【第229節】
〔孫権の場合〕
鳴かず飛ばず・・・・この激動の2年間、65歳の曹操や 59歳の劉備が老骨に鞭打って自ずから陣頭に立ち、遠征・出征の日々の裡に在ると云うのに、1番若い38歳の孫権は全く音無しの儘。一体、何処で何をして居るやら居無いやらーー見た目では丸2年の間、【呉国】には何の動きも無い。
「あっ、ああ〜コラッ!!見つけましたぞ!又々こんな所で!!」
「ヤバッ、見っかっちゃた・・・・。」
鉄製の箱を被って 尻だけを出して居た孫権。ペロリと舌を出して頭を掻く。危険だからと 禁じられていた ”虎狩り” の現場を押さえ
られてしまったのだ。
無論、頭から湯気を出して怒って居るのは元老の【張昭】。
「ああ嘆かわしい!一国の君主たる者が、今の時節、こんな所で遊んで居る場合ですか!?一体全体、何を考えていらっしゃるのですか!?そもそも先代の孫策様は・・・・」
この張昭の 『そもそも・・・・』 が出たら、もう誰にも 途中では止められない。毎度お馴染みの長々〜〜い御説教が開演する。孫権は只管、頭上を嵐が 過ぎ去るのを 待つばかり。
2年前の 「濡須戦役」 で、曹操に降伏を申し込んで以来、孫権は本書から行方を晦ました儘、全く登場の機会さえ無かった。やっと久し振りに 顔を出したかと思えば、この有様・・・・張昭で なく とも気合を入れたく成って来る。
だが孫権のバヤイは、是れで好いのだーー『果報は寝て待て!』或いは『漁夫の利』 若しくは 『一石二鳥』 はたまた 『ニ虎の後釜』
いずれにせよ、今は
《死んだ振り大作戦》 の 実施期間中 なので在る。知って居るのは唯、都督の呂蒙のみ。元老の張昭も蚊帳の外だった。無論、動くに動けない事情は在った。言う迄も無い〔呉の宿痾〕=【山越】との果てし無いモグラ叩き・鎮圧平定戦の為であった。どうも、彼等の後で糸を操り、資金援助や武器供与を行い、煽って居るのは曹操らしい。常時、国軍の半数近くを持って行かれる。だから 呉の通常兵力は 公式発表よりもガクンと落ちる。全力を結集して動くには余程のタイミングを見計らねば、おいそれとは動け無い。だから孫権は、虎狩りでもしながら、その時節到来の少ないチャンスを確実に見極め、窺うしか手が無かった。・・・・とは言え、孫権には”自負”が芽生えて居た。国家経営の舵取りに自信が出て来て居たのである。ーー詰り、〔観えて来た〕 のだ!!
《俺こそが、この時代の仕切り人で在る!》
《同盟相手を選べるのは、この俺だけなのだ!》
もっとデカイ態度で言うならば、
《3国、2国、天下統一・・・・その方向の決定権は、
常に、この俺だけの手中に握られているのだ!》
その事が、〔曹操の漢中撤退〕の現実の中から、ハッキリと観えて来たのである。その時局認識を、ズバリ謂えば・・・・
最大最強で在る【魏】と雖も己1国の力だけでは
相手を滅ぼす事は 出来無い!
3国中最弱の【蜀】と雖も相手が1国相手ならば滅ぼされる事は 在り得無い!・・・だとすれば である。
逆も亦、真なり!!相手を滅ぼすには〔同盟する〕しか無い!!
《この俺が、どちらに着くか?
それによって、天下の趨勢は決まるのだ!》
自明の理ではないか。だが、不思議な事に、その事実は殆んど認識されて居無い。目先の攻防に振り廻され、その局地の勝敗に執着する余り、最も重大視すべき外交の根本原則が、時々の表面事象裡に埋没してしまっている。 だがまあ、それは却って【孫呉】にとっては ”勿怪の幸い” と 謂うもであろう。未だ相手に意識されて居無い裡に、密かに事を運ぶ・・・・。
ところで、孫権の偉さ!であるが誰も 余んまり誉めて呉れ無い。そこで 本書が 御情けで、少しは 褒めて措いてやろうと思う。ーー考えて見れば、そもそも孫権と云う君主は、その出発点から現在まで、終始一貫して、常に唯1人の重臣に頼り切って来て居る。【周瑜】然り 【魯粛】然り、そして現在の【呂蒙】も亦 然り である。 特に呂蒙に至っては無学文盲だった悪ガキを、孫権自身が薫教し育てた相手である。それを
寧ろ自分より有能だとして用いる・・・・それからも判る様に、孫権の偉さは
是れと信じた重臣に一切を任せ切る!!その一見無責任とも思われる不動の心である。そのアッケラカンとした全面委任の潔さ!である。・・・・これが存外に難しい。能力が有る者で在れば在る程、自分が前面に出たくなる。特に若い時代には尚更に難しい。 若い時は其れで好い とは思うが 筆者の拙い人生体験から、この歳に成って漸く、そう思える。無論、大方針だけはしっかり立てるが、具体的な詳細については、決して横から口出しない。少なくとも、周囲には其う思わせた。
もう1点は・・・・虚飾の無さ・虚栄心の無さであろう。之は最も難しい。人間誰しも己の栄達・栄誉を望まぬ者は無い。肩書や称号を身に纏い、他人から仰ぎ見られたいと願う。
孫権の場合は、君主で在るのだから鷹揚で居られる立場だった
とは言え、だからこそ逆に、もっと”上”を欲するのが人間の性・業と云うものであろう。ーー時 折しも 曹操の「魏王」就任に対抗して最弱の劉備迄もが 「漢中王」 を名乗る時流・・・・当然だれしもが孫権の 「呉王」 就任も間近い!!
と 観て居た。 だが実際には、孫権は自分から”王”を名乗る事をしない。それ処か逆に、平然として恥辱・屈辱を受け容れ涼しい顔をし続ける。寧ろ周囲の方が切歯扼腕、頻りに就任を勧めるが、御本尊は平気の平左・・・・
その背景には冷静で高度な政治的判断が在ったのではあろうがそれにしても見栄を張らずに、己個人の名誉欲を後廻しに出来る姿勢は、美事と言えよう。
良く謂えば、肝の据わった鷹揚さを持つ君主!!
厳しく謂えば、鈍重で 腹芸に頼る姑息な君主??
さて、この時期に行なわれていた密議・密謀の話であるが・・・「蜀」の密議は 養子の処遇に対する政治の非情さを示す身内の問題であった。そして 「魏」 の密議は、ネオコンによる
次代の構想問題であった。処が【呉】の場合だけは”密議”と云うより、俄に差し迫った秘密作戦の打ち合わせであり、直後にも勃発するであろう〔戦争に備えての密謀〕であった。これは今後の三国時代の行方を決める、格段に重要で、時局に直結する密謀と謂える。是れまで数多の戦役が行なわれ来たが、思えば全て〔1国 vs 1国〕のパターンであった。
然し今 孫権は・・・同盟相手を選択できるキャスティグボードを握る 《裏の主役》 として、その奥の手を行使しつつ、
三国志史上で最初で最後となる 〔魏 vs 蜀 vs 呉〕 の
3国直接激突の戦役 を画策・プロデュースしようとして居たのである!ーー【魏の曹仁】 と 【蜀の関羽】が、襄陽・樊城を舞台に激突する場面に、突如、横合から乱入して
”漁夫の利”を得る魂胆。”火事場泥棒”と謂われても構わない。
そもそも最初に火事場泥棒を働いたのは【劉備】だったと「呉側」は思って居る。 今、関羽が占拠している荊州中枢部は、赤壁戦直後に 周瑜と曹仁が 「江陵」攻防戦 を展開しているドサクサに紛れて、盗っ人猛々しい態度で獲得したものではないか!!
今度は此方が、其の時の”御返し”をするに過ぎぬのだ。文句は言えまい。信義を云々する資格は「蜀」には無いのである。
さて、いよいよ 《呉の密謀》 の場面であるが、我々は
その前に、此処で、呉国の現時点での ”版図”を確認して措こう。特に「蜀」と折半にして居る【荊州】の現状は、非常にナイーブで入り組んだ国境線を有し、〔三国志の火薬庫〕と謂い得る如き複雑さで在った。※尚、注意すべき点は、この時期に於ける”郡境”である。既に旧来の〔漢の行政区画〕は通用しなく成っていた。中でも呉の孫権は、頻りに郡県の再編成を行なっていた。詳細は不明だが、史書には突然に 新しい郡の名が幾つか出て
来る。特に関羽と接する国境地域には気を配り、〔漢昌郡〕を新設し、其処を【呂蒙】の直轄としていた。時代の趨勢。その一方「呉」には 他国には無い大きな
《伸び代》が在る事も亦、認識して置くべきである。南方・【交州】への進出・発展の可能性である。但し、その将来の楽しみも亦、荊州の南部と連なるのだから、矢張り最大の関心事は、3分割
されている荊州の行方である。※下の地図を参照にして戴きたいのだが、その分割・国境線は極めて錯綜していた。自然の河川に基いて
3国の勢力が相い拮抗し、未まだ何の国の版図とも言い難い、〔未確定の地域〕が可也の地域に及んでいる。
魏の防衛拠点は、漢水の両岸都市である「襄陽・樊城」で、以前から 「曹仁」が張り付いて居る。是れが魏と蜀の最前線だが荊州で最大の軍事力を有し、その心臓部とも謂える「南郡」を
占有して居るのは【関羽】であり、その本営を「江陵」に置いて居た。この両者の距離は200キロもあり、我々の想像以上に離れて居る。その緩衝地域は一応、関羽の支配下に在るが人心の動向は予断を許されぬのが実情。では何故、関羽はもっと北の地点に本陣を構え無いのか!?・・・・それには理由が在った。
「江陵」から東へ僅か100キロ、長江下流の「陸口」が原因だったのである。この「陸口」は辛うじて長沙郡に属す長江北岸の都市。詰り、呉と蜀の間で合意された荊州折半の取り決めに準拠した、呉側の”合法版図”で在った。そして此の「陸口」には呉の歴代都督が必ず臨戦態勢で駐屯し、常に関羽の動きを監視すると同時に、その動きを牽制して居たのである。だから関羽は北上後に背後に生ずる”空白”を突かれる事を警戒して、身動き儘ならぬ規制を受けて居たのである。5年も前に結ばれた呉蜀同盟は既に雲散霧消していたから、現在は互いに疑心暗鬼状態だった。そして、現在の呉の都督は・・・・
第3代目の【呂蒙】であった。
2代目の都督・【魯粛】も「陸口」で没した。その跡を継いだ【呂蒙】は直ちに陸口に赴いたが同時に〔漢昌太守〕をも任せられ、その食邑として漢昌・下雋・瀏陽・州陵の諸県を賜っていた。【関羽】と直に隣接する土地が、己の喰い縁と成った訳でもあるのだった。自ずと細心の注意を払い、必死の思いで任務を全うする事になる。そこら辺の、孫権の家臣操縦法は強たかである。呂蒙は魯粛の軍1万余を引き継ぐと、関羽に対しては先任の「魯粛」以上に懇ろな態度で、就任の挨拶をして見せた。言わずと知れる如く、魯粛は〔関羽贔屓〕・〔蜀贔屓〕の
〔呉蜀同盟推進論者〕で在った。ーー天下を窺う曹操が、北方に
健在で在る限り、呉には安泰は望めず、故に関羽とは手を携えて曹操と対抗すべきである!それが持論であり、呉の根本戦略と成って来ていた。だが、時局の激変を受けた《呂蒙の観方》は違っていた。
《関羽は驍勇である。心底では荊州全面支配を狙って居る筈だ。その遣り口は強引で、軍事力が全てを決めると思って居る。然も我等の上流に位置して居るのだから、隙さえ有れば領土拡張を狙って来るに違い無い。このまま何時までも、ジッと動かぬ筈は
絶対に無い。心を許してはならぬ相手だ!!》
是れから先は、その対・関羽の方針転換を呉の戦略・国是としなければならぬ!!・・・・そこで呂蒙は 腹案を練り上げると、強い決意を持って、孫権と 2人だけの会見を申し入れた。国家の命運を左右する密議・密謀である。
先ず、孫権の方から、〔呉の北上・徐州進撃〕についての諮問があった。魏と蜀が西方で激突している今、その間隙を突いて東方での版図を拡大する意図であった。だが呂蒙は反対した。
「今 曹操は遠く河北に居ります。そして徐州を守る兵力は取るに足らぬとの事です。往けば
自のずと勝てましょう。然し 徐州は、曹操の居る北方とは 地続きで、騎兵は 自在に 往来できます。
攻め取ったとしても10日も経てば、曹操が必ず奪い返しに遣って来ます。之に
対抗するには 7、8万で守っても、未だ 足りぬかも
知れません。無益な結果を招くだけでしょう。それよりも最善の策は・・・・関羽を倒し、長江一帯を根拠とし、我が国の
勢力とするのが得策で御座いましょう!!」
「ーーうん、矢張り、北方よりは長江じゃな。」
「魯粛殿は曹操を恐れ、関羽を頼る態度を採って来ましたが今や時局は大変容しています。関羽とはキッパリ手を切るべきです!
遂に呂蒙は、〔本題〕に入ってゆく。
「そんな事をして大丈夫だろうか?」
孫権の懸念に対し、呂蒙は練り上げた腹案を示して説得する。
「征虜将軍の孫賁殿は「南郡」を守り、潘璋は「白帝」に駐屯。
蒋欽は水軍1万を率いて遊軍と成り、長江を往来して警戒に
当たります。 私は「襄陽」まで 進みます。 かく致さば、曹操を
恐れる必要などは全く御座いませぬ。況して関羽を頼るなぞ
不用な事です。」
「ーーウム、成る程な・・・・。」
「それに関羽は、君臣ともに 狡猾な 謀り事が 得意です。」
是れは呉国の者なら共有する思いである。赤壁戦直後の火事場泥棒的な行為、その後のアクドイ荊州全面占拠。此方との約束を平気で踏み躙ったではないか!その後も言を左右にし益州を乗っ取った。・・・史実が其れを如実に物語っている。
「蜀の主従は、反覆常無い輩ですから信頼は出来ません。関羽が鉾先を此方に向けぬのは、英明なる我が君の下、我ら旧臣が健在で在るからで御座います。今の裡に関羽を何とかせねば、我等が倒れた後では手遅に成りましょう。」
ジッと聴いて居た孫権は、その呂蒙の言葉に深く頷いた。
「尤もである。その方針で行こう。・・・・関羽を除こう!」
「我々の代の最終目的は 荊州の完全奪取で御座います。「蜀」には可哀そうですが、以後は益州盆地だけの国に成って
貰います。詰り 関羽が北上して「魏」と戦いを始めたら、その隙を突いて、その後方の根拠地を急襲!! 引き返す場所を奪い、
根無し草 として 討ち取ります。そして いま 関羽が占有している全ての領土を、我が国の版図に収めるので御座います。」
「目的は我が意に叶っている。じゃが 関羽の事だ。今迄もジット動かぬのは その後方を襲われる事を、厳に警戒して居るから
ではないか?」
「はい、その事は間近な現地(陸口)に在る私自身が最もヒシヒシと実感して居ります。関羽も、私が直ぐ背後に駐屯して居る事に
さぞや厄介視をして居ると想われます。」
「であろうな。我が国最強の都督軍が、直ぐ背後に張り付いて
居たら、北上どころでは無いわな。」
「処が、その私が再起不能の急病と成って引退・帰国し、代りに名も知らぬ若僧が平身低頭して挨拶に遣って来たら、どうでしょうかな?」
「ウム、北上のチャンス到来と見るだろうな!」
「まあ其処ら辺の事は私に御任せ下さい。其処で殿には2つの事を御願い致します。1つは曹操に対して。1つは関羽に対してで御座います。」
「曹操に対しては、今の姿勢の儘で善かろう?」
「はい。私の力不足の為に、殿には屈辱的な態度を御取りさせてしまい誠に申し訳無く思って居りまする。いま暫く御辛抱下さい。必ずや後には、大きな勝利を得て見せまする故お許し下され。」
「なあ〜に、気にするな。儂は此うやって ゴロゴロして居る方が
性に合っておる。頭に玉スダレなんぞ載っけたら、こうして腕枕で寝っ転がる事も出来んしな。」
「そう仰って戴くと、些か気が楽に成りまする。」
「まあ兄上だったら、きっと曹操より先に”呉王”を宣言して居られたかも知れぬが、儂には 其んな事は 何うでも構わん。・・・・で、
曹操に対しては 取り合えず、 『関羽討伐に お味方する!』 と、告げるのじゃな?」
「左様で御座います。但し、難しいのは 其のタイミング で御座います。早過ぎては増援派兵を要請され、こちら迄も両者の戦いに巻き込まれます。私の観る処では、関羽の強襲・突破力は最初は凄まじいもので御座いましょう。 必ず魏軍は劣勢となり、窮地に追い込まれる場面が生じる筈です。その時に申し込めば曹操は戦闘に勝つ事だけで満足し、我々が 関羽の領地を奪う事には
眼を瞑って黙認するでしょう。元々、魏の版図を奪う訳では無いのですから、我が国の目的は成就されるのです。」
「よし、その点は任せて呉れ。曹操に対しては些か面白い考えを思案中の処じゃ。ま、見て居れ。 ・・・・で、関羽 への対応の方は
何じゃ?」
「御子息様の嫁に、関羽の娘を所望して下され」
「ーー何!関羽と好みを通ずる?・・・持ち掛けて置いて、スカを喰らわし、関羽を激怒させるのか??いや、辻褄が合わんな。」
「はい、此方から関羽を怒らせてはなりませぬ。関羽に対しては飽くまでも下手に出なければなりませぬ。」
「かと言って、まさか本気に婚儀を成立させる心算では有るまい?それに、もし
関羽が応諾して来たら何うするのじゃ?」
「大丈夫で御座います。関羽は絶対に応じません。却って激怒
する事に成りましょう。尊大な気質を持つ関羽の事。チョット細工を施せば、易々と激高するに違い有りませぬ。」
「ーーさて、その仕掛けとは何じゃ?参った!儂には判らぬ。」
「殿には・・・息子の嫁には必ず手を出すどう仕様も無い助平君主好色主君に成って戴きます。それを関羽の陣営で吹聴させます」
「ゲゲッ、それは痛し痒しだなあ〜・・・・。」
孫権にしてみれば、冷や汗モンの提案で在った。その行状に、
心当りは大いに在ったからだ。流石に
其こ迄は して居無いが、
”好色”で在る事は人後に落ちない。まあ若いからソッチの方は盛んで在った。
「まあ此の際、仕方無かろう カナ・・・・。じゃが、関羽とは、そんなに
直情型な精神構造の持主なのか?本当に引っ掛かるのか?」
「九分九厘大丈夫で御座います。私は此の2年の間、関羽と云う人物を徹底的に調べ上げ、その心の動きを掴む事には絶対の自信が有ります。恐らく今では本人以上に関羽と云う人物を識って居ります。」
『呂蒙が魯粛の後任と成り、陸口に遣って来た当初、表面的には以前にも増して手厚い心遣いの元に関羽と友好関係を固めた』
ーー( 正史・呂蒙伝 )ーー
「お前が 其うまで言うのであれば、間違い有るまい。 よし、早速にも 其の手筈を整えよう。・・・・まあ、それにしても関羽は大変な男に惚れられた ものよなあ〜!!」
「関羽は誇り高き人物です。そして何よりも先ず己の名を惜しみます。ですから私的な事の判断を為す場合、感情が先行しがちです。公的な面では冷静沈着な名将では在りますが、娘の婚儀の様な私事に於いては、飽くまで己の矜持に拘わります。」
「ま、何事も過度や行過ぎは身を滅ぼす・・・と云う処か。」
「いずれにせよ今、此方が下手に出て措く事は、この後の展開
にも、必ずや好ましい結果を齎す事と成りましょう。つまり、此の
婚儀の申し込みの眼目は、関羽に 自分の方が 優位に在る と
思わせ、此方は同盟を願って居る と思わせる事なのです。」
さて、その同盟であるが・・・全くの言葉通りに対等の立場で盟友関係を構築し得る相手は唯1つしか無い。【劉備の蜀】となら其れが可能である。いや寧ろ、多少は優位な立場で同盟を結ぶ事が出来る。・・・・然し、相手が【曹操の魏】!となると、事は俄に複雑になる。何せ相手が強大に過ぎる。もし手を結ぶとしても、対等な立場で居られる訳が無い。根本的な姿勢として、その風下に立つしか仕方無い。「同盟」とは文字面だけの事で、実際には属国化させられる事に成る。とは言え、曹魏が丸ごと孫呉を呑み込む事も亦、無理と謂うもの・・・・だから孫権の選択肢としては、
「同盟」では無く、その時宜に適合した〔条約の締結〕を選ぶ事となる。ーーそして現在 (2年前の濡須戦役以来)・・・・
孫権は曹操に対して 『何事も御指図に従いまする!』 と降伏を申し込み、曹操も 『まあ好いだろう』程度の有耶無耶さの儘に流れて来て居たのである。
2年前時点での曹操は、魏王に成ったばかりで身辺繁多。特に 劉備が漢中へ触手を伸ばし始めた時期だったから、孫権が大人しくして居るなら、それで十分だったのである。そんな状況の下で在ったから曹操も其れ以上の要求はせず、互いに中途半端で、非公式な 一種の同盟状態・・・・即ち、《死んだ振り作戦》が 許容されて来て居たので在った。ーーだが、あの「濡須戦役」から 2年、今し時局は大きく劉備の上げ潮状態に変貌し、漢中の支配権・国境線は確定!!俄に
風雲は 急を告げ始め、次の焦点は、〔荊州の争奪戦〕であった!!
「漢中」 くんだりの 争奪戦なんぞなら、孫権には全くの無関係。虎狩りでも 女漁りでも 昼寝でも自由気儘に遣り放題であった。
だが事が荊州の問題と為らば己にも火の粉が降り掛かって来るまして3国の国境線が入り乱れ、国家不沈に関わる豊饒な土地の争奪となれば、もう有耶無耶な《死んだ振り作戦》は通用しない。曹操とて本気モードで同盟条約の締結を求めて来る筈だ。そこで孫権は、その本領を発揮する。自分が対等の立場では無い事を十二分に自覚した上で、”天下仰天の策”に出る。
《どうせ風下に立って結ばねばならぬ同盟なら、相手から突き
付けられる前に、此方から サッサと申し込んでしまおう。》
然も、家臣団が唖然・愕然とする様な オマケ付き!!
《ええい、思い切って”是れ”ならどうじゃい!!》
その結果、思い着いたアイデアは・・・・な、な、何と・・・・
私 を”家来”に して下され!であった。
本来なら堂々と、〔呉王!〕 を称号して構わぬ 孫権であると
言うのに、敢えて丸っきりの逆方向、曹操の臣下に成る!と誓うのだ!
「ワッハハハハ!いっそミミッちく無くて、気持が好いわい!!
是れぞ正しく、孫権流の 『孫氏の兵法』 じゃア〜!!」
もう殆んど焼クソ状態??誇り高い呉の家臣団にとっては、正に驚天動地のサプライズ!?トンデモナイ事である。「江東の虎」と恐れられた父・【孫堅】、「小覇王」と謳われた兄【孫策】で在れば絶対に思いも寄らぬ発想である。いや、眼の玉を引ん剥いて、「この不忠者めが〜!!」 と激怒し、提案した相手を其の場で
即刻、手討ちにしていたであろう。
「恥を知れ!キサマには、”誇り”と云うものが無いのかア〜!」
この破廉恥とも屈辱とも恥辱とも謂える、最低の称号・・
即ち、孫権は、曹操の 『藩臣』と成る!のであり、
【呉国】は、【魏国】の『藩国』と成る!のである。
ちなみに、『藩国』・『藩臣』とは・・・殆んど孫権の”造語”であろう。
又、孫権が『藩臣』と称した”時期”については『正史・呉主伝』に
『魏の文帝が帝位に升って以後、孫権は其の命令を奉じて藩臣と称した』とあり、その見返りに曹丕は、孫権を 『呉王に封じた』 とある。又、『魏略』では・・・・曹操が長安から洛陽に戻った時に、『孫権は上奏文を奉り、自ずから臣と称し、天命について説いた』 とする。いずれにせよ、孫権が公式に、この屈辱的な称号を持ち出すのは もう少し後の事。だがその発想・その選択の根本と成る覚悟を定めたのは、既に此の時点であった に 違い無い。但し、孫権は同時に思った。
《いや待て待て。この奥の手は、未だ切り札として残して置こう。
曹操が本当に窮地に陥った時にこそ使うべきじゃナ・・・・。》
かくて孫権は周囲のブーイングも物皮・・・・一時の恥辱など度返して、その向うに在る大魚を狙う方針を定めたのである。そして機先を制して、曹操の元へと使者を送り込んだ!!
曹操、その書状を見て、思わず苦笑いをした。そして家臣達に廻し読みさせた。孫権からの書面には、次の様な事が書かれていた。
『今後も是れまで通り、何事も全て曹操の指示に従って動く事を誓う。そしてもし自分が曹操の為に手柄を立てた場合には何うか正式な将軍号と荊州牧の地位を与えて戴きたい。できれば爵位も賜りたい。然しながら本音を申せば、自分は”呉王”の地位を拝命したいのである。だが現在は曹操の地位が未だ魏王に過ぎ無いから、それも叶わぬ。なぜ皇帝の座に就こうと為さらないのですか!?その実力も世論も十二分に具えて居られるのに、謙遜の必要など全く有りませんぞ。即刻、魏帝に即位されるべきです。呉の国は曹操様の皇帝即位を首を長くして待ち望んで居ります。
そして是非、私に呉王の位を与えて戴きたい。明日にでも皇帝
即位の喜ばしい報告が届くのを願って居ります。忠良なる臣・孫権より』
「この童ッパめ、儂を炉火上に座らせる魂胆か?
世に有名な、晩年期に於ける曹操の心境を示す言葉は、この時に発っせられたと 『魏略』は記す。そして其の曹操の言葉を知った侍中の【陳羣】と尚書の【桓階】は直ちに上奏文を認めて述べる。
『漢王朝は安帝以来、政治が王室から離れ去り、皇統は屡々断絶しました。現在に至っては単に称号が存在して居るだけで1尺の領地、1人の人民も 漢のものではありません。 漢王朝の命運は 久しい前に既に尽き、期限は既に終っており、今日に始まった事では御座いません。だからこそ桓帝・霊帝の時代に、神秘的な図象や予言書に明るい者達は皆、『漢の持つ五行の気は尽き果て黄徳を持つ家が興起するに違い無い!』 と申して居りました。
殿下には 時運に応え、天下の10分 の9 迄を 保有されながら、
漢に服従し仕えて居られます。民草は希望をかけ、遠きも近きも怨み嘆いて居ります。それ故にこそ、
孫権は遠方に在って臣と称して来たのであり、是れは 天と人の
感応が、気を異にしていながら、同じ声を挙げている事で御座います。臣等が愚考いたしますに、「虞」と「夏」は謙譲の辞を用いず「殷」と「周」は遠慮せずに反対者を処罰追放しました。
天意を畏れ、命運をわきまえられ、皇帝即位を 辞退される事の無き様に!』
更に『魏氏春秋』は、【夏侯惇】の進言をも記す。
「天下の人は悉く、漢の帝位が既に終わりを告げ、別の時代が今起ろうとしている事を存じて居ります。古代以来、民の災害を除き人民の帰服を受ける人物こそが人民の主人なのです。
いま殿下には 30余年の間、戦いの裡に過ごされ、功業恩徳は庶民にも明らかで、天下の人々の帰服する処です。天意に応え、民心に従うのに、一体
どうして躊躇われるので御座いますのか!?」
王は言った。
「論語に謂うではないか。『自分の生き方を示す事、それも政治
なのだ』 と。 もし 天命が儂に在るとしても、
儂は 周の文王 と 成ろう!」
是れも亦 後世に有名な、曹操の 〔覇王どまり宣言〕・〔皇帝即位拒絶宣言〕と されるが、いずれも
『正史』 の記述では無い。だが、まあ、それなりに、曹操の心境を上手く表わしてはいよう。
さて、曹操から小僧っ子扱いされた儘の無冠の孫権だが
いよいよ 直接の敵である〔巨大な相手〕に対し、その策謀の第1段階を仕掛ける。曹操への諂いも、全て其の為であった。
即ち呂蒙に言わせれば「驍勇」・・・荊州の命脈を制して居る豪将そして1部民衆の間では既に〔守護神〕〔戦いの神〕 として 崇められつつある男・・・・その娘を我が子の嫁に欲しい!と申し込んだのである。
一体、どんな反応を示すのか!?まさか密かに己への包囲網が敷かれつつ在るとは、夢想だにして居無いで在ろう。
生ける英雄伝説 関羽雲長よ!
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