第215節
”]”の 叛乱 そのU
                                   抹殺された真相

夜間の事とて、誰が 何れだけの兵力で 騒いで居るのかは判ら無い。だが少なくとも、”宮殿”が対象では無い事だけは明らかであった。業々として火の手が上がっている区画は、宮殿からやや離れた所司代屋敷の辺りと見える。ーーその夜、許都所司代の【王必】の屋敷では、定例の大宴会が催された後であった。許都在住の殆んどの高位高官が出席する、一種の、慰撫・融和策の懇親会だった。だから其の宴席には、太医令の 「吉本」や 丞相
司直「
韋晃」の姿も在った無論師友の間柄「金偉」も招かれた酒宴は大いに盛り上がり、皆ワイワイガヤガヤと 愉しい一時を
過ごし、満ち足りた顔付で帰って行った・・・その寝込みを襲われたのだ!!

何が何だか判ら無かったが、
王必は寝間着姿の儘で馬に飛び乗ると、唯1騎だけで私邸の裏門から抜け出した。敵に踏み込まれる寸手の処であった。矢がビュンビュン飛んで来て耳元を掠めた。取り合えず城外への逃走を図った。と其の時、肩口に激痛が走り、危うく落馬しそうになった。必死に堪えて疾駆した。が然し、城門には既に火が掛けられ、敵影がウロついて居た。
《不味い!何処へ逃げる!?》・・・・咄嗟に頭に浮かんだのは、日頃から親しく、こう云う場合でも肝が据わって居るに違い無い、或る若者の風貌であった。その先祖である豪傑の再来と噂される青年・・・・《彼なら、上手く手配りして呉れるに違い無い!》
幸い家の場所も、此処からは遠からず近すぎぬ。やや冷静さを取り戻すと馬上姿では直ぐに発見されるだろう事に気が付いた。王必は馬を棄てて、徒歩で
金偉の屋敷を目指した。
・・・くそ、一体誰の仕業だろう!?
肩に突き刺さった矢を抜かずに圧し折ると、周囲を窺いながら、漸く見覚えの有る屋敷街の一角に辿り着いた。許都の城内は広大である。此の地域には未だ喧騒は伝わらず、ひそと寝静まった儘であった。目指す家も窓に灯り無く、門は閉じられていた。大きな音を出せぬから、忍び足で裏口へ廻って、小さく扉を叩いた。反応は無い。仕方無く、声を掛けた。
「徳偉、徳偉!儂じゃ。中へ入れて呉れ!」
すると、案外な事に即座に、中から答が返って来た。然しそれは若者本人の声では無く、家人の誰かの声であった。

「王長史を殺したか?ならば諸君の策は成功したぞ!」
ーー!!王必は仰天した。そして瞬時に身を翻していた。
《ーー
何と、金偉が、あの金偉が、
       この儂を殺そうとして居たのか!!

全身からサッと血の気が退いて行った。そして初めて、この襲撃の意味に合点もいった。 
《・・・・と、なると、此の一角は危険だ!!》 改めて逃走路を庶民街に向け、何とか隙を見つけ出すと、後はもう老体に鞭打って、奔りに奔った。「ふぅ〜、あの時、名前を名乗っていたら・・・!?」
《嗚呼、何たる不覚。人生の最後を汚してしまったか!!》
ふと、曹操との30余年に及ぶ来し方が、脳裡を横切った。
「この儘では殿に合せる顔は無いな・・・よし 一か八か じゃ!!」

許都の城内を辛うじて脱出した王必、南の方角へと向った。許昌の直ぐ南には、昔の名残りの小さな砦が在り、今も”出城”として一応は機能していた。その廃城同然の砦に向ったのである。
だが、もし其処にまで敵の手が廻っていれば万事は窮す。果して
・・・この小城は未だ見落とされていた。兵力は100にも満たぬ。問題視される事も無かったのである。

「直ちに襄城へ向かえ!」 幸いにも騎馬の備えが有った
伝令を急派した許都の西南20キロの「襄城県」には、典農中郎将のが駐留して居た。その厳汲ェ最も近い味方部隊であった。20キロなら即刻にも駆け付けて呉れるだろう。 
                    ( ※ちなみに、厳汲ヘ、是れ以上分らぬ人物である。)

「決して騒ぐな!堅く門を閉ざし半日の間は何ぴとも入れるな!」
王必は肩の矢傷も忘れて、汚名挽回に燃えて居た。

一方、意気揚がって居たのは
叛乱の実行部隊!!
青壮で俊敏な
金偉吉貌吉穆兄弟とが 陣頭に立ち、寄せ集めの賤民部隊の指揮を取った。1隊は王必や副官の私邸を襲撃。敵の指揮系統の破壊が任務。もう1隊は所司代軍の屯営を急襲。火を放ってパニックを起こさせ、飛び出して来た敵兵を 弓矢の集中攻撃で倒す。この部隊の任務が 最重要で
あった。また1隊は城門を封鎖。王必の逃亡と外部からの援軍を阻止するーー
最大の味方は闇夜であった。味方を大軍団と思わせ、火攻に拠る心理的優位を保って実態を隠し、敵の所司代部隊を潰走させる・・・・
兄の【
吉貌】が、《王必襲撃》 を担当し 100名 の部隊を率いた。
私邸を包囲して火を放ち、逃げ出して来る王必を 斬り殺すだけ
なら、この人数で充分だと見込まれた。平素の警備では 私兵が
20人程度。屋敷の1角に詰めて居るだけであった。下見は充分にして有った。 ーー果して・・・想定していた通り、夜警の歩哨は
門番だけだった。ウムとも言わせず吉貌自身が袈裟懸けにすると、私兵の詰め所に忍び寄った。四方から一斉に踏み込んで圧殺。想った以上の進捗であった。
「よし、火を放て!逆賊曹操の手先・王必を討ち取るのじゃ!!」
夜のしじまを劈いて、突如、兵の喚声と火の手が巻き起った。

その直前の時刻・・・・6人の中では最も勇猛で剛胆な【
金偉】が、800名を率いて、所司代の屯所を襲っていた。此処こそが最大の難関であった。然し、急襲を受けた時点で、ぐっすり寝込んで居た敵の反撃は、呆気無い程に怯惰で、非組織的でしか無かった。夜の暗闇が、業火と兵の喚声に数総倍の効果を齎し、恰も
大軍団に襲撃されたかの如き大パニックを惹起したのである。
ーー作戦はズバリ的中!!個々に逃げ惑うばかりの所司代軍は端から戦意喪失して右往左往・・・其れを弓矢の嵐が薙ぎ倒した。
碌な訓練も受けて居ない”奴隷部隊”だったが、白兵戦にすら為らずに、飛び道具を使うだけで充分であったから、恐怖心も起こさずに奮闘した。
弟の【
吉穆】は100名を率いて城門の警戒を担当していた。今や遅しと待つ中、予定通りの時刻に、設定した通りの方角から火の手が挙がった。
「よし!成功した様じゃぞ!さあ、此方も門に火を放つのじゃ!」
たった100名では、全ての門に張り付いて居る訳にはゆかぬ。兵力不足は火で補う。ーーかくて許都の夜空は、数ヶ所の火点から巻き上がった業火に拠って、その広大な上空一面を 赤黒く
染め上げてゆくのだった・・・・。 ここ迄は概ね計画通りであった。どうやら【王必】は 討ち漏らした様だが、最大の課題だった所司代部隊との戦闘は、ほぼ完勝であった。不意を突かれた所司代部隊は、抵抗らしい抵抗も見せずに、殆んど雲散霧消の格好で自己崩壊。丸で蜘蛛の子を散らす如くに逃げ去って行った。
「やりましたな!!」 「ああ、やったな!!」
白々と東の空が明るく成る頃には、許都の城内には最早、曹操の軍勢は1兵たりとも残存して居無かった。
「皆を駆り出して、消火させよう。」
冬の乾燥期、火攻に用いた炎は予想以上の猛火に成っていた。風向に拠っては、宮殿に飛び火して、延焼の危険性が出て来ていたのだった。流石に此の頃になると、もう許都中が起き出して居た。だが人々は未だ、事の真相が判らず、只ヒソヒソと囁き合うだけで在った。 《下手に動かぬのが一番じゃ・・・・》 然し、文字通り、降り掛かる火の粉は払わねばならぬ状態だった。事の成り行きソッチ退けの消火活動が一頻り続き、何とか鎮火に成功。

ーーだが・・・・その直後に、想わぬ事態が発生したのである。
「大変で御座います。」 「何!本当か!?」 
小声の耳打ちを聞いた若い指揮官達、思わず駆け出したーー
そして我が陣営を見て、頭の中が真っ白に成った。
「ーーこ、是れは・・・・!?」 「何と云う事じゃ!?」 
「信じられぬ!!」3人は愕然、茫然自失した。つい今迄、命令に従い、行動を共にしていた
味方部隊の兵士7割以上の姿が、
     忽然として、掻き消えていたのだ
!!
然も、残って居るのは、全て年老いた者達のみ・・・・
「事が成就した暁には、”人間”にしてやる!」と約束され、役人への道まで用意されて居たにも関わらず、何故、いま此の時に!?

失う物とて何も無く、己を守る術とて持たぬ、彼ら・
賤民たちの、せめて具える生存本能・危機察知能力は、いざと成ったら極めて鋭い。ーー《この儘では危険だ!!》・・・・知識や理屈では無い。詳しい天下の情勢や 難しい政治力学なぞ 知る由も無い。だが
〔人間以下の畜生同然〕とされる己達に、最低限、許されている
「生きる事自体」 に関しては、その 本能的な危機察知の嗅覚は
最も研ぎ澄まされて居たのである。
《事が此の儘で終る筈が無い!!命あっての物種じゃ!!》
ーー果して・・・・彼等の選択は正しかったのである。
土台、一夜漬けの奴隷部隊たった1千で、天下の都を制圧し続けるなど、お笑い草に過ぎぬではないか。

※ そんな事は 子供でも判るのに、
何故、今の時点 で 決起したのか??・・・・
         納得のゆく説明が求められる処なのだが、本書の結論は後廻しとする。


王必からの緊急要請を受けた【
】・・・・《手柄を立てるのは此の時ぞ!!》 とばかりに、西南20キロの「襄城県」から即刻、
軽騎兵だけの猛速度で出撃した。そして叛乱勃発から僅か半日で王必と合流した。だが先ずは敵情偵察を最優先させ、翌日の歩兵到着を待って、鎮圧に乗り出した。だが 偵察兵の報告を受けた王必と厳汲フ2人は、最初、我が耳を疑った。
「絶対に、間違いは無いのだな!?」
だが、どの報告を聞いても、その呆れた敵情は事実らしい。
「よし、他の応援を待つ必要、全く無し!直ちに殲滅しよう。」
「ウム、何うとでも料理できる様じゃな。首謀者は生け捕りにして
事件の全容を吐かせんとな。拷問に掛け、残党・連座した者達を芋蔓式に捕縛・殲滅じゃ!!」

叛乱決起の
翌日ーー早くも、
率いる鎮圧軍が、許都の城門全てに向って殺到した。
「よいか、必ず我々だけの手で直ちに鎮圧してしまうのじゃ!!」
厳汲ノは”武功”、王必には”汚名帳消し”のチャンスであった。
「叛乱は奴隷どもが兵士に化けただけのモノじゃ!容赦すな!」
言われた兵士達、俄には信じられぬ事であったが・・・・ 果して、いざ突入してみたら全く以って事実であった。正規軍と1夜漬けの奴隷部隊、然も其の人数たるや、たったの300ーーまともな
戦闘ともならず、一方的で虐殺同然の阿鼻叫喚だけが現出した。

「逆賊曹操〜!是れが我等の本望と知れ〜!」
「我等は死して
曹操めを滅亡させるのじゃ〜!」
「吉本は1人に非ら〜ず!
           逆賊は必ず亡びるのじゃ〜!」
「漢の国は永久に不滅!漢帝陛下万歳!!」


それは、ものの1刻 (15分) も経ずして終了した。その戦闘で、
金偉吉本吉貌吉穆の4人は、斬り死して果てた。各人夫々が息絶える直前まで叫び続けた其の罵詈は、己の後に続く者達への〔魂のメッセージ〕で有ったか・・・・
残る2人の首謀者は生け捕りにされた。いや、寧ろ敢えて自から生け捕りにされた風にさえ思われた。
1人は先述の
韋晃。丞相司直を務める人物 (それ以外は一切不明 )
そしてーー残るもう1人の人物こそ・・・・

    この叛乱劇真の首謀者で在ったのである。
即ち・・・・本書が呼ぶ
]である。
名を耿紀 こう きと言う。字は
季行扶風の人で其の家柄は後漢きっての大名門。一門は是れ迄に、列侯19人・将軍11人・13人の九卿などなどを輩出 して来ていた。
若年より 素晴しい名声を立てられ、丞相掾 と成り、王(曹操) に大そうな敬意と評価を受け、侍中 に昇進して 、少府を代行していた。
曹操からの信頼も厚く、
〔侍中〕〔守少府〕と云う重職中の重職に在った・・・・グループ6人の中では 断トツの高位 に在り、
年齢も亦、かつて荀ケとは棟続きの屋敷に住み、荀ケや杜畿と親交が有ったとの記述が在る(補注・傅子)事からも、彼等の中心 と
成って事を密かに推進するに相応しいもので在ったと想われる。

ここで全ての経緯を『
三輔決録』の原文から転載してみる。
当時、京兆に金偉と云う者が居た。代々漢臣の家柄であり、祖先の金日石單が、武帝殺害を企てた莽何羅を殿上で討ち取って以来、忠誠は顕著で累代に渡って名誉節義を守っていた。金偉は、漢の帝位が( 魏に) 移行しようとしているのを見て、もう1度 興隆させねば!!と考えた。そこで慨歎して心を奮い立たせ、 かくて]・韋晃・吉本、その子の吉貌その弟の吉穆らと結び謀叛を企んだ。]は字を季行と言い若年より 素晴しい名声を立てられ、丞相掾と成り、王(曹操) に大そうな敬意と評価を受け、侍中に昇進して少府を代行していた。
彼等は金偉が慷慨の気を持ち、金日石單の風格を具えて居る上、王必と親しかった事から 金偉に従って隙を窺い、もし王必を殺せば天子を抱えて魏を攻め、南方の劉備に援助を求める心算であった。
当時関羽は勢い盛んであり然も 王曹操は業卩に滞在し、王必を残して兵を指揮させ、許中の事を取り仕切らせていた。
吉貌らは雑人や子飼いの奴僕・千余人を引き連れ、夜中に門に火を放ち、王必を攻めた。金偉は人を遣って内応させ、王必を射て 肩に命中させた。王必は、攻め寄せて来たのが誰なのか判らず、普段から親しかった金偉を頼って逃走した。

夜中に「徳偉!」と呼ばわると、金偉の家では 其れが王必だとは気付かず、吉貌らで
あると思い込んで居たので、間違って答えた。
「王長史は、もう殺したか?卿らの行動は成功したな!」
驚いた王必は、そこで改めて他の道をとって逃亡した。
一説に謂う・・・・王必は金偉を頼る心算であったが、その幕下の役人が、
「今日の事件は、一体誰の家に逃げ込めば安全だと言えましょうや!?」 と言い、王必を援けて(許昌の)南城に奔った。ちょうど夜が明けたが、王必は未だ健在な上、吉貌の軍勢は散々になった為に失敗した。その14日後、王必は結局、矢傷のため死んだ。


では 『正史』 は、この叛乱を如何に記しているかも見て措こう。当然ながらサラリと素っ気無い。
二十三年春。正月。漢太醫令吉本興少夫耿紀・司直韋晃等反。攻許燒 丞相長史王必營。必興潁川典農中郎將嚴挙「斬之。

23年、春、正月。漢の太医令 吉本、少府 耿紀・司直 韋晃らと反し、許を攻め、丞相長史 王必 の営を焼く。 必、潁川の典農中郎将 厳 と討ちて之を斬る。』・・・・と、のみ記す。

捕えられた
耿紀韋晃ーーその態度たるや 全く 堂々
悠然として 悪びれた様子なぞ 毛程も見せぬ。
「この逆賊曹操に対して行なわれた壮挙は、全て我等6人のみで計画、決行したもの。誓って、他人には関わりの無い事じゃ。況や主上ご自身とは、全く関係の無き事。拷問するなら致すが良い。じゃが実際に我等6人以外に誰も居らんのだから無駄な事だ!」

「無駄か何うか、お前の体に訊いてやろうず。」
有りと有らゆる拷問が掛けられた。だが 其の間中、何度訊かれ
ても、耿紀が発する言葉は唯3つだけの繰り返しであった。
「我が名は耿紀!漢の忠臣!」 「漢王室不滅!」
「曹操は逆賊なり!」  同じく韋晃も亦、完全黙秘を貫き通した。

「ーーこれ以上の拷問は無駄であろう。直ちに処刑する。」
口にこそ出さ無かったが、【
王必】はその心根を美事だと思った。
】も亦、同感だった様だ。訊ねた。
「最期に言い残す事は有るか!?」
「無い!」 とのみ、傲然と胸を張る韋晃
「お前は有るか?」 すると、
耿紀は言った。

「逆賊曹操め!!未だ未だ安心は出来ぬぞ!!
天下に忠臣の絶える事は無いのだ!!」

「ただ残念だったのは、この儂が自身で最後の詰めに加わらず、若者だけに任せてしまった事じゃ・・・・。」
「だが、
我々の目的は果された。
逆賊曹操!! 貴様を絶対に
 帝座には就けさせぬぞ!!」

耿紀・韋晃らを逮捕し彼等の首を斬ろうとした時、耿紀は魏王の名を呼びつけにして言った。「残念なのは、儂が自ら事を謀らず結局ワッパどもに狂わされた事だ。」 韋晃は頭を地に打ちつけ頬を叩いて、死んでいった。  ーー( 献帝春秋 )ーー
本書の劈頭に記した如く、中国の人々にとって〔〕は命同然の大切なものであった。他人が他人の名を呼べるのは、皇帝・親・師のみであった。通常は官職や字で呼んだ。「名を惜しむ」とは、そうした重大なニュアンスを含むのである。それを冒すのは、敵に対する罵倒の場合だけであった。曹操孟徳の〔名〕は”操”である
叛の中心人物”
]”だった耿紀は、最期に曹操の野郎め!と叫んだのである。現代の我々は平気で 『曹操』と呼ぶが、当時で在ったなら即刻、首が飛んでいた。
かくて後漢の初期から栄えて来た「耿氏」一門は・・・その王朝と共に隆盛と成り、その王朝の衰亡と共に破滅した・・・のである。

この叛乱劇を知らされた
・・・・烈火の如く 激怒
した。己が予想して居無かった事態だったから、尚の事、報復は惨を極めた。
《 許さぬぞ廷臣どもメ!!・・・我が覇道に泥を塗りおって!!》
前2度は此方が仕掛けた罠で有ったが、今度ばかりは出し抜かれた。 この曹操とも在ろう者が、〔
仕掛けられた〕のだ!!然も、冕12旒を戴き、皇帝が有する全ての専権を身に着けた己に対
してであった!!
「俺が人を裏切る事は在っても、人が俺を 裏切る事は 絶対に
許さん!」ーー今から28年前、35歳の未だ”駆け出し”の頃・・・・
曹操は、専横する【董卓】の元から、数騎の 側近と 脱出し、厳重な指名手配の中を、
郷里に逃走した。地元で兵馬を整え旗揚しよう と決意したのである。その途中、旧知の呂伯奢
ろはくしゃの家に立ち寄った際、もてなしの為に ブタを殺そうとしたのを 勘違いして五人の家人を 全て 斬殺してしまった。過ちに気付き遁走する途次、今度は買い出しに行っていた主人の伯奢と鉢合わせした。すると曹操は二コ二コしている彼を躊躇らいも無しに斬り殺してしまう。 「ひ、ひど過ぎますぞ!」 非難する供の者(夏侯惇か?陳宮では無い)に向か って、曹操は傲然と言い放った。
我負人、母人負 我!!》・・・・
 『むし人ニ負そむクトモ
    人ヲシテ 我に負そむク事 なからしめん!』
俺が人を裏切る事は有っても、 人が俺を裏切る事は絶対許さぬのだ!! ーー爾来30年・・・・《危ない!!》 と観るや、その直感だけで、 平然と 相手を粛清する事を 実践して来た、
姦雄・曹操孟徳でも在るのだ。
《今度こそ、本当に”根絶やし”にして呉れる!!いや、曹魏への叛乱そのものを、是れが最後のものとして呉れるワ!!その為ならば、鬼にでも、魔にでも成ってみせてやるぞ!!》

そうした黒い決意を秘めた魏王・曹操は、「許」に在る全ての廷臣を「業卩」に喚問した。余りの多人数だった事もあって、彼等は庭に集合させられた。
曹操は檀の上から審問・処断を下す。
今回の不祥事の砌、消火活動に加わった者は、左側に寄って並べ。 又消火に加わら無かった者は右側に並べ!
命じられた廷臣達は、各々が咄嗟に、頭脳をフル回転させた。

《放火したのは叛乱側なのだから、其れを消火したとなれば一味とは無関係・・・絶対に無罪じゃ。うん、それで間違いは無い!》

と確信したものの、その踏み出す1歩に己の命と三族の運命が懸かっているのだから、思わず互いに他人の行動を窺い合った。

「愚図愚図致す者は、謀反人と見做〜す!!」
曹操の大喝に皆が一斉に動いた。無論、左の消火側へであった右の不参加側には1人の姿も無かった。
「よ〜し、是れで全ては判ったぞ。」
廷臣達は己が間違った判断をせず、皆と同じ集団に成れた事に安堵した。すると曹操は言い放った。
消火に加わら無かった者は、反乱を援助した 筈は無い。 だが、消火に加わった者こそ 本当の賊である!!

「ーーええっ〜!!」と云う驚愕唖然の声が、一斉に湧き起った。
無茶苦茶な理屈であった。論理の仮定と結論が丸っきり整合して居無いではないか・・・!?広がる動揺と困惑。だが黙って居たらこのまま謀反人にされてしまう。未まだ曹操の真意に気付かぬ、
殆んどの者達が、不満と反論の声を一斉に挙げた。
「魏王様に申し上げます。我ら消火に参加した者は皆、叛乱を起こした奴等の行動を憎んだからこそ、奴等が放った火を必死に
消したので御座いまする。その我等の行動が、何で謀反人に
加担した事に成るので御座いましょうや?納得する訳には参り
ませぬ!!」ーーそうじゃ!その通りじゃ!・・・と周囲も皆、血相を変えて曹操を見上げた。

「静まれ、静まれ〜ィ!魏王様の御前で在るぞ!!いま騒ぎ立
てる者は、直ちに不敬罪で此の場で打ち首と致〜す。それっ!」

内意を受けて居た近衛の将が合図するや、ドッと抜き身の武装兵が現われ、いま反発を見せた1人を、問答無用と袈裟懸けに叩っ斬った。

《ーー!!・・・・》
 氷りつく廷臣達。するや曹操が言った。

「多くの証言によれば、首謀者は自分達でも消火活動を指揮したと聞く。だから消火に加わった者は謀叛に加担した者なのじゃ!」

確かに、宮殿に延焼するのを喰い止める為に首謀者達は動いただが別に彼等の指示を受けた訳では無い。自分の身を、当然の事として自身で守っただけなのだ。獰猛な警護部隊に威圧・恫喝されて黙り込む廷臣達に向って、その指揮官が通達した。
「申し開きの有る者は、後刻改めて個々に審問致す。その時に申せ!但し夢々、思い違い致すで無いぞ。 お前達は全員、今 この瞬間から、謀叛の容疑者と成ったのである!
罪人なのじゃ!」
そう言い渡されて初めて、曹操の底意に気付く者が増えた。
「おのれ曹操、最初から我等を殺す心算で集めたか・・・!?」


この曹操による処断や報復については補注『
山陽公載記』に在る。( 折り紙付きの3級史料だが )
王(曹操) は、王必が死んだと聞くと 激怒し、漢朝に仕える百官を業卩へ召し寄せ、消火に加わった者は 左に、 消火に加わら無かった者は 右に集まらせた。人々は、消火に加わった者は無罪と成るに違い無いと判断し皆、左の方に着いた。すると王は、
「消火に加わら無かった者は、反乱を援助した 筈は無い。 だが、消火に加わった者こそ 本当の賊である!!」 と主張し、全員を殺した。

元々、魏王朝の樹立を目前にして、抵抗勢力を一掃して措きたい曹操。勿怪の幸い!とばかりに、以前からマークして居た〔尊皇派=廷臣派〕の根絶やしを断行した。・・・・だが、どの史料にも、この6人以外の犠牲者の名前は勿論、その人数すらも記述されては居無い。
( 辛うじて、郭玄信 なる者が連座の罪で 蟄居を命じられた、との記事が 『世語』 には在るが )ただ、当時の時局から推して、曹操に拠る報復の粛清劇は徹底的に遂行されーー
漢王室・献帝周辺には、最早1人の忠臣も侍って居無い状態が出現したであろう事は、想像に難く無い。よく用いられる表現だがまさに・・・・『漢王朝、最期の断末魔』・・・・それが此の、太医令と云う”特異な官職ゆえ” に、グループを代表する形で名付けられる事と成る、吉本の乱結末であった。


さて最後に、この
許都事変真相ーー取り分けても、何故にして、こんな稚拙な行動・僅か1千の奴隷部隊のみを以って、この時期に、(結果から観れば) 成功の見込みゼロとも判断し得る叛乱を、敢えて決行したのか!?・・・についての古来より見過ごされて来た問題への本書の結論・見解を示して、「読者諸氏の課題」への一助としたい。
ちなみに、我々が唯一恃み頼りにする史料は『趙岐三輔決録』である其れを仔細に検証する事の中にしか、手掛かりは無い。逆に言えば、その中にこそ問題解決の糸口が潜んで居る訳だ。
ーーそこで、この史料を、もう1度ジックリ読み返して試ると・・・・我々が固定概念を以って、〔史実〕だと断定して来ていた事柄が、実は怪しく成って来るのである。
その問題の部分ーーどの箇所が怪しいのか??
隙を窺い、もし王必を殺せば 天子を抱えて魏を攻め、南方の
劉備に援助を求める心算であった。当時、関羽は 勢い盛んで
あり、然も 曹操は業卩に滞在し、王必を残して 兵を指揮させ、
許中の事を取り仕切らせていた。』
怪しいと謂うよりも、「史実」部分と 趙岐の「推測」部分とが、一緒に記されている・・・・のである。何処か??
南方の劉備に援助を求める心算であった』の箇所。正確に解釈するなら『南方の劉備に援助を求める心算であった
のであろう。
である。ーー即ち、『心算であった。』 だけだと”
断定”ひいては
史実っぽい”ニュアンスだが・・・・『心算であったのであろう。』であれば”推測”と成る。そして事の内容上、
この部分は 〔
明らかに趙岐の推測〕 である。・・・・と、謂う事から
ー→本書は、こう結論したい。

彼等6人のグループは、
最初から自爆覚悟の、
反曹操の烽火を掲げる為の、
自己犠牲的蜂起を目指して居た
のではないか!?

ーー即ち、事の成否は2の次で、

 叛乱を起こす事自体が
  彼等の真の目的だった!!

自らを犠牲にする事に拠って、天下への決起を促した・・・のではないか??だから僅か1千の奴隷部隊でも事は足りたのである。無論、関羽を筆頭に、外部からの支援が在れば、其れは其れで有り難いが、間に合う見込みは全くのゼロと覚悟して居た。関羽(劉備)側からの記事・史料が 1片たりとも存在して居無いのも、
その為であろう。まして献帝に関しては尚更である。そうだとすれば、賤民部隊は「逃亡した」のでは無く、協力して呉れた礼として
「逃がしてやった
(自由の身にしてやった)」のかも知れ無い。
又、筆者は憶測する。ーー彼等は、
〔関羽を迎え容れ様〕 としたのでは無く、
漢帝の動座蜀への脱出! を願って居た・・・・
のでは無かろうか??
《蜀の劉備なら、王朝を”簒奪する”様な事は、絶対にしない筈である。否、進んで未来永劫の忠節を尽すであろう!!
其処へ、主上を 御連れ参らす。》・・・・無論、《その行動が可能になったらの場合》 と云う、但し書きを設定した上での、希望的計画では有ったろうが・・・・。但し此方の〔
希望的計画〕の方は、失敗する可能性が極めて大きかったから、事前に【主上】に申し上げる事はしない。ーー計画の全ては、自分達だけで運び、200%の保証が見込まれた場合のみ、初めて【主上】に上問する。
其方は 『叶わぬ望み』であろうが、〔
万が一の僥倖〕に至った場合には、その方針で動く・・・・
こうでも理解して
やらないと★★★★★、彼等6人の忠臣達 (曹魏にとっては叛臣だが) は、単なる「無能揃い」・「無謀集団」に成り果ててしまうではナイカ・・・・但し、彼等の迸る忠心が齎した結果については却って其の責めを負わなくては成るまいがーー侘しきは蟷螂の斧か・・・
読者諸氏の御見解や如何に!?


然りながら、この218年の劈頭に勃発した〔許都の事変〕は、最早天下の情勢・時代の趨勢に、何等の影響力も持たぬ、単なる”異変”に過ぎ無く成り果てて居た。
独り 【】だけが亡んでゆき、時代は確実に、
【魏】・【呉】・【蜀】、
3国だけを中心に
           動こうとしているのであった。

そして今、この瞬間にも
〕の劉備が曹操〔〕の版図へと進攻、

宿怨の全面激突漢中
既に火蓋を切っていたのである! 【第216節】 蜀の逆襲・漢中争奪戦U ( 魏の猛反撃・エース投入 )→へ