【第226節】
「やあ〜葛ックン、おいら呼んだかい?」
相変わらずの極楽トンボが、ふらりと顔を出した。些か御酩酊の様子。
「おやおや本日も御機嫌麗しい事で、結構で御座いますな〜。」
「ああ、おいらにゃあ、日々是れ好日!それ以外には無いワイ。」
「それにしては、チト寂しゅう御座るな。」
「ーーん?玄ちゃんが勝っちゃった!・・・って謂うのにかい?」
「さて、その事で御座るよ。」
「あっ!解ったぞ。さては未だ、おいらの飲みっぷりが足ら無いってか?もっとドンチャカ派手に酔っ払え!って言うんじゃろう?」
「・・・・まあ、当らずとは雖も遠からず・・・・で御座いますかな。」
「ーーへ?お説教じゃあ無いのかい?」
「今さら、蛙の面に何とやらですからな。」
「左様左様、正に御指摘の通り!どうせ、おいらにゃ馬耳東風。今日は東か明日は西か?風の吹くまま気の向くまま・・・それが
おいらの生きる道 ナンチャッテ・・・・でへへ」
「ああ、それを聞いたら 益々寂しい!」
「何んだよ〜葛ックンらしくも無えな。ズバリと言っておくんなよ。」
此処は成都城、諸葛亮の執務室。未だ劉備が、漢中から凱旋して居無い5月の或る日の事であった。相手は簡雍。
「では申し上げるが・・・この誠に目出度い御主君の功業に対して国の何処からも未まだに瑞兆の1つも聞こえては来ませぬ。況や新しき王が立つとの噂も伝わって居りませぬ。是れを寂しいと謂わずして、何と
申せましょうや!新たな王が出現する場合には、必ずや 国のあちこちから 風に乗って聞こえて来るべきものが、未だに聞こえて来て居らんのです。・・・・これは一体、どうした事で御座いましょうや!?」
ベットに寝っ転がった儘の何時ものスタイルで、半ば酩酊状態で会話して居た簡雍の顔付が、その一瞬だけ素面に戻って居た。
「あっ!成〜る程!!いかん、いかん、僕チャンとした事が・・・!おっ、言われれば早速、風が吹いて来た様じゃ。そいじゃ、おいら此のまま 風と共に去りぬ・・・・ほなら サイナラ〜〜!」
それから、ものの3日も経たぬ裡に、最初の瑞祥が報告された。すると続いて国内各地から、龍や麒麟や鳳凰や亀やパンダや鰯の頭やら在りと在らゆる瑞兆の出現が報告され始めたのである。ばかりでは無く、首都の成都城内でも、重鎮・名士層の間に、「劉備の王位就任議論」が沸騰し始めたのである。そして寧ろ【諸葛亮】は、それら推進論者達の声を 時期尚早だとして、宥める側に立って静観し続けるので在った・・・・。
劉備玄徳が、主力軍を従えて、意気揚々と成都城に凱旋して来たのは、219年の6月の事であった。そして、もう其の頃には 国内世論の動向は、すっかり固まって居たと謂って
よかった。ーーあとは唯その「王位の名称」と、発表のタイミングとだけの問題であった。
漢王朝の不文律には、『劉姓 以外は 王に就けず!』 と云う大原則が在り、為に曹操は迂遠とも思える程の苦心惨憺の末に そのタブーを1歩また1歩と踏み越え、正統性の御墨付きをその本家で在る 「漢王室・献帝」から獲得・認証させて来たので
あった。その象徴が
【魏公】 と云う、かつて中国には存在した事の無い、前代未聞の 地位の獲得であり、数多の
〔殊礼〕 を下賜
される事の積み重ねであったーーだが其の点、”劉”備の場合は何の支障も無かった。 いや其れ処か逆に、曹操の掟破りの暴虐を殊更に弾劾し、勢い、その不当性を白日の下に改めて曝け出させる 敵対者=不倶戴天の仇敵!!と成って立ち現れる事と成るのであった。その場合、誰しもが先ず念頭に置いたのは・・・・矢張り
曹操の【魏国】の存在であった。曹操は【魏王】を名乗って居る。それに対抗するべき劉備の政権は巴と蜀に漢中を加えた、所謂 「蜀の国」である。だとすれば、最も現実に相応しいのは・・・・【蜀王】の称号である。時流は正に、【魏】・【呉】・【蜀】の 《三国時代》 へと歩み出すのである。曹操の 【魏王】に引き続きいずれ孫権も 【呉王】を名乗るであろう。 だとすれば尚の事、
劉備に相応しいのは【蜀王】の称号・地位である!!
だが実は・・・この様に考えるのは、後世の 我々の観方に
過ぎぬのである。 諸葛亮を筆頭に、劉備は勿論の事、当の蜀
政権の者達は全員が 〔別の思想倫理〕を抱いて居たのである。いや寧ろ、その思想故に こそ、この蜀の国を建国した!!・・・・
そうとすら謂える様な方向性だけが唯一、彼らの拠って立つ地平なので在った。
漢王朝を支え、復興させる!!
自分達は、漢の一族で在る!!
そして その正統性を受け継ぐ
唯一 の 国である!!
その俄に都合の良い主張 (アイデンティティ) こそが、劉備政権の存立を保証する最大の味方、最善の同盟軍と成るであろうそして其の為には是が非でも、この〔正統性〕を自分達の領域に取り込み、「反曹操」の潜在勢力を、全て己の味方に囲い込む事(エンクロージャー)こそが、緊急かつ最重要な課題と成って居たのである・・・・。
「この度は、祝着至極!誠に慶賀の至りに御座いまする!」
劉備の凱旋を、諸葛亮は 控え目に出迎えた。
「うん後刻2人だけでゆっくり話そう。それを楽しみに帰って来た」
取り合えずは、唯それだけの会話だったが、是れで2人には充分だった。ーー後刻、成都の城壁上に佇む主従2つの影・・・・
「君と出会った日から12年・・・我ら3義兄弟が 進むべき道を失いただ無為の裡に 髀肉の嘆を囲って居た時、天が君を我等の前に降臨させて呉れた。もし あの時、君との出会いが無かったなら、こんな晴れがましい今日の儂は在り得無かった。全ては君の御蔭であると 深く感謝して居る。」
在りの儘の、劉備の気持であった。
「今思えば、君に導かれてからの10余年・・・・余りにも劇的で、夢の如き日々で在った。我が感謝の気持を表す言葉も見つからぬ程じゃ。」
「いえ私は唯、理想を現実に組み立てる図面を敷いただけの事。その夢を実際に成し遂げられましたのは、偏に 劉備玄徳 と云う
大きな器の人物が、此の世に在ってこその事。私こそ厚く御礼を申し上げなくてはなりませぬ。」
「ーー気が付けば此処まで来たが、この後の儂は一体どうすれば善いので在ろうか?余りにも順調に過ぎて、些か恐ろしい。」
「天を恐れ、民を敬う・・・・その驕りの無い心根こそが、貴方様の御仁徳と云うもので御座います。そんな御方をこそ、1国の君主と為すのが 臣たる者の務め。 そして今 ようやく、その舞台が整いました。」
「ーーかつて君は言った。君が龍と成って 儂を其の背に乗せ、
天の高みを飛翔さえて呉れると。さて今、一体 君は儂を何処へ導いて呉れるのじゃ?」
その主君の問いに対し、遂に諸葛亮は、晴れ晴れとした表情で言上する。”その日” が やって来たのである。
「・・・・成る程、【蜀の王】では無く、そう ゆくか!?」
「はい、それこそが我等の大義、貴方様が拠って立つ君主の道。また、天下3分の状況下での、我が国の姿で御座いまする。」
「ウムそれは元より望む処じゃ。儂等が35年前に旗挙げしたのも其の為であったのだ。その初心に叶う道である。」
「時は今。曹操を漢中より敗退させ、新たに房陵と上庸の2郡も我が国の下に入りました。〔天の時〕・〔地の利〕は我が国に御座います。あと残るは〔人の和〕・・・・御主君が王位に就かれる事でこの 《英雄の3条件》 は、全て揃う事と成りまする。是れこそ天下万民の望む、新しき国の誕生です!」
ーー何故、【蜀王】では無いのか??・・・・その理由を識る為に、些か 歴史時空 を 溯って試ようーー
その男は、宿敵により、首都・咸陽の在る「関中」から
「漢中」へと追い遣られた。そして 自ずから桟道を焼き払って
恭順を示すと、「漢中」に籠り、2度と再び覇を争う事を断念した。
今から400年前、西暦では未だ紀元前206年の事。中国史上で
初めて 統一王朝を樹立した 【秦の始皇帝】が 崩御した直後の、人心騒擾たる中国・・・・ 〔首都1番乗り!〕を果したにも関わらずその男は、《今は未だ時に非ず!》
と観て、一旦、
天下取りの野望を漢中の地に封印したのである
その3年前・・・・秦の首都・咸陽の在る関中へ1番乗りした者は〔関中王〕とする!と云うのが、秦の圧政打倒を掲げる反・秦連合 (楚の懐王飾り物 )の公式発表であった。その大号令に応じて各地に群雄が蜂起。旧戦国の6国王までが復活した。ーーやがて、その中から全く異質の2つの勢力が台頭し、終には秦の首都・咸陽へ向って 怒濤の進撃競争を 開始する。
その最大勢力は、反秦連合軍の盟主 を 自負する、若き武人・ 項羽が率いる「楚軍」であった。 項羽は 虎の如き武勇を振い続け、刃向う者を悉く軍事力で討ち滅ぼした。その容赦無い殲滅方針は秦の投降兵20万を生き埋めにする程で在った。
一方、何処の馬の骨か? その素性も判らぬ
中年男の軍は、恰も逃げ廻るかの如き智謀の力で 敵対者を説得。無血占領を専らとし徐々に其の勢力を伸ばす・・・・そして項羽が殲滅方針に拘って、奮戦して居る 間隙を 出し抜いて、サッサと 「函谷関」を
通過。「関中」への ”1番乗り” を果した。すると 秦の首都咸陽に在った 始皇帝の孫・晋王【子嬰しえい】は 死装束でその男を迎え、始皇帝の創設した 〔玉璽〕 と 〔符節〕 を差出して降伏。 ここに
秦王朝は、僅か15年にして滅んだのであった・・・!!
首都咸陽には眼の眩む様な金銀財宝の山と、息を飲む如き美女達が居た。諸将は宝物庫に殺到したが、【蕭何】だけは財宝には眼もくれず、秦の重要書類・機密文書を持ち出し、のちの覇業の基と為す。その男も其れ等を自分の物にしようと欲望した。だが参謀(厩将)の【張良】が諌めた。「秦の非道を正すべき公が此処に留まれば、秦の二の舞であり、人の心も離れてしまいますぞ!」そこで男は財宝にも美女にも手を触れず、勧めに従って近くの「覇上」に野営し”新法”を発令した。その内容は 僅か 3か条!
殺人、傷害、窃盗の罪科のみ。それを知った人民は欣喜雀躍した。何から何まで法律に拠って雁字搦めにされて来た秦の圧政から解放されたのである。かくて、彼の人気は沸騰したーーだが、その直後からこそが、”その男”にとっての、最大の試練と成るのだった。ウマウマ出し抜かれた格好の宿敵・項羽が
40万の大軍団を率いて、1ヶ月遅れで 「函谷関」 に到達したのである。 そこで、その男の軍勢が 通過を阻む 行動に出ると、
項羽は 髪を震わせて 激怒した。
「実力も 身分も 戦功も 格段に上の、この盟主たる儂の行く手を阻むとは何事かア〜!!許さん、こう成れば”賊”として討伐して呉れる迄じゃ!!」
それを聞き知ったその男は、ビビリ捲くった。こちらは10万しか無い。然も、戦闘経験も貧弱な 弱兵揃い。
「ヤバイ!ちと調子に乗り過ぎた。謝ろう。こんな頭なぞ何度でも地ベタに擦り付けて見せてやるわい。兎に角、今は下手に出て様子を見よう。」
折しも項羽から、詰問の為の 呼び出し状 が 届く。項羽の軍師・氾増は、この際に”その男”の殺害を強く進言。項羽も 其の腹を固めて会見に臨んだ。
所謂、世に有名な 〔鴻門こうもんの 会かい〕 である。
ーーこの時、大王・項羽に呼び付けられた、その中年男・・・・元は 「沛」の邑の無頼漢で、胡乱なヤクザ稼業の親分だった。(沛は曹操の故郷 )やたら面倒見がよく、開けっ広げな性格で人々に好かれた彼が飲みに行くと忽ち周りに人垣が出来、飲み屋は大繁盛した。為に彼の飲み代はタダにされる程だった。世の中には奇特な者が居るもので、そんな彼を見込んで娘を嫁に呉れた。呂公と云う在地の名士だった。これが彼の出世の始まりと成った。
細長く 鼻筋の通った顔付が、”龍”に似ていた ( 龍顔 ) からだったと言う。
それで「亭長」に納まった。そんな或る日、労役人夫を送り届ける任務が廻って来た。処が苛酷な労役を恐れた人夫達は、その道中で次々に逃亡してしまった。厳罰主義の秦の法律に照らせば、彼の任務不履行は死罪を免れ得無い。
「こう成ればシャ〜無いわい。儂は逃げる事にするからオメエ達も勝手にズラかって良いぞ。」
それでも10余名の壮士が付き従った。その逃亡の途中で、彼は道の真ん中でとぐろを巻いて居た”白蛇”を斬った。のちその白蛇は〔白帝の子〕の化身で在り、それを斬ったのは〔赤帝の子〕で在る!との伝説を生む。五行説の循環論に拠れば、白のシンボルカラー (金徳) の秦王朝は、赤のシンボルカラー (火徳) を持つ新王朝に滅ぼされる・・・又、妻と成った雉呂りょち=のちの呂后は、彼が何処へ逃亡しても必ず探し当てた。
「貴方様の居られる場所には 常に”運気”が立ち昇っているので何処に居られても直ぐに判るのです!」
そんな下工作の噂が効いて、やがて沛の子弟が続々と集まった。そんな逃亡生活の最中に 〔陳勝・呉広の乱〕 が 起こり、秦王朝打倒の気運が一気に醸成された。すると周囲は皆んなして
同郷の蕭何・曹参 らは 彼を担ぎ揚げ、終に 旗挙げする羽目と成った。
その男こそ・・・後の漢の高祖・劉邦 その人で在った。
さて、その〔鴻門の会〕での【項羽】と【劉邦】だが・・・・到着するや劉邦は一世一代の”人誑し”を演じ、平身低頭・恭順の意を示す。一方の項羽は事前に劉邦殺害をキツク指示されて居た
にも関わらず、そこは坊ちゃん育ちの貴公子、つい好い気分に成ってしまい
鷹揚に振舞う。そんな事も在ろうかと老軍師【氾増】は、密かに項羽の従兄弟「項荘」に命じ、剣舞に託けての刺殺を謀る。だが其の謀略を察した「項伯」が剣舞に加わり、辛うじて危地を脱すも極限状況に変りは無い。そこで劉邦の軍師【張良】は、門の外に侍して居た【樊會はんかい】の所へ行き、主君の窮地を告げた。するや樊會は、進入を阻止しようとする全ての衛士を、手にした鉄の楯で撥ね退けて会見場に到達。そこで張良が 樊會を紹介すると、項羽はその挺身の振る舞いに感動して 「壮士である!」と言い、酒と焙り肉を与えた。樊會は一息に大盃の酒を飲み干した。
「未だ飲めるか?」 かと 項羽が訊く。
そこで樊會は臆する事なく、堂々と命懸けの正論を言い放つ。
「私は死を恐れては居りませぬ。ですから何で酒なぞ辞退いたしましょう。とまれ、今の事態を申し上げますとーー沛公は真っ先に咸陽に入り、その地を平定し、軍を覇上に待機させて大王 ( 項羽 )を御待ちして居たのです。処が大王は、小人の讒言を信じ、沛公を誅殺しようとして居ます。これでは天下の人心は大王を離れ、大王を疑う事に成るでしょうぞ!」
項羽は言い返す事が出来ず、樊會に 「まあ、座れ。」 と言うだけであった。・・・その後劉邦はトイレに立つ振り 酔い醒ましの 小休止をして席を立ち、樊會を招き寄せて遁走に成功。絶体絶命の窮地を脱する。ーー老軍師の【氾増】は嘆いた。
「嗚呼、豎子じゅし、共に謀るに足らず!」
かくて秦の首都・咸陽に乗り込んだ 項羽は、劉邦が 生かして
措いた秦王の子嬰を殺害。財宝や宮女の略奪を許可し、秦の象徴・阿房宮に火を放ってその殲滅方針を徹底して見せた。そして自らを〔西楚の覇王!〕と称し、諸侯を招集。論功行賞を行なって見せた。事前の約束では・・・・咸陽1番乗りを果した劉邦は、首都圏を牛耳る 〔関中王〕 と成る筈であったが、山中の辺地へと追い遣られる事と成った。それが即ち〔漢中王〕の地位だったのである。
その決定を甘んじて受け容れた劉邦・・・・劈頭に述べた如くに
天下取りの野望を漢中の地に封印したのである
ーー雌伏して天下を狙う・・・而して其の雌伏の姿勢は功を奏した自信過剰の 慢心と、杜撰な 論功行賞の結果、諸侯の項羽への
不満が爆発するのは時間の問題であり、余りに苛酷な其の方針に危惧や不安を抱く者達が多かったので在る。
《頃は善し!》漢中で雌伏して居た劉邦は遂に項羽との決戦を決意。そして一旦立つや、人心は大きく劉邦に傾き、〔漢中軍〕即ち〔漢軍〕の総兵力は一気に56万の大軍団と成ったのである・・・その後の楚・漢戦争=項羽と劉邦の戦いは未だ未だ劇的なドラマを 数多 生む・・・・ だが、それは三国志とは 直接の関係は無い ので 割愛する事としよう。
蓋し、大漢帝国の高祖・劉邦が、その王朝の礎を築き、その王朝命名の由来と成ったのが・・・・
漢中王の位であり、その後400年間に渡って現在まで、中国の人々の心の故郷・拠って立つ世界の根幹を成し、その語の響きの中には 中国人としての 誇りと 愛着とが 強く抱かれる 特別なもの・・・・ 21世紀の現代ですら、中国の人々は自分達の事を”漢”民族と胸を張って称す・・・その事の意味の重大さが理解されれば足りるであろう。 中国の人々に とっては、文明の魁
時代に 400年間もの人類最長不倒の大帝国の姿で、世界の頂上に君臨し続けた その栄光の歴史に誇りを抱く源泉で在り続ける。 3世紀以降の中国では、何時でも如何なる時でも、”漢”は中国そのものの象徴で在るのだ。
更にもう1つ・・・・この 「漢中」 には、大きな意味が秘められて居たのである。ーー高祖・劉邦の建国から 200年後、漢の王朝は 一旦 滅びた。【王莽】により簒奪され、〔新〕の王朝が名乗られたのである。 だが 然し、その17年後、大漢帝国は再び、不死鳥の如く、中国の大地に蘇ったのだった!!その主人公は(後)漢王朝の始祖=大漢帝国中興の賢帝と成る、光武帝こと劉秀その人で在った。字は文叔・・・・生国は南陽郡の春陵で「漢中」では無い。ーーさて、王莽の政策は《周時代への回帰!》と云う 時代錯誤も甚だしいものだった為、全て失敗。生きる術を失った農民は、各地で反乱を起した。河北では、眉を赤く染めて敵味方の識別した〔赤眉軍〕、南方では〔緑林軍〕 と称する 農民反乱が勃発。最初は喰う為の反乱だったが、やがて緑林軍の中から「王莽を倒して漢王朝を復興しよう!」 と云う声が自然発生的に起った。そこで漢王室の血を引く【劉玄】と云う人物が担がれ〔更始帝〕と名乗る事となった。その麾下に付いたのが【劉糸寅】と【劉秀】の兄弟であった。(※ 漢王室の血筋では傍系となる )
さっそく 地元の若者達に 動員要令が下されたが、兄・劉糸寅の
呼び掛けに対しては、「彼に味方したら生きて帰れ無いワイ!」 と冷たい反応ばかり。処が、弟の劉秀までもが立ち上がると知れるや、「あの慎重で大人しい男までが立つのだから、王莽の世は
必ず終るに違い無い!」 と言い合い、進んで挙兵に加わった。
弟の劉秀は日頃から慎重で控え目な人柄だったので在る。
かくて兄弟は大司馬・将軍と成って軍を率いる事となった。だが、100万を号す王莽軍とぶつかった更始帝軍は怖気づき、昆陽城に追い詰められてしまう有様。然し此処で、無謀とも思える行動に出たのが、日頃は 慎重居士で在る筈の 【劉秀】であった。
実数42万の敵の本陣目掛けて、何と 僅か1千の騎兵を率いるや、決死の
吶喊攻撃を仕掛けたのである!!まさか撃って出て来るとは夢想だにして居無かった王莽軍の司令部は大混乱に陥り、終には大潰走を始めて敗退してゆくのだった。劉秀と云う人物は一見おとなしいが、やる時にはやる男だったのである。
この昆陽の大勝利は 2つの結果を招いた。1つは、更始帝・劉玄が兄弟の実力を恐れ、部下を庇った兄の劉糸寅を 処刑して
しまった事である。だが弟の劉秀は兄の喪に服す事もせず、更始帝の〔大司馬〕として、飽く迄も 恭順の風を示し続けるので在った。ーーもう1つは、この昆陽の大勝利を観た各地の豪族が続々として更始帝軍の下に集結し始めた事であった。これで大軍団と成った更始帝軍は洛陽を陥落させ、更に西進して首都・長安へと向う事となったのである。ーーだが、その直前、劉秀の人望と武勇を煙たがる更始帝は、劉秀を同行する事を嫌い、河北の平定を命じた。・・・・然し是れも結果的には、劉秀に天の時と人の和とを齎す事と成るのだった。長安に入った更始帝軍は略奪と狼藉の限りを尽くして人望を失い、却って劉秀の人望を高めたのである。逆に劉秀は正妻 (のちの郭皇后 )を娶る事により、10万の兵力を持つ劉楊を味方に付け、河北の「王郎」を破って、随一の実力者に伸し上がってゆく。 その情報を知った更始帝は、この儘ではマズイと思い、劉秀を長安に呼び戻すが、劉秀は是れを拒否!自立の決意を 明らかにしたのである。そして終に、周囲の強い
要請に拠り、皇帝に即位 したのである。 ( 西暦25年)
※ 尚、王莽は 西暦23年10月に、長安で 緑林軍の手によって
討ち取られ 新王朝は15年で滅んでいた。また長安の更始帝も、西進して来た赤眉軍に滅ぼされた。光武帝と成った劉秀は、その赤眉軍を配下に収める。そして、いよいよ光武帝は、天下統一に乗り出す。その統一の道筋こそはのちに三国時代の群雄
(主として袁紹や曹操) が手本とするべきものとなる。
先ずは「河北」=24年〜27年→ 次には「江東」=29年〜30年→ そして最後に「蜀」!!の手順を踏んだのである。・・・・その最後の相手こそは公孫述。西暦36年、漢中に進軍した光武帝軍100万は怒涛の如く 蜀へと雪崩れ込み、終に天下統一を果す!!
高祖劉邦は漢中王と成った事から大漢帝国を創り
後漢の始祖・光武帝は大司馬と成った事から
漢を復興した!!
・・・・そして漢中・蜀を下して天下統一を果した!!
その劉邦の建国から400年経った後の今、光武帝の復興からは200年を経た今、即ち・・建安23年=西暦では
219年の今、
蜀の劉備が得た〔漢中〕の有する 意味と 意義を最大限に活かそうとするのが、 その 軍師・諸葛亮孔明で在るのだった。彼は生まれたばかりの祖国に、その ”正統性” を付与し、先発する【魏】に対抗し得る ”格付け” を施し、 天下に「国家」としての認知を迫る・・・・その深淵なる大戦略を模索するのである!!
219年7月ーーその日の前、蜀の家臣一同は、
そもそも 臨機の処置として、かりそめにも国家の利益と成るならば、専断の行為も許される・・・・として、漢の朝廷に
対して、重大な〔上申書〕を提出した。無論、形だけの上書の提出であり、実態は、天下に対する
《蜀国 の 独立宣言》 で 在った!!
ちなみに『正史』は、曹操が【魏王】に就いた時の「詔勅」「上書」の類は一切、転載しては居無い。だが、以下の上申の書は、『正史・先主伝』に載録されているものの全文である。
『平西将軍・都亭侯の臣馬超、左将軍長史・領鎮軍将軍の臣許靖、営司馬の臣ホウ義、議曹・従事中郎・軍議中郎将の臣射援、軍師将軍の臣 諸葛亮
盪寇将軍・漢寿亭侯の臣 関羽、征虜将軍・新亭侯の臣 張飛
征西将軍の臣 黄忠、鎮遠将軍の臣頼恭、揚武将軍の臣 法正、
興業将軍の臣李厳ら 1百二十人、上言して 曰く、
昔、唐堯は至聖なるも 朝に4凶あり。周成は仁賢なるも 4国難を作す。高后 称制して諸呂 命を竊ぬすみ、孝昭 幼冲にて上官逆謀す。みな世寵に馮より国権を藉履し、凶を窮め乱を極む。社稷ほとんど危し。 大舜・周公・朱虚・博陸に非ずんば 則ち流放禽討、危を安んじ、傾けるを定むる能あたわず。
伏して惟おもんみるに、陛下献帝は誕姿聖徳、万邦を統理す。而して厄運不造の艱に遭う。 董卓 難を首はじめ、京畿を蕩覆す。曹操 禍を階きざし、天衡を竊ぬすみ執る。皇后・太子を鴆殺、害せられ、天下を剥乱し、民物を残毀す。久しく 陛下をして 幽処虚邑に
蒙塵憂厄せしむ。人神主なく、王命を遏絶し、皇極を厭昧し、神器を盗まんと欲す。
左将軍・領司隷校尉・豫荊益3州牧・宜城亭侯 備、朝の爵秩を受け、念う事は力を輸いたして、以て国難に殉ずるに在り。その機兆を観、赫然憤発し車騎将軍・董承 と同ともに 曹を誅せんと謀る。まさに国家を安んじ 旧都を克寧せんとす。 たまたま承、機事密ならず、操の游魂をして
遂とぐるを得、悪を長じ 海内を残そこない 泯ほろぼさしむ。臣ら毎つねに王室、大にしては 閻楽の禍あり、小にしては定安の変あらん事を懼おそれ、夙夜惴惴、戦慄し息を累こらす昔、虞書は九族を敦く序し、周は二代に鑑みて同姓を封建す。詩に其の義を著わし歴載長久なり。漢興る初、彊土を割裂し王の子弟を尊ぶ。ここに以て卒ついに諸呂の難を折くじいて大宗の基を成す。
臣ら思うに、備は肺腑の枝葉、宗子の藩翰。心は国家 (漢王室) に存し、念は乱を弭やすんずるに在り。 操の漢中に破れてより、海内の英雄、風を望み、蟻の如く (劉備に) 附す。而るに (劉備に対し) 爵号 顕われず、九錫 いまだ加わらず。社稷しゃしょく を鎮衛し、万世を光昭する所以ゆえんに非あらず。辞を奉じ 外にあり、礼命断絶す。
昔、河西太守・梁統ら 漢の中興に値うも、山河に限られ位同じく権 均しく 相い率したがう 能あたわず。みな竇融を推して 以て元帥と為す。卒ついに効績を立て隗囂を摧破す。今 社稷の難は朧蜀より急なり。操、外は天下を呑み、内は群寮を残そこなう。朝廷、蕭牆の危あり。而も禦侮いまだ建たず。寒心を為すべし。
臣ら 輒すなわち 旧典に依り、
備を 漢中王に封じ、大司馬 に拝す。
六軍を董斉し、同盟を糾合し、凶逆を掃滅せしむ。
漢中・巴・蜀・広漢・建為を以て、国と為す。
署置する所、漢初諸侯王の故典に依る。それ権宜の制いやしくも社稷を利せば 之を専らにして可なり。然るのち功成り、事立てば臣ら 退いて矯罪に伏し、死すと 雖いえども 恨み無けん。』
ーーその言わんとする処を、再度リピートしてみると・・・・
『私どもが考えまするに、劉備は皇室の一族で本家の楯としての立場に在り、国家の事を心に掛け、乱を治める事を念願して居ります。曹操を漢中で撃ち破ってからは、天下の英雄は威風を仰ぎ見て蟻の如くに慕い寄って居ります。それなのに劉備に対する爵号は分明では無く、九錫の礼も未だに加えられて居無いのは、国家を鎮護し
万世の後まで功績を輝かせる為には成りません。劉備はずっと朝廷の外に居りましたが、常に王室を奉ずる心を失いませんでした。それなのに官位の授与についての沙汰は何も御座いませんでした。・・・・曹操は外では天下を併呑し、内では多くの官僚を殺害し、朝廷には 内乱の危険性が在りますのに、
未まだ異姓からの侮り(曹操の簒奪)を防ぐ為に御一門を諸侯に立てられ無いのは、心を凍らせるべき事です。
そこで 私どもは 已むを得ず、古いにしえの規範に従って、
劉備を漢中王に封じ、大司馬に任命して 六軍の指揮を取らせ、同盟軍を糾合して逆賊を掃蕩いたしました。 また 漢中・巴・蜀・広漢・建為 の諸郡を国とし、 任官は 漢初の諸侯・王の旧例に
従って取り行いました。そもそも 臨機の処置として、かりにも国家の利益と成るならば、専断の行為も許されるものです。それでこそ初めて功業が成就し、事が樹立されるのです。私どもは引き下がって勝手な
行為に対する刑罰に伏し、死罪に成りましょう とも思い残す事は御座いません。』
尚、上書の劈頭に記されて居る 〔家臣団の序列〕 を見て、我々は、その 《意外感!》 を禁じ得無い。ーー全く馴染みの無い人物が上位に並び、然も、最も仕官期間の短い馬超が筆頭に記されているとは・・・・。是れは、どう観ても、劉備政権内の「実力・影響力を示す順番では無い!!」・・・その事だけは判る。では、その意図は何処に在り、一体誰が起草したのか??
先ず起草者だが、是れは【諸葛亮】で在ったとするのが至当であろう。〔天下3分の大戦略〕 を 最初から推し進めて来た第一人者である。この日の為にこそ全精力を注いで来た最大の功臣である。・・・・では諸葛亮は何故、自分を筆頭に記さ無かったのか??趙雲の名も無い。
そもそも、こんなブッソウな代物が、直接に献帝の手に届く筈は無い。その代りに、この全文は天下に公表されたのである。詰り飽くまで〔外部向け〕の政治宣伝・プロパガンガが主目的の公式文書であった。それを思えば、この序列の不可解さは氷結する。
平西将軍・都亭侯の臣馬超、左将軍長史・領鎮軍将軍の臣許靖、営司馬の臣ホウ義、議曹・従事中郎・軍議中郎将の臣射援、軍師将軍の臣 諸葛亮
盪寇将軍・漢寿亭侯の臣 関羽、征虜将軍・新亭侯の臣 張飛
征西将軍の臣 黄忠、鎮遠将軍の臣頼恭、揚武将軍の臣 法正、
興業将軍の臣李厳ら 1百二十人・・・・
【馬超】は曹操に徹底抗戦した凄まじい戦歴を有し、関中〜漢中に掛けては 絶大な武名を、今も此の一帯に保持して居た。
【許靖】は既に全国区で名の通った「月旦評」の大名士。知名度だけは抜群の存在。現段階では諸葛亮の数倍も有名であった。【广龍義】は劉焉以来の旧臣で巴西太守の在地豪族。【射援】は元・太尉の皇甫嵩から見込まれて娘婿と成って居た。【頼恭】は荊州の名族で在り、【李厳】は蜀の武将で内乱鎮圧に活躍した。明らかに、内外に向けての〔知名度を優先させた序列〕であり、
寧ろ実権・実力の中枢は背後に退かせた配慮が窺える。
ーーかくて219年(建安24年)7月・・・・
劉備玄徳の、漢中王就任の儀式が挙行された。場所は成都では無い。蜀の群臣を伴った劉備は、再び漢中へ出向いたのである。そしては、あの定軍山の対北・「シ正陽べんよう城」の広場に、土盛りした大祭壇を設け、その地をこそ 晴れの栄典の場所に選んだのである。ーー何故か??
・・・・実は、この「シ正陽城」こそは、漢の高祖の名参謀・蕭何が創設した由緒ある”故地”で在ったのである。だから人々は、漢の王朝が生れた城として、「漢の城」=《漢城》と呼び慣わして居たのである。単に漢中王だから、と云う”地理的な理由”だけでは無く、2重3重の意味を有する場所を選定した上での儀典だったのである。
文武百官が厳かに居並ぶ中、大兵団が整列。諸葛亮が家臣団の上奏文を高らかに読み上げる。そしてその朗読が終ると・・・・遂に其の時がやって来た。遂於 シ正陽 設壇場。陳兵列衆羣臣陪位。讀奏訖。御王冠于先主。
劉備自身が、みずからの手で、
王の冠を、その頭上に 戴いたのである!!
『遂に シ正陽べんように於いて 壇場を設け、兵を陳つらね 衆を列し、
群臣 陪位す。読奏して 訖おわり、王冠 を 先主に御すすむ。』
今この瞬間から、劉備玄徳は「漢王」だった高祖・劉邦と全く同じ 冕9旒を戴く日々が始まるのだ。冕べんは王者の冠で天っ辺が板状の 中国独特のデザイン。始皇帝の意匠登録に始まる。
旒りゅうは その前後に垂れ下がる 玉簾たますだれ状の 揺れ飾り。
冕12旒は 《諸王の王》たる〔皇帝〕だけに許される〔天子〕の姿である。当然ながら【献帝】は12旒。王の冕かんむりは 9旒と定められている。然るに【曹操】は畏れ多くも、その12旒を傲然と戴いて居る。 劉備は、その向こうを張って、1歩曹操に、にじり寄ったのか・・・!?
群臣の中から湧き上がる 万歳の声・声・声・・・張飛なぞは、感激の余り人目も憚らず、関羽の分までを男泣きに泣き捲くって居る・・・。かくて此処に
劉備玄徳は、59歳にして漸く 〔大司馬〕、
〔漢中王〕の地位に就いたのである!!
謂わずも哉ーー大司馬は光武帝・劉秀、漢中王は高祖・劉邦の故事を意識した、漢王室との正統性を誇示する象徴なのであった。
その直後に、劉備自身が、その大司馬・漢中王就任を、漢帝 (献帝) に 報告 (上書) した。無論、対外向けのプロパガンダの一環であった。
『臣、具臣の才を以て上将の任を荷い、三軍を董督し、辞を外に奉ず。 寇難を掃除し、王室を靖やすんじ匡ただす能わず、久しく陛下の聖教をして陵遅し、六合の内、否にして未まだ泰ならざらしむ。ただ憂い反側し、广火ちんすること 首を疾む如し。 さきに董卓、乱の階を 造り為す。是より後、群兇縦横し
海内を残剥す。 頼 さいわいに 陛下、聖徳威霊あり、人神同じく応ず。或いは忠義奮討し、或いは上天罰を降し、暴逆ならびに殪たおれ以て漸く冰消 ひょうしょうす。 ただ独り 曹操、久しくして未まだ梟除きょうじょせず。国権を侵擅しんぜんし、心を恣ほしい儘にし、乱を極む。
臣、昔、車騎将軍・董承と 操を討つことを 図り謀る。機事 密ならず、承は陥害せらる。臣、播越し拠を失い忠義果さず。遂に操をして
凶を極め 逆を極めしむるを得る。主后は戮殺せられ 皇子は鴆害せらる。 同盟を糾合し
念は 力を奮うに在りと雖も、懦弱不武、歴年いまだ 効 あらず。常に殞没し 国恩に孤負せん事を恐る。
寤寐ごび 永く 歎じ、夕に タおそるること といしの如し。
今、臣の群寮おもえらく、昔、虞書に 九族を敦く 叙すれば 庶たみ明らかに 似モケんと 在り。五帝 損益して此の道を廃せず。周は 2代に監て 諸姫を並建す。実に晉鄭夾輔せし福に頼る。高祖 龍興し王子弟を尊び、大いに 九国を啓ひらく。卒ついに 諸呂を斬り 以て太宗を安んず。
今、操、直を悪にくみ正を醜みにくしとす、寔繁じっぱん(悪人)徒いたずらにあり。禍心を内蔵し簒盗すでに顕わる。既に宗室微弱、帝族 位 無し。
古式に斟酌し権宜に依仮し臣を大司馬・漢中王に上のぼす
臣、伏して自ら三省するに、国の厚恩を受け任を一方に荷い、力を陳べて未まだ効あらずして獲る所すでに過ぎたり。宜しく
復た高位を 忝はずか しめ以て罪謗を重ぬ べからず。群寮に逼せまられ、臣に迫るに 義を以てす。
臣、退きておもうに、寇族梟せず 国難いまだ已まず、宗廟傾危し社稷まさに墜ちんとし、臣の憂責、砕首の負を成す。もし権に応じ変に通じ以て聖朝を寧靖にせば、水火に赴くと 雖も、辞するを得ざる所。敢えて常宜を慮おもんぱかり以て後悔を防ぐ。輒すなわち衆議に順したがい印璽を拝受して以て国威を崇たかくす。仰いで爵号をおもうに 位高く 寵厚し。俯して報効を思えば、憂い深く
責重し。驚怖累息、谷に臨むが 如し。 力を尽くし 誠を輸いたし、六師を奨獅オ、群義を率斉し、天に応じ 時に順い、凶逆を撲討し、以て 社稷を
寧んじ以て万分に報ぜん。謹んで章を拝し、駅に因り、仮す所の左将軍・宜城亭侯の印綬を上還す。』
それにしても、曹操の営々として深謀遠慮の道程に比べたら、何と安直で手軽な 〔王位〕の手続き・経緯である事か!?
《ーーそりゃ無いだろう!!》 絶句するコロンブス。苦虫を噛んだ曹操の顔が想い浮かぶ・・・・。
ーー於是還治成都。
ここに於いて還りて、成都に治す。
王位に就いた漢中の地は、魏の領土に近過ぎて未まだ政情安定せず。故に劉備は還って、王国の首都を、蜀の 「成都」 に定め、治める事としたのである。
漢中王の誕生!!ーーそれは即ち、
蜀の王国が、いずれ曹魏王朝に対抗して、
新王朝として皇帝を戴く正統性を得た日でも在ったのである・・・・。
かつて、ケタ外れのダメ男だった劉備玄徳。
彼を支える者達に拠り人生の満開を迎えた
今59歳。今度は自らが大勝負に出る!
【第227節】 諸葛孔明の冷血 (廃嫡問題の行方)→へ