【第222節】
諸 葛 亮  の  罪
                                   夏侯淵戦死の衝撃!

早晩、蜀からの総攻撃を覚悟はして居た張合卩徐晃

「今更、何も言うまい。兎に角、総司令官が引き返して来る迄は応戦して其の指示を仰ぐ事としよう。」
軍法上、戦う前に1将軍の勝手な判断で全軍を動かす事は出来無い。張合卩が悔やむのは、此処まで来てしまった其の根本の事であった。本来的には、彼ら駐留軍の使命は、曹操本隊が到着するまで、何が有っても野戦は避け、戦うのであれば籠城戦で持ち堪える・・・・それが唯一絶対の至上命題だった筈だ。処が現実はズルズルと引き寄せられ、対峙してしまった。今更だった。
「互いの軍を絶対に離すまいぞ。一塊に成るしか無い情況じゃ。」 「此処では未だ死ねぬ。何としても魏王を御迎えせねばな!」

漢中に駐屯する魏の士卒は、全員が ”北方の出身者” で占め
られて居た。 だから彼等は、最初から 退路は断たれて居た。
逃げ戻る場所は無かった。敵が来たら 必死に戦うしか 生き残る
道は無い!その事は軍の隅々迄自覚されて居た。是れ即ち精兵で在った。・・・・互いに退く事を肯んじない将兵同士が ぶつかり合い白兵戦と成った。総兵力では圧倒的に少ないとは謂うものの魏軍とて 2万近くの軍団で在った。死に物 狂いの、息つく暇とて無い凄絶な殺し合いが始まった!!

(
今は亡くなられた 或る戦争体験者から伺った話によるとーー恐ろしいのは始まる直前迄で、始まってしまえば、一種の感覚麻痺・錯乱状態と成り、何だか他人事の様な夢遊の劇に出演して居る如き感じだった・・・と謂う。最も恐ろしいのは寧ろ、生き残った直後で、ゾクッと 急激に 全てが愛うしくて堪ら無く成り、全身が死の恐怖に慄き、心底
から生きたい!と執着の亡者と成った、との事であった。)

個々の感情など問題にもならぬ巨大な暴力の渦・・・だが徐々に魏軍の劣勢が蔽い難く成り始めた。援軍が欲しい。
「伝令!征西将軍様に 直ちに戻って戴け!騎兵1千は大きい。」 戦場を離脱するにしても、総司令官の命令を聴かずには決定できぬ。まして置き去りにするなぞ以っての外であった。

その伝令の報せを聞き、夏侯淵が自分の麾下から割いて派出した500の騎兵部隊・・・・あと一走りで東部戦線に辿り着く
・・・・筈であった。その途中で行く手を遮られた。突如、前方の道の中央に、夥しい火の手が出現したのだ。慌てた騎兵部隊長は迂回を試みるが、前以って厳選された待ち伏用の地形であった
気付けば両側は崖に囲まれた切り通しだった左右への逃れ様は無かった。急遽馬首を巡らし、後方への脱出を図るが、時既に遅く其方にも松明が現われた。「しまった!罠に嵌められたか?」 翊軍将軍・【趙雲】率いる伏勢部隊であった!「もはや逃れられぬぞ。無益な抵抗は已めて、降伏するが賢明な方途であろう!」

「我が虎豹騎に降伏なぞ無い!生きるか死ぬか、2つに1つ!」

「よくぞ申した。では心置き無く参る!」 「おう、望む処じゃ!」

此処でも亦、500騎が全滅する迄の、凄絶な戦闘が始まった。


走馬谷→500騎だけに成った征西将軍夏侯淵だったが、敵の工作部隊は忽ち四散し、放火も延焼を喰い止めた。
「後の修復は御前達に任せる。さあ我等は急ぎ東に戻るぞ!」
味方の歩兵部隊に言い置くと、夏侯淵は馬上に身を翻した。
ーーと、その瞬間であった。鎮火しかけている逆茂木の向う側に山津波が起った!!いや山津波と思う程の敵の大軍が、中腹の高みから一斉に突貫攻撃して来たのである。先鋒を騎馬軍団が占める、本格的な大部隊であった。と、次には 其の両翼からも
ドッと歩兵の大集団が押し寄せて来た。 軍鼓と 鐘の乱打音が、
狭い走馬谷一杯に轟いた。喊声が其れを凌ぐ。気付くと背後も同じ様な状況に成っていた。軍師・法正から暮れ暮れもと特命を受けて、ジッと待機し続けて居た討虜将軍の
黄忠軍であった!!

※この「黄忠軍との激突の場面」は、どの様にも描き得る。ーー例えば・・・・到着した夏侯淵部隊が攻め掛かると、魏側はワッとばかりに逃げ出して山の上へと逃げ込んだ。夏侯淵は、それを追撃して山を駆け上がるが、此の退却は”陽動・罠”で有り、中腹の高みには黄忠本軍が隠れ潜んで居たのだった。そして不用意に登って来た魏の部隊に対し、黄忠軍は 其の高い位置を利用して 一挙に山肌を駆け下り、夏侯淵の部隊を
”逆落とし”に撃破したのである・・・・と云う具合に・・・・。

「征西将軍様、是れは容易ならぬ事態で御座いまするぞ。交戦は諦めて、本営へ御退き下されませ!」
既に四方で白兵戦が始まる中、副官が意見具申した。
「嗚呼、我が行動は既に、敵に見破られて居たか!?」
夏侯淵は、今更ながらに臍を噛んで呟く。
「我ら精鋭の虎と豹、殿の楯と成って必ずや御守り致しまする!」

この忠烈無比で最精鋭の”虎豹騎”。その500が一丸と成って
猛威を振るえば、如何なる敵の重包囲も破れぬ事は在るまい。
だが夏侯淵は言った。
「いや東の本営も、既に敵の総攻撃を受けて居よう。右往左往
して、あたら死に場所を失っては末代までの恥と成る。」

夏侯淵は咄嗟に《己の最期》を予知し得た。それ程までに圧倒的な彼我の兵力差で有った。たとえ此の場を逃れても、途中で雑兵の手に掛かる事は明白であった。

「いずれ魏王が到着されれば、この漢中は未来永劫まで安泰である。斯くなる上は此の夏侯淵妙才、その最期を華々しく飾って、せめて敵を1人でも多く片付けて魏王朝の礎・人柱と成らん!!
・・・・皆も、〔覇王・項羽〕の壮烈なる最期を思い、後々の世までの語り草と成ろうではないか!!」

最期は僅か15騎で敵の1千を屠って涯てた項羽の英雄伝説は、武人にとっては憧れの死に様で在った。もはや夏侯淵は軍政家の立場を棄て、唯1個の純粋な武人としての立場に身を置くしか無かったのである。
「おお〜!!」 期せずして共感の鬨の声が挙がった。そうと覚悟が定まれば後に待っているのは只ひたすらの激闘殺戮の応酬であった。圧倒的な重包囲にも関わらず、寧ろ寡兵な魏の部隊の方が攻勢を取る状況が出現した。逃げ惑う敵を突き立て切り伏せ、薙ぎ払い、踏み潰す。月下の大激越であった。余裕を持って後方に在った【黄忠】、意外な展開に眼を剥き周囲を叱咤激励すると同時に、自らが最前線に踊り出て、敵の攻勢を跳ね返し始めた。その姿に励まされた蜀軍が再び攻撃の輪を狭めるするや又しても夏侯淵の猛攻。一進一退の鬩ぎ合いが繰り広げられる・・・・だが激戦3刻 (45分)・・・さしもの虎豹騎と夏侯淵にも破断界が迫りつつ有った。500が300と成り、更に200が100と減り、そして終には 2桁が1桁と成り果てんとして居た。と、その時
「それに御座るは、夏・征西将軍どのと御見受け致した!もはや逃れる事は不可能じゃ。最期は武人らしく一騎打ちで参られよ!

「そう申すは白髪白鬚。さては討虜将軍の黄忠であるか!?」

「如何にも左様にて候う。今更、軍門に下れとは申すまい。いざ尋常に勝負仕らん。参られよ!」

「有り難し。名も無き者の手に掛かるよりは、せめてもの餞じゃ。」

手合わせする前から勝負の行方は明瞭であった。既に夏侯淵の鎧はズタズタに裂け、体中に無数の矢が突き立って居た。至る所から出血し、上下に激しく揺れる肩は、呼吸すら儘ならぬ幽鬼に近かった。
「魏国・征西将軍、最期の一撃じゃ。まともに受け止められよ!」

「おう〜、然と承知!いざ、参られよ。」

周囲は最早、全ての戦闘が終結し、ただ 此の2将の姿だけが
松明の中に浮かび上がって居るだけであった。

「最期に何か言う事は御座るか?」

「魏王朝誕生の瞬間を、此の眼で見られぬのは無念じゃったが、
然し面白き一生で在った。夏侯淵妙才、我が生涯に悔い無し!」

言い様、乾坤の一撃が振り下ろされた。黄忠は其れを真正面で受け止めると、躊躇う事無く、太刀を返して 相手を斬り下げた。
声を発する事も無く、その鎧兜は ユラリと傾いて 地上に落ちた。黄忠は下馬すると、所作に従い 其の首を斬った。

「黄忠漢升、魏の征西将軍・夏侯淵妙才どのの
 首級、いま確かに 頂戴仕ったア〜〜!!」


かくて征西将軍・夏侯淵妙才漢中・
 定軍山
・走馬谷にて 討ち死す!!

先主次于陽平関與淵・合卩等相拒。
24年、春。自陽平南渡シ丐水。縁山稍前。於定軍山勢作營。淵将兵來爭其地。先主命黄忠乘高鼓譟攻之。大破淵軍。斬淵合卩及曹公所署益州刺史趙禺頁等。
先主、陽平関に次 し、淵・合卩らと相 い拒ひさ ぐ。
24年春。陽平より南してシ丐 べんすい を渡り、山に縁り 稍やや前み
定軍山に於いて営を作る。淵、兵を将
ひきい来りて其の地を争う。
先主
黄忠に命じて高きに乗じ鼓譟こそうして之を攻め大いに淵の軍を破り、淵 (合卩?)及び曹公署す所の益州刺史・趙禺頁ちょうぎょうらを斬る。
『24年
(219年劉備は) 陽平関から南下してシ丐水を渡り、山に沿いつつ徐々に前進し、定軍山に陣営を築いた。 夏侯淵が兵を率いて来攻し、その地の争奪戦が繰り広げられた。 先主は黄忠に命令して、高所に登らせ 陣太鼓を打ち鳴らして 之を攻撃させ、
大いに夏侯淵の軍を撃ち破り、夏侯淵および曹操が任命した益州刺史の趙 禺頁らを
斬り殺した。
張合卩は誤記
  ーー(正史・先主伝)ーー

『24年、先主は 陽平から南に向い シ丐
水 を渡り、山沿いに少しずつ進んで 定軍・興勢に於いて陣営を張った。 夏侯淵は兵を率いて来襲し、其の地を奪い合った。 法正が
「攻撃すべきです!」と言うと、先主は黄忠に命じて、高所に登らせ、軍鼓を打ち鳴らし喊声を挙げて攻撃させ、夏侯淵の軍勢を大いに撃ち破り、夏侯淵らの首を斬った。
                                      ーー(
正史・法正伝)ーー

『24年正月、劉備は夜中、夏侯淵の陣営の囲いの 逆茂木に火を放った。 夏侯淵は、張合卩に東の囲いを守らせ、自分は軽装の兵士を率いて南の囲いを守った。 
劉備は 張合卩に挑戦し張合卩の軍勢は負け戦さと成った。 夏侯淵は自分の率いる兵士の
半分を分けて張合卩の助勢に当らせた所を劉備に襲撃された
かくて夏侯淵は戦死しびん侯と諡おくりなされた。』 ーー(正史・夏侯淵伝)ーー


『劉備は 走馬谷に 於いて、守備陣を焼き払った。夏侯淵は 火災の救援に向い、別の道を通り、劉備と遭遇し、戦闘となり 刀槍を交える白兵戦を繰り広げた。かくて夏侯淵は戦死し、張合卩は陽平に引き返した。』 ーー(
正史・張合卩伝)ーー

『建安24年、漢中の定軍山に於いて夏侯淵を攻撃した。夏侯淵の軍勢は非常に精悍であったが黄忠は鋒を突き立て、飽くまでも進撃し率先して士卒を励まし、鐘と太鼓は 天を振わせ、喊声は谷を轟かす程で、1度の戦闘で夏侯淵を斬り、夏侯淵の軍は大敗北した。征西将軍に昇進した。  ーー(
正史・黄忠伝)ーー

さあ、エライ事に成った!!漢中の魏軍は、最高司令官を失いその指示を仰ぐ事すら叶わなく成ってしまったのだ!!だが未だ東部戦線には、本軍主力万近くの将兵が戦闘中で在った。
頼みの曹操は遙か長安に居り、救援は間に合わぬ。
ーー果して・・・・
駐留軍命運如何に!?


                           


定軍山の東山麓・・・・
魏の本営は”破断界”を迎えていた

それまで何とか、山側からの蜀本軍
(劉備・張飛・馬超ら)の総攻撃を持ち堪えて居た魏軍だったが、南部からの蜀の支軍 (趙雲・黄忠) が到着するに及んで其の防禦の壁が終に崩れたのである。例えるなら大水に耐えて 限界ギリギリまで膨らんでいた堤が、或る瞬間に
ドッと決壊するに似ていた。魏軍の防塁は至る所で突破され、
その箇所から蜀の大軍がワッとばかりに雪崩れ込んだ。魏軍側には最早それを組織的に押し戻すだけの予備兵力は無かった。
後はもう、個々が 己の力だけで 退路を見い出して 逃避するしか
無い状況と成り果てていったーー事前に協同行動を打ち合わせて居た
合卩徐晃 も、夫れ夫れの陣が分断され、その約束を果すことすら能わない。終にはバラバラ状態に追い込まれ、最後は互いが別方向に戦線離脱する事を強いられる有様と成った。そんな極限状況の中、小さな逸話が生れた。・・・夏侯淵の末子で13歳の【夏侯栄】が討ち死にしたのである。 副官達は小柄な少年の身体を抱き抱えて脱出しようと図った。だが少年は毅然として逃走を拒絶、断固として言い放った。
「主君や肉親が危険な状況に在る時に、何で家臣や身内の者が己を惜しむのじゃ!まして今、我が父君の安否も未だ判らぬのに子である私が此処を去る事なぞ出来ぬではないか!私は飽く迄此処で戦い抜く!!」
そして・・・・切り死にして果てた。絶望的な状況を眼の前にしてのせめてもの心意気を示す1事と成った。だが、そんな些細な抵抗も空しく、戦況は 魏軍大潰走の 最終段階に移っていた。曹操が名目だけ益州刺史に任じていた【趙
禺頁ぎょう】なる人物も戦死。或る者は北方へ、又或る者は東方へと、散り散りに離脱。部隊の体を為さぬ敗兵が、八方へと雲散した。
大勝利!大敗北!であった。
だが此処で 軍師の
法正は 劉備に対して、漢中の主城・南鄭の奪取を断念させた。諸将は 口々に不満を漏らした。「南鄭城」 を奪取してこそ初めて、天下は 『蜀の漢中奪取成る!』 と観、喧伝する。政治的効果と、人心への影響力は測り知れない。反曹操勢力は一気に勢いづき、曹操は 益々孤立するであろう。 だが、『定軍山で勝利!』では ピンと来ない。天下に与えるインパクトは全く弱くなる。劉備も首を傾げて法正に訊ねた。

「兵理から謂って、南鄭を奪い、その城に立て籠もるのも中々に良い策だと儂には思えるのじゃが??」

「いえ其れは此の際、下の下策と申せます。未だ是れからこそが本当の正念場で御座います。曹操が程無く遣って参ります。今は天下の風評なぞ気にして居る場合では在りません。曹操との直接対決に備えるのが最優先なのです。」

「では南鄭に籠城するよりも善い策が有ると申すのじゃな!?」

「御座います!ですが今は先ず、敗残兵の掃討をキッチリ為さいませ。」
「うん左様であるか。この勝利も全て我が軍師の作戦の御蔭じゃ諸君も其の点に異存は有るまい。どうじゃな?」

この定軍山での勝利は勿論の事、【法正】無くしては、蜀の今日すら無かった事は誰しもが認める事実で在り、功績で在った。
劉備が全幅の信頼を寄せる其の一声で、諸将の口からは不満の声がピタリと止んだ。

魏の敗残兵・・・・その廃兵の嗅覚として、ほぼ全員が
申し合わせたかの様に 〔漢水の北側〕 へと集まりだした。漢水の流れが 蜀軍の追及を阻んで呉れる だろうとの、 希望的観測を
抱いたからであった
然し、其んな敗残兵達の一縷の希望を打ち消す様な、悲観的な噂が広まった。
『夏侯淵さま戦死!』・『司令部は全滅
、もはや指揮官は誰も居無く成った!』・・・寄る辺無き不安と恐怖が魏の将兵達の間に募り大恐慌を醸し出した。だが其処へ希望が現れた。道々で味方の兵を拾い集めながら漢水を渡った張合卩が半減したとは謂え数千の部隊を再編成して姿を現わしたのである。絶望の淵に在った敗残兵達の眼には神の様な有難さであった。
「先ず、手分けして、四散した味方を呼び集めるのじゃ!私は此の岸部に陣を構えて皆を待とう。1人でも多くの朋友を連れて来るのだ。恐らく未だこの3倍近くの味方が生き残って居る筈じゃ。それだけの兵力が集まれば堅陣を築いて見せる。2度と破れはせぬ。魏王が到着するまで必ず持ち堪えて諸君を故郷に連れて帰ると約束しよう!さあ、急ぐのじゃ!」

何をしたら良いのか判らずに自信喪失して居た将兵は、この勇将の毅然とした態度と指令とによって、再び己を取り戻して精兵化していった。ーーと其処へ夏侯淵の司馬だった郭淮が駆け付けて来た。急病の為に定軍山には出陣できず、無念の思いで「南鄭城」に臥せって居たのだが、味方の大敗北を知り
高熱を犯して馳せ参じて来たのだったその郭淮は到着するや否やその場に居合せた高官達と鳩首協議した。其処には幸い、漢中の馬付馬都尉・杜襲も居た。そこで軍の事務一切は杜襲が取り仕切る事とした上で、郭淮は全軍の〔司馬〕として、緊急の軍令を発した。

もはや征西将軍 (夏侯淵)様が討ち死されたのは間違い無い。こう成った以上は、直ちに 新たな総司令官を決めなければならん。今 事態は急迫しているが、張合卩将軍こそは国家の名将で在り劉備からも恐れられて居る。張将軍、国家名将、劉備所憚!この非常事態を乗り切り、全軍を落ち着かせられる人物は、張合卩殿を
置いて他に無い。そこで司馬たる私の権限で、
張合卩殿を我が軍の総司令官に任命する!
全軍、是れを魏王の御命令として承れ!


そこで張合卩は、郭淮と杜襲を随行させて自分の軍営を出ると、漢水の北岸に散在して居た他の陣営を探し出しては糾合していった。
徐晃
も無事で在った。そして郭淮らの決定にも 喜んで従った。 かくて定軍山で一敗地に塗れた〔魏の駐留軍〕は、劉備の掃討軍が襲い掛かって来る寸前に、辛うじて迎撃の態勢を整え直す事が出来たのだった。然し、その残存兵力は、戦前の半分近くに 激減して居た。だから 魏側が取り得る作戦 としては唯一、「漢水の水際」で、蜀の大軍が渡河して来る無抵抗状態の一瞬を捉え、弓矢攻撃で1方的に甚大な被害を与え、その追撃の意図を挫いて断念させる・・・その手しか無かった。必要なのは勝利を得る事では無く、 飽くまで 〔断念させる事〕 であった。 いざ曹操
本軍15万が遣って来た時の為に《兵力を温存して置きたい!》と思わせる事であった。
そこで魏軍は、蜀軍が渡河して来るであろう地点の北岸に、防禦陣地を設営しようとした。渡河に適した浅瀬の場所は限定されて居たから、設営場所の決定は容易であった。ーーだが此の時、司馬の【
郭淮】だけはその北岸沿いの陣地設営に断固反対して主張した。
「通常で在れば、それは最善の策と申せましょうが、今は1撃で
大勝するのが絶対必要条件の、極限の場合です。それを確実にする為には、陣営を川岸から
離れた場所に設営し、敵が無警戒に川を半分だけ渡った処を不意に襲うのが宜しいでしょう。敵の想定内の、通常尋常な兵法に留まって居ては、相手を断念させる可能性はゼロです。敵の想定外の陣を構える事の中にこそ、その可能性が出て来るのです!」
どちらを選ぶか!?・・・・その決定権は、新司令官 (都督)に推戴された張合卩の決断1つに拠った。魏の将兵3万の命が懸かった選択である。ーー「よし、軍司馬 (郭淮) の策を採ろう!!」

一方、定軍山での大勝利を確定した蜀軍本営ーーおのずから祝賀気分が横溢して居た。それを引き締める為に、
劉備が周囲に漏らした。
「夏侯淵の首は手に入れたが
未だ1番の大物の首は手に入って居らんではないか。こんな程度で喜んで居て、一体どうするんじゃ!!」
まあ、余裕の発言ではあるが、その劉備が言う1番の大物とは・・無論【
張合卩】の事を指す。奇しくも張合卩は、敵味方の双方からその器量を認められた事となる。 逆に謂えば夏侯淵は、敵からも余り評価されず、恐れられては居無かった、と云う事になる。

その『夏侯淵、討ち死に!』の詳報を、長安の本営で聞き知らされた曹操、絶句した。
都督たる者、みずから武器を取って戦う事すら慎まねばならぬものを、況や逆茂木の補修など、都督の為すべき事か・・・!?
                                        ーー(
太平御覧)ーー
無論、死者を鞭打つ為の発言では無く、そうした資質や危惧を
孕んだ夏侯淵を、敢えて〔征西将軍〕に配置した己自身に対する曹操の慙愧で在った。
以後この夏侯淵妙才は、本書に登場する事は無い。而して本書は彼の前半生については殆んど語って来無かった。手向けとして簡略に紹介して措かねば申し訳有るまい。
夏侯淵 妙才・・・・・・
独眼龍・夏侯惇とは従弟同士に当る。享年は不明であるが、夏侯惇が今や事実上は隠居している事などを勘案すれば、惇よりは数歳若い
60前後で在ったと想われる。
そして彼も亦、一族の”惇” (盲夏侯) 同様に若い時から曹操との因縁が深かった。
曹操が未だ挙兵する以前で故郷に居た時、県が管轄する事件に絡んで処刑されそうになった
(県官事=内容は不明な事件) 際、夏侯淵が身代わりと成って重罪を引き受け、直後に曹操が危うく救出した・・・・と云う濃密な間柄。一族間の序列が窺える逸話で
ある。と同時に、曹操の俊敏さに対する、夏侯淵の愚直さが仄見える逸話でもある。

曹操が旗挙げした最初から随行し、〔別部司馬〕・〔騎都尉〕→〔陳留太守〕・〔潁川太守〕などを任された。官渡戦の時には〔督軍校尉〕を代行。その後最も兵糧事情が悪かった時期には、専ら後方で食糧の確保と搬送を担当し、御蔭で曹操は群雄のトップに躍り出る事が出来た。 この事実から推して、
夏侯淵本来の手腕・才能は、寧ろ部将としてよりは後方支援分野の中に認められて居た様だ。だが、やがて曹操の版図が拡大するに連れて、彼の役割は実戦部隊の指揮官司令官へと変貌せざるを得無かった

裏切りや謀叛が当り前 の時期、曹操が 司令官に求めたのは、軍才よりも先ず
血縁に拠る絶対的な安心感・信頼度であった故である。だから曹操は夏侯淵のスピード1本槍の単純な性向には眼を瞑り、その代りに 有能な部将を配下に付ける 事によって、その
マイナス面をカバーさせた。最初は【于禁】で在り、次は【徐晃】更には【張合卩】が常に彼の傍らに配された
特に夏侯淵が西方 (関中・漢中) の方面軍総司令官の任に就くと実質上は「張合卩」が不可欠な重みを持つ事と成った。だから中には夏侯淵を揶揄して『白地将軍ただ血筋だけで何となく将軍を務めて居る人者・・・などと陰口を叩く者も在ったらしい。然し本人は晩年期に成ると、その点を自ら自覚し、部下を上手く使う事を心掛けて居た様子でもある。然しながら、最期には其の弱点が、自身の破滅を招く事と成ったのだった。とは謂え、曹魏政権にとって彼の存在と功績は矢張り大きい。九仞の功を一基に欠くのキライは有るが、その人柄や人格には、諸将が慕う如き 朴訥ささえ
感じられるーー
全国各地に居陣する全ての軍が、悲憤と哀悼の喪に服したのは言う迄も無い・・・・だが、個人への評価はさて置いても、魏国全軍に占める〔征西将軍〕と云う巨大な役割を考える時、その欠損の有する意味は格段に大きかった。曹操が営々として展開して来た〔XYZ3方面戦略〕 の基軸の1本が、一番肝腎な時に、ボキリと
失われたのである。未だ今の処は 辛うじて保持して居る 「漢中」ではあるが、行く先に暗雲が垂れ込めて来た事は否めない。

下手をすれば、一旦占有した直後に撤退した「荊州の二の舞」にも成り兼ねぬ。もし「漢中」を劉備に奪われれば、曹操の寿命から観ても、代替りの直ぐには、おいそれと奪還作戦は立てられず、蜀との国境線は此のまま漢中を抉り取られた格好で確定してしまうであろう。即ち〔劉蜀〕の独立を許し、その国家を永代に根付かせてしまう事と成ろう・・・・蓋し、この夏侯淵の大敗北は、今後の全国戦略・魏王朝立ち上げに取り返しのつかぬ支障を齎す事は確実であった。曹操が絶句したのも無理からぬ程の、痛恨の大衝撃であったのだ!!・・・・余談に類するが、夏侯淵の遺骸は、張飛の妻(少女時代に攫われた夏侯淵の姪?) の嘆願によって手厚く埋葬された と 『魏略』は謂う。

 さて蜀の本営・・・・敗走した魏軍の動向については、その観方が2つに分かれて居た。1つは、『もはや漢中には留まらず、捲土重来を期して長安へ引き上げ、後日に曹操本軍と一緒に成って遣って来るに違い無い』 とするもの。
もう1つは、『いや汚名挽回を期して、全滅覚悟で徹底抗戦を挑んで来るであろう!』 とするものであった。どちらも在り得る可能性では在ったが、昨日の今日である。大方の予想では、前者の方が濃厚だとの観方であった。

定軍山戦の翌日、戦線を整理し直した蜀の大軍は、意気揚々として残敵の掃討作戦に出陣した。目指す方角は北西の陽平関。その前に漢水を渡る事となる。と果して・・・大方の予想を覆して、魏の敗残軍は未だ其処に踏み止まって居たのである。然も意外に整然と、大軍団の様相を呈して旗幟も盛んに見えるのだった。更に驚かされたのは、その陣取る位置が岸部では無く、敢えて
奥まった場所に設けられて居た事であった。通常であれば、岸部沿いに細長く布陣して、渡河して来る敵を水際で追い落とすのが兵理である。それを無視した奇妙な陣取りであった。

「あれは何を企んでいるのか!?」 と、劉備法正にが質問した。

「企んで居ると思わせる事を企んで居るので御座います。」

「早い話が無手勝流か?」 「それを期待して居る様ですな。」

「では普通に攻めれば善いだけなのじゃな?」

「左様で御座います。」 「勝てるか?」 「勝てまする。」

「全滅させられるか?」 「出来まする。」

「では攻撃を開始させよう。」 「いえ、なりませぬ。」

「ーーん?何でじゃ・・・??」

「全滅させてはなりませぬ。もし此処で魏の残兵を全滅させれば曹操は退くに退けない状態に置かれます。周囲も黙っては居ないでしょう。報復を誓って、徹底的な攻撃を貫徹する覚悟を固めさせる事と成りまする。夏侯淵の場合は自業自得で自滅したとも解釈できますが、張合卩や徐晃・郭淮ら迄をも殺されたと成れば見過ごす訳には参りません。ですから飽くまで曹操には、”引き返す口実”を残して置いてやる方が得策です。」

「今 欲を掻いて小事に拘るよりも、チンマリ構えて大事を掴む!
ふむ・・・・ワシャそっちの方が性に合ってるわい。そうしよう、そうしよう!!」

片や 
魏の陣営・・・・
「攻め掛けて来ぬな。」 と、張合卩。 「来ませぬな。」 と、郭淮。

「様子を窺って居るのか?」 「窺っては居りませんな。」

「では何をして居るのじゃ?」 「何もせぬ事を決めたのでしょう。」

「此方の思う壺ではないか?」 「もはや埒外と観たのでしょう。」

「どう動けば善い?」 「動かぬのが最善でしょう。」

「では此のまま魏王の到着を待てば善いのか?」

「あちらも其の様に考えたに違い有りませぬ。」

「儂は陽平関へ立て籠もる心算じゃが、どうかな?」

「宜しいでしょう。陽平関は天下の険塞、敵が攻め寄せぬ口実と成ります」

「懸念材料は兵糧じゃが・・・・」

「既に此処へ参る前に、南鄭の城から全て搬送させてあります。」

「おお!流石は司馬である。では3ヶ月位は充分じゃな。」

「兵力が減った分、半年は大丈夫でしょう。」

「よし、では油断なく、そろりそろりと後ずさりして参ろうかの。」

ーーかくて、その翌朝には、漢水の両岸には魏・蜀の兵の姿は
唯の1人も見えなく成っていたのである・・・・。



                            

『漢中で夏侯淵が敗北した時、夏侯栄は13歳であった。側近の者達は、彼を抱えて逃げ様としたが、承知せず、「主君や肉親が危ない目に遭って居るのに、どうして助かる事が出来ようぞ!」と言い、剣を振り廻して戦い、戦死した。』  ーー( 世 語 )ーー

『かくて夏侯淵は戦死し、張合卩は陽平に引き返した。この時、魏の全軍は総司令官を失った為、その弱味を突かれ、更に劉備に乗じられるのではないかと色を失った。そこで、夏侯淵の司馬・郭淮は軍兵に命令を下した。「張将軍は国家の名将であり、劉備に恐れられて居る。今日、事態は急迫している。張将軍でなければ落ち着かせる事は出来ぬ!」かくて張合卩を押し立てて軍の大将とした。張合卩は本営を出、軍兵を引き締め、各陣営を落ち着かせた。諸将は皆、張合卩の指示を受け、人々の心はやっと安定した。太祖は長安に居り、使者を遣って張合卩に節を与えた。』 ( 正史・張合卩伝 )

『夏侯淵が劉備の為に殺されると、軍は総指揮官を失い、将兵達は青く成った。杜襲は張合卩・郭淮と協力し、軍の事務を取り仕切る一方、非常手段として張合卩を都督としそれによって人々の心を1つに纏めた。かくて軍隊は落ち着いた。』 (
正史・杜襲伝 )

『郭淮は夏侯淵の司馬と成った。夏侯淵が劉備と戦った時、郭淮は当時病気に罹って出陣しなかった。夏侯淵が殺害されると、軍中は混乱した。郭淮は散卒を集め、盪寇将軍の張合卩を軍主に推し立てたので、諸軍営はやっと落ち着いた。その翌日、劉備は漢水を渡って来攻せんとした。諸将の意見は、衆寡敵せず、劉備が勝利に乗じている以上、水に沿って陣営を作り、敵を防ごうと云うものだった。郭淮は言った。「この場合、弱く見せ掛けても敵を挫くに足りません。策略には成り得無いでしょう。水より遠ざかって陣営を築き、引き付けて呼び込み、半分渡った後で攻撃する方が宜しいでしょう。
劉備を破る事が出来ます。」 陣営を張ったのち、劉備は躊躇って渡らなかった。

かくて郭淮は固守し、引き返す気持の無い事を示した。実情を報告すると、太祖は其れを嘉し、張合卩に節を与え、再び郭淮を司馬とした。』  ーー( 正史・郭淮伝 )ーー

『夏侯淵は都督であったが、劉備は張合卩を恐れて夏侯淵を軽く見て居た。夏侯淵を殺してから、劉備は言った。「一番の大物を手に入れなければならぬ。こんな事でどう
する」 と。』 ーー(
魏 略 )ーー

『夏侯淵が戦死した当初、張飛の妻は彼を埋葬して欲しいと願い出た。』 (
魏 略 )
『正史』の扱いでは、破れた側の【魏書】には「張合卩」の伝が詳しく、「徐晃」の伝に記事は無い。然しその理由は至って明瞭で互いの伝の〔分量的バランスを図る為〕である。魏の代が変る迄を一区切りとした時、徐晃の場合には未だ記述すべき事柄が有るのに対し、張合卩の方は此の出来事を以って 一段落する故の措置である事が了解される。 又、破れた魏にとっては”不都合な出来事”であるから、その記事の質量が少な目に成る傾向が滲み出るのも納得できる。・・・・処が問題は、大勝利した側の
記事である。『正史』には「先主伝」「黄忠伝」「法正伝」に簡略な記事が見られるだけで、張飛・馬超・趙雲のメインキャラに至っては1言半句の記述も無いのである・・・これは一体、如何なる事か!?ーーズバリ結論を言えばーー

全ては 諸葛亮の罪である!!
随分ひどい言い方だが、事実なのだから仕方が無いノデアル。まあ罪では無いが、責任は在る!と言い換えよう。劉備亡き後の諸葛亮は、弱小国の丞相としてダメ後主を支えながら孤軍奮闘。涙ぐましくも献身的な才腕を全ての分野に渡って振うのだが、忙しさの余りに国家の公式記録係である
〔史官〕の設置を省いてしまったのである。(忘れた?怠った?)ひと言、「君達に頼む!」 と言って誰かに任せれば良いものを、
恐らく彼の完全主義 (眼を通し切れぬ多忙さ) の所為もあってか中途半端な物を残すよりはとして終に設立し無かったのである。
だから陳寿も、いざ祖国の事を書き残そうとした時、その史料の余りの乏しさに愕然とし、さぞかし切歯扼腕・無念の思いに胸が痛んだで在ろう。だが陳寿は飽くまで史料を厳選吟味し、少しでも怪しい物は全て切り捨てた。その結果はーー見るも無残なペラペラの分量と内容。「蜀書」と銘打ったものの、劉備と諸葛亮以外は読むに忍びない程の慙愧の1冊に成り果てた・・・・。
筆者も初め、【関羽や張飛の伝】には、さぞや様々な事柄がギッシリ詰っているだろうとワクワク 期待に 胸をときめかした ものだった のだがーー開けて ビックリ 玉手箱・・・・
唖然・愕然・茫然の大ショック!!
「ええ〜!たった是れだけかヨ〜!?」と思わず叫んで天を仰いでしまった次第。殊に張飛の分量などは丸でメモ書き程度の少なさで、是れが国士無双の大ヒーローの生涯なのだ!とは、どうしても納得でき無かった事を思い出す。差し詰め此の”定軍山”なぞは格好の記事に成り得る筈なのに、1文字も無いのである・・・・。だから、きっと陳寿先生も、そんな後世の人々の反応を予期し、せめてもと思い、「伝」のスペースを満たす事すら叶わぬ乏しい史料を羅列して、謂わば水子供養》の如き、「李漢輔臣賛」なる”1行史”を付したのであろう。

然り乍ら、筆者は矢張り、諸葛亮を責めるのは酷に過ぎると深く反省する。彼の悲愴な胸中を察し、その超人的な孤高の後半生を想う時、とてもの事彼を詰る様な言辞は吐けるものでは無いであろう。ーー況や蜀の国は、国史を編纂する暇
いとまさえ無い裡に亡びの時を迎えるのであり、221年の劉備即位を元年とするなら諸葛亮が陣没する 234年までの期間は、僅か13年しか無かったのである。 又、263年に劉禅が魏 (実体は晋) に降伏する迄のスパンで観た場合でも、僅か42年間。ヒト1人の一生よりも短い時空の裡に、儚く潰え去ったのである、のだから・・・・

さあ、こう成るとーーいよいよ残すは・・・・宿年の間柄、曹操劉備直接対決が待つだけと成って来た。果して結末や如何!?【第223節】 鶏肋?曹操の敗退 (蜀の漢中奪取成る!)→へ