って天子の専用道路を通り、司馬門を開いて外に出た。太祖は立腹し、公車令を死刑に処した。そして曹植への寵愛も日に日に衰えた。

ーー儂は、長く生き過ぎた様だ・・・・」
曹操からの司直が来た事を知らされた楊脩は、特に驚いた様子も見せず、ただ淡々と家族に其う呟いた。

楊脩は、曹植と親しかった為に罪に成ったのだと思って居た。後曹植は気儘でケジメの無い振舞の為に 太祖から疎んじられた。
然し曹植は平気で楊脩との結び付きを続け、
楊修も 敢えて自分の方から関係を絶とう とは仕無かった。楊脩は死を前にして、旧知の者に言った。
「儂は実際、 自分でも死ぬのが遅かったと思って居る。」

24年秋、太祖は楊脩が何度も予め太祖の質問を洩らし曹植の為に返答を用意してやり、曹植派と関係を持った事を理由に逮捕し、殺害した
(正史・曹植伝)


《まあ多少のショックは受けたでは有ろうが、それも一時の事じゃろう・・・・》それが父・
曹操の捉え方であった。是れも愛息・曹植の未来を考慮した上での措置であるのだから、側近の1人が欠ける位は仕方無い、と思う。だが同時に、《励ましを与え、将来への希望も持たせてやらねば!!》 とも思った。 
『一生を酒と詩歌に溺れて生きよ!』 と言い渡して置くだけでは余りにも苛酷に過ぎよう。何と謂っても、3兄弟の中では、最も可愛いがって来た曹植だったのだ。 そう思い立った曹操は、今は何の任務も与えずに”頽廃”を演じさせて居る曹植に対して、最後の手を施してやる事とした。
その方を、vs関羽の南方方面軍の総司令官に任ず!直ちに伺候せよ!』 との使者を、業卩の曹植の元へ急派したのである。
思えば、未だ曹植1人だけには〔方面軍司令官〕を体験させて居無かった。だから父の存命中に、曹植にも方面軍の実績を身に付けさせて措けば、その形を既成事実として次の時代に置き残していってやれるかも知れぬ・・・・正式に言えば〔南中郎将〕として
征虜将軍を兼務。曹仁救出軍の総指揮 を執らせようとするものであったーーだが、そんな父親の”不意の思い着き”は、却って此の父子を〔不幸の片隅〕へと追い遣る結果を齎すだけと成ったのである。『正史・曹植伝』 は、その暗澹たる様を次の如く記す。
24年、曹仁が関羽に包囲された。太祖は曹植を南中郎将、兼・征虜将軍とし、曹仁を救援させようと思い、呼び出して訓戒する事があった。然し曹植は 酔っ払って居て命令を受ける事が出来無かった。そのため太祖は後悔して、それを取り止めた。
・・・・無残である!!其処には最早、あの溌剌として煌めく才能で人を魅了した曹植は 居無かった・・・・。

邯鄲淳かんたんじゅん」と云う大名士が居たのであるが、曹操が荊州を陥落させた時に召し出した。それを

聞いた曹丕と曹植の兄弟は、2人ともが競う様に邯鄲淳を我が元に抱えたいと曹操に願い出た。

すると曹操は、邯鄲淳を曹植の元に行かせたのであった。この時の曹植の応対こそは、彼を象徴

するが如きものであった。・・・・( 以下は 『魏略』より )・・・・

曹植は最初、邯鄲淳を我がものとして大そう喜び、座中に招き入れた。だが、直ぐには彼と話し

合う事をしなかった。その時は暑さの真っ盛りであった。曹植はそこで何時も側に居る従者を呼ん

で水を取って来させ、自分で身体を洗い、済むと白粉を付けた。かくて頭を剥き出しにし肌脱ぎに

なると、拍子を取りながら 五椎鍛の躍りを異国風に躍りつつ、玉をお手玉の様に投げ上げたり、

剣を振り廻しつつ、役者のやる 小話の数千字を口ずさみ、其れを終えると 邯鄲淳に顔を向けて

ニッコリと言った。「邯鄲生、如何かな?」 そのあと改めて衣服・頭巾を着け威儀を整え
邯鄲淳と

混沌たる天地創造の始め、万物が分離してゆく意味について評論し、その後で羲皇以来の賢人・

聖者・名臣・烈士の優劣の差異を論議し、次に古今の文章賦・誄
るい=追悼文を讃え、官職に在って

政事を行なう場合に 当然なすべき順序に触れ、 また武力を行使し 軍兵を用いる時の 変転する

状況について論じ合った。 
そこで料理人に命じ、酒とあぶり肉が代る代る出された。座中の者は

黙った儘で、邯鄲淳と対抗できる者は居無かった。夕暮れになって邯鄲淳は帰ったが、彼の知り

合いに対して曹植の才能を感歎し、曹植を「天の人」と言った。』
更に『魏略』撰者・著者の【魚豢ぎょかん】は 〔評〕 で謂う。→『私は曹植の華麗な作品を読む度に、彼の想念に神が乗り移って居るかの様な思いがする!この事から推察するなら、太祖が心を動かされたのも、真に当然の事ではある!』 と。

・・・・だが然し、太子の座が夢と消えた瞬間から、信じていた多くの者達が周囲から ゴッソリと去って行った。 そして今、その2重の衝撃を唯一救って呉れていた、真の友人さえも 失ったのである。 然も、個人的には最も自分を愛して居る父の手に因って・・・・散々に振り廻された挙句の果てに曹植が得たものは、ただ只管の”絶望”だけで有った。一時は 栄光に輝くか と思われた未来を奪われ、信じて居た人の心は去って行き、そのうえ更に、最後の支え・道標で在った師友をすらをも奪われたのだ。
その深く暗い 心の暗渠を埋め、空虚と為った精神を誤魔化して
呉れるものは 只、酒・酒・酒・酒・・・ある耳だったとしても一体誰が28歳の詩神を責められようか。そして、もし曹植と云う男が微かにでも己の人間を、その生きる価値と意味を維持し得たものが未だ残って居たとするならば、それは・・・・〔 或る人への慕情〕 だけであったのか?だとすれば、それは何と無残で苛酷な、切な過ぎて狂おしく、おぞましい愛の姿で在るのだろうか・・・!?
だが王の配慮も此処迄であった。国家の為には是れ以上、個人の情に踏み入る事は許され無い。と謂うより
常々互いに遠地に離れて暮らす親子には、況して公務繁多の最中に在る曹操には、是れ以上の 細やかな個人感情の理解は不可能であったろう。然も無くば、こんな苛烈な試練を我が子に与えたりはしないであろう。・・・・これ以後、曹操の命の火が燃え尽きる其の日まで、史書からは 此の曹操・曹植父子に纏わる記述は、終に再び顕われる事は途絶えた儘に終るのである・・・・。

※ 尚、『魏氏春秋』は、この出来事を曹丕の所為にする。 『曹植が出発しようとすると、太子は酒を飲ませ、無理強いして彼を酔わせた。王は曹植を召し寄せたが、曹植は王の命令を受けられなかった。そのため王は腹を立てたのである。』


 《何処で死のうかなあ〜・・・・ヤッパ、洛陽が1番カナ?》

最近は時々ふいに、何も此も、もう何うでも好い様な気に為る事が有る曹操で在った。全ては〔浮世の仮の出来事〕だった様な遠い気分に成る。逆に、遠く過ぎ去った青春時代が懐かしく接近して来る。殊に出世前の自侭な時を過ごした洛陽が懐かしい。
何と謂っても矢張、都は洛陽である。元々曹丕の代からは首都を 「業卩」から 「洛陽」に移らせる心算で、造営作業を命じてある。
いずれ曹丕が洛陽を 《魏の都》 と呼ばせる日が来よう。但しその洛陽が、自分の代で 《帝都!》 と呼ばれる事は 無さそうである。だが報告では洛陽の造営工事は着々と進み、もう 殆んど完成に近づいていると聞く。その姿だけは是非、この眼で見て置きたい。 
《浮世の事は 中々思い通りには成らぬが
せめて最期の死に場所ぐらいは、自分で決めたいもんだナア〜〜》

・・・・思い立ったが吉日!!・・・・《うん、そうだ!劉備の奴にゃあ端っから、漢中を出て来る度胸なんぞは無かったのだ!》

自身の体調も良さそうだ。未だ元気な裡に、自分の意志と肉体で〔都〕へ行こう。其処へ皆んなを呼んでドンチャカやって、それを儂の最期とするか!?ーーよし、決めた!!
「洛陽へ還るぞ!!」
そう叫んでみると、何だか体中に最後の気力が漲って来た。
《おお、そうだ。儂には未だ遣るべき事が在るんだったワイ!》

曹仁が樊に孤立して早2ヶ月が過ぎた。未だ水は引かず、救援軍到着の報せも無い。詰る所、曹操自身が洛陽へ出向き、其処から直接に vs 関羽戦の指導するしか無さそうだ。

《フフ、死ぬのは、もうチョットだけ先に延ばさせて貰おうか!》
ーー時に219年秋・10月の事であった。(翌月に閏10月がある)

思えば・・・・是れ迄の経緯・因縁から謂っても、又その存在を最も高く評価し、かつ畏怖して来た此の曹操孟徳こそが、関羽雲長と云う男に引導を渡すのが最も相応しい。いや、そうで無くてはならぬ!そう在るべきだ!!
身を乗り出した曹操孟徳の眼には
再び覇王の気迫と、静平の姦雄・乱世の英雄たる気概とが
 沸々として蘇って居た
・・・・!! 【第239節】 苦境打開の裏取引 (家臣・孫権の交換条件) →へ