【第214節】
今から300年前、前漢・武帝の時・・・・1人の少年が捕えられ、武帝の元へ護送されて来た。大漢帝国に楯突く、北方の異民族・匈奴の王子であった。少年の父は匈奴・休屠王で、漢の大将軍・霍去病かっきょへいの討伐に遭って敗れ、太子であった少年も一緒に捕虜にされたのである。だが豪放磊落な武帝は、その少年を一目見て気に入ると、匈奴の血統であるにも関わらず、其の少年を愛でた。好悪の情の激しい武帝だったから好ましいと思えば徹底的に可愛がった。少年の方も、その恩愛に善く応え【金 日石單】きん じつてい と云う漢人の姓名を賜り、名臣と称される様に成った。
爾来300年、数多の列侯・将軍などを輩出し続け、漢王朝屈指の大名門と成って来て居た。その、代々忠臣の家柄を誇りとする現在の子孫・・・・
【金緯きんい】と言う。字は徳偉。献帝の傍に仕える側近(公卿)で在った。近頃の曹操ーー漢帝を凌ぐ専横ぶりを見せ、「12旒」を冕き、出入りには hashu!シィ〜ッ!と 「警けい」 を叫ぶ先払いの
「蹕ひつ」を先行させ、皇帝同然の振る舞いを見せる。その傲慢な姿を眼の当りにして 悲憤慷慨、もはや 1刻 の猶予も 許さずに、
〔最後の手段〕を実行するしか無い!と焦燥して居た。
『当時、京兆に金偉と云う者が居た。代々漢臣の家柄であり、祖先の金日石單が、武帝殺害を企てた莽何羅を殿上で討ち取って以来、忠誠は顕著で累代に渡って名誉節義を守っていた。
金偉は、漢の帝位が( 魏に) 移行しようとしているのを見て、もう一度興隆させねば!!と考えた。そこで慨歎して心を奮い立たせかくて〜〜』・・・・父は武陵太守の「金旋」。荊州分割騒動の時にトバッチリを受ける格好で劉備軍に殺されていた。だが子の金緯は劉備を怨まずに曹操の横暴をこそ憎んで居たーーだが許都に在る、この金緯は”]”では無い。
「許」には天子=漢帝・劉協の宮殿が在るから「許都」である。196年の8月に曹操が青年帝を奉戴した時点では、未だ狭かった版図の中で精一杯の安全地帯が許(許昌)の城であった。偶然、その年は元号を「建安」とした直後だったから許都は正に「建安と共に誕生した」 事になる。 その後、曹操は遠謀に基き、
政祭分離の旗幟を鮮明にする為に、己自身の政府は「業卩」に
置き、実権を独占・掌握して来た。ーー9歳で董卓によって即位
して以来16歳まで 《是れでも朕は皇帝なのか!》 と歎かざるを
得無い様な 全く悲惨な”放浪者”であった劉協は、曹操の御蔭で漢王室に相応しい大宮殿と贅沢な生活を与えられた・・・がーー
何を思う・・・漢帝・劉協・・・新たに年が明け、建安の年号も23年を数える事となった。皇帝在位は、既に30年。
9歳で董卓により即位し 〔永漢〕 と改元。翌年、10歳の時に〔初平〕と改められた元号は4年で終り、14歳の時には
〔興平〕と改るも、2年で終る。そして16歳の時に改元したのが〔建安〕であった。爾来23年間・・・・今し、正月を迎えて38歳と成った事になる。1代で4つもの元号を経たと云う事は、それ程迄に激動する時代を体験し、翻弄され続けて来た証である。最早漢王朝には自己回復能力なく、滅亡の断末魔に喘いでいた・・・・だが民心・人心は未まだ400年の恩顧恩寵を愛惜する事頻りで漢王室への忠誠忠節を尽くす事を標榜して止まぬーーその世論の動向を、巨大な重圧として最も強く意識・認識して居たのは誰あろう・・・献帝を奉戴して居る、曹操自身に外ならぬのであった。
曹操が何時の時点から其の内心で《魏王朝の樹立!》 に狙いを定めたのか!? ・・・・その答えは 永遠に定かとは成らぬが、
最初は漠然としていたであろう其の野望が、誰の眼にもハッキリと剥き出しに成ったのは、此処数年の事である。 然し、注意深く
検証して観るとーー其処には、相当早い段階からの警戒=廷臣派根絶への動きが在った事に気付かされる。
大きな〔粛清劇〕は過去に2度あった。然し 表向きの扱いは何れも、曹操を暗殺する為の 「クーデタア未遂事件」
に対する
”処罰”であり、寧ろ、曹操は被害者!・・・・で在るかの如くに 喧伝されて居た。ーーだが既に我々は、其の真相が、曹操の仕掛けた〔廷臣派〕に対するデッチ上げ事件であり、罠・先制攻撃であった事を識る。然し其の背景や、時局に因る直接的な必要性には、夫れ々れに 明らかな相異が在った。
最初の事件は200年1月→官渡決戦直前の時の
〔献帝の密勅事件〕。是れは 《魏王朝を建てる為の遠謀》 と謂う
よりは、大敵・袁紹との決戦を控えての、後顧の憂いを断つ為の
”戦術的予防措置”の性格が強かった。
2度目は214年11月→〔伏皇后の密書事件〕を捏造。それに連座したとして残って居た廷臣達を大量に粛清したものであった此方はハッキリとした、漢朝の命脈を断つ為の攻撃的確信行為であった。無論、この外にも孔融・荀ケ・崔王炎などなど、世論への影響力大の個人に対する狙い撃ち的な粛清は連綿として行われていた。 そして両度合計では
2千にも及ぶ漢の忠臣一族が根絶やしにされ、献帝の周囲からは、重鎮と呼べる如き 股肱の忠臣達は悉く取り除かれた・・・・
かに思われたーーだが然し、前後400年の恩顧関係を構築して来た漢王朝の底力は、千や2千の名家・名門を抹殺した位では、忠臣・廷臣の跡を絶つ事は出来ぬのであった。面従腹背・・・・漢帝奉戴を実施している建前上、朝廷の官職に関わる人事権は漢室の意向を全く無視し切る訳には行かない。だから当然、皇帝の周囲には歴代恩顧の忠臣が絶える事無く補充され続けるーー漢王室を奉戴する限りに於いては、恒に繰り返される懸念材料であった。とは言え矢張り、2度の大量粛清の効果は大きく人材不足、大物不在は深刻で有った。宮廷には昔日の面影も無い。
かつては必ず遣って来ていた外国使節さえ、今では許都を無視して業卩の曹操の元へと行ってしまう有様・・・・
蓋し、曹操領内に於いて唯一、《反曹操の空気》が充満している城市・・・・それが許都 で在った。全ての公卿・廷臣が居住しているのだから 当然だが、その民衆の心情も皆、漢室贔屓に凝り固まって居た。無論、そんな事は最初から百も承知の曹操ーー許都城内に朝廷監視役を設置し、皇帝や公卿達の言動を見張る、内部向けの軍隊を常時駐屯させて来ていた。倭国の例で謂えば鎌倉時代の六波羅探題・江戸時代の京都所司代みたいな役所。
当初は「夏侯惇」が大軍を率いて 睨みを効かせた緊迫期も在ったが、214年の粛清劇以後の現在では、殆んど緊迫する必要とて無い、閑職同然の名誉職化していた。
( ※ ちなみに 夏侯惇は、現在でも名目上は”漢の臣下”で在った。)
218年現在・・・・その役職を拝命して居たのはーー
〔丞相長史〕の【王必おうひつ】(字は不明)と云う、老齢な人物である。早い時期から曹操に仕え、信任厚い古参幕僚であった事が『補注史料』から窺い知れるーー曹操が未だ”群雄”の1人として認知される以前からの最も古い家臣で、兌州の覇権を巡って、
長安から落ち延びて来た【呂布】との死闘(193年〜194年に蝗で有名な「僕陽の戦」〜195年の「定陶の戦」で呂布を破る。呂布は徐州を譲られた劉備の元へ転がり込む。)
を制し、〔兌州牧〕と成った時には、兌州従事 ( 副官 )を
務めて居た。そして、長安で李催・郭に囚われ同然の状態に在った【献帝】への使者に任じられた。命の保証の無い危険な任務だったが、鐘遙の仲介もあって無事に朝廷とのパイプを確保した
その後、曹操が司空に就くと司空主簿を任された。この時のエピソードとして『献帝春秋』が記しているのは、呂布最期の場面での登場である。
捕えられた呂布は言った。「斉の桓公は敵対した管仲が帯金に矢を当てた事を不問にし、彼を大臣にしました。いま私に手足として力を尽させ、殿の先駆けとされては如何か!?」その時、縄目がきつかったので呂布は劉備に向って言った。「玄徳よ、貴方は賓客だし、ワシは捕虜だ。一寸ひと言いって弛めて貰えないか?」すると曹操は笑いながら「どうして此方に話し掛けずに、玄徳殿に訴えるのだ?」内心、呂布を生かして措きたいと思い、縄目を弛める様に命じた。すると、主簿の王必が走り出して来て言った。
「呂布は手強い奴です。彼の軍勢が直ぐ外に居るのですから、弛めてはなりません!」
すると曹操は言った。
「儂は本当は弛くしてやりたいのだが、主簿が許さないのだ。どう仕様も無いな。」
尚、『正史・呂布伝』ではー→「呂布は殺すべきですぞ!」と叫んだのは劉備で、それを聞いた呂布は、「こいつこそ1番信用できぬ奴だ!」
と怒鳴り返した・・・・と記している。
まあ曹操の苦難時代から、その時々に〔従事〕とか〔主簿〕などのブレーン役を任されたのだから、一廉の人物で在ったのには間違い無い。だが「伝」を立てられる様な目覚ましい活躍をする程でも無かった様だ。そして何より、もはや引退間際の老齢であった。
・・・・そこで曹操は、彼の永年勤続に応えて、最後の餞はなむけ人事をしてやった。それが、〔許都の監視役〕であった。今や閑職だが面目は立つ。更に曹操はオマケとして布令まで発し、王必の才能を褒め称えてやった、と「魏武故事」は記載する。
『領長史の王必は、儂が未だ、蔓延る棘を 切り開いて居た時代からの 役人である。
忠誠有能にして仕事に励み、心は鉄か石の如くであり、国家の善き官吏である。彼を
長らく要職に就け無かったのは、駿馬に乗らず 放置している 様なものだ。 召し出して
要職に就けよう!』
「唯才!唯才!」と合理主義を標榜・推進する一方で、夏侯惇や此の王必に対する”花向け人事”を行なうなどの人情味を見せる曹操孟徳・・・・無論、情勢分析を十二分に検討した上ではあるにしても、やや晩年の齎す角の取れた”丸み”が仄見えて来て居るか・・・・??
さて、その許昌探題・所司代の王必・・・・こちらも、齢と共に好々爺然と成って居たらしい。公卿達の監視役ではあるが、その方針としては、キチキチと取締る対決姿勢を好まず、穏やかに融和・協調してゆく肌合いを好んだ。土台、曹操の幕僚で在るとは謂え古い世代の王必には其の心の深層に〔一定の尊皇意識〕が残存していた。又、名門貴族に対する羨望や憧憬に似た感情も潜在していた。だから自然の成り行きで、同じ許昌に住み暮らす名士・貴族達との付き合いも 増えていった。 様子を窺う 必要上、毎日
顔を合わせるのだから、自ずと親しさが出て来るのは人情と謂うもの。又、相手も、此方に一目置いて、決して疎かな態度は取らない。居心地が好い。饗応なのか接待なのか、公私の境界・区別も薄れてゆく。やがては互いに私的にも親しさが出て来る。気心も知れて来る。飲み食いだけでは無く、文学論を戦わせたり、趣味を共にしたり、互いが馴染み合う。そんな中、少壮な若者貴族は溌剌として居て
気持の好い相手であった。 特に
大名門の金偉と云う爽やかな青年は、王必に対して尊崇の念を以って接して呉れた。だから何処と無く、師友の間柄と成った。
その金偉・・・・王必の思いとは違う次元で、先に述べた如く、内心深くに《重大な決意》を抱いて居た。ーー而して、好い若者が 老人だけと付き合うのは不自然である。
実際、金偉が何の気兼も無く、心底から付き合って居たのは、矢張り同じ年代の若者同士であった。
その親友の名は【吉貌きつばく】・・・・字を文然と言い、金偉とは同世代。【吉穆 きつ ぼく】と云う年齢の近い弟が居た。こちらの字は思然。彼ら兄弟の父親が就いて居るのは、宮廷医師団を統括する宮廷医務の長官職で在った。官僚で在るから、必ずしも本人が医者である必要は無い。彼等の父親が「医者」で在ったか何うかは史料に見えぬが、まあ医者で在った事にして措こう。禄は600石。少府に属すこの宮廷医務長官を〔太医令〕と称した。そして其れが滅多に登場しない官位で有る事から、後の世に名を残す事になる・・・・【吉本きっ ぽん】その人で在る。字は敢えて伝わらない。出自を含め、”謀反人”と見做される者 (滅ぼされた側)の定めではある。だが、この、叛乱劇の名を冠せられる 事と成る 「吉本」も・・・・
ーー実は、真の”]”では無いのである。
因みに、史書に名が残る此の叛乱グループは6人のみである。
上記の「金偉」・「吉本」と「吉貌」「吉穆」兄弟の4人にアト2人・・・
残る1人は→州郡からの上表文を精査し採否の決定権を有する重要任務に在る、〔丞相司直〕の【韋晃い こう】である。
その字も、出自も 不明であるが、彼も亦、”]”では無かった。
そして・・・・最後の1人・・・・真の”]”こそは、後漢きっての
大名門ーーその家系は、是れ迄に 19人の列侯・ 11人の将軍・
13人の九卿 などなどを輩出 して来ていたのである。無論、事件の性質上、年齢など詳細は伝わらぬが グループの中心と成って事を密かに推進するに相応しい年齢では在ったと想われる。
さて、彼等の〔計画〕の中味であるが・・・・先ず言える事は、彼等6人共が”武人”では無かった事である。誰1人として手元には兵を持たぬ”文官”で在った。 逆に言えば、その事が曹操の警戒心を薄めさせ、全くの「ノーマーク」にさせた・・・・とも言い得るのではあるが、誰が何う考えても、最後に物を言う決め手は→軍事力!!その1点に尽きる。
その最も肝要で重大な点について、一体彼等は何う考えて成功の確信を得たのか??・・・・先ず史料を観てみよう。但し、こんな不名誉で剣呑な事件の内容を、『正史』 が詳述する 訳も無い。
幸い(?) 例によって「裴松之」が補注に 『三輔決録』 を補載して
呉れている。この史料は、リアルタイム人で在った「趙岐」の手による人物評価集で、その中の〔注〕に見える記述。なお、前以って断わるなら、この後の展開も、全て此の史料に頼る事となる。
取り合えずは先ず、この問題点に関連する部分だけを抜粋。
『彼等は金偉が慷慨の気を持ち、金日石單の風格を具えて居る上、王必と親しかった事から 金偉に従って隙を窺い、もし王必を殺せば、天子を抱えて魏を攻め、南方の劉備に 援助を求める心算であった。』
劉備は現時点では益州に在り、まさに漢中へ攻め込んだ瞬間であった。故に「南方」には無い。即ち南方とは・・・・
『当時、関羽は勢い盛んであり、然も 王曹操は業卩に滞在し、王必を残して兵を指揮させ、許中の事を取り仕切らせていた。』
我々も予想する通り、矢張り、結論は、
〔関羽〕が希望の星なのであった!!
(趙岐の推測は至当・妥当な線であろう、と納得して話を進める事となる。)
だとすれば、問題は・・・・関羽と連絡であり、その関羽の返答である。だが、その事についての具体的な記述は、どの史料にも一切 無い。然りながら 叛乱は 実際に起こった のである。今度
ばかりは 〔史実〕である。正史の各所にも、関連の記述が短くではあるが載っており、前2度の「胡乱な粛清劇」とは、その実態が全く
異なる。ーー即ち、彼等はーー
絶対成功の確信 を持って決起したのである。決して事が発覚したり、その危険に迫られての、自暴自棄的な決行では無かった。・・・・何故なら、その日、当の【王必】は逃げるに事欠いて、何と首謀者の家に駆け込むのであり、事変を知らされて駆け付ける鎮圧部隊も亦、許都城の外部からの出動であった、のである。その事から観ても、彼等は叛乱の結末に絶対の自信と確信をもって臨んだ 事が判定できよう。
では、その彼等の自信は一体、”何処”から生まれ来たのであろうか??
その場合、考えられる答えは、唯1つしか在り得無い。
関羽の応諾が得られたのだ!!
その事以外には考えられない。とは言え大きな疑問が残る
1つ目は→許都 と 関羽 との位置関係。その双方の距離感の問題。この時点で関羽の在る地点は、未だ「江陵」に依拠して居た(筈で)ある。少なくとも「襄・樊」城の近くには進出して居無かったと観るのが普通である。万人が認める史実では、関羽の大軍が北上するのは、この1年余も 後 の事である。 と なると 両者の
距離は600キロ!在り得ない事だが、もし関羽が途中で何等の妨害にも遭わず、スンナリ遣って来たとしても、半月〜1月を要するであろう。「業卩」からは280キロに過ぎ無いのだ。断然、曹操の足の方が近く速い・・・まして「許都」の南西180キロの地点には第2の阻止ライン・「宛城」が存在するのである。ーーそれなのに、
《 関羽は間に合う!!》 と観るのは 狂気の沙汰である。
2つ目はー→是れに連動する、時局・情勢判断の問題である。
彼等の頼みの綱が関羽で在った事には、誰しも異論は無かろう。だが、いま述べた様に、両者の距離は余りにも隔ち過ぎて居る。史料は単に、『当時、関羽は勢い盛んであり、然も 王曹操は業卩に滞在し、王必を残して兵を指揮させ、許中の事を取り仕切らせていた。』 と、如何にも曹操が遠方に在って動けぬ・・・・かの如き 書き方をしているのだが・・・果して曹操は実際に、大兵力を派遣できぬ様な時局下に置かれて居たのであろうか?
即ち、距離の問題を超越して尚、曹操を苦しめる様な深刻な状況が、天下に成立していたーーと観て良いのか??彼等は、その時局背景を、どの程度の認識で、《自分達に有利だ!》と判断し得たのか??或いは、自分達に呼応する勢力の出現を読み込んでいたのか??
結論から先に言えば、そんな逼迫した状況が出現するのは未だ先の事である。痛恨のフライングを犯した・・・・結果と成る。
確かに西方では、蜀の張飛らが(217年内に)漢中を摺り抜け、「下弁」へ陣営を築いて見せては居た。更に劉備自身が漢中へ進軍を開始した時ではあった。その詳しい日付までは記述されて居無いから、より彼等に有利に解釈すれば、劉備が漢中へ侵入したばかりの時ではあった。もっとオマケして許すなら、漢中で魏の駐留軍と 対峙した時点 ではあった。 だが決して未だ、戦闘が
開始されていた訳では無く、況して勝敗が決着しては居無かったもし戦闘が開始されていたとしても、緒戦は張飛らの敗退であるから、寧ろマイナス材料である。
但し、「蜀軍の下弁占拠」・「劉備の漢中進攻」 を知った曹操は、
その事態に即応する必要性には迫られて居たのは事実である。そして軍勢を増派するのであるが、その兵力規模や時期・日付
迄は不詳である。故に筆者も困惑するのであるが、史書は「月単位の表記」でしか事の経過を示しておらず、事が複数同時に、然も遠距離で起こると、一体どちらが先か後かの判断に苦しめられる。ヒドイ?場合には月の表示さえ無く、次の事柄にポンと飛んで、2〜3ヶ月の空白もザラである。然も、他人の「伝」同士では月の記述が異なるケースさえ在る。ったく弱ったものである。その空白を埋めてゆくのが楽しいのだ!などと鷹揚な事は言って居られ無い。
世に謂う〔吉本の乱〕は218年の正月に起きた・・・と記されているが、正月と言っても30日の誤差が出て来る。曹操が何日に派遣軍を送り出したのか?判らぬ。それにしても曹操は、7月に自身で漢中へ遠征軍を率いて乗り込むのであるから、正月に増援軍を派遣したとしても、業卩には未だタップリと軍団が残って居た訳になる。
其れや是れやを加味して考えれば考える程、一体全体、彼等・
叛乱グループは何を以って、此の正月に決起を実行したのか?
・・・その答えが見つからぬ。→かくて筆者の知る限りに於いては古来より〔此の問題〕はキチンと解決されずに現代に至るまで、放置・或いは棚上げされた儘である。寧ろ史書を鵜呑みにして、
問題視する事をネグッて来て居るのである。蓋し本音を漏らさせて戴けるなら、 筆者にも 訳が解らないのである。 一応の推測は持つが 自信は全く無い。それを責任転嫁して 申し上げるならば読者諸氏の課題が、又1つ増えた〜〜・・・・訳で ゴザイマス。
と云う事で??ーーこの難問は後廻し。筆を先に進めてしまおう
”]”から〔乞師状〕を受け取った【関羽】。
突然寄越して来た 「派兵要請状」 の中味を読んだあと、最後に血判・連署された者達の肩書を見て、顔をしかめた。
「なんだ、配膳係りと医者ではないか。成っとらん!!だが、まあ断わる理由も無い事だし、折角、朝廷とのパイプも繋がるんだ。邪険にも出来ぬじゃろう。『そちらが起てば御味方する』・・・・その程度の事は書いて送って措け。いぜれにせよ、曹操の敵は此方の味方で在ろうからな。」
その程度の認識であった。まさか直ぐに事を起こすなどとは思って居無いから、特別に『時期を待て!』 と書き添える指示も出さ
無かった。関羽クラスとも成れば公式文書は自分では書かない。記室の専門官が、文面の内容も代筆する。関羽は一応、サラッと其れに目を通すと「良いだろう」と裁可して、返書としてしまった。
↑
↓
だが、受け取った方の反応は大違いであった。己に都合の好い様に解釈して狂喜乱舞した。そして実行に取り掛かった。・・・・と簡単に記述して一件落着!!にしてしまうのが古来からの書き方である。まあ、確かに其の通りなのでは有るが、余りにも単純明快に過ぎる。最も重要な問題点を観る視点が抜けている。ーーとエラそうな事をノタクル筆者だが、他人様の事をトヤカク言える立場では無い。上記の如き、自身が白旗を挙げて居る状態なのだから。
ーーで、彼等、叛乱グループの決起準備の様子だが・・・・・
『吉貌らは、雑人や子飼いの奴僕1000余人を引き連れて』、叛乱を決行するのである!!それで充分 だと観たのである。
それにしても、まあ、王必が統率する「所司代部隊」は、余っぽど舐められたモンである。攻める方も攻める方なら、守る方も守る方である・・・・ちなみに、〔雑人〕 とはーー官庁が抱える 雑用人夫の事で、人間扱いされぬ最下層の、更にその下の卑しい者達=賤民せんみん が 採用されていたのである。だから恐らく、
「事が成就した暁には、お前達を”平民”に出世させてやろう!!
武功大なる者は官吏にも登用してやるぞ!!」
と 約束して、彼等を其の気にさせたのであろう。どの道、生きて
居ても 畜生同然、 ”人” では無いのだから、死んでダメ元・・・・
大喜びで参加したのかも知れぬ (?)。〔奴僕〕も亦ーーこちらは私的に抱える雑役夫で同じく、奴隷の身分。
叛乱側の全兵力は、公私を混成した、雑用の
奴隷部隊・僅か1千だったのだ!!
ええッ?そんな!!である。つい昨日までは刃物すら持たされた事の無かった、付け焼刃の オンボロ部隊。 急に 弓矢や刀槍を
渡されても、扱い方すら解らぬ者達ばかり。ーーそれでも尚且つ、
《いける!!》と判断されたのだから、所司代軍の実態が如何に貧弱で在ったのかが、浮き彫りにされて来る。この時期に於ける「所司代部隊の兵力」についての具体的数字は不明であるが、《叛乱なぞトテモ無理だ!》と相手に思わせるだけの大兵力では
無かった事だけは確かであろう。又、その要員も決して精鋭では無く、寧ろ第一線を退いた”老兵”が、名誉職的に配置されて居たとも謂われる。まあ、どっちもどっち・・・但し昼間だと、その実態がバレテしまうので、叛乱の決行は夜間を狙う事とした。ーー戦術的には先ず、指揮命令系統の頂点に在る【王必】を私邸に襲って、火を掛けて殺し、敵の統率ある動きを封じ、狼狽える敵兵を各個に殲滅して掃討。→その後は 固く城門を閉ざし、関羽の増援軍を待つ。同時に皇帝から全国に向けて、〔曹操誅滅の勅命〕を発し、関羽以外にも、内外の反曹操派の決起を促す・・・・
218年(建安23年)正月某日・・・・夜もニ更を過ぎようとしていた厳寒の時刻・・・・突如、許都の一角に火の手が上がった。と同時に、兵達の挙げる雄叫びが城内に木霊した。
遂に吉本の乱が決行されたのである!!
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