【第213節】
「蜀」は燃えていた!!・・・・のである。
この同じ時空の中、視点を一転し、業卩から1000キロ 左下に
移すーーと、其処には、俄に 緊迫感が張り詰めた 極限状況が
出現するのである!!
是れまで本書は、主として《曹魏の視点》から時局を眺めて来たのであるが、「曹操の動き」を追う限りでは・・・・天下の情勢は恰も、どこか常に”余裕”の有る如き 錯覚に捉われがちに成る。だが
其れは、国力抜群で、攻勢一辺倒の【魏】だからこそ取れる態度であったのだ。先の【呉】が其うで在った如く、攻められる側からすれば、余裕なぞと云うものは、有り得よう筈も無かった。
況して、成立したばかりの【蜀】に於いてをや・・・である。
蓋し【呉】には最後の砦たる「長江」と云う天然の要害が存在し、かろうじて祖国の防衛ラインを維持する事が出来た。同様に【蜀】も亦、「漢中盆地」と云う、張魯が経営する ”緩衝地帯” が 存在する事に拠り、何とか曹操の進攻を阻む事が可能であった。いやその筈で有った。ーー処が2年前・・・・・
『曹公が 張魯を打ち破り、張魯は逃走して 巴中に入り込んだ。その時、黄権は進み出て述べた。
『もしも漢中を失えば3巴 巴西・巴東・巴郡の力が弱まります。それは蜀の手足をぎ取るに等しい事です。』
然し、結局・・・その緩衝地帯は消滅。 爾来、漢中を占拠した曹操軍からの巨大な圧力に直面させられ、四六時中 その侵略に脅え続ける緊迫状況の中に曝され続けて居たのである。余裕どころか存亡を賭けた 必死の思いで 息を潜め、情を矯め、国力の整備
増強に躍起と成って居たのである。
「蜀」は、今も燃えていた・・・・のである。
※ 尚、話を進める前に再度、確認して措くがーー当時に於いては、【蜀】 と謂う国名は、正式には存在して居無かった。無論、俗称や通称では使われては居たが、劉備本人は『漢』と称したのであり、少し謙遜しても『李漢』 (末っ子の漢) と言い、けっして「蜀漢」などとすら 言わな
かったのである。 ーー詳細は、第138節 (正史の謎)に既述したがーー
名付け親は、陳寿である。彼が「三国志」を著わす時、その 3国の 国名を タイトル化する場合、【魏書】・【呉書】と来てハタと困った。いくら当人達が名乗ったとは雖え、まさか【漢書】とは記せぬ。まして陳寿が仕える【晋】の国は、魏から禅譲を受けた建前で、その魏は又、「漢」から 禅譲
された・・・と謂う事に成って居た。だから考えあぐね、その結果、ネーミングしたのが、
【蜀・書】であった。即ち【蜀の国】の呼称誕生・認知である。
更に尚、正確を期すならば・・・劉備政権が『漢』を名乗ったのは今(217年)から5年後の221年の事であり、 現状では 単に 「益州政権」 に過ぎぬ。 その点は 【呉】
も 同様であり、孫権 だとて
「江表政権」に過ぎぬ。然し本書は、煩雑を避ける為に、最も一般的に普及している表記に従い、敢えて【呉】と記して来た。同じ理由で、劉備の益州政権も亦【蜀】と記す ものである。
曹操が「漢中」を平定したのは215年の11月の事であった。今から僅か2年前の事に過ぎぬ。曹操本軍は業卩に帰還したとは謂え、その2年の間、直に陣営を接する事と成った〔魏の駐留軍〕 と 〔蜀本軍〕との間に、何事も 起らぬ筈は 無かった。否、連月の
如くに鬩ぎ合い、連日の様に鎬を削って来て居たのであるーー
振り返って観れば・・・張魯の降伏を受け容れた曹操が徹底的に「漢中」に施したのは→〔漢中の無人化〕 即ち 〔徙民しみん戦略〕であった。簡単に言えば”人さらい”。
漢中盆地と 其の周辺のに居住していた人間を〔全て強制移住〕
させ、魏の確定領土内に 取り込んでしまう事 であった。無論、
兵士として魏軍に吸収される者も多かった。こちらは”兵士狩り”とでも言うべきか。
だから現在の漢中は、謂わば鶏のガラ同然。栄養分は、とっくの昔に吸い上げ尽くし、今残って居るのは唯、軍隊だけ
と云う状態で在ったのである。では、”用済み”と成ったに等しい漢中に、何ゆえ曹操は拘り続けるのか??ーー答えは・・・・「漢中」の持つ歴史的価値、その言葉の響きの中に籠められている、中国人の民族意識・ナショナリズムの原点であったからである!!21世紀の現代ですら、中国の人々は、自分達の事を「漢民族」と呼んで居る。中国最初の統一王朝は始皇帝の秦だが、決して”秦民族”とは言わ無かった。三国時代から現代に至る迄、中国の人々の心の故郷は《漢》なのである。その「漢」の高祖・劉邦が、項羽に雌伏して大漢帝国を築く足場とした漢発祥の地・・・それが「漢中」であったのだ。
まして曹操は今、その「漢」から 王朝を〔受け継ぐ〕形を目論み、着々と【 魏王朝】 の立ち上げに邁進している最中である。己の
版図・魏国内に、その由緒有る土地が入って居る、居無いでは、世論への説得力が丸で違って来る・・・・
即ち〔漢中経営〕は経済・軍事的価値よりも寧ろ《政治的価値》が大きく重要であったのである。ーー無論、理屈の上では、「漢中」を足場として、其処から南接する「益州」に攻め込み【蜀】を亡ぼす・・・・事は可能である。
だが果して、曹操自身に、其の本気が有るものかどうか!?
「何ィ〜政治的価値だ〜?そんな悠長なコト言ってる場合か!
・・・・と、張飛あたりに怒鳴られそうである。「漢中」と云うバッファゾーンが消滅した【劉備政権】にとったら、今は確かに、四の五の御託を言って居る場合では無い。何が何でも 魏の駐留軍を 漢中から駆逐して、元通りの位置に押し戻し、己の 緩衝地帯を
確保せねば、生き残る明日は無い!!のであった。
実際問題としても、勢いに乗った曹操側は当初の段階から、その〔徙民〕の対象範囲を、図々しくも【益州盆地=四川盆地】の北西部に押し広げて来て居たのである。詰り、劉備の国の玄関先・裏庭にまでズカズカと踏み込んで来て居たのである・・・!!
因みに曹操が漢中の駐留させて居るのは征西将軍の夏侯淵を司令官とした張合卩と徐晃の軍団で在った。
『張魯は降伏した。太祖は帰還する時、張合卩と夏侯淵らを留め置き漢中を守備させ劉備に当らせた。張合卩は別に諸軍を指揮し、巴東・巴西の2郡を降し、その住民を漢中に移住させた。』
ーー(正史・張合卩伝)ーー
『曹公は 夏侯淵・張合卩を 漢中に駐屯させ、しばしば 巴 (四川盆地
西域)の境界を荒し廻らせた。』 ーー(正史・先主伝)ーー
「ウグググ・・・許せん!!」 張飛は地団駄踏んで口惜しがる。
「他人の家に土足で上がり込んで来やがって!!こんな 勝手な
真似を 何時迄させて置く心算なんじゃい!!」
諸将の気持でも在った。
「直ぐ出撃じゃ!俺に行かせて呉れ!」 いきり立つ張飛。
ーーだが、事態はそう単純では無かったのである。各地で、曹操の漢中征討を観た”反劉備派”が叛乱を起こして居たのだった。 〔乗っ取り〕 と云う 非常手段で成立したばかりの劉備政権。未だ未だ各地の豪族とはコンセンサス不足、劉備は「他所者」に過ぎぬのであった。 殊に深刻だったのは南部の情勢で、成都城から僅か70キロの「資中」目掛けて、数万に膨れ上がった馬秦・高勝らの反乱軍が迫って居たのだ。 一帯の農民を糾合した雑多な混成軍では在ったが、数万では侮れぬ。更には、西の山岳部に居た異民族の高定も軍勢を派出させ、不穏な動きを示して居た。
この2件は、正史に記述が有るものだが、実際には其れに層倍する数の反乱が各地に勃発して居たと観るべきであろう。
謂わば 腹背にも 敵を抱え込み、進退いずれも 儘ならぬ状況に 直面して居たのである。張飛の気持は解るが、おいそれとは手出しが出来ぬ・・・。みな夫々に出払って、とても其方に迄は手が廻らない。首都防衛の主力である 張飛軍が出陣してしまえば、
成都はカラッポ状態と成る ・・・・だが、この儘手を拱いて居れば
反乱側は益々増長し、その勢力を一層拡大させてゆくであろう。ーーどこかで決断せねばならぬ。
その窮地を打開して呉れたのは、資中を委ねられて居た【李厳】であった。『救援軍は不要。管轄の郡兵5千だけで反乱の鎮圧は可能!』との連絡を寄越したのである。偵察して観るに、反乱軍数万と号せども、その実態は殆んどが着の身着の儘の農民達で碌な武器さえ装備して居無いと言う。
「ーーよし、頼むぞ張飛!国士無双と謳われる、お前の出番じゃ!!」
「待ってたぜ、兄者の其の言葉!任せて呉れ!
張合卩の野郎を、即刻 叩き出してやる!!」
切歯扼腕、満を持して居た張飛益徳で在った。50代に成ったとは雖も、その煮え滾る様な精力と武勇は衰えるどころか益々もって盛んの絶頂期!!
「待って居れ、こそ泥野郎!!眼に物みせて呉れるワ!!」
いやしくも張飛は今、その張合卩が侵入して来て居る巴西郡の〔太守〕なので在る。如何に名目上のものとは謂え、自分の担当地区での出来事である。一段と気合が入った。
「精鋭の1万を率いよ。」 今の劉備に出来る精一杯であった。
「充分で御座る。ココには”秘策”も御座れば!」
張飛は自分の胸を叩きながら、ニヤリ と諸葛亮の方に 頷いて
見せた。
「儂と曹操とは宿年の間柄であるが、この戦さは又、格別である。 思えば・・互いが1国の主として戦う最初の戦闘じゃ。是が否でも勝利が欲しい!」
「ズンと承知!必ず勝利を得て参る!」
大局から観れば、ほんの些細な ”局地戦”の1つ に過ぎぬかも
知れぬが、劉備側にしてみれば、絶対に負けは許されぬ重大な緒戦と成る。益州に住む全ての者達の注目が、その結果に集まるのだ。特に、どっち着かずの態度を内包して居る大多数の豪族連中は、その結果に因って最終判断を下すに違い無かった。
以後の趨勢・劉備政権の浮沈・蜀国の存亡そのものを決し兼ねぬ重大極まり無い戦闘・・・・その事を一身に背負って、然し平然として、張飛益徳は 勇躍、出陣していった。
一方の張合卩軍・・・・〔徙民〕を主目的とした、この時の兵力は史書に無いが、どうも劉備軍との”本格戦闘”を想定しては居無かった様だ。とは謂え、万は下らなかったと想われる。
さて其の張合卩の行動地域であるが、張合卩伝では
『宕渠まで軍を進めた』 とある。又、張飛伝にはーー
『張合卩は別に諸軍を指揮して巴西を降し、其処の住民を漢中に移住させようとして、宕渠・蒙頭・盪石に軍を進め、張飛と相い対峙すること 50日以上に及んだ。』 とある。ーー更に先主伝にも・・・・
『先主は張飛に命じて、軍を宕渠に進め、張合卩らと瓦口で交戦させ』 とある。
即ち、主戦場となった地点は「×宕渠とうきょ」と謂う事である。
「成都」からは300キロ東の盆地の外れ。漢中の「南鄭」からは、大巴山脈を真南に200キロ越え下って直ぐの地点である。・・・・まあ、常識では戦闘など起きる必然性の全く無い片隅の死角と言える場所。但し地形は複雑で、河と 山隘と 平地とが 幾層にも交差しており、万単位の両軍が一斉大会戦を交えるには
相応しく無い 地点ではあった。 その代わりに、両軍指揮官の作戦能力・部隊展開や運用能力が試される事と成るには違い無かった。
となると、勇猛果敢・猪突猛進を旨とする ( 明ら様に言えば、単細胞?の )
張飛が最も苦手とする戦場と云う事になる。 ーー果して大丈夫
だろうか?『余計な御世話じゃワイ!』・・・・張飛の罵声が飛んで来そうである。
此の217年後半ーー曹操が 冕12旒を冠ぶり、太子を決定した頃の段階では・・・・張合卩の「巴西」に於ける〔徙民計画〕は、もう殆んど完了していた、と観てよいであろう。大巴山脈 越えの
険峻・狭隘ルートを使って、「里」「亭」単位の小集団を、逐次ピストン移送したと想われる。手間は掛かるが護送の為の兵員は少なくて済み、出先に駐屯する本軍の兵力が温存できる。そして、そろそろ引き払おうか・・・・と云う頃であった。
憤怒の形相も凄まじい張飛 率いる精鋭1万の、蜀・正規軍が現われたのである!! 無論、いずれは何等かの”邪魔”が入るだろうとは想定して居た張合卩では在った。何せーー
張合卩と謂えばーーこの後の評価では、
合卩識変数、善処営陣、料戦勢地形、無不如計
自諸葛亮皆憚之。・・・・合卩は変数を識りて、善処に陣を営み、戦勢・地形を料れば、計の如く成らざるは無し。諸葛亮より皆、之を憚る。
以巧変為称。 巧変を以って称せらる。・・・・のであり、
張将軍、国家名将、劉備所憚。
張将軍は国家の名将にして劉備の憚る所なり・・・と成る人物。
当然、事前に地形など詳細に調査済みで、周到な陣営を築いて居た。だから張飛が攻め寄せて来ても、取り立てて慌て騒ぐ事も無く、テキパキと対処の陣立を行い 瓦口がこう(瓦河)を挟んで鉄壁の備えを折り敷いて見せた。
「ウ〜ム、流石である・・・!!」 敵陣の佇まいを一見した張飛、その野生的直感で呻いた。
だが其の一方で、困難さを却って己のエネルギーに変換増幅してしまう、張飛独特の
〔コンデンサー魂〕が、ムクムクと頭を擡げて来る。
「先ずはひと合戦致すのが、武人の礼儀と云うもんじゃ!!
突っ込むぞ!!」 「あ、あの・・・・そ、それは・・・・!!」
言うや大将、敵の備えなぞ物皮、平気の平左で突貫攻撃の先頭に立った。それが張飛流・・・・浅瀬に乗り入れて敵の真正面に突っ込んだ!その突破力の物凄さ!!得物 (蛇矛と云う事にして措こう)を自由自在に振り廻すと、行く手の敵陣はアッと言う間に崩れ去ってゆく。「ウム、流石である!」今度は張合卩が唸る番であった。
然し幾ら何でも、張飛1人の力だけで、敵の険塞が崩壊する筈は無かった。張飛とて、取り合えずは、自軍の勇猛さを 敵兵に見せ付ける為の攻撃であった。 挨拶代わりの、突風の如き大暴れ・猛襲を済ませると、サッと引き上げた。
ーーこうして 攻守両者は、互いに 相手の力量を 実感し合うと、
その後は自ずから、睨み合いの膠着状態に入り込み、何とその対峙の格好は50日以上にも及ぶのであった。
この50日の間に・・・・懸念されて居た南部方面(資中)の反乱と、西の山岳部で 異民族の起こした反乱の 両方ともが、建為太守・
興業将軍の【李厳】の活躍で完全に鎮圧された。首謀者は首を斬られ、残党供は四散し、悉く民籍に戻った。即ち、反乱軍の殆んどは、唆された”普通の農民達”だったのである・・・その御蔭で「成都」にへばり付いて居た劉備には、可也の余裕が生まれた。そこで劉備自身も張飛を後方支援する為に成都を出てその中間点辺りに軍を留め、1部を張飛に増援して遣れる様に成ったのであった。其れに対し張飛は、その間、単純だが猛烈な強襲を屡々敢行して見せた。ーーだが実は、その〔単純な攻撃〕の繰り返しは
諸葛亮から授かっていた”擬態”であったのだ。
対峙 50日以上ともなれば、補給基地を持たぬ 張合卩側には
兵糧の欠乏が生じ始める。撤退するしか道は無くなってゆく。
・・・・その場合、張合卩が撤退作戦を立てる際には、必ず敵将・張飛の性向・個性を重視して、その裏を掻こうとするでろう。事前情報でも、現場での生の観察に於いても、
張飛益徳 と云う武将は・・・・
『勇冠3軍、而為将!』 勇、3軍に冠として将 為たり
『称万人之敵、為世虎臣。』
万人の敵と称せられ 世の虎臣為たり。
『有国士之風』 国士の風有り
・・・・然しながら、その一方で、『暴而無恩、以短取敗。』
暴にして恩無く、短を以って敗を取る・・・・と評される事と成る資質を有する人物で在った。
情報を整理して、一言で謂うならば、
目っ茶苦茶 強いが、短慮・短気の直情型人間
義侠心厚く貫禄十分だが、脳足りんのオッチョコチョイ・・・・ と謂う事になる。兎角、策を弄する様なタイプでは
無いらしい。ーーそこで張合卩は、そんな張飛の性向を利用し、〔裏を掻く撤退作戦〕を立案した。即ち・・・ニセの猛攻撃を仕掛け張飛が釣られて応戦して居る隙に本軍は山裏の間道を使って、大巴山脈の中へ消え失せてしまう・・・・眼晦ましーー
〔トカゲの尻尾切り作戦〕で、まんまと出し抜こうとしたのである。
裏山への正式な登り口は、日頃からピストン移送に使用して来た1本だけで在った。 だが此の際、重装備に拘らず 身軽に成って、輜重を全て遺棄する気にさえ成れば、獣道同然の逃走路は幾筋でも存在した。 だから張合卩は 全軍を小部隊に分割して、隠密
行動を取り易い様にした。但し、山脈の麓に辿り着く迄はクネクネとした山隘を、細長い隊形で進む事になる。その箇所さえ通過すれば、撤退作戦は完了したも同様である。可能で有るなら、時間帯は 夜間が望ましかったが、流石にそれは進路を誤る危険性が高く、不採用とした。
そして其の日(217年の11月頃か?)張合卩は作戦を発動した。
ニセの攻撃は上手上手と功を奏し、張飛は案の定、烈火の如く憤り立つと猛反撃して来た。ーーだが其の時には既に、張合卩本軍は 陣地を離れ、山脈の麓を目指して 間道を北上して居た
のであった。最も懸念された山隘のクネクネ道も無事通過。
先頭を行く張合卩が振り返って観望すると・・・細く縦長に成らざるを得無い地形の為に、後続部隊は山陰に遮断されて視認する事は出来無かった。然し周囲は至って平穏、上空を渡り鳥の列が横切ってゆくだけであった。
「張飛の単細胞め、今頃は 地団太踏んで 口惜しがって居る事でしょうな!」
副官がニンマリと笑い掛けた・・・・と、その時であった。
道の真ん前に、デ〜ンと物の怪が立ち塞がって、カンラ・カラカラと大口を開けて笑って居るではないか!!
おいで、おいで、と 手招きさえして居る。
「ーーな、なに奴じゃ!?」 「ま、まさか!ちょ、ちょ、張飛!?」
そのごつい巨体と爛爛たる眼の輝き・・・・かつて「長阪橋」で一瞥した相手。1度見たら永遠に忘れられ無い極太の風貌と野生!
其れは、間違う事無く、こんな場所に居る筈も無い、張飛益徳で在った。
「待って居たぞ張合卩!よくも俺の縄張りを荒らして呉れたな。
その礼は今、たっぷりと返さして貰うぞ!」
「しまった!キャラを見誤ったか!?」 「ん?どう云うこっちゃ??」
蓋し、用意周到な張合卩だからこその”盲点”で在った。 それは余りにもデータ重視の姿勢の故に、張飛と云う、普通の尺度では収まり切ら無い人物の評価を、固定の観念で捉え過ぎた結果であった。・・・・突然、全山が揺れ出した。斜面と云う斜面から岩石と巨木とが投げ落とされ、ぎゅうぎゅう詰め状態の張合卩軍兵士を押し潰した。大パニックに陥った所へ、今度は強弩の雨が降り注がれ、更に多くの兵士の命を奪う。直後、吶喊の雄叫びと共に満を持して居た張飛軍が雪崩れを打って襲い掛かった・・・・
対するに張合卩軍は、身動き出来ぬ隘路の上で、ただ最前列の張合卩自身が己の武勇のみを恃んで、前方へ前方へと突き進む事しか叶わぬ惨状と成り果てた。縦列隊形で、然も少数単位の編成だった為に、味方同士の連繋なぞは望むらくも無い状態であった・・・・一方的な殺戮戦闘の結果、味方は潰滅・・・・。
張合卩自身も、最後には供廻りの者・僅か10余名だけの敗残と成り果て、命辛々の落ち武者姿。道無き山中を必死に這いずって、辛うじて「南鄭」の城に辿り着く有様であった。
「・・・・何たる体たらく。儂は未だ未だ青二歳に過ぎぬ・・・・。」
ガックリと項垂れる張合卩の慙愧と悔恨と無念ーー
だが其の後に、業卩の曹操から届けられた仕置きは、叱責では無く、栄典であった。『是れ迄の功績に鑑み、汝を盪寇将軍に昇進させる!』 本来の目的であった〔徙民〕の任務は逐次完了させたのであるから、労いこそすれ、局地での1敗なぞは失点評価の対象外としたのである。無論、今後への激励の配慮が大で有る事は、外ならぬ
張合卩自身が 最も痛感して居たーーこの
狭隘な局地での小さい1敗は、張合卩の今後にとっては大きな教訓と成り、やがては”先”の評価を得る基盤に成ったに違い無い。殊に、山岳戦闘が中心の、諸葛亮との死闘に於いてをや・・・・。
大仰に謂えば、劉備は名を高める1勝を得たが、張合卩は実と成る1敗を得た・・・・か?
一方の 張飛・・・・ 美事、周囲の期待に応え、久々に又、男を
上げた。如何に軍師からサデッションを受けたとは謂え、実際に現地で臨機応変に、その戦術を具現して見せたのは、偏に張飛自身の功績である。流石に齢50を過ぎた張飛益徳ーー情を矯め、大局を掴む境地を会得したか??
『曹公は 夏侯淵・張合卩を 漢中に駐屯させ、しばしば 巴 (四川盆地西域の境界を荒し廻らせた。先主は張飛に命じて軍を宕渠に進め張合卩らと瓦口で交戦させ、張合卩を撃破した。張合卩は兵を収めて南鄭に還った。先主も亦、成都に帰還した。』ーー(正史・先主伝)ーー
『張魯は降伏した。太祖は帰還する時、張合卩と夏侯淵らを留め置き、漢中を守備させ、劉備に当らせた。張合卩は 別に諸軍を
指揮し、巴東・巴西の2郡を降し、その住民を漢中に移住させた。宕渠まで軍を進めたが 劉備の将軍・張飛に抵抗され、南鄭に引き返した。盪寇将軍に任命された。』 ーー( 正史・張合卩伝 )ーー
『曹公は張魯を破ると、夏侯淵・張合卩を駐留させて漢川を守備させた。張合卩は別に諸軍を指揮して巴西を降し、其処の住民を 漢中に移住させよう として、宕渠・蒙頭・盪石 に 軍を進め、
張飛と相い対峙すること 50日以上に及んだ。張飛は精鋭1万余人を率いて別の街道から張合卩の軍を迎えて交戦した。山道が狭い為に、張合卩軍は前と後が救け合う事が出来無かった。
かくて張飛は張合卩を撃破した。張合卩は馬を乗り棄てて山伝いに、ただ供廻りの配下10人余りと共に、間道を縫って退却し、軍を引き上げ南鄭に帰ったので、巴地方は平静さを取り戻した。
ーー( 正史・張飛伝 )ーー
この張飛の勇戦の御蔭で、曹魏勢力を、ひと先ずは 漢中盆地の 内側に 押し戻した格好の劉備なのだが・・・・
ここで我々は、改めて認識して置かねばならぬ点が有る。それは漢中を支配して居る曹操軍の”実態”である。ともすると我々は、曹操陣営は恰も漢中盆地の全域を支配して居る様な錯覚を抱きがちなのであるがーー今の時点に於いては、実際には、
単に「南鄭城」に駐留軍が依拠して居るだけなのであり、所謂 〔点の支配〕に過ぎ無かったのである。
張飛の勝利・張合卩の敗退は、その実態を白日の下に曝け出す効果を齎したと言える。曹魏の本軍が業卩に帰還してしまった今もはや 駐留軍だけの力では、蜀本国に対して 打って出て来る
だけの力は無かったのである。・・・・だから敏感なもので、あれ程国内各地に溢れて居た反乱の気配は、この張飛の1勝に拠ってピタリと収まったのである。
但し曹操は此の漢中への後方支援を兼ねて、関中の「長安」には”それなりの軍事力”を控えさせては居た模様である。『魏略』にチョット気になる記述が載っている・・・・
『二十二年(217年)になって、太祖は漢中を陥れ諸軍を長安まで帰還させるとそのまま太原の烏丸王・魯昔を留め置き、池陽(長安の直ぐ北)に駐屯させて、盧水からの侵入に備えさせた。』 とあり、寧ろ兵力的には、「南鄭軍」 よりも 「長安軍」 の方に、より重きを置いて居た雰囲気が伝わる・・・・出涸らしの”鶏ガラ”と成った「漢中」よりも実入り良好な「関中」の方を重大視して居るかの如し。
その情勢を観た軍師の法正劉備の前に進み出て言った。〔蜀の逆襲〕・反転攻勢は、全て 彼の 此の
言葉から始まるのである。
「曹操は1度の行動で張魯を降し、漢中を平定した にも関わらず其の勢いに乗って
巴・蜀 を手中に収めようとはせず、夏侯淵と張合卩を駐屯・守備させて、自身は慌しく
北方へ帰還しました。
是れは 彼の智謀が及ばず、力量が不足した為ではありませぬ。その真因は、必ずや内部に差し迫った心配事が在るからに相違ありませぬ。」
曹魏が国内に抱える〔緊急の懸念〕・・・・この法正の推測は、全く的を射た判断であった事は、爾後の展開が実証する事と成る。
「今、夏侯淵・張合卩の才略を推し量りますに、国家の将帥を担う
には足りません。今、我が軍勢が挙って討伐に赴いたならば、
必ずや勝利を得る事が出来ましょう。」
勇猛とは雖も、その一方では 『白地将軍』 と 揶揄されても居る
【夏侯淵】・・・・真っ正面からの大会戦や追撃戦には強いかも知れぬが、同時多発的な 全面戦争の状況を仕掛ければ、それを総合的に統帥・司令する能力には欠けて居る・・・・こちらが広域多岐に渡る戦場を構築して
攪乱すれば、 彼は 右顧左眄・右往左往して、結局は敗退に追い込まれるであろう。
「之に勝った後、農業を拡げ穀物を蓄積して、〔隙を窺い〕ます。
上手くゆけば、仇敵を覆して 王室を尊崇する事が出来、
普通でも、雍州・涼州を侵食し 領土を拡大する事が出来、
上手くゆかなくても、要害を固く守って、
〔持久の計〕を取る事が出来ます。」
漢中を奪取し、確保できたなら、【蜀の未来】は大きく開ける。
最低でも→漢中盆地を天然の要害・バッファゾーンとして利用し本国は安心して国力の充実に専念できるであろう。
まあまあでも→漢中を出撃基地として、長安以西に広がる奥地を併呑して、曹魏と互角に対峙する事が可能と成るであろう。
最高の進展なら→長安から東へと進攻し、孫呉を中心とした他の勢力と連繋する事に拠って曹魏を挟撃し、終には形勢逆転。漢王室を奉戴して、天下に覇を唱える事が出来るであろう。
之は、老臣【黄権】が逸早く開陳していた〔漢中への基本認識〕と通ずる大戦略構想であった。
「思うに是れは、天が我に与え賜うた 好機です。
機会を失ってはなりません!!」
是れまで丸2年の間、只管に隠忍自重の姿勢でジッと力を矯め、雌伏して居た劉備玄徳・・・・この217年で既に57歳
曹操よりは6歳若いとは雖え《人生の晩年期》を迎えて居る事は確実であった。前半生の如き「のらりくらり」のダメ男風の姿勢はもはや通用しなく成って居た。
「未だ明日が有るさ!」 と言い続けて40年近くーー青雲の志を抱いて故郷を出たのが20歳の時。関羽・張飛の 義兄弟と共に
天下相手の大放浪を繰り返し、諸葛亮との邂逅を経て、ようやく辿り着いた此の益州の大地である。多くの者達の犠牲を元に、艱難辛苦を乗り越えてやっと掴んだ”蜀の国”である。失う訳にはゆかぬ。 奪い取ろうとする者は撃退し、この手で掴んだ聖域は、この手で守り通すのだ!!
「・・・・善し、やろう!!」
決断を下すのに逡巡する年齢では無く成って居た。
そこで劉備は先ず【張飛】と【馬超】に「下弁」を占拠せよ!と命じた。無論その戦略・戦術の全ては、軍師・【法正】の策謀に従ったものである。【呉蘭】・【雷銅】の両将軍も加えられた。
ーー思えば【馬超】こそは・・・・その下弁=(武都郡)一帯を己のグランドとして、つい先年まで暴れまくって居た”主人公”で在ったのだ。其処に依拠した事さえ有り、顔見知りの部族長達も居る。又、一時は張魯の元に身を寄せ、漢中 (南鄭城) を棲家とした事さえ在ったのだから、正に其の一帯は、勝手知ったる昔の我が家同然だった。現地での威名も断然、張飛を凌ぎ、実績を持つ馬超のもので有ろう。道案内人など無用、地の利を全て知り尽くした最適任と謂えた。だから、この進撃は必ず成功するであろう・・・・
兎にも角にも、『曹操の版図を奪い取った!』 と謂う名を天下に
掲げる為に動くのである。まさに曹操が冕12旒を戴冠した、そのタイミングを狙っての政治戦略と謂えよう。曹操への反感・反発が強まる中、逆に劉備の行動は称讃される構図と成り、『乗っ取り』の事実も帳消しと成る。無論、軍事的にも、曹操側に”探りを入れる”効果が在った。この挑戦的な侵略行為に対して、果して現地司令官の【夏侯淵】は、如何なる動きを見せるのか!?はた又、【曹操】自身は、如何なる対応を見せるのか!?
いずれにせよ、蜀の劉備には、避けて通れぬ、必然の選択であり、唯一の決断を下したのである・・・!!
果して、張飛・馬超らの進攻軍団は、法正の予想した通り、途中で何等の反撃に遭遇する事も無く「白水」→「関城」を通過。問題の「陽平関」にすら人影無く、すんなりと北上を続行。何と1度の戦闘も無い儘に、目標の
「下弁」 迄を一気に 500キロ、美事、遠征・制覇して見せたのである!!
歓びに湧く「成都」城内・・・・軍師・法正の鋭い戦局眼であった。
張飛・馬超らの快進撃を迎えた現地の諸部族は、一向に反撃の気配を見せぬ夏侯淵(魏の駐留軍)を弱体と観て、コロリと蜀側に寝返り、氏てい・雷定などの7部族1万余の部落が一斉に呼応、蜀への協力を誓ったのである。今日は蜀、昨日は魏、そして明日は又、明日・・・風向き・日和を観るしかない現地山間の部落の民。
矢張り、曹魏の 〔駐留軍〕 だけでは、阻止行動を実行する力は無いのか!?果また、この劉備軍の進撃ルートの”意図”が解らずに、軽挙盲動を抑えて様子を窺って居るだけなのか!?
いずれにせよ、漢中に入り込んで来た蜀軍に対して、即応する
だけの兵力は所有して居無い・・・・その事だけはハッキリと確認し得たのである。そして第一段階の戦略目的であるプロパガンダ『劉備軍が漢中に進出!』と謂う、天下へ向けての《名目獲得》に成功したのである。・・・・次は、いよいよ現実に漢中を奪取する。瞬時に達成するのは難しかろうが、兵站線の有利さから謂っても可能であろう。神出鬼没の陽動作戦を駆使して敵を翻弄、散々に振り廻して疲弊させ、焦らせて追い詰めてゆく・・・・
「殿ご自身が出陣するべき時が来た様です!!
私も、お供致します。」
年は改まり、218年 (建安23年) の正月、遂に軍師の
法正は曹魏との全面戦争・漢中奪取作戦 を
進言した。ーー劉備自身が漢中に陣取った!・・・・その事実こそが肝要であった。磐石最強だと思われる曹操に向って、実際に攻勢を仕掛ける者が存在する事を、天下に示すのだ!!
その衝撃は、予想も着かぬ様な甚大な波及効果を、全国各地に与え、反・曹操派を勢い付けさせるであろう。
《劉備の蜀は、それ程までに強い国と成って居るのだ!!》
《漢室簒奪を狙う逆賊・曹操も矢張り、磐石では無かったのだ!》
《我々が起つべき好機到来じゃ!!》
もし、全土で叛乱が起きれば、曹操の軍団は分散され、漢中への集中攻撃は不可能と成り、その情勢は蜀に有利を齎し、勝利は一層確実なものと成るであろう。
天下の世論を味方に付ける・・・・それが劉備最大の武器である。其れこそが、劉備玄徳と云う人物の財産・資業ではないか!?
「兵員も輜重も、全ての準備は整って居りまる。後は唯、殿の御命令を待つだけに御座います。」
先任の軍師将軍・諸葛亮が、後顧の憂い無き事を告げた。
「内に孔明、外に孝直。天下の大軍師を2人も同時に抱えるとは儂は真に果報者じゃのう〜!」
劉備は 頼もし気に、2人のブレーンを交互に凝視めた。
『先主外出。亮 常鎮守成都。足食足兵。』
先主の外に出ずるや 亮 常に成都を鎮守し 食を足し兵を足す。
諸葛亮孔明37歳、法正孝直43歳。この2年後に、45歳の若さで法正が(曹操と同じ年に)病没する迄の間、諸葛亮は専ら内政の整備充実に務める。ーー即ち、劉備が曹操との死闘を演ずる期間の全ては、この 法正こそが戦闘の軍師を果すのであり、諸葛亮の統帥が示されるのは 〔曹操死後の事〕なのである。
※勿論、『三国志演義』では、諸葛孔明を ヒーローとするが、全くの虚構である。
『23年。先主率諸将進兵漢中。』
218年、先主 諸将を率い、兵を 漢中に進む。
【趙雲】・【黄忠】を筆頭に、【魏延】・【馬謖】・【劉封】【李厳】・【呉壱】・【楊儀】、そして謎多き【陳到】ら、全軍フルパワーの出撃であった!!・・・今し、明日の栄光を信ずる誰の顔にも、必勝の気概と勇気が凛々と溢れ輝いて居るーー
だが思えば、是れは、劉備にとっては 人生初の攻勢であり、又
同時に、蜀の国にとっても 史上初の、他国への進攻・侵略戦争の端緒と成るのであった。 それは同時に又、この後に続く、長く
険しい 戦いの日々の始まりを”覚悟した瞬間”でも有ったのだ。
そして・・・遂に此処に、
蜀の逆襲・魏蜀対決・・・・ーー即ちーー
3国激突の火蓋が
切って落とされたのである!!
その報せを業卩で受けた魏王・曹操。直ちに即応の体勢を整え手元の26軍・全40万の大軍団を送り込む・・・かと想われたのだがーー
正に此の218年正月、献帝の居る 許都 で
〔トンデモナイ事態〕が 勃発したのである!!
情を矯め、その機会を窺って居た”]”等が、
劉備の進撃に呼応するかのタイミングで、
逆賊・曹魏の転覆を狙った
大叛乱を起こしたのである!!
【第214節】”]”の叛乱・許都 (大医令・吉本の乱)→へ