一大 叙事詩
関羽雲長・・・・その名は『三国志』に燦然と輝き、爾来
2千年の時空を貫いて 多くの熱烈な支持者・ファンを魅了し続けて来て居る。又、ひとり 三国志に留まらず、時代を超えた永遠のヒーローとして 中国民衆は勿論、我々の心の中にも 生き続けて居る。各地に祀れる〔関帝廟〕などはその最たる現われであろう。
だから、そんな大英雄の最期を語ろうとする時、吾人にはつい、抑えても猶おのずから、或る種の思い入れが生じて来るものだ。
《斯く在れかし!》と願う心情が自然に生まれて来る。そう思わせるだけの魅力を有するのが【関羽】と云う男であるーーだが然し、
等身大の 実際の関羽の最期は、我々が願う様な美しく 気高いものでは 無かった のである。
否 寧ろ 惨め極り無く、凡そ彼には相応しからざる 最悪の状況を招いて亡んで行くのである。確かに一時は 赫々たる勝利を得てその武名を轟かす場面も迎えるのだが、その栄光も
泡沫うたかたの事であったに過ぎぬ。味方自陣営からの相次ぐ反感・反発と裏切行為を招き、最後の局面では率いた10余万の全ての将兵からも見放され
見限られ、終には僅か10余騎しか従う者も無く、逃げ道さえも失い、斬られて果てるのである・・・・
敢えて謂うなら、彼自身の孤高独尊の姿勢が齎す〔自業自得〕の果てに〔身から出た錆〕に因って自滅崩壊の裡に涯てたのである
のち、弟分【張飛】の最期が亦「泥酔中に寝首を掛かれて涯てる」事と並べて思う時・・・・一体、彼等が目指した筈の義侠とは何だったのか!?その30有余年の生涯で培って来たものは何だったのか!?・・・と沈痛な思いを抱かざるを得無い、深刻な現実が横たわって居るのである。
確かに、武人もののふとしては超一流で、天下に並ぶべき者とて無い剛勇で在った。また 劉備との 個人的な関係に於ける、義兄弟としての絆の強さに於いては、美しくも魅力的な人物で在ったには違い無い。だが、それは飽くまでも”身内”の範囲での事であり、一転視点を変えた地平から、その姿を観た時には・・・・心の痛む事実も亦 浮かび上がって来るのである。即ち本書・三国統一志の描く 〔関羽雲長、最後の戦い〕は、シビアな現実を糊塗する事無く、有りの儘の姿で映し出すものである。
【第231節】
先ず 女々しい事を書く。ーー関羽の妻や子らの事である。
次に 小人達の事を書く。ーー関羽を裏切った味方の者達の姿である。その後に関羽出撃の時局・状況を俯瞰してゆく事としよう。
史書には詳しく伝わらぬが、関羽には当然ながら妻子が居る。
一体どこに居て、その後の運命は何う成ったのであろうか??
はた又、関羽は出撃に際し、己の家族に対しては如何なる措置を講じて行ったのであろうか?
史書に見る限りでは【妻】には何等の言及も無い。況して側妾においてをやである。だが是れは史書の原則であるから不満は言えぬ。判っているのは、長男に【関平】、次男に【関興】が在った事と、【娘】が居た事だけである。娘は孫権からの縁談話が有った事から、その実在が証明される。然し1人娘だったのか何うかは不明。 女の子の場合は ”子” として記さない のも 原則だからである。だが父・関羽の異様な激怒から推せば、眼の中に入れても痛く無い程に可愛いがって居る1人娘だったのかも知れ無い。いずれにせよ普通に考えれば、家族全員が関羽と一緒に「江陵」の城内に暮らして居た筈であるーー処が実際には何うも其うでは無かった様なのだ。少なくとも次男の関興は「江陵」には無く、この時点では「蜀」本国に居た と 想われるのである。何故
なら・・・・関羽と関平が出撃した後、その隙に江陵は呂蒙に占拠されて陥落するからである。周辺の城も全て降伏したから、落ち延びる事は不可能な状況だった。然し 史書には関羽の家族が
捕虜に成ったとか、後で護送されたとかの記述が見えぬ。而して
【関興】は蜀本国で無事に関羽の跡を継いで居るのである。
『正史・関羽伝』 の最後の部分には、こう有る。 『子の興、嗣つぐ。
興 字は安国。少わかくして令問あり(評判高い)。丞相 諸葛亮深く之を器異(高く評価)す。弱冠にして侍中・中監軍となる。数歳にして卒す子の統、嗣ぐ。公主(内親王)に尚す(娶る)。官、虎賁中郎将に至る。卒して子なし。興の庶子・彝いを以て 封を 続つが しむ。』
関羽→関興→関統→関彝・・・と、その血筋は保たれる事と成るのである。だとすれば矢張り、未だ少年 (13歳位?) だった次男・関興は諸葛亮の下、父・関羽からは離れて蜀本国で暮らして居た と観るべきであろう。その際、考えねばならぬのは、その母親たる関羽の妻や娘の所在である。
関羽は今、60に近い。58か59かで在る。そして江陵に在ること9年(211年〜)。劉備と別れてからは8年(215年に 孫呉との睨み合いで一度再会するが)張飛・諸葛亮達と別れ(214年)独りに成ってからは5年の歳月が流れ過ぎて居た。つまり関羽は、50歳から以後ほぼ10年の人生を、独りで暮らして居たのである。その傍らに妻や娘が寄り添って居たのか??それとも妻子の身の安全を考え長男だけを置いて居たのか?一般に当時の習いとしては、〔妻子は本国で一家を守る〕 のが常 とされていた・・・・その事を考慮するならば、益州の経営が安定した時点で、関羽は妻子を蜀本国に移り住まわせて居た・・・と観るべきであろうか。ましてや魏との決戦を控え、呉からの侵攻あるやも知れぬ状況下である。恐らく、そうした措置が採られていた と想われる。 それでこそ、
はじめて、心置き無く出撃できる。 但し、「正史・呂蒙伝」には→『呂蒙は(江陵)城に入って其処を占拠し、関羽や其の配下の将士たちの家族を全て捕えたが、彼等をみな慰撫し〜云々〜』・・・との記述が在る。だから関羽にとっての本国は飽く迄も荊州だったのであり、妻子も亦「江陵」に居た、とすべきか??
年齢が出たついでに、〔老年と肉体の衰え〕 についての
考察であるが・・・・結論から謂えば、筆者は「何の問題も無し!」だと思って居る。今、関羽は58、9歳で在るが一体2千年も前の人類で、60歳の老人が天下随一の武勇を保持し得るものだろうか?・・・と思うのが自然である。だが筆者自身の身近な体験からすると、何十年も倦まず鍛え続ければ、60歳でも黒光りする鋼の様な筋肉と 体力を維持する人間は、実際に存在する事を知っている。維持だけでは無い。寧ろ更なる強化・進化を遂げる方さえ見て居る。スポーツジムのトレーナーなら常識であるだろう。無論時代は全く異なるから一概には謂えぬだろうが、彼ら英雄は選び抜かれた人間である。若い時に比べれば多少の衰えは在るだろうが、その分は体験が充分に補って余り有るに違い無いと思う。関羽に限らず、また三国志に限らず、古代に於いても「英雄」・「豪傑」と呼ばれる様な者達は、年齢に因る衰えで不覚を取る様な事が少ないのは、そうした人類不滅の事情が有るからだと確信する筆者ではある。
さて次は、関羽出撃に際し、その背側を支援するべき
〔味方の顔触れ〕と〔その人間関係〕についてである。
但し、関羽と共に出撃する本軍の者達は、その都度に登場するので省く。飽くまで後背に在って、輸送担当や後方の守備固め、若しくは増援軍派遣の任に当るべき人物達についてである。
その中で 最も直接的に 関羽本軍と関わるのは、この江陵城を
含む荊州の心臓部に当る〔南郡太守〕の責務である。ちなみに「江陵城」は 別名では「南郡城」とも呼ばれていた。北は陸路で
魏軍の襄陽城に続く。また長江で最大の軍港都市で在り、東へ下っては呉軍を牽制し、西に溯上しては蜀の進出を防ぐ位置に在る。故に、関羽本軍が出陣した後は、この南郡太守が江陵城を守り、荊州の命運を握る事と成る。・・・即ち、主要任務は
3つ!
1つは→関羽本軍に対しての兵糧・兵器の輸送補給。
2つは→増援要請に応えての新兵力の派遣。
3つは→呉の侵攻を牽制、奇襲に備え 根拠地を保持。
〔2〕と〔3〕の問題は密接に連動して居り、呉からの脅威無し!と観れば、その守備兵力を本軍が呼び寄せ、魏軍との決戦に投入するのである。但し、その判断は総督である関羽自身が下す。
何れにせよ、補給・派兵の遅滞は即、荊州本軍の崩壊・敗北に繋がるのだから、責任重大である。
その〔南郡太守〕は、【麋芳】びほうであった。字は子方。
兄麋竺 びじくは〔安漢将軍〕を拝命し席次は常に諸葛亮より上に位置する恩顧の臣ーー23年前の196年、張飛のバカが原因で呂布に徐州 (下丕卩城) を奪われた劉備が、尾羽打ち枯らして
海西に逃れた折に莫大な金銀と下僕を差し出し、劉備の復活に大貢献した。その際、甘夫人(側妾)は呂布の捕虜にされた事も
あり麋竺は妹を正妻として劉備に差し出した。麋夫人である。が、長阪陂の惨劇で逝った。爾来23年間、麋芳は兄の麋竺と共に、劉備の大放浪に付き従って、天下を転々とした。だから、
関羽とは長い付き合いの間柄なので在った。ちなみに兄の麋竺だが・・・『穏やかで誠実な男で在ったが、人を統率するのは不得手であった。そのため上賓の礼をもって遇されはしたが、一度も
軍を統御する事は無かった』と云う人物で、年功序列の御飾り・名誉会員と謂った塩梅で在ったーーだから関羽は内心で、そんな役立たずの麋竺を疎んじて居たかも知れ無い。そして其の弟で在る麋芳に対しても亦 同様な眼で観 軽ろんじて居たらしい然し 劉備は、兄の温厚で誠実な人柄と、その付き合いの長さから観て、弟の麋芳を信任したと想われる。だが得てして兄弟の場合性格が同じケースは珍しいものだ。寧ろ正反対の事が多いから、麋芳の人柄は激しいものを秘めて居たかも知れ無い。
この問題の『羽ハ 士大夫ニ 驕おごル』の性向は、ひとり麋芳に対してでは無かった様だ。
この江陵 (南郡)の やや下流・南岸に在るのが 「公安」 である。それ迄は「油口」と呼ばれていたものを劉備が「公安」と改名して占拠した。こちらはより、〔呉軍対策〕の意味合が濃い軍事都市で在り、万が一呉の艦隊が攻め寄せて来た場合には、第1の関門と成って敵を阻止する役割を有して居た。また南岸に在るので、長江以南への睨みを効かす鎮守府の役割も兼ねる。蓋し今後に於ける公安の主要任務は、南郡太守とほぼ同じ・・・・呉の侵攻を防ぎつつ、増援要請に応えて新規兵力を増派する事である。
その〔公安の守将〕は【士仁】しじんであった。字は君義
(※傅士仁ふしじん との表記も、正史に1ヶ所 5度みえるが、
他には4ヶ所に10度 【士仁】とあるので、以後は【士仁】で通す事とする。)
『出身は広陽郡で、将軍であり、関羽の指揮下に在った』 とだけ
しか判らぬ人物ではあるのだが・・・・この2人の間を行き来して
連絡役を勤めて居るのが〔荊州治中〕の【潘濬】はんえいで在った。字は承明で地元・武陵郡の出身。劉備は益州に入る時、彼を荊州に残し、行政を司らせていた・・・・とのみ、ある。
以上の3人は、関羽が本軍を率いて北上した場合、その後方を支える重責を担う者達である。そして、この措置からも判る様に
関羽は北上に際しても尚、呉への不信を解かず
相当の兵力を「江陵」と「公安」に張り付けた儘にして措いたのである!! ーー即ち、関羽の北上軍は、決して有り余る兵力を率いて出撃して行く訳では無く、
ギリギリ必要最少限の軍団を以って敢行される
のである。故に謂わずも哉、その残置した兵力は、呉からの侵攻の懸念が無い場合には・・・直ちに、関羽本軍に追加投入される手筈に成っていたのである。
さて、彼等と 関羽との 人間関係の問題である。先ずは、何も言わずに『正史』の記述を御覧戴こう。
『南郡太守 麋芳 在江陵。将軍 傅士仁 屯公安。
素 皆 嫌 羽 自 輕 己。』
『南郡太守の麋芳、江陵に在り。将軍・傅士仁は公安に屯す。
素もとヨリ皆、羽、自おのずかラ 己ヲ 軽ンズルヲ 嫌ウ。』
〔正史・関羽伝〕
『麋芳は、南郡太守と成りて関羽と共に事に当たるも、
個人的感情ヨリ 仲違イを為なシ・・・』 〔正史・麋竺伝〕
『士仁は将軍と成って公安に駐留し、関羽の指揮下に在ったが
関羽 ト 仲違イ シテ・・・・』
『潘濬は州の行政を司るも矢張り関羽ト不和デアッタ』
〔正史・季漢輔臣賛〕
全滅・・・である!驚くべき事実である!3流の史料が面白半分に記したエピソードでは無く、『正史』が明記しているのである。
〔嫌う!〕・〔仲違い!〕・〔不和!〕
〔素もとより皆みな嫌う!〕・・・正しく全員である!
後方支援の全部である!!然も以前から”平素の恨み”を買って居たと謂うのである。個々具体的事例は記されて居無いが、
『羽ハ士大夫ニ驕おごル』 の実態とは、こう云う事で在ったのか!?それにしても、世に伝わる関羽像とは余りにも乖離した記述である。愕然、思わず脳裡で、何かの崩れる音がする・・・・のは筆者だけで在ろうか。だが『正史』に、然も『関羽伝』自身の中に記されている厳然たる事実なのである。吾人も受け入れざるを得まい。ーー即ち、
関羽雲長と云う人物には、味方からさえも嫌われる程の、余りにも強烈な倣岸さが有ったので在り、その過度な〔独尊〕の姿勢は、多くの味方から恨みを買う程のものであった・・・・ と云う【事実】
である。1人2人なら、恨みを抱く側の人物の方が、却って”小人”だったとも判断し得ようが、自分直属の部下達から、こうも揃って嫌悪されると為れば、もはや弁明の余地は無さそうである。
関羽自身の人間性にこそ、その問題の元が在った!と断言する
しか無い。ーーこの関羽の人格的な暗渠については、古来より
”覆い隠そうとする傾向”が著しく殆んどの書物・小説が避けたり無視して来た、アンタッチャブルで タブーな 〔進入禁止区域〕で
ある。最大の元凶は矢張『演義』の虚構・・・完全無欠なヒーロー像ではあるが、それは別にしても、関羽への思い入れや 願望・
贔屓などなど、個々人レベルでも陥り易い範疇である。まあ何も殊更に強調する必要も無いが、他の人物同様に、事実は事実として粛淡と観てゆくのが本書・三国統一志のスパンではある。
この〔自陣営の危うさ〕は、関羽の後方ばかりでは無かった。その左側面に当る 房陵・上庸でも亦、不穏な気配が漂って居たのである。ーー何故に”気配”と記すか?と謂えば・・・・その危うさが現実と成って現われるのは、もう少し後の事だからであり、史書は其の直前の事は記して居無いからである。
( 故に、この 両郡の動向 については 本書の推測 となる。)
この左翼2郡は、関羽の北上に合わせて、つい最近に蜀の版図と成ったばかりである。占拠したのは「法正」の旧友・
【孟達】であった。赤壁戦の後、未だ劉備が荊州の1画に依拠するのみで、益州へ乗り込む以前の事ーー筋金入りの売国奴・「張松」の手配で、劉璋からの救援軍として、益州兵を率いて派遣されたのが10年前の事だった。爾来、孟達は その益州兵を中核として己の軍を増強育成し、蜀への長江口に当る宜都郡太守の部署を任されて居た。そこへ房陵・上庸2郡の占拠命令が下され、勇躍進撃して房陵を席巻。続いて上庸への進攻を果さんとした時 突如ストップが掛けられた。劉備から”疑念”を抱かれたのである!『先主は内心、孟達ひとりに任せるのに躊躇を感じた』 ので、孟達を監視・統率する為に、急遽、
「我が子」を送り込んで来たのである。ーーその”疑念”とは当然、〔魏への寝返りの危険性・可能性〕である。何を以って劉備が斯く感じたかについては不明だが、確たる証拠が有った訳では無かったのは、その曖昧な措置自体が如実に示している。いわゆる第六感・虫の知らせと云う類であろう。その責任については「鶏か卵か?」だが、何れにせよ、そんな措置を取られて、孟達が好い気分な筈は無かろう。天下に疑惑を公表され、己の胡乱さを衆目に晒されたに等しい。
既にして其処には〔重大なる危うさが潜在して居た〕のである。
この左翼には 更に危うい実態が在った。劉備が送り込んで来た人物にも、別の疑惑が付いて廻るのである。劉備の養子・【劉封】りゅうほう・・・今は劉備の”名代”たる〔副軍将軍〕を号して居るが、その地位は誠に危うく微妙なものに過ぎ無かったと謂えよう。蜀の人間なら誰しもが、その内心では《困った存在》・《いずれは厄介と成る人物》と、薄々に感じて居る相手で在ったのだ。無論、劉蜀の後継ぎ・後継者問題である。直系の【劉禅】が生まれて以後ハッキリ言って養子の劉封は邪魔者・厄介者へと
追い遣られて居たのである。その事は当の劉封自身が最も強く感じて居た筈だ。さりとて自身に何の落度が有る訳では無い。
父の劉備を愛し信ずるしか方法は無いが、その劉備は現在も尚自分を深く信任して呉れ、この重要な地域の総司令官として派遣して呉れたのだ。・・・・だが、ふと、或る人物の顔が思い出される度に、胸が抉られ、締め付けられる。
【関羽】の然たり顔であったーー関羽は他の者達とは違い、容赦の無い言い様で、恰も 家臣団を代表するかの口振で、ズケリと言い渡した。
『阿斗様が御生まれに成った上は、お前は最早ご主君の子では無い。単なる家臣に過ぎぬのじゃ。夢にも分不相応な気持を抱くでは無いぞ!!この儂が率先して皆に範を垂れる。よいな、必ず忘れるで無いぞ!!」
《ーー父上を差し置いて、何たる言い草か!》・・・・関羽に対する怒りの炎が、その奥処でメラメラと燃え盛っても不可しくは無い。
《ーー己が父上との義兄弟を誇るならば、正式に結ばれた養子
縁組の方が、遙かに重い”契り”ではないか!!》・・・・・
たとえ理解して居たとしても、面と向かってグサリと言い放たれたのは関羽だけで在ったに違い無い。甘い所の有る劉備に代ってその義兄弟として言い渡したのであろうが、己の契りだけを持ち出すのは確かに不当だ。ーーそんな穏やかざる気持が、劉封の奥処に内在して居たと観るのは、筆者の勘ぐり過ぎであろうか?
この直後(関羽の滅亡が確定した直後)に、【孟達】は【劉封】に宛てて、《行動を共にしよう!!》 との、説得の為の 長い手紙を出す。その全文が 正史・劉封伝 に載録されている。全文は其の時に紹介するが、今は唯この劉封の危うい立場についての関連部分だけを転載して試る。如何に劉封の置かれて居る環境が微妙なもので在ったかが顕著となる故である。
ちなみに此の2人の人間関係は、( 直ぐ後に記すが ) 終始一貫して
極めて険悪なものであった。にも関わらず、それを承知の上で尚説得したのである。
その事からも、この 劉封の気持と立場 とが、何れ程に複雑で深刻だったのかが理解されるであろう。
ーーその抜粋部分ーー
『・・・・賢明な父、慈愛深い親に対する場合でも尚、忠臣が功業を挙げながら禍に遭い孝子が 愛情を抱きながら
困難に陥る事が あるものです。・・・・・・恩愛の気持が 他へ移った上に、悪口を言って
間を引き裂く者が居たからで、忠臣で在っても 君主の気持を 動かす事が出来ず、孝子であっても 父親の心を変える事は 出来無いのです。権勢や
利益が圧力として在れば、肉親さえ仇敵に変えるのですから、まして肉親で無い者は何うでありましょうか・・・・・
現在、足下 (劉封) は 漢中王 (劉備) に 対しては、行きずりの人 に しか過ぎません。
親子と謂っても 血肉を分けた間柄では無いのに 権勢のある地位を占め、道義の上
からは君臣の間柄では無いのに官職を受けて高い位に居られ、遠征の際には責任者としての権威を持ち、出陣しない時には副将軍の称号を保って居られ、その事は遠近を問わず周知の事実であります。阿斗を立て皇太子として以来、心ある人は足下の為に心も凍える思いをして居ります・・・・・
私の判断では、漢中王は心中すでに決断を下して居り、外(劉封)に対して疑念を生じて居ります。 決断を下せば 心は固く、疑念が 生ずれば 心に 危惧が起こるものです。
混乱や災禍が
発生するのは、古来より 太子廃立に関係するものと決まっております。個人的な怨念や、人間の感情は、表に顕われざるを 得無いものです。恐らく 側近の
家来達は、必ずや漢中王の耳に讒言を吹き込むでありましょう。そう成れば、疑念が
固まり、怨念が耳に達し、バネを弾く如くに、瞬時にして災禍が起こるでしょう・・・・・
いま足下が実の父母を捨てて 他人の子と成ったのは、礼に外れる行為です。禍いが降り掛かろうとしているのを知りながら、留まるのは英智に悖る行為です。正しい意見を前にして従わず、之を疑うのは道義に反する行為です。・・・・・足下の才能を以って身を棄てて東方へ行かれ、羅侯を継承なされるならば (劉封は羅氏から養子に成った)親に背いた事には成りません。・・・・・・』
実際には此の4倍の長文であり、行動を共にする目的と意義とが連綿と記されているのだが、劉封が置かれて居る 其の立場は、現在と変わらずで在ったのだから、此処に抜粋した部分の持つ意味は、極めて大きいのである。
前述の通り、この左翼=「房陵・上庸」に於ける守将の2人・・・・
孟達と劉封とは、終始 いがみ合って居た事だけは『正史・劉封伝』に明記されている。当然の成り行きと謂えよう。
『劉封と孟達は反目し合って仲が悪く、やがて劉封は孟達の軍楽隊を没収した。孟達は劉封に対して憤怒と怨みの念を抱き・・・』
元々から 孟達が10年を掛けて育てて来た 自分の部隊である。
それを裏切りの疑惑を持たれ、頭越の命令1つで取り上げられた上に、私設の軍楽隊迄をも没収されたと成れば、孟達の立つ瀬も 面目も全く無い。
劉封の鬱屈した暗渠が垣間見られる憂さ晴らし的な行為である。・・・・こんな扱いを受けても尚、忠誠を誓え!と言われた場合、一体当事者は何んな行動を取るであろうか!?
かくて、関羽を取り巻く味方陣営の内実は、余りにも陰鬱で暗澹たる怨念に満ちたものだったのである。はたして、其の根本的な原因・根源的な責任は、な辺に在りや!!また無きや??一体、その不和・不協和音が齎す結果とは如何なるものと成るのであろうか・・・!?知らぬのは君主の劉備と、そして今
まさに出陣しようとして居る 関羽ばかりで在った とは・・・・・・
だが、悲観的な事だけが存在して居た訳では無かった。
関羽には必勝の裏付と確信が在ったのである!関羽が率いる軍団は天下最強であったのだ!!
士大夫に対する態度とは逆に、関羽は下士官を大切にし、兵士達を非常に可愛いがった。だから猛訓練にも応え、関羽軍の士気と誇りは高く、そして錬度も比類の無い完成度に到達して居たのである。 ひと言でいえば・・・・軍神・関羽が
満足し得る程に、限り無く 強かった!!のだ。
『羽善侍卒伍ーー羽ハ 善ク 卒伍ヲ 侍ツ』
正史に記された この5文字こそ、関羽が民衆
から敬愛される源泉であり、その強さの由来で
あり、人々から支持される温かい人柄である。
強きを挫き、弱きを助く・・・身分ある者には厳しく名の無い者には温かい・・・商人を含めた庶民にとっては最高に嬉しい態度である。然も抜群に強い。自分達の〔守り神〕として崇める所以である。兵士も庶民である。関羽が好きだ〜
背後の呉の動きに備え、全軍を一挙に投入する訳には行かぬがその不足を補って余り有る強兵が、関羽の強襲を支える。また、
兵糧の備蓄にも不安は無かった。この5年の間、荊州では大きな戦役は無かった。だから兵糧と兵器(主に弓矢)の備蓄は着実に進み仮に戦闘が1年以上と成った場合でも、何の心配も無く
作戦に専念出来る態勢が整っていたのである。
いざ出撃!であるが・・・その前に先ず、我々としては敵の位置の確認と、其処へ至る進撃路・作戦要領を確認して措かねばなるまい。ーー敵・魏軍の守将は【曹仁】で漢水の北岸〔樊城〕に在る。その南岸には〔襄陽城〕が在り、【呂常】が立て籠る。城市としては格段に「襄陽」の方が大きく、「樊」は軍事専門の機能都市で在る。・・・・そんな事など、関羽は承知千万。何せ”襄樊城”は、取り分けても〔樊城〕こそは、元々劉備一行が長年に渡り拠城として居た縁故の場所。謂わば、勝手知ったる我が家も同然、その隅々までを知り尽くしたホームグランドみたいなもので在ったのだ。眼を瞑った儘でも周囲の風景が見えて来る。だから、魏軍が自分を如何に恐れて居るかが丸で手を取る様に判るーー即ち北上する関羽軍とは陸地続きである”襄陽”の方は最初から半ば放棄したも同然の陣容・人選配置である。その反面増援軍が陸路を来易い
〔樊〕 にこそ、中核軍を置いて居る。・・・・では御望み通りに先ず ”襄陽”を戴くか?と謂えば関羽の作戦は全く異なった。どのみち陥落必至の南岸・襄陽なぞは後廻しとし、ズカリ!〔樊〕 をこそ落とす!!・・・・その敵の意表を突く作戦の為に必要なのは、水軍である!!ーー蓋し、関羽が優れた提督であり、艦隊の司令官で在った事は意外に認識されて居無い。
関羽水軍!・・・これぞ剛勇が誇る機動の源であった
これ迄、史家の間でも、殆んど注目される事も無く、見過ごされて来ているのだが関羽は優れた〔水軍の提督〕でも在ったのである。想い起せば過る10年前(208年)劉備が曹操の大軍団によって、あわや全滅の窮地に追い詰められた〔長阪陂の惨劇〕に於いて、その劉備最大の危機の場面に 颯爽勇躍、「漢津」に現われたのは、関羽率いる襄樊水軍の勇姿であったではないか。だから関羽は、その「漢水」の流れの様子も亦、充分に熟知して居たのである。・・・・途中での損耗をゼロにした上に、敵の心臓部へ直に揚陸して機先を制す!
その発想を為し得た背景には、かつて関羽自身が提督としての体験を有して居たからこそである。陸路を北上し、漢水の手前の襄陽でモタモタして居た場合と比較すれば、その有効さは格段である。進退も自在で揚陸地点も自由に選べる。ーー但し、それを敢行する為には、大兵力を一気に運べるだけの大艦隊が必要となる。だが心配は無用。此処 「江陵」こそは昔から荊州が誇る長江随一の大軍港で在り、造船技術・曹舵手・漕手かこのレベルの高さを含め、呉軍艦隊と双璧を為す大 水軍基地だった。その上、関羽には、5年と云う 準備期間が在ったのだ。その貴重な時間を、ただ無為に過ごす様な関羽では無かった。歩兵・騎兵の鍛錬は 勿論だったが、水軍の修練も亦、おさおさ 怠りは
無かったのである。ーーかくて、劉備が蜀を建国する迄の5年間その成就の様を横目で睨みつつ只管に息を矯め、隠忍自重し、雌伏して居た関羽が、いよいよ雄渾の出撃を為す秋が巡って来たのである。
関羽の北上勝利を待望して居る者達は多かった其れ等の諸勢力に対する事前の手配り・共同戦線構築の工作も果たした。ーー更に耳寄りな情報としてはーー「陸口」に駐屯する呉の司令官・呂蒙が再び持病を発生させ、床に伏せった・・・・との事。仮病・演技くさくも無くは無いが、ここ何年間かの情報集積から推せば、呂蒙の健康状態が急激に悪化して居るのは確実であり、周知の事実では有った。油断は出来ぬが、もし事実で有れば、〔vs呉〕用に残置して在る予備兵力を新たな兵力として増援に投入できる。そう成れば、益々勝利は確実なものと成る。
天の時は満てり!地にも声満つ!残すは人の力を示すのみ!
曹操の野望に反感を抱く、多くの者達の期待を担った、関羽雲長 の 樊城攻撃が
ついに 開始されるのだった!!
7月は秋である。その219年・秋7月・・・・今し、
運命の矢は 正に放たれたのである!
【第232節】 策謀家の免許状 (呂蒙から小僧っ子陸遜へ) →へ