第207節
天命か?疫病猖獗!
                             呉国総司令部・潰滅の危機!

魏軍100万が、先ず目指したのは、魏王の故郷 で
あった。
曹操の故郷・・・・即ち、曹一族縁の地=本籍地 (本貫地) は・・・・豫州・沛国言焦しょう県だとされている。
これは 極めて重大な事であった。何故なら、沛国はーー

漢の高祖・劉邦の生誕の地
であるからだ。つまり・・・・
大漢帝国発祥の地・漢王朝の故郷であるのだった。


その
漢王室と同郷の一族・・・それが 〔曹氏〕 である!
としたら・・・・誰しもが”或る同意”を感ずる事となる。ーー即ち、
を受け継ぐのはである!との承諾、劉氏から
皇位を譲られるのは同じ故郷の
曹氏 であるのは尤もだ!
との承認に直結する。
是ればかりは、〔人為的な作意〕の効かぬ、偶然の事実である。だからこそ余計に政治的な意味と価値が有るのであった。

 処で、本書は、大英雄・曹操を輩出した、
曹一族家系祖先来歴については
是れ迄キチンとした纏まりの有る節を設けて来て居無い。そこで曹操本人も既に”晩年期”に達して居る事でもあるし、彼の故郷に因んで、振り返って措く事とする。 ーー但し、こう謂ったポッと突然に伸し上がって来た成り上がり者の系譜に関してはその殆んどが例外無く、後からくっ付けた「自称や詐称」であると観て良い。況して祖父が宦官で在った特異な「曹一族」の場合に於いてをや、である。・・・・まあ、そこら辺は予め了承して置いて戴き 《〜〜と謂う事に成っている》程度の信憑性と思って御照覧くだされませ。 無論、筆者は大真面目では在るのだが、事の性質上 已むを得ぬ。

先ず其の前に、『炎劉』こと卯金刀の
高祖・劉邦の出生地であるが、劉邦出生( BC256年乃至は246年) の当時には「沛郡」と云う地名は存在せず「泗水郡」であった。泗水郡沛県豊郷が彼の生誕地であった。然し、漢の王朝が開闢された後に開祖の生まれ故郷の沛県を寿ぎ」と改称。その後、後漢・光武帝が皇子の劉輔を沛郡に封じた事から」と成る。
但し、BC154年の〔呉楚七国の乱〕以後は、国王の特権は削られていたから、名義上だけの「国」であり、普通の「郡」と全くの同格では在った。その名義上の名残りが、その長官を「郡太守」とは呼ばずに「」と呼称する事である。名目上では国王の「宰」で在った故である。
又、前漢の中頃に 《13州制》 にした時、沛国は豫州に属す事となり、爾来 豫州の刺史は、この由緒ある大郡(前漢末には戸数40万・人口200万)である沛国の「言焦」県に政庁を置いて駐屯した。その「言焦」県こそが曹操の故郷であるのだった。

さて其の
曹操「御先祖様」についてであるが・・・自称では
何と伝説時代の黄帝からの家柄で、周の武王の時には「朱卩」に封地されたと謂う。だが戦国時代に楚に攻め込まれ、それが契機となって沛に移住して来た・・・・のだとする。→
( 無論デタラメであるが、ま、いっか。)さて、此処からが本題?となる。詰り「沛に住む曹氏」が初めて中央に送り出した御先祖様の事に言及する訳だ。
その人物はーー前漢創業の大功臣・
曹参である!!
・・・とする ノデアル。この曹参は実在の大人物である。同郷の
蕭何と一緒に、「沛県」の小官吏であった時に、劉邦の部下 (子分) と成り、蕭何が大軍師としてブレーンと成るのに対し曹参の方は、専ら〔野戦の将〕として大活躍した。戦場での傷は全身に70ヶ所。2つの国 を平らげ、122の県を攻略。生捕りに
した王が2人、相国が3人、将軍は6人に及んだ!!だから天下統一の後には
平陽侯の爵位を受け功臣では最高の封邑600戸を与えられた。ーーBC193年に相国の【蕭何】が死去すると、その後任に曹参が選ばれて丞相に就く。だが曹参は専ら蕭何が定めた国法を踏襲するだけで、自分は毎日ただ酒を飲んで遊び暮らした。やった事は・・・官吏登用で温厚朴訥な人物を選任し、反対に居丈高に法を執行して成績を上げる官吏を更迭しただけの事であった。その為に2代【恵帝】は、
《曹参は若い自分を軽んじて政務を疎かにして平気で居る!》 と思い、呼び付けて叱問した。すると曹参は言った。

「陛下は御自分の聖徳勇武を、高帝と比べて如何が思われまするか?」  「朕が如きが、何うして先帝と比べられようか!」

「では私と蕭何と比べて、どちらが優れて居ると思われますか?」「すまぬが、お前の方が及ばない様だ。」

「仰る通りで御座います。高帝と蕭何が天下を平定し法を定めた事に拠って天下は治まっているのです。ですから、それを踏襲し失策さえしなければ、それで善いのでは無いでしょうか!?」

そこで得心が行った恵帝は曹参に「この儘のんびり遣るが善い」と申し渡した。人民は皆、その無為の政道を称讃した・・・と謂う。

ーーその
漢王朝開闢の大元勲・曹参こそが、曹操直接の御先祖様なのである!!・・・・と謂うのだ。本当だとすれば、大したものである。→で、その後の曹参一族の系譜についてだが、晋時代の王沈が著わした 『魏志』 に、その記述が在る。
曹参は、功によって平陽侯に封じられ、爵土を世襲した。断絶
しては復活し 今
(魏晋時代)に至る迄、直系の子孫が、容城に封国を保っている。

アリャ〜、是れじゃあ、あんまし胸を張って公言できんワナア・・・
何故なら、
歴とした曹参直系の一門が、曹操の一族とは別に、ちゃ〜んと存続して居ると謂うのだから、曹操が言い張るのとは裏腹に、彼の家柄は全く曹参とは無関係だと云う事がバレバレな訳だからである。詰り結局の所ーー曹操の御先祖様は・・・
大きい声では言えないが

名も無い貧しい小農民だった!
のであるーーそれが周知の事実。
( アリ?思いっ切 し 大きく 書いちゃった)

さてさてそうなると・・・・一体全体曹操の御先祖様とは誰を謂ったら良いものやら??→→で、詰る処・・・・結局は、幼い曹操を可愛がって呉れたオジイチャンの代から しか判らないのである。 然も、その オジイチャンの出自すら定かでは無い・・・・と来たモンなのが本当の所。 もっとも、唯1つハッキリ言える事は有る。
一体、この世の中に、誰が 好き 好んで、年端もゆかぬ、可愛い
我が子を、
宦官になぞするものか!!貧乏のドン底に喘ぎ苦しみ、已むに已まれず仕方無しに、泣く泣く犠牲にするのだ・・・
詰り、オジイチャンの家は、家系図などとは全く無縁な、
最下層の極貧の家柄?であった事だけは間違い無いのである。そのオジイチャン・・・・
           第30節で詳述した
曹騰そうとうである。
曹操の祖父・
曹騰の字は 季興 きこうーー家は貧しい農民だったらしく、幼いうちに去勢され、宮中に送られた。生没年ともに不詳ゆえ
正史』も、彼ノ出自ハ明確ニ出来 ズ としている。
後宮に初めて出仕したのは、世が6代〔
安帝〕の時である。その時は、あの「善意の登卩とう太后」の摂政時代に当たる。
曹騰は先ず、《
中黄門》に任官された。若者が就く、帝の警護役・宦官兵と成ったのである。その時の年齢は恐らく十代後半辺りであったろうか? 西暦120年今から97年前安帝の子・劉保のちの順 帝が9歳で皇太子に成ると 登卩太 后は、『謹 厚ナ』 曹騰に眼を着け
その学友
(勉強仲間・イタズラ仲間)を勤めさせた。是れは曹騰にとって
2つの意味で大きな幸運であった。
1つは、ハイレベルな教養を身に付ける事が出来た点である。当時も尚、宦官は無学の者が殆どだったのだ。
そしてもう
1つは、幼い「順帝」と親しくなり側近の一人と成り得た事である。何故なら順帝は登卩太 后の死後、一時〔廃太子〕される。任侠の「孫程」ら19人(十九侯)によるクーデターで危うく帝位に就いたのであるが、曹騰も数少ない順帝派の側近として忠節を認められ 厚く信任されたからであった。
そして順帝即位
(11歳)と同時に、彼は 《小黄門》 の主要ポストに抜擢され、更には最高位の 《
中常侍》 へと昇進していった。 即位14年後の時に讒訴されるも、順帝の信頼は揺るぐ事も無く、逆に讒言した相手の中常侍・張逵ちょうきらは誅殺されている。順帝死後山犬男の梁 冀が外戚として猛威を振るうが、曹騰は梁冀に接近癒着。《桓帝擁立》に加担し、費亭侯ふっていこうに封ぜられる。

費亭とはー→沛国賛県の犬丘城を指し、此処に

沛国曹氏繁栄基盤
 曹操
故郷
形成されたのである

曹騰は年少の頃、黄門の従官に任命された。120年、登卩太后が従官の中から年少の温厚謹厳な人物を選び出させ
皇太子の学友とした時、曹騰はその一人に選ばれた。皇太子は、とりわけ曹騰に 親しみ と 愛情を持ち、彼に与えられる 食事や下賜品は他の者達とは違っていた。順帝が即位すると、彼は小黄門と成り中常侍・大長秋にまで昇進した。宮中に仕える事30余年に及び4人の皇帝に次々と仕えたが、一度も 落度が無かった。優れた
人物を引き立てる事が好きで、決して悪口を言ったり、被害を与えたりする事が無かった。彼が推挙した人物の内、虞放・辺韶・延固・張温・張奐・堂谿典らは皆、高官に出世したが、恩着せがましい態度を取ら無かった。
ーー『司馬彪の 続漢書
』ーー更に、「桓帝」と「梁冀」の両方に恩を売った曹騰は、《大長秋だいちょうしゅう(皇后の侍従長中二千石で九卿に匹敵)に昇進する。位は 《特進》 を付加され (漢の制度で、「諸侯ノウチ 功績徳行ノ 優レタ者」 に与えられた。三公待遇。)ついに、宦官としての最高位を極める事となる。

曹操の祖父曹騰超大物の宦官であったのだ
無論、お金の方もガッポリ、巨万の財を貯め込んだ・・・・即ちー

曹操の故郷言焦この祖父から発祥した のであり、

曹操は極めつけの成り上がり者!だったのである。

因みに
曹操の父親である
曹嵩そうすう(字は巨高)を宦官の曹騰が何時?何処から?「養子」として迎えたのかは不明である。また祖父の曹騰が、孫の顔(曹操)を見る事が出来たのかも微妙である。(小説的には生きていて呉れた方が楽しいが 、その期間はさほど長くは無い筈である)
そして無論?
曹嵩の出自〕もハッキリしない。ーー『曹瞞伝』では沛国言焦 県夏侯氏に生まれ、夏侯惇(独眼竜)の叔父に当たるとしているが、信用度は極めて低い。 「一切不明」とする、
魏志』の方が良心的であろう・・・・。いずれにせよ、改めて驚かされるのはーー今や魏王と成り、皇帝目前・魏王朝樹立をも視野に入れる程の、大英傑の祖父はおろか、其の父親の出自すらも一切不明だとは・・・・!!これはもう明らかに、曹操自身が、己の一族の真実を握り潰し、秘匿抹消させたと謂う以外には考えられぬ事態である。ーー即ち、当時の道徳律・社会規範であった儒教倫理に照らした時、どうしても世間には隠し通さねばならぬ程に
曹操一族の出自は何重にもタブーを犯して構築されたものだった のである (あろう)

同姓不婚=(同姓の男女は結婚してはならぬ)、
異姓不養=(異姓の男子を養子にしてはならない) にも関わらず、曹操の周辺には、明らかに『曹氏←→
夏侯氏』の間で「通婚」や「養子縁組関係」が見られるし、その一門には異姓養子である【曹真】や秦朗・何晏らの「仮子」乃至は「義児」と呼ばれる掟破りが為されている。  筆者は屡々、曹操(魏)が、孫権(呉)や劉備(蜀)に比べて羨ましい程の門閥・係累を保有しているーーと記して来たが、実は其の内情は、斯くの如きルール無視・掟破りの基盤作りの上に成り立って居たのである。
そして
宦官輩出に拠る大出世=正に陳琳が其の檄文の中に曝露した贅閹の遺醜・・・・それが、曹操を含めた一族・一門全体の実態で在ったのである。
だが然し、そんな世間の 後ろ指は 物皮、それへの反発をバネにして、今や曹操と其の一族は、是れ見よがしの大行列・・・・故郷への凱旋を挙行して居るのであった。その光景は、時代が確実に変りつつある事の証明でもあったと謂えようか・・・・。

この魏国の5都 (業卩・許・洛陽・長安・言焦)に数えられる故郷の大邑に 曹操は
11月に到着し、此処で丸々1ヶ月を悠々と過す言焦の城邑は 降って湧いた様な 華やかな1大イベントに、連日飲めや歌えやのドンチャカ騒ぎーー此の世の贅を尽した酒宴に歌舞音曲、雑技サーカス団の競演や 旅芸人一座の演劇、一般庶民にも飲み放題、喰い放題の大盤振舞い・・・故郷の人々は、曹魏王国の 物凄い財力と 権力の巨大さを、身を以って実感し、その恩恵を十二分に味わい尽くす。無論、全将兵にも特別支給の恩典が下賜され、「此の世の楽土」が現実のものとして出現したのであった。
そして、新しい年
217年 (建安22年)元旦懐かしい人々と祝い合って、此の大イベントに区切りを着け、「行幸」気分を払拭すると・・・・
魏王・曹操はガラリと表情を変え、いよいよ次の軍事行動に移るのであった。ここからは、生死を賭けた戦争である。
目指す敵はーー
呉の孫権!!その最前線の軍事基地・濡須塢を攻撃、呉軍の撃滅を狙うのである!!その為には先ず、魏側の最前線基地である合肥城の味方と合流し、其処を基点とした、総攻撃態勢を作らねばならない。
女達など 非戦闘員を「
言焦」に置き留めた曹操軍は、今迄の華やいだ ”行幸気分”とは ガラリと豹変し、獰猛で精悍な遠征軍としての姿に立ち戻ると、足早に250キロを南下。僅か1万にも満たぬ兵力で、独り善く呉軍10万の総攻撃を撃退したばかりか逆に寡兵を以って勇躍敵の本陣に斬り込み、あわや孫権の首を挙げる寸前まで追い込んだ張遼
楽進李典らが待ち侘びて居る合肥城を目指した。思えば彼等とは212年に遠征して以来、もう丸8年もの間、この合肥を任せた儘で、顔を合わせて居無かった。さぞや首を長くして心待ちにして居る事であろう。


曹操は全将兵が見守る中、唯2人だけで連れ立って合肥の城を駆って出た。後世の人々からは、遼来来!物語 として語り継がれるであろう、今は最早 ”古戦場” と 成った、其の武勇伝の現場を訪ねて廻る為であった。
その
張遼文遠・・・・
 28歳までの前半生は、
同郷・并州出身の
「呂布」の人生と、全く基軸を一にして居た・・と言っても過言では無い。呂布が華々しい表舞台に登場する傍らで、常に其の影に隠れた存在であったが、実質上は呂布自慢の騎馬軍団を率いる最高司令官で在り続けて居たのである。
198年に呂布が亡びた時に曹操に仕えた。爾来20年の間、ただ只管に命を的に忠節を尽くし
中国全土を駆け巡っては常に其の先鋒として敵を撃破また休む間も無く、「別働軍」として東へ南へと遠征を繰り返した。
ーーその遠征距離家臣団中でも群を抜いての大勲功者だった。
主な戦歴だけを観ても・・・・官渡戦→東海遠征
(別働軍)→黎陽戦→第1次業卩包囲戦→陰安攻略(別働軍)→業卩陥落戦→常山攻撃
(別働軍)→南皮戦→遼東遠征(別働軍)→江夏遠征(別働軍)→臨潁守備(別働軍)→万里の長城越→長社派遣(別働軍)→荊州侵攻戦→赤壁戦→合肥守備に就く(209年)〜第1次濡須攻撃→孫権の合肥攻撃を撃退・・・・”休養”の2文字を知らぬ、凄絶な生涯である事が一目瞭然である!曹操本軍が業卩で”休養”している間も、常に別働軍として遠征を繰り返し続け、8年前に此の合肥に駐屯する迄 (関中・漢中戦が実施される迄)は、
曹操の倍近い遠征距離
を 東奔西走・南戦北伐していた
のであった。だから主君からの信頼は絶大であり、また 今は 敵味方に別れては居るが、その武人としての風格はあの【関羽】と 肝胆あい照らす程の超一流であった
そして今度の合肥での大大武勲・・・・
その
張遼が今、100万を号す 全将兵注目の中、恰も友人同士の如くにして、魏王と成った主君・曹操を 唯1人で案内して
ゆくーー覇道を目指して20年の歳月を、忠義一途で戦い抜いて来た主従 2つの騎影が、互いに寄り添う様に轡を並べながら・・・初春の風の中を悠悠とギャロップし、又 時々は駒を止めて顔を寄せ合い、語らい合う・・・・63歳と53・・・底光りする、何とも好い光景だ。 是れ迄の20年間、常に苛酷な任務を与え続けて来たばかりで、魏王の就任式典にすら 呼んで遣れ無かった曹操の、せめてもの配慮・異例の計らいであった。そして此の、全軍注視の場面は、武辺一途で魏軍最強の部将・張遼文遠にとっては、一世一代の誉れ・晴れ舞台であった。
「ワハハハ、愉快、愉快!!孫権の小僧め、さぞや仰天して腰を抜かした 事であろうナア〜!」
あの呉軍の本陣の在った場所や跡崩折れた橋の袂を見て廻った曹操は、今更の様に張遼の超人ぶりを讃嘆して愛しまなかった。

「それにしても長い間、よくぞ此んな寡兵で合肥を守り通して呉れたものよナア〜。すまぬ事じゃった。だが君の其の図抜けた武勇の御蔭で、安心して兵を転用し、漢中を平定する事が出来た・・・魏王と成れたのも亦、君の守りが在ればこせじゃ。改めて深く礼を申すぞよ!!

「士は己を知る者の為に死す!・・・と申しまする。私は是れからも只、御主君から与えられた任務を全うするだけで御座います。」

「真に心強く有り難い言葉じゃ。じゃが張遼よ、もう君に此の様な辛い思いは2度とはさせぬぞ。引き連れて来た軍の中から、合肥城には収まらぬ程の兵力を君に与えよう。」

「ハハッ!それは豪気な事で御座いますなあ。有り難く頂戴仕ります。」
「ウン、今迄は寡兵ゆえに、専ら〔合肥〕での守備を申し付けて来たが、是れからは大軍を率いて〔居巣〕に陣取り、呉に対して常に攻勢を取って呉れ給え。合肥では長江にチト遠過ぎる。」

「成る程、”居巣”で御座いますか!?」

「新しい君の拠城は”居巣”である。時代を切り開いて呉れ!!」


曹操の、この大軍団を伴っての遠征の「狙い」の中には・・・・VS孫呉戦に於ける、
軍事拠点の更なる前進!が含まれていたのである。
かつて【劉馥】が、前時代の廃城を修復して復興した「合肥城」は是れまで、呉軍の進攻を再三に渡って撃退させて来た名城ではあるが、如何せん長江からは未だ150キロも内陸の地点に在り規模も現時点では最早、小さい部類の物と成っていた。守るだけなら通用もしようが、攻撃の為には地理的にも規模的にも既に時代状況にそぐわない物と成っていたのであるだからーー現在の
合肥城は廃棄し、より長江に接近している

居巣
新たな最前線基地とするのである

居巣からであれば、長江までは僅か50キロ以内。 ばかりか

呉国の首都で在る
建業までも100キロ圏内と成る!!長江を下れば瞬時にして敵の首都へも侵攻する事が可能となるのだ・・相手の咽下に匕首を突き付けて、ピクリとも 身動き出来ぬ様に
拘束して措く事も出来る。
然も「居巣」は、嘗て【
周瑜】と【魯粛】が出会った”所縁の地”でもある。初代の大都督と、現在の総司令官との、共に縁故の地を拠点にされれば呉側の心理的圧迫感も嫌増すであろう。

太祖は又も孫権を征討し合肥ニ到着スルト
張遼ノ 戦ッタ 場所ヲ 巡リ歩キ 長イ間 感歎シテ居タそこで 張遼の兵を増加し諸軍を多く留め駐屯地を 居巣に移させた
 ーー(正史・張遼伝)ーー


かくて曹操軍は「合肥」には長期滞在はせず、張遼らの合肥守備軍をも吸収すると、其処から更に 東南東に150キロを前進。
新たな対・孫呉戦略の拠点とすべく、
居巣へと勇躍入城したのである。 だが然し、此の時・・・・天は、いつ果てるとも分らぬ、人間どもの愚かな所業・殺し合いに対して、大きな怒りの ”罰” を下したのである。
のちに
建安22年奇病!と呼ばれる事となる、中国南方一帯を覆う、
疫病を猖獗させたのである。ーーその原因や病名など現代医学から観た場合には果して何んなカテゴリイに分類されるかは不明である。
諸説・様々な見解が語られているが、可能性の高いものとしては〔
インフルエンザ説〕、〔風土病説〕、チフスなどの所謂〔伝染病説〕とが有力視されている。・・・・いずれにせよ、感染力と罹患症状の強烈な、当時としては自然沈静を待つしか無い、手の施し様の無い 《疫病!》であった事だけは間違い無い。又その感染ルートや罹患範囲も定かでは無い。然し少なくとも、此処・居巣だけの狭い地域に発生したモノでは無い事だけは明確であった。
後に触れるが、この天の激怒・逆鱗は、長江をも越えて呉の中枢である江東・江南一帯にまで広く猛威を振るったのだ。
居巣の曹操陣内は、その疫病の洗礼を直に浴びた。
先年の赤壁戦の時と謂い、今回の遠征と謂い、よくよく曹操は、大軍団を南に向ける度ごとに、その覇業の行く手を、この疫病に阻まれる!!・・・・と謂うより、「
南方は疫病の温床」であり、常に疫病のリスクを伴う地域 なのであったのだ。 そう言えば、つい
先年の〔遼来来〕の戦役の場合も、呉軍が撤退を開始した名目は「疫病発生」の為であったではないか。また、都から南方へ赴任する者達は、その出立の前に必ず祖先の墓参りをして万が一の腹を固めてから、決死の思いで南へと旅立つのが常識とされていたのである・・・・だとすれば、〔風土病説〕が最有力と云う事になるのだがーー免疫の有る筈の、地元・呉の人々迄もがバタバタやられると云うのだから、様々な要因が複合的に重なり合った〔疫病〕であったのだろう。
呻き苦しむ魏の将兵達・・・・その野戦病院で、病んだ部下達の間を見舞いつつ、軍医が処方した薬を自らの手で飲ませて廻る
大柄な文官の姿が在った。彼は 現役の兌州刺史で在ったが、今回の 此の 特別な遠征に加わる栄誉を賜り、州兵を率いて従軍して来て居たのであった。

「大切な御身体で御座います。病がうつるといけませぬ。どうか
 危険な看護は医者に任せて、陣屋に御戻り下さいませ!」

だが彼は、心配する部下の勧めを断わり、病将兵の間を、寝る間も惜しんで見舞い看病し、励まし続けるのであった。
その巨大漢の兌州刺史こそ誰あろう・・・
司馬朗 伯達。先日、曹操から40年ぶりに招待された司馬防の長男即ち
司馬懿仲達
8歳上実兄
であった。この遠征に司馬懿も従軍していた筈ではあるが、判然とはしない。
弟の司馬懿に先立つ事10年、22歳 (193年)の時に、当時〔司空〕で在った曹操から、《掾属》 に辟召されたのが始まりで、以後は
各地方の長官を歴任し、曹操が〔丞相〕と成ると中央に呼ばれて《
丞相主簿》の重責に就いた。
ーーその後は現在まで、有能で温情溢れる 《
兌州刺史》 と して、曹魏国家の足元を固めて居るのであった。『兌州刺史に昇進し 政治と教化は行き渡り、人民は彼を讃えた。軍の行動に参加している時でも、常に粗衣粗食、質素な態度で部下を導いた。
建安22年(217年)夏侯惇・臧霸らと呉を征討した。  居巣まで来ると、兵士達に 疫病が 大流行した。
司馬朗は自身で巡視して医薬を与えたが病気に罹って亡くなった。時に47歳であった。


部下が心配した通り、司馬朗自身も感染し・・・・終に、此の地で陣没して果てたのである。父・司馬防に先立つ事2年、働き盛りの47歳と云う若さであった。彼は其の臨終の床で、配下の者達に遺言した。 ( 仲達など、弟達の名は 史書に無い。)
私は国の厚恩を受け、万里の外に監督者として来たが、僅かの功業も示さぬ裡に、いま 病気に罹った。 もう 助かる見込は無く、国恩に背く事となった。我が身が死んだ後は、麻布の衣(庶民の服)と幅巾を着け 季節の服を着せて呉れ。我が意を違えるでないぞ。

州民ハ彼ヲ追慕シタ と、正史は伝の最後を締め括る。

この突然の長男の死に因って司馬一門のリーダーと成った 次男懿仲達の今後の人生は、更に大きく運命づけられた・・・・のかも知れ無い。何故なら、この父親そっくりな謹厳実直で堅物タイプの兄が、一族の長で在り続けて居たとしたならその3男の【司馬孚】も亦、従順温厚な人物で在った事と併せ考えると、その最後の決断 (魏王朝簒奪) に至る過程に於いて、だいぶ様相が変って来たかも知れぬからである。無論、今の段階では、そんな未来の事など、誰にも分るものでは無いのではあるが・・・・

但、確実に謂える重大な事はーー弟である司馬懿仲達が、この短期間にメキメキと頭角を現し、かつ曹操・曹丕父子から信任されて来れたのは、(仲達自身の人物にも拠るが) 偏に此の兄の実直・誠実な忠勤ぶりが、既に先に存在して居た故であった。
《彼の弟で在るなら、まず大丈夫であろう》との信頼感。そして、
《恩人・司馬防の嫡男を死なせてしまったか!!》 とのすまなさ。
曹操の、その2つの心理的潜在が、今後の司馬懿仲達の重用を更に一段と加速させる遠因と成ってゆくに相違無い。
司馬家嫡男・司馬朗伯達は、無言の裡に死して尚、次弟・仲達に一門繁栄の足掛かりを遺して逝ったのである・・・・・


この疫病は、更に
建安の七子全員の命をも 一度機に奪い去った。その以前に既に粛清されていた「孔融」と、5年前に病没した「阮王禹」を除いた5人ーー王粲徐幹陳琳応陽が バタバタと逝ってしまったのである!!
何時も通りに業卩で留守を守って居れば、あたら失わなくて済んだものを 〔恩賜の従軍〕が 却ってアダに成った格好であった。

文官だけでは無かった。 張遼・楽進と共に、合肥城で孫呉軍を撃退した、あの破虜将軍李典が倒れた。そして未だ
36歳と云う、壮健な若さだったにも関わらず、そのまま他界して
しまった
のである・・・・
!!

そればかりでは無かった。


程公 御逝去されましたア〜!!」
「ーーな、何ィ〜〜!!」

呉国3代の最初から 常に軍部の最長老として 3軍を統率して
来た、呉軍の最重鎮・大元勲の死去であった。

大都督が御逝去されました〜!!」
「な、何だとお〜〜!!」

周瑜公瑾の遺命を受け
現在呉軍最高総司令官の任に在る、孫権が最も頼りにして居る最高ブレーンも逝ったのである。



曹魏百万襲来目前にした孫権

 
程普魯粛の、軍最高首脳を 
 
2人同時に失ったのである!!

呉軍総司令部崩壊だった!! 【第208節】 呉国を担う第3の男( 新司令官は悪ガキ呂蒙 )→へ