【第227節】
遂に〔漢中王〕を称する事と成った劉備玄徳・・・・・
その感慨は一入ひとしおで在った・・・・思えば、23歳で関羽・張飛の義兄弟と共に、青雲の志を抱いて 故郷を出てから35年ーー齢
既に59歳。天下を相手の意気込みだけは良かったが、実際は 放浪 と 逃げ捲くり
の連続であった。そして自分が頼った相手は悉くが滅び去り、今この世に生きて居る者とて無い。残ったのは曹操のみ。だが、とても同列には語れ無い巨大で遙か雲の上の存在だった。歯牙にも引っ掛けられない様な大差が着いて居た。片や 中国大陸の北半分を領有し、今にも天下を併呑する寸前
だった。その段階の劉備は寸土も持たぬ居候に過ぎ無かった。つい昨日僅か10年前の事であった。ーーところが、たった1人の青年との邂逅が全てを変えた。
その人物の名は・・・・諸葛亮孔明!だが、現段階では、彼の本当の巨きさを識るのは唯、劉備独りだけで在った、と謂って良い。何故なら諸葛亮は、凡人の眼に見える様な形では未だ何1つとして派手がましい武勲も功績も挙げては居無かったあの曹操ですら、その存在に気付かぬ程に、深く静かに、而して全ての大戦略を主君・劉備の為に施し続けて来て呉れて居たので在る。己個人の名声などには 全く拘らず、ひたすら 冷静 かつ
大胆な英断を、その時に応じてズバリ、ズバリと推進し、その場に最も適した人材を登用、活躍させて来て居たので在る・・・・その御蔭で今、何と曹操にも勝ち遂に《王》とまで成った。こんな日が本当に巡って来るとは夢の様であった。言う迄も無く、その夢の様な急展開は、全て諸葛亮の頭脳から産み出せれ、実現されたもので在ったーー
※ 後世の者達、特にその偉大さを識る 熱烈な 孔明ファンは、そんな 諸葛亮の姿に
切歯扼腕し、つい思わず此の時期の中に、凡人でも
眼に見える形での勲功を、《虚構》と知りつつも挿入したく成る程である。だが実際、当の本人が名望なぞ望んで居無いのであるからには、筆者も 我慢 して その誘惑に克たねばならぬ。
さて、その御蔭で漢中王と成った劉備・・・事実上の蜀国王として、また曹操の【魏王国】に対抗する【蜀王国】として、その名と格式に相応しい新たな機構作り・人事に着手した。ーーとは謂い状、何分
未だ戦時下での 慌しい状況の中、また 人材に限りの有る時点での事だった。だからその及ぼす範囲も規模も”急場凌ぎ”の観は否めない。
尚、厳密な意味で謂えば、劉備 (蜀)が此の時、曹操 (魏)の向こうを張って(真似て)
急遽設置した官位の多くはフライングである。曹操魏は漢王朝を直接的に”奉戴”して居たが故に、王国と帝国との線引きが曖昧に成っており、本来なら朝廷の官職で在る地位にも曹操の家臣が入り込んで居ると云う「異常事態」に在った。だから、その点を考慮もせず、そっくり魏を真似ると、簒奪を意識して”前倒し”を行なっている曹操とも、何ら変る事の無い異常な官職機構が出来上がる結果と成る。まあ、そんな事を言っていたら永遠に”王”に成る事は出来無いから、気にしないのが1番ではあるのだが・・・・
先ず、所謂 〔大官〕!と呼ばれる格式ある官職を設置した。
いずれも 《朝廷用の官職》 である!ーーと云う事は、蜀の国も、矢張り、魏国の曖昧さに託けて、実は内心では、明らかに、
〔劉備の皇帝即位〕を念頭に置いて居た!!事が判る。早晩、魏が漢王朝を簒奪する事を予期し、間髪置かずに〔対抗即位〕の構えを備えて居たのである。巷間いわれる如く、
「已む無く受動的に即位した」 のでは無く、最初から能動的に、
積極的に蜀王朝の樹立を企図して居た!のが真相なのである。
シビアな現実が、先ず在ったのである。誰だって皇帝に成りたいのが人間の人間たる所以であろう。綺麗事だけでは済まぬのが歴史の実態なのだ。とは謂え、【魏国】に比べたら不揃いで手薄だが仕方無い。 ( 白字は 「伝」の無い 来歴不明者である)
太傅たいふーー許靖きょせい 太常たいじょうーー頼恭 らいきょう
光禄勲こうろくくんーー黄柱 こうちゅう 少府しょうふーー王謀 おうぼう
侍中じちゅうーー廖立りょうりつ 尚書令ーー法正(護軍将軍)
ちなみに表向きの政権内の《席次》だが・・・君主の劉備を別とすれば、bPが許靖(太傅)、bQは麋竺(安漢将軍)、bRに諸葛亮(軍師将軍) 以下、bSに頼恭(太常)、bTに黄柱(光禄勲)、bUに王謀(少府)・・・・と云う順番になる。諸葛亮は飽くまでトップには顔を出さない。次は国王の前後左右を守る〔4大将軍〕を置いた。
前将軍ーー関羽雲長、 後将軍ーー黄忠漢升
左将軍ーー馬超孟起、 右将軍ーー張飛益徳
実力と戦歴から謂えば当然就任すべき趙雲子龍の名が無いが彼には涙を飲んで貰う事にした。出身地のバランスを考えねばならぬのである。と同時に
逆の意味で、譜代の趙雲ですら据え置かれたのだから・・と云う不満抑制効果の意味も含む政治的配慮が為された。
又 もし、この中に趙雲が入ってしまうと、如何にも劉備の蜀が、外部からの乗っ取り政権で在る事を思い出させ、明ら様に過ぎる。まあ趙雲なら分別して呉れよう。
以上は所謂 御祝儀みたいな「御祭り人事」であったが、そんな中実体を伴い、人々の耳目が注がれたのは・・・・新たに獲得した〔漢中太守〕に一体誰が選ばれるか!?と云う事であった。
劉備が如何に「漢中」を重要視していたかは、成都の自分の館を起点として、漢中への入口である「白水関」迄を400に区切って亭と砦を置き、所謂《駅伝の制》を開設させた事からも知れる。
喧しい大方の予想では、直接に魏軍と対峙する 最前線の地で
在る事だし、武勇優先の人事が為され、然も劉備が最も信頼して居る人物ーー旗挙げの最初から苦楽生死を共にして来た3義兄弟の弟分・・・・即ち張飛益徳が選ばれるだろう!と 観られて
居た。兄貴分の【関羽】が独り荊州を任されて居るのだから其の「釣り合い」から言っても最も有り得る任命だと思われたのである
処が開けてビックリ!恐らく誰1人も予想しては居無かった仰天人事が飛び出したのである。ーー何と、譜代先輩を差し置いての大抜擢を受けたのは・・・・魏延だったのである!!
『正史・魏延伝』の記述ーー『魏延は字を文長と言い、義陽郡の人である。(荊州・樊城の東方、安昌)1隊長として先主に随行して蜀に入り、たびたび戦功を立てたので、牙門将軍に昇進した。先主は漢中王に成ると、政庁を成都に移したので、漢川の抑えとして、重要な将軍を用いる必要があった。人々の評判では必ず張飛が任用されるだろうと言われ、張飛自身も亦、内心そうだろうと自認して居た。処が先主は意外にも【魏延】を抜擢して〔督漢中・鎮遠将軍〕に任命し〔漢中太守〕を兼務させたので、1軍みな驚いた。
先主は群臣を集めた席で魏延に質問した。 「いま君に重任を委ねるのだが、君は任に当って何う考えて居るのか?」
「もしも 曹操本人が、天下の兵を挙って 押し寄せて来たならば、大王の為に之を防ぐ所存。又、副将が率いる10万の軍勢が来るならば、大王の為に之を呑み込む所存です!」
先主は「善き哉!」と称し人々は皆その言葉を美事だと思った。』
考えられる主な理由ーー1つは政治的配慮。2つは魏延自身にその器量が具わって居た為。3つは逆に、張飛には何等かの不具合が在った為・・と想われる。この中で最も重大な理由は矢張その最有力だと観られて居た【張飛当人の不具合】であろう。
国士無双と謳われる張飛益徳ーー今年52歳。武勇と戦歴は文句無し!!関羽がナンバー1なら、張飛がナンバー2で在る事に、天下の誰しもが異議を唱える事とて無い豪勇で在る。だとすれば、彼の不具合の理由は別の処に在った事になる。
ーー『正史・張飛伝』に曰く、
『初飛雄壮威猛亜於関羽。魏謀臣程c等咸称。
羽・飛萬人敵也。羽善侍卒伍而驕於士大夫。
飛 愛敬君子 而 恤小人。
先主常戒之曰。 卿刑殺既過差。又日鞭木過健児
而令在左右。此取禍之道也。飛猶不悛
『初め飛、雄壮威猛、関羽に亜つぐ。魏の謀臣・程cら咸みな称していわく、羽・飛は 万人の敵なり と。
羽は 善く 卒伍を侍まちて 士大夫に驕り、
飛は 君子を愛敬して
小人を 恤あわれまず。
先主常に之を戒めて曰く、
「卿 刑殺すでに過差す。(度を越えて居る)又、日に健児を鞭木過べんたして而も左右に在らしむ。これ禍を取る道なり」 と。
飛、猶お 悛あらためず。』
又、この2年後の劉備の言葉にも、
『それ誕おおいに天威を将おこない、
服したがえるを 柔らぐるに 徳を以ってし、』
疚やましむるに匪あらず、棘すみやかにするに匪あらず。』
・・・・何事も徳義に拠って行なえ!害毒を与えてはならぬぞ。厳しく責め立ててはならぬぞ!!ーー人の上に立つべき者の心構えを口を酸っぱくして諭し、弟の行状を嗜め続ける、悩める劉備の姿が其処に在る。
『正史の伝』中に、ここまで書かれた張飛の欠陥・・・・
戦場と云う極限状況下では寧ろ称讃されるべき資質ーーそれが張飛の場合は、日常の人間関係の中でも 区別される事が為さ
れずに、その儘の猛々しさで振舞われ続けた・・・・部下への思い遣りの無さ・傲慢さ・そして直ぐカッとしての ドメスティック バイオレンスーー酒が入れば尚更の事、もう誰にも止められ無かった。(既述の如く) その以って来る真因は、張飛と云う男の、己に対するコンプレックスの捌け口で有ったに違い無い。
兄貴分関羽雲長は、既に旗挙げの時点で仁侠渡世の豊富な人生経験・場数を踏んで来ていた。だからズシンとした【求道ぐどうの心】・【己のバック ボーンと成る矜持】・【生き方の理想像=人生観】を、ほぼ完成しつつあった。・・・・その帰結として、今や関羽には不動の威貌が具わり、無言で人を畏敬させる様な貫禄・人間力が具わる。故に、己に自信の有る関羽は目下の者には温かく、労わりの心を以って接し、部下を大切にする部将と成って居た。ーー但し 羽ハ 善ク卒伍ヲ侍チテ、士大夫ニ 驕ル 己と同格や格上とされる者達に対しては、敢えて横柄・倣岸・驕慢な態度で接し、自意識・矜持の過剰さを前面に出して恥じ無い
一方の張飛益徳は、旗挙げ当時未だ17歳の無学な小僧っ子に過ぎ無かった。 未だ未だ青く、「己の事だけで精一杯」・・・・と、謂った処であった。他人を人間力だけで御すにはガキに過ぎた。だから劉備や関羽の様に、風格や器量で人を動かす事が出来ずつい安直に、己の武(量)で威圧して従わせるせる事と成らざるを得無かった。ーーそして・・・・いつしかそれが身に着いてしまい、張飛の人格そのものと成って来てしまって居た。そうした個人的な事情の上に又、張飛が生まれ育った時代は、武人への評価が未だ最底辺に置かれて居る時代で在った。この益州を得た直後でさえも尚、大名士の劉巴は 諸葛亮の伴をした張飛を無視して一顧だに肯んぜ無かった。その余りに有名なエピソードが全てを物語る。ーー『零陵先賢伝』・・・・
『張飛は劉巴の元に泊まった事が在った。然し劉巴が全く話掛け無いので張飛はカンカンに腹を立てた。諸葛亮が場を執り成して劉巴に言った。「張飛は全くの武人では在りますが、足下を敬慕して居ります。御主君は今まさに文武の力を結集して大業を定め様として居られるのです。足下は高い天分を具えて居られますが少しは我慢して下され。」 するや劉巴は 言下に言い放った。
「大丈夫が此の世に生きてゆくからには当然、四海の英雄と交わるべきです。何で軍人風情と語り合う必要が有りましょうや!!」
張飛は若い頃から 〔貴族コンプレックス〕 の代表選手だったので在る。詰り庶民階層出身の「成り上がり者」が抱く、上流知識階層への畏敬と憧れが彼の生涯を支配して居た。武勇・腕力に拠って其の名が天下に轟けば轟く程、彼は自分が其の士大夫層に受け入れられる期待感を募らせた。それが〔青菜に塩〕の如き迎合の姿勢を取らせた。国士無双の此の俺様が!である。自身が其の卑屈さを最も理解し、恥じて居た。だから其の裏返しとして、自分より下位の者に対しては殊更に、必要以上の権威を押し付けて見せては、己の地位の確認行動を取った。ヤクザ集団なら通用もしようが其れは若い荒くれ時代の事。その原風景を何時までも引き摺った儘、己のスタイルを変えられ無い。・・・単純 とも不器用とも 純粋とも 謂い得る、彼の性向・人格の1面である。その上に
生来の粗暴さが加わり、更に大酒呑みの狂乱が伴うとしたなら、部下にとっては 堪ったものでは無い。権威と 腕力を 身に纏った悪魔とも映ろう。上官としては最も毛嫌いされ、忌避されるタイプで在る。とてもの事その人格を慕う様な部下は現れまい。どころか恨みや憎しみさえ抱かれ兼ねぬ。その後の史実から憶測すれば既に今の時点で、張飛の〔酒乱傾向〕や、〔人格破綻の危惧〕が顕在化して居たとも想像される。
少なくとも劉備の眼には、《張飛に漢中を任せるのは無理だ!》
との状態に映ったのである。・・・・かと謂って【趙雲】を任ずれば、張飛の欠点を 天下に公表する様なものである。張飛の面目は
丸潰れ・立つ瀬が全く無くなる。義兄弟を、そんなヒドイ目に会わせる事など劉備に出来る筈も無い。 だとすれば、いっその事、思い切って、新人登用・実力主義を優先させた と思わせる方が
余程マシである。ちょうど其れに適合する人物としては【魏延】が居る。後発の家臣達の励みにも成ろう。ーーそれが此の、
〔大抜擢人事の真相〕では無かったのではなかろうか・・・・。
仕上げは、王個人としての責務とも謂える、家族の地位の格上げであった。〔王〕には、それに釣り合う正妻の〔王后〕が居無くてはならぬ。王は、王家は、王国内の全ての夫婦・家族の模範 で在るべき
なのでも在った。夫にはその地位に見合った正妻が居るべきである。男は死ぬまで独身で在ってはならず、死ぬまで正妻を置くべきである!それが人の道である!とするのが士大夫・名士階級の社会規範・道徳律 (礼記の規定) なのであった。
ちなみに、《劉備の夫人!》 と言えば・・・・我々に最も馴染みが深いのは、何度も夫に置き去りにされ、人質の憂き目に遭わせられつつも、終には一粒種の【阿斗=劉禅】を産んだ、”糟糠の妻” とも言うべき女性・・・・
【甘かん夫人】である。だが、この219年の栄光の時点では
既に彼女は此の世の人では無かった!と想われる
・・・その生没年は明記されて居らず、趙雲が阿斗を救出した記述の直ぐ後に、『后は亡くなり 南郡に
埋葬された』 とのみ続く。そして蜀の地に移葬されようとした時に劉備も没すのであるーと云う事は、甘夫人は、ダメ夫が「蜀建国」を果すのを見届ける事も無い儘、終に その波乱万丈の生涯を、荊州の地に果てて居たのである。
次々に 眼の前に現れる”正妻”に、唯々諾々として仕えながら 、実際には”奥”を切り盛りしつつも 最後まで 〔側妾〕の地位に
甘んじ、劉備の苦しい時代だけを共に過ごして逝った女性・・・・
劉備にすれば、今の国王姿を是非にも見せて遣りたかった最愛の女性。その成功を 心の底から喜んで呉れる筈の女性を失って居た のである。
のち、諸葛亮の進言によって〔皇思夫人〕と云う、如何にも彼女に相応しい諡おくりなが与えられる。更には 〔昭烈皇后〕の諡号しごうを贈られ 夫の劉備と同じ墓陵に”合葬”されるが、それは未だ未だ先の事となる。即ち彼女は死んで後ようやく、我が子の地位が貴尊と成った事に因り、初めて「伝」を立てられ、辛うじて後世に”名”を残す栄誉を得た、数少ない女性の1人と成るのである。ーー然りながら、三国時代の
「君主の妻」 としては、最も幸薄かった女性の典型として、彼女の面影を偲んで措こう。
諸葛亮の追悼の辞に、『皇思夫人は 品行うるわしく、仁徳を修められ、その身を慎しみ、しとやかな方で在りました』との1節が在る。だが其れは、歴史の波間に翻弄され、夫の行動に只ひたすら付き従い、儚く消えて逝くしか生きる術の無かった、この時代の女性の哀しく切ない生涯を示している文辞である・・・・。
甘夫人が、劉備の ”妾そばめ” として入れられたのは、劉備34歳の194年。陶謙により 〔豫州刺史〕に任じられた 駆け出し の 頃であった。当然ながら既に正妻が居た。その後も 亡く しては娶り を繰り返すが、甘夫人は生涯、その”側妾”の地位に甘んじ、妻の座を要求する様な事はし無かった。その出自が低かったのと、彼女自身の人柄にも因ろうが、最大の理由は、この時代の女性全てに要求された 〔3従の道〕 の社会規範の為である。女性は常に
「男性の従属物」で在るしか無く、その生涯を父・夫・子に捧げて従い、その存在価値は唯、母親と成った場合に、我が子の地位
いかんに拠った。夫に正妻の座を迫る なぞ、余っ程の”女傑”・
”跳ねっ返り”で無い限り、又夫が腑抜で無い限りは在り得ぬ事であったのだ。だからそうした時代状況の裡に在って、まさに甘
夫人の生涯こそは、そうした弱い女性の立場を 象徴するもので
在ったと謂えよう。ーーダメ男だった劉備は、常に薄氷を踏みながら群雄の間を泳ぎ廻り、彼女を置き去りにして顧みなかった。呂布・曹操と3度も捕虜にされた。孤立して明日をも知れぬ長い年月を送らされた。殺されずに生き残ったのが不思議な程の苛酷な運命に耐えた。その後、漸く平安を得て、我が子を産むも、それも束の間。その直後には”更なる激震”が待ち受けて居た。
曹操軍に追い詰められ、我が子と生き別れの憂き目に遭わされ辛うじて趙雲の活躍で死地を脱す。その後、赤壁の戦いを挟んで1時の根拠に移り住むも、夫の未来には確たる望みも見えては来ない。・・・・そんな中、没した。殆んどが逃亡生活、苦労ばかりの生涯で在った。唯一の慰めは、我が子を此の世に残し”母親”と成れた事だけであった。無論、夫・劉備が蜀を得る事、まして国王から皇帝に即位し、我が子が2代皇帝の座に就くなど夢想だに し得無い裡の逝去であった。
『先主の甘皇后は沛の人である。先主が豫州を支配し小沛に居住した頃、家に入れて妾とした。先主がたびたび正室を失った為いつも奥向きの事を取り仕切って居た。先主に従って荊州に赴き後主を生んだ。曹公の軍が到着し、当陽の長阪で追い着いた。先主は追い詰められ、后と後主を置き去りにし、趙雲に護衛を頼んで辛うじて難を免れた。后は亡くなり、南郡に埋葬された。』
・・・・以上が彼女の伝の「生前の全て」である。短い。
だが彼女の伝のメインは、その「死後に受けた栄誉の部分」なのである。紙面は、3倍の長さで 「諸葛亮の上言」を載せ、甘夫人の徳義 と夫婦愛の深さを称讃し、彼女を忘却の彼方から、歴史の表舞台へと連れ戻した。
是れは、諸葛亮孔明と云う人物の、温かい人柄を示す行いの1つでもある。特に〔皇思夫人〕の命名は流石と謂えよう。『母は子を以って貴し』ーー【昭烈皇后】の名の由来である。
( ※ 尚、諸葛亮の上書の全文は、”その時”に
転載する 事 と する。)
と云う事で、劉備は 【穆ぼく夫人】を立てて 〔漢中王后〕 と
したのだった。 穆夫人は 5年前、益州を陥落させた時に 劉焉の 3男・劉瑁の未亡人だったのを娶って「正妻」とした女性。 折しも、孫権の妹【孫夫人】が実家に帰ってしまった直後だったので、同じ劉姓(タブーである)にも関わらず政略的に娶った。愛情も有ったではあろうが、政治的意義の方が遙かに大きい王后冊立の慶事では在った。ーーこうして王国を立ち上げた劉備・・・・
〔王〕と成った者は必ず〔王太子〕を立てて跡目を明示確定し、王家の継続・王国の繁栄 を 図らなくては ならなかった。 それは王国内の人民の安寧に繋がる重大事項であった。まして劉備の蜀は、曹操の魏とは異なる「後継者問題」を抱え込んで居たので在るから尚更であった。【曹魏】の場合は、同じ正妻の子同士間での後継争いで在り、然も父・曹操が仕掛けたもので在った。だから派閥さえ生まれた。ーー処が【劉蜀】の場合は、事情次元が全く異なる。1言でいえば・・・〔養子の扱い方〕の問題で在った。その背景・経緯を整理して措こう。
事の発端は、45歳に成る迄、劉備には男児が生まれ無かった事に起因する。 そこで、嫡流の誕生を諦め、〔養子〕 を取って 後継ぎにする事としたのだった( 201年〜206年の間 )。その頃の劉備は劉表を頼って荊州に流れ着き、何の目的も持てず、ただ徒に無聊の日々に閉塞して居た だけの 「髀肉の嘆」 を囲って居た時期。
諸葛亮との出会い直前の事だった。当時の45歳は、もう初老の域に達し、嫡流誕生の期待よりも、後継ぎ断絶!の不安の方が大きくなる頃であった。ーーその結果、後継ぎ養子として縁組されたのが・・・・当時12、3歳だった【寇封】である。彼の出自等は詳しく伝わらぬが、実父の寇氏は羅侯だったと云うから一定の地位には在った様だ。但、【劉封】自身の人物は流石に劉備が選んだだけの事はあり 『武勇・気力ともに人に立ち勝っていた』とあるだから、何もやる事の無い日々の中に在った関羽・張飛の義兄弟も諸手を挙げて、この養子縁組を祝福したのであった。
・・・・処が何と皮肉な事に、その2・3年後の207年、劉備47歳の時に甘夫人が男児を出産したのである!劉備直系の後継ぎの誕生であった!阿斗のちの【劉禅】である。 ( 豊臣秀吉の晩年が同じ )
だが、この時は未だ何の問題も発生はし無かった。劉備自身の将来に
何の展望も 無かったのだから、そんな事は何うでも良い事に過ぎ無かったのであるーーそれから12年の時が過ぎ・・・・
59歳の劉備は今や漢中王!!その間、劉備は一貫して、父親 としての愛情を以って 劉封を可愛いがり、その成長に眼を細め、また期待も
して居た様だ。 そして 劉封も亦、純真な心で 劉備を
実の父親として仰ぎ慕い、その見込まれた資質をズンズンと開花させ、頼もしい一角の士大夫・部将へと成長していった。
尚、劉備は【劉禅】誕生の後に、【劉永 公寿】 と 【劉理 奉孝】と云う子を設けたが、3人ともが異腹で、その2児の母親達は一切不明。身分の低い側妾に過ぎ無かったのであろう。無論、後継者候補には成り得無かった。
『当時、劉封は 20歳余り であったが、武芸を身に修め、気力も
抜群で人に勝っていたので、兵を率いて、諸葛亮や張飛らと共に長江を溯って西上し、行く先々で勝利を収めた。益州平定後には副軍中郎将に任命された。』
〔副軍〕とは 劉備の名代を指す。中郎将と尉官は低いが、明らかに劉備の息子で在る事が意識された特別の官職である
そして今、更に劉封は父の信任を受けて上庸に急派され、不信視される「孟達軍」を指揮下に収め、見事に上庸郡を平定。その功を認められ、〔副軍将軍〕昇進を通達されたのであった!!
《直系の劉禅13歳か!?大器の劉封27歳か!?》
一体、どちらが2代目に指名されるのであろうか!?
だが実際には・・・そんな風に捉える者は誰1人も居無かったのである。皆が皆、直系の劉禅が後継者に成るのが当り前!と考えて居たので在る。父親の情愛から謂っても、自分の血が流れる子の方が可愛いに決まって居る。それが当然の摂理と云うものである。だから劉備は、何の躊躇も逡巡も無く、当然の事として、
我が血の繋がる
劉禅を〔王太子〕に決定!!公表した。
無論、事前に諸葛亮に相談。元より諸葛亮に何の異存も有ろう筈が無い。いや寧ろ強力に後押した。・・・・思えば其の方針は、
相当に早い時期から決定されて居た事に気付く。
もし此の晴れがましい国家的祝典の場に、劉封本人が同席して居たとしたなら、どんなにか気マズイ雰囲気と成り祝賀の空気が 重苦しく淀んだ事であろう。ーー即ち、先に行なわれた【劉封】の「信任派遣」は、実は・・・・
その気マズサを避ける為の思惑が主眼だった!とすら謂えるであろう。 【孟達】への不信に因るとされる 「上庸郡」への
派遣ーーあの場合、最も無難で 適任だったのは 【趙雲】 の筈で
あった。にも 関わらず、劉封が選任された裏には、既に 《劉禅を 2代目の跡継ぎに決して居た》劉備と諸葛亮との共通認識・了解が在った事を暗示している。結局、養子の【劉封】は、体よく、祝典の席から遠避けられたのである。
ばかりでは無かった。もっと深刻で冷酷な会話 と了解とが、この晴れがましい祝典の一角で密かに、人知れず、唯、劉備と諸葛亮 との間だけで交わされて居た・・・・。〔孔明ファン〕 にとっては、
出来れば触れては貰いたく無い、タブーである。
諸葛亮は独り、国の将来に対して、大きな懸念・危惧を抱いて居た。古来より 国を滅ぼす最大の要因とされる、深刻な問題が
危や不やな形の儘に置き残されて居る・・・と考えて居た。確かに王太子は劉禅!と公表はされた。だが〔御家騒動〕の火種は未だ尽きて居無いと観る。つい昨日までは嫡男として扱われて来た【劉封】の処遇である。当時の倫理観では、養子は立派な実子で在るとされ、跡目を継ぐ資格も当然あるとされて居た。だからもし劉封が異議を唱えたとしたら、同調する者達が出て来る可能性は充分あった。まして劉禅は幼く、然も出来が余り良くは無いと見られている。対する劉封は才気煥発で覇気に満ち、副軍将軍の地位を実力で獲得する程の器。劉備亡き後に、どんな行動に出るか予断を許さぬ・・・・個人的には素晴しい青年だと思うし、彼自身に何の落度も欠点も有る訳では無い。劉備が見込んで可愛いがって来て居る事も充分知っている。劉備を実の父と仰ぐその心根は純真である。・・・だが、将来は判ら無い。そして最弱小の蜀の国にとっては、内患・内乱は即、亡国に直結するであろう。
だからとて、”仁徳”が唯一の財産である主君・劉備に、自ら手を
下させる様な事は絶対にさせてはならない。かと謂って同意無しに己の一存で処置して良い様な問題では無い。
《殺しては為らない。殺させても為らない。》 ーーだとすれば、
《責めを負って死を賜う形・自殺する形しか有るまい。》
《だが今は未だ必要な人材だ。然も 次の大作戦では重大な
部署を担い、関羽を支援して貰わねばならぬ部将でもある。》
ーー嗚呼、私は何と謂う事を考えて居るのか!?而して、この
問題に思い至るのは私独りしか居ない。時も待っては呉れ無い
直ぐにも、暗黙の了解だけは得て措かねばならない・・・・。
そして遂に、その時は遣って来たのだった。
「ーーどう、為される御心算で御座いますか?」
人払いされた個室。在るのは唯2つの影。
「・・・・真夏の夜の夢・・・じゃな・・・・」
「何と仰られましたか?」
「此処では息が詰まる。外へ出よう。」
夏の星座が瞬く 庭園。晩年を迎えて 王と成ったばかりの男は、
重い足取りで観月台に向う。その後を、同じ気持の軍師が歩く。
2人ともの顔が蒼白いのは、月明かりの所為なのか?王が立ち止まる。 「フウ〜・・・・」 と、長い溜息が零れた。 2人は 視線を合わせる事なく、それぞれ別の方向を向いた儘、互いの胸中を思い遣った。そして軍師の男が静かに口を開いた。
「此処で或る男が、独り言を申します。周りには、答える誰も居りませぬ。それは物の怪の呟きなのかも知れませぬ・・・・。」
王は遙かな虚空に顔を向け、微動だにしない。邯鄲がすだく。
「 為なす事 なかれ。 ただ 賜たまい 給たまえ。」
王の頬がピクリと動いた。すると物の怪は、もう1度、同じ事を
平板な抑揚で、無感情に言った。
「・・・・為すこと勿れ。ただ 賜い給え・・・・。」
「ーー・・・・。」 王の表情は窺えぬ。氷り付いた背中だけが佇む。
「声 届かば、宜しく 時を待たん。」
やや有って、幽かに 王の首が動いた かの様に見えた。いや、
その動作は ただ単に、王が向きを変えて、此処を立ち去る為のものだったのかも知れ無い。
深々と礼拝して王の後ろ姿を見送る軍師ーーやがて頭を上げた其の頬に光るのは、間違う事なき血の通う人間の証・・・親と子の情愛を真に知る者だけが流す、冷たく苦しくも、熱き涙であった。国家安泰と云う大義の前には、人としての情けを断たねばならぬ苦渋の決断・・・・嗚呼、非情で在らねばならぬ己の責務!!
ーー何ずれにせよ、この密会によって、
劉封の運命は定められたのである!
而して王城では、此の夜も尚、華やかな祝宴が続いていた・・・・。
光溢れる栄光 の 中の 暗渠・・・・【第228節】ネオコンの密議・歴史底流を創る者達→へ