第216節
  蜀 の 逆襲
漢中争奪戦U
                                    魏の猛反撃・ACE 投入
業卩の曹操・・・・内心、蒼ざめ 狼狽した。事は重大で 緊急を要した。

もし、張飛らが漢中の咽元〕に当たる 「下弁」一帯を押さえれば・・・漢中孤立する

漢中盆地の出入り口は限られている。数筋の峡谷ルートが在るだけだ。その細い兵站線の1本が 「下弁ルート」なのだ。ましてや劉備本軍が北上して、盆地の西側に強固な陣営を築くならば、恰も其れは 閉鎖弁と成って、魏の駐留軍は正に袋の鼠 状態 と成り果てる。夏侯淵・張合卩・徐晃らは兵站線を断たれ戦わずして崩壊最精強の将と兵とをゴッソリ失う事に直結する!!ーーその意図を、瞬時にして把握した曹操は
流石であった。そして急行させるには多からず少なからずの
5万の精兵を 本軍
40万の中から抽出すると
間髪置かずに派遣したのであったそして正に其の同時刻
・・・・劉備本軍も亦、北上を開始していたのである。

今、劉備が掲げる、公式の”肩書”は大仰であった。曰く
使持節左将軍司隷校尉荊益州牧宜城亭侯 この肩書の多さが、彼の苦境を白状している。真の実力の無さを現わして居る。而して此の時点では寧ろ、この劉備の意気の方が軒昂であった。対する曹操は唯2文字、正真正銘の魏王

さて、この曹操劉備漢中を巡る激突! その物語であるが・・・先ず最初に、《時間的な経緯》を整理して措こうーー何故なら此の後もその決着が果される迄の間に 様々な 他の事件が 別の場所に勃発し、割り込んで来る
( ]の叛乱の如く )
からである。・・・・畢竟、それだけ 曹操には 敵が多かった! と云うのが 実際であった のである。
 ちょっとばかり ゴタづく が、直ぐ後に 「要約」 を記す ので、まあ 御付き合い下さい。

b蜀 (劉備) が張飛・馬超らを「漢中」へ派遣し、その領土内をスルーして下弁=武都郡を占拠したのが→ 昨217年11月過ぎ頃?
その魏の無抵抗ぶりを観て、
劉備自身が 本軍を率いて、漢中盆地への
入口近く
にまで進軍し、陣営を築いたのが→217年12月頃?

b対するに、その蜀軍(張飛らの侵入)を知った曹操は、直ちに「業卩」から5万の援軍を派遣した(本書では未だ記しては無いのだが]が叛乱を起こす直前の事。たとえ5万程度を派遣しても、曹操本軍はビクともしない・・・と、暗示的には既述して措いた。)
それが
→217年内であった。但し業卩から漢中までの道程は遠い。

bだから魏の増援軍が到着するのは218年に入っての事となる。
(その両者激突の記述が、218年の記事に有るから間違いは無い。) 但しその戦闘の日時が
詳らかでは無い
ので困るだが正月〜3月の間だった事だけは判読できる。・・・・そして既述の]の乱】は正月に起こったーー『月単位の記事』故に、]の乱と増援軍の動きの後先は確定出来無い。だが、魏蜀の直接戦闘が下弁で開始されるのは、]の乱のだった公算が大である。3月の事項に、その「下弁戦の結果」が記されている事から推して、丸3ヶ月を要したとは考えられぬ故である。

とーー以上を
要約するなら・・・・

217年10月曹操、冕12旒を戴く。太子決定
217年11月張飛らが「下弁」に到達して占拠
その直後 の頃曹操は業卩から増援軍を派遣
217年12月前半頃劉備本軍が「漢中」領土内に進撃
217年12月後半頃劉備本軍が「漢中」領土内に陣営
218年正月某日許都で〔]の乱〕勃発
218年正月以降増援軍が「下弁」方面に到着
218年 3月 増援軍と張飛らの「下弁戦」に決着がつく
                                    ↑
・・・・と以上、この間の、謂わば、漢中争奪戦の第Tラウンド・即ち下弁 攻防戦 を描くのが本節のスパン(時間帯)である。


               


我が蜀軍は、必ず負けます!!

意気揚がる劉備軍に対して、
味方の癖に そんな事を言い切った者が居た。
ーーったく、縁起でも無を言いやがって・・・!!

実は劉備、内心では可也 頭に来て居た。この当時の慣例として、出陣に際しては其の事の吉兆を占って参考にする風習が在った。まあ大体は景気付の八百長であった。占い師の方も、其の辺のツボは心得て居たから、特に君主レベルの場合には、相手が喜ぶ様な 《卦や御告げ》を発するのが常識であったーー《それなのにあの糞野郎メ!!》であった

新王朝の開闢や、新皇帝の即位の直前に、決まって様々な瑞兆や吉兆が続々と報告されるのと同根の 《盛り上げ演出・パフォーマンス》 と謂える。
信長が桶狭間に向う直前、熱田で木下藤吉郎に拝殿裏から白鳥を飛び立たせ、「吉兆じゃ!」と全軍の指揮を鼓舞して出撃し、終に大勝利を得たのと同じパターン。
とは謂え、全くの〔形式だけ〕かと思いきや、是れが必ずしも其うでは無く、可也の部分で真剣さが同居していたのだ。先にも記したが、何せ2千年前の純心・神秘時代の事、《
訃讖としん=天の声》は、人間の未来を左右する決め手である!と本気で信じられて居た部分が相当に色濃かった。英雄と言われる様な人物の場合、本人自身は歯牙にも掛けぬ合理主義者で在ったとしても、周囲の社会常識が其れを許さなかった。詰り、大集団を統率・統治するには、信ずる”振り”を演ずるのも 才腕の1つだったのである。
あの大魔王・傍若無人な【董卓】ですら、長安遷都を強行する際には訃讖を持ち出し、己を正当化した程であった。
《それなのに、あの糞野郎メ!!》・・・・であった。 大体から、誰が観てもこんな大切な時なのだから、色の好い応えをするのが「暗黙の了解」ではないか!!無論、そんな 占い”なんぞ”に 左右される如き 劉備では無かったが、誰だって好い気分な筈は無い。況して、この一戦に国の未来存亡が懸かって居る最重要な出陣なのだ。

劉備は、益州を得た時に、多くの文官をも得ていた。その中には
”訃讖”に通暁し、よく当たると評判の者達も数人居た。その中の2人に諮問・占いを命じたのであった。・・・・1人は未だ許せる。
儒林校尉・
周羣しゅうぐんの方は、ちゃんと説明付きで意見具申の形で答えた。ーー「其の土地を手に入れられる事は間違いありませぬが、其の住民は手に入れる事は出来無いでしょう。
1部隊を出すだけならば、必ず負けます。
その点を警戒し、慎重を期されるべきで御座いましょう。」
これなら納得できた。だが、もう1人の後部司馬
張裕の方は違った。ーー「漢中の覇権を争ってはなりません。我が軍は必ず負けます!」・・・何故じゃ!?と問い質すと昂然として
「それが、天空自然が指す啓示で御座います!!」 の1点張であった。そもそも此の【張裕】・・・最初から
生意気な奴で在った。
先年、劉備が〔益州乗っ取り〕の直前に、劉ワを誑かして
百日宴に付き合って居た時、この張裕は劉ワの従事(家老)として傍に侍して居た。その酒宴の席で劉備は、張裕が豊かな鬚あごひげを生やしていた事から、チョットからかった。ーー以下は『正史・周羣伝』に在る2人の遣り取り・・・・
「昔わしが
シ豕県に住んで居た頃、特に”毛”の姓が多くて、東西南北みな毛だらけだった。県の令は『毛姓の諸家がシ豕を取り囲んで住んで居る』と称していたもんだ。」
すると張裕は直ちに言い返した。
「昔、上党の
シ路の県長からシ豕の県令に昇進した者が居りました彼は其の後、官を去って 家に帰りましたが、当時 ある人が彼に
手紙を出しました
然し宛名を書く段になるとどちらの肩書を記したら善いかハタと困り結局『シ路シ豕君』と記しました。」・・・???

※ 《シ豕》は→口を示し、口の周り中に毛が生えている。反対に《シ路》は露に掛けて剥き出しの意。《
シ路シ豕》で→毛1本も生えていない口、と謂う訳に成るのだと言う。ーー何で此んな埒も無い問答を「正史」が記すのか?・・・その心は→次の事柄を書きたいが為であった。即ち、劉備具体的な風貌!を記すが為なのである。
先主には 鬚あごひげ無かったので、張裕は
其の事を指して”お返し”したのである。先主はず〜と、其の不遜な言葉を根に持っていたが、更に其の失言によって腹立が加わった
』ーー劉備の具体的な風貌については、『正史・先主伝』に
身長七尺五寸手を垂るれば膝より下り
  顧かえりみれば 自みずから 其の耳を 見る。
』 と在るのみ。
其れを補う貴重な1文と謂えるノデアル。(※ 尚、「手を垂るれば膝より下り」の部分は、尋常の人物では無い事を著わす為 の デフォルメ 的な 表現であり、鵜呑み には出来無い。)

ついで(?)だから、この 「天空の自然現象に拠る 予言に 造詣が深く、天賦の才では周羣を上廻っていた」 
張裕 の末路に触れて措くとーー
この後も彼は尚、《不吉な予言》 を繰り返す。
庚子の年に天下は代替りする筈であって、劉氏の帝位は終る。御主君が益州を手に入れられてから9年後・寅年から卯年の間に、之を失われる。
それをを密告され、諸葛亮が上表して減刑を要請したが劉備は
芳しい蘭でも、門に生えれば刈り取らぬ訳にはゆかぬ!」と言い張り、かくて張裕は市場で処刑された。張裕は其の以前から、常々鏡を見ては己の刑死を知り、鏡を地面に叩き付けて居たと謂うーーだが此の強情で徹底的な態度と結末を、張裕の個人的な人格の所為だと観るのは誤りである。何故なら是れに類する事例は、枚挙に暇が無い程なのである。百日宴の最中に广龍統のベッドに座り込んだ カッパ頭だった「彭羊」が処刑されるのも、劉備を「老革=老い耄れ!」と批判した為である。・・・・外人部隊中心の 《劉備乗っ取り政権》 に対する 〔地元知識人の怨恨〕=命を張った”嫌がらせ”・・・・その現われの1例が、この張裕の占い事件の本質であるのだ。 そして此の 《内部の抵抗勢力》 は、今後も蜀の未来を揺さぶり続ける不吉な因子として、根強い勢力を保つのである。而して『巨視的に観れば彼の予言は全て適中した』 とも併記されている、のだが・・・・

曹操が、此の緊急事態に5万の増援軍司令官に選んだのはーーこう云う時にこそ最も信頼できる身内・・・・・
曹操とは従弟同士の都護将軍曹洪であった!!字は子廉しれん。年齢は不詳・・・・であるが、曹操の12年後に没する事や、この急派の遠征に応えられる 事から推して、曹操よりは若かたと想われる但し、36歳の曹操が 〔群雄の末席〕として、【董卓】と戦った時点で、既に従軍して居たから、 当時 20歳 だったと
しても 48歳。 30歳 だったとすれば 58歳。
まあ曹操が此の正月で64歳と成ったのだから、50代半ば位であったろうか。ーー本書は、この曹洪については、同じ従弟同士の「夏侯惇」に比べれば、殆んど登場させる機会も無い儘に来て居るので、その罪滅ぼし?を含めて彼の前半生・其の人柄をザッと紹介して措かねば成るまい。
※曹操を、旗挙の最初から支え続けて来た血族は、「曹氏」 と 「夏侯氏」である。
たった2氏 とも言えるのだが、実に裾野は広い。正史に「伝」を立てられて居る血族の者達を詳細に観てみると・・・・少なくとも 彼等の父親は全員が別なのである。「夏侯惇」と「夏侯淵」、【曹洪】も「曹仁」や「曹真」や「曹休」とは別の家(父)の系統なのである。そんな厚い裾野を持つ血族が一致団結して果して来た役割→それは 特に軍事部門に於いて発揮された。魏軍が如何に巨大化しても、その諸軍を率いる 〔軍団 司令官レベル〕 の人材が確実に存在したのである。この安定感は大きい。他の2国を全く問題にせぬ充実ぶりと謂えよう。
曹洪も亦 その血族の1人として、曹操の 覇業の最初から 常に大奮闘して来て居たのである。
そのデビューとも謂える 〔反董卓連合軍〕 としての緒戦で曹操は単独で徐栄軍に突っ込み、ギタンギタンにやられた (螢陽の戦い)。曹操は自身も 流れ矢を受け、馬も
射られて進退窮まった。その時、馬を曹操に譲り、自分は徒歩で付き従ったのが、この【曹洪】なのであった。「
天下に私が居無くても差し支えは有りませんが、貴方が居無い訳には参りません!!」 更にシ卞べん水に追い詰められるも、曹洪の奔走で何とか小舟を手に入れ、故郷の言焦に逃げ帰る事が出来たのだった・・・・。(190年)
この直後に 曹操が素早く立ち直った 事についても
この曹洪の尽力が大きかった曹操や夏侯惇とは別々に分かれて募兵した。部曲=私兵1千を元手に、「盧江」で2千長江を渡って「丹楊」で5千を手に入れ、曹操と合流した。この当時の1万は相当なものである。それを得るだけの資力と人望が在ったと云う事だ。
呂布との死闘〕の時期は大飢饉だったが、曹洪は常に兵糧を確保して曹操に送り続け、また自身も10県以上を攻め落として見せた。(193年〜
ーー次は失敗例を2つ・・・・
献帝奉戴〕に先立ち、曹操は曹洪に命じて西方(東帰行の途中)に迎えに征かせた
              のだが、途中で邪魔されて進むこと能わず失敗した。(
196年)
張繍の裏切り鄒氏の女禍〕に遭って 「宛城」を失った曹操は、その失点を取り戻
    そうとして曹洪を派遣したが、賈クらの智謀によって勝てず、拠点を退げるも屡々
    攻撃される始末であった。(
197年)
ーー重要な戦いに於いては、根拠地の守備を任された。
官渡決戦〕のクライマックスである「烏巣焼き討ち」に曹操が賈クを随伴し5千?の奇襲部隊を率いて出撃した時・・・・曹洪は荀攸と共に 「官渡城」に留まって根拠地を
守った。【張合卩】が投降して来るが疑って受け容れず、荀攸の説得で認めた。
200年
業卩城包囲戦〕でも、曹操は曹洪に包囲軍を任せると、自身は「邯鄲」を奇襲して敵の兵糧基地を奪った(204年)。ーー曹操の信頼が厚かった証左である。

是れ等の武勲により、
213年(今から5年前)に曹操が《魏公》に成った時には〔中護軍・事N将軍・国明亭侯〕 に昇進した。
               ↑
以上が曹洪の「武勲」であるが、問題は其の人柄である。
                               ↓
魏略」は曹操が司空に成った時の事196年・献帝奉戴時として次の様に記している。・・・・『曹操は 司空と成った時、自分が 下の者達の模範となろうとして、毎年の徴税期には本籍地の県役所に財産を調査させた。すると、当時の言焦の県令が報告するには
曹洪の財産は曹操と同等である!
との事であった。曹操は ビックリ
して
「儂の財産が子廉と同じ筈が有るもんか!?と言った。』ーー処が、どうも是れは事実で在ったらしい。血族であるのを好い事に、恒常的な不正蓄財に励んで居た様だ。
当時、曹洪は一族として親愛され高い身分に在った為、〔食客〕の内には行政区域内で度々法を犯す者が在った【満寵】は彼等を逮捕し取り調べた。曹洪は手紙をやって満寵に内々の意向を伝えたが満寵は聞き入れ無かった。曹洪は太祖に言上し太祖は担当官を召し出した。満寵は赦免する心算だな!と予知したので、直ちに彼等を殺してしまった。太祖は喜んで、「事の処理は此の様にすべきだ」と言った。 (正史・満寵伝)
是れ1件なら証拠薄弱なのだが、同様な記事が正史(楊沛伝)に在る。
当時、曹洪の〔食客〕が 県境に居り、法律通りの税の取り立に 応じ様としなかった。
【楊沛】は先ず その脚を叩き折り、結局は殺してしまった。この事から太祖は彼を有能と判断した。〜〜曹操は業卩の行政下で禁令を無視する者が多いと聞き
上司の督軍と揉め事を起こして、コン刑・河童頭に服役中だった楊沛を業卩の長官(令)に選任した。楊沛の決意を聞いた曹操は 「よし!」と言い、振り返って一座の者に向って告げた。
「諸君、この男は恐いぞ!」 楊沛が未だ業卩に着かぬ裡に、軍中の実力者・曹洪や劉勲らは楊沛の名に恐れを為し、家臣に馬を走らせて、若者達に注意を与えさせ、各自品行を慎ませた。
』・・・・
食客ふぜいが此の有様だったのだから、御本尊の曹洪は、遣りたい放題だったであろう。ーー又、「正史・曹洪伝」にはーー

洪家富而性吝嗇、文帝少時仮求不称、常恨之
洪は家 富めども
吝嗇りんしょくにして文帝 少わかき時仮求かきゅうすれども称かなわず、常に之を恨む。・・・・そして

遂以舎客犯法、下獄当死 遂に 舎客の法を犯すを以って、獄に下して当さに死なしむ べからしむーー生涯に渡って曹丕に恨み続けられる迄の (詳しくは其の時に述べるが)余っ程のドケチで在った様だ。・・・・だがまあ善く言えば「商才が有った」とも言い得る。軍隊は基本的に”大消費集団”である。これは古今東西に共通する経済実態だ。兵器と軍人の衣食住などなど、全てに莫大な費用が掛かる。1発で30億円の誘導ミサイルや1機で千億する戦闘機、厖大な兵士の食事代・被服費などなど、全てに納入業者が存在し、濡れ手で泡の大儲けに潤う。常に戦争が無くては困る産軍複合体の巨大利益集団と、その潤沢な選挙資金を当てにする大政治家→『経済政策に行き詰まったら戦争を起こす!』それが1番手っ取り早い政権維持の方策である。ーー政財界と軍部の癒着は、人類古来よりの必然の理りなのであり、綺麗事では済まされぬ、永遠に無くならない現実である。三国時代に於いても、その基本構造は同じであった。軍隊は当時最大の人間集団であった訳だから、軍団を率いる将軍達は、其れを活用して〔軍市場〕を経営し一定の利益を得る・・・その事は曹洪に限らず何の将軍にも許され、或る意味では奨励されていたのである。
但し、法律で一定の限度が設けられていた。曹洪は其の限度を超えた 不正蓄財を 恒常的に行い、周囲に還元する事なく 専ら
私腹を肥やしたのである。

蓋し、 蓄財強欲ゴウツク将軍と 陰口を叩かれて居た訳だ。 同じ”従弟”でも、『余分な財貨が有る場合には何時も人々に分け与え』 た 【夏侯惇】とは、其の”人となり”が丸で異なる。生々しくて(正直で)面白いが晩年に成っても益々その傾向が強まるのでは、人望に些か問題あり!!そんなだから、建安の七子・「王禹」 にも敬遠された。 曹洪が 自分の書記に 召し抱えようと
何度召請しても何時も病気を由に断わられ続けた。然し曹操が招聘するや、杖を投げ棄てて立ち上がった、と伝えられている。

チョット脱線するが、曹洪のについての面白いエピソードが有るので、この機会に紹介して措く。荀ケの5男に【荀粲】が居た。彼は常々、
女性と云うものは容色を中心として判断すべきである!
 才智は問題では無い。
」 と考え、公言していた。←(問題発言?)
曹洪の娘は美人であった。そこで荀粲は彼女を娶った。はなはだ華麗な衣服や帷を設え彼女だけを愛して歓楽を尽した。何年か経って妻が死んだ。仮の”もがり”が済まぬうちに、友人の傅古が弔問に遣って来た。荀粲は大声で泣きは し無かったが、精神的に参って居る様だった。
そこで
傅古は言ってやった。
「女性の才色兼備は得難いとされています。貴方は結婚に際し、才を問題とされずに容色を尊ばれました。美人だけなら容易に巡り合えますのに、今となって何故そんなに、ひどく悲しまれるのですか?」
「佳人は2度とは得難いものです。振り返ってみると、亡妻には国を傾ける程の美貌は無かったのですが、それでも容易に巡り合える者だなどとは言えません。」・・・・悲痛の思いを抑え切れず1年余りして彼も亦死んだ。時に29歳であった。

荀粲は人を見下し尊大で、普通の人間と交際する事が出来ず、付き合って居たのは、1代の俊才英傑ばかりであった。埋葬の夕べに参列したのは僅か10人ばかりであったが、みな当時名を知られた人物ばかりで、彼の死を悼む慟哭の声は、道ゆく人々を感動させた。ーー
(晋陽秋)ーー


本題に戻る。ーーかくて年齢と人柄にやや問題あり!!の
曹洪だったが今回(218年)、都護・偏将軍として漢中増援軍の司令官を仰せ付かったのである。・・・・だが如何に過去の武勲が着実だったとは謂うものの、年齢が既に60歳に近いのでは、リリーフの「エース」「切り札」とは言い難い。
謂わば「曹洪」は、世間向けの”
名誉司令官”で在ったのだ。詰り曹操は此の増援軍の実質の司令官に、もう1人・・・・新進気鋭の若者を指名していたのである。
ーーその人物は
曹休】!!
・・・・そう、そうなのである。本書の劈頭(第5節)に登場した時には、14歳の曹丕と共に一緒に育てられて居た、曹操の族子おいで、
34歳の 『仲達先生』 と出会った時には 未だ12歳 だったので、
一緒に〔妓楼〕に連れて行って貰え無かった、あの『
文烈クン』である!!
曹休は幼くして父を失ったが、老母を連れて長江を渡って呉に行った。だが曹操が挙兵したと知ると、変名して荊州まで辿り着き、間道伝いに 北方へ帰り、曹操に目通りした。曹操は 「こやつは
儂の千里の駒じゃ!」と言い、
曹丕と起居を共にさせ、我が子の様に扱った。 いつも征伐の御供をさせ、〔虎豹騎〕 を率いさせ、
宿衛に当らせた・・・・
『正史・曹休伝』
今や
29歳の立派な青年部将ーー曹操は曹休を〔騎都尉〕に任じ曹洪の軍事に参与させた。そして言い聞かせた。
「お前は位は参軍だが実際は指令官なのだ!
同席した曹洪は、その曹操の言い付けを聞くと、直ちに了解して全てを曹休に任せたのであった。

そして、もう1人・・・・こちらは ”あの時”17歳で、一端の
兄貴分を務めた、そう、『
丹ちゃん』こと→
        【曹真 子丹である!!
曹真の父
伯南は曹操が挙兵した時に身代わりに成って殺された曹操幼くして 孤児 に成った事を 哀れみ、曹真を引き取って自分の息子達と一緒に養い、曹丕と起居を共にさせた。或るとき狩猟に出掛け、虎に追い駆けられた曹真が振り返って虎を射ると、虎は弦の響きに応じて倒れた。 曹操は 彼の勇猛さを 壮 とし
〔虎豹騎〕を率いさせた。・・・・
『正史・曹真伝』
年齢も戦歴も 「曹休」よりは上の【曹真】は
偏将軍 と云う曹休よりも数段上の、初めての将軍号を与えられ、別動軍の司令官を任じられたのである。
時代は巡り、”あれ”から既に17年・・・今や2人の少年は、押しも押されもせぬ青壮気鋭の中堅部将に育って居たのだ。特に曹操軍団の強さの象徴・〔虎豹騎〕の初代・2代目の指揮官として積み重ねた武勲の数々ーーそして
2人ともが、”軍司令官”としてのデビュー戦 を迎えた事に成ったのである!!
この人選は明らかに・・・・太子曹丕の時代を睨んだ、新旧混交の措置・・・・〔次の世代への過渡期〕が意識されて為されたものと謂えよう。未だ人材の老朽化が著しい訳では無かったが、そうかと言って 主要人物達も、決して若くは無く成って 来て居るのも亦 事実であった。早目に先を見越しての、曹操の英断と謂って善かろう。ーー事実、後に、曹丕(文帝)が臨終の床で爾後を託す為に枕辺に呼ぶ事となる人物は・・・この【曹真】・【曹休】そして勿論【司馬懿】と、もう1人【陳羣】の4人となるのである。
更にもう1人ーー我々の「記憶の化石」化がすすでしまった?とでも謂うべき人物・・・・もし15年前の其の事件を聞いただけで名前が判るなら”大したもの”である。袁紹の跡目を巡って、袁尚と袁譚が兄弟骨肉の争いを演じた時、劣勢に追い込まれた袁譚が、
曹操への同盟・援助を乞う為に使者として派遣された人物
『潁水郡の辛・陳・杜・趙』と謳われた1人。そして、そのまま 曹魏
3代に仕え、常に〔侍中〕として重きを為し、時には孫呉への使者に用いられ、大将軍と成った曹真の〔軍師〕を務め、又 諸葛亮と司馬懿との「五丈原の戦い」では、途中で明帝から”節”を持たされて、魏軍の動きに制限を与えもする事となる男ーー
田比しんぴである。字は左治。年齢は不詳だが少なくとも老人では無い。40代位か?彼にとっても亦、参謀としてのデビューであった。曹操は命令書を出して言った。
昔、漢の高祖は財貨を貪り女色を好んだが、張良・陳平が 其の欠点を巨ウした。今、佐治 と文烈 の心配は 軽く 無いぞ!

さてーー東方からの増援軍が、未だ 到着して居無い此の時・・・〔関中護軍〕の任に在った【趙儼】は大変であった。彼は今、もと馬超の配下であった「漢中」の5千の兵を受け入れ、彼等の用い方に心を砕いて居る最中で在った。即ち「長安」駐留軍の中核は、漢中からの強制移住を課せられた徙民 兵で在った訳である。 直接の担当は平難将軍の殷署に任せ、未まだ散発する羌族の反抗に何度か向わせた。そして何うにか、やっと互いに気心が通じ合い始めたばかり・・・・其処へ曹操からの指令が届いた。→『漢中を援ける為に至急1200の兵を派遣せよ!
5万の大軍が業卩から到着する迄の間、少しでも早く 其の中間
地点に当る 「
長安」から支援部隊を派出せよ!との 緊急指令で
あった。ーーそこで趙儼は、もと馬超の配下で在った 漢中出身の兵士5000の中から1200 を 殷署に与えて、送り出した・・・・だが趙儼は急に胸騒ぎを覚えた。派出された彼等は皆、憂鬱な表情を浮かべ、明らかに不満を抱いて居たからであった。その心情は趙儼にも よ〜く解る。生まれ故郷の漢中から家族共々 無理矢理に連れ出された上に、今度は其の家族とも離別させられ、死地に赴かされるのだ。
《俺等は此の儘、家族と永遠に引き裂かれるのでは無いのか?》
そこで 途中での”事変”を危惧した趙儼は、同じく 徙民兵150騎
だけを引き連れると、急いで彼等の後を追い駆けた。そして斜谷口で追い着くと、改めて兵士の1人1人の手を握って労いの言葉を掛け、また殷署には密かに、暮れ暮れも気をつける様にと注意を与えた。その後、
趙儼は雍州刺史・張既の官舎に宿を取った。
この
趙儼ちょうげん・・・・中々の人物で在る。かつては司空掾属=(曹操直属官)の主簿に任命され、仲の悪かった「于禁」「楽進」「張遼」の3将軍の調整役として3人の軍の上に〔参軍〕として位置し彼ら猛者を互いに睦み合せた人格者。更に荊州侵攻の時には〔都督護軍〕として、于禁・張遼・張合卩・朱霊・李典・路招・馮楷の7軍を統括した。その後は〔丞相主簿〕!ーー如何に曹操が彼を重く観て任用して来たかは一目瞭然である。そして現在・・・・風雲急を
告げる西方情勢の要→〔関中護軍〕を任されて居たのである。

果して趙儼の懸念は的中してしまった。斜谷口から40里進んだ地点で彼等は反乱を起こし、殷署の安否も判ら無くなってしまったのである!!其れを知って動揺したのは趙儼自身よりも、彼が連れて来た150騎の兵達であった。彼等も漢中の出身で、派出された兵とは同じ部隊に所属し、親戚関係に有る者も少なく無かったのである。驚愕すると同時に皆、甲冑を着込み武器を手にして、各人が不安の色を濃くした。ーーだが趙儼に残された道は唯1つ・・・・彼等を率いて長安に戻り、残った本営の部隊を掌握して反乱を鎮めるしか無かった。意を決して戻ろうとすると、張既が諌めた。この雍州刺史・
張既こそは徙民発案者仕掛人で在りその実行責任者に他ならぬ。
漢中を完全な無人地帯にしてしまった”張本人”で在った。曹操に漢中6万戸の完全移住を進言、実行させた。また今後も尚、いま焦点と成っている「下弁」を含む「武都郡」の完全徙民化を果す実行責任者とも成るのである。
「今は本営も既に騒乱に巻き込まれて居ると思われます。身1つで出向いても役に立ちますまい。明確な情報を待つべきです。」
だが趙儼は腹を括って言った。
「本営が反逆者と同じ企みを抱いて居る懸念は有るが、必ずや進発した者の変事を聞いてから行動を起こすに違い無い。また、
善を望みながらも自分では決定し兼ねて居る者も在るだろう。彼等がグズグズと決定しあぐねて居る間に速やかに慰撫して落ち着かせるべきだ。それに、彼等の総指揮官で在りながら、彼等を鎮静させられ無い と在らば、我が身に 災難が降り掛かるのも、
是れは運命じゃ。」
かくて出発し30里進んだ地点で小休止を取ると、趙儼は全員を呼び寄せ、事の成否を教え諭し、繰り返し宥めつつ利や理を説いた。すると皆は心を打たれ誓うのだった。
「我等、死のうと生き様と、護軍様の後に付いて参る覚悟です。敢えて2心を抱きは致しませぬ!」
道を進んで本営に着くと、案の定・・・・彼ら 徙民兵士達は、未だ
意思統一が出来ては居らず、各人がバラバラの状態で山野に散在して居るだけで在った。そこで趙儼は彼等を招集し、極く1部の首謀者だけを処断すると、あとは全員を不問とした。派出先で反乱し捕えられた者達も送り返されて来たが同様に寛大に処した。そして、「お前達の心情はよ〜く解った。今後これ以上は、決して移住や移動をさせず、此の地で暮らせる様に取り計らおう!」と誓って見せたーーその結果この騒動は鎮静した。だが然し、緊急肝要な1200の派兵は達成できずに終ってしまったのだ。今後の事を考えれば、こんな我が儘な部隊は却って剣呑である。
そこで、飽くまで曹操の忠臣である趙儼は、密かに曹操に意見具申した。・・・・『もと馬超の配下だった兵は関中では使い物になりませぬ。 却って危険で御座います。 関中の守備は、譜代からの
東方の兵士に任せるべきです。』
その実態を知った曹操は、直ちに将軍の「劉柱」に2千を付けて急派し、その到着を待って彼ら(馬超がらみの)漢中の者達全てを東方に強制移住・徙民させる・・・・その手筈となった。
が、事が漏れた。関中の諸陣営は 大騒動 と成った。 
「約束が違うぞ!」 「我等は欺かれたのだ!」「見も知らぬ遠方の地へ移されるのじゃ!」
もはや説得で解決するのは不可能であった。そこで趙儼は分断策に出た。固く忠誠を誓った穏健派の1千を味方につけ、他の者達の間に割り込ませて見張らせた上、改めて忠誠を申し出るなら此の地に残留させる!と飴をばら撒いた。すると殆んどの者は、思い切って反乱するのを躊躇った。
窮余の時間稼ぎであった。程なく5万の増援軍が着くとーー趙儼はガラリと豹変!・・・・忠誠を誓った1千も含めて、漢中の者達は
誰1人の例外も認めず全員を東方へと送ってしまったのである!その家族を含めた人数は2万人を超えると「正史」は伝えている



                                



かくて、
曹洪が率いる5万の増援軍は「長安」に到達した。ちょうど半分の行程を走破した事になる。間髪を置かずに進軍を再開。 やや 西に進んだ地点で、雍州刺史の【張既】が、
”輜重”を満載して合流。以後も曹魏軍は、常に彼の蓄積した兵糧の御蔭で、後顧の憂い無く、戦役を貫徹し得る事と成る。その張既が先導役を務めつつ、
魏軍は渭水沿いの平地を進み詰め、いよいよ最後の山岳地帯に踏み入るのであった。
目指すは
下弁武都郡・・・・

対するに
昨年の11月以来その武都郡一帯に展開する蜀軍
張飛馬超、そして雷銅呉蘭らが迎え撃つ!! その
総兵力は定かでは無い。 而して 5万には 遠く及ば無い
事だけは現実であったろう。但し、戦場は急峻隘路の大山岳地帯に限られている。どの地点を取って観ても、大兵力を展開する地形は皆無であった。先に有利な地点・場所を確保して措き、敵に苦戦を強いる。また、狭隘な地形を利した待ち伏せ攻撃や、ゲリラ的な奇襲攻撃も有効と成り得る・・・・それが唯一、蜀側に勝機を生み出す要素であった。
果して蜀軍は、4将が 3地点に分かれての 迎撃作戦を採った。
そして遂に此処に・・・・この後も連綿として、
2代3代にまで渡って 繰り広げられる事と成る、 との 死闘ーー
その最初の激突が、今まさに 始まらんとしている!!

「来やがったか、魏の蚊トンボめが!!」
張飛が、遙かな山並の向うを睨みつけながら、低く唸った。
時は
218年の3月に入っていた。  昨年11月以来、この
下弁を政庁とする武都郡一帯は、完全に蜀の制圧下に置かれている。前任の魏側の太守・【
楊阜】は、遠く行方を晦まし、恐らく
増援郡の道案内役でも引き受ける心算で居るのであろう。


「散々待たせやがって!眼に物みせて呉れるワ!!」
張飛側とて、おさおさ情報入手に怠りは無い。曹洪率いる増援軍は
5万だと謂う。侮り難い兵力である。だが馬超も亦、鼻先で笑い飛ばした。
「ふん曹操の爺イめ、終に老い耄れて、自分で遣って来る元気を失ったと観える。数だけを恃んで遣って寄越すとは笑止!」

直ちに
作戦会議が開かれた。だが此の現地には”軍師”と呼べる様な参謀クラスの人物は随伴されて来て居無かった。と成ると・・ その蜀軍の作戦は、現地を良く識る【馬超】が臨機応変に現場で立てたものなのか??それとも最初から授かって来たものなのか??授けたとすれば【諸葛亮】か?果また【法正】だったのか??まさか【張飛】が立案したとは考えずらい。矢張り、浪人生活が長く、近隣出身の【法正】辺りが 大筋の案を出し、現地に詳しい【馬超】が具体策を練り上げた・・・その見当であろうか??
寡兵の蜀軍が採用せざるを得無い作戦・・・・又唯一勝利を得られるであろう戦術は、是れしか無い!即ち、
全戦域これ急峻な山岳の狭隘地形を活かす!
5万の敵兵力を 別々の谷筋に分散・分断させ、
大軍の展開・使用を不可能にさせ、
                 各個 撃破する!!

その為には、此方が前以って其の有利な地形点を別々に確保し守るに易く攻めるに難い場所に布陣し、敵を誘き寄せる。そして敵が仕方なく遣って来て罠に嵌ったら、その途中の待ち伏せ地点で不意打ちを喰らわせ甚大な被害を強要するーー其れを知って駆け付けて来る救援部隊も亦、更に手前の隘路で奇襲!!又、味方の囮部隊は随時に点々と陣地移動を繰り返し、敵を困惑・混乱させ続け
消耗疲弊の度合を蓄積させ、終には撤退を余儀無くさせる。・・・・是れが課せられた任務であった。では実際に誰が、どの役を引き受け、何処に囮部隊を配置し、どの地点に伏勢を待機させるか!?又、第一次の作戦が成功した場合、第二次・第三次の連繋は何うすべきか!? それが、此の作戦会議の主目的であった。
「先ずは、敵が確実に囮部隊に向って来なくては、作戦そのものが失敗するのだから、その目立つ役は俺が引き受けよう。」
張飛は囮部隊と成り、その陣地は、「下弁」からは可也の北方に在り、難険を誇る・・・・固山と決まった。(※ この固山の正確な位置は不明である。だが、魏軍の”後方部隊を狙う”事を目的として配置に着くとしたら、下弁の「北」ないしは「北東」方向だった可能性が高いと想われる。) 曹洪の大軍が来るにしても、急峻な谷合を1筋の隊形でしか近付けない。また万一、無視して素通りした場合には、後方の輜重部隊が襲われる事と成るから、必ずや多くの兵力を割いて向わせるであろう。

「敵を待ち伏せするのは、この地に詳しい俺に任せて貰おう。」
馬超は奇襲部隊を率いて、固山周辺の名も無い某地点で待ち伏せる事となった。
「すると我等は当然、この下弁に在って、敵の本体を引き付ける役で御座いまするな!?」
呉蘭雷銅は、任キを従え、この下弁を守備する事と
なった。何と言っても天下の耳目は、細かい地名よりも、郡都である「下弁」の趨勢にこそ 注目して居るのであるから、なお一層、戦略的な価値と意義は大きいのだった。当時の常識では郡「都」が陥落したらイコール郡「全体」が陥落した事を指すのであった。
と以上、筆者は大上段に振り被って〔蜀側の動き〕を記して来たのであるが・・・・この後、いざ筆を振り下そうとするや、一体 どこに 何うやって 処したら善いものやら、ハタと大困惑するので
ある。ハッキリ言って
「史料不足」!!なのである。そもそも『張飛伝』・『馬超伝』 には、この 〔下弁戦〕 についての記述が
1言半句も無い
のである。 更には、「呉蘭」「雷銅」「任キ」の将も、唯 単に〔名前だけ〕が出て来る のでしか無く、一切が全く不明な人物なのである。呉蘭は6ヶ所、雷銅は2ヶ所、任キに至っては唯1回の登場に過ぎ無い・・・・。では、何うやって、上記の如き 〔蜀側の作戦〕 を”推測”し得たのか??
その殆んどは
一に懸かって『正史・曹休伝』 からの”憶測”なのである原文は後に掲載するが、前以って告白して措きますので全面的に鵜呑にはされないで戴きたい。
         ( 無論、筆者なりには、最も在り得る可能性を追求した心算ではあるのだが・・・・)


さて、一方の
魏・曹洪軍5万・・・・敗退して来た 武都太守の【楊阜】からの事情聴取を終え、こちらも 〔軍議〕に入って居た。
無論、中央の席には、総司令官の【曹洪】が陣取り、その左右に【曹休】と【曹真】、グルリには【辛ピ】【張既】【楊阜】らが居並んだ
その軍議は 《攻撃の主目標》を巡って 大いに紛糾したーー即ち蜀軍が採って居る 〔分散布陣の意図〕 を計り兼ねたのである。偵察部隊の報告によれば・・・・
張飛固山の高みに陣取り、是見よがしに旗幟を林立させ、頻りに鯨波を挙げては意気盛んで在ると謂う。問題は固山の位置である。無視できぬ要地で在った魏軍の進退を一望に俯瞰し得るのだ。最後尾の輜重部隊迄もが丸見えの筈である。素通りすれば、後続の輜重部隊が襲撃されるのは必至であった。ーー故に、
「先ず、その固山の張飛を攻撃し、後顧の憂いを無くした
    上で下弁に侵入すべきである!!」 ・・・・然し其の場合、もう1人の難敵・
馬超の所在が不明の儘であった!!
「我が軍は元々5万の大軍ですから、この際は 軍を3つに
    分け、1軍を固山の張飛に向わせ、1軍は下弁の呉蘭を
    討ち、残る1軍は馬超の出現に備える。それが万全の策
    で御座いましょう!」 ・・・・だが其の場合、折角の1軍団が只の控えの儘で、無為に終ってしまう可能性も高い。
「それよりは、軍を2つだけに分け、敵の所在が明確な固山
   と下弁に集中させるべきです。もし 途中で馬超が出現しても
   我が方はどちらも2万5千ずつですから、何うとでも対応でき
   まする。」
夫れ夫れの主張には各々、頷かされる様な正論が含まれて居るだけに、総司令官の【曹洪】としては、どの策を用いるべきか!?
その最終決断に悩んだ。
ーーと、その時、それまでジッと軍議の行方を聴き入って居た
曹休がすっくと立ち上がって発言した。曹洪への ”進言”の形を取っているが、彼が曹操から 〔事実上の総司令官〕 として 任命されて居る事は、全員が良く承知して居ただから 或る意味では、この軍議の最終的な方向を決する、 最も重い発言であった。
全員が背筋を伸ばして、其の発言を待った。
賊軍が本気で〔糧道を断つ事を目的にして居る〕ので在るならば、軍兵を潜ませつつ隠密裡に行動する筈です。ところが今、固山の張飛は声を張り上げ、盛んに気勢を示して居ります。是れでは 糧道を断つ事など出来る筈は有りません。ですから
其んな陽動などには眼も呉れず、敵の意図の裏を突いて、
我が5万の全軍を以って、一挙に下弁の呉蘭を攻め潰すべきです!!
下弁の本拠が破れれば、出先の張飛は放って置いても自分から逃走するに違い有りませぬ!!


この曹休の発言だけは『正史』の記述にある部分である。蜀側の基本戦術は、 〔敵の分断・分散〕 であったのだから、この曹休の作戦眼は、その敵の戦術を グサリと抉り、根底から覆すもので
あった。曹洪は、此の曹休の”進言”を善しとして採用した。

結果、この〔下弁戦〕に於いては、【張飛】・【馬超】の出番は一切無し!!
故に両人の「伝」には1言半句の記述も無いのが道理なのである有るのは集中攻撃を浴びて撃破された呉蘭雷銅任キの最期のみ
残念ながら
国士無双を謳われる張飛・天下勇猛を誇る馬超の2将は、唯の1戦も交える事無く、劉備が進出して来て居る「漢中」へと逃走し、蜀の本軍と合流するのみ であった・・・・のである。
土台、僅かの寡兵で地勢のみに頼った蜀の支隊が、5万の大軍を迎えて撃退するなぞ無理な注文で有った訳だ。超人的な個人の武勇が通用する範疇の戦役では無かったのである。


以下に
この下弁戦に関する史料を全て転載してみるが、余りの乏しさ (ヶ) に改めて驚かされる。全て『正史』の記述である。※尚、紫色青色の区別は単に見易さの為で他意は無い。

217年10月(冕12旒・太子決定)の後に・・・・劉備が張飛・馬超・呉蘭らを
派遣して下弁に駐屯させた。曹洪を派遣して防禦させた。

218年正月(吉本の乱)の後に・・・・曹洪は 呉蘭を撃ち破り、その将の
任キを斬った。3月、張飛・馬超は漢中に逃走した。陰平の氏族・強端が呉蘭を斬り、その首を送って寄越した
※「陰平」は下弁の120キロ南西(左下)の、谷2つも越えた隣りの郡都。落ち武者狩りに遭ったのだろう。ー以上は『武帝紀』ー

(曹真は)偏将軍として軍兵を引き連れ、下弁に居た劉備の別将を攻撃し之を撃ち破って中堅将軍の官位を授与された。ー『曹真伝』ー

(張既は)曹洪と共に下弁に於いて呉蘭を撃ち破った。 ー『張既伝』ー

太祖は都護の曹洪に下弁を平定させたが、辛田比 と 曹休を
それに参加させた。命令に言う。 『昔、漢の高祖は 財貨を貪り女色を好んだが、張良・陳平が其の欠点を巨ウした。今、左治と文烈の心配は軽く無いぞ』
軍が帰還すると、丞相長史と成った。
                                                 ー『
辛ピ伝』ー
218年、先主は諸将を率いて漢中に進軍した。将軍の呉蘭・雷銅らを分遣し武都に入せたが、いずれも曹公の軍に全滅させられた。先主は陽平関に駐留し夏侯淵・張合卩らと睨み合った。
                                                 ー『
先主伝』ー
将軍の呉蘭・雷銅らを派遣して武都に侵入させたが、全滅して帰還せず、全て周羣の予言通りに成った。           ー『周羣伝』ー

劉備が、大将の呉蘭を派遣して下弁に駐屯させた時、太祖は曹洪を征討に派遣し、曹休を騎都尉に任じて曹洪の軍事に参与させた。 太祖は曹休に向って言い聞かせた。
「お前の位は参軍だが、実際は指令官なのじゃ!」 
曹洪は 此の言い付けを聞くと亦、全てを 曹休に任せた。
劉備は張飛を固山に駐屯させ、曹洪軍の後方を切断させようと
した。衆論は躊躇ったまま決定し兼ねていたが、曹休は言った。
「賊軍が本当に糧道を断つ心算なら、軍兵を潜ませつつ隠密に行動する筈です。然るに今、声を張り上げ気勢を示して居ます。是れでは出来る筈が有りません。敵の態勢が未だ整わぬ裡に、呉蘭を急襲すべきであります。呉蘭が敗北すれば張飛は自ずと逃走するでしょう。」
曹洪は此の意見を採用して、軍隊を進めて呉蘭を襲撃し大いに之を撃ち破ると、果して張飛は逃走した。
     ーー曹休伝ーー

劉備が張飛・馬超らを派遣し、沮の街道から下弁へ向わせたので、氏・雷定などの
7部1万余の部落が反逆して其れに呼応した。
太祖は都護の曹洪に馬超らを防禦させ、馬超らは退き帰国した。
曹洪は酒席を設え大宴会を催し、歌姫に薄い綾織りの衣を着けさせ、足を踏み鳴らし太鼓を打たせた。一座の者は皆笑いこけた。楊阜は厳しい声で曹洪を責めた。
「男女のけじめは、国の重要な道徳ですぞ。どうして大勢の席上で、女性の肉体を剥き出しにするのですか!桀・紂の不行跡でも、此処までヒドクはありませんぞ!」 
かくて衣を払って辞去した。曹洪は直ちに女舞楽を取り止め、楊阜に座に戻るよう請い彼に遠慮して粛然とした。 
ーー『楊阜伝』ーー

まあ講談風に言うなら、『かくて下弁の戦いは張飛・馬超の頭脳及ばず、若き曹休の知能に敗れ去ったのでアリマス!』 と謂う事に成った訳である。然しながら この〔下弁の第1ラウンド〕の結果・・・・出先から戻った張飛・馬超が合流した事により、是れでこそ正真正銘・蜀の挙国体勢・独り荊州に在る【関羽】を除いた、蜀の主力将軍・【張飛】【馬超】【趙雲】【黄忠】【魏延】【馬謖】【劉封】【陳到】等々、そして名軍師の【法正】が在り、更には何よりも【劉備】本人が牙門旗を掲げて本陣に構えて居るので在るーー即ち、蜀政権が成立して以来、初めての
劉蜀12万
全力が勢揃いした!!のであった。そして此の後は、魏・蜀逆転の兵力・・・・即ち、初めて
蜀が優位な軍事力を用いて
第2ラウンド〕へと突入 してゆくのである。ーーそして其の戦いこそが、「漢中の真の王者」を決する最大の正念場・攻防戦と成るのである。


果して天は此の時、恰も・・・・曹魏には試練を、劉蜀には好機を与えるのであった。曹操の動きを制約する様な大事件が、

今度は遙か北方の烏丸の大地大叛乱が勃発したのである!! 【第217節】烏丸鮮卑叛乱す(次男・曹彰の出番)→へ