【第203節】
その男→X・・・・荊州への後方支援を司る、「宛城」に居た。
その男→Y・・・・献帝の側に侍り、「許都」に居た。
その男→Z・・・・曹魏政権の中枢に在り、「業卩」に居た。
いずれも胸中深く、曹魏政権の転覆、
曹魏王朝の出現阻止を狙って居た。
即ち 後漢王朝の存続 を 切烈に願って居たのである。
そして事実、やがて・・・〔組織集団〕として行動を起こす。曹操個人の暗殺を狙うのでは無く、飽くまで 曹魏政権そのものを打倒するのが目的であった。
但し3者の間に接点は全く無く、その決起時期もバラバラであった。だが先に失敗した
【厳才1派】の如き、自爆的で 無鉄砲な決起では無い。 成功の確信が 有ってこその、
慎重な行動であった。又その背景には、彼等に共鳴する、〔隠然たる勢力の存在〕 が
有ったればこその企図であった。
さて其処で、そうした史実を前にした我々の態度であるが・・・
どうせ考えるなら、徹底的な、前代未聞の 取り組みに 立ち向か
おうではないか。
即ち、X・Y・Zの3者に成り代わり、本気で、
曹魏政権打倒のシナリオ・作戦を立てて試る!
のである。果して可能か?などの甘ッチョロい傍観者としてでは無く、 《絶対に成功させるのだ!!》 と云う、謀反人に成り切って 臨むのである。その為の前提としては、(入手し得る限りの)以下の情報が必要であろう。
→叛乱の概要 (日時・場所・参加者など) 、
→個々の特殊事情 (3者が置かれた立場や戦術・戦略の相違など)、
→彼等自身についての個人情報 (能力・地位・人望・人脈など) 、
→この時点に於ける敵側(曹操)の動向・戦力分析・防諜システム
→反対に、味方となるべき外国勢力(呉・蜀)の意向と実働戦力
→その他、所謂、天下の客観的情勢 (民意分析)・・・・等である。
では成り切る為のX Y Z・3者の情報をインプットしてゆこう
但し (正史の建前上) 飽く迄も 我々は”謀反人”である。詳しく 纏まった記述 なぞ
残されて居る筈も無い。従って、その個人情報は十全とは言い難い。いや寧ろ、彼等の前半生は全く不明で、その出自も官歴も、更には風貌は勿論の事、年齢さえも不詳の儘である。仕方あるまい。精々漏れ無く、史料を掬い上げて、その要請に応えよう。 ・・・・蓋し、其の史料とても、事後に敵側
(曹操側) の視点に立って記されたもので有り、正史以外の2級史料をも頼らざるを得無い。だから、我々は相当以上の推察力・想像力を働かせなければならぬであろう事を、前もって付記して置く。
さての〔叛乱の概要〕との〔個々の特殊事情〕であるが
先ず〔時所〕を示して置こう。(※尚、曹操の魏王就任は今年216年5月である)
Xが→(今から2年後の)218年の10月〜219年1月、宛城。
Yが→218年1月、許都。Zは→219年9月、業卩である。
注目すべきは、3者ともが曹操の魏王就任の後、魏王朝成立=漢王朝の滅亡 ( 220年10月 ) の間に集中している事である。故に其の〔目的〕は、一目瞭然と謂えよう。次に彼等の〔地位〕だが、
Xは→支城司令官・部将であり、
Yは→献帝の元へ送り込まれた曹操の直臣であり、
Zは→曹操直属の、業卩に在る文官であった。
処で、斯様に、この3者を逐一羅列並記するのは煩わしく読みにくい。そこで比較的結末が判然としている XとYについては、その時期が来た時に、別途で照会・考察する事とし、3者の中では最も全貌が曖昧で、現代でも判然としないZの場合のみに絞り込んで、叛乱を企図する事と してみたい。( X とY は、史実の考察だけに留めて措く)
さて、史書の記述だがと、そしては一緒に記されている。故に我々にとってはの〔個人情報〕の部分こそが、最大の拠り所 となる。そこで其の史料をケチケチ小出しにせず、散在している Z に関する史料を、一挙に此処に集約・転載してみる。それでさえも尚、全貌が明らかに成らぬのが、
【Zの叛乱計画】である。「数」だけは其れなりに在るのだが、記述の「内容」は 極めて ”薄い” もの ばかり である。 故に 転載の 照会 順番は、
Zの経歴が判り易い事を優先させ、「正史」と「他史料」の順を考慮しない。
その男→Zの記述は・・・『正史』に9ヶ所、『他の史料』が9ヶ所の、合計18ヶ所に散在している。 (※ 以下文頭の数字は、「正史」である。)
『Zは字を子京と言い沛の人である。民衆を巧みに扇動する才能が有り、業卩の
都を揺り動かす程であった。【鐘遙】は、その為に彼を召し出した。大軍が帰還
しない裡、Zは密かに徒党を組み、また長楽衛尉の【陳韋】と共謀して、業卩を
襲撃せんと計画した。』 ーー(世語)ーー
『近頃では、済陰の Z と山陽の曹偉は、どちらも邪悪の為に破滅したが、当代を
惑乱し姦計を抱いて若者達を駆り立て動揺させた。斧鉞による刑罰に処せられ、
大いに明戒と成りはしたが、然し影響を被った者は、誠に多数に上ったのである。
慎まねばならぬぞよ。(王昶の、子への戒め)』
『王昶の「家誠」では済陰の出身と有るが、どちらかは判らぬ。』→裴松之註
『9月、相国の【鐘遙】が、西曹掾のZの叛逆に連座して免職となった。』
『(鐘遙は) 数年して、西曹掾のZが謀叛を企んだ事の責任を問われ、詔命によって
免職となり屋敷に帰された。』
『太祖が漢中を征討している時、Z が業卩で叛乱を起こした。【楊俊】は、自分の責任と
して自らを弾劾し、行在所あんざいしょに赴いた。』
『太祖が漢中を征討した時、その隙にZ等が叛乱を計画した為、中尉の【楊俊】は
左遷された。』
『【王粲の2人の子】は Zの誘いに乗った為に処刑され跡継は絶えた。』
『太祖は当時、漢中を征討して居たが、王粲の子の死を 聞くと 歎息して言った。
「もし儂が居たら、王粲の家が断絶してしまう様な事をさせなかったのに。』(文章志)
『蔡邑は1万巻近い書物を持っていたが、末年に数台の車に載せて王粲に贈った
王粲の死後 相国掾のZが叛逆を企てた時、王粲の子が参加した。 処刑後に、
蔡邑が贈った書物は全て王業の物となった。』 ーー(博物記)ーー
『昔、太祖の時代、Z は高い評判を持ち、大臣以下みな彼に心を寄せ付き合った。
〜(小略)〜 劉曄は Z・孟達を一見するや、「いずれも 謀叛を起こすに違い無い」と
言った。結局その通りと成った。』 ーー(傅子)ーー
『Zは才智ある人物として有名であったが、傅巽は彼が必ず謀叛を起こすと言った
結局、傅巽の言う通りと成った。』 ーー(傅子)ーー
『Zが叛逆した時、劉翼の弟の【劉偉】がZの仲間に引き込まれて居たから、劉翼も
連座して処刑されるのが当然だったが、太祖は特に赦し責任を追及され無かった。』
『その昔、劉翼の弟の【劉偉】はZと親しかった。劉翼は弟に警告した。「儂の観る処
では、Zは徳行を修めずに専ら人集めを勤めとして居り、花は有っても実が無い。
彼はただ世の中を掻き乱し、名前を売るだけの奴じゃ。卿は慎重に対処して2度と
彼と交際するでないぞ。」 劉偉は聞き入れず、その為に災難が降り掛かったので
ある。』 ーー(劉翼別伝)ーー
『張繍の子の【張泉】が後を継いだが、Z の謀叛に加担した為、誅殺され、領地を
没収された。』
『【文欽】は字を仲若、焦郡の人である。父の文稷は、建安年間に騎将と成ったが、
武勇の持主であった。 文欽は 若くして 名将の子として勇武の才を評価された。
Zが反乱した時、文欽はZと連なる言辞を吐いた罪に掛かって投獄され、数百もの
笞を打たれたが之は死刑に該当した。太祖は文稷の功を考慮して彼を赦した。』(魏略)
『【宋忠の子】は、Zと共に叛逆を企て、死刑に処せられた。』 ーー(魏略)ーー
『近頃では、Zが建安末に処刑され、ました。』ー→( 董昭の上奏文 )
以上が、〔Zに関する全史料〕である。
もうお判りの通り、(当り前だが) 結末は→失敗に帰す。 だが 然し、その失敗の原因は、いざ!の直前にビビッた〔仲間の密告〕に因る頓挫であった。即ち《九仞の功を一基に欠いた》のである。もし、この密告が無ければ曹魏政権はトンデモナク深刻な大打撃を被っていたのは間違い無い・・・・筆者はワザと其の密告の部分だけを伏せて措いたのだが実はーーの「世語」の続きに、その事が記されているのである。
『Zは字を子京と言い、沛の人である。民衆を巧みに扇動する才能が有り、業卩の都を揺り動かす程であった。【鐘遙】は、その為に彼を召し出した。大軍が帰還しない裡Zは密かに徒党を組み、また長楽衛尉の【陳韋】と共謀して、業卩を襲撃せんと計画した。
約束の期日より前、陳韋は怖気づき、その事を
太子に白状した。太子は Z を 処刑した。
それに連座して殺された者は数十人に上った。』
のであるーー結局の処・・・・全貌は判った様で、実は何も判ら無い。まあガッカリせずに取り合えずは、Zの人物像を纏めてみよう。但し全てに 《どうやら〜〜らしい?》 と云う 疑問符が付いて廻る。
先ずはZの出自だが→かろうじて「沛」or「済陰」の出身らしい。古来より人材の宝庫と謂われる「沛」であれば、曹操の故郷の者であり、”引き”は好かったかも知れ無い。済陰は1つ飛んだ東方に当る。まあ、田舎者では無く中原の出身ではあった様だ。祖先や縁戚は一切不明。
年齢だが→推測するしかない。但20代や30代だったと観るのは些か無理が有ろう。如何に彼が能弁であったとしても、中高年者の多い曹魏の名士達と伍して評価されるには、それ相応のキャリアが必要であろう。
逆に50代・60代では塔が立ち過ぎていよう。青年では無く、老人でも無い40代位の壮年だった、と観るのが穏当であろうか?
次に彼の才能だが→どの史料も一様に、彼のアジテーター (煽動者) としての、洗練された華麗な能弁は高く認めている。問題は、一体何を、どの様に述べて人々を惹き付けたか?であるが、注目すべきは・・・・完全に感化洗脳されたのは、若者達で在った点である。純粋で理想に燃える若者にとっては《命を投げ出しても構わない!》
と映る 魅力的で美しい教義・教条が注入されていった・・・・訳である。その場合、彼の容貌も亦、些かなりとも彼等を惹き付けたかも知れ無い。
又、Z の場合の動機だが→公私・大小の様々な理由が考えられる。個人的な理由と
しては・・・・権力欲・名誉欲・出世欲などの本源的なモノから、特殊な怨恨の背景(虐殺された近親者の怨みなど) が想像され得る。だが、そんな生臭い理由を周囲に感じさせはすまい。また公的な理由としては・・・・漢王朝への忠節、簒奪を目論む曹操への”義憤”が在る。少なくとも、其の”大義”無くしては、若者達は感動はしない。上辺だけの清潔さでは長続きはすまい。魅力的な、可也の人物で在ったに相違無い。
さて彼の目的だが→少なくとも曹操側から観れば、【叛乱・謀叛】として扱わざるを得無い様な、由々しき内容であった事は 明瞭である。即ちーー曹魏政権の打倒 であった。どうやって打倒するか!?・・・・それが我々の使命である。
そして最大の課題である、目的達成の為の具体的な戦術と、それを裏付けるべき全土的な戦略構想だが ー→ その設定作業こそが、我々にとっても亦、最大の任務となるのである。どうやら計画では、曹操本軍が出払った隙に決起・決行する手筈であった事から観ても・・・・先ずは業卩城の占拠が第一段階であった、様だ。
然し其れだけで事が成就する筈も無い。 そこで我々の究極任務は、その後の
曹操を完全に打倒する迄の シナリオを設定 する
作業である。それが即ち、我々の謀叛・叛乱である。
《事を焦っては為るまいぞ!》 機会は1度しか無い。
ーー以下、Z のブログよりーー (独白・我が倒魏計画)
Zたる私は、慎重の上にも慎重で在らねばならぬ。
私が目指す最終の行動については、現段階では誰にも明かして居無い。今は未だ只管、私と云う人物を人々に認めさせる事に専念するべきだ。その点は予定通りに進んでいる。若い者達が私を見る目は、日々に讃嘆から畏敬へと変って来ているのが判る。
名立たる名士・士大夫の間でも、私への評価は高まりつつある。天は私に 途轍も無い使命を 課したが、その代りに、弁舌の才と云う最強の武器を与え賜うた。曹操が軍事力で漢王朝の簒奪を目論むならば、私は正論の剣で之を覆してみせる。
だが、敵の防諜システムを侮ってはならない。最も安全で巧妙な対策は、その最高責任者である、相国の【鐘遙】に接近し、その懐深くに入ってしまう事だ。その点も成功した。何と鐘遙の方から私を召し出し、その直属の副官である〔相国掾〕に就けたのだ。
この地位は、広く言えば曹操の直属機関である〔西曹掾〕に含まれる。曹魏政権中枢の、然も防諜対策の中心に私を招き入れるとは・・・・願ったり叶ったりの”天佑”である。曹操側の機密情報は全て私の元に集まって来るのだ。これ以上の険塞が在ろうか。
さて、その情報を分析すれば、どうやら曹操は、程なく《魏王》に就任する。だが其の先の《皇帝即位》には二の足を踏んで居る様だ。400年に渡って天下万民の上に君臨して来た我が漢王朝を史上初の形で「簒奪」しようと謂うのだから、流石に後ろめたさに逡巡して居る様だ。然し、それも時間の問題に過ぎぬ。放って置けば必ずや漢王朝を奪い去る。いま曹操は62だ。寿命との競争だと思って居よう。その事を思えば、私に許される準備期間は、あと5年も無いであろう。3年が限度か?長くもあり短くもある・・・
曹魏打倒の為の 〔基本的な大戦略構想〕は、既に 我が
胸に在る。決起の直前まで、同志にも明かさぬ方針を堅持する心算である。だが敢えて今、『三国統一志の読者諸氏』にだけは我が胸の裡を披瀝し、共に再点検をして戴こうと思う。
根本はーー曹操の敵対勢力との連帯である。それは呉の孫権であり、蜀の劉備であり、そして献帝ご自身である。
取り分けても重要視しているのは・・・・新たな勢力と成って来た、【劉備】の存在である。彼の人生を検証して視るに、劉備と云う人物ならば、よもや漢王朝を簒奪する様なマネは絶対にすまい。確かに現時点では、劉備の総合力は曹操の足元にも及ばない。だが然し、望みは有る。3方面に戦線を持つ曹操は一挙に思い切った決戦を挑めない。だから劉備は、少なくとも3年の間は持ち堪えよう。いや持ち堪えるだけでは無く、国内の統治体制が整えば、必ずや反転攻勢に出る時期が来るであろう。
ハッキリ申し上げよう。ーー私の計画の根底には・・・・
或る1人の武将の存在が大きく反映されているのである。
その武人は今、たった独りだけの武勇で、曹操軍の進攻を阻止して居る。豊饒な荊州の地を押さえ、劉備政権を支えて居る。今は未だ、専ら鎮守としての動きしか見せて居無いが、蜀本国の体制が固まれば、その武勇を以って必ずや北上を開始する筈である
そして其の進撃の先には、献帝のおわす「許都」が在る・・・・。
慌てた曹操は自ら遠征軍を率いて「業卩城」を空にする。
その時こそが、我が乾坤一擲の大勝負となる!!
私は業卩を占拠して堅く門を閉ざし、曹操の根拠退路を絶つ!!→そこで献帝から曹操討伐の勅命を下して戴き、曹操を明確な《逆賊!》として天下に知らしめる。
計算には入れずに置くが、多分、今まで面従して居た”忠義の士”も、曹操陣営の内側から現われて来るであろう。
そして又、千載一遇の好機と観れば、【呉の孫権】とても自ずから出撃して来るであろう。さすれば、兵糧を断たれた逆賊・曹操は根無し草と成り果て万里の長城へ向って遁走するしか無くなる。
その後はジックリ曹操を追い詰め、息の根を止める・・・・。
余りにもムシの好過ぎる、机上の空論であろうか?読者諸氏の御判断や如何に!?ーーそして又、「他力本願だ!」 と謂うこと
勿れ。何故ならば、私は、
関羽の武勇にこそ、全てを賭けて居る!
のである。天下無双の関羽雲長が、その武勇を振い、曹操の牙城を揺るがす時節は、必ずや到来する!・・・と見通して居るのである。関羽の快進撃・関羽の北上・関羽の大勝利の日は絶対に巡って来る!その期待無しには、何事も起こし得無いのである。
既に巷では、関羽を《神》として祀る民間信仰すら為されていると聞く。庶民で無くとも、我が計画通りに関羽が活躍して呉れるならば、私も関羽を神として崇めても構わない。
関羽雲長の武勇こそは、
我々の希望の星なのである!!
ーーブログ終りーー
「宛城」に在るXの場合も亦、その叛逆の拠り所は関羽の北上に在った。亦「許都」に在るYの場合も、やはり謀叛の根底には関羽の北上が在ったのである。現在、バッファゾーン (緩衝地帯) を挟んで関羽と対峙して居る曹操側の部将は漢水の両岸都市である襄陽=南岸と 樊城=北岸 に布陣する曹仁である。ーー(※現代では1つの襄樊市)ーー
「宛城」は、その「襄樊」と「許都」の中間地点に在る。もし、【関羽】が「襄樊」目指して北上を開始した場合、「宛」のXが叛逆すれば、【曹仁】は背後を断たれ、南北から挟撃される事と成る。そこに こそ、Xが叛乱する意図と重大さが存在する・・・・
いずれ関羽と〔X〕が合流すれば、直ぐ北に在る《許都の占領》は実現する。ーー即ち、劉備が献帝を奉戴し、漢王朝の命脈は中興されるのだ!!
「許都」に在るYの場合は、もう 多くの説明を要し無いであろう。但しYの場合は3者の中で最も実行のタイミングが難しい位置に在った。曹操が常に、厳重な警戒の眼を光らせている最前線でも在るからだった。とは謂え、皇帝の監視役として送り込まれた曹操の直臣だった筈の者達が、実は其の首謀者に変容したとすれば・・・・事態は深刻である。Yの同志と成る者達の顔触れはーー丞相掾・丞相司直・侍中・太医令etc、etc今は曹操に引き立てられて居る彼等だが、その祖先たちは代々19人の列侯・11人の将軍・13人の九卿を輩出して来た如く、後漢王朝からの重い恩顧を背景を有して居たのだ。ポッと出の”馬の骨”への忠節とは自ずから訳が違ったーー蓋し、若き日の曹操が断行し、爾来様々な局面で成功を収めて来た〔政教分離戦略〕、即ち
〔業卩と許都の遠隔地化〕 は、此処へ来て俄に、危うい、曹操の
弱点・泣き所へと転落する可能性が出て来ていたのではあった・・・・。
所詮、微細勢力に過ぎぬ彼等が、なに故に叛乱を計画・決起し、
事の成就を確信したのか!?畢竟、最後は軍事力の勝負である。そして、成否を決するのは・・・・敵の虚を突く 〔戦術〕 と
正面から対峙する局面に持ち込んだ場合の〔大戦略〕とである。蓋し、その当然の理論が 集約される地平には、自ずから、誰が
考えても共通な、強力な味方の存在がクローズアップされて来る
・・・そして其の、漢王朝存続を願い、打倒曹操を企図する全ての
人々の期待と計画は、唯1人の男・・・曹操と荊州で対峙して居る
【関羽】の存在であった!!ーー思えば関羽は・・・
その武名は天下に鳴り響き、誰しもが彼の存在自体を畏怖しては居るものの、実は意外な事に、是れ迄の50有余年の生涯に於いて、未まだ、劉備の為には《直接の大勝利》をプレゼントして居無いのである!!・・・・確かに、常に劉備を支え続け、終には今、劉備を1国の主にまで伸し上げて来させた最強の武人では在る。だが人々の記憶に残る (史書にハッキリ明記される) 様な
武勇伝は、関羽が曹操の下に居遇して居た時期のものである。(白馬津で顔良を斬った。呂布と闘った?なぞ)劉備が最大の危機に陥った「長阪坡の惨劇」でも水軍を率いて救援に当ったのであり、寧ろ【張飛】や【趙雲】の活躍の方が有名である。無論いま謂うのは、戦史に残る様な華々しい大会戦の事であり、劉備の戦った小規模戦闘の事では無い。土台、劉備自体が”荊州”と”蜀”に領土を持ったのが1年半前に過ぎぬのだから、荊州の留守居役に在る関羽としては大勝利を挙げる機会そのものが無かったのではある。又、今の状況では、関羽の使命は攻勢・攻撃では無く、未だ未だ不安定な蜀の劉備に対して後顧の憂い無い様に、ガッチリ足元を確保する事であった。ーー実際、去年には、孫呉10余万の国軍相手に1歩も退かず、「益陽」で対陣し、結局は荊州を東西に折半する条件を引き出した。同盟相手とは言え、【孫権】は関羽との全面対決には2の足を踏んだのである。
そして何より最大の存在感は・・・・その肌で直に関羽の凄まじい武勇を識る〔曹操本人への抑止力〕であった!!
軍神と謂われる、あの曹操をして最も恐れさせて居る相手・・・・
それが関羽であった。如何に曹操が関羽の武を恐れているか!その証拠には、是れまで曹操は唯の1度たりとも、関羽の居る《南》へは足を向けようともせず、ばかりか「曹仁」には撃って出る事を固く禁じてさえ居た。下手に関羽を刺激したら虎の尾を踏む結果と成る事を識って居たからである。だから、当たり障りの無い「孫権」へ再三に渡って〔見せかけ攻撃〕を繰り返す。
関羽と戦えば、それは《一大決戦と成ってしまう!》事を憂慮して居たからである。長江突破なぞ100%見込みの無い、軍事的には何の足しのも無らぬ「濡須」遠征なぞを繰り返すよりも、余っ程「荊州」の方が価値が高い。それが解って居ても手出が出来ぬ。
而して関羽本来の最大の能力は・・・・何と謂ってもその突破力・突撃力にこそ有った!! 現時点では
隠忍自重して居るしかないが、いずれ主君・劉備が ”蜀”経営の
メドを立たせた其の時こそは、蓄えに蓄えられた激しい攻撃精神の塊りが、《北》に向って解き放たれる!!・・・一日千秋の思いで腕を撫す【関羽雲長】の気迫は、多くの人々の期待へと連なる。
即ち、此の後の3年間は、関羽の名と存在が、反曹操の人々にとっては、巨きな希望の星として最高潮に達する歴史空間と成るのである!!
それにしても、思い遣られるのはーー許都に在る献帝こと劉協 自身の 胸の裡 である。
皇帝とは名ばかりで 実権を奪われ、「許都」と云う 豪華な宮殿の
空間に、体の好い”幽閉状態”に置かれて居るではないか・・・・。
而して曹操との関係は 表面上は至って良好で在り続けて居る。
もっぱら曹操の意中を汲んで、寧ろ曹操自身の思惑よりも、常に先行する形で、〔曹操の皇帝化〕を矢継ぎ早に推進して居るかの如くで在る。当然ながら、曹操が皇帝に成ると云う事はーー
漢王朝の滅亡を意味する。本当に其れで善いのだろうか・・??
果して献帝の本心は何辺に在るのか!?帝個人としては〔曹操の王朝簒奪〕を是認して居るのであろうか?建前では無く、一個の人間としての、彼の胸中に去来しているものは、果して何なのか?周囲の声を何う聴いて、何を思って居るのであろうか?
一体、この先、どんな展望を抱いて居るのか!?曹操ならずとも誰しもが知りたい帝の”御心”である。
その献帝・劉協ーー年齢は 諸葛亮と同じ181年生れの36歳である。(逝去も亦、諸葛亮と同じ234年、54歳である。献帝は 3月、諸葛亮は 8月 )
だが、普通人の36歳では無かった。その何倍もの重責・精神的苦痛の中に生き、然も尋常一様では無い 辛酸を舐め続けての
36年間であった・・・・僅か9歳の189年に董卓の手により皇帝に即位してから、現在の216年迄の28年間・・・・【天子】としての特異な齢 を重ねて来て居たのだ。物心も着かぬ幼少期から、巨大な重荷を背負い込まされ、 苛酷な歴史の激動に翻弄され
続け、明日をも知れぬ辛酸ばかりの青少年期を強いられ続け、
《これでも朕は皇帝なのか!?》 と 叫び続ける人生であったのだーー196年に曹操に奉戴されてからでも既に21年が過ぎ様としている。 ( 奇しくも 建安の年号と一致している ) その間、廷臣や皇后など、彼を取り巻く”直臣”と曹操との間では、幾度となく凄惨な確執・闘争が起こった。いや 曹操が仕掛けた。 だが 曹操は、
決して直接には彼(帝)を責める様な事はしなかった。飽くまで取り巻きの起こした謀叛であるとして 慇懃に対応し続けて来て居る。
帝も亦、曹操を非難する様な言動を決して表には現わさない・・・
そんな異様な関係が20余年にも及んで続いていた。
献帝・劉協の資質は聡明であった。そのうえ理智的で生真面目な人柄だった。どんなに苦痛であっても悦楽の中には逃避せず、常に人民の事を忘れる事は無かった。世が世で在ったなら間違い無く「賢帝」と成ったであろう人物であった。だから曹操の意図も忠臣達の気持も、痛い程に良く解る。解るだけに懊悩した。
《天下万民の安寧にとって、何が最も必要で、在るべき国の姿なのであろうか!その為に自分が為し得る事は一体何なのか?》
自問自答の日々が続く。
《曹操の忠節に”感謝”する気持が強いのか・・・?》
《果また”諦め”の気持が強いのか・・・?》
《それとも、内心では”憎悪”して居るのか・・・!》
その自分自身の疑問に対する間接的な答えの1つが、後漢王室の来歴の中に在った。
後漢王朝、歴代皇帝の即位年齢 を観てみると、(カッコ内は没年齢)
光武帝20歳(62)→明帝30歳(48)→章帝19歳(33)→
・・・・と、3代目迄はマアマアなのだが、
和帝10歳(27) →殤帝100日(ゼロ) →安帝13
歳(32)→
順帝11歳(30) →沖帝2歳(3) →質帝 8歳(9)→
桓帝15歳(36) →霊帝12
歳(34) →少帝
14歳→献帝9
歳
更に、祖先の在位年数を観てみると・・・・
初代光武帝=43年間 2代明帝=19年間 3代章帝=15年間
4代和帝=16年間 5代殤帝=0年 6代安帝=20年間
7代順帝=20年間 8代沖帝=1年 9代質帝=1年
10代桓帝=22年間 11代霊帝=23年間 12代少帝=0年間・・・・
何処から何う観ても、まともではな い!! 4 代目以降11代目までの、8人の皇帝の即位平均年齢は、何と9歳!である。その平均寿命も僅か 21歳!1人や2人なら有り得もしようが、8人も続けて幼児や子供が皇帝に成る国家など、何処に存在し得ようか? 然も、8名中3人は、自分が皇帝であると云う自覚も無いまま死んでいる。
こうして観ると、そもそも、後漢王朝と云うものが存続して来たこと自体が、いかに奇蹟的で在ったかが判然と浮かび上がって来る
そして献帝・劉協は、現時点で28年間を在位して居た。
そんな〔危うい帝国〕を、曲りなりにも28年間に渡り、滅亡の瀬戸際で持ち堪えて来たのが、他ならぬ【献帝劉協】であるのだった。その在位期間は既に初代・光武帝を除いては、歴代 c純唐フ
責務を果して居た・・・とも謂えるのではないのか??
《ーーもう充分ではないのだろうか・・・・。》
これが献帝では無く、他の人間だったら、そんな風な気持は抱か無かったやも知れぬ。何故なら、幼少時から最高の権力に就いた献帝・劉協には、真の意味での”権力欲”は存在し得無かったからである。人生の途中から苦労して分捕った地位では無かったのだ。だから、ドロドロした執着心は、他の者に比べたら、非常に希薄であったと謂えよう。何処か あっさりした挙措が感じられる。
だが彼の真実は、永遠に誰にも判らない。然し唯1つ言える事は
この時点では、もう彼の心の中には、「迷い」や「嘆き」は無かったであろう事である。それは屈服とも謂えよう。諦観・臆病・放擲・小心・・・如何様にも評する事は可能であるーー敢えて彼の境地を謂うなら、”達観”であろうか・・・・然しながら、事は個人の感情に帰す程度の問題では無い。Yの一例の如く、先祖代々、何代にも渡って恩顧 (既得権益) 関係に連なる大多数の名門・名家=即ち忠臣達の願望・・・・果また、戦乱再発に拠る天下万民の幸・不幸、生き死に・栄枯盛衰に連なる最大の重要事であり、関心事である。己の身の処し方1つで、幾百万・何千万の人々の運命に多大な影響を与える事柄なのである・・・・。
《如何にしたら、万民に苦難を与えずに済むのであろうか!?》
そしてーー・・・・献帝・劉協は 終に、
この216年(建安21年)5月、自分が皇帝の座を降りる事を是認するかの様に、臣下・曹操孟徳に対して【魏王】に就け!との詔勅を下す。
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