【第220節】
視点を前年の9月・・・長安に到着した時点の曹操に戻そう。
暫し休養を取っていた10月に、〔侯音謀叛!〕 の急報を
受けた曹操は その《宛城》への措置・手当てを【曹仁】に命じた後その決着が判る迄は動くに動けず、漢中への進軍を停止して居た・・・然しながら其処は曹操の事。その貴重な4ヶ月の時間をただ無為に過して居た訳では無かった。此の長安での滞在延長は、或る意味では
曹操に準備を万端に整えさせる時間を与えたとも 謂い得たのである。
1つは→兵糧・輜重の備蓄強化。
2つは→叛乱した下弁を含む、武都郡への事後処理の問題。
3つは→漢中への侵入ルートの選定問題。
4つは→曹操自身の体力回復・温存の問題
これ等の問題にジックリ取り組める時間が生れたとも謂えたのである。無論、劉備側にとっては、曹操以上に大きなプラス=孤立した儘の夏侯淵を 総攻撃し得る機会を得た のだからーーその
〔痛恨の遅延〕である事に比べれば余りにもマイナスは大きかったのだが・・・・。思わぬ苦境に追い込まれた曹操。然し 此う云う
時にこそ、その人間の底力・真の力量が現われる。而して曹操、慌てず騒がず、発想の転換を 容易に為す。 此の苦況を
〔逆に
利用する〕事を考えたのだ。ーー改めて見廻せばこの長安周辺には未だ未だ懸案事項が山積みにされて居たのだった。
何と言っても最大の課題は、この後どれだけ続くか判らぬ 漢中攻防戦に備えての
〔兵糧の輸送問題〕であった。
通常の遠征では、輜重の運送は車=牛車を用いる。 実際、ここ
長安までは其うして来た。また前回の張魯討伐の時も、途中迄は其うした。いや、其う出来た。遠廻りだったが、牛車が通行可能なルートを選んだからであった。 長安から漢中への進軍ルートは
この後に観る如く 5つ在った。だが今回は事は急を要するにも関わらず大遅延している。いざ進軍!と成った場合、最短距離のルートを選んで進まざるを得無い。即ち”天空の牢獄”たる秦嶺山脈の大山塊を、真っ直ぐ縦に突っ切る事に成るであろう。そう成ると牛車は全く使えない。人間が担いでゆくしか無い。騎兵の鞍や 歩兵自身が担ぐ事は 当然としても、それだけでは全然足りない。現地軍と合わせれば 20万に近い大軍団の胃袋を、半年
間は保たなければならぬだ。そう成ると矢張り、残された方法は
唯1つ・・・輸送専門の非戦闘員によるピストン輸送=人海戦術に頼るしか無い。そして其のシェルパ要員は、ここ関中で徴用する
しか無かった。処が
既述の通り、この 「関中」の現在の住民は、その殆んどが 「徙民」 で在り、郷里を追われて
強制的に連れて来られた、元々は ”敵側だった民衆達” であったのだ。機会さえ
あれば逃亡したい!と思って居る者達も多かった。もし ピストン輸送の途中で、貴重な兵糧を持ったまま集団脱走でもされたら、作戦そのものが根底から危うく成る・・・・そんな彼等の生活の面倒を見、不安定な心を落ち着かせて定着させる役割ーーそれを任されて居たのが 〔京兆尹〕 であった。副都・長安の知事 兼
警視総監で、流入した人口爆発に てんてこ舞いで在った。強制移住の「徙民を受け容れる側」も、其れは其れで大変だったのである。 曹操は、其んな気苦労の多く、難しい任務に応えるべき
人材として、この遠征の以前に、新しい
〔京兆尹〕 を任命し 先遣させて措いてあった。
鄭渾ていこん と言った。字は文公。河南郡の人で高祖父・祖父
ともに名高い儒学者だった。又、兄の【鄭泰】は「董卓」政権内に在りながら面従腹背の姿勢を以って荀攸や王尹らと協同し董卓を滅ぼす計画を徹底的に貫いた事で有名であったが、董卓滅亡の直後に病没していた。弟の鄭渾は南方に避難し、一時は袁術に招かれたが見切りをつけて去り曹操に召請された・・・・
『天下が未だ安定しない時だったので、人民はみな軽はずみで、生業に就いて財産を増やす事を考え無かった。子供を産んでも育てる事なく、大体みな取り上げ無かった。鄭渾は各地で漁業・狩猟の道具を召し上げると、其れ等を割り当て 農耕 と 養蚕を
行なわせた。また同時に稲田を開墾し、捨て子に対する法律を重くした。人民は最初は刑罰を恐れて服従して居ただけだったが、のちに次第に生活が豊かと成り、皆が満ち足りた状態に成った。育てた男の子・女の子には「鄭」を字とする者が多かった。召されて 丞相掾属 と成り、左馮翊 に昇進した。』〔左馮翊〕は京兆尹の北に接する郡である。鄭渾は此処でも治績を残し、特に異民族を煽動して敵対する「梁興」の討伐を 夏侯淵と協同して果した功績が大きかった。その後に 〔上党郡太守〕 に転任して居た。そんな実績を持つ【鄭渾】を呼び戻し、〔京兆尹〕に就けたのであった。
『鄭渾は、人民が集まって来たばかりであったので、彼等の為に
”移住法”を制定した。家族を持つ者
と 単身者とを1組にし、温情信義ある者と 孤独老齢者とを仲間にし、農事に励ませ、禁令を明らかにして悪事を摘発した。その結果、人民は農業に安んじ、盗賊は消滅した。』ーーこうした【鄭渾】の配慮と治世の御蔭で、兵糧運搬のシェルパ要員は、安心して彼等の中から選抜する事が可能な状態に成って居たのである。
果して『兵糧の運搬転送に於いて、第一の功績を上げた』 のであり、『また 人民を漢中に派遣して 耕作に当らせた』 時にも、『逃亡する者は誰1人も居無かった』 ・・・・のである。
次の問題はーー半年前には劉備側に寝返った、異民族の住む地域 武都郡への仕置きであった。漢中の西に接する 此の武都郡の 氏てい族の動向は、今回の戦役の成否を大きく左右する位置を占めている。「呉蘭と雷銅」を斬り、「張飛・馬超」を追い出したものの、【曹洪】の軍は今も下弁 に張り付いた儘であった。 監視して居ないと、兵糧運搬 の途中 を、いつ横から襲われるか判らぬのであった。折角の大軍を、そんな山中に張り付けて置くのは、如何にも勿体無い限りである。だが何等かの新しい方策を取らねば、その不安定なマイナス要因は
今後も永遠に残り続ける。そこで曹操は地元の〔雍州刺史〕に意見を求めた。京兆尹の更に上位の州全体の長官・統括責任者である。その人物こそは
〔徙民の提案者・実行責任者〕でもあった張既。
曹操の質問に答えて、彼の持論をズバリと言ったものである。
「氏族に勧めて彼等を北方に移動させ、穀物の有る場所に行かせる事に拠って、蜀からの干渉を断ち切るのが宜しいでしょう。
先に到達した者には手厚く褒美を取らせますれば、早い者勝ちとばかりに後の者達も其れに気を惹かれて続くに違いありません」
そこで曹操は、張既みずからに其の策の実行を命じ、直ちに武都へ乗り込ませた。すると張既は結果として、氏てい族の5万余人の部落を扶風・天水の郡界へと移住させ、〔武都郡の無人化〕を成功させて見せるのであった。
余談だが、曹操は魏国を立ち上げる際に《9州制》を採用した為、この時点では、曹魏政権の行政区分からは
「涼州」が消滅し、長安から西の全ての広大な地域が「雍州の管轄」と成っていた。その奥地の「敦煌」から支援の要請が届いたのである。当時、かつての(?)涼州周辺は豪族が割拠する無秩序状態に在った。中国人政府の支配は、そんな奥地に迄は及ばぬのだから当然の事であった。だが建前は飽くまで中国の問題。曹操も一応は気に掛けて、雍州刺史の張既に諮問した。すると張既は平然と答えた。
「放って置きましょう。 奴等は、外は我が国の威光を借りながら、内には不遜と逆心を抱いて居ります。計画が上手く運び、勢いが付けば即座に叛きますな。現在わが国は蜀平定に懸かり切りに成っている最中ですから兎に角、両方ともを
存立させて措いて、彼等同士を 互いに戦わせた方が宜しいでしょう。昔、卞荘士が虎を刺殺する時、2匹の虎が戦って共倒れに成るのを待って、手に入れた如くで御座いますな。」 「成〜る程!」1年経つ頃には、彼等は互いに殺し合って亡んだ・・・・
残るは、〔漢中への侵攻ルートの選定〕であった。
長安から漢中への進撃ルートの間には、2千〜4千m級の峻岳が連なる秦嶺チンリン山脈が東西に立ちはだかっている。その大山塊を乗り越えて敵側に抜けるには5つのルート(漢中5道)が存在した。※この5つのルートは、逆に漢中の蜀軍が長安の魏軍を攻撃する場合にも共通する進撃ルートとも謂えるのであり・・・丁度この10年後に【諸葛亮】が6次に及ぶ「北伐」の第1回を開始する時にも選択される事となる。詳細図は第V部に譲るが今は 凡そのルートを示してみる。 長安に近い、東寄りのルートから順次、西方へ・・・・(※ 長安を起点として観る)
縺ィ子午谷道・・・・長安から直接に南下して、漢中盆地の
西端 (南鄭から100キロ地点)
へ至る
艨ィ駱谷道・・・・・・長安の西50キロから4千m級の太白山の
手前を南下。漢中東方40キロ成固へ至る
蛛ィ褒斜道・・・・・・長安から西へ120キロの五丈原の手前を
南下し、 直接に漢中 (南鄭) に至る。
この3ルートは、秦嶺山脈を真っ直ぐ縦に突っ切って東西に横長の漢中盆地の何処かに直接通ずる。だが地名からも判る様に”道”とは言っても、屹立する鋭鋒の谷筋を流れ落ちる急峻な渓谷の崖っ縁を、恐る恐る伝って渡るタイトロープ同然の難道である。
特に繧ニ艪ヘ、人間が大集団で通るのは不可能で、軍道として使用できる代物では無かった。軍道として利用する為には、未だ未だ厖大な補強が必要であったし、たとえ
補修が為されたとしても、其れは 敵からの破壊工作で、一瞬の裡に通行不能に陥る
危険性が有った。多少はマシなのが蛯ナあったが、かつて【劉焉】が益州に自立した時には、このルートを自ずから壊し、外部からの干渉を断ち切って成功した前例が 存在
する・・・・詰り、この3ルートの内で何とか使えるのは蛯フ褒斜道
(斜谷道)であった。
だが所用時間が短くて済む代りに敵からの破壊工作や、待ち伏せ攻撃を喰らう危険性が高かった。逆に、リスクは小さいが遠廻りに成るのが
諱ィ散関 コース・・・・長安からは160キロ西の「陳倉」を基点として、左斜め下南西方向に迂回しつつ、漢中の西端に至る。現代も此のルートに鉄道が敷設。この時代の関中←→漢中を結ぶ最大の街道であった。 だから前回、張魯を討伐した時の曹操軍は、この〔軍道〕を用いていた。時間的に余裕が有る場合なら、この
ルートが最も望ましかった。だが、長期の足止めを喰った今回はこのルートを除外しなければならぬかも知れ無ぬ。
轣ィ祀山越え・・・・このルートは後に諸葛亮が「北伐」を敢行する時に選定した事で有名になるが、長安からは西に350キロも離れており、今回の漢中争奪戦とは無関係な地点の事として構わぬであろう。
曹操は 以上5本の道の中から消去法で今回の侵攻ルートを選んでゆく。その場合繧フ「子午谷道」と艪フ「駱谷道」は〔軍道〕としては論外。轤フ「祀山越え」も遠過ぎて対象外である。・・・・・となれば残るは蛯ゥ諱[ー《時間 と リスクの兼ね合い》の問題、 《速さか!安全性か?》の どちらを採るかの問題であった。より具体的に言えば、漢中に駐留して居る 【夏侯淵】が、独力で
何だけの期間を、劉備軍の総攻撃に耐え得るか!?詰り、曹操本軍が到着する迄には、何れだけの時間が許容されるか!?
その見通しの問題であった。時は既に新たな219年を迎え様としていた。足掛け 4ヶ月にもなる。そろそろ兵糧も 底を突き始める時期であった。
《矢張り、スピードこそを最優先すべきである!》
となれば、自ずと答えは導き出される。
「今回は散関さんかんを通らず、褒斜ほうや道を進むぞ!」
だが其の場合、懸念されるのは、敵からの〔破壊工作〕であった。特に山塊への入口に在る 「斜谷」 が鬼門で、その峡谷に架かる吊り橋を断ち切られると、その修復に途轍も無い時間を喰わされる。無論、警護部隊を常駐させては居たが、油断は出来ぬ。またその周辺の細道で待ち伏せされ、両側の崖上から岩石を落とされたら、甚大な被害を被る危険性が在った。敵にしてみれば僅かな兵力で相手を阻止し得る絶好の場所であった。
但し、蜀側からは最も遠い地点に当り、謂わば 曹操側の玄関先だったから通常では、こんな地点にまで蜀兵が潜り込んで来て居るとは考えられぬ事であった。然し現在の如き状況下では、何時何処で何が起こっても不思議では無い。そこで曹操は”己の眼”で其の安全性を確かめる事とした。勿論、自分が行く訳では無い。己の手足・耳目同然の 〔丞相主簿〕 を偵察に出したのである。
主簿とは謂うが複数いた。指名されたのはーー
瘤(コブ)男の【賈逵かき】であった。字は梁道で河東の人・・・
『子供の頃から何時も”部隊編成ごっこ”をして遊んでいた。祖父の賈習は其れを特別視し、「お前は大きく成れば指揮官と成るに違い無い」と言い、数万字に及ぶ兵法を直接伝授した』 と 謂う。
但し、幼くして父親を失った為に 家は貧しく、極寒の冬でも袴を
穿く事さえ出来無かった。だが郡の役人時代に「郭援」の反乱に屈せず武勇伝を残した事から中央に召し出され、やがて馬超を討伐しに来た曹操と会見して気に入られた。
「此処は西方への街道の要所だ。お前に任せる!!」 と 直ちに弘農太守の代行を命じられた。然し余りに激越で1本気な為に、都尉と衝突して相手の脚を叩き折って免職になった。だが曹操は内心で《好し!》として、彼を丞相主簿に抜擢したのである。ーー処で何故「瘤」が出来たかと言えば、その以前にも屡々公務上で他者とぶつかった為に、その憤懣が溜まったのが原因で出来たと謂う。余りにも大きく成ったので摘出手術を受けたいと申し出たが、曹操は「瘤の手術を受ける者は10中8・9は死ぬと言われている。主簿には悪いが、儂は未だ君を失いたくは無い。」と許さなかった。だが余程にデカくて不都合な瘤だったのであろう。賈逵は其の忠告を無視して手術を受けた。然し成功せず、以前にも増して立派な?瘤が復活してしまったのだった。(その部位が何処だったのかは伝わらぬが)
彼の1本気さを示すエピソードが『魏略』に見える。
曹操が呉を遠征したいと思った時、長雨が降り続いていたので、多くの者達は出陣を
希望し無かった。其んな空気を察した曹操は、諫言する者が続出する事を嫌って先手を打ち、『諌める者が有れば死刑に処す!』 との命令を出した。
すると賈逵は 同僚の3主簿に向って言った。
「今まったく出陣してはならぬのに、命令はこの通りだ。諌めぬ訳にはゆかぬだろう!」 そして諫言の草稿を3人に示した。3人は仕方なく皆、その文書に署名して参内、意見具申した。曹操は大激怒して全員を即刻逮捕した。獄へ送るに当って、発案者を取り調べた。するや賈逵は即座に、「私が発案しました」と言い、そのまま走って獄へ行った。ビックリしたのは獄吏だった。丞相主簿が突然走って来て、「牢屋へ入れろ!」 と命じるのだから訳が分らない。 「ホレ、早く枷かせを嵌めて呉れ。そうしなければ、私は重職を好い事に、君に目零しを求めたと思われてしまうではないか。また君も咎めを受けるぞ急がないと直ぐ私の様子を見に人が遣って来るぞ。」
ちょうど賈逵が手足の枷を着け終わらせた時、果して曹操は、家中の者を寄越した。
その様子を聴いた曹操、「彼には悪意が無い。よって其の官職に復帰させる!」・・・・で一件落着・・・・♪♪本名は賈衢カクと言い、後に賈逵カキと改めたと謂う。
さて其の、〔斜谷〕の観察・偵察に出かけた賈逵の報告だがーー
「異常は一切、御座いませぬ。何時なりとも 通行可能な状態で
御座います!」 との太鼓判であった。
「更に詳しく申し上げますれば・・・・。」 との説明が続いた。
「ウム、後は【曹仁】からの報告が届くのを待つだけじゃナ。」
219年の元旦ーー未だ宛城の包囲戦線からは陥落の報せが届いて居無かった。かと謂って見切り発車するのは危険に過ぎた。元凶は 《関羽》 だった。もし関羽が北上を開始したら、曹仁は逆包囲を受ける事に成る。そうなれば最悪の場合、曹操本軍は 此処から引き返して、其の対応に 向わなくては為らなく
なる。だから最後の最後まで見届けなければ為らなかった。曹操としては、遣るべき事は全て済ませた。気力・体力も随分と回復した。そう成ると、いよいよ気に掛かるのは・・・・
「漢中」で孤軍奮闘する【夏侯淵】の事であった。
ーー曹操の頭の中を、チラと不安が掠めた。
《よいな妙才よ。此処まで我慢したのだ。あと、もう少しじゃ。儂が着く迄は絶対に動くで無いぞ!!》 それが曹操の思いで在った。
夏侯淵妙才と謂えばーー若い頃から〔急襲の達人〕として敵味方に知られ『典軍校尉の夏侯淵、3日で500里6日で1000里!』 と謳われたものだ。
曹操政権が未だ小さく、ぶつかる相手も互いに小さかった時代は其れで構わ無かった。
だが群雄が淘汰され、相手も巨大化して来ると、急追は深追いの危険性を孕みだした。然し一旦染み付いた若い時の性向は、そう簡単には直ら無いし棄てられない。それを危惧した曹操は、折節につけて注意を促して来て居た。
「指揮官たる者、臆病な時もなければ為らぬ。勇気だけを頼みにしては為るまいぞ。指揮官は 勇気を基本とするのは当然だが、
行動に移す時は智略を用いよ。もし勇気に任せる事しか知らぬならば、1人の男の相手にしか成れぬぞ!」 と。 況してや今は
方面軍の総司令官なのだ。
対する【劉備】は 〔逃げの達人!〕で在る。 更に老獪さが加わって居る事であろう。・・・・だが、《先ず大丈夫だろう!》とも 曹操は思った。何故なら、一緒に付けて有る 【徐晃】が、その ブレーキ役を 努めるだろうからであった。こちらは、石橋を叩いても渡らぬ慎重居士で在った。更には【張合卩】が、応変自在な態度で臨むであろう。 とは言え、その「3者組み合わせの妙」も、飽くまで”実戦部将”と云う同じ体質・気質を有する仲間内での事彼等とは全く異なる立場から 戦局全体を見渡し、助言を与える者が必要であったーーそれが、夏侯淵に付けてある〔軍司馬〕の【郭淮かくわい】だった。本書初登場だが、曹操の眼鏡に叶った新進気鋭の若手である。〔部将の面目や意地〕に拘らずに、冷静沈着な判断を示して呉れるであろう。又もし戦闘が生じた場合でも、常に理に叶った位置に陣営を保つであろう。実際ここ迄は、その人事配置は上手く機能して来ていた。よもや、無謀な決戦を挑む様な事は有るまい・・・・
今、218年の暮れ・・・・蜀全軍を率いた劉備玄徳!
漢中奪取を目指し、その盆地の西端への進出を果して居た。あの天然の要害である〔 陽平関 〕に入り込んで陣営を築き、その南を流れる漢水を挟んで、魏の駐留軍・夏侯淵軍 との睨み合い状態に在った。ーーだが、早馬か飛脚以外には特別な
”通信手段”を持たぬ2千年前の事とて、峻険の彼方500キロで起っている宛城叛乱の動向は、瞬時には伝わって来無い。だが双方共に、その事態を如何に把握して、己の作戦に反映させるか!?・・・・それが最も肝要な事であった。
《今 確実に 時代の風は 我等に吹いている!》
それが劉備陣営に在る者達の偽り無い気持であった。特に作戦の立案に携わる軍師・【法正】にとっては、その人為を超えた
”上げ潮傾向” こそが重大な勝機・勝因だと観て居た。・・・・思えばここ半年の間に起った魏への叛乱劇は、その内容と謂い規模と謂い、つい数年前までは、夢想だにし得ぬ、異様な 世の変貌で
あった。ーー〔吉本の乱〕・〔烏丸鮮卑の叛乱〕、そして今度の〔候音の叛乱〕・・・・明らかに、その全てが【劉備の独立】に勇気づけられ、呼応せんとするものであった。 惜しむらくは連繋の無さで
あったが、今現在でも劉備は大きなアドバンテージを得て居た。烏丸・鮮卑叛乱の為に、曹彰に率いられた魏軍兵力の1部は、
今だに北方から戻って居無い。又、宛城に立籠る侯音の所為で、曹操本軍は長安に立ち往生して居る。特に 【関羽の出方】 には
全神経を集中させ、その動きの如何を、殊更に警戒して居るのは明々白々であった。・・・・而して此処に疑問が残る。・・・・
後世に在る我々としては、その関羽と法正の間に、果して何等かの指示・指令が存在したか否か?である。普通に考えれば劉備(法正)からの指図が有るのが当然である。その場合、考えられる指示の内容は2つしか無い。1つはーー『無視せよ!』である。 無論、完全な無視では無く、単独行動を起こさせる様に仕向けた上で、いざ叛乱を決行したら其の時は無視し、然も直ぐには降伏せず籠城し続ける様に、期待を抱かせる如き素振だけを見せよ!・・・・非情である。だが、理由が在った。
劉備は未だ、〔魏との全面戦争〕を時期尚早と観るからであった。戦略の手順としては、漢中を奪取した後に全面対決に出る!!今は曹操本軍を立ち往生させて置くだけで充分。漢中の奪取はこちらだけで絶対の自信が有るから、関羽は動く必要無し!・・・・又一方、関羽側にも背後の事情が在った。何と言っても 関羽の
最大の懸念材料は、前面の【魏】では無く、寧ろ背腹の【呉】の動きの方で在ったのだ。今や同盟関係は冷え切り全くの有名無実・形骸化してしまって居た。関羽を支持してくれた「魯粛の死去」は大きく、両者は 〔魏に対抗する盟友〕
と謂うよりは、逆に荊州を奪い合う〔敵対者同士〕にさえ成って居たのである。いま不用意に出撃したら、その隙を突いて孫権が
荊州の全面占領に乗り出して来る可能性が在ったのである。その両国の不信感を払拭できて居無い現状では、動くに動けなかった。・・・・だから2つ目の指令『支援せよ!』は存在する筈も無かった、と観てよいだろう。人の何倍も、信義を重んずる関羽としては、断腸の思いで、宛城の侯音らを”見殺しにする”しか無かったに違い無い。そして其の関羽の苛々と怒りは、この直後に、違った形で
【呉】に対して爆発する事となるのである・・・・。
「動かんな・・・・。」 「動きませんな。」 漢水の南東に在る、征西将軍・夏侯淵。2人の勇将を従えて岸部に立つ。
「己の不利に成るのは判って居る筈なのに、何故じゃ?」
盪寇将軍の張合卩が答える。
「多分、必勝の自信が無いので御座いましょう。」
平寇将軍の徐晃も感想を述べた。
「劉備の奴はトンデモナイ戦さ下手だと聞いた事がありまする。」
「うむ、お前達は知らぬ昔の事だが、かつて劉備が我が陣営に
居た頃、儂は実際に此の眼で其れを見た。(呂布の将・高順にコテンパンにやられて沛を失い、単身で逃げ戻った事を指す)
それはヒドイもので在った。だがまあ、あれから早20年も経ったのだから、少しは器も変ったではあろうがノ。」
「その20年の間、劉備は戦らしい戦を、独力で捏なした事はありません。侮ってはなりませぬが、武人としての器量は小さいのかも知れませんな。」
「その場合、脇に軍師が居るだろう?」
「益州を乗っ取らせたのは广龍統でしたが、既に戦死・・・・」
「諸葛亮とか申す者が居るそうではないか?」
「彼は専ら内治に有能な者としか聞いて居りませぬ。今回も諸葛亮の姿は見当たらぬ様で御座いますシ・・・・。」
「ハテ、では一体、誰が軍師を務めて居ると謂うのじゃ?」
「分りませぬ。ですが、天下に名を馳せる様な、一級の人物では無い事だけは確かですな。」
「トンデモナイ”隠し玉”でも持って居るかも知れんぞ。」
「いずれにせよ、殿が来られる迄、我等は此処を動かずに居る
のが賢明で御座いましょう。」
「うん、それは其うだ。然し味方の者達に後で、臆病風に吹かれたと観られるのも、チョット癪では有るなあ〜。 ひと戦さもせず、
ただ穴熊の如くに籠って居たのでは、後々の面目が立つまい。」
「それは危うい考えではありませぬか?」
「いや、決戦を仕掛けるのでは無い。もし向うが遣って来た場合には、1戦してから立て籠もるのじゃ。」
「まあ、それなら、ひと暴れして見せて遣れますな。」 常に己の武勲・武功を考える・・・・それが部将の部将たる性ではあった。
「ところで、我が軍師の実際の容態は何うなのじゃ?」
曹操が〔司馬=参謀〕として付けて寄越した郭淮は、此処のところ急な病に罹り、床に伏せった儘であった。字は伯済。未だ若い。(没年は36年後の255年)
ハッキリ言って、”次世代要員”で在った。恐らく此の時は未だ20代後半か30代に成ったばかりで在っただろう。この漢中駐留が彼のデビューであった。ずっと後には、〔征西将軍〕・〔都督雍涼諸軍事〕として諸葛亮や羌維の北伐に対抗する事と成るが、今は未だ 見習い・研修期間だったと謂えようか。最初は曹丕の下に在ったが、曹操が丞相兵曹議令史に取り立て、張魯討伐に随行させた。その後、夏侯淵ら を漢中に留め置いた時、その軍司馬として抜擢し、一緒に留め置いたのであった。
「医師の見立てでは、未だ暫くは絶対安静が必要との事。未だ
若いゆえ、気苦労が重なったので御座いましょう。」
「そうだろうな。自分では大丈夫だとは言って居るが、まあゆっくり養生させてやろう。」
《今を逃して 攻撃の機会は 無い!!》
軍師の法正は 些か焦り出した。 貴重な時間であった。いずれ宛城は陥落し、曹操本軍が南下して来る。それ迄の間に 魏の駐留軍を片付けて措かねばならぬ。今や漢中に駐留する夏侯淵軍は正に孤立無援の状況に追い込まれて居るのだ。劉備軍は 俄然有利な条件の下での 戦闘を
遂行し得る。兵力的にも数倍の大軍を擁しているのだ。・・・・だが相手は決戦を求めず専ら防禦一辺倒の姿勢を堅持したまま動く気配を見せぬ。この儘では只 貴重な時間を浪費するだけであった。何としてでも相手を動かさねばならぬ。その警戒心を解いて、戦闘に誘い込まねばならぬ。そこで法正は、態と稚拙な軍編成を為して劉備に進言した。
「こちらが戦さ下手で、然も、弱兵だと思わせるしか有りませぬ。」
「緒戦は態と負けよ、と言うのか?」
「はい、この儘では大魚を逸します。幸い我が軍の兵力は豊富、多少の損害には眼を瞑り、その後の大勝利を掴み取る為で御座います。」
「ーーで、その後の必勝の作戦とは!?」
法正は、詳しく”其の作戦”を 開陳して見せた。
「ウ〜ム・・・・善し、分った!その手で行こう。」
劉備は此の法正には200パーセントの信頼を寄せて居た。
《実際、此処までトントン拍子に来れたのも、全て法正の御蔭
だったのだから、一切を委ねるのは当然であろう!》
丸ごと其う思えるのが、ダメ男だった劉備の凄い処であった。
かくて劉備は1万の兵を10の部隊に分けると、或る夜に「広石」に陣取る張合卩の軍を急襲させたのである。ーーするや流石は魏の5星将の1人。張合卩は親衛部隊を率いると素早く応戦。白兵兵の末、蜀の部隊を追い散らしてしまった・・・・のである。
※この「広石」の他にも、以後 「馬鳴閣街道」「走馬谷」「興勢」などの地名が出て来るが、詳しい位置は判然としない。まあ2千年前の事であるから 已むを得ぬ。
お次は・・・全軍を10余の軍営に割り振って、陽平関の麓に散会させた。そして其の中から【陳式】らを派出して、「馬鳴閣街道」を断ち切らせた。( 恐らく 魏軍への兵糧輸送ルートであったのだろう )ーーするや今度は徐晃が即応。別働軍を率いると追撃して、蜀の部隊を撃滅してしまった。狭隘な谷間に追い詰められた蜀の兵士の多くは我が身を谷底に投げて死んでいった。 ※この【陳式】なる人物、詳しくは伝わらぬ。但し将軍で在る事は確かで、222年の夷陵戦役には水軍を率いる記述が在り、229年には武都郡占領などの記述が在る。いずれも正史に名前のみである。
その報告を受けた曹操は非常に喜び、徐晃に”節”を与えた上に布告まで出した。心配して居るだけに其の喜び様が大きかった、と謂えようか。
それにしてもーーこの蜀側の御粗末!!〔兵力の分散〕と謂い〔作戦の稚拙さ〕と謂い、更には〔兵の弱さ〕と謂い・・・・矢張り、劉備は底抜けの戦さ下手!で在った ( のか??)
『劉備は陽平に駐屯し、張合卩は広石に駐屯した。劉備は精兵
1万人を10部に分け、夜、張合卩を急襲した。張合卩は親衛の兵を率いて白兵戦を行い、劉備は勝つ事が出来無かった。』
ーー( 正史・張合卩伝 )ーー
『劉備は 陳式ら10余の軍営の兵を派遣し、馬鳴閣街道を断ち
切った。徐晃は別軍として其れを征討して撃ち破った。賊は山谷に我が身を投げ、死ぬ者が多かった。太祖は聞いて大そう喜び、徐晃に節を与え布告した。「この閣道は漢中の要害で在り、咽元に当る所である。劉備は 外と内を遮断して
漢中を奪おうとした。将軍は1度の行動で、善く 賊の計画を失敗させた。善のうちの善なるものである!』 ーー( 正史・徐晃伝 )ーー
『太祖は帰途につく時、征西将軍・夏侯淵を留め置いて 劉備を
防がせたが、そのとき郭淮を 夏侯淵の 司馬 とした。夏侯淵が
劉備と戦った時、郭淮は当時、病気に罹って出陣し無かった。』
ーー( 正史・郭淮伝 )ーー
何イ〜?陽平関を棄てただと〜!
斥候の報告によると、何と劉備は、あの天然の要害・「陽平関」を放棄して全軍が漢水を渡って南下を始めた!と言うではないか。
「それは絶対に間違い無い事なのだな!?」
俄には信じられぬ、余りにも馬鹿げた行為である。何せ陽平関と言えば、前回の漢中平定戦では、流石の曹操本人も終に攻め落とす事が出来ず、”アレレのレ椿事”の御蔭で辛うじて勝っチャッタ難険なのだ。其れを棄てて一体どこへ向うと謂うのか???
《・・・・”餌”は 撒いた・・・・》
この膠着状況が続く事は、魏側に有利に作用するのは自明の理であった。余程の事・余程の事態が起らぬ限り、魏側は絶対に出ては来無い。法正が考えたのはーー魏軍総司令官の”人物”であった。彼の其の”器”を見抜いての作戦であった。・・・・即ち、
「其ノ 将ヲ 討ツ!」 のである。
《夏侯淵が噂通りの白地将軍で在り、今だに
急襲命!の性向を持って居て呉れれば良いのだが・・・・》
劉備が目指すは 定軍山!夏侯淵が追うのも
定軍山!果して定軍山には何が待つ!?【第221節】 蜀の逆襲・漢中争奪戦X (定軍山、燃ゆ!!) →へ