第204節
魏王曹操
《その栄光と暗黒》
                        皇帝への最後の1歩

『三国志』の著者陳寿」は曹操の【魏王】就任
ついては
敢えて黙殺の態度を採る。そして僅かに1語・・・・
天子ハ 公ノ爵位ヲ昇進サセテ 魏王 ト シタ と、のみ記す。それに対し 3年後の劉備の〔漢中王〕自称
については
大々的に頁を割き
家臣団の上表全文は勿論の事、劉備の上書全文までを載録しその一部始終をハイライトとして取り上げる。
又、5年後に
孫権が、魏帝から〔呉王〕に封じられる時の事は、其れなりに、通常な態度で紹介する。

ここに『正史三国志』の”本音”が窺い知れるのであるが流石に裴松之は 不均等
だとして、補注に曹操の魏王就任の史料を補完して呉れている。
其れを元に、《曹操の魏王就任劇》 を再現してゆこう。



216年(建安21年)春2月、曹操は「業卩」に帰還した。
既に
〔社稷〕を立てる事を許された魏公曹操で在ったから、その帰還を祖先の霊に報告する専門の官職 (有司) が設けられて居た。その有司は 2月1日、3種の生け贄 (太牢=牛・羊・豚) を供えた後、曹操の「漢中平定」の勲功記録を宗廟に納めた。
爾後、こうした古来からの伝統儀式
祭祀の類は魏国の君主と成った曹操には今後ますます繁多となるところが曹操・・・その伝統儀式遣り方を”陋習”と見做して彼独特の合理性を取り入れ平気で”オレ流”に変えてしまう!のである
2月24日に、【魏国】としては初めて行なわれた「春の祭」の際の曹操の布告文が残る

我々も、国王・皇帝に成った心算で、その 宗廟での神聖な儀式 に臨席し、
その
式次第疑似体験してみよう。( ※ 白文字が古式、青文字は曹操流である。)

有識者たちは、宗廟での祭祀の場合、殿上に登る時は履を脱ぐものと主張している。だが儂は錫命を受け、剣を帯び履を脱がずに殿に登る事を命じられた。今、宗廟にて祭事を行なうのに履を脱ぐとなると、それは先公を尊んで王命を蔑ろにし、父祖を敬って君主を疎かにする事と成る。それ故、儂は敢えて履を脱いで殿に登る事はしない
又、
祭祀を前にして 手を清める際、手を水に浸ける マネ をして洗わない のが伝統で
ある。 然し”清め”は清潔を以って大事とするのだ。マネだけして洗わぬのは不可しい。だから 儂は 親しく
水を手に受けて洗う事にする。
神降ろしの儀礼が終ると、階段を降りて天幕に入って 立った儘 で、神楽の演奏
終了するのを待つが、是れでは御先祖方を楽しませず、丸で 祭祀が早く終るのを 待ち兼ねて居る かの様に見える。従って儂は
座った儘で、音楽が終り神を送るのを待って、はじめて起ち上がる事にする。
供物をお受けし袖に納めそれを侍中に渡すが、其れでは 敬虔な行為が内容を伴って終結する事にはならぬ。従って儂は親しく袖に納め、最後まで抱えて持ち帰る事にする

そこで一句・・・・曹操の面目躍如たる臍曲り哉!
( 字余り )
更に
3月3日には2年ぶりに〔籍田〕耕した。又、世に有名な詩賦対酒太平を歌わん〜を詠ったのも此の時期であったとされる。ーーだが曹操、こんな御祭り騒ぎや詩作の為に、ワザワザ 《蜀併呑》 の絶好の機会まで投げ打って、急いで帰還して来た訳では無い。

216年5月曹操魏王就任を強行した

と謂う表現が最も相応しいであろう。 其れが如何に 既定のプログラムに
沿った政治日程であったとは謂え、内外諸々の問題が山積する中での
無理押しに近いヘゲモニーの獲得であった。無論、表向きは献帝からの”勅命”であった。曹操は3度辞退する。献帝も 3度復命する。そして4度目、遂に、献帝てずからの手筆の詔勅を賜るに及んだ曹操は、渋々やっと勅命に従って魏王と成る・・・のである。勿論、「お定まりの儀式」の過程に過ぎぬ。

その詔勅とされる文辞が、補注の 『
献帝伝』 なる胡乱な 4級史料に載録されている。
まあ、全くの目茶苦茶でも無い・・・だろうからこそ、裴松之は載録し、別に恒例の(?)
”文句”も併記されては居無い。雰囲気は出ているから
(外に史料も無いシ) 読んで置こう。
ちなみに、漢の高祖・「劉邦」は遺言していた。「
もし劉氏以外の者で、”王”を名乗る奴が出て来たら、速攻で取り囲んで、寄って多寡って凹凹にしてしまうのだぞ!」 と。 (その事を忘れずに読まれたい。)

               
古代以来、帝王の称号は変り、その氏族は同じとは謂えぬが大勲ある者を讃え尊び功あり徳ある者を取り立て、その氏族の名を輝かせて子孫まで及ぼす点では、異姓と親族の間に何で差別が有ろうぞ。昔、我が聖祖 (高祖・劉邦) は天命を受け賜い、大業を創始し、基礎を築かれ、我が中華の国を建設された。古今の制度を検討し、爵位の相異を理解され、山も川も、全て封地として、藩屏と成るべき諸侯をお立てになった。
異姓親族を問わず土地を分けてやり、領土を持つ王としてやった結果、天命を 安らかに保たれ、万世に渡る 後継者の地位を安定させ、歴代泰平が続き、君臣共に何事も無く済んだのである。世祖(光武帝)は中興の業を起こされたが困難な時代も容易な時代も在る。そのため数百年の長期に渡り、異姓の身で諸侯王の地位に就く者は無かった。

朕は不徳ながら大業を受け継いだが、世界が分裂崩壊し、凶悪な者供が害悪を思いの儘に撒き散らす時代に遭遇し
西方から東方へと赴き辛酸を舐めた。この時期に在って唯、危難に落ち込んで 先帝の聖徳に泥を塗る事だけを恐れた 皇天の加護の御蔭で(曹操)が正義を守り一身を奮い立たせ、神の如き武威を轟かせ、朕を 艱難から防ぎ宗廟の安全を確保して呉れる事となった。 中華の 打ち棄てられて居た民草、生きとし生けるもので、その恩恵を蒙らぬ者は無かった。
君の勤労は、后稷
(舜の下に居た周王朝の始祖)、夏の禹よりも甚だしく、忠義は 伊尹周公と
同等であるのに
謙譲を以って身を包み、いよいよ恭敬な態度を持して居る。その故にこそ、先般はじめて魏国を開設し君に領土を授けたのである。君が我が命令に沿わず飽くまでも辞退する事を恐れて、暫く此の意向を持ちながらも差し控えて、君を上公に封じて措き、君の立派な生き方を尊重しつつ、功績を待ってから と考えたのである。

韓遂
宋建が南方の巴蜀と手を結び、南北連合して反逆し国家を危険に陥れようと企んだ時、君は将軍に命じて武威を奮わせ、彼等の首を晒し物にし、その巣窟を破壊した。西方遠征の時には、陽平の戦いに於いて自ら甲冑を纏い深く険阻の地に踏み込み、害虫どもを根こそぎやっつけ、その内の凶暴醜悪な奴ばらを撃ち滅ぼし西方の辺境を平定し万里の彼方に軍旗を翻し、名声と 教化は 遠くにまで轟き、我が中華を
安寧に導いた。詰り、唐 (堯)・虞 (舜) の盛時には、3人の君(伯夷・禹・稷)が功業を立て文王
武王の興隆には周公と召公が輔佐を行ない2祖が大業を成し遂げたについては英傑たちが天命を助けたのである。 そもそも聖哲の君主は、万事を我が任務として居ても尚、領土を授け瑞玉を与えて功臣の労に報いるのだ。一体、朕の如く徳薄く、君の力に頼って政治を行って居る場合に、恩賞・典礼を充分に与えなければ、何うやって天地の神霊に応え万国の民を労わり得ようぞ。

今、君の爵位を魏王に登し、使持節御史大夫・宗正の劉艾に、辞令印璽玄土 (北方の領土を示す黒土)の社土を 白い茅に包んで持たせ、第1より第5に至る迄の金虎符第1より第10に至る迄の竹使符を授ける君は拠って王の位を正せ( 両に軍隊を動かす際の割符)
丞相として冀州の牧を担当する事は従来通りとする。
魏公の印璽と綬・符・冊
(書類)を返上せよ。
敬しんで朕の命令に服し、汝の衆を鍛え労わり よく庶事を安んじよって我が祖宗の偉大な天命を輝かせ輝かせよ。』

魏王は上奏文を奉って3度辞退したが、応答の詔勅も3度下って許可され無かった。また手筆の詔勅に述べる ここも献帝伝の記述である。

                   
偉大なる聖人は功業徳行を高く評価し忠誠調和を教えとする。それ故に大業を創始し名声を残し、百代の後迄も理想として仰がれ、道理に則って行動し
正義に拠って取り決めその力行は模範として見習われるのである。それだからこそ、その勲功は無窮のものであり、美しき輝きは眼を見張るものが有るのである。稷と契は元首の聡明さを上に戴き、 周公・邵公は 文王武王の英知の働きに頼り多くの官を取り仕切り感歎
思慕に値するけれども、その諸侯拝命の 受け答えが、君の様に 謙虚な者が 在ったであろうか。朕は古人の勲功が、あの様に称揚されている事を考え
その一方で君の忠勤の功績が此の様に立派である事を思うのである。
それだからこそ何時も、王位の割符を刻んで2つに分ち、儀礼を列ね、冊書に命令を書き付ける心算で、寝ても醒めても心を高ぶらせ、その為に、過去の成果を維持するだけの不徳の身で在る事を、つい忘れるのである。
今、君は何度も朕の命令に従わず、繰り返し固辞したが、それは朕の心に合致し 後世に教えを垂れる遣り方では無い。
志を押さえ、節を曲げて、これ以上、固辞するでないぞよ。
献帝は又、残り少なくなって来た「賜り物リスト」の中から、1年刻みに、思い出した様に殊礼を曹操に与え続けてゆくもう是れ以上先延ばしにされたら、皇帝の特権として 臣下にプレゼント
する物が枯渇してしまう程の大盤振舞いであった。つまりーー
皇帝が身に着け、持っているとされる全ての権力・特権を差し出し、後はもう、 『皇帝と云う名前』 だけが冠せられて居無いだけの【
クローン皇帝】の誕生と成ってゆくである。いや実際には・・・・
移植されたクローン細胞は、更に独自の自己増殖?を繰り返し、終には母体の現皇帝さえをも凌ぐ実力を持った【准皇帝】から→【
真皇帝】が誕生するのであった!!・・・・と謂って宜しかろう。
そのナケナシの最後の”殊礼”は翌年の217年に授与される のであるが、前以って今、紹介して措こう。
魏王と云うものが 如何に 限り無く〔皇帝〕に近いものであるのかが
見た目にもクッキリと判る”殊礼”である

A 「天子の旌旗しょうきを用いる。
B 出入りに「警けいひつと称す。
C 「冕べん12旒りゅうの着用。
D 「金根車」に乗り6馬を駕し「五時副車」を使用

Bの→「警
けい」と「ひつ」は・・・天子の出行を知らせる先触れの事。
Cの→「べん」は・・・正装の冠 (上が平らな 冠) の事。
    「りゅう」は・・・冕の前後に垂らすスダレ状の玉飾りの事で、
天子は12本、三公・諸侯は7本 (乃至は本)、卿大夫は 5本 (乃至は本) と決められていた。即ち曹操は天子と同じ12流の〔通天冠〕を被るのである
Dのー→「金根車」は・・・天子専用車である 所謂、〔金華青蓋車〕と同じ仕様赤い車輪金の華飾り青い幌付きの馬車をたてがみと尾を朱に染めた 六頭の白馬が牽く、豪華絢爛な車駕である。
 
「五時」とは・・・
5つの季節の事で春夏秋冬に〔李夏=晩夏〕を加えその季節を示すバリエーションに塗られた専用車で「副車」と謂う
(
春は→青夏は→赤
李夏が→黄秋は→白冬は→黒 のボディカラー )

出処進退から服装、更には乗り物に至る迄、
全てが皇帝と同じ!
もはや今の曹操にとっては・・・・唯 単に、
「皇帝」と云う称号のみが無いだけ!に過ぎ無かったのである。
だから実際には、魏王・曹操が天下の全部を統べてゆく。 そして人々は、曹操を 事実上の皇帝・現実的な天子 と見做してゆく。

そのハッキリした事例が
外国使節団の赴き先であった自国の利益を最優先するシビアな外国使節は貢朝する相手を探す
場合
中国で最も実力の有る人物を嗅ぎ当て、其の元を訪れる。また更に重大な意味を持つケースが在った・・・・使節では無く、
外国の元首・首長が自ずから中国を訪れる場合である。それは〔新しい皇帝が即位した〕特別な時だけの行為であった。新皇帝を慶賀して拝謁を賜わると同時に引き続いての”臣従”を誓い 従前通りの庇護を認めて貰う為の、外交政策そのものだった。
即ち、〔
代がわり〕乃至は〔新王朝樹立〕の場合だけに行なわれる来朝なのである。だから、もし今、外国の首長が、「許都の天子」の元へでは無く、「業卩の魏王」を目指して行くとしたならばそれこそ最大の客観的バロメーターと成る訳なのだった

尚、この魏王就任に拠って『正史』の記述も亦、当然、此処から以後は、曹操の1人称を〔
〕では無く→【】と改めて 記す事になる。

春2月、は業卩に帰還した。3月3日、公は親しく籍田を耕した
夏5月、
天子は公の爵位を昇進させて魏王とした
代郡烏丸族の普富盧
(単于代行)が其の配下の侯王と共に来朝した。
天子は
の娘を公主と呼び 湯沐の邑 化粧領を与える事を許した。
秋7月
匈奴の南単于呼厨泉(外国の首長)その配下の名王を引き連れて来朝した 賓客の礼を以って待遇しそのまま魏に引き留め右賢王の去卑に其の国を取り仕切らせた。
8月
大理の鐘遙を相国とした ーー(正史・武帝紀)ーー
得意絶頂の
魏王曹操、ここで 或る恩人
業卩城に招き、満面の笑みを以って歓待した。
「おお〜、来て呉れたか!首を長〜くして待って居ったぞよ!!」

本当なら王座を飛び降りて、相手に抱き付きたい程の曹操では在ったが、取り合えずは先ず、公式な謁見の場であるから、そうもゆかぬ。

「ハハア〜、畏れ多い御言葉で御座いまする!」
相手の老人は、平伏した儘の姿勢を崩さない。

「面を上げて呉れ給え。積もる話は後の宴会の場で、ゆ〜っくりと致そうが、兎にも
 角にも、君の健勝な顔が見たいのじゃ!」

だが、そう言われた老人、元来からが ガチガチの士大夫。”礼”を重んずる事は尋常
一様では無い。如何に許されても
〔魏王様〕を前にして、おいそれと顔を上げるなぞ 滅相も無いと云った風情。

「相変わらずの一徹さよのう〜!許す、面を上げて呉れ給え!」

「ハハア〜、只々、恐悦至極に御座いまする!」

「よし分った。では2回分纏めて言うぞ。許す、許す、面を上げて呉れ給え! 是れで何うじゃ??」

「相変わらずの無茶苦茶ぶりで御座いまするナア〜!」
やっと顔を上げた老人の顔には、流石に笑みが浮かんでいた。

「おお、確かに京兆尹どのじゃ!あの司隷校尉どのじゃ!近頃は故郷の温県に隠居したまま門を閉じ、世間とは一切の交際を絶って居ると聞いて いたが、何なに矍鑠として居られるではないか!目出度い!嬉しいぞ!」

「この度は、魏国の王と成られまして、誠に慶賀の至りに存知あげまする。 そのうえ、政務繁多の折にも関わりませず、こんな老骨を御招き下さり、 末代までの光栄と 感激いたして居りまする・・・・!」

「時節の移ろいは速いものよのう〜。あれから何年が経った事か・・・・!」

それは曹操が20歳の事であった。

「そうですナア〜、もはや彼これ40年も昔の事となりましたかナア!」

「あの頃には互いに、こんな日が遣って来るとは思いもしなかった。」

「誠、夢の様で御座います。」

「よ〜し今日は、あの頃に戻っての無礼講とゆこう!徹底的に飲もうぞ!」

「はい、徹底的に飲みましょうぞ!」

「こんな嬉しい事があろうか!」  「こんな愉しい日があろうとは!」

人間、何が嬉しいかと謂って・・・・出世前の自分・原点の自分を知って居て呉れる相手に、功なり名を成した自分を見て貰う事ほど嬉しい事は無いーー「故郷に錦を飾る」・・・とはそうした無欲で暖かい人々の無償の喜びを共有し感じ取る愉悦であろう。殊に歳を取って来ると、それに懐かしさが加わり、来し方の思い出が重なる。少しの悔恨と大きな達観・・・・もう羨望も嫉妬も超越した悠然・泰然たる人間関係が出来上がって来る。
同級会や同窓会が、晩年に近づけば近づく程、事更に懐かしく成って来るのも、そうした感情が根底に在るからなのであろうか。又その逆に、大きく成長した相手と久し振りに会う歓びと云うものも有る。社会人として様々な分野で活躍する教え子に再会した時の教師の如く・・・・

「処で、おんみは幾つに成られた?」
「今年で68と成りました。」
「68!?・・・とても其んな風には思えん。」
40年ぶりとも成れば、互いに最初は其の変貌ぶりに 自分の事は棚に上げて 些か違和感を
覚えるものの、たった1会話すれば、忽ちの裡に 互いの 〔原初風貌〕 を掴み取って、
相手が確かに彼の人で在る事が了解される。
40年前の同窓会ーー話し出したらもう止まらない思い出は尽きる事無く次から次へと湧き出でて来る。その頃に関わった人物も 次々に浮かんで来る・・・・奔走の友の袁紹禺頁、宦官の張譲祖父の曹騰恩師の橋玄月旦評の許劭・・・・そして、この
司馬防・・・青雲の志を抱きながらも 〔贅閹の遺醜〕と蔑まれ放蕩三昧だった日々そんな中で此の〔静平の姦雄乱世の英雄〕を世にデビューさせて呉れたのが、当時、司隷校尉だった、この司馬防であったーー
洛陽北部尉〕・・・それが曹操の出発点であった。「五彩棒事件」を切っ掛に、〔西園の八校尉〕以後は正に乱世・・・・


上機嫌の曹操、無礼講の戯れに、司馬防に訊ねて見せた。
処で司隷校尉どの。この曹操孟徳は、今でも 洛陽の北部尉に
 成れるで あろうかノ ?

北部尉はペイペイの小役人である。暗に、魏王と云う最高位に昇り詰めた今の己とを比べた洒脱であった。さて、返答や如何に?

フム何の事はありませんあの時はただ如何な大王様と雖も、
 ちょうど北部尉に相応しかっただけの事ですワナ。


「ワハ、ワハハハハ。如何にも左様であったか!いやあ〜、こりゃ
 完全に1本取られたワイ。ウワァ〜ハッハハハハハ!!」

当然、話の合間には彼の息子達の話題も出る。
「司馬の八達」ーー司馬朗 (伯達)・司馬懿 (仲達)・司馬孚 (叔達)・司馬馗(李達)・司馬恂 (顕達)・司馬進 (恵達)・司馬通 (雅達)・司馬敏 (幼達)・・・・
「隠居したのでは、息子たち8人全員とは中々一同には会えぬであろう。そこで何うじゃ久し振りに司馬の八達、全員集合と致そうか?」

「いえ、それは 無粋 の極みで御座いましょうぞ。有り難い 御配慮には存知 まするが、
今や息子達は夫れ夫れ独立した者達です。一たび人臣と成り ました上は、もはや此の老骨には一切関係の無い立場に在りまする。故に固くお断り申し上げまする。本日はただ只管、殿との旧交を、余人を交えずに愉しみ尽くしたいのみで御座いまする。」

「ワハハハハ、その言や好し!如何にも左様である哉。」

盃は巡り、典雅な音曲が流れる中、懐かしい恩人を迎えた業卩の1夜は、何時はてるとも無く続いた・・・・そして此の3年後ーー
司馬防は71歳で他界する。息子達は全て、魏国の重臣として
取り立てられ、司馬一族の繁栄は不動のものに違いと思われた
・・・だが司馬防は、この宴の翌217年に父親としては最も哀しい事実に遭遇する。族長である長男の【
司馬朗】を、従軍先の居巣の地に疫病で失うのである。享年47歳。父に先立つ事2年・・・・この長男の突然の死に因って、一族の行く末は次男・【司馬懿】の双肩に託される事を知りつつ去って逝くのである・・・・。

かつて曹操は、尚書右丞・司馬建公によって推挙された。 公が 王と成ると、司馬建公を業卩に召し出し、共に歓を尽して痛飲した。王は戯れに、司馬建公に向って言った。
「私は今日でも、もう一度 ”尉” に 成れるだろうかノ ?」
すると司馬建公は答えて言った。
「昔、大王様を推挙いたしました時には ちょうど尉に相応しかっただけの事ですナ。」 王は大爆笑した。
司馬建公は 名を 防 と言い、司馬宣王
(司馬懿仲達)の父である。
                                          ーー(
曹瞞伝 )ーー


この宴に相い前後して、魏王曹操は、敵対する者には、丸で違った凶暴な顔を見せた。革命は正に今、始まったばかりなのである。その達成にとって邪魔に成る者は、たとえ世間の評判が如何に高かろうとも容赦はしない。見せしめ・警告の意味を含めて粛清・抹殺するーーその標的は・・・・面従はして居るが、その実、腹の裡では、飽くまでも漢王朝を尊崇しその存続を願う、
勤皇名士層との対決
であった。 とは言え、かつての荀ケの如く明確な諫言や不満を申し立てる勤皇派はもはや
見当たら無くなっていた
だから表立っての反発や反抗の証拠が有る訳では無かったーー詰り、讒言を仕組んだと観てよかろう。
曹操としては此の際、少しでも怪しい奴は全て抹殺して措きたかったのだ。又、予防・警告措置としての効果も狙ったと観られる。更に、穿った観方をすれば、〔
後継者問題〕にも絡む、複雑な側面も在ったやも知れぬ。

その人身御供・槍玉に挙げられたのは・・・河北名士 (士大夫) のリーダー的存在であり
【司馬朗】とも以前から親密で取り分けても人物眼に優れかつて司馬朗に向って、
貴方の弟 (司馬懿仲達) は聡明誠実、剛毅果断ひときわ優れた人物で、恐らく貴方の及ぶ処では在りますまい!」と断言し今でも其の説を持論として居る人物でもあった。
ズバズバ物を言う硬骨漢
王炎さいえんだった。字は李珪
音声容姿ともに気品が有って伸びやか、顔形は明るく広やかで鬚の長さは4尺 90cm。
非常に威厳が有った朝廷の官僚達は仰ぎ慕い太祖まで遠慮して敬意を示した。 ーー(正史・崔王炎伝)ーー 
そんな有能な大名士であったから、曹操も司空時代から現在迄
10数年の長きに渡って、直属の重臣(掾)として任用、もう1人の【
王介】とコンビを組ませ、一貫して「人材登用」・「官吏選抜」の重責を任せた来ていた。そのペアの2人3脚 ぶりは清廉清潔で公正公平であると、天下の人々から高く評価されて来ていた。

但し
今の曹操にとっては、《その評価する天下の人々自体》 に猜疑の眼を向けて居たのである。先賢行状を読むと、その天下の人々の階層が浮かび上がって来るーー
王炎は清潔忠誠、カラリとした人柄で未来を見通す見識を持ち公正な生き方を貫き、朝廷に於いて厳正な態度を取った。
魏氏が権力を握った初年、官吏選考の役目を委任され10年余りの間、人物評価を取り仕切った。 文武それぞれに渡って 才能を有する人々を、数多く見分けて選抜した。
朝廷は 其の高い見識を頼りとし、天下は 其の公平さを讃えた』 のである。
王炎を評価するのは、曹操にとっては都合の悪い階層の人々であった事は明らかだった・・・・。
事の発端は、かつて崔王炎が推挙した「
楊訓」なる人物
此処に名のみ1回出て来るだけで不詳
の 御追従から始まった。この 「楊訓」 なる
人物、曹操が魏王と成った事を慶賀
上奏文を差し出し曹操の功績を讃美し盛徳を称揚したまあ皆やる事だから何の不思議も無いのだが問題は其の中味であったきっと 歯の浮く様な
オベンチャラ たらたらの ”駄文”であったのだろう。
曹操自身は至って御機嫌で、周囲に見せたらしい。すると、其れを読んだ名士・〔某〕が、内心で顔をしかめた。そして忽ちの裡にその酷評が名士層の中に密かに飛び交ったーー
『楊訓は時世に阿り
事実を誤魔化す軽薄な文を書いた王炎は推挙する人物を間違ったのだ!』・・・その風評が崔王炎の元に迄聞こえて来た。そこで崔王炎は楊訓から草稿を取り寄せ、目を通した。成る程、やや品の劣る言辞が多かった。然し、巷間に流布されている如き、阿諛迎合の内容では無かった。そこで王炎は、楊訓に手紙を送って、《世間の噂など気にするな!やがて時が来れば、そうした世の風評なぞは消え去るものじゃ。》・・・と 謂う心算の気持を、やや詩的な表現で伝えた。
上奏文を拝見したが内容がよい耳のみだ。時よ時よ必ず時代の変化が有るに違い無い。』・・・・ 思わぬ風評を立てられ 凹んで居た楊訓は、その手紙を受け取って大喜びし、周囲の名士達に見せびらかした。ーー此処からが”讒言劇”の始まりだった。その崔王炎の手紙の内容を曲解し、「あれは天下を馬鹿にした、怨恨誹謗の代物ですぞ!」と曹操に密告した者が出て来たのである。曹操、すかさず其れを利用した。
諺に 『女を産んだ耳!』 と謂う。《耳のみ》 とは 穏当な言葉では無い。又、『必ず時代の変化が有るに違い無い』とは、意味する処、不遜である!」 と激怒して見せたーー
結果、崔
王炎は処罰された。だが如何に魏王とは雖も、大名士である王炎を、この程度の罪状で死刑にする事は、流石に無理が在った。そこで〔コン刑=髪を剃り落とす刑〕にし 懲役囚とした。
既述の如く、光武帝の後漢は 【寛治】 を目指したので、顔面への入墨 (黥)・鼻削ぎ(ギ)・脚の切断(ゲツ)の所謂3種の〔肉刑〕を廃止しその代りに此のコン刑・首枷・鞭打を導入していたのである。
曹操は幾度も「肉刑復活」を論議させて来ていたが、その都度、家臣団の反対多数で沙汰止みが繰り返されていた。
このコン刑を喰らった犯罪者は原則、牢獄に拘束される事は無く髪の毛が生え揃う 刑期明けの懲役囚として、謹慎・蟄居が要求された。だがまあ普通は、河童頭にされた時点で放免され、後の事は小五月蝿い事を言わ無かった
だから王炎元々濡れ衣だとの思いも有り、私邸には居たが今まで通りの生活を続けた。忙しい在職中でも、多くの賓客が連日の如く詰め掛ける大名士で在ったから、暇となったからには是れ幸いとばかりに更に多くの賓客・名士達が彼の私邸に押し寄せた。
曹操は其れを見越して居たから
その賓客に紛れてスパイを放ち王炎の行為・振舞を逐一報告させた。・・・・結果、曹操は命令を下した。
王炎は刑罰を受けながら、賓客を通し、門は商人の家の如き賑いだ。賓客に対しては、虫Lみずちの様な鬚を生やした顔で、真っ向から見詰め、(余の裁決に) 腹を立てて居るかの様だ。

ーー
かくて崔 王炎は死を賜った のである自宅で毒を仰ったか、金を削って飲んだのか・・・・忠烈な士大夫・反骨の大名士が又1人、公然と粛清されたのである。

何とも手の混んだ、執念深い追求である。ーーだが此の事件に対しては、誰しもが内心では 釈然とは して居無かった。
特に 崔
王炎の人となりを良く知り、交友の深かった者達の間では「冤罪である!」との声が頻りに囁かれた。10余年に渡り、王炎と2人3脚で人事を担当して来ていたのは、之も曲った事が大嫌いな毛 王介もうかいであった。その顔色には自ずから不満な色が現われた。それを察した”某”が又、讒訴した。そこで曹操は大理(大審問官)の「鐘遙」に命じて、訊問させた。その内容は『正史・毛王介伝』に詳述されているが、要はいま日照りが続いているのは、曹操の不手際の所為だ!」と彼が呟いた・・・・と云う讒言の真偽であった。
だが、心中に公憤を抱く毛
王介は、敢えて自己弁明せず、飽くまで道理を述べ通すだけであった。すると侍中の【和洽】や【桓階】が毛王介 を弁護する上言を行ない、為に曹操も怒りを納め、《生涯免職!》 の措置に留めた。

陳寿は、その和洽の弁護内容と、曹操の頑迷な対応ぶりを「和洽伝」の中に詳 しく
記した上、「崔
王炎伝」の最後には・・・・
『その先の事、太祖は 嫌悪の情が強い 性格で、我慢できない
相手が居た。魯国の孔融、南陽の許攸・ 婁圭は皆、昔の関係を恃んで、不遜な態度を取った事から処刑された。

然し王炎は世間から最も強く愛惜され、現在に至っても、彼の死は無実だとされている。
』 と結び、曹操の暴挙と示唆している。
裴松之も亦、孫盛の言葉を補注に載せる。『昔、漢の高祖は蕭何を投獄したが、出獄させて再び首相とした。毛王介は1度咎められると永久に排斥された。2人の君主の度量には差が無いであろうか。』

訊問した大理の「鐘遙」が、相国に昇進したのは、此の216年の
8月であるから、王炎の自殺は其れ以前の事だった。


尚、崔王炎には、此の時期となっては可也ビミョウな、見逃せないもう1つの背景が、この粛清劇に絡んでいたと思われる。
即ち、
曹植 との 縁戚関係であった。崔王炎兄の娘
曹植の妻であったのだ!!・・・だが崔王炎自身は、ハッキリと
《曹丕支持!》 を表明して居た事が「伝」に明記されているーー

『崔
王炎は、魏国が建国された当初、尚書に任命された。当時まだ太子を立てておらず臨シ侯の曹植は才気が有って可愛いがられていた。太祖は決断が着かず、封緘された文書によって内密に外部の者に諮問した。その中で王炎だけは封緘無しの書面で返答した。
「思うに『春秋』の建前では、跡継ぎに子を立てる場合、年長者を選ぶと聞いて居りますその上 五官将は愛情深く孝行で、聡明で在られます。正しい血統を引き継がれるのが当然と存知ます。 私・
王炎は、死を以って其の事を守り通します。」
曹植はの兄の娘の婿であった。太祖は王炎の公明さを尊敬し、フウ〜ッと感歎の溜息を漏らし、中尉に昇進させた。』

だが然し・・・・「正史・王炎伝」に附せられた『世語』には、不吉な記述が載っている。
『曹植の妻は 縫い取りの有る衣服を着ていた。太祖は台に登って居る時に 其れを見た。規則に反しているとして、
実家に帰して 死を 命じた。』
まあ、この「世語」は裴松之自身が、《
全く脈絡無く、最も鄙劣であるが、時には他と異なった事が書かれていた為に広く読まれ、干宝や孫盛も多く引用している》 との 御墨付きの、西晋 ( ほぼリアルタイム) の3級史料ではあるーーが、真偽の程は兎も角、ほぼ同時代の者が、そう謂う事を書いた・・・と云う事実の方が問題である。詰り同時代人が読んでも、さ程には違和感を覚えない様な「或る雰囲気」が、当時既に存在していたと観られる点である。ーーつまり、
曹植にとっては可なり不利な事態が発生して居たと云う暗黙の承認認知の存在である。 蓋し、流石は折紙付の3級史料!?
最も肝腎な 《何時?》 が 欠落している。

・・・・では一体、其れは何時の事であったのか!?ほぼ正確に推定できる。何故なら ”逆算法”を用いるのである。史実として
判然としているのは・・・・魏国の跡継ぎとして、

曹操が、
太子公式発表 した日時である。
それは
年後の217年10月である!!

ーーだとすれば・・・・曹操自身が、己の心中で決断を下し、更に其の事を当人達に 〔事前告知〕 したのは・・・少なくとも、それ以前である。又、【
曹操と曹丕】は、公式発表直前の217年3月には、孫権遠征からの帰還途上に在ったのである。 一方の【曹植】は 業卩に留守居して居た。この遠征は216年の10月に出発している。だから216年10月〜217年3月間には、曹操は 2人の兄弟に
対して、同時に事前告知する事は不可能であった。 まあ、父親・曹操とすれば、引導を渡す息子の方に先に告知し、ガックリせずに頑張れよ!と励ますであろう。幾ら曹操でも、いやズルズルと兄弟に無用な心労を与えた張本人の曹操であればこそ、2兄弟を同時に面前に据え置いた状態での告知は憚られた筈である。

その上また、太子即位の国家的儀式には、様々な手配や相当な準備期間を要するでもあろう。遠征より戻ってから即位式までの空白期間は6ヶ月
・・・・然も、置いて来た大軍団が業卩に戻って来たのは、即位式の僅か1ヶ月前の9月だったのである。
更には又
、次節で詳述するが、多くの重臣達が曹操に進言したり、迷う曹操自身が密かに諮問した事の記述が多数存在している。そうした個々の記述の時期などを整合し、其れ等をアレコレと総合的に突き合わせて観るとーー曹操自身が心中で後継者を決定した《最終究極の瞬間》は・・・・この、魏王に成った 216年の
2月〜9月の「或る日」であったに違い無い無論可能性としてはそれより以前で有っても構わないのだが、それでは魏王就任から太子公表までの時間 (1年半)が 長過ぎる。また曹植が25歳の時 (今は216年)に「楊脩」に送った手紙の内容から観ても告知を受けた形跡は窺え無い・・・・などetc、etc・・・・いずれにせよ・・・・

魏王と云う、限り無く 〔皇帝に近い〕 位に 昇り詰めた曹操孟徳には・・・之まで先延ばしにして来た、絶対に避けては通れ無い、巨大な難問 が差し迫って来て
いたのである。


・・・曹丕か!?曹植か!?・・・遂に
継嗣決定する時来たのだ! 【第205節】引き裂かれる兄弟 魏王の懊悩・詩神の絶望→へ