【第217節】
さては曹操、この鬼っ子だけには、”落とし処”を
探しあぐねたか・・・!?流石の曹操も、終に此の「黄髭」だけには 身の修り所 を 示してやる事を仕損じたか!?・・・・と、筆者・・・この歳に成って 漸く 想う。
何せ、その武勇・覇気はハンパでは無く、気狂い染みて居た。
学問軽視の超偏向性を佩びた儘、脳味噌もハートも其の全身全霊が、スポ根魂一色に染め上げられて成長して来てしまって居た。オギャー!と此の世に産まれ落ちた瞬間から、もう既に、他の子供達とは異次元の元気満タン・フルパワーであったのだった。
『若い頃から弓射と馭車が得意で、筋力は人並以上、自ずから猛獣と格闘し、険阻な所も平気であった。度々征伐の供をし激しい気性を示した。
一体、英雄豪傑がゴロゴロ登場する『正史・三国志』の中に在っても、何と 自ずから
猛獣と格闘し・・・などと公式な「伝」に記述されるのは、後にも先にも、此の曹操の次男坊 だけである。《猛獣!》 とあるからには、牛馬や鹿なぞの類いでは無い。
単に「獣」では無く、飽く迄 《猛獣》 なのだから、相手は人間を襲う 獰猛な種類の奴で
ある。然も 《格闘》するのであるから「素手での勝負」を挑んだのであろうーー熊か?虎か!?果また狼か!?・・・・普通なら、道でバッタリ出遭ったら、一目散に逃げ出す筈なのに彼のバヤイは、「あッ、目〜けた!!」 と大喜びで追っ駆け廻すのだから、ホトホト困り果てた
《猛獣協会》 では、『凶暴につき、黄髭に遭ったら 直ちに逃げる事!』 との 通達が発せられている状態であった。又、
『もし逃走叶わぬ場合は、一切の抵抗はせず、丁寧に御辞儀し、更にはスリスリして
見逃して貰う様に、極力これ努める事!』 との 特記事項付きの有様。
蓋し、♪♪〜凄い男が居たもんだ〜♪♪〜〜状態・・・・
『太祖は或る時、彼の気性を抑える為に言った。
「お前は 書物を読んで聖人の道を慕う事を考え無いで、汗した馬に乗り、剣術をするのを好んで居るが、其れは
”匹夫の働き” で在って、何うして尊重する程の事が在ろうか!?」 そして彼に
『詩経』 と 『尚書』 を読む事を課した。すると彼は側近に言った。
「男子たる者、ひたすら衛青・霍去病前漢の猛将と成って10万の騎兵を引き連れ、砂漠を馳せ廻り 蛮族を追い立て、功績を挙げ称号を打ち立てるべきじゃ!何で博士なんかに成れようぞ!
太祖は又 或る時、子供達に好きな事を訊ね、各自その希望を
述べさせた。「将と成るのが望みです!」 それが彼の答だった。
「将と成って何うするのじゃ?」
「鎧を着、武器を手に、危険を前にして怯まず、士卒の先頭をきります。恩賞は必ず行なわれ、刑罰は必ず信義に基きます!」
太祖は大笑いをした。』
是れが 『正史、任城威王・彰 伝 』 の記述である。
『任城の威王曹彰は字を子文と言う』・・・・この後に続く
のが上記の人物紹介の記述である。但し『たびたび征伐の供をし激しい気性を示した』 以外の詳しい武功・武勲については1言の載録も無いのであり、突然に、
『建安21年(216年)、焉卩陵えんりょう侯に取り立てられた。』 と一挙に 20年分も スッ飛ぶのである。・・・・但、敵国・呉の「孫策伝」中に
『曹操は息子の曹章の為に孫賁の娘を娶り』との記述が存在するのみ。この政略結婚は、官渡決戦を控える曹操が「狂犬野郎=孫策」を懐柔する為に、自分の弟 (早逝した為か名は不伝) の娘を、孫策の末弟・孫汲ノ縁付けた198年に、セットで行なわれたもの。曹彰が10歳前後の事である。孫賁は孫策の従弟。ーーこの曹操の仕掛けた遠謀は、孫権の代に成った現在も、また今後も活かされ続けてゆく事と成る。近い例では去年の【孫権降伏!】の伏線・背景とも成っていた。
上に曹丕32歳、下に曹植27歳の兄弟が在る【卞夫人】の次男→曹丕が187年生まれ、曹植が192年生まれ故、【曹彰】は其の
5年の間に生まれた事となる。 中間の189年なら、この218年
時点では30歳。ーーこの30歳に成る迄の間・・・・
その抜群の武勇にも関わらず、父・曹操は、この次男に対して、全く司令官の任務を与えなかった・・・と云う事になる。無論、叔父や甥たちとは立場が丸で異なっては居た。直系の第1親等なのだから《後継=太子》の資格保有者で在り、他の2人の兄弟とのバランスを考慮した場合(長男の曹丕ですら、五官中郎将に過ぎ無かった)幾ら武勇抜群で在っても、おいそれとは独り彼だけを将軍に取り立てる事は不可能な事情が在ったのだ。・・・・だが如何に其うであったにせよ、もう少し何とか出来なかったか!?あたら猛獣並の強烈パワーや、その勇猛果敢な突撃精神などなど、騎馬軍団の先頭に立ったなら、必ずや大将軍の威風を具えたであろう逸材では無かったのか!?ーーその慨歎が冒頭の「筆者の呟き」なのである。が・・矢張り、それは無理な注文と謂うものであろう。
もし 見境なしに彼の武勲の儘に軍団を与え続けたならば いずれ其の軍事力・派閥は彼の多大な影響力として作用し、側近の中からは其の軍事力を背景にして、力ずくでの後継者奪取を唆す者とて現われぬとは限ら無い。学才方面では最初からレースへの参加を諦めて居る様子に観える曹彰だが、彼とて人の子・・・《戦国の後継者を決めるのに、なんで”文才ばかり”に注目する
のか!?》 皇帝への執着心が、皆無だとは 言い切れぬ。
(※事実、曹操の死の直後、一瞬だが 其うした場面が出現する。) だとすれば、
それは個人的な問題では無くなり、国家を根底から揺るがし分裂させる、反逆・叛乱行為と化す!!そんな事態だけは、絶対に許され無い。ーーかくて、武門のみは物凄い、次男曹彰の出番は、此の30年の間、遂に永遠に巡っては来無かったのである。
処が、処がであった!!そんな次男坊にも遂に、方面軍の司令官の役が廻って来たのである!!では一体、その ”方面” とは 何処か!?ーー
業卩から 北方へ 遙か500キロ もの彼方・・・・
中国最北の幽州、その西の山岳地帯ーー万里の長城が2重にも築かれ古来より 最も異民族の侵入・侵攻が激しかった場所・・・グルリを長城に囲われた「難地!」と呼ばれる代郡と上谷郡の2郡を中心に、
烏丸・鮮卑の北方・騎馬異民族たちが
一大叛乱を起こしたのである!!
時に218年4月・・・・西方で曹洪 (曹休) が、張飛・馬超 らの先遣部隊を、「下弁」から駆逐した (3月) 直後の事である。だが然し、此の〔漢中争奪戦〕は未だ未だ是れからが正念場!!劉備自身が率いる蜀本軍との死闘・激突が控えているのだ。詰り、主戦場は飽くまで”西”で在り、決して”北”では無いのである。この緊急時に降って湧いた様な( 無論、その状況を観たからこそ 烏丸は 叛乱したのだが )500キロ も 北方への遠征である。然も、急行する事が必要だった。叛乱が北方全域に飛び火しない裡に、速やかに鎮圧しなければエライ事に成る。ーーだが、兵は足りたが、それを率いる”将”が居無かった。「漢中決戦用」に温存して措きたい。
曹操は早晩にも、自身が「漢中」へ乗り込む腹心算で居た。行かずに済むに越した事は無いが、行かざるを得無い状況に成るだろう と 観て居たのである。その時の為に
”将”は 温存して措かねば為らなかった。ーー曹操にすれば、マークなんぞ付けて、喜んで居る場合では無かったのだ。
そこで周りを見廻したら・・・・居た、居た!!ちょうど打って付けの、蛮族討伐を夢にまで見て、古えの衛青・霍去病に憧れる猛獣男!!遠征軍の司令官として、その全軍の先頭に立ちたくてウズウズして居る 「黄髭」 が居るではないか!!
折しも後継者争いには終止符が打たれ、長男・曹丕の太子決定が済んだ後の事。ここで次男に1軍の司令官を任せても、もはや御家騒動の火種には成らぬであろうーーかくて烏丸討伐の白羽の矢は、待ちに待たされ、やっとの思いで 念願叶った形の 武門
オンリーの次男・曹彰に突き立ったのである!!
父王・曹操から ”封印”を外された曹彰、恰も檻から解き放たれた獅子の如くに勇み立った。
「嗚呼、やっと、俺の出番が廻って来たか!!」
やれ詩才だ文才だのと、曹丕と曹植ばかりに讃嘆の眼を向け続けて来た父・曹操への鬱屈・反発心も在ったであろうか。
《此処ぞ、我が存在を、天下に示す 絶好の機会!!》
そんな次男坊の胸中を察してか、曹操は出陣前に言い聞かせた
「よいか。家に居る場合は父と子で在ったが事を担当すれば君と臣である。常に王法に拠って事を行なえ。汝その事を心せよ!」
張り切り過ぎてブレーキを忘れ、暴走する事を戒めたのである。父王の眼から観れば、ともすると私的な感情に奔り勝ちな性向が見えたか?「心得て御座います!!」
この次弟の司令官就任を知った太子・【曹丕】も亦、直ちに彼に手紙を送り付けている。その文面に曰くーー『大将と成って法規を遵法する事、征南将軍の様で在らねばならぬぞ!』征南将軍とは、現在も襄・樊城で関羽の北上を阻止し続けて居る【曹仁】を指す。曹仁は、「厳格に法規を遵法し、何時も法律の条文を身辺に置いて之と照合しながら事を執り行う」 と夙に知られる血縁の重要部将・・・・
《罷り間違っても増長して、太子で在る此の兄を見下す様な事の無い様にするのだぞ! お前は兄弟だが、いずれは私の臣下に成る身分なのだ!》 その意図が明白な 戒めの手紙であった。
かくてーー曹操が、他の子らとは別個な意味で可愛がり、自慢しては口癖の様に、『黄髭!黄髭!』 と呼び慣わす次男・曹彰は(恐らく10万近い?)大兵力を率いて、遙か500キロ北方へと出陣して行ったのである!!
※何故に筆者が 《兵力10万近く》 と憶測するかと謂えば→この曹彰軍と代郡烏丸との決戦を、すぐ傍らで”観望”して居た鮮卑族の軻比能が、何と『騎兵5万を従え』
との記述が在るからである。観望するとは日和見の事であり、戦局優位な方に途中から加わって「勝ち組」に成る魂胆の事である。そのドッチ付かずの観望者が5万騎!で在るとするなら、決戦する本隊が5万以下では話にも成らぬでは無いか? 更には 又、
その直前に40万の観閲式を挙行した業卩の曹操にとっては、この時点での10万の派出は許容範囲の数字で在ったと想われるからである。但し同時に(小文字にして?マークを付けた)理由も亦、在るのである。それは、上記の鮮卑族の軻比能が、『曹彰に散々に討ち破られて、長城の外に逃げ出した』!との記述も見えるからである。 (・・・・ったく!デアル。)
その黄髭・曹彰の、軍人としての官位は、太子・曹丕と同じ
レベルの〔北中郎将〕であった。将軍号の1歩手前の武官で在る事を示す。だが流石に方面軍の総司令官が”中郎将ていど” では異民族に軽く見られる。第一、味方の軍隊に対しても《示し》が着か無い。何故なら曹操は、曹彰の参軍事 (軍事顧問) に、【夏侯尚しょう】を任命し随伴させたからであり更に 弟の【夏侯儒】を驍騎司馬(参謀)に任じたからである。この2人共は〔中郎将レベル〕なぞ、とっくの昔に超越して居る部将だった。詰りこの儘では下位の者が上級者を率いる逆転現象が起こってしまうのだ。そこで曹操は、曹彰を 〔驍騎ぎょうき将軍・代行〕 と云う措置を講じた。即ち、《この遠征に限っての将軍!》 とする”期間限定付き”の将軍に任じた訳である。とは言え、非公式の”雑号将軍”では無く、由緒正しい
レッキとした”大”将軍職である。
ちなみに初登場の【夏侯尚・儒】の兄弟は・・・今、漢中に駐留して居る〔征西将軍〕・【夏侯淵】の従子おいである。兄の尚は15年以上も前に既に軍司馬を拝命して騎馬軍を率いる指揮官だった。又、曹丕とは特に親しく、『魏書』には、『夏侯尚は計略・智謀に
優れていた為、曹丕は彼を評価し、社会的身分を越えた付き合をした』とある。だとすれば、【夏侯尚】が参軍事に付いた意味合は、単なる軍事顧問だけでは無く、〔目付〕の要素が内包されて居た事ともなる・・・・いずれにせよ、2代目・曹丕の時代に活躍する次世代型部将の1人である。但、彼は曹氏一族の娘を正妻に迎えた事から、最期はトンダ目に遭うのだが、その事はいずれ又・・・・。
尚、弟の【夏侯儒】は年齢不詳だが、是れがデビュー戦であった
更に曹操は、もう1人・・・・北方出身の有能な人物を同伴させた。上谷郡と西で接する漁陽郡雍奴県の人で、名を【田豫でんよ】と言う。字は国譲。青年期には【公孫讃】が幽州を支配していたが、その食客に成った【劉備】に身を託して付き従った。然し故郷に残して来た母親が老齢であった為に願い出て帰郷した。別れの時、劉備は涙を流しながら言うのだった。
「君と共に大事を成就せぬのが残念じゃ!」 然し帰郷した田豫を、名士嫌い・人間不信の公孫讃は重用する事の無い儘に滅亡した。その相手だった【袁紹】も官渡で【曹操】に破れ、悶死した。その間、幽州は主を失い、地方豪族に推された異民族の「鮮于輔」が太守を代行したが、一体誰に従臣したら善いのか判らぬ時局であった。その時
彼と親交が有って、アドバイスしたのが、此の【田豫】で在った。
「最後に善く 天下を平定するのは、曹氏 に間違い有りません!速やかに帰服なされ。禍いの降り掛かる迄グズグズして居てはなりませぬ!!」
やがて丞相と成った曹操は、田豫を招聘して〔丞相軍謀掾〕に任じた。最近は
〔弋陽よくよう太守〕を務めて居た。そんな異民族の内情にも詳しい田豫を代郡の〔相〕に任じ、事実上の軍師 としたのであった。
ーー処で・・・・「アレ〜?確か、”烏丸” って、ハンニバル曹操の万里の長城越で、コテンパンに遣っ付けられて、今は曹操の騎馬軍団の中核に成ってるんじゃ無かったっけ〜??」
ーー然り、である。が、然し、でもあるのだ・・・・。
今から7、800 年 前の春秋戦国時代に、蒙古高原に繁栄した 遊牧騎馬民族で、当時は
中国人から東胡とうこと呼ばれた。その勢力範囲は中国北辺にまで及んだが約400年前に 「匈奴きょうど」によって 覇を奪われ 蒙古高原を追われた。逃れて集結した場所が〔烏丸山〕であった事から、この呼び名が付けられた。(同じ東胡の別派は〔鮮卑山〕に逃れたので、現在は『鮮卑せんぴ』と呼ばれているが 元は同根 である。 但し現在では
”鮮卑”の方が広大な地域を活動 支配しており、”烏丸”の勢力圏は幽州一帯に限られている。) 尚、『史記』『漢書』『後漢書』では”烏丸”を【烏桓】と表記している。
烏丸族全体については、【第112節】・《誇り高きツングース》 にて、細大漏らさず詳述してあるので、此処では その後の情勢 のみに限って、簡潔に触れて措く事とする。ーーその際、最適な人物の「伝」が存在する。
この叛乱の起きる 2ヶ月前まで当の〔代郡太守〕で在った「裴潜」である。本書では既に【第202節】《文官の日々》に登場させ、その中で
”北方情勢”にも言及してある。
『当時 (今から3年前)、代郡が大そう乱れたので、裴潜を代郡太守に任命した。烏丸王と其の部族長(大人)合わせて3人が夫々勝手に「単于」と称し、政治を支配して居たが裴潜の前の太守で 取締まれる者は無かった。』
事は未だ、正面切った曹魏政権への叛乱では無かったが、その傍若無人の行為は、間違い無く”反抗と同じ”であったーーだが曹操は張魯征伐に主力軍を用いていた為、代郡の官兵だけでは阻止する事は出来ず、放置されていたのである。 然し張魯を降し、本軍が凱旋した 3年前の時点では、精鋭軍を送り込み、 彼等を 鎮圧討伐する事は容易であった。そこで曹操はその任務を裴潜に命じた。処が、裴潜は辞退して言った。
「代郡は戸数人口豊かで 兵馬・弓士は常に5桁に上る数を持って居ります。単于どもは 永い間、勝手放題をしている事を承知して居ますから、自分でも内心は不安に思って居ります。今、大軍を引き連れて行けば、必ず恐怖を抱いて郡境で抵抗するでありましょう。この際は少数を引き連れて行けば恐れられる事は無いでしょう。計画に拠って彼等を始末すべきであって、軍威を以って圧力を掛けるべきではありません。」
かくて1台の車だけで郡に赴いた。戦々恐々だった単于たちは驚喜した。裴潜は彼等を慰撫して鎮静させた。単于以下、被り物を脱ぎ、額を地面に擦り付け、前後に渡って略奪した婦女子・器具・財物を全て返還した。 裴潜は郡内の大官のうち、単于たちと
一体と成っていた赫温・郭端ら10余人を取り調べ処刑した。北境地帯は大いに慄き、民衆は心から帰服した。代郡に在任すること3年、戻って〔丞相理曹属〕と成った。
曹操が其の功を褒めると、裴潜は言うのだった。
「私は 民衆に対しては 寛大で在りましたが、蛮人に対しては 峻厳で在りました。今、後任者は必ずや、私の統治が厳し過ぎると考え、全てに渡って寛大と恩恵を旨とするでしょう。彼等は平素より 驕慢で思いの儘に振舞って居ましたから、寛大に過ぎれば必ず
気儘に成ります。気儘に成った後ではもう1度法律に拠って取締りますと、今度は 争い事を惹き起こす元 と成りましょう。
情勢から判断しますと、代郡は間違い無く再び背きます。」
それを聴いた曹操は、裴潜を呼び戻すのが早過ぎた事を、深く悔やむのであるが、果して・・・・数十日後に 〔3単于叛乱!〕の情報が届いた。そこで焉卩エン陵侯・曹彰を〔驍騎将軍〕として派遣し彼等を征伐させた』
もう少し詳しく 、《彼等側の事情》 を観て措こう。ーー実は、この烏丸叛乱の背後には、彼ら異民族同士の複雑な事情が在ったノデアル。史書も此の叛乱を、『代郡烏丸の反乱』 と記しているが、正確では無い。詳しく言うならば、『代郡を中心とした、烏丸と鮮卑の反乱』 で あるのだ。まあ中国人から観れば元々は同根の”東胡”同士なのだから、一々拘る必要も無いのではあるが・・・辺境の山岳地帯に居拠し合う彼らにとっては、そのヘゲモニーを何の部族が握るか!?は、死活問題であった。
彼ら異民族の軍閥が生業にして居たのは、《胡市》と云う外国(中国)との交易市場の主催権=用心棒を兼ね上前をピンハネする「凌ぎ稼業」であった。その通商ルートは各地を結んで成り立って居たから《互市》とも呼ばれ、相互補完的な1大商業圏を構成していた。だから常に其の主宰権 ・1つのパイ
を巡っての内部抗争が内包されて居たとも謂えるのだった。
この218年時点での代郡・上谷郡一帯には・・・・
〔烏丸うがん族〕 と 〔鮮卑せんぴ族〕 とが混在 し合って居た。
※【鮮卑】については、《第V部》で詳述する予定である故、此処では割愛して措く。
ちなみに、その首長の漢側の呼称 (漢語) は異なる。
烏丸は→単于 ぜんう、 鮮卑は→大人 たいじん と称した。然し、この当時では”自称”する者が多く、内部分裂の傾向が強かったのである。・・・・で、此の叛乱の火付け役 と成ったのは・・・・
代郡烏丸の単于で在った能臣氏および無臣(地名)の氏てい族で在った彼等は曹魏の支配から独立を宣言し、漢人政庁を襲撃。と同時に鮮卑の大人で在った扶羅韓に擦り寄り「その配下に入りたいから支援して欲しい!」と通知。扶羅韓は直ちに1万騎を率いて迎えに行った。会合地点は、両郡の郡境に近い「桑乾」の地。ところが扶羅韓の部隊を観た能臣氏は、《コリャ当てには出来んぞ!》と判断した。全く統率が取れて居無かったのである。
そこで能臣氏は、もう1人、強力な助っ人を呼ぶ事にした。鮮卑の大人・軻比能かひのうである。この軻比能こそは、機を観るに敏で神出鬼没!先の郡太守・裴潜の繰り出した官兵部隊を迎え撃ち逆に
馬城 に包囲してしまった程の人物。 こちらも1万騎を率いて「桑乾」に出張って来た。項羽と劉邦の「鴻門の会」ならぬ、烏丸族と鮮卑族の首長同士による「桑乾の会?」が開かれた訳だ。
ところが軻比能は会盟の席に着いた途端、問答無用に扶羅韓を斬り殺し、一挙に盟主の座を奪い取ると共に、会衆して居た全軍の指揮権をも掌握してしまったのである!!但し殺された扶羅韓には弟の歩度根が別地方に勢力を保って居た・・・と云う複雑さ。
とは言え、今、曹彰が向っている 幽州の代郡・上谷郡は、その軻比能による統率直後の 状態と成っていたのである!!
だいぶ下拵えが長くなってしまったが、いよいよ戦記の部分である。この戦いの様子は「下弁戦」とは異なり、史料が豊富である。詰り曹彰にとっては 唯一 「彼の伝」を飾る 一世一代の晴れ舞台だった と謂う事だ。逆に謂えば、切無くもあるのだが・・・・
あれだけ釘を刺されたのに矢張り曹彰は 逸って居た。
それはそうであろう。何しろ20年間も待たされ、人に数層倍する己の武勇を封印され続けて居たのだから、1刻1瞬でも早く、自分のフルパワーをぶつけるべき敵の元へと馳せ着け、是まで積り積って来た憤懣を、一挙に洗い浚い叩き突けるのだ!!
気が燃える。自ずと脚は速まる。如何に抑えても抑えても、元々から人並外れた体力
と 気力が、彼自身の遅滞を許さ無かった。気が付いて振り返れば、自身が率いるべき大軍団は遙か後方・・
参謀の【田豫】に嗜められては、渋々立ち止まる。苛々しながら待つ事数刻。やっと味方の大部隊が現われるや、相手の休息時間を待ち切れずに再び先行・・・そんな事が再三再四くり返されるすると段々、小刻みに立ち止まる事が億劫になる。
「全く、一体どんな錬兵を日頃やって来たんじゃ!」 歯痒い。
「構わぬ。我等だけで進んで、1日の終着地で待つ事にしよう。」
そうすれば、一々後続を気にせずに、マイペースで進める。
「まあ、見通しの効く、シ豕郡までなら仕方無い・・・でしょう。但し、シ豕郡に入ったら、絶対に許されませんぞ!お誓い下さい。」
田豫も とうとう曹彰の熱気の圧されて其の措置を認めてしまったシ豕郡からは「幽州」である。業卩(冀州)から凡そ300キロが州境となる。その間は見渡す限りの大平野が打ち続く。・・・・敵からの《奇襲攻撃は不可能な地形》と謂って良かろう。だがシ豕郡の北の郡境は、もう万里の長城なのである。努々油断は禁物であった。
「ああ誓うとも。誓うともサ。決して自分が全軍の総司令官で在る事を忘れ ては居らんワイ。ただ儂は、1刻も早く
敵地に乗り込みたいだけじゃ。」
参謀から許可を得た曹彰の脚は、益々速まったーーちなみに『我々』とは・・・・近衛の騎兵500余と、健脚の歩兵1千余だけを指す。尤も、流石に、総司令官・驍騎将軍サマの車駕であるから贅沢品を積み込んだ
”幌馬車隊” も 必死の形相で 付いて来て居た。その少数の近衛部隊だけを従えると、曹彰は後続の軍団との差なぞ全く気にもせず、ただ自分独りだけでズンズンと急行軍した。自ずからが先頭に立ち、斥候の役割までも引き受ける状態でさえ在った。夏侯尚や夏侯儒が率いる軍団の速度は、大軍で在るだけに何うしても遅い。
《相手は山岳に住む異民族だ。州境までなら大丈夫で在ろう・・・》彼等の習性を熟知して居る軍師の田豫はそう読んだ。だが然し烏丸・鮮卑連合軍の総帥は、田豫も知らぬ 軻比能 なので
在った。友軍に秘策を授けて待ち受けて居たのである。
曹彰の一行は無事、冀州を通過。州境を形成している「易水」を越え、幽州はシ豕郡に入った。だが逸る曹彰は 岸部に
留まる事なく更に北へ進みシ豕郡の中央部辺りにまで進出した。かつて公孫讃がバベルの土城を築いて亡んだ、「易京」の故地
付近だったか??その日の行軍は早々に終え、ゆったりと宿営の準備をする事とした。周囲の地形は見渡す限りの平野。 北方騎馬民族の出没する 山岳地帯からは尚 7、80キロの隔たりが在った。
「宜しいですな。此処で友軍の到着を待ちます。御誓約して戴きました通り、此の地点からの単独先行は法令違反と成りまする。然と御了解くださりませ! 後続の夏侯尚・夏侯儒の本軍と合流
する迄は、もはや1歩たりとも進まれてはなりませんぞ!!」
「ああ、必ず其うしよう。親父からもキツ〜ク言われた事だしな。」
曹彰の其の返事を確認すると、田豫も漸く安堵して宿営の準備を命じた。陽は未だ午前中の爽気を含んで高かった。上手くすれば今日中にも本軍の先鋒騎兵部隊位は到着するかも知れ無かった此の場での駐屯期間が長くなるだろう・・・と観た御付きの幌馬車部隊は荷を解き、総司令官・驍騎将軍サマの為の御座所づくりに勤しんだ。みな強行軍が終った事を喜び、久々の休息を満喫せんと寛いだ様子を見せた。
ーーが、その時だった。突如、北の大地が揺れた!!
「・・・・な、何だ!?地震か??」 「いや違う。こ、是れは・・!!」
流石に騎兵隊員達には直ぐ判った。
「敵襲〜!敵襲に御座います!」
哨戒の斥候が疾駆して異変を告げた。 「その数は!?」
「北方から騎兵のみ、2千の騎馬軍団であります!」
「フン、たった2千ばかりか。返り討ちじゃな。」歩兵が吐き棄てる様に言った。だが曹彰自身は、珍しくも寡黙で在った。1級の武人たる彼には、此の馬蹄の轟きが、同時に4方向から来るもので有る事を、瞬時にして察知する事が出来て居たのだったーー果して各方向からの報告が相次いだ。何と、東西南北あわせれば、
敵の奇襲部隊は 5千騎以上ではないか!!
「しまった、地形を過信して居たか!」思わず田豫は叫んで居た。
こちらの騎兵は僅か500!歩兵も1千に過ぎぬーー何故に此んな事態に陥ってしまったのか!?・・・・1番の原因は曹彰の独断先行に有ったが、それを黙認したのは田豫自身であった。基本的な地形が平地である事に油断して、個々の詳しい地域の特徴を無視してしまったのだ。如何に平地であっても、森も在れば林も在り、起伏や窪地も在ったのである・・・だが今更いくら悔やんでも始まらない。騎馬軍団の恐ろしさを熟知して居るだけに、近衛の将兵達は浮き足立ち為す術も無く騒ぎ出した。1刻前までは夢想だにして居無かった、パニック寸前の状況が現出した。然し、それを鎮めたのは曹彰の態度であった。
「何も慌てる事は無いワイ。どの道やっつけねばならん相手じゃ。それがチョットばかり早く成っただけの事じゃわい!」
流石は猛獣将軍。突如現われた大敵にも、些かもビビッては居無い。乗馬すると、今にも独りで突っ込みそうな鼻息で在った。
「兎に角まずは防禦を固めますぞ!」 その暴れ駒を引き戻すや、軍師の田豫はテキパキと指示を発した。
「全ての車駕を寄せ集め、直ちに”円陣”を 築く
のじゃ!」
幸いにも、贅沢な調度品を積んで随伴する幌馬車隊や、将兵の為の輜重用品を積んだ車駕が、100両近く在った。其れ等をバリケード代わりにして騎馬の突入を防ぐのだ。然も田豫の機転は、唯それだけでは無かった。
「急げ、それが済んだら全員が射手と成るのじゃ!!兵士で無い者も全て弓を取って配置に着け〜ィ!!」
全方向から迫り来る敵の大騎馬軍団!!時間との戦いであった・・・・。そんな中、田豫の頭脳は更に冷静であった。
「其処と此処には、ワザと 隙間を作って措くのじゃ。敵が侵入して来たら、其れに目掛けて、弓弩の集中射撃を浴びせるのだ!」
円陣の直径は凡そ数十m、学校の校庭程度。そのバリケードの輪の中に、下馬した味方2千人と軍馬500・牽馬200が入った。
「人数の足りない箇所には、旗幟を林立させ、物を積み上げて、恰も兵士が居る様に見せ掛けよ!」
何とか急造の防禦陣形が整うのと、敵の騎馬軍団が襲い掛かって来たのとは、正に間一髪の差でしか無かった・・・・
津波の如く押し寄せた北方の騎馬軍団は、暫らくの間、其の円陣の周囲をグルグルと駆け廻って様子を窺う。朦々たる砂塵が巻き起こり、騎兵の発する独特の喚声が辺りに充満した。その様は丸で・・・・往時の西部劇で、幌馬車隊を襲う インディアンの群れ の如くで
あったか??北方の騎馬軍団は、魏軍の部隊が少ないと確認するや、2ヶ所に空いているバリケードの隙間から我先にとばかり 遮二無二 雪崩れ込んで来た。
この兵力差では、皆殺しは 時間の問題であった!!
曹彰は、「第7騎兵隊のカスター将軍」の先例と成って果てるのか!? と想われた其の瞬間であった。・・・・円陣の内部に突入
して来た敵を 充分に引き付けて措いてから、頃合を見計らった
軍師・田豫の軍扇がサッと振り下ろされた。それは一瞬、馬蹄の轟きさえをも打ち消す如き、弓矢の裂く大気の風切り音であった。前以って狙いを定めて居た弩弓の一斉射撃は、1本の無駄矢が無い程の密度で、全く無防備に驕った騎手達を バタバタと薙ぎ
倒した。 だが、中で其んな事態が起こって居るとは 終ぞ知らぬ
後続の騎兵は、尚も次から次にと突貫して来る。又も襲う弩弓の暴風雨・・・・!!
敵が”異変”に気付いた頃には、既に1千余の騎馬が射殺されていたのであった!慌て驚く北方軍団。僅か1刻余の出来事としては信じられぬ様な損耗率であった。その被害の甚大さに、今度は敵側がパニックを来たした。
よし今じゃ撃って出るぞ! 総員、乗馬せよ〜!
戦機を見切る戦術眼と、劣勢を引っくり返す胆力に懸けては曹彰の右に出る者は無い。叫ぶや大将、もう馬上姿を敵中に突っ込ませていた。「遅れてはならじ!」 と 近衛の命知らず500騎も、その突撃に加わった。まさか反転攻勢して来るとは想っても居無かった敵は、ワッと隊形を崩して後退した。然しやがて、其の数が僅か500と知ると、再び向って来る部隊も在ったーーだが、その再攻撃部隊は、トンデモナイ現実に直面させられる羽目と成ったのである。・・・・化け物だった!!魔王であった!!兎にも角にも強過ぎた。ケタ外れの豪腕・膂力で、全く相手にも出来ずに蹴散らされるばかりであった。逃げ様としても、また其の騎射の腕前が人間離れした物凄さだった!前後左右に自由自在、然も百発百中で、その放つ矢は、鎧を着た胸板を貫通する程の無茶苦茶なド迫力!!・・・と来たもんだったのだ!!!更には、その率いる
近衛騎兵が亦、矢鱈滅っ多ら強かった。日頃から曹彰に”遊ばれて”居たのだから、生半かな鍛えられ方では無かったのだ。ーーと其処へ、南の地平から土煙を蹴立てた新手の騎馬軍団が現われた。田豫が包囲される直前に放った、本軍への伝令の効果であった。緊急事態を知らされた【夏侯尚】・【夏侯儒】両将は、快速の軽騎兵部隊だけを率いると、全力疾走で駆け付けて来たのである!!
『23年(218年)、代郡の烏丸族が反乱を起こした時、曹彰を
北中郎将とし、驍騎将軍を代行させた。出発に臨んで、太祖は
曹彰を誡めた。
「家に居る場合は父と子で在ったが、事を担当すれば君と臣で
ある。常に王法に拠って事を行なえ。汝、その事を心せよ。」
曹彰は北征し、シ豕郡の境界に入ると、反逆の蛮族・数千騎が
突然やって来た。そのとき兵馬は未だ集結せず、ただ歩兵千人騎馬
数百匹が居るだけだった。田豫の計略を用い、固守して敵の隙を窺ったので、敵は退却し散り散りになった。曹彰は其れを追い駆け、自身が戦闘に加わり蛮騎を射たが、弦の響きに応じて倒れる者が前後して続いた。
戦闘は半日を越え、曹彰の鎧には数本の矢が当ったが、意気は愈々激しく、勝利に乗じて逃げる敵を追い、桑乾に到達した。
桑乾は代から200余里の距離に在る。・・・・続く・・・・』 (正史・曹彰伝)
『太祖は 焉卩陵侯の曹彰が代郡を征伐した時、田豫を相に
任命した。軍は易水の北に宿泊したが、敵の伏せて置いた騎兵が攻撃を仕掛けた為、軍人は騒ぎ乱れ、為す術を知ら無かった。田豫は地形を利用し、車を廻らして円陣を作り、弓と弩を引き絞って
内部に待機させ、空いて居る場所に見せ掛けの兵で埋めた。蛮軍は前進できず、散り散りに成って引き上げた。追撃して大いに之を撃ち破り、かくて進軍して代を平定したが、それは全て田豫の立てた策略の御蔭であった。』 ーー(正史・田豫伝)ーー
ここ迄の『正史』の記述を観る限りでは、主役の座は寧ろ田豫に奪われた格好の曹彰である。だが然し、この後の〔追撃戦〕こそが、曹彰の真骨頂・面目躍如たる場面と成るのである。
烏丸・鮮卑の連合騎馬軍団・・・・と言えばカッコ イイ。 また精強無比にも聞こえるが冷たく言えば”寄せ集まりの烏丸(?合)の衆”。威勢の好い時には問題無しだが、一旦劣勢になると耐性が無く脆い。戦場を放棄して己の根拠地へと逃げ出した。
ちなみに、彼等の本拠地である代郡と上谷郡は、その全区域が南北2連ある長城に挟まれた山岳地帯である。逃走部隊は先ず手前の第1連の長城を越えて西にカーブし、「代郡」へと帰った。
此処まで来ればホームグランドである。数万騎を有する総帥の【軻比能】も居てくれる。如何な 《魔獣将軍》でも、まさか此処までは追って来まい。
ーーだが然しであった。その《魔獣将軍》は平気の平左で常識を無視し、150キロ以上の 山岳地帯を、 執っこく
追い掛けて来たのである!彼の常識では、こんな山や谷の5つ
6つは当り前。朝飯前の運動量に過ぎ無いらしい。仰天したのは現地軍。エライ物を連れ込んで来てしまった敗残部隊と一緒に 今度は東隣りの「上谷郡」へと敗走する憂き目に遭った。頼みの綱は、鮮卑の軻比能。 「桑乾」まで辿り着けば、合流できる筈であった。「桑乾」は郡境の直ぐ東に在る。地元出身の彼等でさえ既にヘトヘトなのに、一体奴等は何う成っているのだ!?・・・・
蓋し、その疑問は 当然の事であった。ーー実は、追撃軍の中で
ケロリと元気なのは曹彰唯1人だけで在ったのだ。曹彰の覇気に引っ張られ、どうにか此処まで猛追して来たものの、流石に全軍は疲労困憊し切って居たのである。「桑乾」に至った時には最早、体力・気力ともに限界を超え、まともに戦える状態では無くなって居たのだった。堪らずに進言・諫言する者達が続出した。
「是れ以上の深追いは無謀です。第一兵糧が持ちません。」
「我が軍は既に300キロ以上を急進撃して来ており、兵も馬も
疲れ切って居ります。休息を取らせねば、結局は失敗する事に
成りますぞ!」
「魏王様からは、決して代郡を越えて進んではならぬ!と命じられて居るのですぞ。その指示を無視する事は出来ませぬ!」
「命令に違反して敵の本拠深くに入り込み、もし敗れる様な事態を招いたら、是れ迄の戦果は全てフイに成るばかりか、我等は皆、反逆者の汚名まで背負い込む事に成り兼ねませぬ。此処で引き返すべきです!」
「何と言っても、此処は敵本拠地のド真ん中です。蛮軍の底力を
軽視してはなりません。必ずや増援軍が出て参りましょう。今の我が軍には、新たな大敵と戦うだけの体力は有りません。矢張り是れ以上の 追撃は 断念すべきです!」
言う者、言う者、全てが此処・桑乾からの〔引き返し〕、〔追撃戦の断念〕を進言し、作戦続行の不可を主張した。
ーーだが曹彰は、独り決然として言った。
「軍を率いて進むのは、ただ勝利に専心すべき為である!それなのに、お前達の指示は 一体
なんであるのか!蛮軍は 未だ 遠くまで逃げて居ない。奴等を今追えば必ず撃ち破れる!命令だからと言って、敵を其の儘に放置して措くのは良将では無い!!」
言うや総司令官たる曹彰、その権限を以って直ちに軍議を閉じ、そのまま馬上の人と成ると、全軍に厳命した。
「出発に遅れる者は、斬る!!」
又言った。「但し、恩賞は通常の2倍とする!」
ここが憎い。将兵の苦難を識り、その苦労に報いる度量と情愛を示して見せたのだ。筆者はやれ「猛獣将軍」だの「魔獣将軍」だのと、随分失礼な呼び方をしてしまったが、曹彰子文30歳・・・単なるボンボンの筋肉男では無かったので在る!! 否、寧ろ、名将の資質充分な、実力派で在ったと謂えよう。
かくて曹彰軍は・・・・ビシッ!!と魏軍魂を取り戻すと・・・・
1日1夜を追い掛けて 敵に追い着くや、直ちに
襲い掛かり、散々に 之を 撃ち破り、首を切り、
生け捕りにした敵は
4桁の数に上った』 のである。
ーー(正史・曹彰伝)ーー
その後の処理 ( 特に反乱側の総帥・鮮卑の 軻比能 の態度) に
ついては、同じ「正史」なのに、『曹彰伝』と『鮮卑伝』では異なった記述となっている。どちらが正確なのか陳寿にも判断でき無かった為の措置であろうか?→詰り、この「桑乾の戦い」に軻比能は参戦して敗れたのか?それとも観望して居ただけで帰順したのか?の問題である。(尚この男は中々の難物で、ホトホト手を焼いた魏国は3代明帝の時に王雄の進言を受け、
刺客を送り込んで暗殺させる事となる相手なのである因みに田豫は後に2代文帝の時、持節 護烏丸校尉に任じられ、その鮮卑を監督する
先ず『鮮卑伝』の記述 ↓
『のちに 代郡烏丸が 反乱を起こすと、 軻比能は 今度は 烏丸に助力して中国に侵攻し、損害を与えた。太祖は焉卩陵侯の曹彰を驍騎将軍に任じて攻め込ませ、曹彰は軻比能を手ひどく撃ち破った。軻比能は逃げて長城の外に出た。
然し後には又、使者を遣り献げ物をする様になった。』
次に『曹彰伝』の記述 ↓
『当時、鮮卑族の有力者・軻比能が数万の騎兵を引き連れ、形勢を窺って居たが、曹彰が力戦して、敵対する相手を全て撃ち破ったのを観たので服従を願い出、北方は全て平定された。
いずれにせよ、218年4月に起った代郡烏丸の反乱は
次男・曹彰 の 果敢な攻撃精神の御蔭で、その7月には
全面決着を見たのである。美事、任務を完遂した曹彰にしてみれば、1刻も早く父の曹操に勝利の報告をして、その喜ぶ顔を見たかったに違い無い。褒めて貰いたかったに違い無いであろう。
だが、父王・曹操は、次男坊の凱旋を待つ事なく、その7月・・・何と64歳の年齢をも顧みず、かつて天空の牢獄!と呼んだ1千キロも彼方の漢中へ向って、自ずから 征途に 就いていた のである!!其処に居る相手は・・・・群雄すべて亡き今、
唯1人の 昔馴染み 劉備玄徳であった!!【第218節】 蜀の逆襲・漢中争奪戦V (曹操、再び漢中へ)→へ