【第236節】
水面に出ているのは、何と 城砦の先端 僅か3mのみ!
この大氾濫が、如何に”未曽有の凄まじさ”で在ったかーー!?
その樊城の有様を『曹仁伝』は具体的な数字を挙げて記す。
『関羽が樊に攻撃を掛けて来た時、折しも漢水が氾濫し于禁らの7軍は水没し、于禁は関羽に降伏した。曹仁は数千の人馬と共に城を守ったが城壁のうち水没しない部分は数板と云う有様だった。関羽は 船に乗って城に臨み、数重に包囲して 外部と城内を遮断した。食糧はあわや底を突かんと云う状態なのに、救援軍は遣って来無かった。』ーー数板とは 1板が2尺であるから 10尺余を示す。1尺を 22、5cmで計算すると→22.5×10.5=236、25cm・・・・水没せぬ部分は、たった2.4mに過ぎぬ!!
樊城の正確な規模や構造様式は定かでは無いが、正史の記述通りに 「城壁のうち水没しない部分が数板」だったとすれば 恐ろしい事態である。日常生活用の家屋敷は完全水没。軍事目的の城砦本体も、城壁と ほぼ同じ高さの部分迄は水面下に消え失せてしまった事となる。確実に残って居るのは、城壁の先端部分と高楼であろう。ただし人馬数千が全て城壁の上に野晒し状態のまま、数珠つなぎに並んで居たとも想像できぬから城壁に囲まれた内側には、何等かの高層建造物が残っていたかも知れぬ。
だが何れにせよ、動く事さえ儘ならぬ、完全な孤立状態に取り残されたのは厳然たる事実である。 城内の行き来には 小船を使う
しか手の無い有様だった。更に深刻な事態を『正史・満寵伝』 は次の如くに伝えている。
『関羽が 襄陽を包囲した時、満寵は 征南将軍の曹仁を助けて
樊城に駐屯し彼に抵抗した。だが左将軍の于禁らの軍は長雨によって増水した水嵩のため関羽に全滅させられた。関羽は激しく樊城を攻撃し 城は水に浸かりしばしば崩壊し、人々は皆、色を失った。』
当時の城砦・壁は基本的には〔土壁=粘土〕・〔土塁〕で築かれて居た。突き固め、硬く乾燥させ、中に藁などの植物繊維を入れて強度を高めては在るが、根本的には〔土城〕なので在った。石組みでは無かった。ズバリ、水に弱い!!ーーそう謂えば、合肥の城には 『数千万枚の莚むしろが備蓄されていた』 事を思い出す。降雨・長雨対策だったのだ。 と、云う事は、長期間に渡って濁流に水没し続けて居れば、乾燥して固まっていた土の構造物は、徐々に水の染込みを浴びて軟弱化し、終には元素である砂の粒へと分解されてしまう。→そして浸食を招き、崩壊する!!
実際には未だ、城壁の溶解・崩壊は始まって居無かったものの、不気味な歪みが発生し 物見櫓は既に大きく傾きかけている・・・
そして最大の危惧は、兵糧の涸渇であった!!
水没したとは雖も城は城である。又、5千の兵力が在るのだから通常なら10倍の敵にも対抗し得る。曹仁の武勇と統帥を以ってすれば、数万の敵だとて落とす事は難しかろう。ーーだが然し、兵糧の補給だけは自力では如何とも為し得ぬ別の問題である。外部からの補給を待つしか無いのだ。では、その可能性は有るのか!?・・・・《無い!完璧に、無い!!》
もし遣って来るとすれば、水上からの補給しか方法は無いのだが魏軍はその肝腎な〔水軍〕を持たぬ。単に輸送するだけの小船なら幾等でも掻き集められようが、関羽艦隊の前には赤子も同然。忽ち拿捕され兵糧を奪われるに決まっている。実際 今、曹仁の眼の前には夥しい数の関羽水軍が、丸で林の如くに旗幟を掲げその水面の八方を埋め尽して居るのだ。その重層の警戒網を掠めて無事に輜重を運び込むなぞ、万が一にも有り得ぬ状況で在った。曹仁は、口にこそ出さぬが腹の裡では、〔いざ!の時〕を
考えて措かざるを得無い心境に追い込まれつつ在るのだった。
《せめて統帥部だけでも、夜陰に乗じて脱出を試みるか・・・!?》
《降伏する・・・・誰が?この曹仁子孝がか!?》
《関羽は焦らず、じわじわ兵糧攻めで来るに違い無い・・・。》
望みは氾濫が収まり、水が退いて呉れる事のみであった。だが其れも儚い祈りに過ぎ無い様だ。一向に降り止まぬ処か、却って益々激しさを募らせる雨脚。洪水の水嵩は、又も1〜2尺増した様だ。
「ああ参った、参った。華々しく討ち死したくても、是れじゃあ何うにもならんしなあ〜。何か好い智恵は無いものじゃろかい?」
曹仁は頭を掻き掻きしながら周囲に言った。だが其の仕草は、言葉程には深刻でも無い様子で、どこか切迫感不足。見様によっては寧ろボ〜ッと間延びしてのんびり長閑ですら在る風情・・・・。そんな態度で城内の士気が保てるのか??
「まあ未だ10日しか経って居りませぬ。考えても仕様が在りませんな。暫くは様子を観るしか御座いませんでしょう。」
そんな総司令官の人格に長年感化され続けて来た配下の武将達も、あんまりヤル気は無い様に見える。
「おいおい、随分気楽に言って呉れるではないか。この樊の城を失えば、我が国はエライ事に成るのだぞ?」
「だとすれば、魏王様は何としてでも我等を救わなければなりませんな。」
「ホ、そりゃ良い考え方じゃ!責任は全〜んぶ孟徳に預けて、
我等は只 此処で高見の見物とゆくか?」
在り得ぬ事に、こんな状況の中、ワハハハ!と笑い声が起こった。これも曹仁の人柄の為せる業か?
「しっかし、降り過ぎで御座るな〜。”雨は等しく全ての者に降る”
・・・などと謂うのは嘘ですな。一体、いつに成ったら、此んな
〔気違い雨〕は過ぎ去るので御座いましょうか?」
「聞いた事あ無いが、皆で”雨止の御祈り”でもするか?」
「兵卒達は皆、既に必死に祈って居りまする。」
「で、あろうの。彼等を餓死させるには偲び無い。今日からは我等の食事も兵士と全く同じ物とせよ。」
そこが曹仁の曹仁たる所以であった。
「じゃが、喰い物の管理だけはキッチリさせよ。今後は、たとえ米粒1つでも勝手に口にした者は即座に斬る!いずれ我等の命はその事に懸かって来るで在ろうからな。」
締めるべきは厳然として外さない。
「まさか国中が水に浸かって居るとも想えませぬが”長安”の辺りにも雨は降っておるので御座いましょうか・・・?」
その長安、曹操は2重の衝撃を受け愕然として居た
自身40年の歴戦から鑑みても、俄には信じられぬ事態であった。到着した直後に、然も精鋭の騎馬軍団5万が丸々ごっそりと敵に投降するとは!!更にショックだったのは、最古参の譜代で〔魏の5星将〕と謳われる于禁の方が逸早く降伏してしまったと謂うではないか!!逆に、仕官して僅か4年にも満たぬ降将の广龍悳の方が、全く同じ状況で在ったのにも関わらず、却って最期まで奮戦し、凛烈な死を以って報恩の節義を全うしたとは!!
「嗚呼、何たる事じゃ・・・!!」
太祖ハ其れヲ聞クト、長ク哀しみノ歎息ヲ洩ラシテ言ッタ。
「儂が于禁を知ってから30年になる。・・・・危機を前にして、いざ困難に出遭った時、却って广龍悳に及ばなかったとは思いも寄ら無かった・・・!!」
「それに引き替え、嗚呼、广龍悳の何と凛呼たる事か・・・!!」
太祖ハ其れヲ聞イテ悲しみ、彼ノ為ニ涙ヲ流シ、2子を列侯に
取り立テタ(のち曹丕は、魏王を継いだ時点で、广龍悳に壮侯と諡おくりなする
結局、襄陽・樊城への増援作戦は完全に失敗!
どころか、曹仁は洪水の中に益々孤立を深め、この儘だと確実に自滅してしまうであろう!!ーー直ちに救援に向わねば曹仁軍も全滅する・・・だが曹操は本軍を率いて自身で動こうとは仕無かった。いや、出来無かったのだ。・・・・なに故に、であろうか!?
是まで筆者は、曹操の健康状態と劉備本軍に拠る牽制を、軍事方面だけから強調して来た。事実、
曹操軍団は「長安」だけでは無く、曹洪・曹真らが更に西の「陳倉」くんだりにも大軍を駐留させられる羽目に在った。だが、では其の背景、こうまで曹操が拘って「関中」に居座り続けなくてはならぬ〔真の理由〕・より〔実質的な損得勘定〕については、”何となく自明の事”として済ませて来た・・・思い至れば、そもそも〔中国=中原権力〕にとっては
こんな西方の土地なぞウッチャラカシテ置いても一向に構わぬ筈である。だが其の反面、何で「長安」と云う巨大都市が何千年も、此の辺地に存在し続けるのか?・・・《はは〜ん、そう来たか!》
と思われた諸氏には、もう其の先は読めて居るに違い無い。
一体、西方の諸将 (韓遂・馬騰・馬超ら)が、異様とすら思える程迄に執拗し続けて見せた”叛”とは、単に 「精神的な故郷愛」 だけで在ったのか??逆に言えば、特段に肥沃な大地を持たぬ彼等がいな寧ろ、狭い山岳地帯で遊牧する少数の部族が、なに故に大中国 (漢帝国や曹魏) と拮抗し得るだけの軍を維持できて来たのか・・・??その答えが、「曹操駐滞」の大きな理由の1つでも在る事と成る。つまり、見落としてはならぬ、より直接的で 〔即時的な利害関係〕が長安・関中には存在して居た 訳である。それは・・・
莫大な通商利益の確保・利権の旨味の維持 に他ならぬ。
”光は恒に西方から射す”のであり、「絹の道」が持たらす莫大な富の独占・その巨大な経済的効果・・・それこそが真の理由であったのだ!!ソグド人(胡人)が運んで来るローマ(大秦国)ペルシャ(安息・大月氏)からの珍品や龍馬の価値は、その中間搾取(通行税の徴収)を行なうだけで、充分に西方諸将を潤すに足りたのである。況してや、その中間搾取を排除して直接取引きを独占した場合、その富貴は測り知れ無い!!ヨーロッパ人に謂わせれば 「絹の道シルクロード」だが 中国人にとっては正に「金の道」だったのである。だからもし劉備が其の外国との通商を独占したら曹操は益々苦境に追い込まれる。この絹の道をどちらが確保・独占するか!
・・・それは即刻にも、両者の勢力バランスを大きく左右するもので在ったのだ。
その事を強く 認識する曹操なればこそ、そう簡単には「関中=長安」を引き払う訳には行か無かったのである!!
《ーーでは何うする!?》 曹仁は救いたし、金蔓かねづるは失いたく無し・・・そこで曹操が命じたのはーー救援軍司令官の単身赴任だった。僅かな将校団だけを随伴させ、「兵隊は 現地で適宜に
調達せよ!」と云う窮余の1策であった。そんな無茶苦茶な、命じた曹操自身でさえも半ば 《直ぐには無理だろうな!》 と感じている、命令を受けたのは・・・・
平寇将軍・徐晃であった。
征西将軍だった【夏侯淵】と共に「漢中」に駐屯し続け、劉備自身の総攻撃で夏侯淵が戦死した後も、最後迄【張合卩】と協力して曹操の到来を待ち、漢中駐屯軍の全滅を免れた!と云う戦歴をこの5月に更新したばかり。勇将・智将を数多擁する曹操が、何故に徐晃を選んだのか??それには矢張り、裏付の理由が在った。徐晃の戦歴の中には 「樊」での駐屯が在り、また曹仁と共に 「江陵」で 周瑜の攻撃を防いだ過去が在り、更には曹仁の副将である 奮威将軍の満寵とも 戦友だったのである。地勢を識り、曹仁や満寵の性格も知って居たので在るから派遣するには最適任であったのだ。
念の為の徐晃の履歴を簡単に見て措くとーー字は公明・・・・最初は、漢の車騎将軍・楊奉に付き従い〔献帝の東帰行〕に献身し、今から 23年前の196年、〔奉戴劇〕の砌に曹操の下へ帰伏した。以後は曹操の全ての遠征に随伴し、目覚しい活躍の連続であった。呂布戦・官渡決戦・業卩の奪取・万里の長城越え・そして荊州進攻〜赤壁戦・・・この間にグングン出世し〔裨将軍〕→〔偏将軍〕→〔横野将軍〕へと昇進。
『荊州征討に付従い、別軍として樊に駐屯し、中盧・臨沮・宣城の賊を討伐した。また満寵と共に関羽を漢津に討伐し、曹仁と共に周瑜を江陵に攻撃した。』・・・・その後は関中(馬超)平定戦・張魯討伐戦に活躍して、現在の地位である〔平寇将軍〕を拝命。そして【夏侯淵】と共に漢中に駐屯。〔定軍山〕→〔鶏肋!〕で今年5月に「長安」へ撤退し、いま 8月に居たのである。
「逐次、周辺の者達にも増援部隊への参加を命じるから、お前は可及的速やかさで、出来得る限りの募兵をして、曹仁の救出に向って呉れ!!」
その代りに有能な人物を”参謀”に付けた。【趙儼】である。
この50歳の人物は、独自色の強い曹操の帷幄の中でも ひと際特異な立場と任務を与えられて来た 不思議な存在である。
曹操は早い時期から彼の”人間力”を評価し、武将と謂うよりは軍政家・乃至は政治局員とでも謂うべき、全軍の総目付の地位を適宜に与え用いた。日頃から反りの合わなかった猛者達(于禁・楽進・張遼ら)を〔参軍〕として統括し協調させたり、最大では荊州進攻の全7軍を〔都督護軍〕として統帥した経歴を持つ。今回も肩書は〔議郎〕の儘で、将軍号は保有しない。而して諸将からの畏敬の念は厚かった。・・・だが流石に曹操は直接「樊城」へ進撃せよ!とは命じ無かった。取り合えずの目的地は「宛」を指定したのだった。ーーその宛城は 樊の北100余`、魏から観れば荊州への玄関口を押さえる要衝の地。 逆に謂えば 「許都」を関羽の北上から鎮護する役割をも持つ、軍事中堅都市でも在った。
かつて曹操が鄒氏すうしに溺れて大ヤケドを負った事でも有名だが何と謂っても近々の重大事件は・・・つい半年前に勃発した”Y”の反乱劇であった。 この219年の1月、宛城の守将であった
【侯音】が、南陽郡全体を巻込んで曹魏に謀叛したのだった。
明らかに関羽の北上を期待しての決起であったが、記述の如く齟齬を来たし、「樊の曹仁」による素早い対応に失敗した。今さら悔いても詮無い事だが、もし、その決起が半年後の”今で”在ったとしたなら、曹魏に打つ手は無く、関羽の北上は一気に「許都」へまで到達したのは確実であった。・・・・逆に謂うなら、この「宛」が在る限り、当座は曹操も安心して居られる訳だ。
然し僅か半年前の後遺症が完全に治まったとは言い難く、潜在する〔反曹操勢力の動向〕は依然として不明・不穏の儘であった。もし関羽が攻め上がって来れば忽ち息を吹き返し、重大な事態を惹き起こす可能性が強い。いや噂では既に不穏な動きが燎原の火の如く、広範囲に及んで居ると聞こえて来る。その鎮圧・沈静化を行いつつ、徐晃は徴兵・集兵を為さねばならぬのだ。
最初から困難さを覚悟した上で、徐晃 と 趙儼 は 「宛」へと
旅立って行った・・・・。
『関羽、于禁軍5万を捕捉!广龍悳を斬る!』
『曹仁、樊に水没して孤立!』
『襄陽包囲さる!魏軍は風前の灯火に在り!』
この関羽大勝利!!の報は、一瀉千里に中国大陸を駆け巡り、人々を震撼させた。喜ぶ者、嘆く者、悲喜交々の姿が生まれた。
そんな【魏】と【蜀】の軍事バランスの変化を観て逸早く動いた〔第3の勢力〕が在った。【呉】の新米都督「陸遜」であった。・・・・大勝利に沸く「関羽」の元へ第2弾の が 届けられたのである。
『貴方様が于禁を捕えられた事につきましては遠近の者は挙って其れを喜び讃嘆して居ります。そして口々に、将軍様の勲功は 末永く 語り伝えられるべきものであり、晋の文公が城濮に於いて楚と戦って収めた勝利や淮陰侯の韓信が趙を陥した巧みな策略だとて、この度の御手柄を越えるものでは無いと申して居ります。
聞き及びますれば、徐晃らが 少数の騎兵を以って 陣地を定め、貴軍の本陣を窺って居るとの事で御座います。曹操は悪賢い奴で御座います故、貴方様に打ち負かされたと云う腹立に任せて困難を顧みず密かに兵士を増強して、その野望を逞しくしようと
して居るので御座います。その軍勢は老い耄れてしまったとは申せ、未だ勇猛な者も残って居ります。又、勝利を収めた後には、得てして敵を軽んじ易いもので 古人の兵法でも勝利の直後には益々警戒を強めたもので御座います。何とぞ、将軍様に於かれましても 広く漏れ無く手を打たれ、今次の圧倒的な勝利を、より完全なものとして戴きとう存知あげます。
私は書物を学んだだけの万事に疎い者で在りますのに、今 己の能力に余る役目を授けられ
困惑して居ります。然しながら 嬉しい事には、威声と恩徳とを備えられた方と隣り合う事となり、全てを貴方様に御頼りしたいと願って居ります。未だ共同して敵に当る事とは成って居りませんが、既に私自身は、欽慕の心情に堪えぬ処で御座います。
どうぞ、貴方様にお寄せする 私の心を御分り戴いて、御高配を賜わられまする様、切に望んで居ります。』
この 〔陸遜の親書〕に対する 【関羽からの返書】は、史書に載録されては居無い。だが何等の返信もせずに無視する筈は無い。返事が有った事を推測させる記述が『正史・陸遜伝』の、この手紙の直ぐ後に在る。
『関羽は、陸遜の手紙を読み、其の内容が遜くだって己を関羽に託したいとの気持を伝えているのを見て、心中大いに安心し呉に対する警戒心を全く棄ててしまった。 陸遜は此うした状況を詳しく述べた上表を為し』 とあるのだから、スパイからの報告だけでは無く、直接的な確証として【関羽からの返書】が在ったと観るべきであろう。
こうして観ると、実は・・・・関羽は 大勝利を掴んだ其の直後から既に、将来の禍根と成る、大きな〔読み違い〕を犯して居た事になる。而してその事を呉の側から謂わせればーー”仕掛は上々!” まんまと関羽の裏を掻く事に成功しつつ在るのであった。更にもう1つ・・・より直接的な〔大きな誤算〕が、軋み音を上げながら関羽軍の行方に不吉な暗雲を持たらそうとしていたのである。ーー大勝利の中に忍び寄る油断と自己破綻の気配・・・そんな裏切りの序曲が既に、深く静かに奏られ始めて居るなぞ 知る由とて無く、関羽軍の凱歌は今、天下に轟き渡ってゆく・・・・。
「此処は暫く”玄武様”に御任せして我等は次に進もうぞ!
関羽の言う”玄武様”とは、巨大な亀が象徴する〔水の軍神〕を指す。即ち、漢水両岸の「樊」と「襄陽」の包囲は今や人の手を離れ、その包囲は偉大なる水の神様が司っている状況と成って居たのである。天の”水”が味方の包囲軍と成って2城を完全封鎖して居て呉れるのだ。弱冠の艦隊を張り付けて置くだけで充分自在に主力軍を使える絶好の環境が整った訳である。今し、敵味方双方の軍事バランスを観望するにーー
此の襄・樊の周囲100`圏内には魏の大兵力は絶無!である。在ったとしても精々、小県単位の警察力程度に過ぎぬだろう。
この”天佑”を活かし〔次の段階〕へと地歩を進める・・・・この地に潜在して居るであろう反曹操勢力を糾合し、関羽軍への帰順を誓約させ 兵力や兵糧の拠出に協力して貰う。ーー即ち、
「点の戦果」を「面の支配」へと押し拡げ、最終目標地点である
〔許都〕までの地歩を 固めて置く!!
今は已む無く【魏】の領民と成って居る人民を【蜀】に帰依させ、今後は蜀の領土としてガッチリ組み込み、蜀の版図を一気に拡大させるのだ!!それが達成されれば軍事的にだけでは無く、経済財政的にも彼我の差はググッと縮まり、次の代にまで渡って 国家の安泰が保証されよう。
既に、この襄陽・樊の近隣からは続々として参陣・合力に加わる者達が曳きも切らずに現われて居た。更に、遙か遠方からも関羽の北上を待望し、味方に付く事を告げて来る同盟希望者や蜀への臣従を誓う使者が陸続として馳せ付けて来て居た。機は確実に熟しつつあった。噂は噂を呼び、関羽軍大勝利!の報は5倍にも10倍にも増幅喧伝され、人々の期待度と確信は弥増しに膨れ上がって居たのである。それを”時の勢い”と謂うのであろう。
そこで関羽は”地ならし”の為に、包囲陣の中から【別将】を引き抜き、空白と成っている北方への派出を決めた。その別将の名や兵力は一切不明であるが、中原ノ地ヲ震動サセル!規模のものであった。同時に関羽は、多数の使者を各地に派遣し、臣従を誓約して居る者達への正式な返答・採用を告げさせる事とした。そんな中で最有力な者は【梁夾卩りょうこう】と【陸渾りくこん】であった。正史には唯1ヶ所「盗賊」としか無いが、わざわざ正史が名を挙げる位だから、相当な勢力を持つ 〔反曹操派〕 で在ったに
違い無い。その証拠に関羽が彼等を遇するに、印綬と称号を授与させるのである。彼等が単なる野盗程度なら、そんな大仰な手続きをする必要も無いのだから、将来は重臣と成る可能性の有る大勢力の保有者だった事が窺われる・・・但し、この記述は
”人物名”では無く、”地名”であるとも解釈し得る。漢文の弊失である。ーーその関羽の、中原に対する〔第2次攻勢〕が如何に順調で、しかも天下を震撼させる規模のもので在ったか!?
その状況を、『正史・関羽伝』は 次の如くに記している。
『24年、先主 漢中王と為る。羽を拝して前将軍と為し節鉞を仮す
是の歳、羽、衆を率い曹仁を樊に攻む。曹公、于禁を遣わし仁を助けしむ。秋 大いに霖雨し漢水汎溢す。禁、督する所の7軍みな没す。禁、羽に降る。羽また将軍・广龍悳を斬る。
梁夾卩・陸渾の群盗、或いは遙かに羽の印号を受け、之が支党と為る。羽の威、華夏を震ふるわす。』
羽 威 震 華夏!・・・僅か5文字が限り無く重い
曹操、その生涯で最も大きく動揺して居た。
”心配”の範疇を越えて”不安”に囚われ始めて居たのである。
その具体的な不安の種は・・・「許都」であり【献帝=劉協】の身柄であった。ーー曲り成りにも 曹魏が奉戴して来た《天子》で
ある。曹操が〔漢〕を簒奪するのではないか!と思う者達でさえもその”奉戴”そのものは高く評価して来て居る。賛否両論は渦巻くが、「許」が〔帝都〕で在る事は、天下万民の認める拠り所であり、曹魏にとっても建国以来の正統性の象徴であった。
《許都が危ない!この儘では蜀に奪われる!》
その不安が強迫観念と成って曹操を魘うなし始めて居たのだった。一体、曹操は若い頃から、時に弱気の蟲に囚われる性向が有るには有った。「官渡」で巨敵・袁紹と対峙して居た時には、後方に在った【荀ケ】に叱咤激励された事は夙に有名である。だが あの時は怖気づいても当然の客観情勢であった。それに比べれば今の場合は、それほど差し迫った状況とも謂い得ぬのだが・・・矢張曹操の体力と気力は、相当に衰えて来て居た証左であろうか?一旦不安に囚われると、その事が気が気で成ら無くなってゆく。今頃になって〔漢中失陥の痛手〕がボディブローに効いて来た。《その1失から全ての瓦解が始まるのではないか!》
そう思わせる最大の原因・・・・それは相手が関羽だからで
あった。この世で曹操ほど関羽を高く評価して来た君主は居無い。寧ろ、劉備以上とさえ謂えよう。劉備は実際には、関羽の武勇の真の物凄さを目の当りにした体験を持たぬ。劉備が何時も単独で逃走した為もあり、常に擦違いが多く、見たとしても精々
徐州時代までの事に過ぎ無かったのである。だから 大会戦の
真っ只中で敵将
(顔良) の首を取って帰る様な場面は知らぬ。
それに引き換え曹操は、関羽が1番キラキラして居た姿を眼に
焼き付けて居た。単に武勇無双と云うだけでは無く、関羽と云う男が発するオーラを含めた、存在そのものを認め、敵に成った
場合を畏怖し続けて来て居たのだった。
流石に今は、家臣に招く事を断念しては居るが、つい最近までは本気で 《自分の部将に招聘したい!》 と願って居たのだ。
こうまで曹操が強迫観念の如くに「許都」を心配するのは晩年に因る体力・気力の衰えも然る事ながら、偏に北上して来る相手が関羽雲長である故であった。そして曹操は遂に”それ”を口に出した。
「儂は・・・・帝に”動座”を願う心算なのじゃが・・・・。」
献帝を「許」から「洛陽」へ避難させると言い出したのである。
「今、関羽は鬼虎の勢いに乗っておる。距離は近い。この儘では
”許昌”も危うい。もしも実際に帝を奪われる様な事態に成ったら
この後の政治日程が大幅に狂い、曹丕の時代は 立ち行かなく
成ってしまうやも知れぬ。 沽券に拘らず、この際は 危険を回避
すべき策を採るべきだと思う。」
ーー動座、即ち ”遷都”である!! 由々しき事だ。
思えば此処まで中国は、様々な激動の歴史に見舞われて来たが建安の初年(196年)から現在に至る迄、その23年間の苦難の時期、常に曹魏が唯一の正統である事を、象徴的に支えて来たのが、
この不動の帝都だったのだ。その営々として築いて来た
”安定の象徴” を、いま棄て去る!・・・・と謂うのである。余程に熟慮した末の結論であろう。流石に一座の者達は息を呑んだ。実際関羽の猛襲は、重臣達が即座に賛否の返答を仕兼ねるだけの脅威で在ったのだ。また、この先の展開は誰にも確信が持てぬもので在り、己の考えが最善であるとは断言できぬ重い諮問であった。
だが此の時、その沈黙を破って 決然と献言する者が在った。
【司馬 懿 仲達】である。
「その心配も必要も御座いませぬ!于禁らは水に溺れたのであって、戦闘に失敗した訳では無いのです。ですから我等は殊更に急いで動く必要は有りませぬ。それよりも、孫権を使うのが宜しいで御座いましょう。」
司馬懿の 時々に於ける所在は、『伝』が存在して居無い故に 定かでは無い。何故ならのちに司馬懿が〔晋の太祖〕と成った事から、陳寿が「三国志」で取り扱う
守備範囲を 超越する存在 で在り、次の世代の史家が『紀』を起すのに詳述を委ねた為である。
三国志中では
【司馬宣王】 と表記されて、他人の紀伝各所に散在的に記述が出て来るのみである。この時の進言は『蒋済伝』中の記述である。だが少なくとも此の時点では「長安」に呼ばれ随伴して居た事が判る。
「表面上、劉備と孫権は同盟関係に在りますが、その内実は疎遠であります。孫権の腹の中は、関羽が思いを成就する事を決して望んでは居りませぬ。で御座いますから呉に人を遣って、関羽の背後を襲うように勧め、その報酬として長江以南の地を割譲し、孫権を君主に格上げしてやるのが宜しいでしょう。さすれば樊の包囲は自ずから解けまする!」
ーー孫権を唆し、関羽の背後を突かせる!!
それこそが緊急の課題であり、遷都を云々するのは時期尚早である。同じ意見を蒋済も述べた。その場面を『正史・関羽伝』は
『曹公、許の都を 徙うつし 以て 其の鋭を 避けんと 議す。
司馬宣王・蒋済 以為おもえらく関羽の志を得るは、孫権必ず願わず。
人を遣わし権に勧め 其の後を躡ふむべし。江南を割いて以て権を封ずるを許さば、則すなわち 樊の囲み 自ずから 解けん』と記す。
曹操は4年前の〔張魯征討〕では司馬懿の進言を却下して居た。
「このまま遠征を続行し、未だ脆弱な「蜀」を一挙に併呑するべきです!」ー→「既に隴右ろううを得て、また蜀を得ようとは思わぬ。」
だが、それが千慮の一失だった事は、今や明々白々であった。
元より曹操とて、孫権を引き込む策を抱かぬ訳では無かった。
近頃では寧ろ、孫権の方から頭を下げ擦り寄って来て居るのが実態であった。切っ掛は2年前の〔濡須戦〕であった。余りにも実力に差の在る事を思い知らされた孫権はコロッと態度を豹変させ『今後は全て、魏王サマの御指示に従います!』 なぞと調子の
好い事を言って寄越して居たのである。(既述) まあ本音は兎も角ここ2年間の様子を観る限りでは、強ち ”嘘っ八” だ とも謂えぬ
従順ぶりでは在った。取り合えず、面と向かっての敵対行動は
謹んで来て居る。劉備の向こうを張って【呉王】を名乗りたいのを グッと堪え《曹操様の許可無しには勝手に僭称は致しませぬ!》 との態度である。
『私は曹操様の臣下だと思って居りますので何卒よろしく!』とまで言う。ーー其れも此れも、全ては〔荊州の占有〕の為・・・・
いずれ関羽を打ち倒し、漢水以南の土地の全部を呉国の版図とする!!但し、決して魏の領土を侵す気は無く、ただ関羽が占拠してしまった土地を”取り返すだけ”なので御座いまする・・そんな魂胆は見え見えの、孫権の態度だった。
「・・・・あい分かった。言われてみれば尤もな策である。孫権の小僧っ子も、今や遅しと 我が要請を待って居るに違い無い。早速、孫権へ使者を遣わし、関羽の背後を襲わせよう!」
この進言を以って、曹操が司馬懿の人物を一段と危険視した・・・などと 穿った観方をコジ付ける必要は 全く無い。冷静に判断し
さえすれば誰しもが考え着く、”当然の策”である。ーーただ、その当然の形勢を、勝利の絶頂に在った為に、独り関羽本人だけがやや甘く観はじめて居た。その証拠には、それまで要請を控えていた兵団の増派を、遂に「江陵」の【麋芳】・「公安」の【傅士仁】に対して命じたのである。呉の進攻に備えた在った後方基地からの 〔兵力の引き抜き〕を決断したのだ。その増援軍が到着すれば関羽軍の北方作戦は愈々もって成功の公算が確実と成る
”筈”であった・・・・。
かくて此処に魏・呉・蜀の3国は、夫れ夫れの思惑を秘めた直接激突の火蓋を切らんと、 新たな局面に突入してゆくのだった。
関羽が北上の軍を率いてから1ヶ月・・・日付は、秋
9月を迎えんとしていた。ーーその9月、
曹操が愕然とし、天下が震撼する
大事件が、魏の首都・
業卩の城で 勃発した!!【第237節】”Z”の叛乱・魏のダメージ (魏風の乱・首都 業卩城) →へ