【第233節】
恐るべし 関羽の実力!
                               樊城・曹仁 孤立す!
関羽がゆく・・・・。征くしか無い。為すべき事は定まって居るのだ。その為にこそ日々営々と刻苦の試練を積み重ね、今その全てを賭けて勝負に臨むのだ。絶対に勝たねばならぬ。栄光を掴み取り、名誉と称讃を己のものにするのだ。而して、その勝利・成功の褒賞が巨大で在れば在るだけ、その代償としての 精神的な重圧も亦大きい。更には、己と関係有る人々の期待と願いをも背負う事と成る。是が非でも応えたい。応えなくてはならない。ひいては其れが国の為とも成るーーその大勝負に臨む今・・・関羽雲長の姿は周囲の景色に溶け込んで居るのか居無いのか判らぬ程の佇まいで在った。正に在るが儘、泰然自若・・・平常心とか闘争心とか緊張するとか仕無いとか、そんなものは無用・不要の境地。

己が積み重ねて来た人生そのもの、自分と云う存在そのものが自然に生み出す本物の重み・・・・それが全てを決するのだ。
だから在るが儘で構わない
特別に意気込む事も意識し過ぎる事も無い其処には彼も無く 我も無く、また在る事すらも意識されぬ、ただ澄み切った”空”の世界だけが広がるーー冷静に成ろうとか落ち着こうとか、やるぞとかそんな事を思うのは未熟な時代の浮ついた姿。特に思わなくとも、静かで在っても、普通の顔で居ても、常に最高・最善の状態を保って存在する姿・・・人間力。その形而上の実存・・・・騒いでいるのは7月の風にはためく旗艦旗と、漢水の水面だけである。

関羽は陸路では無く
歩騎の全軍を艦隊に収容し「江陵」の軍港を出航すると直ぐ西に広がる低湿地帯 ( 雲夢 うんぽう)に在る湖沼と支流を利用して漢水へ出た。その遙か700キロ上流、源で在る「漢中」には、劉備達が居る。だから此の漢水は、関羽と 懐かしい者達とを実際にも繋がって流れ、また其の心をも結ぶ、掛け替えの無い拠り所・糧でもあった・・・・。
《ひょっとすると、張飛の奴の、酒小便でも混じっているカナ?》
不意に色んな者達の顔が浮かんで来た。感傷では無く、いずれ近いうちに会える事への嬉しさであった
何だか若い時の血潮が蘇って来る様だった
この219年と云う年は10月に閏の月が有る。そんな特別な年の所為か、7月だと謂うのに晴天の日は少なく、梅雨の如き長雨が続いていた。今も曇よりとした低い黒雲の合間から、稲妻の閃光と遠雷の轟きとが、時間をずらして伝わって来る。漢水の水嵩は普段の量の倍にも及び、河川敷は全く姿を消し、所々では岸部を溢れ出てさえいた。漢水本流も褐濁して速く、その奔流は船板にぶつかる如く荒れ騒いでいる。操船は難しかった。だが幸いな事に帆は追い風を孕み、艦隊を上流へと素晴しい速さで導いていて呉れた。
※ 因みに、この漢水の呼称だが、大山塊の峡谷を抜けて、平野に
          出た地点からの下流域では、(シ正)水
=べんすい とも呼ばれていた。
「父上、お邪魔しても宜しいでしょうか・・・?」
舳先に佇む関羽の背後に関平が来た。

「ああ、構わぬ。」 振り返る事もせずに答えた。だが嬉しい。自慢の息子に育って呉れていた。風貌も益々自分に似て来ていた。

「我等が乗り出すには相応しい光景で御座いますなあ〜!」

「お前も、そう思うか?」

「はい。あの稲妻と謂い、轟く雷鳴と謂い、この流れの凄まじさと謂い、そして我等を突き進ませる疾風と謂い、正に風雲の急を
告げる舞台にピッタリで御座います!!私には天の意志の表れ
だと思えまする。」

「どの様な天意だと思うのじゃ?」

「我等の武勇が天下に轟き、曹操の驕慢が崩れ落ちる音に
                               聞こえます。」
「ウム、その通りに成るであろう。いま 頻りに雷鳴が轟いている
真下にこそ 樊の城は在る。あの辺り一帯は以前から大雨には
弱い地勢じゃ。面白い展開が待って居るやも知れぬ・・・・。」

「樊では、どの地点に揚陸される御積もりですか?」
「お前は、城の周囲の様子を覚えて居るか?」
 
「はい、父上に連れられて遠乗りした少年時代の風景は
しっかりと心眼に焼き付いて 忘れるものでは御座いませぬ。」

「西から大きく廻り込んで、北方との連絡を絶つ。」

「真北に在る新野の城は大きかった印象が残っているのですが、現在はどう成っているのでしょうか?」

「軍事的には廃城同然で、使われては居らん様じゃ。」

「かつての州都も、今は荒城の苔・・・ですか。」

「城攻めよりも、現地の呼応勢力の取り込みを最優先させる。
是れを見てみよ。それが我が援軍じゃ。」

関羽が懐から取り出したのは、銀の印綬であった。
「おお、用意周到で御座いまするなあ〜。」

「その小さな銀の重さが、将来の大きな夢を約束するのだ。」

「正に援軍の証し、勝利の印とは此の事ですな!」

「だが、その前に、先ずは水戦さじゃ。」

「敵は何の程度の水軍を持っているのでしょうか?」

「侮っては為るまいが情報では 大したものでもは無い様じゃ」

「それだけで襄陽は孤立してしまいますな。」

「ああ樊も襄陽も、元々が北からの攻撃を想定して築かれた城市じゃ。特に南岸の襄陽は、制水権を失えば忽ち補給路を断たれ自滅するのみの城だ。だから初戦の船戦さは、襄陽の城攻めと同じ意味を持つ。」

進む先々で、右岸沿いの烽火台からは、頻りに緊急の白煙が立ち昇っている。光通信ならぬ煙通信である。その『関羽襲来!』の報は独り樊城に留まらず、中原の在る全ての者達の耳に一瀉千里の勢いで伝わっている事であろう。その様々な思惑が渦巻く北方の大地に向って、関羽の水軍は真一文字に北上を続ける・・

やがて艦隊は、嘗て関羽が劉備一行を救出した「漢津」を通過。
あの208年から丸11年・・・進む方向も
其の目的も、又その陣容の大きさも、全く正反対の航影である。あの時は曹操に追い詰められ、義兄弟は未だ寸土も持たず明日をも知れぬ運命に在った。だが今は、その曹操を追い詰め、逆にその領土を奪い取ろうとして居るのだ。何と激しい有為転変であろうかーー
そんな感慨も束の間
艦隊は北上から西へと進みいよいよ襄陽郡内に侵入した。だが偵察艇からは未だ、敵艦船発見の信号は届いて来無い。思えば元来より〔襄樊の艦船〕は両岸の連絡用が主たる目的に編成されており、水上での戦闘を主眼には造られて居無い。戦闘艦は少なく凡そ”艦隊”とは言い難い構成である。自ずから出張って来て”迎撃戦”を挑む程の実力は無かった。
どうやら迎撃は諦め、最初から無益な交戦を避けて更に上流へ退避
遁走する作戦か?魏にとっては虎の子の船団である 当然の手立ではある・・・・ならば善し。その後の策とてわざわざ撃沈される為に、のこのこ遣って来る事は有るまい。深追いはせず敵中に悠悠と揚陸を敢行する迄の事!!

かくて
関羽の大艦隊は威風堂々、何の苦も無く 「襄陽」と「樊」の間の水面に侵入を果し、其の全容を2城の前に現わしたのだった。是れだけで既に、南岸の〔襄陽城〕は北岸との連絡を断たれ、魏国の版図からは孤立させられる事と成った。最早その戦力は、その劈頭からして 数の内からは除外されたも同然と成り果てたのである。即ち、関羽は此の後も終始一貫して、この巨城襄陽を無視する権利を得た事と成った。この戦術が齎した効果は大きい。背後を気にせずに、その率いる全兵力を、専ら北岸だけに集中して用いる事が可能と成った訳である。いよいよだ!!



人は、この世を”三国時代”と謂うが、実際には3国の軍隊が1つの戦役で直接同時に、3軍入り乱れての〔三つ巴戦〕を繰り広げる事は無い。直接に戦い合うのは常に 「2国」だけであり、もう
1国は観望して居るのが通常なのである。その相互の戦略パターンは今後も変る事は無く、終には三国が統一される最後まで続くのである。だが其の原則パターンが唯1度だけ破られる戦役が在る。魏・呉・蜀の
3国軍が同時に戦うと云う、
三国志上では最初で最後のケース
が出現する。即ち其れがこの、関羽 最後の戦い なのである!!

蓋し古代の史書が「軍記」で無い以上、この戦いについても様々な疑問・空白が存在する。だが幸いにも、この関羽最後の戦いについては可也の史料が各自の「伝」中に散在しており、うまく整合させれば相当の程度で”真実”に肉薄できるかも知れ無い。但し極めて基本的な資料が平気で?凹凹抜け落ちて居たりもする例えば野外に於ける会戦の「地名」であるこれは脱落と言うよりも当時の人間にとっては、判って居て当り前過ぎる事だった為にイチイチ2千年後用に座標的な説明を附しては居無い。更には小説的には一番盛り上がる戦闘の詳しい様子も記述に無い。また資料としては最も欲しい、敵味方の兵力数も ほぼ不明なのである。だから、関羽の兵力も全く不明である。又荊州に置き残して在る「江陵」「公安」の兵力も不明。左翼に在る「房陵」「上庸」も然り。ばかりか、その狙う敵の「樊城・曹仁」、「襄陽」側の戦力も、救援に赴いた 「徐晃部隊」の兵力も、その後に大挙して投入される
「魏軍本軍」の兵力も、更には呉軍「呂蒙部隊」の兵力についても詳しくは判らぬ。ーー即ち、この戦いは・・・敵味方の
具体的な兵力数が 殆んど不明な戦役なのである!!

尤も〔官渡〕・〔赤壁〕も同様の事が謂えるのであり、本より 『三国志』 に其れを安易に求める方が虫が好過ぎると謂うものだろう。とは謂え、全然手掛かり無しでもない。敵味方双方の兵力を推測させる数字が2つだけは在る。
1つはーー最終局面での「樊城の兵力」である。『曹仁伝』には→『曹仁は数千の人馬と共に城を守ったが』との記述が在る但し、この数字は、兵力の可也の部分を城外に派出した後の数字であり、最初からの兵力では無い。とは謂え仮に半分で籠城したと推定すれば最初の兵力は凡そ1万?だった事になる。予想以上に、驚くほど少ない守備兵力だった事になるのだが・・・。
2つは丸ごと捕虜にされた「于禁7軍」の兵力である。『呉主伝』には→『歩兵騎兵3万を全て捕虜にし』 とあり『呂蒙伝』には→『人馬数万の捕虜』 との記述が存在するのである。然し事はそう簡単では無い。何故なら 于禁軍の数字については10分の1に激減する可能性も亦存在するからである。 既述の如 く当時の戦果報告書は、《実際の10倍の数に粉飾して提出・受理される》 のが通常だったからである。一体、陳寿は どちらを採用して記述したのか??実数か粉飾数か??・・・まあ、その数字そのものが大凡の雰囲気を示す為のものだろうから、目鯨を立て重箱の隅を突く様な作業をする必要は無かろうが、10倍もの差は見過ごしには出来ぬ。そこで筆者の結論だが、正史の記述は「実数だった!」としたい。ーー何故なら、その捕虜の多さの為に『兵糧が不足してしまう事態を来した』との記述が併記されているからである。捕虜が3千人程度なら、直ちには其う云う事態には陥らないであろうが3万人とも成れば事は緊急かつ深刻である。その故を以って筆者は、于禁軍は 〔歩兵騎兵3万〕 であった と
観たい。そして之を推測のベースと為す心算なのである。
さてでは、物語を進める上で肝要な
〔関羽軍の兵力は?〕どの程度の規模で在ったのであろうか?更に謂えば、この戦役全体の規模や範囲は、一体 どの程度のもので 在ったのであろうか?そもそも関羽は此の作戦の〔最終目標地点〕を何処に置いて居たのであろうか!?
正史・趙儼伝』には・・・・『両軍は大会戦を行なった』 との記述が在る。陳寿は大会戦と云う表記を他では用いて居無い。だから、その点も1つの重要な判断材料として良いだろう。また〔歩兵騎兵3万を捕虜にする〕だけの能力からの推定も加わる。更には荊州の養兵能力(経済生産力)などをも考慮に入れなければなるまい加えるに呂蒙が苦慮する荊州の予備兵力からの推定。又 関羽が抱く最終的な目標目標地点に拠っても当然ながらその率いて行った兵力には大きな違いが出て来る。
正史・満寵伝』には・・・・『関羽は別将を派遣して、既に 夾卩きょうの辺りに行かせており、許以南の地では民衆が混乱して居る』 とある。 この夾卩の確定は出来無いが、許都の近くで在ったと想われる。(※卩夾 は許都の西80キロ)更には「中原の梁卩夾・陸渾」云々の記述も出て来る。ーーだとすれば時局の趨勢からも当然だが・・・
関羽の最大最終目標は→
許都!であった事になる。「樊」と「襄陽」は当面の目標であり、最終的には「許都」奪取が目標だったとすれば〔点の戦い〕では無く、北海道の面積に等しい広汎な 〔面の制圧〕を遂行する為の、相当に巨きい兵力が要求されるであろう。但し、関羽は最初は独力で戦い、逐次に味方の増援(荊州および左翼)を要請する心算で在った様子だから、おのずから限度も有る。更には現地の反・曹操勢力の糾合をも目論んでいたのは当然の趨勢であった。

其れや之れやを勘案して、筆者が下す関羽軍の推定兵力だが・・・・最大で4万!!5万には届か無かったのではなかろうか??もっと少なかった可能性も有る と推定する。いや
10万位は在った筈だ!と言われても反論できぬ、殆んど”勘”の類いではあるが、〔出撃時点〕での兵力としては其の辺が妥当な線だと考えて居るのだが・・・・読者諸氏の御判断や如何に!?
そして
もう1点劉備の動向・彼が抱く戦略の在り方の問題である。先ず、関羽が想像以上の寡兵で出陣し得た背景だが・・・・その最大の理由は(史書には1言の記述も無いが)曹操本軍20万以上の大軍団を 「長安」 に、張合卩・曹真・曹洪らを 「陳倉」 に
釘付け状態に牽制して居る漢中劉備本軍 の存在である。 その存在と 牽制が在ったればこそ、関羽は 剛然として出撃できたのだ。それは誰しも頷ける戦略である。だが問題は・・・関羽が出陣した後の、支援態勢の欠如である。どの資料を見ても、漢中から関羽に対して、増援の兵力を送った記事が無いのである。詰り劉備は、孤軍奮闘して居る関羽に対し、唯の1兵の増派もしない儘に、関羽の滅亡を迎えるのである。あたら大勝利を目前にして、自ずから其の大チャンスを放擲し、然も関羽を見殺にした!も 同然なのであるどう考えても不可しい。一貫性が無く、支離滅裂である。
言い訳としては、既述した如く、蜀には漢水用の大艦隊・水軍が無かったと云う点が挙げられるが、そんなら何故この時期に関羽に出撃命令を出したのか!?本気で作戦を成功させる心算ならたとえチビチビとでも兵員を小船でピストン輸送し、その兵力が纏まった時点で、初めて作戦の発動を為せば善いではないか!?
もう1つの言い訳は、入手したばかりの「房陵・上庸」の左翼軍を援軍として出向かせるから安心して居た、と云うもの。だが其んな事は後の祭りであり、実際には動かなかったのだ。元から【孟達】を怪しいと観て居たのだから、更に慎重で細心の手配りを施して措くのが当然であろう。
《一体 劉備は何を考えて居たのだ!?》との大きな疑問と同時に叱責や非難の感情が生ずる所以である。 処が 古来より、この〔劉備の大失態〕をキチンと追求した書物は殆んど無い。孫権を悪者にするだけで劉備自身の責任については御構い無し・無罪放免にして来ているのである。そこで筆者も亦、敢えて劉備側に立って弁明を試みるなら、考えられる原因は唯1つ→軍師の不在である。いや、そのバトンタッチ・引継ぎの齟齬である。この時、劉備の陣営ではーー曹操をして「玄徳では此んな美事な策を考えだせぬ。誰か優れた参謀が居るに違い無い!」 と言わしめた
人物・・・・
軍師だった 法正が倒れたのである。
恐らく打ち続いた心身の過労と曹操を撃退した安堵感・虚脱感が、一気に病を発症させたのであろう。翌年早々には 45歳の若さで病没してしまうから、相当の重態に陥ったと
想われる。それなら軍師将軍たる
諸葛亮が居るではないか?と思われるかも知れないがこの時点までの諸葛亮は専ら成都に在って内政内治に努めて居たのであり、所謂 軍事方面の戦略・作戦は法正の独壇場であったのだ。実際に法正は、劉備の蜀建国・漢中奪取を、独りで差配して来たのであった。そんな軍師が突然倒れ、危篤の状態に病臥してしまったのだ。しかも法正と諸葛亮は長期に渡り、前線と後方とに離れて居たので在るから、急に一切を引き継いでスムースに発進する事は不可能であったと想われる。この突然の不運が、作戦全体に大きな齟齬を来たし影を落としたであろう事は容易に察せられる。呉が上手いバトンリレーを果した事に比べると、蜀の前途には暗雲が漂う・・・・。
果して、最大の当事者たる関羽自身は、どの程度の情報を得て居たのであろうか??関羽としては、大本営からの命令が下ったからには、後は唯、只管に、最善を尽して勝利に向って邁進するのみである。

ーーと以上、本書の性質上、
様々な背景・事情を徹底的に観て来た為に些か「時間的な概念」が”間延び”して しまったキライが有る再確認して措こう。この戦いの開始は・・・・
劉備が「漢中王!」を宣言したばかりの 同じ7月の事である。即ち、劉備が曹操を漢中から駆逐するのに成功 (鶏肋) した5月、その上げ潮に乗って上庸・房陵 ( 関羽の左翼 )
劉封らに切り取らせた6月、依然として曹操本軍を長安
( 関中 )に留めさせ対峙した儘の最中、劉備が漢中王を宣言した直後に 同時進行した★★★★★★戦い なのである。【劉備】は此の戦捷を《天が与えた最大の好機!》と捉え、義兄弟の【関羽】に全てを託し、乾坤一擲の大勝負に出たのである。
その野望が描く区切りの目標は
ーー〔許都奪取=献帝の奉戴!〕であったそれが政治戦略の望む処だとすれば、実質的な軍事
目標の達成地点は、自国版図を、〔黄河の岸にまで一挙に拡大〕させようと目論む事に在った。曹操の領土を侵食して彼我の国力を接近させ、政治的にも正統性を確実なものとする!最低でも襄陽・樊を手に入れて漢水以南を確保、黄河進出への橋頭堡を築く!!・・・・「関羽なら必ずやって呉れるだろう!」

そうした時間的な流れと時局背景を再認識した上で、いよいよ我々は
魏・呉・蜀三つ巴の鬩ぎ合い、虚々実々の駆け引き、力と力の激突、個々の人間性が齎す結末 に向って其の全貌を追い、取り分けても蜀の命運の分岐点と成る、壮大にして冷厳な叙事詩・・・・・
関羽雲長、最後の戦い を観てゆこう。

但し史書に於て関羽軍の諸将についての記述は皆無である。彼等が為した行動の具体的な記述は勿論の事、個々の名前すら記されて居無いのである。確実に、関羽と共に 最期まで行動を共にした記述が在るのは、息子の関平と都督の趙累唯2人のみなのだ。その職責から推して参陣した可能性が有る者でさえ関羽の主簿・【
廖化】と、荊州議曹従事の【王甫】の2人に止まるのが実情なのである。然も後の2人は呉に降伏している事から推せば、寧ろ後方に在った確率が高い者なのだ。
又関羽自身の「伝」に於いても、
その辞世の言葉すら記述無く、事柄だけが無機質に、ただ淡々と羅列されているに止まる。その手法が却って陳寿の無念さを最大限に著わしているのでは在るが、余りにも抒情を排し叙事に徹して居る事から、後世の我々としては大いなる困惑の念を禁じ得無い。ーー即ち、この戦いは、『正史・魏書』 側の記述に頼らざるを得ず、『関羽 側』は 単に
〔関羽軍〕と云う集団としてしか、正確には迫れ無いのである。
従って関羽の戦いで在りながら、関羽自身の言動で彼の戦いを語る事は、終に為し得ぬのである。畢竟、本書・三国統一志に於いても、関羽および関羽周辺の人物・言動の部分は、押し並べて創作ないしは推測・実も蓋も無く謂えば虚構の範疇と成らざるを得ぬ事を、予め御断りして措かなければならぬ・・・・。


来たか関羽・・・!!」 その北岸・樊城の壁上から、大艦隊の襲来を見下ろすのは、魏の総司令官たる 征南将軍・
曹操の従弟・
曹仁で在った。字は子孝53歳
魏軍 最強武将と観るのは『傅子』である→曹仁の武勇は孟賁・夏育にも引けを取らず張遼は彼の次に位置するとさえ記す。又『正史・曹仁伝』は、配下武将の牛金を敵中から救出した彼を称讃して陳矯に
「将軍、真に
天人」 と言わしめている。また 『太祖、其ノ 雄略ヲ 器トス と記す。「演義」が創作した如き、直情径行で単純粗野な武将・・・では決して無い。武勇も度胸も有った。だが曹操が最も信頼し期待している司令官としての曹仁の資質は、寧ろ忍耐力・粘り強さにこそ在った。旗挙げ当初の頃こそ
ゴロツキ集団の頭目として武勇一辺倒に暴れ捲り、また前半生を飾る武功の数々は専ら〔騎兵指揮のエキスパート〕としての活躍が目立つ曹仁だが、その後の彼の最大の功績は・・・赤壁大敗北の直後、周瑜4万に包囲された「江陵城」を、数千の寡兵で長期間に渡って保ち続け、曹操の復活を支えたオメガ・シールド=

最後の楯としての武勲であった。援軍の期待できぬ状況を理解した上で、【周瑜】と云う超一流の相手を向うに廻し、然も寡兵を以って最後のギリギリ一杯まで敵を引き付け最後にはサッと退き上げて見せた・・・・その肝の据わり具合と不屈の闘争心・・・・
曹操が誇る魏軍団には、その司令官として、数多の優れた勇将・猛将が在る。而して、関羽に対抗し得る部将!となると、おいそれとは見つからぬ。そこで曹操が選りに選った挙句、白羽の矢を立て、好敵手に選んだのが、この曹仁で在ったのだ。
独力寡兵で城を守って保つ、その守備能力の高さと、人望を含めた維持統帥能力の秀逸さーー
相手が周瑜から関羽に変ったが、状況は酷似している。味方の支援態勢が整う迄の期間、粘り強い籠城戦が求められる。但し今回は、敵中での孤立無援では無い。最前線とは雖も、自国版図内での防衛戦である。補給や増援を心配する必要は全く無いのだ。背後は勿論、周囲も全て味方の陣営なのである。〔時〕さえ稼いで居れば、必ずや 大増援軍団が 来て呉れるのだ。 如何に相手が国士無双と謳われる関羽雲長だとて、あだや恐れる事なぞは無い。ーーそんな曹仁を支える配下部将には、周瑜戦以後も常にペアを組んで来た
牛金(のち後将軍と成る)、奮威将軍の満寵そして漢中で投降を許された广龍成何などが配されて居た。
曹仁には自信が有った。樊には凡そ1万の兵力が満を持して居る。籠城戦に徹すれば、10倍=10万の敵と互角であるのが兵理の常道である。
「いざ、ござんなれ関羽雲長!相手にとって 不足は無しじゃ!」

だが実際の戦局は曹仁の予想・思惑を覆す様相で進み出した。

関羽は、直接に「樊城」を攻める事はしなかったのである。悠悠と軍鼓を打ち鳴らしつつ曹仁の眼の前を通過すると、尚もそのまま溯上を続けたのである。
「ウヌ、背後に廻り込んで、先ず、我等の糧道を断つ作戦か?」

籠城戦に於いては、そこが唯一最大の”泣き所”で在った。如何に自国内での戦いとは雖も、城内に兵糧を運び込むルートを遮断されてしまえば、忽ちにして 〔陸の孤島〕 と成り果てる危険性が在った。だが 其んな事は、曹仁とて百も承知の上・・・その場合に備えての手筈は、キッチリと整えられていた。
1つは、「城内備蓄」を最大限に保って措く事。今後1ヶ月は持ち堪えられる。・・・えっ?1ヶ月分とは少な過ぎるではないか!?と謂う事なかれ。1万余の将兵と馬、その1ヶ月分であるのだ。厖大な量である。樊城の規模からすれば、それが上限一杯の備蓄能力であった。
2つは、「強力な援軍との連繋」である。こちらは陸地続きの好条件下に在る。もし仮に 関羽が「樊城」の全方面を包囲しようとすれば、その布陣の厚味は自ずから薄く成る。その薄みを突き、援軍と城内軍とが呼応して掛かれば、関羽軍は忽ちにして〔逆包囲〕の窮地に立たされ、挙句は挟撃の憂き目に遭う事と成るのだそして実際にも、『関羽出撃!』の烽火が届いた瞬間、その情報は更に北の味方へと伝送されて行き、既に〔数万の大増援軍〕が派遣準備に取り掛かって居たのである。
この2つの対抗措置が練られて居る限り、【曹仁】としては何の懸念も無く関羽を迎え撃つ事が出来るので在った。・・・・但し、一寸だけ気に掛かる事が在った。水軍の欠落である。念の為として、運搬用の小型船舶だけは城内に繋留させたものの、戦闘用の艦艇は全て遙か上流に退避させた為制水(海)権はゼロに等しい。漢水に臨む城の南側は防戦一方と成る。また想定内の既定事実では有ったが、南岸の「襄陽城」からの支援は完全に望めず、謂わば”棄て殺し”状態を強いられる。多少の牽制効果は有るにしても、戦力としては全く期待でき無い。解って居ても、いざ実際に現実と成ると、些か面白く無い。その守将を買って出た【
呂常】の胸中を慮れば、忸怩たる思いが募る。如何に荊州最大の規模を誇り、最強の城構えを有する「襄陽城」とは雖も、孤立無援の中で果して何れだけ持ち堪える事が可能で有ろうか??
たとえ餓死しても降伏する様な男では無いが、その心意気に応えてやる為にも、関羽は必ずや倒さねばならぬ・・・・。

それは
燎原の火か、はた 安穏を襲う大津波であった!!関羽水軍は、漢水を「樊」の上流へ更に抜けるや、その揚陸地点からは、精強の陸戦隊 (海兵隊) に変身。その4万余の全軍が一糸乱れず八方に展開。恰も行く手の平原を全て蔽い尽し一気に飲み込む大洪水の如く、曹仁の背後へと雪崩れ込んだのである。〔点の占拠〕では無く、明らかに〔面の制圧〕を目論んだ大攻勢であった。敵・増援軍の来着を一切無視し、その以前に「樊」への連絡路を〔面〕ごと全て遮断してしまおうとする大胆不敵な戦術である。蓋し、その統帥の美事さは眼を見張るものが有った。少しの遅滞も混乱も無く、各部隊が己の目標である小県を次々と飲み込んでゆく。事前の猛訓練が、如何に徹底されていたかを偲ばせる、関羽軍の一斉展開であった。・・・・是れは魏側にとって思わぬ”大誤算”であった。まさか昨日まで自国版図だった諸県が、こうも易々と大挙して敵側に靡くとは、信じられぬ事態だったのだ。曹仁は唸った。

「是れも関羽と云う男の持つ”威名”の為せる業か・・・!」

人々は 《関羽が勝つ!》 と信じて居るのだ。関羽が 許都以南を制圧して、其処を蜀の版図として保持し得ると観て居るのだ。
曹仁の存在など物の数とも観られて居無い・・・と云う訳なのだ。

「思いたくは無いが、漢王室の復興を待望して居る者達が未だ、どっさりと残って居ると謂う事なのか!?」

【曹操】が魏王では無く、次には必ず「魏皇帝」の座を狙っていると、人々は観て居る。その一方で
「漢中王」を名乗った【劉備】は漢王室を復興させる者であると観られて居る・・・と謂う事なのだ。

思えば、この樊城を支えるべき100余キロ北の「宛城」で”Y”こと【侯音】が叛乱を起したのは此の1月の事であったばかりだった。《もし、あの”Yの叛乱”が、いま決行されていたら・・!!》と想うと曹仁の背筋は、今更ながらに氷り付いた。許都では”Xの乱”が在った。今後いつ何処で、”Z”を名乗る者が味方の中から現われ関羽と呼応した謀叛を起さぬとも限ら無いのだ。実際、今そんな大物では無いものの、数多の小物達が 陸続として 関羽に靡き
つつ在るのだった。《四面楚歌・・・とは此の事を謂うのか!?》

関羽は事も無気に、取り合えずは樊城の北方50キロ圏内の地域を全て平定し終わると、そこで初めて諸軍を反転させた。そして陣営を再編すると、やおら其の鉾先を南に向け直し遂に
本格的な
樊城の包囲に取り掛かったのであるーー南面する漢水には大水軍が集結する一方陸上に於いては 城の3面に対して包囲の陣を構えた。だが未だ 直ぐには包囲の輪を締め上げる如き布陣は敷かず、城との距離を隔てた緩衝地帯を設けて悠然と構えて居るのだった。
「緒戦は是れで充分じゃ。」 第一段階の作戦は極めて順調だ。
関羽が樊を包囲したと云う事実こそが、いま最大限に光を放って増幅され、その放電の威力反応を惹き起す時なのだ。その結果は程無く現実と成って、彼我の眼の前に姿を現わすであろう。

対する
曹仁・・・・何も為さぬのも1つの選択肢では在ったが彼の経験律からすれば、籠城戦の秘訣は、1にも2にも”士気の高揚維持”に懸かって居た。遣られっ放しが一番堪える。時には此方から攻勢を仕掛け小さな1勝を稼いでサッと引き上げるのが最善の妙薬である。それに今は未だ、敵兵の精強さの度合が測れては居無い。先ずは威力偵察を行なう必要が有った。そこで曹仁は江陵城の時と同じく、牛金に命じて挨拶代りの1打を放った。ーー結果、牛金は嘗ての如くボコボコにされて逃げ帰って来た。薮蛇だった。関羽軍は噂通りの強兵だった。仕方無く、第2打は志願者を募った。すると其の役を買って出たのは【广龍ほうとく】であった。彼は辛い立場に置かれている勇将である。元は馬騰軍中随一の武勇を誇り、次いで馬超の配下部将と成ったが今や馬超とは敵味方。蜀には彼の兄も居た事から、「樊ニ居タ諸将は大イニ彼に疑惑ヲ抱イテ居タ」のである。
それに対し广龍悳は常々周囲に此う断言して居た。

儂は国恩を受けた身じゃ。道義から謂って、国には死を捧げねばならぬのだ。儂は自身で関羽を叩く心算だ。年内に儂が関羽を殺さねば、関羽が儂を殺すに違い無いのだ!殺るか殺られるか道は2つに1つじゃ!

广龍悳は白馬に乗って出撃した。強かった。雑兵を蹴散らすと、敵の本陣近くにまで乗り込んだ。そして大胆にも名指しで関羽を呼ばわった。すると関羽は自ずからが求めに応じて闊歩して来た『正史』では敵将同士の戦闘場面を描くのは極めて稀
(孫策と太史慈の例あり )だが、『广龍悳伝』には短文だが其の記述が在る。
関羽は誘降を勧める心算で在ったのであろうか。

「その勇猛さは美事である。貴公は元来が曹操とは宿敵の筈。今主君の馬超は我が陣営に在り!実兄どのも我が蜀に在る。此方に参られよ!儂には貴公と戦う謂れは無い。降るのでは無い。唯元の家に戻るだけの事ではないか。朋友として迎えようぞ!」

「それは其方の観方で在ろう。儂には儂の生き方・死に方が在るのだ。今呼ばわったのは降る為では無い。貴公の御命を戴きに参っただけの事であるのだ。いざ我が強弓を受けてみよ!」

言うが早いか广龍悳は、其の場でキリキリと弓を引き絞ると、昂然と馬上に在る関羽の眉間めがけて1矢を射放った。空気を引き裂く風切り音が、狙い違わず関羽を襲った。だが関羽、ピクリとも身を動かす素振なく、瞬きすらもせで、その弓矢を浴びた。ピシリと兜が鳴ると同時に、矢が関羽の額に突き立った!!・・・・
全軍が氷り付いた。

「美事な腕前じゃ。」 関羽が嬉し気に微笑んだ。

「ーーな、何と、見切った・・・と謂うのか!?」

「昔は此の様な壮士が居たものだ。久し振りに出会えて嬉しかったぞ。」

のちに广龍悳は自身デ関羽ト戦闘ヲ交エタ時、関羽ヲ射テ額ニ命中サセタ。 当時、广龍悳は、常ニ 白馬ニ乗って居タ ので、関羽ノ軍では 彼ノ事ヲ 白馬将軍 と 称シ、皆 恐レヲ為シタ。

そんなエピソードは残したものの、大勢は断然、関羽軍の圧勝であった。城内からの出撃も、関羽が出れば必ず負けた。終には
迎撃は息子の関平に任せ、関羽自身は囲碁に打ち興じる余裕の有様。流石に曹仁も無駄を悟り、以後は只管、城に籠りきった。
見渡す限りの大平原に曹魏の旗は1本も見えず漢水にも亦、魏の船影1艘だに無い。つい先日迄は夢想だにし得無ぬ急激な大変貌であった。あれ程までに国力を誇って来た魏の威光は、一体どこへ消え去ったと謂うのであろうか!?曹仁側は僅か10日も経たぬ内に、早くも打つ手無し!の状況に追い込まれたのである。
恐るべきは、予想を超えた関羽の実力!!その統帥の妙も然る事ながら
彼の放射する武勇と威名の雷撃は、其処に在る者達の心を全て奮い立たせる魔力を有するかの如くであったのだ。

「決して甘く観て居た訳では無いと謂うのに、一体この状況は何とした事であろうか!彼が来たと云うだけで、こうも世界は変るものなのか・・・!!」

その
《関羽大勝利!!》の報は、何倍にも増幅されて津々浦々に喧伝され巷を駆け巡った。そして、それまで潜んで居た反逆の物の怪達が時節到来とばかりに一斉に蠢き出した。今の処は未だ、眼に見える如き1千規模の参陣与力は無い様だが、50〜100単位の地元兵が加わり始めて来て居た。好みの挨拶に訪れたり、差し入れを持参する領民の数は劇的に増えている。

間髪を置かずに
【陸遜からのラブレター】が届けられたのも、正に此の時期であった。

だが
曹仁、内心では口先程では無く安心して高を括って居た。それも道理・・・・関羽軍の兵力に匹敵する大増援軍出陣の打ち合わせ日時が、刻一刻と近づいていたのである。然も其れは、
魏の5星将、
于禁率いる正規2万の大騎馬軍団を主とする5万規模の大兵団が投入されたのである

これで形勢は一気に逆転する。関羽軍を逆包囲し、城内と呼応して挟撃作戦を敢行する事となるのだ!!
当然ながら、関羽は其んな状況の来る事は先刻承知で、織り込み済みの筈である。一体、その武勇に何れ程の自信が有ると云うのであろうか!?
果して、勝利の確信は何処から生まれると謂うのであろうか!?

関羽雲長、最大の正念場、
試練の時が迫って来ていた!!
【第234節】 関羽 最大の輝き (于禁軍5万、全面降伏) →へ