第223節
鶏 肋? 曹操敗退す
                                     

戦死した夏侯淵らに対する喪服を脱ぎ捨てると遂に曹操が、「長安」を 発った!!
足を引っ張り続けていた
叛乱〕が、漸く 此の1月に完全鎮圧されたのだ。宛に籠城して居た「侯音」は【曹仁】の手によって首を斬られ、南陽郡の大叛乱は、最も懸念された周辺地域に飛び火する事無く、押さえ込まれたのだった。それにしても長い
4ヶ月だった。一日千秋、ジリジリする様な毎日で在った。そして夏侯淵の死!!孤立した漢中駐留軍!!・・・・現地からの報告では、皆から推戴された【張合卩】が、何とか征西将軍の代理を務め
防禦の陣を構えて居るとの事曹操は使者に《節》を持たせて張合卩に与え彼の権威を保障した。然し予断は許され無い。

そこで曹操はその呪縛から解き放たれる一瞬に備えて、機動力の有る先鋒軍団を急発進させる為に、指揮命令系の強化を図った。何しろ、〔征西将軍〕
=方面軍総司令官 と云う、特別に巨大な機構のトップが、突然、消滅してしまったのである。その上、この地位には、”必ず一族の者が就く!” と云う不文律が在った。だから 「ホイお次!」 と云う訳には行かぬ。ーー但し、いずれは方面軍総司令官に就くべき、若き”候補者”が随行して居た。今は長安の〔中領軍〕本軍副司令官の任に在る一族のホープ本書劈頭の、あの丹アニイ・・・・曹真で在った!!曹操は其の族子おいの若者を、己に先立つ先鋒軍団の総司令官として漢中へ急行させ、現地軍をも統括させる事とした。その官位は征蜀護軍!〕〔征西将軍〕に准ずる特設の任務であった。・・・・因みに此の【曹真】、字は子丹初代の《虎豹騎》指揮官を経て来て居る「次世代の重鎮候補」で在った。太子と成った曹丕とは幼い頃から1つ屋根の下で育てられた為に特段親しく【司馬懿】・【曹休】・【陳羣】と共に4大側近と成ってゆく。今回は軍事面での評価を獲得する事となる。
尚、この曹真の長男こそが曹爽である。いずれ、父・曹真の跡を継いで〔2代文帝=曹真〔3代明帝〜4代斉王=曹爽〕へと、皇族 (曹氏) 権力の継承が為される。その皇族・曹氏一門と拮抗する家臣勢力が〔司馬一族〕と云う構図に成ってゆく。即ち、
司馬懿仲達
は 其の最晩年に於いて、最も親しかった曹真の死後、その息子とは、のっぴきならぬ権力闘争を展開し、結局は 曹爽を誅滅して 魏国を乗っ取り、晋王朝を
建てる宿縁関係と成るのである・・・・が、それは未だ未だ遠い未来の事。そんな宿命が待ち受けて居るなぞ 当人さえ知らぬ 話ではある。但、後世に在る我々の特権として、
そうした数奇な運命の流れを前以って識って居る事は、三国志を より巨視的に味わう
醍醐味の1つであろう。
さて、その曹真率いる先鋒軍団が、鎖を解き放たれた野獣の如く、漢中へと急発進したのが219年1月下旬の事。曹操本軍は其の後から通常の速度で進む。とは言うものの、厳寒の山塊越えである。スピードを最優先させた為、前回よりも一段と険しい斜谷ルートを進んだ。如何に此の冬のルートが厳しいもので在ったかの証明は、曹操が漢中へ到達した日付が物語っている。距離だけなら僅か250キロに過ぎぬルートだから平坦な地形であれば”半月”で到達し得る所を曹操本軍が実際に漢中盆地に姿を現わしたのは、”2ヶ月”後の3月の事となるのだった。無論、曹真の先鋒軍団は、その倍以上の速度で漢中へ先着した。その軍鼓の音も勇ましく、 威風堂々の 大軍団の姿を見た 現地駐留軍の将兵達は、思わず眼に涙を浮かべながら 歓呼して抱き合った。望郷の念や心細さ、何年にも渡る苦労の数々、懐かしい北方言葉の訛り・・・万感の思いが一気に溢れ出しては、男達を咽び泣かせた。
「長い間、よくぞ孤軍で漢中を守り通されましたな!」
労いの言葉に、流石の猛者達も咽を詰らせた。
「心から御待ちして居りました・・・・。」
「我等が来羅たには、もう安心で御座いますぞ。暫し、ゆっくりと休養なされて、我等の戦いぶりを御覧になって居て下され。追っ付け魏王様の本軍も御到着なされます。」
「いや休養なぞ無用の御配慮。我等1日も早い雪辱をこそ望んで居るので御座います!どうぞ直ちに作戦会議を開いて下され。」

征蜀護軍【
曹真】の指揮下に入った【張合卩徐晃郭淮】らは曹操からの作戦指令を待ち望んだーーこれで蜀軍とは5分と5分曹操が遣って来れば形勢は大逆転するのだ。
そこで曹真は早速、曹操からの指令を伝えた。その内容は、先ず陽平周辺の蜀軍部隊を一掃し、魏軍の
輜重ルートを確保せよ!との命令であった。何しろ魏の遠征軍が勢揃いした暁には、実に20万と云う大軍団が出現するのだ。その全将兵の胃袋を満たし、戦闘用のエネルギイを生み出す為には、途方も無い食料の搬送と備蓄が必要と成る。その掛け替えの無い命の源を、焼き討ち攻撃でもされたら官渡戦の袁紹と成り果てる・・・・

曹真は、張合卩を本陣の守備に置き残すと、徐晃を従えて蜀軍の別将・【
高詳】の陣を襲った。因みに、この高詳なる将軍は、後に諸葛亮の北伐にも従軍して、重要拠点を任される記事が有る。それ以上は伝わらぬが、蜀の中堅部将では在った様だ。それをアッと言う間に揉み潰した。魏の先鋒軍、恐るべし!!・・・・この緒戦の圧倒的な勝利により、今まで沈滞していた魏の陣営は、一挙に、その士気と意気が昂揚した。そして、いよいよ終に、
魏王・
曹操本人の姿が漢中盆地に現れた

斜谷を抜け
東狼関を通り山塊の峡谷を一路南下して、ちょうど南鄭城の北側に当る盆地の扇状地上に、この正月で 65歳 と成った曹操孟徳が現われたのである!ーー颯爽たる馬上姿・・・と言いたい処だが、どう見ても鋭気溌剌とは表現できぬ、疲れた様子が体全体に滲み出て居た。それは目玉だけが異様にギョロついた、老人の姿で在った。恐らく、久し振りに対面する張合卩
らは、その余りに急激な覇王の変貌ぶりに、思わず息を呑むであろう程の衰え様であった。但し、その精神だけは 意気軒昂の
往時の大曹操が居た・・・・。
「待たせたな、我が懐かしき 朋輩よ。 思えば黄巾の乱・董卓の
専横以来、この戦乱を生き残ったのは唯、儂と御前の2人だけと成った。最後に又、その得意の逃げ足を見せて呉れるのであろうか。とくと見せて貰おうではないか!この日が来るのを楽しみにして居ったぞ!!」
『曹操現る!!』の報は、直ちに
劉備のデカ耳にも
入った。 「いよいよ、其の時が参りましたな。」 と、【法正】。

「この戦さ、儂が勝つ!今の儂には自信が有る。
老いさらばえた曹操には絶対に負けぬ。」

            
劉備、その生涯でも最大の自信に満ち溢れた姿で在った。

「気力・体力・全てに渡って、儂の方が今は勝って居るのだから、勝つしか無いと決まっておるのじゃ!たとえ曹操が100万の兵を率いて来たとしても、今の儂には叶わぬのだ。何の為す術も無く追い返して見せる!そして儂は必ずや、漢水の流れる此の土地を我が手に入れるのだ!!」
ーー今度ばかりは ハッタリでは無かった。定軍山の勝利から、曹操が遣って来る迄の間に、その
必勝の秘策を練り上げて居たのである。 『曹公自長安挙衆南征。先主遙策之曰。曹公雖來無能爲也。我必有漢川矣。
曹公長安より衆を挙こぞりて南征す。先主遙かに之を策して曰いわく曹公来きたると雖いえども能く為す無し。我われ必ず漢川かんせんを有たもたん、と。
曹操が漢中盆地を西へ横断して「陽平」に到達した頃、それを見届けた劉備も 亦、「定軍」を去って西へ移動。補給を受け易い益州口 方面に陣営を構え直した。 即ち、漢中の争奪を巡る 魏と蜀の両軍は、その漢中の盆地自体では無く、西の 外周に当る「陽平」の隘路を挟んで互いに睨み合う布陣を選んだのである。詰り、20万対10万の大兵力が、平地上に於いて、一気に雌雄を決する如き大会戦を交える公算は極めて低い戦況と成った訳である。・・・・果して、曹操と劉備の両軍は、その姿勢を保った儘、ズルズルと長期戦に入る様相を呈していった。

だが、その構図は明らかに寡兵の蜀軍側に有利、大兵力を使い粉せ無い魏軍側には不利な布陣であった。そして劉備は、その姿勢を徹底的に貫き通す。丸で亀が甲羅の中に身を縮める如く決して平地には降りず、常に 険峻な山岳に 陣営を保ち続け、
「上から下への戦闘」 を遂行したのである。逆に曹操側は常に「下から上への無理な態勢での攻撃」 を強いられ、その損害の
大きさを増してゆくばかりと成って行った。その上いくら挑発しても相手が山から下りて来無いので
引き上げ様と背中を向けた途端今度は突撃攻撃を仕掛けて来る。応戦すれば又サッと山の上に逃げ込んでしまう。
特に
劉備自身は、山頂の稜線を渡り歩くだけで、唯の1歩も
下方へは踏み出さない。その代りに時々息子の【
劉封りゅうほう】を派出しては、曹操の眼の前まで行かせ、挑発行為を繰り返させ、魏軍を振り廻した。その出没地点は変幻自在。昨日は東に今日は西。早朝かと思えば寝付にも現われ神経を逆撫し翻弄する。
正に神出鬼没の小五月蝿い存在であった。この【劉封】、流石は劉備が見込んで 〔養子〕に迎えただけの逸材で、機敏だけでは
無く剛胆でも在り、武勇の面でも勇猛な、大きな器に成長して居たので在った。劉備の息子としての自覚と自負も備え、父の命令と有らば、喩え火水の中も厭わぬ気力に満ちて居た。曹操軍が無視出来ぬギリギリの戦線に平気で進出して行き、その1部隊に急襲を掛けて叩いてはサッと引き上げる。 ーー謂わば曹操は、劉備の手玉に取られ、その術中に嵌まり込んだ格好となったのである・・・・《敵を翻弄し、戦わずして勝つ!!》 これぞ正に
法正】の謂う必勝の秘策 であったのである!!曹操は苛立ちながらも、蜀の戦術そのものには内心で舌を巻いて唸った
「きっと誰か、無名だが有能な軍師が付いて居るに違い無い。」

やがて其の軍師は【法正】と云う未知の人物で在る事が判った。

「そうで在ろう。劉備自身には軍才は無い。定軍山の戦い振りと言い、必ず外の者が居たと睨んで居たが矢張そうで在ったか。」
業を煮やした曹操は、或る日とうとう自ずから敵陣の近くに出掛けると、劉備に向って罵詈を浴びせた。
(・・・・ と 魏略は謂う。)

「やい、この臆病者めが。山から下りて来て正々堂々と戦え!」

「遠くてよ〜く聞こえんな〜。何なに、もう帰る?それは名残惜しいな〜」
靴屋の小倅の癖に、成長するとニセの子を使って俺様に歯向かわせるとは片腹痛いわい。我が”黄鬚”を呼んで来て、攻撃してやるから待って居れ!黄鬚の奴は、こんな山なぞヘッチャラで、虎や狼とも御友達!目〜っ茶クチャ強いから覚悟しておけ〜!」


そこで曹操は早馬を遣って、烏丸をやっつけて帰途に在った2男の猛獣男
曹彰を呼び寄せた。父親から頼りにされた曹彰は欣喜雀躍、朝も夜も道を突き進んで、漢中へと激走を開始した。
ーー(以上、魏 略 )ーー まあ実際に、こんな
遣り取りが在った可能性は200%在り得ないが、曹操苦境の雰囲気を、面白おかしく脚色したものであろう。 但、気に成るのは「ニセの子」発言である。養子として迎えた嫡男【劉封】の立場は直系の【劉禅】が生れた瞬間から、他国の者の眼から見ても危ういものだった・・・・・

次は『
趙雲別伝』が記す戦闘の1場面。( ※ 著者も 全て不明 の書 )

曹操は 「北山」 の麓に、5千万袋(!)の米を搬送させ、備蓄した。
その事を知った【
黄忠】は、其れを奪い取ってやろうと思い( 何故か 焼き討ちで は無い ) 趙雲から兵士を借り( 何故か 黄忠の部下では 無い )その部隊を率いて略奪に出発した。そのとき黄忠は、事の成否に関わらず、帰陣の時刻を約束して行った。だが其の刻限を過ぎても帰って来無いので、趙雲は不安に思い、数十の軽騎兵を連れて、様子を見に陣を出た。(この事からも両軍の距離の近さが窺える?) すると途中でバッタリと、曹操が出陣して来る大軍と遭遇してそまった。先鋒部隊に見つかり激戦になったが、駆け付けてきた本軍に押し捲くられた。そこで趙雲は逆に突貫攻撃を仕掛けた。すると余りの強さに歩兵の大部隊は蹴散らされ、大パニックとなった。その隙に乗じて脱出に成功。趙雲部隊は自分の陣営へと走った。処が其の時、直ぐに態勢を立て直した魏の本軍は、近くに居た将軍【張著】の陣に襲い掛かった。 (※張著は此処に1ヶ所・名前のみの人物)
張著は負傷して孤立した。その事を知らされた趙雲は、折角脱出して来た元の方角に引き返すと、躊躇う事も無く再び敵陣の中へ斬り込み、張著を救い出したのである。
だが曹操は、其の勇将が趙雲だと分ると、全軍を挙げて執拗に追跡した。そして、とうとう趙雲自身の陣営にまで迫った。この時、陣の留守を預かって居たのは【張翼】で在ったが、彼は門を固く閉ざした上で、旗や幟を押し立て陣太鼓と喊声を挙げさせ、曹操の大軍に対抗しようとして居た。ところが駆け戻って来た趙雲は、全く逆の事を指令したのであった。
「エッ!!そんな事をして、本当に宜しいのですか!?」
門は大きく開け放たれ、全ての旗幟も下げ降ろされ、太鼓も喊声も、一切が鳴りを潜めさせられたのである!!
《もしも曹操軍が、そのまま門から雪崩れ込んで来たら逃げ場は無い。一体我々はどうなるのか!?》 ・・・・ドキドキ冷や冷や、
趙雲以外の全員が、固唾を飲んで氷りついた。独り趙雲だけは、ドッカリと腰を降ろして涼しい顔をして居るーーやがて、門外から馬蹄の轟きが伝わって来る。 《ナムサン!!》 陣営内の将兵は生きた心地もしない。と、地響きがピタリと止んだ。緊張の一瞬。

曹操もビックリした。先程の火の玉の如き凄まじい闘争の姿とは余りにも懸け離れた趙雲の陣営。ひっそりと門を大きく開け放った不気味な静けさ。
「・・・・無理押しすまい。あれ程の勇将だ。必ずや趙雲は智将でも在ろう。何かは判らぬが、きっと”仕掛け”が有ろう。今日の処はただ様子を観るだけとして、引き返すと致そうわい。」
それが軍神・曹操の判断であった。そこで曹操軍はクルリと踵を返すと、別の獲物を求めて動き出した。ーーと、その直後だった。それ迄 ひっそりとして居た 背後から、突如、陣太鼓と大喊声が
天地に轟き、弩弓の嵐が魏の将兵の背中を刺し貫いた!!全くの無防備状態で、敵に背中を向けて居た魏の軍兵はバタバタと射殺された。仰天した魏軍は大パニックに陥り互いに味方を踏みにじり合い、趙雲軍が開け放たれた儘の門から素早く追い撃ちを掛けるや、先を争って潰走し始めた。それを追いかけ、漢水の岸に追い落とした為に、 その 戦死者の多くは ”溺れ死” した者達が占める結果と成ったのであった・・・・。美事な大逆転勝利!!

翌朝、大喜びした劉備は自ずから趙雲の陣営に出かけて行って昨日の戦場を視察した。そして感歎して趙雲に言った。
趙雲。一身都是胆也!!
               
趙雲は 一身 都すべて、 是れ 胆きもなり!!

そして日暮れまで音楽を奏でながら称讃の宴を催した。軍中では皆、趙雲の事を『虎威将軍!』と愛称して呼んだ・・・・。
まあ、この話も完全な”
ガセ”と見るべきであろうーー何故なら、「正史」の伝える〔劉備の基本戦術〕を完全に無視して、各部将が個々に 平地に門まで備えた要塞を築いて展開して居た・・・と云う設定でなければ成り立たぬ話であるからである。多分、後に劉備と家臣が美化されてゆく過程で生れた書物の1つなのであろう。

だが、いずれにせよ、この漢中争奪戦に於ける、曹操と劉備とのガチンコ対決は
曹操側の一方的な被害・損耗の連続であった。又、兵員の補充・追加が出来るのも 劉備側だけであった。要請すれば、成都に居る【諸葛亮】が、地元出身の【楊洪】らの積極的な支援を受け、何とか要求を満たして呉れるのだった。
3月4月と、曹操側の戦死者・負傷兵の数は甚大なものと成っていった。指揮官の中にも降伏する者まで出て来る始末・・・・

その人物は
王平。字は子均。元々が巴西郡 宕渠とうきょ(張飛が張合卩を撃破した土地)の出身で在ったが上司に誘われて北へ出て曹操から〔校尉〕に任じられて居た。まあ、1部隊長と云った所。
だが、「鉄の結束」を誇るとされる魏軍の中から最初の投降者が出たのだから、劉備は大喜びした。宣伝戦の為にも早速、大抜擢して見せた。何と、一挙に〔牙門将・裨将軍〕に任じられたのである。そうする事に拠って、投降者が出た事を針小棒大に喧伝した訳である。・・・・而して、その人物は大した器では無かった様だ。
正史・王平伝」 によればーー『王平は戦陣の中で成長した為、字が書けず、
知っているのは10字足らずであった。 だから 口述で文書を作成したが、全て 筋は通っていた。人に「史記」「漢書」を読ませ、それを聞いて、全体的な筋は 充分知って居り、時々2書について 論評したが、本質から外れていなかった。法律・規則を遵守し、冗談の類は一切口にせず朝から晩まで1日中キチンと座り、全く武将の感じは し無かった。 然し、性質が偏狭で 猜疑心が強く、軽はずみな人柄であった。
』後の諸葛亮の北伐では、〔街亭〕や〔祁山〕・〔五丈原〕などにも登場する事となる。

だが今の場合、この「王平の投降」が暗示する内容は極めて重大である。〔校尉〕程度の下級指揮官ですら、この戦いの結末を
蜀軍有利!と判断し得る程に、曹操側の戦況悪化が進んでいた・・・・と云う証左である。


5月・・・曹操に、苦渋の決断の時が迫りつつあった。屈辱の受容と謂い得るかも知れぬ。だが、その一方で、納得して居る曹操も亦、同居していたとも謂える。
《まあ、実質上、この漢中は儂が頂戴したも同然だしな・・・・。》
負け惜しみでは無かった。 全く 未練が無いとは 断言できぬが、事実上、最早
この世から「漢中」は消滅していたのである。今この漢中で息して居る者・命ある哺乳類は、此処に集結して居る軍人だけに過ぎ無かった。人間は勿論、家畜1匹すらの影さえも無いのだ。嘗て曹操は徐州で”皆殺し”をした事が在るが今は漢中で”皆生かし”を断行したのだ。もうすっかり御馴染みと成った、三国志のキイワード・・・・徙民しみん=強制移住→漢中無人化戦略の完遂!!
是れである。いや、是れであった。2千年後に現われる、空洞化時代の魁!この三国時代、戦乱の為に〔人口は激減期のどん底スパイラル〕状況に成り果てていた。だから、国家経営を目指して争い合う支配者にとっては、
人間そのものが貴重な戦略資源なのであったのだ。僅か4年前迄は、戸数20万余・人口およそ100万近くを
誇る、1大独立国であったものが、今や全くのゼロ・・・・

1000000→0へ!!
曹操孟徳と云う男は、漢中と云う地上に、ただ真っ黒なブラックホールだけを置き残して、其処に在った宇宙を丸ごと呑み込む妖怪だったのである。 一体、今の
漢中に、何の光明が在ろうか??在るのは唯、其れを得た者に只管の苦行を強いる、復興不可能な暗渠だけではないか・・・・

《劉備よ、C調の人生を歩んで来たお前サンには、最後に儂から
”一瞬の勝利”をプレゼントしよう。その代りに”永劫の苦難”を引き受けて貰おうではないか。精々今は糠喜びするが良かろうサ》

《土台、こんな山裏の地方なんぞ、俺の趣味には合わぬワイ!》
《山猿め、精々パンダとでも遊びながら畑を耕せ。何時かの秋、
 曹丕が又、必ず収穫に遣って来よう程にナ・・・・。》

そして終に、後世余りにも有名な命令が発せられるのであった。
「ーー鶏肋・・・鶏肋けいろく じゃ・・・!!」

三国志からの曹操退場の瞬間 であった

事実上、この後の曹操は只、殆んど〔生ける屍状態〕の儘に健康的な能動性を失って、その栄光に満ちた往時の輝きを再び三国志の中に取り戻す事は無いのである・・・・。

※『
九州春秋』に曰く、
『その時、魏王は帰還する心算で「鶏肋」と謂う布令を出した。だが属官達には、意味
する事が解ら無かった。すると独り主簿の楊脩だけは、早速に旅支度を始めた。人が驚いて楊脩に訊ねた。 「どうして解ったのだ?」 すると楊脩は答えた。
「鶏の肋は、棄てるには勿体無い気がするが、食っても 腹の足しに成る物では無い。
それを漢中に喩えられたのだから、王が帰還する御心算だと理解したのだ。」・・・・

後世の人々が喜ぶ様なドラマチックな逸話は、全て 『正史』以外の 3級史料から派生
しているのが実際なのである。

 『曹公は西征して来たが、法正の献策を聞き知ると、「玄徳は此の様な策が有る事を考え着かず、誰かに教えられたに違い無い。儂は元々から睨んでいた」と言った。
                                           ( 正史・法正伝 )
『夏侯淵が敗北した時、曹公は漢中の領有を争って、北山の麓に数千万袋の米を輸送した。黄忠は奪い取ってやろうと思い、趙雲の兵士が黄忠に付いて米の略奪に行った。黄忠が約束の時間の時間を過ぎても帰って来無いので、趙雲は黄忠らの様子を見ようと、数十騎を率いて軽装で陣を出た。ちょうど曹公が多数の軍兵を引き連れて出て来るのと行き合った。趙雲は曹公の先鋒隊によって攻撃され、戦闘の最中に曹公の大軍が到着し、押し捲られたので、その陣に突撃を掛け、戦いつつ引き退いた。曹公の軍は敗北したが、再び兵を集めて勢いを盛り返した。趙雲は敵を撃ち破ると自分の陣営に向った。将軍の張著が負傷した為、趙雲は再び馬を馳せて敵陣に立ち戻り、張著を迎え入れた。曹公の軍が彼の陣営まで追撃して来た。
この時、シ丐陽の長・張翼は 趙雲の陣営内に居り、門を閉ざして防禦しようとしたが、
趙雲は陣営に入ると、再び 大きく門を開けさせ、旗を伏せ 太鼓を止めさせた。曹公の
軍は趙雲に伏兵が在るのではないかと疑い、引き退いた。趙雲の太鼓は雷の様に天を震わせて鳴り、弩が背後から 曹公の軍に発射されたので、曹公の軍兵は仰天して、
互いに踏みにじり合い、漢水に落ちて死ぬ者が多数あった。 翌朝、先主は、みずから趙雲の陣営に遣って来て、昨日の戦場を視察し、「子龍の身体は全て肝っ玉だ!!」と言い、日暮れまで音楽を演奏し、宴会を催した。軍中では趙雲を虎威将軍と呼んだ。』
                                        ーー(
趙雲別伝 )ーー
曹公自長安挙衆南征。先主遙策之曰。
曹公雖來無能爲也。我必有漢川矣。
及曹公至先主歛衆拒險終不交鋒。
積月不抜。亡者日多。
夏、曹公果引軍還。先主遂有漢中。

曹公 長安より衆を挙りて南征す。先主 遙かに之を策して曰く、
曹公来たると雖も、能く為す無し。我、必ず漢川を有たん、と。
曹公の至るに及び、先主、衆を歛め險を拒ぎ、終に交鋒せず。
月を積みて抜けず。亡ぐる者、日に多し。
夏、曹公、果して軍を引いて還る。先主、遂に漢中を有つ。

『曹公は長安から大挙して南方征討に向った。先主は遙かに策略を立て、「曹公が来たとしても、手も足も出無いだろう。私は必ず漢川を保有して見せよう!」と言った。曹公が至ると、先主は軍勢を引っ込めて要害に立て籠もり、全く鉾先を交え無かった。
何ヶ月も経過したが陥落せず、魏軍の死者は日毎に多く成った。案の定、夏に成ると曹公は軍を引き上げ帰還し、かくて先主は漢中を支配した。』ーー(
正史・先主伝)ーー


三月 王自長安出斜谷。軍遮要以臨漢中。遂至
 陽平。備因險拒守。夏、五月。引軍還長安。

3月。王 長安より斜谷に出て 遮要に軍し 以って漢中に臨む。遂に陽平に至る。備、険に因りて拒守す。夏、5月。軍を引いて長安に還る。・・・・『3月。王は長安から斜谷を抜け、軍は要地を遮断して漢中に臨み、かくて陽平に到達した。劉備は要害に因って抵抗した。夏5月、軍を引き上げて長安に帰還した。』 ーー(正史・武帝紀)ーー

なお、父・曹操から呼び寄せられ、1500キロ (日本列島縦断以上)
駆け通しに駆けて遣って来た猛獣王子?【曹彰】は、峻険な子午谷道を走破して来た為に、タッチの差で曹操本軍とは行き違いとなった。曹彰は 漢中盆地に降り立ったものの、 もはや 如何とも
する能わず、無念の思いで 父の後を追って、再び 「長安」 へと引き返すのだった・・・・。
                      


                            


3国の中では最も後発で、危うい存在であった 劉備政権が、益州平原のみならず、その存立を保障する《漢中盆地の支配権》までをも獲得した、この争奪戦の結末を以って、既存した不動の「魏」「呉」に伍して、事実上 この後に引き続く時代はーー
更に後発した
「蜀」の国を加えた、新たなる歴史展開・・・・即ち、 曹魏・孫呉・劉蜀の3勢力に拠る

  〔三国鼎立〕確定した!!

と 謂ってよい。以後、西暦280年、司馬氏による【三国統一】が果される迄の60年間、
北に魏南に呉西に蜀の基本的領土構造が出現した事に成った訳である。
それにしても、つい 5年前には 考えら無かった、大地殻変動で
ある!!その3国の国力
(版図・人口・GDP)の差は、余りにも歴然と
して居るとは雖も、その一方では亦、《曹魏の限界点》を露呈したのが、この漢中争奪戦の齎す混迷の帰結でもあった。
ーーこう成ると、残る現実問題は唯1つ・・・・未まだ帰属権が確定して居らず、3国に3分割された儘の豊饒の地、

荊州を巡る争奪・最終的な帰属問題である!!この巨大州を誰が独占するのか!?果また独占するのは不可能なのか?・・・・その事の結果いかんでは、3国の軍事バランスが大きく変動し、相互の国力・同盟関係・存立の根幹 に関わる
最大の課題と成って、俄にクローズアップされて来たのである。
これ迄は、3者が他の地点での鬩ぎ合いに掛かりっ切りで在った為に、或る意味では争乱の埒外に取り残され、殆んど手付かずの膠着状態の儘に”残置”されて来て居た懸案の争点・・・・

だが天下全ての局面が1段落を迎えた今、魏・呉・蜀の3者共がその全力を集中し得る状況の下で繰り広げられる、
最大で最後の大作戦ーー而して其の争奪戦は、是れ迄の何ずれの戦役にも例の無かったものと成るであろう。・・・即ち
1対1の決戦構造では無いが故の、単に 正面激突の 軍事力・
軍事作戦だけでは収まらぬ、より複雑怪奇で虚々実々の謀攻や智略、更には 〔偽りの同盟〕 や、〔2重3重の裏切り〕 などなど、今迄の戦役には決して見られ無かった三国独特の

三つ巴の戦い
が、いま初めて其の姿を現わすのである・・・ここ迄は、3国が出現する為の前段階〔1対1の攻防の、その連続〕であった。然し是れから先の世界は単に軍事一辺倒では無く、寧ろ 政治の駆け引きや人間的魅力・その個々が有する資質や理念の戦いが重要な要素と成ってゆく世界史上でも類い稀な、
1対1対1 の 有為転変〕 が 常に潜む、
虚々実々の鬩ぎ合いの世界
突入してゆく 事と成るのである!!
・・・・乞う御期待

第15章・・・・虚々実々の鬩ぎ合い・・・・
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