【第237節】
関羽は寄せ集めの魏軍を蹴散らし許都を占拠した!
救援を受けられ無かった曹仁は斬られ、樊城も襄陽も陥落した。献帝だけは単身で洛陽へと避難させられたが、黄河から南の広大な地域全体は蜀の版図に組み込まれ、魏の領土は黄河の北側に縮減しつつある。その関羽の大進撃に曝され大恐慌に陥った魏側は、背に腹は替えられず「長安」に留まって居た本軍20余万を引き払い、「洛陽」にまで帰還した。
だが、その強行軍が祟って曹操が死んだ!!
ここ半年で 急激に衰弱して居た曹操だったが、許都が失陥したショックが、その寿命を 更に縮めたのであろう。・・・・だが、この
曹操の死は偶然の事では無く、予想され得たものであった。その寿命が早晩にも尽きる事は想定出来るものだった。にも関わらずいざ、その現実に直面するやーーそれまで潜んで居た、様々な
〔闇の部分〕 が一挙に噴き出した。
余りにも巨大だった指導者の突然の死!!
それまでは、曹操と云う 1個の人間が、絶大な独裁権力を振い続ける事に 誰もが異議を唱えず、当然の事として付き従って来た。 だが、その巨大な存在が 無く成ってみると・・・今まで隠れていた色々な矛盾・問題点・批判・暗闘の残り火などが一斉に百鬼夜行の様相を呈し始めた。その最初の顕われは、魏の最強歩兵軍団であった、青州兵部隊が、葬儀も済まぬと云うのに、整然と隊列を組むと、誰の制止も聞かず、軍鼓の音も高らかに、ごっそり 故郷へと帰って行ってしまった事である!!誰もが 唖然・茫然とする様な 異状事態が、現に眼の前で起こったのだ。然し力づくで押し留める事は出来無かった。もし止め様とすれば即、内乱状態に陥ったであろう。土台、10余万の精強軍団に手出の出来る筈も無かった。一体青州兵の側に、どんな言い分が在るのか判らぬが最も重大な軍事部門での”造反”が、先ず起こったのである!!
《・・・・こんな事が許されるのか!?》その驚愕と感慨を抱いた人々の脳裡には、或る共通の不安が横切った。
《最早 之を押し留める力は魏には無いのか!》
それは同時に、魏国崩壊の予感でもあった。いかにも時期が悪る過ぎる。関羽の猛攻撃が、直ぐ足元にまで迫って居るのだ。劉備本軍も、この機に乗じて 漢中から一気に 押し出して来るに違い無い。孫権とてガラリと態度を豹変させ、劉備との同盟に走り、東から攻め込んで来るやも知れぬ。
《曹操さま亡き後の魏国は、一体大丈夫なのであろうか!?》
《果して曹丕様は、此の難局を収められるで在ろうか?》
崩壊!と迄は行かなくとも、収拾困難な大混乱が全分野に於いて起こる事は 必至の情勢 が生まれてしまったのだ。深刻な危惧と不安・・・・早速にもこんな事態が起こったのだから、このあと何が起こっても不思議は無い。
《ただでは済まんナ・・・・!?》
その国難・混乱の中、何等かの問題で 少しでも躓けば、2代目・曹丕への家臣団からの風当りは強まろう。
《魏国の跡を継ぐのは、本当に曹丕様で善いのか!?》 そんな
場合では無いのだが後継者争いが再燃する可能性が出て来た。
もし〔曹丕〕が”不適格”だとすれば、残るは〔曹植〕だが・・・・今やアル中の有様。では曹彰か?いやいや とても其の器では無い!
土台、曹操孟徳と云う 不出生の大英傑と等しく
跡を継ぐ者など 息子達の中には居無いのだ・・・
だが、もし在るとすれば・・・!!
家臣団の心に そんな考え方が、知らず知らずの裡に 植え付けられて居た。即ち、全ては事前に想定され、充分過ぎる程に感化・洗脳された者達が、既に此の時点で、魏国中枢部に数多く存在して居たので在る。特に業卩の城下に在る、純粋無垢で血気盛んな若者達の殆どは、そんな考え方に何の違和感も持っては居無かった。いな寧ろ胸を張って、自ら進んでその思考の斬新さを誇って居るので在った。又、若者ばかりでは無かった。老熟した古参重臣の中にも、その清冽颯爽とした若者達の気風を愛でる者が在った。無論、その思想が、魏の体制にとって、危険な要素を含んでいるなどとは至念せず、ただ 清々しい若者達に好感を抱き、物分りの好いオヤッサン的な存在では在った。その代表格が・・・相国の鐘遙しょうようであった。
この鐘遙・・・・曹操にとっては正に重鎮。その覇業を ガッチリ支え続けて来た、有能で重要な人物だった。幼い献帝に随身して長安に在ったが、その脱出 (東帰行) と曹操の奉戴をプロデュースした。折しも周囲を全て強敵に囲まれて居た曹操は、その背後に当る問題多き「関中」を鐘遙に全権委任した。その信託に充分こたえた鐘遙は〔官渡の決戦〕で曹操に2千の軍馬を送り、曹操の覇権確立に貢献した。その後も
”西の鎮守”として常に兵糧を備蓄・補給し続けた。後のvs馬超・漢中平定戦でも、この関中のエキスパート・鐘遙の存在無くしては
勝利は語れ無い。魏 (公) 国が樹立されるや、曹操は鐘遙を 大審問官たる大理に抜擢。そして現在は、実質上の最高総督府 (旧の丞相府) の長官である相国しょうこくの地位に在るのだった。そんな父・曹操の信任ぶりを観た曹丕は、五熟釜を賜与し其れに銘文を刻んで讃美する程であった。
『ああ 赫んなる魏、漢の藩輔となる。その相・鐘遙、実に心膂を
幹はたらかす。夙あさ も夜も 靖恭にして 安処に遑いとま あらず。百僚は師師、この度矩どくに楷ならう。』
百官の模範である!と激讃されて居る人物で在った。その鐘遙が惚れ込んだ若者達のカリスマ的存在・・・・それがZだった。
溌剌颯爽、而して聡明重厚・・・・唯1度会っただけで、人を一気に惹き付ける、生まれながらにして英傑の魅力を具えた人物
其処には・・・・30年前の曹操が居た!!いや、曹操と全く同じ、凛々たる覇気とオーラを放つ、人物が居た。
《おお、そっくりじゃ!!・・・これは人物だ!!》
先ず1番最初に、そう感じたのが、その鐘遙だった。特に招いて眼を掛け直属の相国掾しょうこく えんの地位を与え、官僚bPの実権を持たせた。然るに周囲は妬むどころか、それが当然の事として受け容れてしまう如き鬼才の持主。
『Zは若者達ヲ駆リ立テ、動揺サセタ(惹き付けた)。』
若者達は皆、その人物の放つオーラに魅せられた様に惹き付けられた。・・・去年の1月に起きた《Xの叛乱=許都・吉本の乱》そして今年1月の 《Yの叛乱=宛城・侯音の乱》 の時には、「フン馬鹿な奴等よ!」と鼻先でせせら笑いながら辣腕を振るって謀叛人達をビシバシ詮議・処断する側に在った。何故に
”馬鹿な奴等”と言ったのか?・・・・その意味する処が、実は極めて深長であったのは本人だけが知る。而して、その評判は、
『才智アル人物 トシテ 有名デ 在ッタ』
《あっ、曹操さま だ〜!!》
会った者は先ず第一印象で、その強烈な思いに捉われた。
《そっくりだ!さぞや曹操様の御若い頃は此の様で在ったに違い無い!! 乱世の英雄・静平の姦雄とは、こう云う人物を謂うので
あろうか!?》
況して、「百官が手本とせよ!」 と謳われる鐘遙の名望と後ろ楯が在るのだから、今や心酔者・シンパサイザーは
千人規模に増殖していた。
『高イ評判ヲ持チ、大臣以下みな彼ニ 心ヲ寄セ、
付キ合ッタ』 その様は謂わば 党内党・政権内与党の観を呈する程であった。無論、一朝一夕に此処まで来た訳では無い。人知れぬ深謀遠慮、細心の警戒と
剛胆な振舞いとを駆使して来た結果であった。そして・・・・
時局は全て、Zが想定した通りの展開で 進んでいった。
劉備は、漢中に留めていた本軍を率い、関中へと向って進撃を開始。孫権も長江を越え、合肥を包囲に攻め上がって征った。 この〔蜀〕と〔呉〕は冷え切っていた同盟関係を見直し2国が改めて協同して〔魏〕に対抗する事を盟約。曹操逝去の混乱に乗じて、一気に挟撃態勢に入った。
その一方業卩の曹丕は宿願だった跡目の相続が巡って来た故の、一種、上の空状態で、慌てて「洛陽」に飛んで行こうと焦って居る。うかうかして居たら 長安を任された曹彰に 先を越され、
何をされるか判らぬからであった。曹植は今や腑抜け同然で問題にもならぬ。
このZが想定する大混乱の状況・3国の動きを整理してみよう。
縺ィ関羽が曹仁を斬り、「樊」と「襄陽」が陥落。
艨ィ曹操は「長安」から「洛陽」へと本軍を戻す。
蛛ィ関羽は更に北上して「許都」を占拠。
諱ィ曹操の寿命が尽きる。
轣ィ劉備が本軍を率いて「関中」へ進出。(呉との同盟を再構築)
閨ィ孫権も長江を越えて「合肥」を突破。(東西からの挟撃態勢に入る)
驕ィ曹丕は葬儀と即位の為「業卩」から「洛陽」への出発を準備。
さ〜て いよいよ俺の出番だ!!
此の世に生れ落ちるのが もう30年早かったら こんな廻りっクドイ手間をせずに済んだものを・・・と時々思う。だがまあ、俺は何れの時に生まれたとしても、結局は天下を動かす人間と成る”天命”を宿して居るのだから、之もまた愉しからず哉!である。
この強烈な自意識 と天命論とを以って、密かに〔天下への覇望〕を抱いて来た男・・・・そもそも、その姓名からして、余りにもピタリと嵌り過ぎている。 正に”魏”を 矯 風 する男・・・・・
その名も 魏 風 とは!!
《俺が 新たに 天下を動かすからには、曹操・曹丕父子とは全く
異なった独自色を出して、人心を捉えるのが肝要だナ。》
そして其の手段には・・・呪文の様に唱え易く、麻薬の如くに人の心を痺れさせるスマートな合言葉、同志的なスローガン・決起の血を騒がせる如き殺し文句などが用意された。蓋し、魏風が打ち出した切り札とはーー
漢の復活!!魏国奉還!!
道州導入!!の3大スローガンであった。
天下の人 誰もが、今も内心では最も強く望んでいる事・・・それは曹操によって実権を奪い取られ、心ならずも傀儡に甘んじて居る漢の王室が、名実共に”完全復活する事!”であるのは明々白々である。
それなら此の俺が、それを実行してやろうではないか!!
そしてその保障として、魏の国を漢王朝に返上して見せるのだ。魏王にも就任しない。その代りに中国を3つの「道」に分け、魏道・呉道・蜀道に分割し、道知事を置く。その3知事の合議に基き、漢の皇帝が最終的な決定を下す。帝都は洛陽に戻し、官制は旧来の姿に戻す・・・・
是れなら劉備にも孫権にも文句は無かろう。
《漢朝中興!魏国奉還!道州一新!》
この3点セットが革命の根幹を成し、人々を決起へと誘うのだ。
そして、その実現の為には先ず・・・・
この俺が魏の権力を握る!!
即ち、邪魔者を消す!!のだ。
その日・・・太子・曹丕は父・曹操の葬儀が営まれる洛陽へ向う為、少数の供廻りだけを従え、急ぎの旅立ちをする事になっていた。魏本軍は向こうに居るのだから、事はそれで済むのだ。それよりも 曹丕が焦っているのは、次男・曹彰の動きであった。
曹彰は長安に在り、急行すれば曹丕より先に洛陽に着く可能性が高い。もし先着され、”遺命”であるなどと称され、魏王を名乗られてしまったらトンビに油揚である。印綬は洛陽に保管されて居るのだから、厄介な事に成る。然も万一、兄弟間で軍事衝突を招く様な事態と成れば、曹彰は”猛獣男”で在る。叶わぬやも知れぬ。だから兎に角、急行する事が肝要なのであった。それには僅かな軽騎兵が最適だった。・・・・やがて曹丕が東宮の前庭に姿を現わした。既に見送りと警戒の部隊が配置に並び、儀丈の支度は整っている。その部隊の指揮官は長楽衛尉の「陳示韋 ちんい」であった。急ぐ曹丕は車駕では無く今回は騎馬で行く。愛馬は白馬である。騎乗の際の介添は、長楽衛尉が行なう。ーーと、その時だった。曹丕を真横の位置に在った陳示韋が抜刀するや警護部隊全員も一斉に鉾を構えて曹丕を取り囲んだのである。
「な、何事じゃ!?」一瞬驚き眼を剥く曹丕。すると其処へ門の陰から新たな大部隊を率いた魏風が現われたのである。
「上意じゃ。漢室を蔑ろににし、国を私する姦賊・曹丕!これは
天誅である!是れ迄の悪行を恥じて、此の世の露と散れイ!」
「き、キサマは魏風ではないか!・・・それに、お前達は王粲の子そして張繍の子、劉翼の弟までもか!?」
曹丕は、魏風の直ぐ背後に居並ぶ者達の顔を見て驚愕した。
業卩に在る重臣の子弟全てが付き従って居るではないか!
「曹氏による専横の時代は終わるので御座います。今日からは、漢王室を尊崇して已まぬ、忠烈なる臣下によって、漢王朝の中興が果されるので御座います。」
そう叫ぶ様に言ったのは、黄門侍郎・劉翼の弟劉偉 で在った。劉翼本人は今、洛陽に随身して居たが、曹丕の文学掾でも在った恩顧の臣だった。
「その為には、貴方様には今、この場で、死んで頂きます!」
そう冷たく言い放ったのは、 破羌将軍・張繍の子・ 張泉。 父の 張繍は曹丕の礼遇・報復的なイジメの為に、烏丸遠征の最中に万里の長城の向うで憤死して居た。少なくとも張泉は、そう思って居る。
「魏の国などと云う、獅子身中の虫は 消えて無くなり、世は再び
漢の皇帝が治める 静平の時代を迎えるのです!」
進み出て言ったのは「建安の七子」・王粲の長男 だった。
「魏だけなく呉も蜀も国を奉還し、天子さま唯お独りが世を治める静謐・安寧の時代が始まるのです。」
兄の言葉を継いだのは 王粲の次男 である。
驚愕の眼を見開いた儘の曹丕に対し、一応の説明は着いたと見た魏風は、つかつかッと曹丕に近付くや、一声 短く 叫んだ。
「だから安心して・・・・死ね〜ィッ!!」
裂迫の気合と共に、魏風怒りの刃が一閃し、かくて此処に・・・・
曹丕は斬られて涯てた!!享年 33。
だが、このクーデタア成功の事実は直ぐには公表されず、魏風は敢えて其の情報を伏せた儘、次の行動に移った。今度は、
洛陽に乗り込んだのである。何が何でも先ず為すべきは、皇帝を確保してしまう事だ!!この計画の成否は一に懸かってその事に拠るのだ。 拝謁さえ果せば、その先の説得・
展開には絶対の自信が有る魏風であった。・・・・但し其の前に
曹植を暗殺。その他、曹操の血を引く異母子も全員捕縛して投獄。更に長安では、息の掛かった手の者によって、曹彰が毒殺されていた。すなわち曹操の後継者たる資格を有して居た者達の全てを取り除く、荒療治を断行したのである。
これでは反撃に出ようとする者達も、その旗印に戴くべき曹一族の”玉”が無く、今や後の祭りである。漢の皇帝に対抗し得る”玉”を失っては全面降伏するしか無い。 他方、眼を転ずれば、呉と蜀の動きが急であり、勝ち目の無い〔内紛〕に 現を抜かして居る
場合では無い状況が差し迫って居るのだ。
《最早、こう成った以上は、論議の余地も無い。大人しく新体制に参画した方が得策である! !》
そう相手に思わせ、抵抗を断念させるのが魏風の戦術であった。
そこで生じて来るのは、魏風自身の 地位・称号 であるが、自分の方からは要求しない。又、殊礼や特権は一切辞退して受けない。飽くまで慎み深い”忠臣”に徹して見せるのだ。その代りに
皇帝に願い出るのは、呉と蜀に対しての 「停戦・和睦の詔勅」 である。
軍を現在位置で停止、その地点を仮の国境と為し、正式決定は後の〔3者会盟〕の席に託す事とする。そうやって、新体制が整う迄の時間を稼ぐ。いずれ魏風の地位と権力が確保できたら、その時からは、真の目的である天下統一へ向って軍事・策謀の限りを尽し、曹操も成し遂げられ無かった大偉業を達成
する・・・!!いずれにせよ、
曹操が死に、曹丕は斬られ、曹彰・曹植も殺され
曹魏と云う国は此の世から消滅した!
のである。
「・・・・と、以上が、計画の全てで 御座いまする」
「・・・・!!・・・・!!!」
業卩を守備する曹丕の前で、その叛乱計画の段取りを洗いざらい告白して居るのは、その曹丕を暗殺する手筈の張本人・
長楽衛尉の 陳示韋で在った。決行直前の今になって、
俄に怖気づいたのである。そして事が事だけに、余人を介さず、直に曹丕に拝謁を求め”密告”に及んで来たのだった。
だが曹丕、そんな情報は何処からも誰からも、微かな気配すらも得て居無かった。青天の霹靂!どころでは無い。心臓が飛び出さんばかりの、総毛が逆立つ様な恐怖感に襲われた。
《完全に裏を掻かれて居たのか!?》
今にも柱の陰から、ワッと暗殺集団が出現して来そうな緊迫感に、全身はグッショリ汗に濡れて居た。然し、そこは流石の曹丕。内心の動揺と驚愕を必死に抑え、如何にも既に内偵済みの如き態度を保ち続けた。
「よくぞ改心して、思い止どまったな。お前からの告白を聴く迄も無く、事の内偵は既に完了しておったのじゃ。」
余りにも落ち着き払った曹丕の態度に、陳偉はすっかり観念した
「矢張り、左様で御座いましたか。こんな大それた事が、全く発覚せぬ筈も御座いませぬ・・・・。」
《・・・・魏風・・・あの魏風め がか!?》
そう謂えば嘗て主簿の「劉曄」が、『あ奴には”剣呑な相”が潜んで居ります。信じては成りません』 と呟いた事が脳裡に蘇った。だがその劉曄は領軍長史と成って長安に在り、今さら間に合わ無い。
実際の日付は、219年の 9月の事である。
曹操は未だ「長安」に在り、孤立を深めたとは雖も曹仁は「樊」を死守して居る。そして関羽は、漸く
本格的な北上を目指そうと して居る時点での事だった。
「お前の改悛の様を見たからには、罪を三族には及ばさん事と
してやろう。だがまあ折角自首して来たのじゃから、詳しく聴いてやろうではないか。計画の全貌と、その企てに参加する者の名を全て明らかに致せば、罪はお前1人だけのものに留め、妻子の命は助けてやってもよい。」
無論、そんな気は毛頭無い。用済みと成れば梟首する。
「有り難い御言葉に御座いまする・・・・。」
そこで曹丕は初めて人を呼び、厳戒令を発動すると共に、一味
全員の完全逮捕を厳命したのだった。と同時に業卩城の周囲を完全封鎖させ、情報や風評の流出を根絶させた。
「未だ父上には報告するな!余計な心配を御掛けしてはならぬ。全て儂が決着つけた上で御報せする。いいか、根絶やしにするのじゃぞ!!」
首都の留守を任された曹丕の面目・権威は 丸潰れである。
「この太子たる儂が守る魏の国都で、こんな事が企てられるとは!断じてゆるさぬ!!徹底的に潰せ!一網打尽に致せ!!」
時間が経つに従って、曹丕の全身にはメラメラと憤怒の炎が燃え広がっていった。自分の膝元で、こんな失態を招くとは、太子の資格を疑われる。然も皆、日頃から目を掛けてやり、信頼して来た家臣ばかりではないか!
《それを裏切り、この儂を殺そうとするとは!!》
《エエイ、八つ裂きにしても 未だ足らん奴等じゃ!!》
元々粘着気質で愛憎の激しい曹丕で在る。怒髪は天を突いた。
「一体、我が国の諜報機関は何をやっているのじゃ!?」
怒りの鉾先は其処にも及ぶ。だが その治安長官(中衛)の楊俊は自宅で其の事態を聞かされて愕然自失。今更ながらに己の無能さを痛感し、縄を打って出頭して来る有様であった。激しく叱責された治安担当責任者達は汚名挽回とばかりに、血相変えての陣頭指揮に立つ。
「真っ先に 首謀中枢を 潰滅させるのだ!!」
密かに、而して脱兎の如くに出動してゆく捕縛部隊。何の備えも抵抗も無く一味は各個に私邸で逮捕されていった。そして直ちに苛烈な拷問が始められた。・・・すると、出て来るわ出て来るわ・・・芋蔓式に 次から次へと 高名な者・重臣の子弟の名が挙がって
来た。改めて愕然とする様な 信じ難い叛乱計画の全容が刻々と判明してゆく。そのメンバーは政権中枢機関の全てに喰い込んで居た。いや 政権機構そのものが魏風派で占められて居たのだ!
「こ、こ奴までもか!?」曹丕が青褪めるその連座の顔触れとは
相国府西曹掾の魏風、黄門侍郎・劉翼の弟劉偉、破羌将軍・張繍の遺児張泉、騎将・文稷の子文欽、王粲の遺児2人、
水鏡先生こと司馬徽 とは双璧の大学者宋仲の子・・・・そして密告して来た長楽衛尉陳韋・・・・(以上は史書に残る者) 彼等を中核として其の下に未だ続々と同志の者達の名が挙がっていった。
その総数ーーな、何と 数十人以上!!
《 もし、この密告が無かったなら・・・》 と思うと、身の毛が弥立つ。
だが逆に謂えば、魏風と云う男の、底知れぬ空恐ろしさがクッキリ浮かび上がって来る。一体、この魏風とは如何なる者なのか!?
魏風 子京・・・当然ながら一切不明の人物である
出自 年齢 経歴すら伝わらず、況して人格や思想は皆目わからぬだが1つだけ 謂える事は、相当な人物だった!と云う点であろう。恐らく器量としては曹操に類似・匹敵する程だったに違い無い。何せ、武器は己の魅力1つだけだったにも関わらず、業卩に居た若者の全員を惹き付け《命を賭けても善い!》と思わせたのだから凄い。然も、純真で短絡的な青年だけでは無く老熟した重臣の心まで捉えたのだから、何か特別の呪縛的な魅惑法を身に着けて居たか?とさえ想わせる。
連座して処刑された者が数十人!中には、そんな魏風の姿に何処となく不審の眼を向けて居る者も在った・・・とあるが、直前に密告者が現われる迄は、完全に機密は保たれて居たのである。
もし、あと30年も前に生まれて居たら、間違い無く〔群雄の1人〕として歴史に登場して居たであろうとすら想わせる資質が垣間見られる。
その男→Zの記述は・・・・『正史』に9ヶ所、『他の史料』が9ヶ所の合計18ヶ所に散在している。(※ 以下ピンク は、「正史」である。)
『Zは字を子京と言い沛の人である。民衆を巧みに扇動する才能が有り、業卩の
都を揺り動かす程であった。 鐘遙 は、その為に 彼を召し出した。 大軍が帰還
しない裡、Zは密かに徒党を組み、また長楽衛尉の陳韋と共謀して、業卩を
襲撃せんと計画した。約束の期日前、陳韋は怖気づき、その事を
太子に白状した。太子は陳韋を処刑した。
それに連座して殺された者は数十人にのぼった』→(世語)
『近頃では、済陰の Z と山陽の曹偉は、どちらも邪悪の為に破滅したが、当代を
惑乱し姦計を抱いて若者達を駆り立て動揺させた。斧鉞による刑罰に処せられ、
大いに明戒と成りはしたが、然し影響を被った者は、誠に多数に上ったのである。
慎まねばならぬぞよ。(王昶の、子への戒め)』
『王昶の「家誠」では済陰の出身と有るが、どちらかは判らぬ。』→裴松之註
『9月、相国の鐘遙が、西曹掾のZの叛逆に連座して免職となった。』
『(鐘遙は) 数年して、西曹掾のZが謀叛を企んだ事の責任を問われ、詔命によって
免職となり屋敷に帰された。』
『太祖が漢中を征討している時、Z が業卩で叛乱を起こした。楊俊は自分の責任と
して自らを弾劾し、行在所あんざいしょに赴いた。』
『太祖が漢中を征討した時、その隙にZ等が叛乱を計画した為、中尉の〔楊俊〕は
左遷された。太祖は歎息して言った。「Zに思い切って叛乱する気を起こさせたのは
儂の爪牙と成るべき臣に悪事をとどめ 企みを防ぐ者が無かったからだ。何とかして
諸葛豊の様な人物を手に入れて、楊俊を交代させたいものだ。」 桓階が言った。
「徐奕は其の人物です」そこで太祖は徐奕を中尉に任命し自筆の命令書を与えた』
『王粲の2人の子は Zの誘いに乗った為に処刑され跡継は絶えた。』
『太祖は当時、漢中を征討して居たが、王粲の子の死を 聞くと 歎息して言った。
「もし儂が居たら、王粲の家が断絶してしまう様な事をさせなかったのに。』→(文章志)
『蔡邑は1万巻近い書物を持っていたが、末年に数台の車に載せて王粲に贈った
王粲の死後 相国掾のZが叛逆を企てた時、王粲の子が参加した。 処刑後に、
蔡邑が贈った書物は全て王業の物となった。』 →(博物記)
『昔、太祖の時代、Z は高い評判を持ち、大臣以下みな彼に心を寄せ付き合った。
〜(小略)〜 劉曄は Z・孟達を一見するや、「いずれも 謀叛を起こすに違い無い」と
言った。結局その通りと成った。』 →(傅子)
『Zは才智ある人物として有名であったが傅巽は彼が必ず謀叛を起こすと言った
結局、傅巽の言う通りと成った。』 →(傅子)
『Zが叛逆した時、劉翼の弟の劉偉がZの仲間に引き込まれて居たから、劉翼も
連座して処刑されるのが当然だったが、太祖は特に赦し責任を追及され無かった。』
『その昔、劉翼の弟の〔劉偉〕はZと親しかった。劉翼は弟に警告した。「儂の観る処
では、Zは徳行を修めずに専ら人集めを勤めとして居り、花は有っても実が無い。
彼はただ世の中を掻き乱し、名前を売るだけの奴じゃ。卿は慎重に対処して2度と
彼と交際するでないぞ。」 劉偉は聞き入れず、その為に災難が降り掛かったので
ある。』 →(劉翼別伝)
『張繍の子の張泉が後を継いだが、Z の謀叛に加担した為、誅殺され、領地を
没収された。』
『文欽は字を仲若、焦郡の人である。父の文稷は、建安年間に騎将と成ったが、
武勇の持主であった。 文欽は 若くして 名将の子として勇武の才を評価された。
Zが反乱した時、文欽はZと連なる言辞を吐いた罪に掛かって投獄され、数百もの
笞を打たれたが之は死刑に該当した。太祖は文稷の功を考慮して彼を赦した。』(魏略)
『宋忠の子は、Zと共に叛逆を企て、死刑に処せられた。』 →(魏略)
『近頃では、Zが建安末に処刑され、ました。』→( 董昭の上奏文 )
以上が、Z=魏風に関する全史料である。”謀叛”の張本人、 ”極悪人”なのだから、公式史書は、そんな剣呑な人物
当人については 〔黙殺〕の態度を採らざるを得無い。故に 魏風
本人に関する情報は殆んどゼロに等しい。又、最も肝腎な、
《陰謀の中味》 も全く判らない。詰り、この未遂に終った
魏風の乱は、永遠に謎の儘なのであり、後世に物議の種だけを残して抹殺されたのである。
但し、未遂に終ったとは雖も、連座した者達の地位や規模が余りにも大きかった為に、完全に無視する事も出来ず、周辺の者達についての若干の記事は (上記の如くに) 散見される。 我々としては、
その散在する僅かな史料から、事件の全貌を推測するしかない。
そも現在、快進撃・猛攻勢を掛けている関羽との連帯・連繋についても、どの程度まで読み込んで居たのか判然とはしない。無論、魏風当人の逮捕・処刑時に於ける言動なぞが、記録に残る筈も無い。・・・・ただ、この事件後の〔処置〕についてだが・・・・
曹丕にとっては非常に難しかったで在ろう事は想像に難く無い。こんな反逆事件の場合、連座した者の罪は三族皆殺し!と決まっている。だから首謀者一味を即刻 処刑するのは当然だが今回の場合は、余りにも曹操恩顧の重臣達の子弟が多過ぎた。又更に”幇助した!”と見做される者達に至っては相国の劉遙を筆頭に 現役の重鎮にも罪は及ぶ・・・・。怒りに任せて法を適用
すれば、現在ある曹魏政権の機能そのものが 麻痺してしまう恐れすら在った。そこで曹丕は已む無く、曹操を悩ませる事を承知の上で、《連座の罪に該当する者達への処断》は、遠征先の曹操に仰ぐ事としたのだった。・・・・この〔魏風の乱〕は、それ程迄に根の深い、曹魏中枢を揺るがす大事件で在ったのである。
いずれにせよ 最後の1穴から事が発覚し、危うく曹魏は致命傷を免れた訳であるが、新しい時代を担う事となる曹丕にとっては、その直前に味わされた、此の苦々しい家臣不信の体験は、今後の政権運営に、重暗い陰を落とす事は必定で在った。
また、最晩年を迎えた曹操 にとって、この1件が齎した衝撃は 余りにも大きく、《生涯を掛けて来た 覇業の集大成を
汚された!》 との落胆に捉われた。あれほど入念に、綿密に 仕上げて来た筈
にも関わらず・・・・その無念さは計り知れぬもので在った。
《未だ 道は 半ばなのか!?》
曹操孟徳、時に65歳。
その生涯に 自らケジメを着ける時間には 最早 限りが出て来た【第238節】 幻の大将軍、曹植無残!(父王の置き土産・楊脩粛清) →へ