【第218節】
《楽進の死!》
魏王・曹操孟徳・・・・それにしても”隠れ反逆者”が多い。版図が広大だから当然と謂えば其れ迄だが、此処へ来ての相次ぐ叛乱の集中具合は異様であった。〔]〕の許都・〔北方〕の異民族→更に〔Y〕の宛城、〔Z〕の業卩、そして〔関羽の北上〕
と、未だ未だ今後も続発する事を我々は既に知って居る。無論、当時に在って、その予感・予兆を最も敏感に察知して居たのは、他ならぬ曹操自身で在った。
そして、その”元凶”が何処に有るのか!?ーーその事を1番よく理解して居たのも亦、曹操自身で在った。
そんな中、業卩に在る曹操は〔布令〕を発した。 次男曹彰が烏丸鮮卑連合軍を討つべく、未だ北上中の5月頃(?)の事であった。
所謂、「弱者救済 福祉令」である。
『去冬、天は疫病を降し、人民は衰微し、地方で起った戦争に
耕田は損害を受けて減少している。儂は其れ等の事を甚だ憂慮して居る。 よって官民男女に布令を下し、以下の者達には、
生涯に渡り 生活の面倒を看る 事とする。
70歳以上で夫も子も無い夫人。
12歳以下で父母兄弟の無い子。→(但し12歳で打ち切る。)
目が見えなかったり、手や足が不自由で在るのに、
妻子父兄や財産の無い者。
貧困の為に自活できぬ者。→家族の数に従って官費を給付
年老いて扶養を受けねばならぬ者のうち、
90歳以上の者を抱える1家に1人、賦役を免除する事とする』
ーー以上、補注・『魏書』ーー
善政と観るか?偽善と観るか?・・・・ まあ、当時の
苛酷な時代状況の中、庶民で70歳以上の 独り暮らしの女性、
90歳まで長生きする老人の数は多寡が知れて居たではあろう。それでも尚、何処かの国の為政者の如く丸っきり放置して知らん振りして居るよりは余っ程マシではある。
蓋し「陳寿」は、その置かれた立場上、〔路上チルドレン問題〕や〔極貧層の増大問題〕などの存在を《魏国の恥!》と観た所為で
あろうか?それとも信頼に足らぬ史料と観た為か?『正史』には載録して居無い。その代り?陳寿は此の布令では無く、6月に出されたの別の布令を載録している。
『古之葬者必居痩薄之地。其規西門豹祀西原上爲壽陵。因高爲基。不封不樹。周禮冢人掌公墓之地。凡諸侯居左右以前。卿大夫居後。漢制亦謂之陪陵。其公卿大臣列將有功者宜陪壽陵。其廣爲兆域使足相容。』
『古の葬は 必ず痩薄の地に居る。それ 西門豹祀の西原上を規りて寿陵を為り、高きに因りて基をなし、封ぜず樹えず。周礼に、冢人は公墓の地を掌る。およそ諸侯 左右以前に居り、卿大夫は後に居る。漢制も亦 これを陪陵と謂う。それ 公卿・大臣・列将の功有る者は、宜しく寿陵に陪せしめ、それ 広く兆域を為し、相い容るに足らしむべし!』
古代の埋葬は必ず痩せた地味に行なった。西門豹 (戦国時代の魏の臣)は、西の高原上に祭って寿陵 (生前に造る陵墓) を造った時、高地を利用して基礎とし、土盛りをせず樹も植え無かった。『周礼』に於いては、冢人ちょうじんが君主の墓地を管理し、すべて諸侯の墓を王陵の両側前方に置き、卿・大夫の墓を後方に置いた。漢の制度も同様で、それを”陪陵”と呼んだ。
公卿・大臣・将軍のうち功有る者の墓を”寿陵”に
随従せしめるべきである。従って、其れ等を充分包含し得る様に、墓域を広大にせよ!ーー
この 〔布令〕 を軽視、見逃してはならぬであろう。 殊に 曹操の
年齢に思いを馳せる時、この布令は俄に”重大”かつ”人間性”を佩びて来るのだ。《静平の姦雄・乱世の英雄!》と畏怖され、動乱の時代を波乱万丈に生き抜いて来た曹操孟徳も、この218年建安23年で 64歳 と成って居た。当時の人間で、
彼ほど 「人間の生と死」 を常日頃から 形而上学的に捉え
続け、「存在と無」・「存在と時間」の問題として 深く認識して居た知識人・哲人・(詩人) は他に居無かった。
曹操が戦陣に於いてすら遺した詩賦の多くが、その実存認識を示している。決してニヒリストでは無く、飽くまで人生を謳歌すべき実存者として、限り有る人間としての命を精一杯に生きる。終り有限を自覚する裡での生・・・・当然、死に備える覚悟・生き様の完結としての死・・・・其れを認識して居た筈である。それでも尚、若く生命力に満ち満ちて居る年齢で在ったならば、
己の入る墓 に迄は 思い致さぬであろう。人間曹操、それを気にする年齢に成って居たのである。恐らく、体力的な衰えが、其れを1番痛切に実感させた事であろう。その”己の終末”に備えたのが、この布令で在った・・・そう想って観てみると、この命令は又随分と趣が異なって来る。ーー更に、この布令に関わるで有ろう出来事が、同じ218年に起っている。日月までは伝わらぬが曹操よりも20歳近くは若い、あのチビで 肝っ玉将軍の、
楽進 が死去した!!のである・・・・
魏の5星将の1人
張遼・于禁・張合卩・徐晃と並び称されて来た勇将の突然の死であった。その死因は記されて居無いが、特に断り書きが無いから
”病没”したと観るのが至当であろう。昨年に長江一帯で猛威を振るった疫病の後遺症であったか?蓋し其の報を、遙か「居巣」の陣中から受けた曹操には2重の意味で大ショックで在ったろう1つはーー彼の若さと、其の頑強な肉体が 突然に消滅した
人間の儚さ!!・・・・もう1つは、未だ未だ 是れから先も
何十年かの間は、第1線で生粋の生え抜き部将、掛け替えの
無い名将軍として魏軍の中核で在り続ける筈の人材を失った
愛惜の念!!ーー今から24年前の呂布戦(194年)には既に先鋒を担って1番乗りを果して居るから、その時に20歳だったとしても享年は44歳、40代前半に過ぎぬ。当然この布令に基き楽進の遺骸は曹操の”寿陵の傍ら”に埋葬されたであろう。
《ーー俺の番も、そう遠い先では無いな・・・・》
曹操は根本的には 〔情の深い〕人物で在った・・・と筆者は思う。だからこそ多くの名将・勇将が生れたので有り、その愛惜・哀悼の念は、決して周囲へのパフォーマンスだけでは無かった。
思えば・・・此処へ来る迄の間に、どれ程多くの部下を失って来た事か!戦死した者も在れば、病没した者も在る。中には荀ケの様に粛清した者すら在った。だが此の処、丸で櫛の歯が抜け落ちる如くに、譜代の顔なじみの者達が次々と去って居たーーそれだけ齢を重ねて来た証でも有った。
仏教が未だ、「彼岸」・「極楽浄土」の思想を所有せず、ましてや三国時代には中国人の信仰に殆んど到達して居無い此の時期、合理主義者で在り続けた曹操が、所謂「死後の世界」を何の様に捉えて居たかは判らない。少なくとも「因果応報」や「輪廻転生」の 《個人重視の思想や倫理》は 未だ啓蒙されては 居ぬ時代で
あった・・・・。
楽進の、凡そ30年に渡る、戦いに明け暮れた生涯を『正史・楽進伝』をベースに愛惜してみよう。・・・・その際、記録の中に、彼の個人的・私的なエピソードが1つも記されて居無い事からも、この男が如何に忠節・報恩の 武辺一筋の生涯 を送ったかが髣髴と偲ばれよう。また我々にとっては、恰も走馬灯の如くに、次々と出て来る 曹魏30年の 戦役・戦場を 回顧する
好い機会でもある。果して何れ位が、即座に 浮かんで来るであろうか??
楽進は字を文謙と言い、陽平郡衛国県(冀州・黄河沿い)の人である。身体つきは小柄で在ったが 肝っ玉の激しさ によって太祖に付き従い、帳下の吏と成った。 彼を出身の郡に
帰して兵を募集させたが、千余人を手に入れ、帰って軍の仮司馬陥陣都尉と成った。』
未だ青州兵30万を手に入れる(192年)以前の、小規模な部曲(私兵部隊)の中から、曹操は 彼の資質を見抜き 抜擢したのである。
曲りなりにも記録係(帳下吏)の任に就けられたのだから、多少の 読み書き 位は 出来たのであろう。それとも曹操一流の諧謔で、丸っきりの無学文盲だったか?千人チョットの募兵でも、当時の曹操にとっては貴重だった事からも〔都・尉〕に昇進した。”陥陣”のネーミングは、如何にもピッタリである。
『濮陽に於ける 呂布攻撃、雍丘に於ける 張超攻撃、苦に於ける 橋ズイ攻撃に参加し、全て1番乗りとして戦功を立て、広昌亭侯に取り立てられた。安衆に於ける張繍征討 下丕卩に於ける呂布包囲に参加し、別将を撃ち破った。目圭固を射犬に攻撃し、劉備を沛に攻め、全て其れ等を撃ち破り 討寇校尉に任命された黄河を渡って獲嘉を攻撃し、帰還すると 官渡に於ける袁紹攻撃に参加し、力の限り戦い 袁紹の将軍・淳于瓊を斬った。
黎陽に於ける袁譚・袁尚攻撃に参加し、その大将・厳敬を斬り、行遊撃将軍と成った。』
斯様に獅子奮迅・東奔西走して”将軍”と成った。更に奮闘が続く
『別軍として 黄巾の賊を 攻撃し、其れを撃ち破り 楽安郡を
平定した。業卩の包囲に参加し、業卩が平定されると南皮に於ける袁譚攻撃に参加し、1番乗りして袁譚の東門に突入した。袁譚が敗れると、別軍として雍奴を攻撃し、之を撃ち破った。 建安11年(206年)、太祖は 漢帝に上奏文を奉り 楽進および于禁・張遼を讃えて述べた。
「武力が優れて居る上に、計略は行き届き、忠義にして純一なる性質を持ち、固い操を保持して居ります。戦闘攻撃に臨めば常に指揮を取り、力を振るって堅陣を突き破り、堅固で在っても陥落させない事は無く、自身でバチと太鼓を取り、手は倦む事を知りません。また別軍として征討に派遣されると、軍隊を統率し、兵士達を可愛がっては和を基本とし、命令を畏こみ違反する事無く、敵にぶつかって決断を下す場合も失敗は御座いません。功績を調べ 働きを記し、夫々顕彰され恩寵を下さるべきと存知ます。」
この結果、于禁は虎威将軍に、楽進は折衝将軍に、張遼は盪寇将軍に取り立てられた。』
魏の5星将のうち、張遼・張合卩・徐晃の3人が ”降将” で在ったのに対し、楽進 と 于禁の2人は、根っからの”生え抜き部将”で在ったのだ。
『楽進は別軍として高幹を征討し、北道を通って上党に入り、迂回して其の背後に出た。
高幹らは引き返して 壺関を守ったが、連戦して敵兵の首を斬った。高幹は固守して降ら無かった。たまたま太祖が自身で彼を征伐しやっと陥とした。』
この壺関戦だけは唯一楽進が失敗し、曹操の親征を仰いだ痛恨の戦役であった。だから其の直後の遠征は汚名挽回に燃えての猛進撃となった。
『太祖は管承を征討し、淳于に陣を置き、楽進と李典を派遣して彼を攻撃させた。管承は敗走し海中の島に逃げ込み、海岸地帯は平定された。荊州が未だ服従して居無いので派遣されて陽テキに駐屯した。』
このとき楽進は文聘と共に関羽を攻め、その水軍を焼いている。その後も青泥で睨み合った。
『のちに荊州平定に参加し、留まって襄陽に駐屯した。』
これは曹操にとっては末代まだの屈辱・〔赤壁の大敗北〕を喫した後の事である。必死の逃走を試みる曹操は、曹仁と徐晃を江陵に留め、楽進には襄陽を守らせたのだった。
『関羽・蘇非らを攻撃し、彼等を全て敗走させた。南郡の諸県の山谷に居る蛮族達が楽進の元に来て降伏した。また劉備の臨沮の長・杜普、旌陽の長・梁大を討伐し、全て散々に撃ち破った。
のちに孫権征討に参加し、楽進には”節”が貸し与えられた。
太祖は 帰還する時、楽進を留め置き、張遼・李典と共に合肥に駐屯させた。』
この合肥に於ける〔遼来来!〕の戦闘直前に、楽進の個人的な性向が記されている。・・・楽進と李典と張遼は平素から仲が良く無かった。また同様な事が「趙儼伝」にも見える。→于禁・楽進・張遼らの将軍達は、気力に任せて思いの儘に振舞い、互いに
協調しない事が多かった ノデ・・・・
公的な協力は兎も角、私的な日常生活に於いては、ライバル心を剥き出しにして戦功を競い合う、”武人の意地”が激しかった!のであろう。互いに1歩も譲らずに矜持を掲げ合い、勇んで死地に赴く姿は、如何にも 〔純粋性部将理論〕 の発露で在ったので
あろう。曹操は其んな彼等の後姿を微笑みながら愛でて居たに違い無い。その李典も既に亡い。
『500戸を加増され、前と合わせて1200戸成った。楽進が度々戦功を立てた事から、500戸を分割して 1子を列侯に取り
立てた。楽進は右将軍に昇進した。
建安23年 (218年)、逝去し
”威侯”と諡され、子の楽琳が跡を継いだ。楽琳は果断剛毅な人柄で、父と同じ風格を持って居り、官位は揚州刺史まで昇った。』
右将軍 楽進文謙・・・・未だ早過ぎる逝去であった・・・・。
6月に、生前の墓である〔寿陵〕に関する布令を発した曹操
その218年 (建安23年)7月、曹彰からの北方平定の1報を受けると1大観閲式を挙行した。そして、その観閲を終えるや・・・・その全軍を率いて漢中の劉備征討の為に
出陣したのである!!
曹丕と曹植の兄弟、そして糟糠の妻・卞夫人ら、多くの者達が
曹操を見送った。まさかその姿が今生の別れに成るなぞ、一体誰が知って居たであろうか!?そして業卩城を振り返る曹操・・・北側に王宮を配し、東西南北を大路で区切った、その整然として合理的な都市設計は、この男・曹操の頭脳から生まれたものだ。爾来、それが歴代王朝の首都の原型と成り、遠くは唐の都・長安→倭の平城京・平安京へと伝わってゆく。ーーだが、その原作者である曹操自身は、もう2度と再び、この 思い出深い王城には、生きた姿で戻る事が無い・・・・。そんな事なぞ自身も想っては居無かったであろう。
而して今、曹操は征く。己の覇道を求めて、独り進む。
老驥伏櫪 志在千里
烈士暮年 壯心不已
老いたる馬は厩に伏すも 志こそ千里に在らん
烈き士は暮いにし年も 壮き心の已む事はなし
壮き心の已む事はなし!!・・・・
それにしても、曹操孟徳と云う人物は、最後の最期まで不可思議な人間である!!普通一般の常識では理解に苦しむ事屡々である。2年半前には・・・張魯を屈服させた時、司馬懿ら重臣の進言にも関わらず、〔蜀併呑の 千載一遇のチャンスを棒に振って〕 帰還・引き上げてしまった。
そして今度は逆に 64歳の高齢で在る にも関わらず往復距離だけでも 2000キロに及ぶ大遠征 を、敢えて決断し実行する。
何も 老骨老体に鞭打って、自身が行く必要は 無いでは
ないか??配下には幾等でも有能な部将達が揃って居るのだ。 こんな老齢に成ってまで、日本列島縦断に匹敵する大遠征を行なった”王者”は過去に存在しない。 ※ 始皇帝晩年は、遠征と謂うよりは不老不死の秘薬を求めての旅行=〔行幸〕であった。2年半前の場合は、魏王就任の政治日程の為と謂う一応の理由が在ったと想像し得るのだが、今回の場合には其の絶対的な必要性・緊急性・必然性は皆無であった、と謂える状況である。・・・・判らぬ。理解に苦しむ。
決して健康・体力に自信が有ったとは思えぬ。実際、この直後の史実から観ると、この遠征によって曹操の体力・寿命は、確実に削り取られていたのである。だから寧ろ、健康面には大きな不安を感じて居た筈である。
にも関わらず、敢えて自分自身が 親征の途に
就いた理由は、一体 何んだったのか!?
本書としては、素通り出来ぬ重大な疑問である。即ち、曹操孟徳と云う男の人間的根幹・バックボーンを探る為にも不可欠な作業である!と 捉えるのである。
そこで考えられる理由・原因だがーー
先ず1つは・・・・曹操自身が 至極普通の当然な事として、全く
ケロリとして居た場合である。御本尊は、我々が思う程には心身共に深刻では無く何時もの事として、気力も体力も充実しきって居た、と観るケース。その仮定の上に立つならば、曹操の健康の秘訣・強壮の思想理論として、
《俺の健康は、遠征する事に拠って却って培われて来たのだ!》
とする、彼自身の信念が在ったか?・・・・そこで筆者が思い至るのは、中年期〜晩年期に於ける曹操の体型・風貌である。
歴史の教科書に出ている「始皇帝像」の如き、でっぷりと重厚で、周囲を圧倒する様な貫禄・威厳たっぷりの肉付き・・・・堂々たる
体格ーー即ち現代では寧ろ忌まれる”超肥満体”=朝服を身に纏った場合に恰幅・押し出しの良い体型だったか??
曹操の風貌についての記述は『正史』には1文字も存在しない。だが然し、答えはハッキリ 「否!」 であろう。何故なら、曹操の
人生を辿る時、彼には中年太りして居るヒマさえも無かったので在り、その生涯に於いて僅か1年 いや半年として、王城に留まる事すら無かったので在る。寧ろ其の生涯の殆んどは馬上か露営の地か、出先の支城に身を置いて居たのだ。
年がら年中、王宮に居て”宴会浸け”に成って居た名士や文官と比べたら、曹操の体格の方が遙かに見劣りしたに違い無い。
当時としては貧相!と見做される所以である。3級史料では、『己の風貌に自信が無かった曹操は、影武者を代役にして、異
民族からの使者に謁見させた』とすらある。まあ、そうした風評が立つ位に、曹操のパッと見は当時の基準からすれば貧弱だったのであろう。・・・だが現代医学・健康思想から観れば、その身体付は 却って健康維持の基本である。そうした事から思い致せば曹操は確かに64歳で在っても、他の王者の晩年とは異なる健康を保って居たであろう。その贅肉・皮下脂肪の薄さは見た目には
〔貧相〕 を齎すが、 血圧・ コレステロール・血糖値 等々には効果的であり、肥満に起因する 老化現象の予防に 役立って居たに違い無い。だから完全なる健康体で在った!?
そもそも、皇帝や皇帝と見做されて「紀」に書かれる様な人物の風貌には、常人とは異なる〔特異な事柄〕を大袈裟に書いて讃えるのが常識である。にも関わらず、魏の武帝紀=曹操伝には、彼の風貌についての1言半句も無い。ゴマを擂るにも事欠く程にスッキリして居た・・・・??
然し、その事を裏返して謂えばーー曹操は生涯を通じて、この世で最も 睡眠時間が少なく、最も 心身を苛酷に削り続けて来た王者でも在った訳である。矢張り、30有余年の間断無き激務は、如何に超人曹操孟徳と雖も、その心身を密かに蝕ばみ続け、終には急激な衰えを齎される時を迎えていたのであるに違い無い・・・・
その懸念・推測は更に、長安から漢中へ至る後半の日程の中にも窺える。史実として曹操が漢中へ到達し、劉備との直接対決に臨むのは、何と翌年の3月なのである!無論、諸般の事情も有るのだが、業卩を7月に発してから 9ヶ月 を要しているのだ!!
3年前は、僅か 4ヶ月 で到達して居たのであるから、その違いの差は歴然としている。ーー矢張り曹操の体調は明らかに衰えて居た、と観てよいだろう。恐らく周囲も親征する事を再三諌めたであろう。・・・・事実、曹操は、もう2度と再び業卩の城へ帰還する事も無い儘に、その波乱万丈の生涯を閉じるのである。
だとすれば尚の事、曹操は何故に、体調に不安を抱えながらも、敢えて〔親征〕の道を選んだのか?その答を解き明かす方法の
1つとして有力なのは・・・・矢張り、彼の著作であろう。即ち、
若い日々から書き溜めて来た
《詩賦》 の中に鏤め
られた思索や思想・理想から、その答を導き出す。
2つは・・・彼の実践行動の中から、その行動をパターン化して、
その奥に潜む深層心理を抉り出す。
3つは・・・特に 晩年期に於ける言動を詳しく検証し、曹操が
己の終末を如何に完結させようとして居たのか?
その終焉哲学に焦点を絞って手繰り出す。
4つは・・・彼の置かれて居た、時代状況や時局動向が齎した、
曹操と云う英傑個人を制約した外的な背景。
5つは・・・彼の気質に纏わる偏執性・執着心=パラノイア度、
貫徹の美学・完結の美意識の問題・・・・等々である。
だがーー其の作業は未だ、此処で詳しく扱うには時期が熟しては居まい。又、戦時下の現段階には馴染まない事柄でもある。故にこの曹操孟徳と云う人物についての深淵な考察は、第U部の最終章で、纏めてジックリと行なう事としよう。・・・・但し、今の段階でも ハッキリ謂える事は、
曹操は、己に相応しい死に場所・死に様ーー即ち
己の生き様の完結を求めて出陣した・・その事である
曹操が率いた遠征軍の総兵力は定かでは無い。然し、その2年前の観閲では全26軍・40万が集結した魏軍の底力であるその40万から引き算してゆくと、凡その数は推測できよう。↓
※ 先ずは「居巣」への追加駐留分 (張遼軍) が1〜2万位?
※ 「下弁」への増援 (曹洪軍) が5万!
※ 「北方」への急派 (曹彰軍) が7〜8万位?
※ 「業卩」の留守部隊 (曹丕軍) が10万程度?
40万ー2万ー5万ー8万ー10万=15万と云う計算になる。まあ、そんな線であろう。蓋し、既に先遣・駐留して居る現地軍と合わせれば→漢中攻略軍の総兵力は
裕に20万を超える!!蜀軍の2倍以上の兵力と成る。更に之に、途中の「長安」で《関中駐屯軍》が合流すれば、3年前に【張魯】を征討した、第一次漢中遠征の時と同規模の大軍団!!もっと謂えば、北方を平らげた
〔曹彰軍〕 が帰還すればその優位さは 圧倒的なものと成るであろう。必勝、磐石の構えであった。ーー但し、その大軍団の故か、曹操本軍の行軍速度は 異様に遅かった。3年前の遠征では僅か1ヶ月で山岳地帯の「散関」に到達して居た事と比べると、今回の進軍スピードは、その4分の1に過ぎ無かった。「業卩」を発したのが7月であったのに、「長安」に到着したのは、何と2ヶ月も後の9月の事となる。・・・・その遅延・遅滞の理由として最も有力なのは矢張り、〔曹操の健康問題〕 だと考えるのが至当であろう。3年前に比べガクンと体力が落ちて居た、と想われる。 周囲も 其れを気遣い
ながらの行軍であったに違い無い。車駕や御輿を用いた行程が長ければ長い程 その到着は遅くなる。ーーだが其れ以外にも、長安到着を遅らせた 突発的な問題が起こった 可能性が有る。
それは・・・・〔魯昔の愛妻事件〕である。
既述した如く、「関中」の駐屯部隊は其の殆んどが〔徙民兵〕であった。中核は馬超がらみの「漢中兵」だったが曹洪の増援軍が到着した時に、結局は騙された格好で、関東へと強制移住された騒動が在ったばかり。だが徙民兵は彼等だけでは無かったのである。500キロも北方の并州太原郡 (呂布の故郷)から、烏丸の騎兵部隊を呼び寄せても在ったのだ。その太原烏丸の王が、魯昔である。無論、曹彰が鎮圧した、「代郡の烏丸」とは直接の関係は無い。この【魯昔】には愛妻が居た。遠く離れた并州の都・晋陽に残しての単身赴任であった。彼の率いる 騎兵たちも皆、同様の境遇に置かれて居た。
『魯昔は 彼女を恋しく思って居た上に、このまま 帰れ無く成るのではないかと心配した。そこで其の部下500騎を連れて謀叛し、并州に立ち戻った。そして騎兵を山合の谷間に留め置き、独りで馬に乗って晋陽に入り、その妻を勝手に連れ出した。城を出た後州・郡ではやっと気付いたが、官民共に弓の名手であった魯昔を恐れ、思い切って追わ無かった。そこで梁習は従事の張景に命じ鮮卑人を募って魯昔を追跡させた。魯昔の馬は彼の妻を乗せており、2人乗りであったから速度が遅く、部下達と一緒になる前に鮮卑人に射殺された。 最初、太祖は魯昔の謀叛を聞くと、彼が北方の国境地帯を混乱させる事を懸念した。 だが丁度その時、既に彼を殺害した!との報告が入り、大そう喜んだ』 (正史・梁習伝)
妻を勝手に連れ出した・・・・とは笑止千万の書き方であるが、
恋しくて恋しくて、会いたくて会いたくて堪らずに、命を賭けて脱走謀叛した男の、深く 強い愛。 そして突如、500キロの 彼方から
現われた夫の、その心を瞬時に理解して、これも亦 死を覚悟して2人乗りして奔る妻の愛・・・・そんな美しい個人の愛も、冷厳なる歴史の前には、単なる微細な出来事でしか無い。 而して魯昔はその愛を貫徹した事により、2千年の彼方まで後世に名を留める結果と成った。我々としては、せめてもの手向けだと思うしかあるまい・・・・。
そんな此んなで「長安」到着が遅れた曹操であったが、その長安には下弁戦で別働軍を率いた【曹真】が、本軍の到着を
今や遅しとばかりに出迎えた。ーーそこで曹操は、
その曹真を、〔中領軍〕の官に就け、本軍の統括を司らせ、己の負担を軽減させる事とした。更には賈キに命じて偵察部隊を先行させ、漢中への侵入口に当たる「斜谷」の安全を確認させた
そして・・・・いよいよ「漢中」目指して、残り半分の行程に乗り出さんと、改めて壮心を奮い立たせたのであった。ーーだが其の時 又も曹操の元に、謀叛の凶報が届いたのである!
明らかに、曹操が遠征する此の時期を見計らった謀叛であった。
〔X〕に続く 〔Y〕の叛乱→今度は南方の軍事的要衝南方の最前線=襄樊の背後に当たる豊饒の地・「南陽郡」で
《宛》が城ごと叛旗を翻したのである!!【第219節】”Y”の叛乱・宛城 ( 関羽、未まだ北上せず) → へ