【第230節】
関羽 の 逆鱗
                                       孤高か!独尊か?
     歎 羽 行
    天の声とも 知らずに 生まれ
        悠久無辺の 大地に 育ち
    人の真
まことを 求めて 生きる  
        時は 乱れし 憂国の御世
みよ
    人の心は 荒
すさぶる 風か
        彷徨人
さすらいびとの 邂逅かいごう
    生涯の友 我が 義兄弟


    
ひとたび契った 男の絆きずな
        生きるも死ぬも 天命まかせ
    人智及ばぬ 道程
みちのりなれど
        志
こころざしこそ 常にぞ 高く
    共に進むは 天地の狭間
        離散 放浪 試練の時も
    信じて已
まぬ 我が 義兄弟   

    
若き軍師の 得ざるる ならば
        明日をも知らず 朽ちてし ものを
    一旋
いっせん 蘇生の 羽毛扇 ぐんおうぎ
        美事みごと 微笑ほほえむ 龍の背に
    乗りて目指すは 義侠の流転るてん
        劇賊げきぞく 姦雄 睥睨へいげい
    苦境 求道
ぐどうの 我が 義兄弟

    
一点の曇り無き 至誠の瞳
        仰ぐ山塊 大河の流れ   
    この身 離れて 遙かとて
        結ぶ誓いの 男気こそは
    忘れ難くぞ 歯に沁
みん
        抱く 壮心 愛
でるは 酒か
    戴
いただく 冕かんむり 我が 義兄弟

    
見よや 疾風怒濤の如く
        雄渾
ゆうこんの旗 赫赫あかあか
    熱き血潮の 湧き立つ処  
        回天の意気 此処に有り
    限り有るらん 命なら
        進めや赤兎 諸共
もろともに 
    その名 轟く 我が義兄弟


    
神か 魔か 人か 英雄か
        裸で生まれて 鎧
よろいを着けて
    死なば伝説 あな 面白し
        その名を刻む 墓石
はかいし無くも
    空の太陽 星屑
ほしくず 月夜
        せめて伝えよ 生き死にの様
    これぞ三国 我が 義兄弟


    
なんで 弱きに 微笑ほほえむや
        何故に 辛苦の道 採るや
    敢えて求める 武人
もののふ
        華の顔
かんばせ鬼が身に
    名をこそ惜しむ 人の世で
        同年 同月 同日に
    花の散るらん 我が義兄弟


そもそも
義侠とは、最もストレートな個人感情の具現で在る。己の拠って立つ情動に正直で、その発露を包み隠す事を潔しと
しない・・・・そう云う生き方である。否
寧ろ己の”我”を全面に押し出しぶつけ合いながら生き抜いて行く、”激しい道”の事である
普段は 明鏡止水の如く 静平で在るがこと 己の価値観に反する様な場面・事態に出会ったならば激しく感情を波立だせ命すら賭けて立向かうそんな生き様・リビドーを有する者達は自から、その示す性格が明快で 一種、正直だとも謂い得よう。但し余りに己を大事に保つ事のみに拘り過ぎると、其処には当然の帰結として、他人を傷付けたり、反感を買ったり、最悪の場合には怨みを抱かれたりする可能性が並存する。意地悪く観れば直情径行単純愚直 だとも謂えよう。 要は、他者への配慮、そのバランス・
兼ね合い如何である。

関羽 雲長
誇り高き壮士おとこで在った!!

その武勇と人望を以ってすれば、己独りだけで充分に1国の君主たり得た 英雄で在ったものを、何よりも 義兄弟との絆を 至高の価値と情動し、哲し、生きる根源と為した。そして 明日をも見えぬ長い不遇と 絶望の最中でも、一瞬の躊躇も 逡巡も無く、その生涯に渡って 不動不滅の 信義を 貫き徹す。もし、関羽無かりせば劉備の成功も亦、在り得無かった!!と 断言できよう。劉備への人望・評価はーー実は、その殆んどが、関羽が劉備を上に戴く姿の中から生まれた!と謂ってよいであろう。更に又、漸く燭光が見えて来た 後半生に於いては、その根拠地を唯独り残って長年守り抜き、蜀の建国を支え続けて居る。劉備の漢中王即位式典さえ目にする事も叶わず、終には自身が蜀の国へ足を踏み入れる事すら無い儘の孤高の存在・・・・
事実上、関羽は今、荊州の君主で在った。

そんな 孤高の人
関羽雲長だがーーやはり人の子。 心 猛きも 鬼が身ならず、人と 生まれて来たからには
喜怒哀楽の情を持つ。否、彼ほど己の感情を大切にしストレートに具現した男も稀しい。
『正史』の最も有名な、関羽と張飛の性格描写・・・・
羽 善侍卒伍 而 驕於士大夫
  羽は 善
く卒伍を侍たもちて、士大夫に 驕おごる。
飛愛敬君子而不恤小人
(飛は君子を愛敬して 小人を恤あわれまず)

だから
軍神の如き威厳を具えて居る かと思えば、
      コロリと
子供じみた心根も 顔を出す。
『羽
馬超の来たり降るを聞くもとより故人に非ず書して諸葛亮に与え「超の人才誰か比類すべきか」 と問う羽の護前するを知る。乃ち之に答えて曰く、「孟起馬超文武を兼ね資り雄烈 人に過ぐ。一世の傑にて黥彭(黥布げいふ)の徒なり。まさに益徳(張飛)と並び駆け、先を争うべし。猶お未まだ髯の絶倫逸群なるに及ばず」 と。 羽、美鬚髯び しゅぜんあり。故に亮、之を髯ひげと謂う。
羽、書を省て大いに悦び、以って 賓客に示す。』・・・・(正史・関羽伝)

護前・・・とは以前の過失や失策を認めたがらぬ性癖・性向の事である。平ったく言えば、負けず嫌い自己顕示欲が強い事を謂う関羽ほどの者で在れば、まして齢60を迎えるなら他人との比較など 今さら 必要も無いであろうに、わざわざ 自分の方から
手紙まで出して 諸葛亮に尋ねるなんぞは 如何にも 小人 くさくて可笑しい
まあ相手が諸葛亮だからこそ心を許して訊いたのでは在ろうが、その返事を丸呑みにして悦び、更には 名士達に見せびらかすに及んでは、面白いエピソードの範疇を逸脱し、些か過度であろう。武人としての重厚で威厳に満ちた佇まいとは、凡そ乖離した姿で在る。そのアンバランスさが又、何とも人間くさくて好ましいとも謂えようが、その性向が公的な場面でも過度に現われるとするならば、可なり危うい”仇”に成る可能性がある・・・・。

『羽、嘗
かつて流矢の中あたる所と為り、その左臂さひ=ひだりひじを貫く 後、創きずえると雖いえども、陰雨に至る毎に 骨 常に疼痛す。 医 曰いわく「矢鏃やじりに毒あり。毒 骨に入る。まさに臂を破り 創を作り (切開し)、骨を刮けずりて 毒を去るべし。しかる後、この患 乃すなわち 除かれん耳のみ。」 と。 羽 すなわち臂を伸ばし、医をして之を劈かしむ。時に羽、たまたま諸将を請まねきて相い対す。臂血流離し盤器に盈つ。而して羽、炙しゃ(あぶり肉) を割き、酒を引き 言笑 自若たり。』ーー(同上)ーー
たまたま偶然に、宴会日に医者が遣って来たので・・・・との断り書きが付いてはいるが、下手をすれば左手が使え無く成る様な、武人としては 致命傷の手術である。それを 訪問日も告げずに、ヒョイと 医者の来る 筈が無い。 敢えて 諸将を呼んで措いての
パフォーマンスだったであろう。強烈な自己顕示欲!!
痩せ我慢も、此処まで徹底すれば、美学とすら成ろうか。

そんな
関羽激怒した!!
いや、臍を曲げた。主君の劉備に対して腹を立てたのである。
《何で、アイツと俺が 一緒なんだ!!》
《俺の方がゼッタイ”上”だ!》 《ったく、やってらんネェよ!》・・・・

組織の中に身を置く場合 10人中8,9人は、こんな気持に成った経験がお在りになるのでは あるまいか? そして其の思いは主として仕事に対する”自負”から来る”不満”である。同じ職域現場に於いては尚更であろう。
《俺は人の何倍もの成績を上げて来て居るではないか!》
《俺は人の何倍も努力してやって居るではないか!》
これは自分への〔上司から〕の〔評価に対する不満〕である。だが普通の場合は、グッと腹に抑えて声高には言わない。精々自棄酒を仰って憂さを晴らし、隠忍自重・雌伏する。それが組織に身を置く場合の処世である。
ーーだが、
関羽は、ストレートに激怒した
漢中王に就いた劉備から家臣に対し、新しい尉官の昇進が発表されそれを伝達する為の使者が派遣されて来たのである。そして其の新しい官位を知らされた時、関羽は憤懣を顕わにブチ撒けたのだった。『漢の前将軍に任ず』・・・・それが伝達の内容であった。この前将軍の官位は、君主(皇帝)の前後左右を直接に守護する由緒正しい最名誉な地位であり、決して 関羽が不満を抱く様な 不相応なものでは無い。但し、4将軍は1セットで同列な重きを為すとされていたから、関羽の外に未だ3人の同格者が居る事になる。関羽は念の為拝受の前に先ず、その3人の名を問い質した。己の地位が事実上、蜀軍で最高のもので在る事を確認して措く為であった。
右将軍→張飛・・ウム善かろう、左将軍→馬超・・まあ宜いだろう後将軍ーー黄忠・・・・
な、なに〜!!黄忠だと〜!?
その名を聞いた瞬間、関羽の自負心が憤り立った。当然【
趙雲】の名が上がるだろうと予想して居たのに、ポッと出の然も70過ぎの老い耄れが此の俺の同僚・同格だと謂うのか・・・・!?
張飛】は、死ぬも生きるも一緒と誓い合った義兄弟だから当然である。【馬超】は、臣下と成って日は浅いが、その以前の武名は既に天下に轟き関羽自身が気にする位であったから、まあ妥当な線であろう。 ( 思えば関羽、同じ家臣とは雖も、この馬超をはじめ 殆んどの
                    新参者とは 顔を会わす事も無い儘に去るのである。)

処が、【黄忠】と来た比には、多少の働きは有ったものの、とても己と伍して肩を並べる様な武名も実績も無い!・・・それを【趙雲】を差し置いて抜擢するとは、この俺の働きや存在を、その程度のものと貶めるに等しいではないか!!

大の男が あんな奴と同列には絶対ならんぞ!

《何で、アイツと俺が 一緒なんだ!!》
・・・・その憤懣が、モロに関羽の顔に 顕われていた。そして プイと 明後日の方を向くと、
後はもう、頑として辞令書の拝受を拒絶し、使者の伝達には取り合おうともしない。
この時の使者は費詩・・・・両者は互いに1面識も無い相手
だった。費詩の字は
公挙。益州の人で元は劉璋の家臣。緜竹の県令だったが、劉備の攻撃を前に 逸早く 開城降伏して家臣と成って居た。劉備は 彼を高く評価し 〔督軍従事〕 〔壮河太守〕を歴任させた後、現在は州の〔前部司馬〕を任せていた。
恐らく出立前に劉備や諸葛亮から、関羽の人格や情動についての示唆が有ったに違い無い。又、そんな関羽に接しても動じない様な人物だからこそ、今回の使者に選んだのでもあろう。
費詩】は慌て無かった。飽くまで冷静に、使者の役に徹した態度を崩さず《どうぞ御勝手に!我関せず!》 と云う風情で対応した。
〔私は単に 命令を伝達に来ただけの者。この任命を 拝受するも拒否するもソッチの勝手!自分は只 帰って其の事実を報告するだけの事!〕・・・そうした佇まいの儘、費詩が静かに口を開いた。関羽は内心、相手の意外な反応に、少し冷静さを取り戻さざるを得無かった。
そもそも王業を樹立せんとする者、その時々に任用する人物は1人だけではありません。昔、【蕭何】・【曹参】は高祖とは若い頃からの親しい関係に在りましたが、後から【陳平】・【韓信】が亡命して遣って来ました。そして席次から謂うと韓信が最上位を占める事に成りました。 然し、蕭何・曹参が、その為に 怨みを抱いたなどとは、聞いた事が有りません。

三国志の英傑達で その話を知らぬ者など居無いーー鴻門の会で項羽に屈した劉邦が漢中王に封じられ、現地に赴く際、多くの武将が劉邦を見限って逃亡した。韓信も其の中の1人だったが、目立つ武功も無かった。然し蕭何は単身でその後を追い、何とか引き止めた。劉邦は蕭何までもが逃亡したものと思い落胆・激怒するが、その2日後に帰って来た蕭何は、
「韓信こそは国士無双の人物。王が天下を望むならば大将軍に取り立てるべきです!」と詰め寄り、しぶしぶ 劉邦に認めさせた。
その後の韓信は大活躍。 1万の兵を 河の前に配置し、30万の大敵を破ったのを皮切りに連戦連勝!劉邦の天下統一に最大の軍事貢献を果す。即ち
国士無双背水の陣の語源本家本元である・・・・。

そんな故事を示しながら、費詩は関羽の泣き所に言及する。
漢王(劉備)は1時の功績に拠り漢昇黄忠殿を高い身分にされましたが 然し、心中の評価が何で君侯 (関羽) と同等の筈が有りましょうか。
更に費詩は、義侠の男・関羽の琴線に触れる方向から話を持ってゆく。
そのうえ 王と君侯とは、譬えてみれば、1つ身体の様なもので、喜びも悲しみも 共にされ、禍いも幸いも 共にされる間柄でいらっしゃいます。
言われてハッとした処へ、最後に一言。
この私、君侯の為に考えますに、官号の高下や爵禄の多少を計って 気に為さるのは 適当では無い と存知ます。私は一介の使者、命令を伝えるだけの人間で在りまして、君侯が御受けに
ならないのならば、このまま帰るだけでありますが、ただ君侯の為に、この行為を 残念に思います。 恐らくは、後から悔やむ事に成りますぞ・・・・。


関羽ハ 大イニ 悟ル所ガ有リ、即刻、拝受シタ。


無論、この費詩の任務は、この昇進の伝達だけでは無かった・・・と、観るべきであろう。時は今、上げ潮に乗った劉備が、更なる
領土拡大を目指し、次の目標に狙いを定めた、まさに其の時点だったのでも在る。
北への進撃を準備せよ!』『準備が整い次第直ちに魏への攻撃を開始せよ!
遂に
北上命令魏軍撃滅作戦
           
発動されたのである!!

ーーウム、遂に其の時が来たか!!」 唯一の懸念材料だった左翼の 〔房陵・上庸〕2郡も、 【劉封】と【孟達】の手に因って確保されたと謂う。後は・・・・《呉の動き》である。かつては同盟関係に在ったと雖も、親劉備派の【魯粛】が死去してからは、何んな魂胆を抱いて居るか判ったものでは無い。迂闊に北上すれば、その空白を突いて背後を襲って来る事も充分に有り得た。北上するにしても、呉の奇襲攻撃に備える兵力は充分に残して措かねばなるまいーーだが此の5年の間、関羽は常に其の事を念頭に置いて、軍を増強補充して鍛えて来たのである。今、劉備からの出撃命令が届いたとて、何の不都合が在ろうや。
《見て居られよ曹操殿!間も無く この関羽雲長が推参仕らん!》

    見よや 疾風怒濤の如く
        雄渾
ゆうこんの旗 赫赫あかあか
    熱き血潮の 湧き立つ処  
        回天の意気 此処に有り
    限り有るらん 命なら
        進めや赤兎 諸共
もろともに 
    その名 轟く 我が義兄弟


そんな折も折・・・・江陵に在る関羽の元に、呉から使者が遣って来たのである。 「今さら何を言って来る心算じゃ!?」

「同盟締結を口実に、此方の様子を窺いに来た・・・・戦さ準備の進捗具合や北上の時期などの内情を探りに来たーーそんな処で御座いましょう。」
答えたのは、荊州軍
都督の任に在る 趙累であった。
普通なら”都督”とは謂えば全軍の”総司令官”である。だが実際には、上に別格の
関羽荊州軍事総督として最高位に在ったから、現実的には大した権限も持たず、単に諸将の代表格と謂った処である。但し、この趙累と云う人物ーー正史には唯、「都督の趙累」 と のみ2ヶ所に記されているだけで、字も 経歴・
事蹟も 全く不明な存在
に過ぎぬ。(故に 彼に関する本書の記述は、全てが
                   裏付の無い小説・虚構である事を予め 御断りして 措く。)

それでも矢張り、何と謂っても”都督”で在るからには年齢的にも人物的にも、一廉の者では在ったに違い無い。

「但北上を目前に控えた今たとえ其れが見せ掛けでは有っても友好の態度を取り付けて措く事は、我が方にとっても”損”に成る話では御座いません。適当に あしらわれるのが善ろしかろうと・・」

控え目に言上したのは、関羽の主簿 として 配されて居る
寥化で在る。こちらは未だグッと若い。30歳前後と見える。
( 少なくとも 44年後の263年迄は 主要部将として活躍する 次世代の人物 だが 「伝」は無い。)

本来”主簿”とは、君主直属の側近である。寥化りょうかがワザワザ
”関羽付き”の主簿で在る事から観ても、蜀政権内に於ける関羽の扱いが、如何に格別なもので在ったかが窺い知れよう。

「孫権めの事です。こんな時期に使者を寄越すなぞ却って狡猾の馬脚を現わした様なもので御座いますぞ。」

言ったのは王甫ーー字は国山・・・元は劉璋の家臣で州の書佐だった。人物評や論談を好む文官で綿竹の令を経て今は荊州の〔議曹従事〕の任に在った。 ( 以上は巻末の 『季漢輔臣賛』 の記述だが、
後の「夷陵戦」で死ぬ。即ち北上には従軍しない。唯これ1ヶ所だけの人物に過ぎぬ。)

「孫権とは、そう云う男なのですか、父上?」

其処には・・・40年前の関羽が居た。似ている。20歳を少し出ただけの、華の如き若者だった。 関羽には2人の息子と娘が居た。その
長男が、この関平である。弟の関興は 未だ元服
(15歳)前だから出仕はして居無い。
については、記さないのが普通だったから一切不明。
蓋し、第163節に記した通り、関平も亦、正史に3ヶ所・補注に2ヶ所、名前のみだけが記されて居るに過ぎず
父の関羽と「行動を共にした」点以外は全く判らない。従って当然、本書に於ける関平の描写も亦、全て創作と成る。

「若い癖に、腹のハッキリせぬ喰えん男じゃ。好きには成れん!」

君主で在れば仕方無かろうが、《若い時はもっと真っ直ぐで在るべきだ!》 と思う 父の気分が、少しく面に滲んだ様だった。

処で少し気に成る事が有る。此の席に居て当然の、同じ城内に住む重役2人の姿が見え無いのである。
1人は、出陣後の留守居役と成る南郡太守麋芳びほう
もう1人は、同じ任務の副官と成る荊州治中潘濬はんえいである。1人の欠席なら病気と云う事も有るのだが。まあ、関羽は全く気にも留めて居無い様だから、差し支えは無いのでは有ろうけれど・・・・。


案の定、使者の口上は両国の友好和親を求めるものであった。

「フム、まあ話を聞くだけは聞いて置くとしようか。」

この際、孫権側の真意は兎も角、たとえ表面上ではあっても、呉との友好条約を締結して措くのは 確かに損では無い。 少なくとも呉側が約定を破った場合には、大義と世論は此方のものと成る。関羽は、互いの腹の探り合いを愉しむ如き 余裕の心境で使者を謁見した。
「つきましては、我が御主君からの親書を御受け取り下さいませ」

差し出された孫権からの書状へ 鷹揚に眼を落とした関羽・・・・
処が、読み進む途中から、見る見る裡に 様子が一変した。手がワナワナと震え始め、こめかみには 青筋が浮き出し、赤ら顔が
更に朱を帯びて行った。

「おのれ〜小童〜!!
この関羽を愚弄するかア〜!!


吐き捨てると同時に、憤怒の形相も凄まじく、関羽は使者の襟首を引っ掴むや、相手を数メートルの向こうへ投げ飛ばして居た。

「あっ!!」 一座の誰もが制止する暇も無い一瞬の出来事だった。と、激昂した関羽は、更に使者の胸倉をムンズと掴むと、その横っ面を 2、3発平手で張り倒した。

「儂の娘を嫁に寄越せだと〜!!キサマ、一体この儂を誰だと思って居るのか〜!ふざけるんでは無いぞ!!」
もし関平らが総掛りで止めに入ら無かったならば、使者は其の場で確実に殴り殺されて居たであろう程の怒り様であった。 辛うじて止められたものの、関羽の憤怒は猶も収まらず、有りと有らゆる罵詈雑言が、呉の使者に浴びせられた。

何故に、関羽とも在ろう者が、これ程までに常軌を逸した暴挙・暴言を示したのか!?その理由や背景については、『正史』は何も記しては居無い。唯、事実としてのみ『
関羽伝』に次の如く在る。

権遣使為子索羽女羽罵辱其使不許婚
権、使を遣わし、子の為に 羽の女むすめを 索もとむ。
   羽、其の使を罵り 辱かしめ、婚を 許さず。


確かに外国との婚姻は政略であるし、”人質”以外の何ものでも無い。関羽は、我が娘を非常に可愛いがって居り、自身が修羅の生涯を生きて来て居たから猶の事、その娘の安らかな幸せを人一倍切望し、いずれは然るべき自国の相手に嫁がせる心算で在ったに違い無い。そんな愛娘を政略に使うなぞ言語道断!!況してや人質として他国に独り放り出すなぞ、する筈が無い。
とは謂え、此の時の行為は、誰が何う観ても、過剰反応である。同じ断わるにしても、もう少し大人の対応が為されても善かろう。そこら辺りの詳しい事情や関羽の心境は図り知れ無い。

( 已むを得ず本書は、孫権が”助平君主”との風評を流した事にしたが、我ながら安っぽい。)

まあ、それだけ相互不信・疑心暗鬼の度合が深かった証左ではあろうが、事情はともあれ、此の際、本書が寧ろ問題とすべきはーー晩年期と謂える関羽には未まだ、”自制心無き直情”が 払拭される事無く 存在して居た!と云う事実の方である。一般に人は老いると共に堪え性が失せるとも謂われるが、この場合は激情である。そこで想起されるのは・・・・後世に定着している関羽の人物像だ。 (専ら 『三国志演義』に由来するのだが)
関羽雲長と謂えば・・・威風堂々として、心は鏡の如くに澄み渡り常に沈着冷静、義を重んじて己を律すること鋼の如し。独り本国から離れて要地・荊州の存立を守護し続けた、
孤高!!・・・・とする。
だが「孤高」は、ともすると〔
独尊〕で在る事に陥り易い。この のち 関羽は、栄光と滅びの両道を、同時に 並行しながら進む のであるが、その過程を辿る時、この〔孤高か!独尊か?〕の問題は、真に紙一重の領域である事が如実に浮かび上がって来るのである。・・・・即ち関羽は、彼には最も相応しからざる、最も忌むべき事が原因と成って、亡びの隘路に追い込まれてゆく・・・のである。だとすれば当然の事として、その原因は今現在のこの段階から、関羽自身が自覚して居無い〔身近な処〕に、既にして生まれて居た!!・・・事になるのであるが・・・・。

《それにしても》と思う事が在るーーこの重大な時期だと云うのに関羽の周辺には、その相談相手と成る様な 「軍師」又は 「参謀」と呼べる人物が、誰も配置されて居無いのは何うした事か!?
誠に不可解で不思議な状況である。〔三国志の七不思議〕とも謂える、異常な姿である。初めに居た【
諸葛亮】は 5年前に益州へ乗り込み、残った【馬良】も直後に召し寄せられた儘である。
《せめて馬良だけは残して措くべきではなかったのか!?》
そのレベルの相手で無くては、関羽は耳を貸すまい。
同じ荊州に居るのは、「麋竺
びじく」の弟で南郡太守の麋芳びほうや荊州治中の潘濬 はんえい。公安に駐屯する将軍の 傅士仁 ふしじん
だが
明らかに格下であり、 自尊心の強い関羽が 意見を聞く様な相手とは言い難いし、成り得無い。実際には其の逆で、この3人は常日頃より関羽から単なる”配下”としてしか扱われて居無かったのである。『呉録』にはこんな記述があるーー『かつて南郡(江陵)城内で失火が起って軍器が些か燃えた事があった。関羽は此の事で麋芳を咎め為に麋芳は内心ビクビクして居た。』・・・・関羽は独断で殺生与奪の権を認められる 「節・鉞」 を有して居たから、気分1つで何んな処分でも行なう事が可能な絶対君主なのでも在ったのだ。では身近に在る主簿の寥化や都督の趙累は何うか?一言でいえば「伝」も立てられぬ様な人物に過ぎぬのだ
王甫に至っては精々県令の器・・・・。面と向かって大関羽に物の言える訳が無い。詰るところ、関羽は独りで全てに応対し、その判断を下す事に成る。劉備はそんな事は百も承知の筈なのに、何故か、善後措置を講じないで放置した儘である。
余っ程に 関羽を 高く買って居た!と云う証である。だがその反面、関羽の性格や長所欠点を最も良く識って居るのも亦、劉備の筈である。ーーいずれにせよ大作戦を敢行する際に、その作戦の重大さに応じた参謀・軍師が不在の儘なのは不自然極りない状態である。

まさか味方の軍中に、〔不協和音〕が醸成されて居たなど、ついぞ想いもし得無かったで在ろう。

況してや、実は・・・・
関羽の周囲が、その背後も左右も全て反感・遺恨を含んだ者達で満ちて居たなど、一体 誰が想像し得たであろうか!?

余りに偉大なる哉
孤高の人関羽!!
而して
君知らずやその独尊危うきを!? 【第231節】雌伏雄渾・剛勇の出撃(中原揺るがす関羽の北上)→へ