【第211節】
緒戦優位な立場に在った孫権が、
何故
ここで突如、魏に降伏を申し込んだのか??
この節では、その真因に迫り、その後に孫呉が選ぶ、狡猾な 生き残り戦略の原点を、明らかにしたいと思う。蓋し 其の「新戦略」は・・・〔2対1〕を以って【呉・蜀同盟】が【魏】に対抗する所謂
三国鼎立の根本基軸に〔捩じれ現象〕を齎すものと成る。
因みに魯粛の死を最も哀しんだのは、呉の孫権であったが
魯粛の死を最も重大に捉えたのは、蜀の諸葛亮であった事が史書の行間から窺える・・・・『魯粛は 歳46で 建安22年に死去した。孫権は魯粛の為に哭礼を行ない、また其の葬儀に 親しく臨席した。 諸葛亮も 亦、彼の為に
喪に服した。』←(正史・魯粛伝)
鑑みるに、この《魯粛の急死》を、斯様に大きく取り上げる書物は嘗て存在して来無かった。そもそもこの時点に於ける〔呉国の動向〕に関心を寄せる事自体が殆んど稀であるーーだが本書は敢えてこの魯粛の死を、【三国志のターニングPOINT】として扱いたい。・・・・何故なら、この魯粛こそはーー
呉蜀友好軍事同盟の産みの親で在り、そして何よりも
〔天下三分の計〕の発案・推進者で在ったからである。
中就、「荊州」を巡る 両国の微妙で緊迫した関係を、常に
「まあ、まあ」と仲裁し双方の軍事衝突を頑として阻止し続け、曲りなりにも呉・蜀の友好同盟を維持して来れたのも、偏に、この魯粛の存在が有ったればこそで在った。 実際、是れ迄にも、小規模な軍事衝突は多発していたし、2年前には、あわや全面衝突の瀬戸際にまで険悪化した呉と蜀の同盟を(人の好い程迄に)
妥協・隠忍自重させ、かろうじて存続させて来た最大で唯一の功労者で在った。・・・・だが、その魯粛亡き今、
彼に代わって〔其の方針〕を引き継ぎ、
推進しようと云う者は 皆無となったのである。元々魯粛の、その 一見 ”弱腰な姿勢”は、呉国内でも 少数派であり、寧ろ孤立したものであった。魯粛を支援するのは唯、君主・孫堅1人であったとも謂えた。・・・・而して今、その孫権自身が、蜀との同盟に大いなる疑問を感じ始めて居たのである。
《・・・・一体、この同盟にメリットが在ったのか?一方的に得をした
のは常に劉備側であり、呉は何時も、トバッチリを被ってばかり
では無かったのか??》
そう思って観るとーー曹操の攻撃に曝されて居るのは何時も呉ばかりであり、劉備が曹操に攻められた事は、唯の1度も無かったではないか!?
緒戦の勝利を得て、溜飲を下げた孫権だったが、実は未だ、曹操の腹の裡 を 読み切れずに居たのである。
「フン、曹操のジジイめ、この儂を脅しに来たか!?」
情報では”物見遊山”の気配も濃厚であると謂うではないか??然も今回は、今迄の「合肥城」を使用せずに、初めて「居巣」に本営を定めたと謂うではないか!?一体、それは何を意味するのか??
《・・・・老い耄れ爺ジイめ、一体、何処まで本気なのだ!?》
その100万と号する軍団の麾下には、実数で全30軍・40万の大兵力を率いて居る。之は 大いなる脅威であった。14年前の
赤壁戦の時に匹敵する未曽有の大軍団である。いや寧ろ、其れ以上の実戦力である。・・・・だが其の一方で、夫人や側室・息子達の妻妾まで全て引き連れて来ても居ると云うではないか??そして其の女達を帰す事もせず、故郷の言焦に待機させた儘の状態で在ると謂う・・・・半年以上も待たせて置く筈は無い。
とすれば、〔長期の戦闘〕を念頭には置いて居無い事になる。
だから何時も通りに此の農閑期の冬場を選んで遣って来たのだ種蒔き時期迄には引き返す腹心算なのであろう。第一、曹操の抱える戦線は、此処1つだけでは無いのだ。
「漢中」では、【劉備との攻防戦】が勃発するのは必至の状況の上、「荊州」でも何時【関羽】が北上を開始するか判らぬ時局に在るのだった。
《ーーどう観ても、長期戦は仕掛けられぬな・・・・》
では本気で〔短期決戦〕を挑んで来るのか!?
《大出血覚悟で 短期決戦を挑み、一気に決着をつける腹心算
なのか!?・・・だが然し、此方が其の手に乗らず、いざと成れば濡須塢の1つや2つは放棄して、我が軍を長江の南に、全て引き上げて対峙したら・・・それでも江東に攻め入って来る決意と備えが有るのか!?》
いや、その故郷でのハシャギぶりから観ても、其処までの覚悟は有るまい。そもそも魏軍には其れだけの”艦船”が無い。水軍力だけであれば断然、呉軍が優勢である。周瑜が創設して呉れた呉軍艦隊は、3国最強で有る事は、曹操も 〔赤壁戦〕で 嫌と謂う程に思い知らされて居る筈だ。即ちーー周瑜は其の遺言の通り、死して尚、呉の守り神として、その姿を水軍に変えて今も此うして祖国を
敵の侵入から守って居て呉れるのだ。
《それでは何故、その事が判って居るのに、敢えて曹操は 呉
ばかりを狙って来るのか!?》そう思う孫権、ハタと思い至った。
ーー関羽だ!!関羽の存在だ!!・・・・
曹操は、関羽を恐れて、本来なら真っ先に攻め取るべき 荊州を2の次にして、此方の呉側ばかりを攻めて来ているのだ!
世の人々は押並べて、関羽が劉備の家臣だと信じて居るし、又、その関羽自身が最も強く主従の関係を大切にして居た。 だが、
そんな天下の中で唯1人・・・・曹操だけは、
関羽は独りの君主である!!
と、高く評価して居るのに違い無い。
そう思えば・・・確かに関羽は、荊州と云う国家を有する、独立した君主同然で在り、また其の実力を具えて居る。 既に6年近くも、
益州の劉備とは 直接の関係も無い儘に、唯独りで其の版図を
維持して来て居るではないか!!
曹操は嘗て、関羽と云う人物を間近で観、その超人的な武勇を肌に感じて来て居る。だからこそ猶の事、関羽との激突を回避し続けて居るのだ!!そして其の反対に、呉は 丁度 手頃な当面のケンカ相手として軽く観て居る・・・
《呉の諸将は、老い耄れめにナメられて居るのだ!!》
そう思い至ると、同盟者で在る筈の関羽の存在が、何とも妬ましく 疎ましい。だが今更、此処で繰り言を漏らして居ても、何の足しにも成らぬ。
《何処まで老い耄れの気持は本気なのか?脅しだけなのか!》
《ひょっとすると、曹操は今でも、関羽を自分の部将にしたい!!
と、強く思って居るのかも知れん・・・・。》
而して、その〔関羽脅威論!〕を孫権以上に肌に感じて居る人物が在った。他ならぬ呂蒙である。歴代大都督の駐屯地は、関羽と直接に領土を接する「荊州」と決まっていた。ーー即ち、
歴代の都督は、常に関羽を意識・警戒して来て居た訳であった。
呉軍の新都督・【呂蒙】・・・・是れ迄も漠然と、個人としては、今後の祖国の行く末を考え続けて来ては居た。
だが 然し、今や 故国の命運を直接に担う大都督として、明確な〔生き残り戦略〕を 君主に言上する立場と成ったのだ。而して・・・
〔甘寧の夜襲〕・〔呂蒙の先制攻撃〕と、緒戦を優位な裡に迎えた濡須の孫呉軍で在ったが・・・・其れから、ものの10日余りーー
第2次濡須戦役の様相は、ガラリと一変していた。態勢を
整え直した曹魏軍40万は、ひしひしと彼我の間合いを詰め、既に現在では・・・濡須塢の周囲は見渡す限りに、
魏の大軍団に包囲され尽くして居たのであった!
「矢張、あの程度の攻撃では曹操には痛くも痒くも無かったか?」
孫権、塢の城壁に片足を掛け、敵の布陣を見下ろしつつ言った
「1時的な勝利なら今後も可能ですが、残念ながら今の我が国の力では、とても、まともには戦い切れぬ相手と申せましょう。」
半歩後で、呂蒙は率直に感想を述べた。
※畢竟、此処で問題に成るのは・・・・魏・呉・蜀3国の所謂総合的な〔国力〕の大小・比較(論)である。古来より多くの学者・研究史家が、様々な視点・観点から、この点を論じ検証して来ている。 蓋し、何分にも2千年も昔の事ゆえ、いずれも推測に過ぎぬのは
致仕方の無い処ではある。最も一般的な推測の方法は、農業生産力(石高)をベースにして、其処から兵士1人当りの維持能力(兵力)を割り出す方法である。その場合、当然その算出基盤は、各国の「保有人口」に依拠する。本節では其の諸説を論ずる事が目的では無いので、詳しい内容は後の機会に譲るが、現代では最も有力と見做されている数値だけを照会して措くと・・・・大凡そ魏→10 vs 呉→4〜3 vs 蜀→2〜1位だろうと謂われる。いずれにせよ、3国の中では【魏】が飛び抜けて巨大で在った事には異論が無い処である。然し、この数値には微妙な誤差を含み、その時局に応じて1〜2ポイントの変動を伴うものと観て措くのが妥当ではあろう。そして其の1〜2ポイントの出入りの差の殆んどは、「荊州」を誰が所有するか!?に懸かっているのである。現時点では、【関羽】が主要地域を牛耳って居る。
「どうしたら善い?」
孫権は尚も視界一杯の敵影を凝視したまま訊ねた。
「ーー”和睦”・・・・しか、在りませぬでしょうな。」
「曹操め、和睦に応ずるか?」
「対等な和睦は無理で御座いましょう。」
「ーーでは、いっそ、”降伏”して見せてやるか・・・・。」
「其れは、都督たる私からは、口が裂けても言えぬ禁句で御座います。」
「大都督は言えずとも、君主が言うなら良かろうサ。」
「恥を忍ばれますか?」
「恥でも有るまい。実力が対等なら恥にも成ろうが、この現状では
寧ろ、賢明なる英断とも謂えるやも知れぬぞ。」
「その御覚悟が御有りなら、対陣が膠着している今こそが絶好の
機会と申せましょう。双方に甚大な実害が出ぬ裡に動かれます
様に・・・・。」
「よし、では、事は内密に素早く運ぼう。結果的に曹操が引き上げれば、誰にも文句は無かろう。途中の経緯を知る者は重臣だけでよい。将軍連中への説明の方は、お前に頼む。・・・・虚勢より実を取ろう!」
「恐らく一番喜ぶのは曹操自身で御座いましょう。どう観ても最初
から本気だとは思えませぬ。きっと、撤退の口実を探して居る
最中でしょう程に。」
孫権と呂蒙は城壁から下りると、2人だけで作戦室に籠った。
「今更ながらに申す迄も無い事だが・・・・」
孫権は後ろ手に室内を歩き廻りながら言った。
「儂が降伏して見せるのは、単に一時凌ぎの急場の策では無い」
「無論、承知致して居りまするとも。私とて其の心算が在ればこその進言で御座います。」
「では互いに何を考えて居るのか?ひとつ此処で種明かしと参ろうぞ。」 言うと孫権、文机に向かいサラサラと何やら書き付けた。
「お前も書いてみよ。書いたら2人同時に見せ合おう。」
「承知。面白き趣向で御座いますな。」
呂蒙もスラスラと2文字を書くと、「では!」と互いに眼の前に差し出した。
孫権の筆には〔関羽〕と有り、呂蒙には〔荊州〕と有った。
「ーー矢張り、同じで在ったか・・・・!」 「同じで御座いますな!」
其れが何を意味し、近い将来に何が起ころうとして居るのか!?
君主孫権 と 3代目大都督の二人は、互いに深く頷き合った・・・
「蜀」にとっては実に剣呑な話であるがーー
孫呉が、曹魏の巨大圧力を交して、シタタカに生き残る為には、
関羽を屠り、
荊州全土を手中に収める!!
その同盟相手を裏切る”狡猾”或いは自己中心の策謀が今、密かにその第1歩を踏み出そうとして居たのである・・・・。
そして其れが、君主孫権と大都督・呂蒙とが一致して目指す呉国最大の緊急課題と成ってゆくのであった。
だから其の目的の為と在らば、曹操に頭を下げても見せよう。
家来にでも成って見せよう・・・・究極の”実”を取れるなら一時の
”恥”なぞ幾等でも掻いて見せようーー
良く謂えば「柔軟」、悪く謂えば「狡すい」姿勢で自国の存続を達成する・・・・【魏】と【蜀】に対決を強い、【呉】は其の両者の間で日和を見ながら3国のバランスを保ってゆくーー
名付けて〔鵺ぬえ戦略〕!の発動であった のである・・・
この5年後 (時局は大きく変ってはいるのだが)、魏に派遣された使者の
「趙咨」は魏帝の質問に答えて、呉王・孫権の主君ぶりについて剛胆・倣岸にも、こう開陳する。
「魯粛を平民の間から取り立てた。是れが呉王の聡です。
呂蒙を兵士達の間から抜擢した。是れが呉王の明です。
于禁を捕えながら殺さずに釈放した。是れが呉王の仁です。
荊州を手に入れる時、無血で達成した。是れが呉王の智です。
3州に拠り、虎視眈々と天下を窺って居る。是れが呉王の雄です。
身を屈して陛下に臣事して居ますが、是れが呉王の略なので
御座います。」・・・・・・
使者には【徐詳】が選ばれた。 この人物は、本書では
初めての登場であるが中々の人物で、「胡綜」「是儀」とのトリオで、次の時代を担う重臣の若き姿である。この次世代3ブレーンの内、
徐詳だけには 正式な 「伝」 が立てられて居無い のだが、 最終的には 〔領軍将軍〕・
〔侍中〕・〔偏将軍〕・初代〔節度〕に任じられる。いずれ此の3人の事蹟については詳しく語る事となるが、今は簡略に『正史』の陳寿評の照会だけに留めて措く。
『徐詳は字を子明と言い、呉郡・烏程の人である。胡綜よりも先に死んだ。評に謂う・・・・是儀・徐詳・胡綜は共に孫権の治世に在って、国家経営に大きな業績を残した者達である。是儀は清潔で恭しみ深い行動を取り、正しい道を守って質素であり、徐詳は屡々使者に遣わされて其の役目を立派に果し胡綜は 文才と実務の才とを兼ね備え、夫れ夫れに 孫権の信任を受けた。 もし
大きな
建物に 喩えるならば、彼等は正に垂木と成って主君を補佐したのである。』
こんな重大な使者の往還であるからには、せめて『補注』にでも其の書簡の内容を採録して有って欲しいものだが・・・・何故か、その欠片すらも残存して居無い。まあ、どんな場面であれ、現物が伝わる筈は無いのだが。
いずれにせよ、曹操にとっては願ったり叶ったりの〔渡りに船〕のタイミングであったーその事だけは間違い無かった。だから・・・・
曹公は返礼の使者を遣って好を修し、誓約を交わし、重ねて婚姻関係を固めた・・・・のであり、
そこで曹公は軍を纏めて退却した・・・・のであり、
北軍は1ヶ月余り軍を留めた後、サッサと引き上げて行った・・・・のである。そしてーー
217年建安22年の3月、魏王は軍を率いて帰途に着き夏侯惇・曹仁・張遼らを残して居巣に駐屯させた・・・・のである。
だが、この表面上の動きだけを記して一件落着!・・・・とするのでは、余りにも浅薄の謗りを免れ得まい。必ずや”密約”が在ったと観るべきであろう。そして、其れが明らかに成るのは程無くの事である。
「フフ、小僧めも、どうやら”小僧”では無く成って来た様じゃな。」
曹操が孫権を屡々「小僧」「小童」と呼ぶのには訳が有った。単に年齢差を指しているだけでは無く、嘗て孫策時代に両者が一時的に友好条約を結んだ際、当時9歳だった孫権は、弟らと共に「許」まで接待旅行に招かれ、曹操のオジサンに遊んで貰った上、御土産をドッサリ頂戴したのだ。その時のガキンチョの面影が、曹操には残って居るのだった。ちなみに今は・・・・曹操63歳、孫権は36歳である。曹丕が31歳なのだから、曹操にしてみれば矢張り、孫権は「小僧っ子」に過ぎぬのである。
「老い耄れめ、長生き出来るのは 此方の方じゃぞ。」
果して其の密約とは一体、何か!?
衝撃の史実は、
今 将に始まらんとしている!!
処で此処に、大都督3代目の”人選”に関する 裏話し が在る。 呂蒙以外にも 候補者は在ったのである。 と 謂うよりも、
誰しもが予想する人物が居た。孫策の時代から名士層の頂点に立ち続け、 国の内外に 絶大な影響力を有する男。
特に内政・
治世に関しては、彼の存在無くして呉の現在は考えられぬ程の功臣・重鎮。62歳と、些か年齢的には問題は有るものの、孫権自身もが一目置く大名士・・・・そう、【張昭】である。
然し孫権は、この、より対外的な統帥を司る大都督の任命劇に関しては、この張昭を一顧だにする事は無かった。理由は 先ず
その軍事司令官としての経験の無さであった。生粋の学者で在った彼が、孫策の五顧の礼に応じて出仕した時は既に40歳を越えていた。爾来一貫して内政の充実と強化に貢献して来て居たのである。軍が遠征する場合も、留守居役として専ら守りを固めるのが常であり、出陣したのは生涯でも2、3に過ぎぬ。
だが最大で真の理由は・・・・先代 (兄・孫策)や 母親 (呉夫人)から
後見を託された故を以って、年がら年中、厳格な態度を崩さずに諫言・苦言ばかりを述べ立て、孫権自身にしてみれば、煙たくて仕方の無い、この大名士への、唯一の撃退材料・・・・即ち、赤壁戦直前に「降伏すべきである!」と主張した、その態度に対する〔意趣返し〕であった。この事については陳寿も”評”の中で、
『張昭は 孫策の遺嘱を受けて孫権の補佐に当り、勲功を立派に立てる事が出来、 真心を以って直言をし、 正しい道を守って、
全てに渡り己の為を計ったりする事が無かった。ただ其の厳格な態度から孫権に煙たがられ、高く持した行動から疎遠に扱われて宰相に任ぜられる事が無かっただけでなく、師保の役に付けられる事も無く、裏長屋で閑暇がちな晩年を送った。
張昭に対する、こうした処遇から、孫権が孫策に及ば無かった事が明瞭になるのである。』・・・・と認めて居る。
もう1人の候補者は、大方の予想外の人物であった。
その名を【厳o】と言った。徐州・彭城の出身であったが、戦乱を避けて江東に移住した 「北来名士」
の1人。諸葛瑾や 歩シツに並ぶ名声を得、3人は互いに親しい交わりを結んだ・・・・と謂うのだから年齢は多分40代半ばであったろう。その性格は実直で、一途に思い遣り深く、見所の有る人物に対しては、真心を以って忠告し、良い導き手と成って、ひたすら其の人物が進歩する様に心を尽くした。同郷の大先輩に当る張昭が推挙し、孫権は彼を〔騎都尉〕〔従事中郎〕に任じていた。→『横江将軍の魯粛が死去すると、孫権は、厳oに魯粛の跡を継がせ、1万の兵を統率して陸口に駐屯して其の守りに当らせようとした。』
周囲の者達は其の大抜擢を喜んだ。が、然し 厳o自身は幾度も
固辞して、決して任官に応じようとはし無かったのである。
「私は山出しの書生で軍事には全く疎い者です。才能も無いのに重要な地位に就けば、必ずや咎めと後悔を招く事に成るに違い御座いません!」
その固辞の言葉は激昂し、涙まで流す有様であった。そこで孫権は已むを得ず、その辞退を許した。世間の人々は、彼が自分の能力を弁えて官位を譲った事を美談だと称讃した。尚この厳oはやがて使者として蜀に赴くが諸葛亮は彼を極めて高く評価する。
そして最後には 〔尚書令〕にまで昇進するのではある。・・・そして
最終的に任命された この【呂蒙子明】ー→やがて、その智謀によって天下の名将「関羽」を捕え終に 其の命を 絶つ 人物となる・・・・。
『勇ニシテ 謀断ぼうだん有リ、軍計ヲ 識ル。 赤卩普かくふヲ譎あざむキ
関羽ヲ禽とらウルハ、最モ其ノ 妙ナル者ナリ。』 ーー(正史・陳寿評)ーー
無論、その裏では、
孫権との主従阿吽の呼吸が 果されていた。
ーーと以上、なぜ戦況優位だった
孫権が突如、降伏を申し出たのか!? について、その背景及び理由を観て来たのであるが・・・では一体、こんな
大それた決断を 臆面も無く実行した孫権は、その後の始末を、
どう着けたのか?その事後が気になる所である。果して『正史』は如何なる騒動を記しているかを見て措こう。さぞかし諸将は皆、悔し涙に暮れ、悲憤慷慨して居たに違い無い・・・と思いきや
・・・デアル。 『呉主 (孫権) 伝』は 又々、トンデモナイ事を堂々と記しているのである!?
『建安22年の春、 孫権は都尉の徐詳に命じ、曹公の元に行って
降伏を申し入れさせた。 曹公は 返礼の使者を遣って好を修し、
誓約を交わし、重ねて婚姻関係を固めた。
建安23年10月、孫権は呉郡に行く途上、陵亭に於いて、自から騎馬で先頭に立って虎狩りを行なった。虎が孫権の乗馬を傷付け、孫権は双戟を投げつけた。虎が後ずさりして動け無くなった所を、従者の張世が戈を打ち込んで捕えた。
建安24年〜〜』・・・・ん?んんん!!・・・・何じゃコリャあ〜!?
ト、トラ、虎狩りの事だけでは無いか?
「そんな何うでもイイこと書くな〜っ!!書くなら、もっと重大な事が外に在る筈だろうが〜ッ!?」と怒りたく 成る。ったく、ぷんぷん!!
だが然し、頭を冷やしてジックリと読み返して見ると、この怒りは
早トチリの、無粋で低俗な読み方で有る事を自戒させられるのである。ーー実は、此の陳寿の筆使いは・・・・紀伝体にメリハリを付ける為の、中々に心憎い演出である事に気が付く。→
「降伏」がフォルテシモの驚愕であるとするなら、「虎狩り」は対局のピアニシモである。そして其のピアニシモの直後に再び又、更なる激越な大事件を持って来る・・・・のである!! 短文を重ねて綴る「紀伝体」の文章にも、テンションの高低を付け、事の軽重の味付けを織り込んで居るのである。即ち、「降伏」と謂う大事件の後に、ノホホンとした「虎狩り三昧」を書いて措く事により、次の重大事件が、如何にポーカーフェイスの裡に、着々と進められて居たかを強烈に読者にアピールする訳である。
問題は虎狩り翌年の〔某重大事件〕であるがーー
この後第15章迄暫しの間呉の動きは本書から姿を消す事となる。だが実際には斯くの如く、至って不穏な策謀 を果さんが為に、深く静かに着々と、
孫呉は其の準備を推め続けて居るのである・・・・
心せよ!この後の3国 夫夫の展開は、常に同時に並行して進み、然も互いに互いを牽制し合い乍ら、時には味方同士と成りまた時には激突し合いつつ、複雑に絡み合い、腹を探り合っては進んでゆくのだ。
1対1の世界には留まらず、1対1対1で在ったり1対2とも成り、2対1に変化したりの累乗世界なのである・・・・・【第212節】 魏国、太子公表!(3国争覇の継承)→へ