第219節
”Y”の 叛乱・宛城
                                    関羽、未まだ北上せず

三国志で宛城と謂えば、先ず最初に思い起こされる事件は曹操が煮え湯を飲まされた、絶世の美女・芻卩すう罠!であろう。女体に溺れた曹操は、嫡男「曹昂」 や 猛将「典韋」の命と引き替えに、辛うじて遁走した。その後も結局、曹操は官渡決戦直前まで、遂に此の宛城を陥す事が出来無かった。その元凶は張繍の軍師・【賈ク】の存在だった。 ーーあれから20年、その
宛城で謀叛が起った!!
蓋し巷間いわれる此の事変の本質は・・・・「宛城の謀叛」 と 謂うよりも、正確には・・・・

南陽郡全体の大叛乱!!であったのだ。

「許都」を含む潁川郡(豫州)に南接する此の〔南陽郡〕は、荊州の最北端を形成し古来より”豊饒の地”として多くの群雄が根拠とした地方で在った。袁術が孫堅を用いて董卓を攻撃させたり、劉表を攻撃させ得たのも、此の南陽郡の豊かさが在ったればこそであった。 その後も長安政権に破れた諸軍閥が、兵糧を求めて雪崩れ込み、略奪を繰り返した。軍事的にも荊州の北の抑え・玄関口として、徳利の細首の地形を有した。( ※ 西の伏牛フーニウ大山塊 と、平野部に在る 東の桐柏トンパイ山脈が隘路を形成し、要害を成す )その狭い地形を抜けて最初の大都市がの城である。謂わば、北への軍事拠点。だから 歴代の荊州長官は、その真南 70キロの「新野城」に政庁を置いた。即ち、宛城の在る〔南陽郡〕は、兵家必争の地とされる荊州の中でも、最も早くから農耕地が開発整備されて、州都圏を形成する経済先進の土地柄であったのだ。ーー218年現在ではこの〔南陽郡〕が魏国版図の荊州部分・最南端を占めていた。
だが今や、
その豊饒の土地柄が、却って南陽の人民を苦しめる要因と成ってしまって居たのである曹操が荊州へ侵攻してから丸10年・・・漢水以南は失ったが、ここ南陽郡だけは終始一貫して曹魏の支配下に置かれ、その賦役を課せられ続けて居たのである。思えば、3国の中でも最も激しく遠征を繰り返す曹魏政権であった。おのずと其の収奪は苛烈を極め、取り分けても其の皺寄せが激しかったのは所謂、豊饒の地 と言われる先進の農業地帯であった。そして正に、その対象と成っていたのが・・・・この南陽の人民だったのである。
当時の税率に関する詳しい史料は伝わらぬが、大体「6公4民」位が通常だったらしい。漢末に比べれば特には高くは無かった様だ。寧ろ、盗賊や小軍閥に拠る略奪行為から保護され、安定的な暮らしを保障される恩恵に感謝して居た。ーーだが此の時期に於ける魏国は、相次ぐ大遠征・大戦役に因って急速に国家財政が急迫していた。その遠征軍の規模が未曽有の大軍団で在ったから、兵糧面の消費量だけを観ても莫大であった。
また見逃してはならぬ点は→兵士は同時に農民でもあり、生産に携わる労働人口でも在った事である。
兎角
兵士は「消費者」としてしか捉えられないが、三国時代に於いては、兵士は「生産者」でも在ったのである。
だから、その生産者たる兵士が消費だけを続けると云う事は・・・
消費の増大と 生産の減少の 両方向から
国家財政に損失を齎す
と謂う事に成るのだ。詰りーー

軍隊が遠征すると云う事態は、2倍の加速度で国家に困窮を強いる 基本構造を持っていた
なのだ。故にこそ、当時の大会戦・大戦役・大遠征は、いずれも
農閑期”にあたる 秋以降〜冬中心に行なわれて来ていたのである。それは敵味方ともに同じ状況で在ったから、暗黙の了解が成立して居た事となる。曹操の今回の漢中遠征も正に其のスパンの中で始まり、そして終るのである。ーーだが然し、連年の遠征を繰り返して来た【魏国】は、最早そんな配慮位では追い着かぬ程の、重大な事態に陥り始めて居たのである。

その緊要な不足分を補う方法は唯1つ・・・・収奪の増強=税率のアップでしか無かった。「7公3民」更には「8公2民」→その苛烈な収奪に耐え得るのは、母体・分母が大きい豊饒の地の民でしか無い。この〔南陽郡〕もその狙い撃ちの対象とされて居たのである 蓋し、曹操が先日布令した『弱者救済の福祉令』も、こうした苛酷な事実を隠蔽する為の、苦肉の策であったと謂う事である。
如何に、古来よりの”豊饒の地”で在った〔南陽郡〕の人々も、もう我慢の限界を超え、生死スレスレの破綻状況に追い込まれて居たのである。最早曹魏政権に拠る統治からは何のメリットも期待できず、逆に絶望的な収奪だけが待って居るだけで在ったのだ
曹操 と云う個人が 《魏王!》 と成った裏には、こうした苛斂誅求な圧政に喘ぐ人民の苦しみが恒常的に存在して居たーーその冷厳な事実こそが事の本質であった。ともすると曹操の敵は、漢王朝の簒奪を憂慮・
憤慨する勤皇の〔名士層〕ばかりに視点が偏りがちであるが、

最大の原因は、
こうした名も無き多くの民衆の
困窮と怨嗟の声で在った
のである・・・・人民は一時の
喜びも束の間、移動すら儘ならぬ、完全なる監視下に一生を
縛られ続ける
〔不自由民〕 と化して居たのである。

その
南陽郡太守郡長官を務めて居たのは、東里袞とうりこんと云う珍しい名前の人物であった。(祖先は異民族出身だったのかも知れぬが多くは伝わらぬ。)但、後に「于禁」の軍司馬に成った事と、その于禁と一緒に関羽の捕虜となり更には呉に送られて虜囚生活を送った後魏に帰還すると云う数奇な後半生を過ごす。その為に同じ体験をした「浩周」共々、両国の諜報戦に絡んでチョコッとだけ顔を出す
(主役は浩周の方である。)
恐らく居城=郡の政庁は 「新野」で在ったと想われる。その太守・東里袞の功曹(副官)には 【宗子卿そうしけい】と応余 おうよとが就いて居た。 何故に宗子卿の方が小文字かと謂うと、彼の場合は唯1ヶ所に名前のみが出て来るに過ぎ無いからである。 何せ、事は魏国に対する”反逆”であるから、〔]〕の叛乱同様に、史料は『補注』に頼らざるを得無いーーと云う次第。
さて、そうした民の苦しみを目の当たりにして
人々を其の苛酷な収奪から救うには・・・・
もはや最後の手段に打って出るしか無い!と密かに臍を固めた人物が在った。本書いう所のである。
当然ながら”謀反人”であるから、『正史』には
其の字も 出身地も 年齢も官職も、一切が記されずに 不明な人物!と云う事になる。但し、その人物の名だけは伝わる。
        宛城の守将
侯音で在った!!
彼には【
衛開】と謂う、矢張り名前が1ヶ所のみ の同志が居た。無論、衛開だけでは無かった筈だが、この2人以外の 同志の
名は 誰一人として残っては居無い。
時に
218年10月ーー曹操が長安に駐屯中の隙を狙っての叛乱であった。この〔〕の場合は、〔]〕のケースとは根本的に其の起因する理由が異なり、よって、奴隷を用いる様な如き 微弱な軍事力では無かった。曹魏の数ある城の中でも有数な軍事力を誇る〔宛城〕なので在る。然も、事前の根廻しも相当レベルで綿密に行なわれていた。 『正史・武帝紀』 の書き方では
『冬10月、宛の守将・侯音らが反乱を起し、南陽の太守を捕え、

官民を強制的に
支配し宛に立て籠もった』 と記すが、
『曹瞞伝』 では、
官民と共に 反乱を起し』 と記されている。
こうした叛乱や謀叛の場合に限っては、制約の在る「正史」よりは寧ろ敵側からの史料の方が、却って 事の実相を反映している と観たい。・・・たった1千の奴隷を率い 僅か1日後には鎮圧されてしまった〔]〕の叛乱劇とは 規模が違った。有力
郡が丸ごと
叛乱側に組したのである
!!その兵力は、最低でも万単位に達していたと想われる。

侯音は先ず、郡の指揮命令系統を奪取すべく、その最高責任者で在る、郡太守の【東里袞】を「新野」の政庁に襲ったーー
(※以下の経緯は、補注にある『
楚国先賢伝=晋の張方撰に拠る。)
郡太守の副官で在った応余は 字を子正と言い、生れ付き折目正しく剛毅な性格で、仁義を尊重する気持が強かった。建安23年 (この年の218年) に郡の功曹と成ったばかりであった。当時、呉・蜀は服従せず、国境地帯はイザコザが多かった。宛の大将・侯音が、山民を煽動し、城を守って反乱を起した時応余と太守の東里袞はその騒乱の最中に逃走し脱出する事が出来た。だが侯音は直ぐに騎兵を派遣して追跡させ、城から10里(4キロ)の所で追い着くと、敵は直ぐに東里袞に射掛け、矢が入り乱れ飛んだ。
応余は進み出て 身を以って矢を防ぎ、7ヶ所も傷を受けながら、追撃して来た賊徒に此う言った。
「侯音は理性を失い極悪非道な行為を起したが大軍が間も無く到着する故誅滅されるのは目前の事である君達は元来善人で元々は悪心を持って居無いのだから、善へ立ち戻る事を考えるべきである。どうして、侯音の指揮など受けるのか!儂は主君の身代りになって重傷を受けたが、もし儂が死んで主君の命が助かるなら、儂は命を落としても悔いは無い!」
そこで天を仰いで号泣すると、矢傷の血と 涙とが一緒に流れ落ちた。その様を見た賊徒は、彼の烈々たる忠義ぶりに心を動かされ、東里袞を見逃し危害を加え無かった。 然し 応余は、賊徒が立ち去った後に絶命した。


処がこの脱出劇についてはもう1説ある例の『曹瞞伝』である

『この頃南陽の辺りでは役務に苦しんでいたその結果侯音は太守の東里袞を捕え官民ともに反乱を起し、関羽と手を結んだ。
南陽の功曹
宗子卿そうしけいは侯音の元に出掛けて行って進言した
「足下が民心に従って事を起こされたについては、遠きも近きも、仰ぎ慕わない者は御座いません。 然しながら、郡将を捕えたのは 道理に背く事であって、利益とは成りますまい。どうして彼を追い出さぬのですか!私は貴方に力を合わせましょう。曹公の軍が来る頃には、関羽の兵も亦、到着して居るでしょう。」
侯音は其の説に従い、太守を釈放して追い出した。そこで宗子卿は、夜に紛れて城壁を乗り越え、逃亡した。』

まあ、真迫さの具合から謂っても、その史料が書かれた目的から謂っても
( 前者は忠烈の士を顕彰せんとの意図、後者は狡賢い曹操とその家来を揶揄する意図に因る )軍配は前者に上がるであろう。『正史・3少帝紀』、魏の第4代目皇帝・曹髦そうぼうの258年6月13日の項目に、
昔、南陽郡の山賊が騒動を起し元の太守・東里袞を脅して人質にしようとした時、功曹の 応余は、単身で東里袞を守り、ついに危難を免れた。応余は倒れて命を落とし、我が身を殺して主君を救ったのであった。よって応余の孫・応倫を官吏に取り立て忠節に殉じた賞を受けさせる様に司徒に処置を命ずる!』 との詔勅が記されているから100%間違いはあるまいーーとは言え何れにせよ、辛うじて太守の東里袞だけは命拾いしたものの・・・・
侯音南陽郡叛乱成功したのである!!

郡の政庁を制圧下に置いた侯音は、と同時に各県に檄を飛ばし
曹操の苛斂誅求を弾劾しその支配を脱して新たなる主君の下への参加を訴えたーー即ち、善政家の評判も高い
     蜀
劉備臣従すべき事 を求めたのである。

それは取りも直さず
「南陽郡」とは直ぐ南に隣接する「南郡」関羽 との連繋を期したもの で有る事は 誰の眼にも明白であった。その両郡の間には小面積の「襄陽郡」が存在しては居たが、其処を流れる漢水を利用して関羽水軍が一気に北上し得る事は、軍事専門家ならずとも、直ぐに判る 条件下に
在った。・・・・但し、そんな関羽の突破力を 最も良く識る曹操は
その抑止力として、常時、漢水の両岸都市である「襄陽」
=南岸と「樊」=北岸に、勇将を張り付けて関羽の北上に備えさせて居た。
だが、その曹操の防衛戦略構想は、飽くまでも 後背の南陽郡が
磐石の場合であった。まさか、その重要拠点が1郡丸ごと 叛くとは夢想だにして居無かったのである。もし万が一、侯音の 南陽郡
叛乱が成功したとすれば・・・・ 曹操の覇業は、其処から ドミノ倒しの如くに崩壊現象を惹起し致命的な大打撃を被る事と成る!!
曹操が真っ先に憂慮したのは 《許都との近さ》であり、最も懸念
したのは、《献帝の奪取!》であったろう。だが然し、宛1城だけの謀叛であるなら、直ちに周囲の郡県から総動員を掛ける事も可能だが、郡ごとの叛乱となると、逆に周囲に飛び火する可能性の方が高い。下手な処置・拙速な指令を下す訳にはゆかぬ。さりとて放置は出来ぬ。 と なればーー頼みは、現地司令官の、臨機応変で冷静果断の判断と、その行動に委ねるしか無い。

その郡規模の叛乱に即応できる、最寄の、然も唯一の兵力・・・・それは、南陽郡最南端の 「樊城」 に常駐して、南面して、

関羽と対峙
して居る 《荊州方面軍》 でしか無かった。
その軍団が背後に振り向いて、北の叛乱勢力に向って、攻め上がって行くしか 手立ては無かったのである。そして
その南方軍総司令官はーー謂わずと知れた曹操の従弟で歴戦の勇将・・・・粘り強さと冷静沈着が信条の、行征南将軍で仮節を与えられている人物、
曹仁その男であった!!字は子孝、この時52歳
わかクシテ 弓馬弋猟よくりょうヲ 好ミ』 と
在るから、根っからの荒くれ気質だったのであろう
最初のうちは従弟の曹操とは別個に、千人程のゴロツキ集団の頭目として淮水〜泗水あたりで暴れ捲くって居た。やがて 曹操が旗挙すると
合流して、専ら「騎兵」を率いて 軍の先鋒を任され続けた。

(詳しい戦歴は次章で述べるが)

仁、少わかキ時ハ行倹ヲ修メザルモ、長ジテ将ト為ルニ及ビテハ、厳正ニシテ法令ヲ奉ジ、常ニ
科ヲ 左右ニ置キテ、案ジテ以テ事ニ従ウ
・・・・と変貌を遂げて居た。つい先頃【曹丕】が、烏丸遠征に出発しようとする次弟の【曹彰】に向って「遵法する事は曹仁の如くでなくてはならんぞ!」と 釘を差す程に、その分を弁えつつも厳正な態度は全軍に知れ渡って居た。又、その武勇と智略も 夙に轟き、単に
力任せの猪突猛進を避け、ジックリと敵状を見極めては、その
誘降を引き出す直言を為しても居た(壺関戦)。かと思えば、官渡戦役に於いては、背後に分遣された劉備を、自ずから進言して急襲。劉備を荊州へと逃走させるなど、緩急自在、冷静果断な
戦局眼をも具えて居た。曹操もこの”従弟”を絶大に評価信頼し大敵・関羽の抑止力として「樊城」に駐屯させて居たのである。
ーー
太祖、其ノ 雄略ヲ 器トス。 ・・・・
その麾下には、是また猛将の
广龍悳ほうとくが配されて居た。元々は馬超配下の部将で在ったが、馬超が(独り)劉備の元へ奔った時に袂を分ち
(実際は置いてけ堀を喰った格好)、張魯の降伏時に曹操の捕虜となった常に曹操に敵対し続けて来た経緯からすれば、即刻に 処刑されて当然であった。だが曹操は、過去の
経緯を一切不問に付し、己の将の1人として广龍悳を厚く遇した感激した广龍悳は、その恩義に対しては己の1命を以って報いるしか無い!と、深く心に誓って居た・・・・。

この 〔
の叛乱〕を知った曹操は、直ちに 「樊」の【曹仁】に対し、
『関羽の動きは無視せよ。全力で此の叛乱を鎮圧すべし!!』
との厳命を下した。・・・だが事は広域に渡る1郡の叛乱であった
そう簡単に事を運ぶ訳には行かなかった。そこで曹仁は何よりも先ず八方手を尽し”情報の入手”を行なった。そして達した結論は

軍を分散派遣する事を避け、
全軍を以って 小県を1つ1つ
虱潰しに
各個撃破し、敵を1ヶ所に追い詰め・・・・
                その主力を
包囲殲滅 する!!
最後は必ずや、侯音の拠城である 「宛」 に主力が立て籠もるで
あろう事は予測がついた。だから其処へ追い込む形の進撃ルートを策定する事も比較的容易ではあった。・・・・予想通り、大軍団を眼の当りにした小県の叛乱軍は1戦を交える事も無く、次々に西方の「宛城」へと撤収して行った。ーー叛乱勃発からほぼ1ヶ月
・・・何とか其の月の内に、
侯音「宛城」に包囲する処にまで至った。だが、問題は此処からであった。・・・・かつて曹操自身が結局は攻め落とす事の出来無かった「天下の堅城!」で在った。稀代の策士・賈クが、その全知全能を傾けて補強工作を施した難攻不落の険塞・・・・それが「宛城」で在ったのだ。だから曹仁・广龍悳の猛攻撃を以ってしても、その堅城を陥落させるのには、実に4ヶ月を要するのであった。そして結局ーー
何処からも援軍の無い儘に、
侯音の首が斬られて叛乱が完全に鎮圧されるのは、年を越した219年1月の事となる。

侯音が宛を根城に反乱を起し近接の県を荒らして官民数千人を捕えた時に曹仁は 諸軍を率いて侯音を攻め破りその首を斬り樊に帰還した。即刻 (臨時職を表わす”行”が外されて) 征南将軍の官位を授けられた。ーー(正史・曹仁伝)ーー
侯音・衛開らが宛に拠って反乱を起した。 广龍悳は配下の兵を率いて曹仁と共に 宛を攻撃して陥落させ侯音・衛開を斬りそのまま南下して 樊に駐屯し関羽を討伐した。ーー(正史・广龍悳伝)ーー
此処で又しても登場して来る(
或いは登場させられる)のは・・・
関羽の存在である!!だが然し、何の確たる根拠・史料も無い話ではある。有るのは唯、『曹瞞伝』 と云う 超級史料に 「関羽と手を結んだ」 との 付け足し的な記述だけである。ーー然りながら、客観的な時局の趨勢から観て、この〔侯音の謀叛〕・〔南陽郡の叛乱〕が、
関羽とは全くの無関係であった!などと思う者は、誰1人として居無いであろう。実際、侯音は4ヶ月の間、粘ったのである!!・・・而して、如何なる史料にも「関羽が動いた」とか、「関羽は動こうとした」などのアクティブな姿は、終に絶無なのである。
然なきだに、関羽! と云う武人・武将(の名)は、既にして、当時の三国時代の人々にとっても特別な存在であったのだ!!
( ※ 後の世で 〔関帝廟〕 に祀られて、 商売繁盛・金儲けの ”守り神” と崇められるのは別次元の話である。その考察については別章にて行なう。)
肝腎なのは、今現在、彼・関羽自身が生きて居るリアルタイムの中での〔名望の大きさ〕である。・・・・思い致さば5年前、荊州返還問題を巡って呉蜀両軍が、あわや全面衝突の1歩直前まで行った時、関羽の進撃を阻止する為に「甘寧」が先廻りして、某浅瀬で渡河を断念させた事件→『正史・甘寧伝』には「是れに因んでその場所は”関羽瀬”と呼ばれている」と記していたではないか!
そもそも、存命して居る人物が、その名を地名に遺されるなぞ、度外れた名誉である。また更には、その場面の主役は関羽では無く 甘寧の方であった。にも関わらず人々は”甘寧瀬”とは呼ばずに、関羽の名を付け、〔関羽瀬 かんう らい〕 としたのである!!
この1事を以ってしても、如何に”関羽”と云う 存在・そのネーム
バリューが、図抜けて特別なモノであったかが窺い知れよう。
長阪坡での張飛も、趙雲の活躍も、他の如何なる英雄達も、その行動行為に因って、リアルタイムで地名が冠せられる事は無かったでは無いかーー況や反曹操の立場に身を置く者達にとっては関羽に寄せる期待と信頼は、弥が増しにも大きく膨らんで居たに違い無かったであろう・・・・。そして此の〔Y〕の叛乱の場合だが、

誰が何う考えても、関羽は侯音からの〔乞師状〕を受け取った筈である。そして当然の事として、何等かの返答を送った筈である。いや、恐らくは、
『期待を持たせる様な内容』を与えたに違い無い。で無ければ侯音は単なるアホである。曹操に謀叛するなぞオコガマシイ頓馬である。それでも結局、無視された。と
云う事は・・・関羽には最初から、他勢力と協同して戦う気持なぞ一切無かった。
俺は己独りの武勇だけで戦って勝つのだ!!
それが超人的な武名を有する男の矜持・誇りであったに違い無いそれはそれで素晴しい ”個人の心構え” である。・・・・だが其の 〔個人的な誇り・矜持〕に凝り固まった佇まい・姿は、群雄割拠時代なら兎も角、この 【同盟時代】 に在る今現在では、果して通用する姿勢と謂えるだろうか?況して他人の信頼を克ち得る態度で在っただろうか??ーーだが些か弁明して穿った観方も可能だ。

この 218年10月〜219年1月までの 4ヶ月の間、曹操は事の
成り行きを見守る為に、その大軍団を擁した儘、「長安」に留まり続けた。即ち、あたら10余万の大兵力を、「漢中支援」に用いること能わず、孤立しかけて居る、征西将軍 【夏侯淵】 の苦境を、
ただ徒に看過するばかりで在った。
蓋し
此の〕の反乱は・・・曹操の大軍団を4ヶ月に渡って釘付けにし、謂わば 《死兵》 にさせてしまった!! とも 言える
のだ。 そして、そのメリットを最大に活かし得るのは、他ならぬ【劉備の蜀軍】で在った。ーーひょっとすると・・・その軍師である「法正」辺りから、関羽に対して何等かの指示・指令が発せられていた・・・か!?

七月治兵遂西征劉備。 九月至長安。
冬十月
宛守将侯音等反執南陽太守却略
吏民保宛
初曹仁討関羽屯樊城。 是月使
仁圍宛。 二十四年春
正月 仁屠宛斬音。
秋7月、兵を治め遂に西のかた劉備を征す。9月、長安に至る。 冬10月、宛の守将・侯音ら反し、南陽太守を執らえ民官を却略し宛を保つ。初め曹仁、関羽を討ち 樊城に屯す。
この月、 仁をして
宛を囲ましむ。
24年春、正月。 仁、宛を屠り 音を斬る。
ーー『正史・武帝紀』ーー

蓋し、この〔Y〕の叛乱の最大の成果・・・・それは此の結末を見届ける迄の間、曹操本軍15万を長安に引き留めさせ、孤立した儘の夏侯淵を総攻撃する機会を劉備に与えた・・・・その1点であろうか!?果して劉備は、その与えられた絶好の好機を己の勝利に結び付ける事が出来るのか!? 果また曹操は急発進して、
その戦いに間に合うのか!?ーーいよいよ

劉備と曹操
直接対決の時が迫っていた!!

然しながら、返す返すも惜しむらくは・・・・
関羽の人格と、その根源である武勇に由来するで在ろう他勢力と協調する事への忌避性向〕〔彼の遠謀深慮の欠如である。それは半面、関羽が己の武勇に絶対的な自信を持ち、他人との連繋や並存を必要としない、”過剰”とも謂える 矜持・自負心を持つ 超人的な
独将タイプの武人で在った!!と謂う事でもある。
筆者には、どこか超人で在った「呂布」と共通する、強よ過ぎる者にだけ現われて来る 独尊の性向が感じられて仕方無い。もし彼が、もう少し己とは異質な者達との協調を尊ぶ器量の有る人物で在ったなら、そして〔X〕や〔Y〕に対しても、鼻先であしらう如き態度では無く、せめて1言・・・・
「あと1年は隠忍せよ!」 との明確な指示を与えて居れば、
「許都」・「宛城」「襄樊」そして「漢中」との、〔四位一体の大攻勢〕が可能で在ったろうし、それは成功する確率が非常に高いものに成ったに違い無かった。 それが史実は・・・・あたらムザムザと、
味方に成り得た筈の周囲の勢力に、各個撃破の憂き目を見させるだけの結果を齎すだけに、終らせてしまったのであるーー
蓋し、この叛乱劇が齎した最大の影響は・・・・

関羽の評価が、可也の程度で後退し、(事実は何うあれ) 侯音らの期待を裏切った!と
観られた事の 負債の大きさ で在ろう。是れまでその面を指摘する書物は皆無であるが、この
人心の乖離
こそが結局は、関羽の滅亡遠因1つ を形成していったのである・・・・ 【第220節】 蜀の逆襲・漢中争奪戦W (ゴング前の控え室)→へ