【第205節】
「よいな。こう 決定が下ったからには、お前は 自分で自分を守る方策を考えるのだ。儂が生きて居る間は、どうとでも守って遣ろう。だが問題は、儂の亡き後の事じゃ。何が起こるかも分らぬ・・・・
それが、〔人の世の常〕 と謂うもの じゃ。儂の生きて居る間に、
”その事”に備えよ!いいな、是れが何う云う 事だか解るな!?」
魏王・曹操は、真っ直ぐ、我が子の眼を見ながら、苦衷の決断を告げた。
「未だ、余人に告げるのは、1年ほど後にする心算じゃが・・・・。」
「ーーむごい父親じゃな・・・・」
魏王・曹操は己に向かい、今更ながらに、其の言葉を口に出した。兄弟2人を、〔抜き差しならぬ情況〕に 追い込んだのは
外でも無い、この父親たる自分自身であった。最初からハッキリ後継ぎを決めて置けば、兄弟間に、こんな苦渋を体験させずに済んで居た筈だった。だが最早、悔恨は詮無き事である。
《何を今さら悔やむか曹操?
お前自身に、不動の覚悟が有ったからではないのか!!》
《然り!覇業達成の為であれば、俺は何でもやる!!
たとえ其れが・・・・親子・兄弟に悲劇を持たらそうともだ!!》
父で在るよりは、王で在るのが 己の定め で
あった。父と子で在るよりは創業者と跡継ぎ候補で在るのが覇王の家に生まれた
息子達の宿命である。ーーそれは当然の理で
ある!!・・・・ではあるが、忍びなさが離れ無い。
《どちらに決めても、2人の心に平安は訪れまいな。》
いや、平安どころか、互いへの競争心が ”敵愾心” へと高まり、終には 払拭し難い
”憎しみ”へと変容してゆくのは明白であった。
ーー丸で観察者の如き、冷やかな、もう1人の曹操が同棲して居た。
たとえ世継ぎに決まった子も、以前にも増した ”警戒心” を、更に強めるであろう。相手が生きて居る限りは、兄弟が最大のライバルである立場には変りは無いのだから、一旦産まれた権力闘争の火種は、永遠に消え去る事はあるまい。 最終的に
其の子が王位・帝位に就いた後でさえ、その兄弟の間には最早美しい肉親の愛が復活する事は無理であろう。
況や、世継ぎに成れ無かった子の方は・・・・生涯、危険人物と見做され続ける不条理に曝される事と成ろう。余ほど達観して、屈辱に甘んずる覚悟を貫き通さぬ限りは、その余命を全うする事も叶わぬであろう。
だが兄弟は未だ若い。とてもの事、聖人の如くに振舞うなぞ出来はすまい。他人同士で在ってさえ、憎しみは最大の原動力と成る ものだ。増して事が王位・帝位を巡る、人間界究極の欲望で有る上、それが肉親同士の蟠りである場合、過去の事例から観ても、殆んど救い様は無い。
ーーせめて・・・・と思う。此処まで長引かせてしまったからには、そのマイナス部分を、少しでも喰い止めて措いてやろう。いや、
食い止めて措こう。
《せめて儂が生きて居る裡に、出来る限りの因果を、
双方に然と含め、誓わせて置こう。》
《・・・・だが、其れとても・・・・何れ程の効果が持続する事か・・・・》
一旦、事前告知した其の瞬間から、最早、互いに心の休まる日は来まい。美しかった兄弟愛は、曹沖が夭逝した其の日から永遠に奪われたのだ。今更ながらに父親ぶって見ても、一体なにに為ろう哉・・・!?
今、長男曹丕30歳。三男曹植25歳・・・・人々が、一向に〔後継者を明言しない曹操の態度〕に気付き始めたのは、彼是れ10年以上も 前の時点であった。10余年前 と 謂えば、曹丕は
20歳前、曹植は加冠すら済ませて居無い少年であった。爾来
10余年の間、この 跡継ぎ と目される兄弟は、その青春時代の
真っ只中を、ズ〜ッと精神的重圧を受け続けながら、表面上は
健気に振舞いつつも 恒に兄弟を”競争相手”として意識させられ続けて来て居た。本来自然の姿で在ったなら最も信頼し合得る
最愛の肉親同士で在る筈のものを、その父親の不明瞭な態度に因って 兄弟の両方ともが異様な環境の裡に置かれ囚われた。
之では正常な人格形成が為されよう訳が無い。生涯に渡って氷解し得ぬ、互いへの不信感・憎しみが植え付けられ、増幅されるのは 自明の事だった。
父・曹操が覇王として、その大業を巨大化させ、その栄華を確固不動の地位へと押し上げれば上げる程、それに逆比例して兄弟間の確執は、周囲の者達を巻き込んで、互いへの怨念と化して深まってゆくーー
畢竟、曹魏国家の繁栄は、曹操親子の不幸へと連鎖・反比例してゆくしかない・・・・
だが、その責任の全ては、本人達の所為では無く、そうした異常な環境を、我が子に押し付けた父親・曹操に起因した、と謂って構わぬであろう。
ーー事実、曹操本人も其の子供達も識らぬ近未来の事・・・
歴史の神 は、彼ら親子の、其の”人倫に悖る宿業”に対して、
極めて明確な判決・処断を下すのである。ーー即ち、曹操が築き
その息子が跡を継いだ魏王朝を、その宿業の故を以って、極く短命の裡に滅ぼすのである!本来なら、兄弟あい助け合って、王朝・国家を維持発展させるべきものを、その不信と怨念の所為を以って、肉親の誰1人をも地方の鎮めとして用いずそれが故に国家の経営は強固な地方基盤を持たず、いざ!の時に地方から駆け付けて呉れる兄弟 (王) は、誰1人も無い儘に潰え去る・・・・
又その魏王朝を継いだ晋王朝は其の弱点を”徹”とする余りに逆に地方に王を配置し過ぎて (8王の乱)、 之も亦、短命に自己崩壊してゆく・・・・
即ちーー曹操は己の後継者選びに、不要な混乱と疑心暗鬼をその兄弟間に助長・増殖させた事に因って、王朝建国の濫觴段階で既に、暗い未来を暗示する
自己崩壊の種を産み付けて居た
のである!!
而して多少の弁明をするなら、曹操にも已むに已まれぬ事情が在った。
元々聡明で万事 卆の無い曹操孟徳の事である。況してや、己が滅ぼした大国の御家
騒動・後継者問題の失敗例が、つい昨日の”他山の石”として、鮮明に焼き付いて居た
筈である。「袁紹の冀州」、「劉表の荊州」ーー両者共に事前に跡継ぎを確定・指名せず
育てて措かなかった故の滅亡であった。
《後継者は早目に ”嫡子”に決定し、
家臣団の 不協和音内を 来たらせず!》
それが解らぬ曹操では無かった・・・・が、そんな曹操を2つの不幸が連続して襲った。
1つは嫡男〔曹昂の戦死〕であった。曹操自身の慢心と 油断が原因だった。彼が
生きて居れば自ずから継嗣と成って居た可能性が強い。だがまあ、其の時点では未だ
曹操自身の実力が不安定だったから後継者云々の問題が鮮明化する事は無かった。
2つ目は、神童・〔曹沖の夭折〕であった。曹丕自身が後に
「倉舒が生きて居たら、儂に跡継ぎの目は全く無かったであろう」 と述懐している程の
天才児であり、尚且つ人々を惹き付ける温かい心映えの持主であった。曹操は溺愛し
自慢した。だから曹操は、曹沖の死を知った時、
「之は儂にとっては最大の不幸じゃが、お前にとっては幸運であろう!」との、凄まじい
言葉を曹丕に吐き捨てたとされる。又、酔った席などでは常々
「儂の跡継ぎは、此の曹沖じゃ!」 と公言して居た。ーーその曹沖の死が
今から8年前の 208年の事であった。 ガックリと落胆した父・曹操は、やがて幾分か
醒めた眼で、この完全無欠な天才児と、 曹丕・曹植兄弟とを比較し始める事となった。
《より曹沖に近いのはどちらじゃ!?》・・・その決定基準が、”才能”次第と成っていった
については、多分に此の曹沖の存在が影響して居た事は否めないであろう。又、其の
迷走の根源を辿って観れば、実の処・・・・
〔長子相続の大前提〕は、神童・曹沖の出現に拠って、
曹操の裡では既にかなり以前から崩れ去っていた!
と謂えようーー而して、曹操も周囲も《世継ぎ候補》として異存の無い「曹沖」で在ったが
唯一の懸念材料は虚弱体質であった。成長すれば壮健に成るであろうとの期待感が、
継嗣決定を遅らせた・・・そして突然の死。《よし、じゃあ次は!》とは、ゆかぬであろう。
折しも、曹操自身の天下統一の野望は、赤壁の戦いで夢の彼方へと潰え去っていた。
何某、覇王の心中に、或る種の《諦観》が兆し始めても居た。
又、己の健康・寿命にも”老い先”が見え隠れし始めていた。更には・・・・
《三国鼎立状態は長引くであろう》との見通しも付く状況に成りつつ在った。
《3国鬩ぎ合いの中で〔曹魏王朝を開闢する〕のは、息子の時代に任せるしかあるまい
・・・・では、その任に最も適するのはどちらか!?》
ーー結局の処、曹操を迷わせたのは・・・・
曹丕が、可否無い 普通の人物 に過ぎず、
曹植の方が、曹操の資質に より近かった・・・・
それが根本に在った故であろう。何故なら、長男が最優秀で在ったならば父王・曹操は
継嗣決定に、何ら逡巡躊躇する必要も無いのだから。 とは言え、曹丕は排する程に
凡庸で在ったかと謂えば、そんな事は無い。家臣団の大多数は、”長子”で在る曹丕を
推して居る事実から観ても、決して凡庸な資質では無かった。と、為ると・・・・
流石の曹操と雖も、矢張り、己の
感情愛情に左右され続けて居た
と謂わざるを得無い。・・・・それでは「余りにも人間的」に過ぎ、冷静沈着な曹操像とは
一致しないでは無いか?→だから恐らく、両者に派閥が出来るのを見越して、譜代から
の大地方豪族で在り、邪魔な存在と成って来た
【丁一族】を粛清する為の〔演出〕であった!とする観方や、その対立に託
け付けて【廷臣派】を根絶やしにする為の〔口実〕であった!と観る向きも
在るが、正論とは言い難い。何故なら、その「丁一族」は後に大貴族として繁栄してゆく
からであり、勤皇派の頭目と見做した崔王炎の強要死は、既に実行されていたのである
さて、その曹操・・・魏王と成ったからには、遅くとも1年以内には太子を立てなければならない。( 実際は1年半後となる )
曹操自身の愛情と判断だけであれば、〔曹植〕に心針は振れる。 とは謂え、「曹沖」の如く、ブッ千切りの、万人が挙って納得する様な優秀さであるとは言い難い。ーーとなれば矢張り、【重臣達】の意見を、もう1度、再吟味せずばなるまい・・・・但し、その際の重臣とは、魏の国が出来る以前から、苦楽を共にして来た古参・譜代の参謀や、親族の将軍達であるべきであろう。
最近になってからの者達では、どうも生臭い。既に功成り名を遂げて居る者でなければ、国家の為よりも 己の栄達を優先する に 決まっている。客観無私の立場で冷静に、公正な意見を為す者でなければなるまい。
と、すれば自ずから、その相手は限られて来る。「荀ケ」「荀攸」の両荀君亡き後ーー大所としては・・・・喜寿
(77歳) を迎えて元老の風格と成った【程cていいく】が居た。然し其の程c、
《老醜を晒す心算は無い!》・《惜しまれて退くのが男子の本懐である!》 との信念から、老子を引用し、 『充足を知る者は恥辱を受けない』 と謂う。儂は引退すべきじゃ!」 と一徹に自己具申しサッサと兵を返上するや、以後は固く門を閉ざして外出しなく為っていた。名誉職として〔衛尉〕の任には就かせてあるが、強情で名を通した彼の事だ。諮問しても応ずまい。
ーーとなれば、先ず〔前軍師〕の【鐘遙】だ。西方対策のエキスパート・”西の鎮め”としての功績は大きく、また其の以前には、
「官渡の戦い」の最中”至弱”と観られていた曹操に、軍馬2千頭を贈って寄越した経歴の持主。213年に魏公国が建国されたのを機に、〔大理=司法長官〕に抜擢して居たが魏が王国となった今年中216年には〔相国〕に昇進させる手筈に成っていた。
その【鐘遙】は一点の迷いも無い《嫡子相続論者》で、至極当り前の事として曹丕との親交を強めて居た。相国の昇進祝いに曹丕から〔五熟釜〕をプレゼントされるや、大感激した鐘遙は銘文を刻み付けて貰い、それを栄誉として家宝にして居り、逆に曹丕も、鐘遙秘蔵の〔玉王夬〕を所望し合う程の間柄で在った。だから勿論ガチンガチンの曹丕支持者で在った。
・・・と謂うよりも、支持も不支持も無く、
嫡子相続が当り前と思って居る、
大多数の者達の典型 と観るべきだろう。
敢えては進言して来ぬが、【夏侯惇】を筆頭に、その周辺の宗族の意向も、どうやら其の辺りと観て間違いは無かろう。だがまあ、彼等は曹操の決断に対しては異を唱える様な連中では無い。
この、《嫡子相続の大原則》については、粛清した【崔王炎】ですらその兄の嫁が曹植の妻で在るにも関わらずーー『その事は死を以って守り通うします!』 と諮問して来て居た。又、曹植の家丞に任じた【形禺頁】に諮問した時も、『庶子を以って嫡子に代える事は前代の教える禁忌 タブーです。どうか其の事をとくと御考察下さい』 と言って寄越した。 【司馬懿】と【陳羣】は古参とは言い難いが、之は強力な曹丕派のブレーンと成って居る。
こうして冷静に、改めて客観的に見渡せば、〔曹植〕を推す者達の何と少ない事か!・・・・哀れな程に少ない。余ほど日和見の者達が多いのか?それとも、俺の観る眼が偏って居たのか!?
ーー矢張り、儒教の道徳律は
”唯才”を掲げる 新しい価値観では
打破できぬとでも謂うのか!?
其の不満が、曹操の決断を遅らせた大きな理由の1つでも在った。才能面だけで比較すれば、矢張り曹植の方が勝って居る。
だが・・・・積極的に曹植を推挙して来るのは丁儀・丁翼兄弟と楊脩だけである。他は単に自分の感想や人物評価を、率直に述べた程度だった様に思える。ーーそうした者では、荀ケの長男 【荀ツ】は、自分(曹操)の娘 (安陽公主)の夫である。【孔桂】・【楊俊】・【秦朗】、それに【邯鄲淳】も含まれようか。
又、【奥】の女達の眼から観た人物評価も、存外あれはあれで参考になる。警戒心を解いた奥での振舞いは、日頃の表面には現われぬ、人間の本性や性向が、ついついの中に出て来るものだ。まあ参考程度にはなるか?? 無論、〔宦官〕達なぞには一切、意見を求めぬ。宦官を寵用した国は必ず衰亡して来ている。魏公・魏王と成る辺り以前から曹操も 〔宦官〕を採用して来ていた。元来から曹操は《宦官必要悪》論者で在った。だから、袁紹・袁術兄弟が「宦官根絶やし作戦」を実行した時にも、参加を拒んで都落ちを最優先した。まあ 但、曹操の場合は、独立国家としての
体面を整える為が優先であって、深刻な必要性が在った為では無かったろう。ちなみに、この時点では【孫権】も採用して居た可能性が高いと想われる。孫権の場合は「京風文化への憧憬」が強いかった為であろう。但、【劉備】は其れ処では無かったから、採用して居たとしても極く少人数で在ったろう。寧ろ未だ採用して居無かった可能性の方が高い様だ。ーーいずれにせよ、3国が揃って宦官を用いる記述が登場して来るのは、2代目以降の事となる。ーーちょっと横道に逸れてしまった。
《新鮮な所で、”郭氏”の評価を聞いてみるのも面白いか?》
【郭氏】は最近に曹丕に宛がった女だから、当然、曹丕を悪く言う筈は無いし、曹植への評価は厳しいだろうが、正妻では無いし、【甄氏】に聞くより幾分かは客観的な眼も持って居るやも知れぬ。一番中立なのは、実母で在り曹操の妻である【卞氏】だが、賢い彼女は意見を求めても、決して答えはしないであろう。候補兄弟の母親で在る彼女は、私情だけで言えば、末っ子の曹植を最も可愛いがって居る。だが溺愛する様な愚かな女性では無く、己の立場を十二分に弁えて来ていた。過去に於いても、政治向きの事については一切の頼み事を慎んで来て居る。正に糟糠の妻・良妻賢母で在った。
《或る場面では、儂以上の働きをして貰う事に成るだろう・・・・》
さて【郭氏】との面談・・・・史書には具体的な場面も会話も記されては居無い。但し「正史・郭后伝」にはーー『太祖が魏公に成った時に見い出して東宮に入れた。郭氏は智略が有り、絶えず意見を奉った。文帝が後継者に決まった事についても郭氏の画策が有ったのである。』 と 明記している。 この記述は 寧ろ、夫の曹丕に対するアドバイスが中心であった事の証明であるが、あの曹操が自ずから市井に在ったのを探し出して来た程の才女である。関係の( ソッチのでは無く )浅かろう筈は無い。(曹操のバヤイは、断わりが必要デアル)何くれと無く眼を掛け続け、当然、会話する機会も多かったであろう。
「・・・・成る程な。まあ、大方の見当は着いて居たが・・・・。」
曹操は、もっと中立な立場の、己の側室達の言葉も参考にした。中でも寵愛している 【王昭儀】の意見は 最も重みが有った。もう
此の歳ともなれば”色”だけが寵愛の意味では無い。その温かい人柄と 理智と、無欲な大らかさなどが対象と成っていた。
ーーそうした聞き取りを総合的に集約して判定してみると・・・・・
曹植の芸術家肌の無頓着さは、【大奥】では余り、評判は芳しく無い様だーー「正史・曹植伝」も・・・・『曹植は才能によって特別に評価された上に、丁儀・丁翼・楊脩らが彼の羽翼と成って助けた。太祖は考えあぐね、太子と成り掛けた事が何度か有った。処が曹植は生地の儘に振る舞い 自己を飾ったり努力したりせず飲酒にも節度が無かった。 文帝 (曹丕) は手立を講じて自己を統御し、感情を矯め、自分を飾った。
宮女や側近はいずれも彼の味方をして進言した為、結局 (曹丕が)世継ぎと成る事に決定した』
・・・・としている。
《ーー是れは、どう見ても、勝負有り!じゃな・・・・》
曹操自身を除いて観た場合、「曹丕の支持率」は圧倒的で在るのが現実だった。他の者達に『曹操孟徳と同じレベルに成れ!』と命じた処で、土台無理な話しではある。
《ーーまあ、其れが、家臣としては、当然の姿では在るか・・!?》
そう納得しつつも、未だ心の片隅に残る ”一抹の未練” を 断ち切る為に、曹操は敢えて決断の前に、最後の1人に意見を聴く事とした。
「荀ケ」「荀攸」の両荀君亡き後、最古参の参謀と謂えば・・・矢張此の男・【賈言羽】であろう。曹操は最後の最後に賈言羽を呼び出した。そして 左右の者を遠避けた上で、彼の忌憚無い意見を求めた。ーー処が近従の者達が全て退がったにも関わらず、賈言羽は
只、ボ〜ッと 中空を眺めて押し黙った儘、一向に意見を述べ様とも仕ない。 「・・・・・。」
流石に業を煮やした曹操が声を掛けた。
「君と話し合って居ると云うのに、答えないとは何うしてだ?」
すると賈言羽は、アッ!と云う様子で、初めて口を開いた。
「今ちょうど考え事をして居りましたので、直ぐにお答し無かっただけです。」
如何にもトボクレタ賈言羽らしい態度に、曹操も亦、腹も立てずに尋ね返す。
「そりゃ又、何を考えて居ったのじゃ?」
「いえ何ただチョット袁紹と劉表父子の事を考えて居たのです。」
其れを聴いた曹操、大笑いして頷いた。言わずも哉、袁紹も劉表も嫡子を廃した為に、結局は御家騒動を招き、内部分裂して亡んだ。亡ぼしたのは曹操自身であった。
ーー正に阿吽の呼吸、打てば響き合う関係で在る。
「いや、大いに参考と成った。之で雲は晴れた様じゃ・・・!」
《・・・・なんだ・・・・曹植の才能に蠱惑されたのは、結局、儂独りで
在ったのか!?》 一旦、決めてしまった後では、存外な事に、《俺は、何故こんな事で迷って居たのか??》 と思える程でさえ在った。 そんな自分に驚きつつも、今度は 尚更一層に、破れた
【曹植の行く末】こそが 思い遣られる 曹操で在った。
・・・・そして某日の事・・・・・・・
「よいな植よ。之は、儂と御前の2人だけの間の話じゃ。」
曹操は、真っ直ぐ、我が子の眼を見ながら切り出した。
「未だ、余人に告げるのは、1年ほど後にする心算じゃが・・・・。」
勘の鋭い曹植には、何の事だか直ちに判った。然し父王は我が子が反応する時間を阻止するかの如く、間髪を置かずにズバリと言った。
「魏国の世継ぎは、矢張り 長子相続に決めた。」
《ーー!!》 転瞬、曹植の全身に 稲妻が走った。それが 脳髄を貫き、思考を遮断して、全身を氷り付かせた。
「もはや断じて変更は無い!!」
おっ被せる様な父の宣告であった。
「ーーハッ!!」・・・・と答えて父の顔を見たものの、曹植の眼の前には何も映じて居無かった。在ったのは只、夢幻の暗黒・・・・
「落胆するのは当然じゃ。この父の優柔不断の所為で、長い間、お前には させずとも済んだ、余分な心労を 掛けてしまった。
すまぬ、許して呉れ。」
曹操は、つと 膝をにじり寄らせると、思わず曹植の手を取って
言った。
「今、儂の前でなら 思う様、口惜さや恨みの言を吐いても構わぬ。
じゃが シラフでは其れも為るまい。だから今宵は酔い潰れるまで飲むが好い。儂もトコトン付き合おう。泣いて詩って、心の憂さを全て此の父にぶつけてみよ。今宵は、儂と御前との 2人だけの
切無い宴じゃ・・・・。」
肩を震わせる曹植の眼からは、ポタポタと大粒の涙が溢れ出していた。
「酔う前に、是れだけは言って措く。重要な事だ。せめてもの父の気持だと 思って、然と覚えて置くのじゃぞ。」
その言葉の中に、深い愛情が籠められているのが分る 声音で
あった。
「よいな。こう決定が下ったからには、お前は自分で自分を守る方策を考えるのだ。儂が生きて居る間は、どうとでも守って遣ろう。だが問題は、儂の
亡き後の事じゃ。何が起こるかも分らぬ・・・・
それが人の世の常と謂うもの じゃ。儂の生きて居る間に”それ”に備えよ!!いいな、是れが何う云う
事だか解るな!?」
「ーー父上!!嗚呼、父上!!」・・・・滴り落ちる悔し涙ーー
「暮れ暮れも 自然に、徐々に徐々に 致すのだ。儂も曹丕には、
この決定を 直前まで知らせぬ。周囲にも、今まで通りの態度で
臨む。それが準備期間
だと思って、だんだんに、本物の頽廃人間に成ってゆくのだ。」
「ーーハ、ハイ・・・・父上の愛情が、今 改めて分った以上、私は何にでも成って見せまする。」
「明日から後の御前の言動は、全て 〔其の為のもの〕 であると、
この父だけは思って居よう。よいか、必ず天寿を全うせよ!それが父の命である!」
残酷で切ない父子の会話であった。
「せめてもの救いは、お前には才が有る事だ。その才を、今度は己の保安の為に駆使するのじゃ。よいか、事は容易くは無いぞ。天下を欺き通す位の性根を以って、芸術を為すのじゃ!」
「芸術・・・・と申されますか?」
「そうだ。劇を演じ切るのは立派な芸術であろう。本物より本物の役者と成るのじゃ。この儂もが心底、心配に成る位の大芝居を見せよ。それが唯一お前が生き残れる道じゃ・・・・。」
「ーー・・・・・。」 「惨い父親よのう〜!!最愛の息子に、こんな事を押し付けるとは・・・・。」
生まれて始めて見る父・曹操の涙であった。 「ーー!!」
キラリと光る一筋の涙が、全てを語り尽くしていた。
「私は父の子です!父上に之以上の心労はお掛け致しませぬ!
「ーーよう言うて呉れた。よう言うて・・・・」
曹操は涙を振り払う如く、つと 立つと 命じた。
「植よ、鼓を打て。儂が一差し舞おう!」
「はい。正気の曹植子建、最後の謡いと心得ました。」
「おう、途中からは一緒に舞おうぞ!」
その夜半の事、業卩城・曹操の室では、人知れぬ親子の宴が延々と続いた・・・・・
周囲の派閥は兎も角、当の曹植自身がーー或る時点から突然、あの聡明さをガラリと棄て去り、《之が同じ曹植か!?》と驚く程に常軌を逸した言動に奔ってゆく。
『正史』の書き方では、その行動が原因と為って曹植は失格者と成った・・・・としているが、筆者は”逆”であったろうと思う。失格を告げられたからこそ、そうした自暴自棄的な行動に奔らざるを得無かったのだと思う。また恐らくは、父・曹操から〔破れた側の生き残りの方便〕として、爾後の振る舞いを指示された結果の行動でもあったとすら考えられるのである。
先ずは『正史・陳思王植伝=曹植伝』の書き出し部分からーー
『陳の思王・曹植は、字を子建と言う。年10歳余りで『詩経』・『論語』及び『楚辞』・漢賦数十万字を朗誦し、文章を綴るのが上手であった。太祖は或る時その文章を見て、曹植に向って言った。 「お前は人に頼んだのか?」 曹植は跪いて言った。
「言葉が口を突いて出れば論議と成り、筆を下ろせば文章と成ります。どうか眼の前で試してみて下さい。何で人に頼みましょう。」
その時、業卩の銅雀台が新しく完成し、太祖は子供達を全て連れて台に登り夫れ夫れ賦を作らせた。曹植は筆を執ると忽ち作り上げたが立派なものだった。太祖はたいそう彼の優れた才能に感心した。
性質は大まかで細かい事に拘らず、威儀を整えず、車馬服飾は華美を尊ば無かった。進み出て目通りし、難しい質問をされた時、質問の声に応じて答えるのが常で、特別
寵愛された。建安十六年 (211年)、平原侯に取り立てられた。 十九年 (214年)、臨シ侯に国替えされた。
太祖は孫権を征討する時、曹植を業卩に留め、守備させたが、彼を誡めて言った。
「儂が昔、頓丘の令と成ったのは歳23の時であった。その時やった事を思い出しても、いま後悔する事は無い。今お前の歳も23である。頑張らない訳にはゆくまいぞ!」
此処までは文句無しで、曹操は寧ろ励まし、そして期待して居る。
処が、此の後の部分になると、ガラリと様子が一変する・・・・
『曹植は才能によって特別に評価された上に、丁儀・丁翼・楊脩らが彼の羽翼と成って助けた。太祖は考えあぐね、太子と成り掛けた事が何度か有った。処が曹植は生地の儘に振る舞い、自己を飾ったり努力したりせず、飲酒にも節度が無かった。文帝(曹丕)は手立を講じて自己を統御し、感情を矯め、自分を飾った。宮女や側近はいずれも彼の味方をして進言した為、結局 (曹丕が)世継ぎと成る事に決定した。 二十ニ年(217年)、領邑5千戸を加増され、前と合わせて1万戸となった。
曹植は或る時、魏王の専用道路 ( 馳道 ) に馬車を乗り入れると強引に司馬門を開かせて外出した。
太祖 (魏王・父の曹操) は 大いに腹を立て、公車令 (馳道管理官) は 其の廉で 死刑に処せられた。
この事から諸侯に対する掟と禁令は重くなった。
そして曹植への寵愛も日に日に衰えた。
※〔馳道〕は、皇帝・天子の専用道路だとするのが正しいかも知れぬ。両見解有り。
太祖は 既に 何時起こるかも知れぬ 変事を考慮し、楊脩が非常な才略を持っている上に、袁氏の甥 で在った事を考えた結果、罪を被せて楊脩を処刑した。曹植は益々内心落ち着か無かった
二十四年(219年)曹仁が関羽に包囲された。 太祖は 曹植を南中郎将とし、征虜将軍を兼務させ、曹仁を救援させようと思い、呼び出して訓戒する事があった。
曹植は酔っ払って居て、命令を受ける事が出来無かった。そのため太祖は後悔して其れを取り止めた。』
以上は全て、『正史』・曹植伝の記述である。エッ?3級史料では無いのか!と驚愕する様な、衝撃的な内容である。
かつて 邯鄲淳に対して、気迫に満ちた 肌脱ぎの剣舞 を見せて語り合い、その人をして〔天の人〕と言わしめた、あの凛烈な曹植の姿は一体どこへ行ってしまったのか・・・・!?
急に「アルコール中毒」に豹変してしまい、事も有ろうに関羽との死闘の真っ最中だと謂うのに、グデングデンに酔っ払い、その戦場に駆け付ける事すらも出来無い 体たらく・・・・とは!!?
※3級史料の『魏氏春秋』は・・・・『曹植が出発しようとすると、太子は酒を飲ませ、無理強いして彼を酔わせた。魏王は曹植を召し寄せたが、曹植は王の命令を受けられ無かった。そのため王は腹を立てたのである。』 と してある。
全てと迄は言わないが、筆者は、その行為の殆んどはーー父・
曹操が、曹植に引導を渡した時の、せめてものアドバイスとして与えた、破れた者の 〔生き残る為の方策〕 に従っての【演技】であった・・・・と観たい。
生来からが、『性質は大まかで細かい事に拘らず、威儀を整えず車馬服飾は華美を尊ば無かった』 曹植であった。その豪放磊落で繊細・溢れる才気が魅力で在った曹植は、何時しか其の美点を”堕落”と見られる様な深酒の虜と成ってゆき・・・・終には・・・・
デカダンス・頽廃の王と成り果ててゆくーーこの頃の曹植の詩賦
驚風飄白日 驚なる風は 白き日を 飄わし
忽然歸西山 忽然として 西の山に 帰る
圓景光未滿 円き景なる月は 光の未まだ満たず
衆星粲以繁 衆くの星のみ 粲めきて 以って繁し
志士營世業 志士は 世の業を 営い
小人亦不閑 小人も亦 閑からず
聊且夜行遊 聊か 且つ 夜に 行遊し
遊彼雙闕間 彼の 双闕(宮門)の間に 遊ぶ
文昌鬱雲興 文昌(文昌殿=正殿)は 鬱として 雲のごとく 興り
迎風高中天 風を迎えて 中天に高し
春鳩鳴飛棟 春の鳩は 飛ぶ棟に鳴き
流犬犬犬激木需軒 流るる つむじ風は 木需ある軒に 激し
慷慨有悲心 慷慨して 悲しむ心 有り・・・・
寶棄怨何人 宝は棄てられて 何人を怨むや・・・・
”魏王・曹操”は、〔皇帝への階〕を上り詰め、いよいよ最後の1歩を余す耳と成った。だが正に今、此の瞬間から、”詩神・曹植”の〔煉獄時代〕も亦、その底無し沼への階を、確実に1段ずつ降り始めて行くのであった。 ーー栄光 と 屈辱 の 日々・・・・
・・・・・ 【酒に対いて】 ・・・・・
對酒歌太平時 酒を対にして歌わん 太平の時を
吏不呼門 徴税の吏は 門に来たらず
王者賢且明 王たる者は賢にして 且かつ明
宰相股肱皆忠良 宰相と股肱とは 皆忠良にして
咸禮譲 礼をわきまえ 譲りあり
民無所爭訟 民には 争い 訟せめぐ所 無く
三年耕 三年耕せば
有九年儲 九年の儲たくわえ有り
倉穀滿盈 倉の穀こめは 満ち盈みち
班白不負戴 白髪しらがを班まじえし者は 負い 戴かず
路無拾遺之私 路には 遺おちたる物を拾い私とする者なく
耄耋皆得以壽終 耄い耋いし者は皆天寿を以って終るを得
て
恩澤廣及草木昆蟲 恵みは 広く 草木昆虫にも及びな
ん
「曹操」から「曹丕」へと受け継がれる事と成った〔魏国〕 の未来は、【魏王朝の開闢】に向って、
果して如何なる成り行きを見せるのか??
そして又、【呉の孫権】と【蜀の劉備】は、この曹操の野望に 如何なる策を以って対決してゆくのか?
かくて三国鼎立の 《分裂王朝時代》 の足音は、
【魏・呉・蜀】3者の思惑を秘めながらも、
着実に現実的な地平へと近づいてゆくのだった
ーー畢竟、其処に待ち受けて居るものは・・・・
3者全知全能を傾けた
策謀の鬩ぎ合いであり、
3者激突の攻防の日々であった!!〔第14章〕 魏・呉・蜀、 3者 激突の火蓋
【第206節】 魏王の大軍、呉へ ( 御祝儀代りの全26軍 ) → へ