【第210節】
スピリッツは五分と五分、
今度は呂蒙が牙を剥く!!
と、その前に 〔甘寧の夜襲!〕 について、フィクションでは無い史書の記述を キッチリと観て措こう。
ーー先ずは『正史・甘寧伝』 の記述・・・・・
『のちに 曹公が濡須へ軍を進めて来ると、甘寧は 前部督と成り、勅命を受けて
敵の先鋒の陣営に攻撃を掛ける事となった。
その出撃に際し、孫権が特別に米と酒と様々な御馳走を下賜すると、甘寧は其れを料理して 配下の百余人に 食事を与えた。 食事が終わると 甘寧は、先ず銀盃に酒を酌んで自ずからが2杯飲むと、今度は配下の都督に酌をして与えた。都督は床に突っ伏した儘、直ぐに其れを受け取ろうとは仕無かった。するや甘寧は、抜き身の刀を手に取って膝の上に置くと、怒鳴り付けて言った。
「お前が陛下から大切にされて居るのと、この私が大切にされて居るのと一体
どちらが勝ると謂うのか。その私が命を惜しみもせぬのに、お前だけが何で命を惜しんだりするのだ。」
都督は、甘寧の厳しい顔付を見ると直ぐさま身を起こし、礼拝して酒を受け取り、兵士達の全てに各々銀盃に1杯ずつ酒を酌して廻った。
2更に成ると、枚ばいを銜ふくんで出発し、敵に襲撃を掛けた。 敵は驚き慌てて 其のまま退却した。
甘寧は益々重んぜられる様に成り、配下に兵士2千人を加えられた。』
残る1つは『江表伝』の記述・・・・『曹公は濡須へ兵を進めて来ると、
『歩兵と騎兵40万でもって長江まで出て、其処で馬に水を飲ませるのだ!』と呼号した
孫権は軍勢7万を指揮して之に対抗し、甘寧には3千人を預けて前部督と成らせた。
孫権は 密かに 甘寧に、『夜陰に乗じて、魏の軍に攻め込む様に!』 と 命じた。
甘寧は命令を受けると、配下の勇猛な兵士100人余りを選んで真っ直ぐ 曹公の軍営間近まで突入した。鹿角さかもぎを引き抜き、堡塁を乗り越えて 陣屋の中に入ると、数十の首級を斬った。
北軍は驚き慌て太鼓を打って騒ぎ立て、赤々と火が灯されたが、その時には既に、甘寧は自軍の陣営に戻って居り、笛や太鼓を鳴らして、万歳を叫んだ。
そのまま孫権に目通りすると、孫権は喜んで言った。
「老子めを驚かせてやる事が出来たわい。一先ず、貴方の肝っ玉を見せて貰った。」
その場で絹千匹と刀百口とを賜った。孫権が言った。
「孟徳には張遼が居り、私には興霸が居て、丁度つり合っておるのだ!」
・・・と、此処までが〔甘寧の殴り込み〕の顛末であった。 だが未だ、其の続きが在る。否、寧ろ 此方の方が、戦況に与えた影響は格段に大きく且つ重大な、新都督呂蒙みずからが敢行した濡須の本戦である!!但し、史書の記述は余りにも簡潔明瞭に過ぎて、丸で取り付く島も無いのでは有るが・・・・
「呉にも、トンデモねえ奴が 居るもんじゃなあ〜!!」
流石の【夏侯惇】も、スッカリ毒っ気を抜かれて感歎しきり。
「差し詰め今ごろ孫権の小僧め、さぞかし嬉しがって居ろうの〜」
「遼来来!の趣意返し・・・・ってトコですかいな。」
丸で他人事の様に談笑する魏王・【曹操】と其の独眼の叔父貴。
流石に【許猪】が口を尖らせて、言うとは無しに言った。
「そんな呑気なこと 言ってて 良いのですか・・・??」
「アハ、虎痴に言われてるんじゃあ、世話〜無いワイ。」
予備のテントへ向いながら曹操は【曹仁】に善後措置を指示した
「夜が明けたら直ちに防禦を完全にせよ。逆茂木は3重とし堡塁の前後に築かせよ。また、堡塁は更に2丈高く盛り上げ、前後に空堀を穿たせよ。」
「一切承知!お任せ有れ。」 襄樊で、関羽の北上に備え続けて来た曹仁にとって、”砦造り”は専門分野の御手の物。だが、その些か過剰?とも謂える防禦態勢の指示を聞いた夏侯惇は、違う感想を漏らした。
「そりゃチト大仰では無いのか?要塞でも造り上げる心算か?
すると曹操、その意図を漸やく 披瀝して見せた。
「そうじゃ。暫く此処に留まり、本当の恐ろしさをジワジワ味合わせてやるのだ。別働軍を横江津あたりへ派出すれば、小僧め、打つ手は無い!」
【曹丕】が合点して頷いた。
「成〜る程!蛇に睨まれた蛙・・・脂汗を流させ、恭順に追い込む算段に御座りまするか?」
「ーー戦わずして勝つ!
是れ即ち、兵法の奥義じゃろう・・・。」
【張遼】・【楽進】ら、錚々たる攻撃一途の面々も、魏王だけが胸に有する〔深遠な戦略構想〕を測り兼ね、即応を憚った。
どうやら曹操には最初っから、此の濡須での〔激突の意志〕は全く無い様子である。飽くまで”恫喝”が目的である様だ。
《本気に成れば、何時でも呉の本土へ侵攻して見せるぞ!》
現に孫権軍は必死に兵を掻き集めても高々10万がイイ所。その全力を此処・濡須に集結して居るのだから、曹操が顎で指令して別働軍10万位を、呉の本国に向わせても身動き出来ず、其方へは手も足も出せぬ・・・・のである。和戦併用、硬軟両用でゆく構えで臨む心算の様だ。
「まあ、とんだ”ハプニング”に出喰わしたが、全ては夜が明けてからじゃ。だが、ホッとした所を突いて、しつこく”第2波の夜襲”は有るやも知れん。警戒態勢は厳しくして措く様にいたせ!!・・・・では、儂は寝る。諸君、お休み!」
流石は曹操。更なる奇襲攻撃の可能性を見越すだけの戦術眼を以って、警戒の強化を指示してから床に就いた。ーーそして其の為か、呉側からの夜襲第2波は行なわれる事の無い儘に、白々と夜は明けた・・・・。
だが、呂蒙の仕組んだ 第2次攻撃 は、そんな曹操の予想を遙かに上廻ったのである!!〔奇襲〕規模では無く、先制の〔大規模攻撃〕を仕掛けた!!ーーそれはもはや「夜襲」の通用しなく成った東雲しののめの時刻であった。
「ふぁ〜あ・・・・」 と、顎の外れる程デカイ 生欠伸をする曹魏の歩哨。だが、その欠伸をし終わらない最後の「ふぁ〜あ・・・ア、アアッ!!」は驚愕の表情に変った。ほんとに顎が外れ、手からはポロリと得物が落ちた。眼玉が思わず飛び出て、腰も抜けた。
「ん?お前、何をやってんじゃ??」
同僚が怪訝な顔付で、仲間を振り返った。
「ア、アワ、アワワワ・・・!!」 震える手で指さす歩哨。
「ん〜?・・・・えっ!!ギョッ!ギョ、ギョヒィ〜!!」
その霧の晴れ間の中、眼の前一面に、見渡す限りの軍馬の波が、只 黙々と、此方に向って押し寄せて来て居たのである!!
濃い朝靄がゆったりと流れる彼我の空間はーー何時の間にやらすっかり呉軍の進撃を包み込んで許し、今も尚、見えつ 隠れつ
前進し続けて居る真っ最中だったのだ!!別段、隠すでも気負うでも無く、只 ズンズンと進んで来る5万の黒津波・・・!!
唖然、茫然,、愕然・・・・
「わあ〜敵襲じゃあ〜!敵の総攻撃だあ!!」
慌てふためく魏軍の警戒線は、一溜まりも無く5万の足下に踏み潰されていった。彼我の真空地帯は凡そ1キロ弱・・・・だが既に気が付いた時には、呂蒙の指揮する呉のほぼ全力は、その距離の4分の3を越えて居た。
曹魏軍の警鐘が打ち鳴らされるのと、孫呉軍の突貫の雄叫びが挙がるのとは、ほぼ同時だった。ーー未だ1重の儘の逆茂木は、至る所で引き抜かれ 引き倒され、その上を旋風の如くに、騎馬
部隊が踊り込んで行く。 チャチな堡塁など 在って無きも 同然。
先ず、副都督と成った【蒋欣軍】が、堡塁を飛び越えて雪崩れ込む。余りの不意打ち攻撃の為、曹魏軍は殆んど組織的な迎撃態勢を採れずに、ただ押し捲られるばかり・・・かろうじて抵抗する警備部隊へは、赤備えの【呂蒙軍】が殺到し、瞬く間に蹴散らして行く。通常であれば1国の総司令官の位置は後方に在るものだが、《新都督の面目に懸けても!!》 の思いが有る呂蒙は、この門出の戦さを赫々たる勝利で飾りたい。人任せには出来ぬ。日頃からも常に呉軍の先鋒を務め、敵陣への
斬り込み を担って来た”赤鬼部隊”である。敵城への〔1番乗り〕は数知れぬ。況して此のデビュー戦ともなれば、自ずと気合の入り方が違う。一方、他の部将達にしてみても、 ”大都督”が 先頭で突っ込んで行く
のだから、其れに遅れを取る訳にはゆかぬ。更に激しく督戦して先を争って猛攻する。ーーそれに対し、曹魏軍の先鋒部隊は何ら有効な反撃も出来ぬ儘、ひたすら後退に次ぐ後退あるのみ・・・・とは謂え、曹操の陣営は流石に懐が深い。正面の幅も1キロ余と広かったが、その縦陣は5キロ近くもの厚さであった。
先制攻撃から2刻 (30分) 余り・・・・流石に曹操側も、反転攻勢の態勢が整い、本陣方面からの大部隊が押し寄せ始めた。元より
40万の底力。態勢が整いさえすれば形勢を一変させるのも容易である。・・・・が、その魏軍の反撃を嘲笑うかの様に、新都督・
呂蒙は、撤退の鐘を打ち鳴らさせたのである。勝勢に判断を過つ事無く、圧倒的な〔勝ち逃げ〕を実施させたのだ。欲を掻かず進むも美事、退くも亦美事の指揮ぶりであったーー。その結果は一目瞭然・・・・突風の如く襲い来て、疾風の様に去って行った呉軍5万の戦場跡には、散々な目に会わされた曹魏軍先鋒部隊の残骸だけが残されて居るばかり・・・・天っ晴れ!新都督・呂蒙のデビュー戦は、かくて緒戦大勝!の〔名〕を獲得したのである。
『のちに曹公が再び濡須へ大軍を進めて来ると、孫権は呂蒙を督に任じ、先に築いた堡塁に拠り、強力な弩1万張を 其の上に
配備して、曹公の進出を防がせた。
曹公の先鋒部隊が、未だ 陣営を築き終わらぬ
裡に、呂蒙が其れに攻撃を掛けて撃ち破った。
そこで曹公は軍を纏めて退却した。
呂蒙は左護軍・虎威将軍の位を授かった。』ーー(正史・呂蒙伝)ーー
『江表伝』は、もっと簡潔である。上記〔甘寧の夜襲〕の結びとして
『北軍は1ヶ月余り軍を留めた後、
サッサと引き上げて行った。』 と だけ記す。
いずれにせよ、魏呉両軍が、軍団単位で本格的に激突したのは此の1回だけだった・・・と観て宜しかろう。もっと正確に謂うのであれば、魏軍先鋒部隊に対する呉軍の先制攻撃のみを以って
第2次濡須戦役は、事実上、終息した・・・・のである。
これ等の史書を観る限りーー戦況は寧ろ、圧倒的に寡兵な筈の孫呉側の方が攻勢を取り続け、40万を有する大曹操軍は、唯の1度も攻勢を仕掛ける事も無い儘、丸で尻尾を巻いて逃げ戻る様に、易ともアッサリと 「濡須」 の戦場を放棄し、 「居巣」 の本営へと撤退した・・・・のである。ばかりか曹操は、引き連れて来た全26軍の指揮を 【夏侯惇】に任せ、曹仁・張遼 らを共に残すと、対陣1ヶ月も経ず裡の 其の3月、自身は 近衛軍
だけを連れてサッサと「業卩」へと引き上げてしまったのである。
そこで、考えられるのは唯1つ・・・・曹操は最初から、引退間際の
夏侯惇に〔最後の花道〕を飾らせたかった・・・・
我が覇業の人生を終始一貫、苦楽を共にして来た最大の親戚・功臣・戦友への礼遇、是れ迄の慰労の為に、
全26軍の総司令官と云う
最大の栄誉を贈りたかったのであろう。時局柄と惇の年齢(70歳代に入る前後)とを鑑みれば、こんな機会は、もう2度とは巡って来そうに無かった。それを実現させてやるには丁度好い潮時・切っ掛けで在った。ーーそう思えば、この何とも仰々しい遠征の最後の意図に納得がゆく?
最初の意図が 〔故郷への行幸〕 で有った事とセットで考え合わせれば尚一層、この大遠征軍の泡沫うたかたの出現と、その直後の解散とに説明が着く。とは言え、是だけでは、余りにも情緒的な観念論に過ぎ、合理主義者たる曹操像とは乖離し過ぎて居る・・・そうなのだ。実は是れ等の理屈など一挙に吹っ飛んでしまう様なトンデモナイ記述が、突如、
『正史・呉主伝(孫権伝)』 に出現するのである!!しかも、前後に何の脈絡も説明も無しに、仰天して腰を抜かす様な、
途轍も無く重大な内容を含んで記されているのである!
建安21年冬、曹公は居巣に本営を置くと、其処から濡須に攻撃を加えた。建安22年 (217年)の春、孫権は 徐詳に命じ、曹公の元へ行って、降伏を申し入れさせた。
曹公は返礼の使者を遣って好を修し、誓約を交わし、重ねて婚姻関係を固めた。・・・・と 記している
のである!!
〔甘寧の殴り込み〕 → 〔呂蒙の先制攻撃〕 と緒戦連勝の 意気に燃えて居る
真っ最中に、突如、
勝って居る側の孫権が
降伏した!!
のである・・・?? んん?こりゃ一体、どう謂うこっちゃ???
この突発的な急展開、異常事態に対し、是れまで殆んどの作家先生方は、キチンとした説明・考察を下さぬまま放置して来ている。だから読者も、何だか狐に抓まれた様な、ヘンテコリンな気分を抱いた儘、可也の消化不良気味で先に進まされて来たのである。そこで本書は、その点について孫権の心理心境・及び時局判断などの経緯を考察し、この不可解な〔突然の降伏〕に対する納得を求めるものである。次の第211節の主眼も其処に在る。ーー蓋し、事前に謂い得る事は・・・・恐らく、此の事態の伏線には呉国の大都督交替劇が、深くその理由に関わっている、であろう点である。初代の【周瑜】既に亡く、今また2代・【魯粛】も逝った。そして3代目の【呂蒙】・・・・代を経る毎に、明らかに人物は小さく成る一方である。
《果して、呉国万人に支持され、統率してゆけるであろうか!?》
不安が脳裡を掠める。之が孫呉の立場で在った。
視点を拡げて、天下全体の立場から、この交替劇を観てみよう。すると爾後の史実からして、ハッキリ謂える点が観えて来る・・・・
この2代目魯粛の死は、 終には やがて
関羽の滅亡を招く!!
その事へと 直結してゆくのである。畢竟、その原始点と成って、爾後の戦史へと連動してゆくのである・・・・。
そこで此の際、【魯粛】の生涯と、彼の事蹟・又その存在意義を振り返って措こう。
それは同時に〔孫権・呉〕の来し方を示すものでもある。
【魯粛 子敬】
享年46 (172年〜217年) と云う若さであった。
風貌魁偉ニシテ、若クカラ大事ヲ成サントノ志ヲ持チ、縷々人ノ考エ着カヌ如キ目論見ヲ行ウーー居巣から100キロ北の東城の人であった。大資産家・豪農の祖母の手で育ったが、家柄は〔平民〕に過ぎなかった為、何とかして名望を得ようとし、家業を打っちゃらかして賑恤しんじゅつに精を傾けた。
『生れるとすぐ父を亡くし、祖母と一緒に生活した。家は富裕で、彼は好んで人々を経済的に援助した。当時、天下は既に騒がしくなっており、彼は家業をうっちゃらかし、財貨を盛大にばらまき、田畑を売りに出して、困窮している人々を救い、有能な人物と交わりを結ぶ事に努めて、郷里の人々の心をつかんだ。
《この乱世に、男として生まれたからには、世に出て大事を成す者に成りてえ〜!!》
だが20歳に成る以前の頃、土地の父老達は、こう言いあった。「ほれ見てみろ。魯さんちの家も、代ごとに衰えて来て、とうとうこんな気狂い息子が現われたよ・・・・。」
彼は或る日突然、何を思ったのか、『剣術ト、騎馬ト、弓トヲ習イ』 だしたのだ。そればかりではない。
『若者達ヲ集メテ彼等ニ衣食ヲ給シ、南山ヲ駆ケ廻ッテ狩猟ヲ行ナウトトモニ、密カニ彼等ヲ指揮シテ、兵法ノ練習ヲ行ッタ。』
時代が産んだ 鬼っ児 と言えようか。既成の「名士達」など屁とも思わぬ、斬新な発想で時代を切り裂いていく。そして県令として居巣に赴任していた周瑜との出会い
周瑜ガ居巣県ノ長ト成ルト、数百人ヲ連レテ わざわざ魯粛ノ元ニ挨拶ニ来テ、同時ニ資金・食糧ノ援助ヲ求メタ。
周瑜からの援助要請を受けるや、感激している魯粛は、周瑜を誘って、広大な屋敷内に在る米倉へと案内した。巨大な2棟の米倉の中は、上質な籾(もみ)で充満している。
「1つの倉に、それぞれ3000斛(石)の米が収めて御座います。」
戦時で兵士6万人分、平時なら12万人分に相当する。それが然も、2つ在ると言うのである!
「 して、どれ程を譲って戴けるのであろうか?」 すると魯粛は、一方の米倉を指した。
「有難い!これは又、豪気な事じゃ!!」
すると魯粛は、やや声を密めると周瑜の耳元に、こう囁いた。
「この魯子敬、些かなりとも、呉国が 天下を三分するの御役に立てばと存じて居りまする!」
「ーー天下三分・・・・?? はて初めて聴く言葉だな。 魯子敬どの、いま少し詳しくお話し下されませぬか。」
『周瑜ハ、コウシタ事カラ益々彼ガ非凡ナ人物デアル事ヲ知リ、
親シイ交ワリヲ結ビ、子産ト季札ニ変ラヌ厚イ友情ヲ固メタ。』
かくて魯粛は其の狙い通り・・・・己の所有する 〔資産価値〕 を、周瑜公瑾と云う 良き理解者を介して、〔政治的価値〕 へと 転換・昇華する事に成功した訳である。 謂わば
地方地主から〔名士〕へと成り上がったと言ってよい。−−だから、学研肌の多い既成名士達とは 全く異質な、最新型のヤサグレ名士が誕生したと云う事に成る。
「漢王朝などと云うモノは、最早この世には存在しませんな。
既に亡び去って居りまする!!」
開口一番、魯粛はズバリと言って退けた。今(217年)からは20年も前の事であった。
「ーー・・・!!」 これには周瑜もドキリとした。
「面白い。聴かせて貰おう。」
身を乗り出しながら、周瑜は直感していた。
《これは、新しい時代を創る男かも知れんぞ・・・・!》
「西と結び、北に対抗する・・・・即ち、
天下を三分し、2対1で北に対峙するのが、
呉国が生きてゆく、唯一の方策かと存知ます。」
・・・・後漢王朝の虚像などに惑わされず、《天下3勢力鼎立》 を念頭に置きつつ、究極には、長江を挟んでの《南北朝構想》で臨む。
−−所謂・・・・【天下三分の計】である!!
未まだ天下混沌とする196年(建安元年)の段階で、是れを口にしたのは、天下広しと雖も、此の【魯粛】を置いて外には無い。
※後世、天下三分の計は諸葛亮孔明の専売特許の如くに喧伝されるが、孔明はこの時まだ15歳。野 (水鏡先生門下) に在って勉強中、その構想を劉備に披瀝するのは、
11年後の事である。
かくて周瑜に見い出された【魯粛】・・・・呉の地に輝く星星の中で、彼の存在は、やがて一際、異形な光を放って、"来るべき時代" を 指し示す事と成る・・・・・。
魯粛が実際に出仕したのは、孫権の代に成ってからの事であった。ーーそして呉国に
とっての最大の功績は・・・・のちに孫権自身が回顧する様に、
曹操の脅しに屈せず 徹底抗戦を主張し続けた!その1点に尽きる。
『むかし、周瑜が魯粛を招き、私の所へ連れて来てくれた。私は気楽に語り合ったが、
話題は直ぐに天下の大計と、帝王としての事業に及んだ。是れが 第1の愉快な事で
あった。その後、曹操が荊州の軍勢を手中に収めた勢いに乗って、『数十万の軍勢を率いて水陸両道から呉に向って長江を下ってゆくのだ!』と誇大に言い触らした。私は広く部将達を集めて、どの様に対処すべきかを尋ねた。誰も進み出て答える者が無く、張昭や秦松たちは揃って、「 使者を遣り檄文を廻して曹公を迎え入れるのが宜い!」
などと言ったのであるが、魯粛は即座に反駁して、それが不可である事を述べ、私に
勧めて「急いで周瑜を呼び戻し、彼に軍勢を委ねて、曹公を迎え撃たせるのが善い!」と言った。是れが第2の愉快な事であった。のちに劉備に荊州の土地を貸す様に私に勧めたりはしたが、この1つの失策は、彼の2つの立派な行動を損ずる程のものでは無い。』・・・・と言い、『いま在るのは魯粛の御蔭である』 とも言う。
★劉表の弔問と同時に荊州の情勢も探って来たい!と申し出る
★曹操から逃げる劉備に「当陽」で出会い、独断で同盟を約す。
★劉備を安全な「樊口」に導き、駐留させる。
★諸葛亮を伴い帰国。劉備との同盟を孫権に結ばせる。
★周瑜を呼び寄せ、国論を〔曹操との決戦!〕に覆えさせる。
★赤壁の戦いに、1軍の将として加わる。
★周瑜が急逝するも、その遺言によって2代目の大都督と成る。
★广龍統の才能に気付かぬ劉備に推挙する手紙を送ってやる
★劉備を呉国に呼び、荊州の1時貸与を孫権に認めさせる。
→この間に、劉備は、益州を奪取。【蜀】の基盤を獲得。
★荊州返還問題が抉れ、関羽と「益陽」で対峙。会見する。
↑
己の理念=天下三分の計を追求したとは謂え、まあ、終始一貫して 〔劉備贔屓〕 で
あった!・・・・とも 謂い得よう。
尚、「天下三分の計」=曹操に徹底的に抗戦する姿勢が余りにも強烈な為に、ともすると”専らの文官”で在った印象の強い魯粛であるが・・・・見落としてはならぬのは、”将としても一流” であり、孫権からは高く評価されて居た点である。そうでなくては務まらぬ。
★赤壁戦ではーー『孫権は、周瑜・程普・魯粛ら水軍3万を派遣し』・・・・(諸葛亮伝)
★210年ーー偏将軍として「陸口」に駐屯。・・・・かつて魯粛どのは1万の兵を率いて
陸口の固めに当って居られたが、是れは近ごろ他には少ない華やかな仕事であって、能力の有る者も、能力の無い者も、誰が 此の仕事に就きたい!と願わぬ者が在ったで
あろうか・・・・と謂う、重大かつ花形の、〔関羽〕との対峙拠点の任務。
★214年ーー「皖城」攻撃に従軍。その武功に拠り、〔横江将軍〕に栄進。
★215年ーー荊州返還問題に際しては、1万の軍を率いて「益陽」急行。指揮下に
甘寧を従え、関羽の進攻を封じて対峙。関羽との”差し”の会見に臨み、同盟国同士の激突を回避する。
★その後も、関羽と気脈を通じた呉トウ・袁龍の反乱に際しては横江将軍として鎮圧に出動した・・・・決して名前だけの将軍号では無く、実働の武人でも在ったのである。
斯様に、三国志に於ける、魯粛と云う人物の存在意義は・・・・
先ず、曹操の天下統一の野望を許さず、
呉国の独立を貫かせた事
次には、天下三分の計に基づき、
劉備に蜀の国を自立させた事・・・・に他ならない。
その余りに徹底した同盟推進ぶりにはーーもしも此の後、魯粛が生き続けて居たなら、きっと立つ瀬が無かったに違い無い?とか、呉国に居場所は無く成ってしまったであろう?とかの、余計な心配さえを後世の我々に抱かせる程であった。即ち、
魯粛こそは 〔三国時代の産みの親〕で在った!
と位置づけられよう。正に其の役割を終えると同時に、天は、彼を三国志の世界から
去らしめた・・・・かの如くである。
魯粛子敬ーー享年46・・・・
異形の星の瞬きは僅か10余年で消えていった。
それにしても、呉の国の指導者達の、何と「短命な連鎖」であろうか!!・・・・と、思わず慨歎せずには居られない。
初代・孫堅文台37歳。ー→2代・孫策伯符26歳。そしてー→周瑜公瑾36歳。ー→魯粛子敬46歳・・・・更には亦、新都督と成った呂蒙も・・・・。 但そんな中、孫権だけは71歳、張昭は81歳と、抜群の長寿を全うするのではあるがーー果して歴史潮流の中に於いて、個人が歴史に及ぼし得る直接的な影響力の大きさには疑問が有るとしても、矢張り呉国の場合は、余りにも「無念の死」が多い。折角、国家の経営が軌道に乗り始めた矢先に、その都度ガクンガクンと急停車しては、再び三度と、ゼロからの出発を余儀無くされ続ける事態を繰り返す・・・・必然、呉の基本戦略は、その大都督(参謀総長 兼 国軍総司令官)の代が変る度毎に大きな変容・変質を辿って来ていた。即ちーー
初代・周瑜の時期・・・・
天下には【曹魏】と【孫呉】とだけが在り、【蜀】なぞは未だ、影すら覚束ない時局であった。 だから
赤壁で曹操を撃破した周瑜の戦略は→→飽くまで天下制覇を目指すものであり、新たなる〔呉帝国に拠る 統一王朝の樹立!〕を最終目標とした。ややロマンの香りを含んだ壮大な覇望に邁進した。そして其の前段階として選んだ具体的な戦略は・・・・
魏・呉2国対決、南北決戦の状況を創り出す事であった然し無念の急逝ーー。
2代・魯粛の時期・・・・元来から劉備との同盟を基軸とした
〔2対1の対峙〕=〔天下3分の計〕が持論だった。それを識りつつも後継者に指名して逝った周瑜は、もはや己亡き後の呉国には、全軍を燃え立たせる様な強烈な人物の無きを悟ったのである。 だとすれば・・・・ロマンよりも、より現実的な道を選んで、
確実に3国鼎立の裡に生き残ってゆくしか無い。畢竟魯粛の存在こそが劉備に活動の自由を保障し、遂には【蜀】の成立を生んだので在った。 とかく身勝手な劉備・
関羽の行動にも眼を瞑り、隠忍自重を孫権に説き続け、結局は持論通りに3国時代のコアを形成する事には成功した・・・と謂っても良かろうか。但し実際には、呉国にとっては明らかにマイナス・負債の多い同盟関係の維持
と成ってしまった。ようやく其の我慢の限界に達しつつ在った孫権の胸中ーー殊に国境線を接する「荊州」では・・・・本来であれば、呉国 (周瑜)が獲得した折角の要地・「南郡」、就中《江陵》に居座り、盟約を無視して、隙あらば虎視眈々と呉側への勢力拡大を狙っている【関羽】の存在は今や同盟相手と謂うよりも、実質上の敵対者と化していた・・・・。
時折しも魯粛は逝った。・・・・《何とか せねば ならぬ!》 そして、
《我が呉が、魏に膝を屈する様な真似をせずとも済む為には?》
今、関羽が占拠して居る荊州の地を、全て呉の版図とする!!
ーーそれ以外には、生き残る道は無い・・・!!故に・・・・
3代・呂蒙の出番と成った今、孫権の呉国はーー
〔南北激突〕 とも 〔天下3分〕 とも異なった、
《第3の道》を 探し出さざるを
得無く成ったのである・・・!!【第211節】 孫呉が選ぶ 第3の道 (生き残りの密約)→へ