【第225節】
曹操が、あの大曹操が 眼の前を撤退してゆく・・・・
その息詰る運命の一瞬・歴史的な光景を、史書は何も記して居無い。果して、その後姿を見送りながら、劉備軍は万歳を叫んだであろうか??それは無かったであろう、と筆者は思う。劉備は只ジッと黙って見送る事を全軍に下知したと想う。それが
宿縁の老雄 2人に最も相応しい、感慨に満ちた別れ方である。また現実の戦術としても、曹操が去り難い様な心理的要因を一切作らぬのが最上の策であった。飽くまで曹操は撤退を選んだのであり、決して戦闘能力を失った訳では無かった。本気に成らせてしまう様な刺激の類は、厳に慎むのが得策と云うもの・・・・
喜びを爆発させたのは、曹操全軍が其の姿を、すっかり山合の彼方に消し去った後の事であった。
「皆の者、実に良くやって呉れた!心から礼を申すぞ!!これで我が蜀の 国は、不滅の礎を獲得できた。誠に目出度い。」
劉備は目頭を熱くして諸将を見遣った。思えば曹操の下へ逃げ込んでから23年・・・・まさか此の日が来るなぞ想いも寄らぬ放浪の日々で在った。
「今宵は飲もう。勝利の美酒を飲んで飲んで飲み捲くって、心の
底から此の快挙を祝い合おうではないか!!」
「父上、誠に誠に、お目出度う御座います!」
家臣団を代表して【劉封りゅうほう】が慶賀の言葉を発した。
「ウム、みな本当に御苦労であった!恩賞の沙汰は後日の事と
して、今は 兎に角、勝利の美酒を酌み交わそうぞ!」
劉備は、〔我が子〕の成長と活躍を、心の底から喜んで居る風に見える。今此処に居るのは、共に戦場を駆け廻った命知らずの武士もののふ達で在る。細かい事には 無頓着な、豪放磊落な武人
気質に満ちて居る。純粋に勝利を喜んで居る。 然も、【張飛】・
【趙雲】の2人を除けば、あとの全員は皆、未だ付き合いの日々も浅い者達ばかりで在った。にも関わらず、曹操の大軍団に挑み、そして勝った!!のである・・・・夏侯淵を討ち取った【黄忠】は
9年前、【馬超】は5年前、【魏延】ら他の多くの部将は
殆んどが 「益州」で初めて参入して来た者達で在った。養子の劉封が劉備の子で在る事に何の違和感も持たぬばかりか、寧ろ 皆 その活躍ぶりを称讃して惜しま無かった。そして、そんな新興の勢いこそが即ち、〔蜀〕の国を築いたのであり今は3国の中で最も”上げ潮”の波に乗って、〔天の時〕を得た国・・・・
それが実感できる劉備玄徳で在った。
「よ〜し、飲むぞ!この世の酒を全〜んぶ飲み尽くして呉れようぞ!」
その感動を【張飛】は、其う言い表わした。
「この勝利を知ったら、さぞや関羽の兄貴も喜ぶだろうナア・・・・」
今この現場に居無い重鎮は、「関羽」と「諸葛亮」とであったが、長く離れた儘になって居て、然も旗挙げ以来の義兄弟と謂えば、張飛にとって其れは断然、〔関羽兄貴〕の姿で在った。荊州で別れて以来、はや7年の歳月が過ぎ様としている・・・・
「関アニイ、喜んで呉れ!此の身は離れて居ようとも、我等の心は常に1つじゃぞ!未だ此の勝利は知らず居ろうが、思えば関アニイが独りで荊州を守り通し、敵の動きを封じて居て呉れたからこそ、この勝利が得られたのだナア〜・・・・。」
宴の合間に席を立って、劉備と2人だけで 沁み沁み関羽を思い遣る、弟の張飛で在った。
「玄徳兄ィ!何時に成ったら又、昔の様に、我等3兄弟が一緒に居られる様に成るのだ!?嬉しい日だが矢張り俺りゃあチビッと寂しい・・・・。」
「うん、その気持は儂とて同じじゃ。だが3人の中で1番辛く寂しい思いを我慢して呉れて居たのは関羽だ。然し今、漢中のケリが着いたからには、今度は関羽に暴れて貰う時が来た様だ。」
「では、いよいよ関アニイは北上するのか!?」
「曹操は今、〔天の時〕を失い、心身ともに弱って居よう。 また、
〔地の利〕も最悪の場所に居る。〔人の和〕も亦、今の健康状態
では保てまい。それとは逆に、我々は天・地・人・3要素の全てに於いて絶好調である。時、まさに来たれり!! この巡って来た
好機を逃さず、儂は一気に勝負に出ようと思って居るのじゃ!」
「そうか、善し!では俺を荊州に送って呉れ。関アニイと一緒に
”許都”迄、いや黄河の畔までを手に入れて見せるわい!」
「その心意気や善し!・・・じゃが益州には張飛、お前の力が必要なのじゃ。北は曹操を長安に釘付けとし、南は益州全土に睨みを効かす。そして曹操を此処に引き付けて置き、関羽が荊州で思う存分に働くーー即ち是れこそ、兄弟の連繋である。互いが互いを助け合い、相い呼応して 曹操を破る為の 奥義じゃ!!よいな、
解って呉れよ。」
「そうだな。曹操は更に”関中”を失う事を恐れ、長安からは動くに動け無いと云う訳か・・・!ム、曹操20万を、俺のひと睨みで手玉に取るのも痛快ってもんか!? ワハハハハ、それが 関アニイの助けに成るので在れば、文句も言えぬわい。よ〜し、解った。
じゃあ又、呑み直しと行こうか、我が御主君様!」
是れで劉備は終に、「漢中」と云う 1大緩衝
地帯を手に入れ、蜀本国の独立を確保したのである!もはや 国内での不満分子の跋扈は自然消滅し誰もが 劉備を新しい主君として仰ぐ事に異議を唱える事は無く
成った。ーー殆んど丸腰状態の儘で益州に乗り込んでから8年
・・・多くの者達を取り込み、また支えられた
劉備玄徳は、終に実質上、
蜀の君主の座を得たのである!!
一方の曹操・・・・旺時の覇気は、全く見られ無く成って居た。周囲が常に気を遣わなくてはならぬ程に衰弱が甚だしかった、( のであろう。)
「漢中」を撤収して、5月に「長安」に到着するも、僅か350キロ東に在る「洛陽」に到着するのは、何と5ヶ月も後の10月の事になるのであった。誰が何う観ても、曹操本人が長安に5ヶ月もの間、ジッと留まって居る必要も理由も無い!にも関わらずである。そして爾後の記録も亦、余りにも寂しい。
長安滞在中に曹操が為した決定事項は3つ。何れも、曹操で無くとも発し得る様な、無難で平凡な内容ばかりであった。ーー先ず1つは、戦後処理として、【曹真】に命じて、「武都郡」に駐屯する曹洪軍を迎えに行かせた。過日、張飛・馬超を武都から追い出した【曹洪】だったが、その後も駐屯を続け、側面支援の任務に当って居たのである。劉備優勢!を知った武都の人心は、それだけ不安定で、捨てては置け無かった証左である。その曹洪軍を無事に迎え取り、この際 「武都郡」も放棄させたのである。ーー即ち曹魏は、「漢中盆地」だけでは無く、その周囲の山岳地帯からも全て手を退く事に決したのである・・・・。
その代りに、漢中を得て調子づいた劉備が、涼州へ進出する事を防ぐ為に、その〔散関ルート〕の出口に当る「陳倉」に【曹真】を駐屯させ、蜀の封鎖を図ったのだ。→この措置に拠り、”見た目の上”の蜀の版図は、秦嶺チンリン山脈全体にまで及んだ訳である。
尤も本書の読者諸氏には既に、この一見して弱気な魏の姿勢は決して故無き決定では無く、”名目” なぞ気にせずに済むだけの
”実”を取り切った挙句の、至極妥当な決定だった事を識って居る劉備は唯、《蛻の殻の地面だけを得た》に過ぎぬ。「武都郡」にも人影を残さず・・・・鶏肋=まさに鶏ガラだけを与えたのであった。
次に決めた事は、正妻・卞夫人を〔王后〕に昇格させる事であった。確かに魏王・曹操としては手順を踏んだ訳だが、「何を今更!」である。曹操個人としての、糟糠の妻に対する私的な感謝の意味合が濃い、コップの中の決定に過ぎぬ。然も、夫人が喜ぶ顔すら見えぬ 遠方からの布令に過ぎ無かったのである。曹操の健康状態が気に掛かる傍証と謂える。
3つ目の決定は、やっと対面が叶った、2男・【曹彰】の処遇であった。因みに、代郡・烏丸の叛乱を平定したばかりの曹彰が、曹操の召請に応えて駆け付け、「長安」で対面する迄の経緯に
ついては 2説 ある。
『正史』は、曹操が既に長安に撤退した時に呼び寄せた、とする。
『魏略』は、漢中で対戦中に呼び寄せたが互いに行き違いと成り後追いの格好で長安にて対面した、とする。どっちでっも好い様な話だが、呼んだ曹操の主目的が多少異なって来る。前者では 「長安を任せる為」 と成るが、 後者では 「蜀軍と戦闘させる為」だった事と成る。
又 2つの史書は夫々に異なったエピソードを記している。どちらも大勢に全く影響の無い事柄では有るがチョット面白いネタなので省略せず紹介して措く。元々【曹彰】に関する記述が少ない事もあり、〔親子の関係〕を知る上でも貴重である。
※『魏略』の方は 既に 1部を紹介して有るがーー劉備が山の上から降りて来ず、時折、劉封を下山させては 挑発するのに 業を煮やした曹操は、口汚く
劉備を罵って言った。「くつ屋の子倅の癖に成長すると偽の子を使って俺様に抵抗するとは笑止千万!我が黄鬚を呼んで来て攻撃させるから待って居れ!」ーーそこで曹彰を召し寄せた。曹彰は朝も夜も道を進み、西方の長安に到着したが、太祖は既に帰還していた為、漢中を通って帰った。曹彰の鬚が黄色だったので、そう呼んだのである。』
※『正史』の記述では、曹彰は業卩を通った時に太子の【曹丕】に忠告を受けたとする。「自慢せずに受け答えは全て控え目にするが良いぞ!」・・・この忠告は文字通りの忠告だったのか?果また2男を牽制する為の含みが有ったのか?・・・其処ら辺りは何とも微妙なニュアンスであるが、結果として曹彰は、其の言葉通りに振舞い、手柄を全て部下のものとして報告した為に、曹操は大満悦して喜び、曹彰の手を取って言うのだった。
「黄鬚よ、全く立派に成り居ったわい!!」
このエピソードから判る事は・・・・曹操は日頃から2男の曹彰を『黄鬚!』と呼んでは、武人として可愛いがって居たのであろう事又 その反面、傲慢で粗野な一面を 疎んじても居たであろう事。
更には、太子に成った曹丕にとっては、此の肌合いの異なる猛獣の如き弟の〔剛毅〕さは、太子の地位を獲得しても尚、一抹の恐れを抱かせる程の”何か”を持って居た!と云う事であり、そして其れは、3男・曹植に対するのとは別種類の屈折した兄弟関係で在ったろう事であるーー何れにせよ曹操からの曹彰の評価はグンと高まったのであった。恐らく曹操は将来、この2男・曹彰に夏侯淵が担当していた〔征西将軍〕の役割を任せ、後継者レースには無縁で、何のシコリも無い兄弟同士が協力し合って、魏王朝を磐石なものとする構想を、半分くらいは期待して居た・・・そうとも取れる決定を下したのである。
『太祖は東に帰る時、曹彰を越騎将軍代行として、長安に留め置いた。』 のである。
以上、〔曹真の陳倉駐屯〕・〔卞夫人の王后昇格〕・〔曹彰の長安駐屯〕 の3つの決定が、曹操が5ヶ月、長安に留まって居た間に為した事の全てで有ったのである。物足り無さを感じるのは 筆者だけではあるまい。何がし、曹魏の停滞傾向・引き潮現象が感得される記述ではある・・・・。
漢中戦役大勝利!に沸き立つ饗宴の最中・・飲めや歌えの喧騒の席で 唯1人、”その男”だけは 沈着冷静を保って居た。その男にとっては此の勝利も未だ、大戦略の
ほんの序章に過ぎ無かったのである。彼にとっての本当の戦いは、寧ろ是れからが正念場で在ったのだーー
今、蜀の国は、初めて
〔四川盆地〕と〔漢中盆地〕の2つを確保し、是れで《益州》の全てを手に入れたのではあるが、その地図上の版図拡大は決して手放しで喜べる代物では無かった。
無人の荒野と化した「漢中」は、謂わば寧ろ「負の遺産」を背負い込んだに等しい。元通りに復興させるには、益州の外からの補完・手当が必要で有り、順調にいってさえ10年以上の苦難が予想される。
そして其の外部とは、独り関羽が死守している《荊州の確保》に外なら無かった。即ち、現在3国に拠って3分割されている
荊州領内から魏の勢力を完全に駆逐して、〔漢中←→荊州北部の大動脈〕を構築する事こそが愁眉の急であったのである。漢水を安心して利用できる状態を確保し得た時こそ、初めて【蜀】の国に真の安堵が訪れるのだ・・・そして、その鍵を握るのは、ひとえに唯、〔関羽の北上!〕の成否 如何に拠るのであった。但しひとたび北上を開始したら、絶対に中途半端な撤退は許されぬ。関羽の撤退は、荊州全てを失う危険性 と 同義である可能性が強い。故に其の準備には万全を期して措かなければならぬ!!
そうした一連の〔大戦略構想〕を冷静沈着に練り上げて居た其の男とは誰あろう、軍師の法正で在った。 ーー確かに是れで、劉備の【蜀】は、大まかな行政区画から謂えば、〔益州全体〕
と 〔荊州の西半分〕 とに跨る 1大国家を形成する事と成った。その新しい国境線を、地形の上から言い換えれば・・・・
〔漢水の南側を全て押さえた!〕 とも 表現し得るのである。この漢中盆地に源を発し、東へと流れ下り、やがて大山塊を抜けた
地点で南方へ大きくカーブし、全長1000キロを経て長江へと注ぎ込む
中国有数の大河・・・・それが〔漢水〕である。今し、荊州支配を巡る魏・呉・蜀3国の国境線は、この漢水を以って形作られて居たのであるーー
漢水の北側を魏が東側を呉が、そして蜀は南側全域を自国版図に囲み込む形と成ったのである。だが然し唯1ヶ所だけこの構図が犯されている場所が残って居た。大山塊の峡谷を東流して来た漢水が、正に荊州大平原に流れ出す寸前のちょうど地形も折半したかの如き、〔房陵郡〕と〔上庸郡〕の存在であった。中規模の盆地で、漢水の南側に位置している。そして此処だけが唯一、魏の支配下に在った。詰り、魏と蜀の国境線が、此処の部分だけ凸凹に突出して居たのである。普段なら何うでも良い様な場所なのだが、「関羽の北上」が現実と成った今、俄にその存在意義がクローズアップされて来たのである。即ち・・・・
もし関羽が漢水を突破し、北上を敢行する場合、その左脇腹に
敵の匕首が突き付けられた儘の格好に成ってしまう危惧が残るのである。その決行前に取り除き、逆に関羽を支援する味方の陣営として措かねばならぬ。今や「房陵・上庸」は漢中にとっても荊州北部への進出口・連絡路として、極めて重要な軍事・交通の要衝と成ったのである。とは謂え、関羽自身が其んな余計な作戦で兵を動かすのは如何にも拙劣である・・・と成れば、誰か現地に在る別将に、その 〔房陵・上庸 奪取作戦〕 を命ずるしか
無い。と謂うよりも、軍師の【法正】は、この日の為にこそ、自分の
”竹馬の友” を 現地に温存して在ったのである。その親友は今、この房陵郡の真南に当る「宜都郡太守」の任に就いて居た。その親友に そのまま陸路を北上させ、 関羽の手を 煩わせる事 無く
「房陵・上庸」を制圧して貰い、爾後は要衝の押さえとして魏軍と対峙、関羽を側面から支援させる・・・・!!
記憶の良い諸氏には、その〔法正の親友〕の名を聞けば、《ああ、彼か!》 と直ちに思い出されるであろうが、この際は態と持って廻った紹介をしよう。
先ず彼の父親であるが、その名を知る人は少なくとも、この父親が為したアクドイ行為だけは夙に有名であろうーー宦官の大ボスで在った【張譲】に、当時は貴重だった”葡萄酒”1石を贈り、その見返りとして即刻、涼州刺史を拝命したのが、この父親・【孟他】だったのである。宦官の巨大な権力を語る場合の逸話として、また葡萄酒の貴重さを示す逸話としても屡々登場して来る。この父親は西方・扶風の出身だったが、当時の西方は漢王朝には不服従の地域で有った為に、孟他は一念発起して洛陽に登り権力絶大な張譲に取り入ろうと目論んだ。家財を叩いて賄賂攻勢に及んだのである。その場合、取り次ぎを司って居たのは”奴隷頭”で在った為に、孟他は全財産を その奴隷頭に賄賂として贈り続けた。
だが連日、門前山を成す贈賄者の中では、孟他ごとき田舎者の存在など歯牙にも掛けられず、とうとう孟他は破産してしまった。流石に
奴隷達も面目なく思って、最後に1つ願いを聞くと、孟他は言うのだった。「あなた方の礼拝だけが望みです」・・・この作戦が見事に図に当たる。頭を下げる格好さえすれば済むのだから、奴隷達は承知した。1日平均で数百台の車が門前に押し掛けては取り次ぎを頼むのだから、多くの者達は何日も待たされた挙句終には放置される者達が続出した。
そんな最中、孟他は1番最後に乗り着けるや、奴隷達は約束通り彼に恭しく礼拝し、他の者達を差し置いて彼の車1台だけを中に招き入れた。勿論、もうビタ一文も持っては居無い芝居であった。処が予想した通り、門外で待ち呆けを喰らわされて居た者達は、そんな孟他の特別待遇を見て、是れは張譲と親密な人物に違い無い!と思い込み、先を争って孟他への賄賂攻勢を掛けて来たのである。ウハウハの孟他は、爾後他人の褌で相撲を取り続け
終には葡萄酒1石を張譲本人に贈り付ける迄に伸し上がったのだった・・・・その孟他の子がーー法正の親友・
【孟達 子敬】なので在った。
仔細は判らぬが、葡萄酒で涼州刺史を拝命した直後に、張譲は投身自殺に追い込まれたのだから、孟一族の凋落は想像に難く無い。残ったのは汚名だけで在っただろう。但し1時は良い思いもして息子の養育費位は工面し得たでもあろうか。『法正伝』には
・・・・『建安の初年(196年)、天下は飢饉に見舞われ、法正は同郡 (扶風) の孟達と共に蜀に行き、劉璋の元に身を寄せた。』 とある。
以後の経緯は既述の如くであるが、孟達の部分だけを思い起して措くと、『劉璋伝』には・・・『劉璋は張松の言う事を全て尤もだと考え、法正を派遣して先主と好みを通じさせ、続いてまた法正と孟達に 兵を数千人送らせて、先主の防衛を援助させた。かくて
法正は帰還した。張松は再び・・・・』 また 『劉封伝』 に曰く・・・・
『劉璋は扶風の孟達を、法正の副将として荊州へ派遣し、各々 兵
2千を統率させて、先主を迎えに遣らせた。先主は其のまま孟達に、その軍勢を纏めて指揮させ、江陵に駐屯する事を命じた。』
詰り孟達は、法正が劉備を先導して益州に向う以前の時点から、済し崩し的に 劉備の家臣と成って居た 訳である。ーーそして
『蜀が平定された後、( 劉備は)孟達を宜都太守に任命した。』
・・・・と云う次第で、法正の友人・孟達は今、房陵征討スタンバイ OK!の状態に在るのだった。ーーそこへ 劉備からの命令書が
届けられたのである。
房陵を討ち、進んで上庸を平定せよ!!
準備万端、満を持して居た孟達は「禾弟帰しき」から陸路、山中を真北に進撃。房陵太守の「萠祺かいき」は 防戦空しく、その首を斬られた。ーーかくて、作戦の第1段階は、孟達の部将としての名声を高めつつ、完遂されたのである!!
法正が見込んだ孟達は、その親友の期待に応えて素早く、然も美事に作戦を進めたのである。後は第2段階の上庸攻略を残すのみ!と 成った。
勢いに乗る孟達は当然の事として、直ちに軍を西隣の「上庸」へ向けんと、再度の準備に取り掛かった。・・・・処が、ここで孟達にとっては心外な、思わぬ事態が生じたのである。劉備からの緊急命令が届けられ、その進軍にストップが掛けられたのだ。
その命令書に曰く、
『上庸にて劉封の到着を待ち、
その指揮下に入った後に、上庸を討て!!』
ガア〜ン!!・・・疑われたのである!!
親友の法正が、其んな事を進言する筈は、絶対に無い。ーーと謂う事は、その忠誠心を、劉備自身から疑われたのである!!無論、そんな気持は孟達には微塵も無かった但し、この当時の常套手段として、敵側からの”謀略戦”は頻りであった。魏は太子・曹丕の名を使って盛んに 誘いの密書を 送り付けて来ていた。 だが、そんな事は 何も孟達に限った事では
無かったのであり、誰へも 仕掛けられる 謀略戦の恒であった。
《恐らく、父の生前の所業が加味された結果の”誤解”であろう》
面白くは無かったが、孟達は親友・法正の立場も考え、その指示に従った。ーーで、その劉備の疑心暗鬼についてだが、正史は唯 『劉封伝』に於いて
先主は孟達独りに任せるのに内心で躊躇を感じたので 劉封を派遣して〜〜孟達の軍を統率させる事とし〜』とのみ記しその劉備の直感だけを理由とし、具体的な原因は何も挙げて居無い。是では読む者は納得し兼ねるのだが、陳寿にも何故かは判然と しなかったのであろう。 但し、爾後の 寝返りの史実から
逆算して、一言コメントを入れて措いたと読むべきであろう。尚、この【孟達】と云う人物・・・父親・孟他が有した〔胡乱の遺伝子〕と、親友・法正が見込む〔有将の遺伝子〕との其の両面を合わせ持って居た事が、程無く現れて来る。のちに彼の人物を品定めに派遣された魏の使者の評価は・・・・『将軍の器です!』・『天子を補佐する大臣の器です!』・『楽毅の器量が御座います!』・・・であり、魏略は更に『ゆったりとして優雅で在り、才能と弁舌は傑出して居り、注目しない者は居無かった。』・・・・とまで記す。だから才能は豊かで在ったのには違い無い。だが然し、筆者に命名させれば、差し詰め、白黒有為転変の『オセロ将軍!』と謂った処であろうか?? 魏・蜀 の狭間に在って 常に揺れ動き、歴史を翻弄し、歴史に翻弄される事と成るーー
だが、その潜伏する資質を逸早く察知した人物が【劉備】だった!と云う訳なのだが・・・・その”しこり”が”澱”と成り、更には本物の
”叛心”と成って行くとしたら、 その全ての始まりは、 この劉備の
疑心暗鬼こそが、その発端で在った、と謂える、 のかも 知れ無い。
そして其の引き金に成ったのは、恐らく、親友・法正の急死 ( 翌
220年) だったのではあるまいか?元々、劉備への仕官・臣従は親友との絆を介してのものだったのであるから、その抑止力だった法正が死ねば、その絆が途切れたとしても、自身を納得させ得たのであろう・・・・と 思う。
処で、この緊急措置に於いて、もっと重大で ”判らぬ事” と謂えば・・・・この時期に於ける、
劉備の、〔劉封に対する心中〕 である。
一見すれば、孟達への不信とは反比例して、その信任の度合は絶大!と謂う事に成る。だが、果して額面通りに受け取って良いものであろうか?? その湧き出ずる疑問の源泉が、な辺に在るやは 改めて言う迄もあるまい。劉封は、劉備の「養子」であり、公的身分は《嫡男》である。即ち後継者である!
・・・筈で在った。今27、28歳の血気盛り→処が其の後になって直系の実子である【阿斗=のちの劉禅】が生れた。今年13歳。
劉備は59歳なのだから、白黒つけるべきタイムリミットの瀬戸際に置かれて居た事になる。・・・・この悲劇については別節で詳述するが、劉備の真意は兎も角、父親から信任され、重大な任務を与えられた劉封は、さぞかし勇み逸って「上庸」へと”漢水”を下った事であろう。
但し、蜀には 〔漢水用の水軍〕が無かった!そもそも先代に当る「張魯の五斗米道国」は鎖国政策を採って居たから、殆んど漢水の活用を肯んじ無かった。まして”鶏ガラ”を与えられたばかりの劉備には、水軍を創る時間も資力も無かった。だから劉封は、旧姓・李厳の「李平」と共に、僅かな将兵を連れて船上の人となった。今の場合は其れで間に合った。
だが、この漢水水軍の不在は、蜀軍の荊州北部への進出・関羽の北上に際しては、何の支援も果せぬ大きなマイナス要素と成るのである。現時点では波に乗る劉備の蜀だが、その限界を象徴する劉封の”単身船下り”では有るのだったーー
更に又、複雑な
人間関係にも言及して措くならば、本題の主人公たる【関羽】と、それを側面支援すべき【劉封】と【孟達】との2人は夫々に異なる理由から、関羽に対して一方的に《含む処》の在る間柄で在ったのである。気に掛けて居無いのは、当の関羽だけだった・・・・。
斯様に、この上庸平定戦は、それに関わる直接・間接の人間関係を含めて、何がし”波乱含み”の船出だったが案の定、劉封が到着した途端から 今度は、味方同士の確執が 表面化した。
寡兵の【劉封】にしてみれば、大軍を擁する相手を 御すのには
《己は劉備の息子で在る!》 との権威を振り翳すしか無かった。尉階で謂えば劉封は副軍では在るが〔中郎将〕に過ぎず、孟達は〔将軍〕で在ったのだから尚更であった。
一方の【孟達】にしてみれば、営々として育てて来た自分の将兵を、ヒョイと遣って来た若僧に 全て取り上げられるのだから、 面白い筈も無い。 まして
相手が振り翳す〔嫡男〕と云う権威は羽の様に軽い、何の保証も無い自己主張に過ぎぬ。ーーそれが互いの態度に自ずから滲み出し、反目の雰囲気を醸し出した。・・・・だが当面は2人共に与えられた任務を遂行せずばならず、未だ決定的な不協和音までには至ら無かった。それは戦後に顕著となる。
曹操から任命されて居た「上庸太守」は、現地豪族の
【申耽しんたん】であった。偶々2国の国境線上に在った為に、その
争奪戦に引き摺り込まれた格好。元々在地の者で格別な忠誠心なぞ持ち合わせては居無いのだから、城を大軍に包囲される前に、自分の方から全面降伏を申し出て来た。そして蜀への帰順に 2心が無い証拠として、妻子と一族を「成都」へ人質として自発的に赴かせたのであるーーそれに対して劉備は寛大な処置で臨み寧ろ 新たな家臣を得た!と云う態度で申耽を遇した。元の上庸太守を引き続き受け持たせた上に、征北将軍の号を与え、弟の【申儀】にも 建信将軍の号と 西城太守を命じたのである・・・だが結果論から謂えば、この劉備の処置は”甘過ぎた”事と成る。とは謂え、それも之も、全ては関羽の戦いから派生する問題である。
ーーかくて、〔関羽の北上作戦〕の前段階としての、「房陵・上庸平定戦」は 目論み通りに成功を納め、蜀領土内に 喰い込んで居た 魏の勢力は一掃されたのであった。
そして気付いてみれば・・・・何と、劉備の蜀は、5年前に誕生して以来の最大版図と成って居たのである!!
何も 彼も 絶好調!!こう成れば、いよいよ、
蜀の未来を統括する飛龍・諸葛亮の出番であるーーズバリ今、この瞬間に狙い定めて龍の背中に主君を乗せ、中国の高みへと 天翔けるのである。
即ち・・・・
劉備玄徳を王の位に就けるのだ!【第226節】劉備満開 漢中王!(正統論エンクロージャー)へ