【第202節】
(知られざる叛乱)
パフパフパフ、パタパタパタ・・・・白粉しっとり、手鏡うっとり・・・・
《ーー美しい!何と美しいのだ!!》
ちょっと顔を斜に構え直すと、そこに映るのは絶世の美男子。
《ーー嗚呼、これは罪か?余りにも美し過ぎる!!》
今度は塀際に立つと、己の立ち姿全体の影をチェック。
《嗚呼、何処から見ても益々美しい事じゃ!》
最後は石橋の中央に歩んで、池の水面に全身を映す。
《何と、蓮の花よりも美しいとは・・・・!!》 何時もながらに、己の美貌に うっとりと立ち尽くす事しばしーーこの人物の1日は始まる
216年春2月、14ヶ月ぶりに業卩に凱旋した曹操、その日は至って御機嫌だった。賓客達を招いた宴も酣と成った頃、言った。
「世の中に私ほど”連れ子”を可愛いがる者があろうか!」
ほろ酔い加減の客達もウンウンと調子を合わせて頷いて見せる。確かに曹操は、未だ群雄の1人で在った頃から、様々な縁 えにし に因って、多くの”遺児”を引き取り、我が子同然に育てて来て居た。虎豹騎を率いる【曹休】文烈 などは其の好例であろう。
だが”連れ子”となると、チョット話は違う。何故なら(その時点では)子供よりも、その母親の方にこそ興味が在ったーーと謂う事に成って来るからだ。即ち女として関心を抱いた訳だ。いま曹操は62歳だが、司空時代(42〜53歳)には幾人もの女性を「側妾」にしていた。その内で”子連れ”だったのは「尹氏いんし」と「杜氏とし」であった。ーー中国は古来より〔男女 別 姓〕であったから、之だけでは家柄や誰の妻なのか判らないのだが・・・・
尹氏は大将軍・【何進】の娘であった。だから「尹氏」の場合は、必ずしも美貌に惹かれたと謂うよりは、多分に、曹操のブランド・ステータス嗜好を満足させる為であったかも知れ無い。但し美人だった可能性は高い。 何進ー→元は肉屋のオヤジだったものが、《妹の美貌》と男勝りの性格から、あのアホ皇帝・「霊帝」の皇后に納まり、完全に尻に敷いた事から、大将軍に抜擢された。然し宦官供に殺され、終には董卓横暴の混乱を生んだ。「何皇后」も其の子「少帝」も董卓に殺され、何氏一族は抹殺の憂き目に遭った。
だから (前夫との関係は一切不明だが)、その”連れ子”は、〔何進の孫〕に当る。
もう1人の「杜氏」は、呂布の家臣・「秦宜禄」の妻であった・・・・と謂うよりは関羽の初恋の相手・関羽が一目惚れした人妻であり、それを〔曹操が横取りした美女〕であった。・・・・その事の方が有名な女性である。( 当時、劉備集団は 曹操の下に逃げ込んで居たのだが )
※ 秦宜禄は 呂布の使者と成って、袁術の元に行ったのだが、袁術は彼を自分の家臣にする為、漢王朝一族の娘と強引に結婚させた。その時「杜氏」は呂布の居城・下丕に留守を守って居たが呂布が包囲された時関羽は何度も太祖に願い出て、杜氏を妻にしたいと頼んだ黶`が、太祖は彼女が美貌かどうかと怪しんだ。そこで 城が陥落してから 彼女を目通りさせると、曹操は 何と、
自分の側妾に入れてしまった。ーー秦宜禄は曹操に帰伏すると金至の長に任じられた。のち劉備が曹操からの自立を目指して小沛に逃走した際、張飛が付き従って居たが秦宜禄の元に立ち寄って 「他人が お前の妻を奪い取って居るのに、その人間の県長に成るとは何と愚かな事よ。私に付いて来ないか!」 と言った。秦宜禄は付き従うこと数里で 後悔し、帰りたいと願ったところ、張飛は彼を殺害した。
曹操は「杜氏」を側妾に入れた際、その”連れ子”も一緒に家内で養育し、彼を非常に可愛がり、集まりの席上では何時も賓客に向って、「世の中に私ほど連れ子を可愛い
がる者が居ろうか」と言って居た』・・・・のである。曹操は自身で認める通り、その話題の〔連れ子〕達には非常に甘かった。人妻だった母親を無理矢理に寝盗った、せめてもの ”罪滅ぼし”の気持が内在して居た様だ。
奥で同居させ、我が子の様に可愛いがった。但し無論の事だが、後継の資格は無し、として扱われた。まあ、体のいい居候と謂った所であるーー成人した彼等も其の点は自覚して居たから政治的な事柄には丸で興味を示さず、専ら諸侯の間を遊び歩いた。だが曹操が大目に見て、それを咎め無いのだから、誰も目鯨を立てる様な事も無かった・・・・
その「杜氏」の連れ子を【秦朗】と謂う。この男は専ら遊び呆け続ける事に因って、やがて3代・明帝から気に入られる。諫言は一切せず、人材の推挙も全くのゼロ。だが其れが最大の評価と成って寵愛される事と成り、幼名の「阿蘇」と呼ばれては相談相手とされる。そして然したる理由も無く、頻繁に金品を下賜され、豪奢な屋敷まで建てて貰う。世間は皆、彼が無為無能の人物だと云う事を知っては居たが、皇帝と親しく接近している為に、多くの賄賂を贈り続けたので、秦朗の富は公侯と同程度にも成ってゆく・・・・3代・明帝の一面を示す逸話の相手として、この「秦朗」はいずれ登場する事に成るのだがーー 現時点では 《分》を弁え、《度》を越えた真似だけはすまい!と慎重に身を処しながら、遊び暮らして居るのでは在った。
処が、もう1人の何進の孫に当る「尹氏」の連れ子の方は、その秦朗とは丸で逆に、《遠慮》とか《慎み》とは全く無縁の振る舞いを続けて居た。アッ!!噂をすれば影・・・当の御本人が遣って来たありゃ又、パフパフしてる。立ち止まって己の影に見惚れてる〜
そのナルシスト男、名を【何晏かあん】と言う。字は平叔
総じて評判は極めて悪い。何故なら最期は、司馬氏(懿)のクーデタアに拠って誅滅される曹爽グループに入っていたからである。( 詳細は 第W部 にて )だから当然「伝」なぞは無く散見されるだけだが、
『正史』にはーー『何晏は何進の孫である。母の尹氏は 太祖の「側妾」であった。何晏は宮中で成長したうえ、公主(内親王)を嫁に貰い、若い時から秀才として評判を立てられた。老荘思想を好み『道徳論』を作り又
全部で数十篇に上る文・賦などの作品を著わした。』とあり(正史・曹真伝中の記述)、又『袁亮は何晏らの人柄を憎悪し、論説を書いて彼等を激しく批判した。』
『明帝は、何晏らが、上辺ばかり華やかで 内実に乏しい人物で在る として、全て抑え付けて退けた。』・・・・とする。
又『魏略』はーー太祖は司空で在った時に、何晏の母を内に入れ同時に何晏も一緒に引き取って養育した。その当時、秦宜禄の息子の阿蘇 秦朗も母に付いて曹公の家に居た。彼等は共に我が子の様に可愛いがられた。阿蘇は慎み深く慎重なタチであったがこれとは逆に何晏は、気兼ねや遠慮と云うものを全くしないタチで太子同様の身繕いをして居た。この為に曹丕は特に何晏を嫌いいつも彼の姓と字を呼ばずに 「養子!」 と呼んで居た。その上、何晏は公主を娶りながら、道楽者だったので文帝の時には任用されず、3代・明帝の時に閑職に就けられた。
何晏は自己愛の強い性格で、どんな時でも白粉を手から離さず、歩く時にも自分の影を振り返り眺める程だった・・・と記す。そして処刑された根本の理由を
碌でも無い友達と付き合った結果だと考えられる・・・・とする。
【傅古】なぞは、『何晏は言葉は深淵でありますが心情は卑しく、弁舌好きであって誠実さが有りません。口先だけの男が国家を引っくり返すと謂う言葉どおりの人物です。私の目から判断すると、道徳に外れた人です。彼等から遠ざかってもなお災難が振り掛かって来る恐れが在るのです。況して昵懇に成ったらどうでしょうか!』
と言い、【王広】は言う。『何晏は虚無の説を好んで政治に当らず!』 と。そして何晏の持論は、
《聖人には喜怒哀楽の情が無い!》 と謂うのだから・・・・自分も白粉した顔を、極力無表情に取り澄まして居たのであろう。
因みに当時、老荘思想に被れるのは、チョット世の中を
斜に構えた ”拗ね者” の スタイルと観てよかろう。太子同様な贅を尽した豪華な衣裳を平然と身に着け、白粉パフパフの無表情な顔で、一体どんな弁舌を為し、その『道徳論』を著わしたのか・・・・??その遺稿は現存しない。多少なりとも何晏を評価しているのは、あの大占い師の【管輅】唯1人ーーそれも「相手の議論に対する論難の才能」に過ぎ無いと評され、最後には〔鬼幽〕だの〔生ける死者〕だのと占われてしまう御粗末・・・・今から33年後の、249年の事ではあるが・・・・
ついでだから、オベンチャラをもう1人ーー【孔桂】である。字は叔林。天水郡の出身で、元は地元豪族「楊秋」のち馬超叛乱軍に参加の家来だったが建安の初期頃に屡々使者として曹操の元へ派遣された。孔桂は媚び諂って人の機嫌を取る性格で、特技は博奕ばくえき(賭け)や蹴鞠などの”遊び”であった。この才能が幸いして、根は遊び好きな曹操だから、彼を手元に置いて面白がり、外出にも供をさせた。
尚この当時の遊びとしては囲碁や棊き(お弾きビリヤード)、投壺とうこ(矢を壺に投げ入れる)、樗蒲ちょぼ(博打の一種) などが史書に見える。
孔桂は太祖の気持を観察し、機嫌の好い時を見計らって、話のついでに細々と意見を陳述したので、提案の多くは採用され、度々金品を賜った。そんな曹操の寵愛を見た他の人々も、彼に沢山の贈物を差し出したので、その御蔭で孔林は立派な衣裳を身に纏い、素晴らしい御馳走を食べて居た。父親の愛好を知った「曹丕」も亦、彼と親しく付き合う様になった。ところが孔桂の観察では、曹操の意中には「曹植」が在る!と思えたので、五官将(曹丕)を疎かに扱う様になり、臨シ侯(曹植)と親しく交わった。曹丕は此の事を非常に根に持った・・・・。
まあ、余禄として、こんな類の”居候”も抱える 曹魏政権では
あったと云う事であるのだが・・・・無論、真に曹操政権をガッチリ支えて居るのは、こんな浮っついた連中では無い。地味だが日々営々として己の職分を果す者達に拠った。曹操も【王脩】への書簡の中で述べている。
『儂が飽くまでも胸に抱き、最後まで貫く心算でいるのは、〔軍師〕の職が〔司金〕の職より閑ではあるが、功績を立てる段になると、司金の方が軍師より大きい事に期待しているからである!』
ーー多寡が文官、されど文官・・・・流石、曹操である。
処で、もし敢えて、『三国志のコピーライトを作ってみよ!!』 と謂われれば、
一体 我々は、何をメインに置くであろうか!?
古来より三国志と謂えば、誰の脳裡にも真っ先に浮かぶのは・・・
雄々しく壮大な、戦場に立つ 男達の人間ドラマ である。或いは其の武勇であり、或いは其の智略であり、果また互いの絆であり、終には運命共同体としての覇業の行方であろうか?いずれにせよ、英雄達の運命こそは 最大の関心事で在り続けて来たーーだが、華々しい彼等・英雄達の活躍を、常に後方で支え続ける者達が居た事は、ともすると忘れられがちである。
戦いの現場に〔参謀〕として参画する極 く1部の超エリート以外の殆んどの文官達が”其れ”で有る。そして、其の彼等の人生は押し並べて ドラマ性に欠ける。為に後世の我々も ついつい見落としてしまう。
・・・・多寡が文官、されど文官・・・・
三国時代の実相を識ろうとする本書・『三国統一志』 としては、
この一見、地味で、ストーリー的には面白味に欠けそうな、而して実は時代本質的な、彼等・文官の実態を描く事を厭えない。
(なぞと言ってはみたものの、実際には、筆者の非力なるが故に、彼等を紹介する場面を、本編ストーリーの中に挿入できそうも無く、終には描き漏らす可能性大だからである。)
まあ丁度、曹操が「漢中」から業卩に帰還した、此の216年(建安21年)と云う年は、華々しい《対外戦争の無い年》、一見すれば大規模戦役の無風年であったから、それを幸いに?一般的には”地味”だと想われがちな彼等・『文官の日々』 を追って
試よう。存外、新鮮な発見が有るやも知れず、面白い人物が登場して来るかも知れぬ。
正史・三国志は「魏書」の構成を次の様に仕立ている
未だ登場して来て居ない者も多いが、何人がイメージの中に浮かんで来るか?をチェックして試るのも面白いかも知れぬ
T〔第1〕武帝紀 〔第2〕文帝紀 〔第3〕明帝紀
〔第4〕三少帝紀 斉王紀・高貴郷公紀・陳留王紀
〔第5〕后妃伝卞皇后伝・甄皇后伝・文徳郭皇后伝・毛皇后伝・明元郭皇后伝
〔第6〕董卓伝・袁紹伝・袁術伝・劉表伝 U〔第7〕呂布伝・臧洪伝
〔第8〕公孫讃伝・陶謙伝・張楊伝・公孫度伝・張燕伝・張繍伝・張魯伝
〔第9〕夏侯惇伝・夏侯淵伝・曹仁伝・曹洪伝・曹休伝・曹真伝・夏侯尚伝
〔第10〕荀ケ伝・荀攸伝・賈ク伝
〔第11〕袁渙伝・張範伝・涼茂伝・国淵伝・田疇伝・王脩伝・丙原伝・管寧伝
〔第12〕崔炎伝・毛介伝・徐奕伝・何キ伝・形禺伝・鮑伝・司馬芝伝
〔第13〕鐘遙伝・華欠伝・王朗伝
V〔第14〕程c伝・郭嘉伝・董昭伝・劉曄伝・将済伝・劉放伝
〔第15〕劉馥伝・司馬朗伝・梁習伝・張既伝・温恢伝・賈逵伝
〔第16〕任峻伝・蘇則伝・杜畿伝・鄭渾伝・倉慈伝
〔第17〕張遼伝・楽進伝・于禁伝・張合伝・徐晃伝
〔第18〕李典伝・李通伝・臧霸伝・文聘伝・呂虔伝・許猪伝・典韋伝・
ホウ悳伝・ホウ育伝・閻温伝
〔第19〕任城威王曹彰伝・ 陳思王曹植伝・ 蕭懐王曹熊伝
〔第20〕曹昂伝・曹鑠伝・曹沖伝・曹拠伝・曹宇伝 (※以下24人の王公を略す)
〔第21〕王粲伝・衛覬伝・劉翼伝・劉劭伝・傅古伝
〔第22〕桓階伝・陳羣伝・陳矯伝・徐宣伝・衛臻伝・盧毓伝
W〔第23〕和洽伝・常林伝・楊俊伝・杜襲伝・趙儼伝・裴潜伝
〔第24〕韓曁伝・崔林伝・高柔伝・孫礼伝・王観伝
〔第25〕辛比伝・楊阜伝・高堂隆伝
〔第26〕満寵伝・田豫伝・牽招伝・郭淮伝
〔第27〕徐貌伝・胡質伝・王昶伝・王基伝
〔第28〕王凌伝・毋丘倹伝・諸葛誕伝・ケ艾伝・鐘会伝
〔第29〕方技伝・・・・華佗伝・杜キ伝・朱建平伝・周宣伝・管輅伝
〔第30〕烏丸鮮卑東夷伝・・・・烏丸伝・鮮卑伝・東夷伝
多いと謂えば多いし、存外に少ないと謂えば少ない。尚この外に関連人物として「ミニ伝」が付いている者達が在る・・・・
〔6〕に李催・郭、袁譚・袁尚、 〔7〕に張貌・陳登、陳容、〔8〕に公孫康・公孫恭・公孫淵、 〔9〕に 韓浩・史渙・曹純・曹肇・曹爽・曹義・曹訓・何晏・ケ風・丁謐・畢軌・李勝・桓範・夏公玄、〔10〕に荀ツ・荀甘・荀異、〔11〕に張承・王烈・張存・胡昭、〔12〕に司馬岐、〔13〕に鐘毓・王粛・孫叔然、〔14〕に程暁・孫資、〔16〕に杜恕、〔17〕に朱霊、 〔18〕に孫観・ホウ娥・張恭・張就、 〔21〕に徐幹・陳琳・阮禹・応昜・劉・応虚・応貞・阮籍・
ケイ康・桓威・呉質・潘・王象・繆襲・仲長統・蘇林・韋誕・夏侯恵・孫該・杜摯、〔22〕に陳泰、〔25〕に桟潜、〔27〕に胡威、〔28〕に令孤愚・唐咨・州泰・王弼、〔29〕に呉普・樊阿、そして 〔30〕には夫余・高句麗・東沃沮・邑婁・歳・韓・倭伝・・・・が加わる。
【文官】ーーと言っても、別に線引が有る訳では無い。地方長官に赴任すれば
【武官】の役割も兼ねたから、殆んどの者は 『外に出でては将、内に入りては士』=
”文武両道”で在った。又、昇進に伴い、中央←と→地方とを行き来する経験から、その人物を一概に「文官」と決め付けるのは難しい。だがまあ固い事を言わずに将軍以外の者を仮に【文官】として措こう。とと折角のチャンスだから、この際 《蜀書》と《呉書》の全貌も観てしまおうではないか。
『正史・三国志』の「蜀書」の構成・・・・
〔第1〕 劉焉伝 劉璋伝 〔第2〕 先主伝 〔第3〕 後主伝
〔第4〕ニ主妃子伝 甘皇后伝穆皇后伝敬哀皇后伝・張皇后伝・劉永伝劉理伝劉睿伝
〔第5〕諸葛亮伝
〔第6〕 関羽伝・張飛伝・馬超伝・黄忠伝・趙雲伝 〔第7〕ホウ統伝・法正伝
〔第8〕許靖伝・麋竺伝・孫乾伝・簡雍伝・伊籍伝・秦密伝
〔第9〕 董和伝・劉巴伝・馬良伝・陳震伝・董允伝・呂乂伝
〔第10〕 劉封伝・彭羊伝・廖立伝・李厳伝・劉炎伝・魏延伝・楊儀伝
〔第11〕 霍峻伝・王連伝・向朗伝・張裔伝・楊洪伝・費詩伝
〔第12〕 杜微伝・周羣伝・杜瓊伝・許慈伝・孟光伝・来敏伝・尹黙伝・
李選伝・焦周伝・郤正伝
〔第13〕黄権伝・李恢伝・呂凱伝・馬忠伝・王平伝・張嶷伝
〔第14〕 蒋宛伝・費緯伝・姜維伝
〔第15〕 ケ芝伝・張翼伝・宗預伝・楊戯伝
〔5〕に諸葛喬・諸葛瞻・董厥・樊建、〔9〕に馬謖・黄皓・陳祗〔11〕に霍弋・向寵 〔12〕に張裕、〔13〕に黄崇・句扶、〔14〕に蒋斌・蒋顕・蒋敏、〔15〕に廖化 〔※最後〕に 李漢輔臣賛・・・・それでも、哀しい程に少ない。
『正史・三国志』の「呉書」の構成・・・・
T〔第1〕 孫堅伝 (破虜将軍) 孫策伝 (討逆将軍) 〔第2〕呉主伝
〔第3〕三嗣主伝孫亮伝・孫休伝・孫皓伝 〔第4〕劉遙伝・太史慈伝・士燮伝
〔第5〕妃嬪伝孫堅呉夫人伝、孫権謝夫人伝・徐夫人伝・歩夫人伝・王夫人伝・王夫人伝
潘夫人伝、 孫亮全夫人伝、 孫休朱夫人伝、 孫和何姫伝、 孫皓滕夫人伝
〔第6〕宗室伝・・・・孫静伝・孫賁伝・孫輔伝・孫翊伝・孫伝・孫韶伝・孫桓伝
〔第7〕 張昭伝・顧雍伝・諸葛瑾伝・歩シツ伝
U〔第8〕 張紘伝・厳o伝・程秉伝・敢沢伝・薛綜伝
〔第9〕 周瑜伝・魯粛伝・呂蒙伝
〔第10〕 程普伝・黄蓋伝・韓当伝・蒋欣伝・周泰伝・陳武伝・董襲伝・
甘寧伝・陵統伝・徐盛伝・潘璋伝・丁奉伝
〔第11〕 朱治伝・朱然伝・呂範伝・朱桓伝
〔第12〕 虞翻伝・陸績伝・張温伝・駱統伝・陸瑁伝・吾粲伝・朱拠伝
〔第13〕 陸遜伝 〔第14〕呉主五子伝孫登伝・孫慮伝・孫和伝・孫霸伝・孫奮伝
〔第15〕 賀斉伝・全j伝・呂岱伝・周魴伝・鐘離牧伝
V〔第16〕 潘濬伝・陸凱伝 〔第17〕 是儀伝・胡綜伝
〔第18〕 呉範伝・劉惇伝・趙達伝
〔第19〕 諸葛恪伝・滕胤伝・孫峻伝・孫林伝・濮陽興伝
〔第20〕 王番伝・楼玄伝・賀邵伝・韋曜伝・華覈伝
〔4〕に劉基・士徽・士壱・士黄・士匡、〔5〕に呉景・徐昆、〔6〕に孫瑜・孫皎・孫奐・孫隣・孫松、〔7〕に張奮・張承・張休・顧邵・顧譚・顧承・諸葛融・歩闡、〔8〕に張玄・張尚・裴玄・唐固・薛ク・薛瑩、〔10〕に陳脩・陳表、
〔11〕に朱績・呂拠・朱異、〔12〕に虞・虞忠・虞聳・虞丙、〔13〕に陸抗。
以上が、陳寿 『正史・三国志』の全貌である。その構成には様々な
工夫と意味が籠められているのだが、今は触れずに置こう。 尚 この「正史」に、ザッと言って倍する?裴松之の『補注』が加わって、現在の 『三国志』 5千人 と成る。
さて、こうして観てみるとーー改めて『魏書』の厖大さが判る。その人物伝を漏れ無く、つぶさに小説仕立の中に描く事は、とてもの事、困難である。そこで本節では、普通は余り陽の当らぬ、魏国の【文官】の中から 若干の者達を掬い上げて、その仕事振りを
垣間見る事としよう。謂う間でも無く、曹操の魏国は、それ等の者達に拠って支えられて居たのである。
【裴潜はいせん】と云う人物が居た。 裴潜は、生母が微賤の出であって舅の家も無く、父親からもまともに扱われ無かった事に発奮し、そのため意志を曲げて仕官した。多くの官を歴任したが、清潔質素で慎み深かった。任地に赴く時は常に妻子を連れて行か無かった。妻子は貧乏な暮らしをし野草を織って貧窮を賄った。兌州刺史で在った時、1つの胡牀を作った事があるが、任地を離れる時には、そのささやかな贅沢品も柱に引っ掛けて置いて行った。また、父親が都に居る事から、出入には幌付の車を使ったが弟達が田舎に行く時には、常に徒歩で出掛けた。家人は大人も子供も2,3日に1度しか食事しない場合が有った。その家訓に上も下も従って居る有様は 前漢の石奮と似ていた。その慎ましい暮らしをし 節度を越えぬ点では、魏の建国以来、彼に近づける者は少なかった。
裴潜は広い才能を持ち、気品の有る容貌をした人物であったが、最後まで優れた人材を推挙し引き立てる事は仕無かった。その為に世間では、その潔白さには心を寄せたが、その他の事は尊重しなかった。
字は文行。河東郡聞喜県の人で、最初は動乱を避けて荊州に赴いたが、劉表は賓客の礼を以って待遇した。やがて曹操が荊州を平定すると、彼を〔参丞相軍事〕とした。その後、地方に出て3県令を歴任し、中央に入って〔倉曹属〕と成った。その時、曹操は裴潜に訊ねた。
「卿は以前に劉備と共に荊州に居たが、劉備の才略をどう判断する?」
「中国(中原)に住まわせれば人を乱に導く事は出来ますが 太平を招く事は出来ません。もし、間隙に乗じて 要害の地を守れば、
1方面の主と成るだけのものは持って居ります。」
・・・・そして、その通りになった。
さて此の216年当時、実は北辺の幽州、特に〔代郡〕が大いに難地化し始めていたのであった。その原因は漢人と混在して居る【烏丸族】の動向であった。
この頃、烏丸は内部分裂し1人の王と2人の部族長(大人)が夫れ夫れ勝手に『単于』を名乗り、自派勢力を保つ為に略奪行為を繰り返して居たのである。
事は、正面切った曹魏政権への叛乱では無かったが、その傍若無人の行為は、間違い無く”反抗”と同じであった。だが、曹操は漢中平定に主力軍を用いていた為に、代郡の官兵だけでは阻止する事は出来ずに 放置されていたのである。 然し 本軍が漢中
から凱旋した今、精鋭軍を送り込み、 彼等を
鎮圧討伐する事は 容易であった。そこで曹操は、その任務を裴潜に命じた。
処が、裴潜は辞退して言った。
「代郡は戸数人口豊かで兵馬・弓士は常に5桁に上る数を持って居ります。単于どもは永い間、勝手放題をしている事を承知して居ますから、自分でも内心は不安に思って居ります。今、大軍を引き連れて行けば、必ず恐怖を抱いて郡境で抵抗するでありましょうこの際は、少数を引き連れて行けば恐れられる事は無いでしょう。計画に拠って彼等を始末すべきであって、軍威を以って圧力を掛けるべきではありません。」
かくて1台の車だけで郡に赴いた。戦々恐々だった単于たちは驚喜した。裴潜は彼等を慰撫して鎮静させた。単于以下、被り物を脱ぎ、額を地面に擦り付け、前後に渡って略奪した婦女子・器具・財物を全て返還した。裴潜は郡内の大官のうち、単于たちと一体と成っていた者、赫温・郭端ら10余人を取り調べ処刑した。北境地帯は大いに慄き、民衆は心から帰服した。代郡に在任すること3年、戻って〔丞相理曹属〕と成った。
曹操が其の功を褒めると、裴潜は言うのだった。
「私は民衆に対しては寛大で在りましたが、蛮人に対しては峻厳で在りました。今、後任者は必ずや、私の統治が厳し過ぎると考えて、全てに渡って寛大と恩恵を旨とするでしょう。彼等は平素より驕慢で思いの儘に振舞って居ましたから、寛大に過ぎれば必ず気儘に成ります。気儘に成った後では、もう1度法律に拠って取締りますと、今度は争い事を惹き起こす元と成りましょう。情勢から判断しますと、代郡は間違い無く、再び背きます。」ーーそれを聴いた曹操は、裴潜を呼び戻すのが早過ぎた事を、深く悔やむのであるが、果して・・・・・218年
(今から3年後) になると・・・・!?
地方長官と中央官吏を3回ずつ歴任しつつ、3代・明帝まで仕え、終には〔尚書令〕に迄昇り詰める。農業官吏が出世の道を保証されたのは、彼の献言に拠るものであった。
244年に逝去するが、慎ましい葬儀を行なう様に遺命し、墓中には唯1つの台座と瓦の明器を設けるだけであった。
〔節度の固まり〕の如き一生であった、と謂えようか・・・・。
【丙卩原へいげん】と云う人物の場合・・・・
曹丕が〔五官中郎将〕と成ると、天下の人々は曹丕に心を向けて慕い寄り、賓客が雲の如くに集まった。だが丙卩原だけは道義を守り、平常の態度を保持し、公の事以外は無闇に行動しなかった。そんな彼を見た曹操は、こっそり人を遣って、それとなく彼に質問させた。その返答ーー『私は、国家が危険な時には首相に仕えず、主君が老年の時には世嗣を奉じない!それが掟である・・・・と、聞いて居ります。』
そこで曹操は丙卩原を〔五官長史〕に転任させ、令を下した。
『我が子は若年で才能に乏しい。懸念されるのは其れが是正し難く、欲望に屈服する事だ。そこで彼を匡正し激励して呉れ。賢者の為に利する事になるが、遠慮する事は無いぞよ。』
そんな或る日、曹丕は宴会を催し、賓客7、80人の席で問題を出した。
「主君と父親のどちらも重病に罹っている。丸薬が1粒有って1人だけを助ける事が出来る。主君を助けるべきか?父親か?」
架空の想定では有るが事は重大だ。滅多な事は言えない。曹丕が期待している答えは自ずから明白である。人々はザワめき、或る人は父と言い、或る人は主君と言った。
その時、丙卩原は座に居たのだが、この議論にはソッポを向いて参加しなかった。
のちに曹丕が此の問題を丙卩原に尋ねると、丙卩原、キリッとして答えた。
「父です!」・・・・曹丕も、それ以上は 彼を困らせ無かった。まあ、出す方も
出す方だが、答える方も答える方ではある。その返答の中には、《君子たる者は、馬鹿げた問題なぞ出すものでは無い!》 との叱責も込められていたのであろうが、曹丕が
珍しく?根に持た無かったには、其れなりの理由が有った。
この【丙卩原】字は根矩と言い 北海郡朱虚県の人で、かつてあの【荀ケ】が曹操の質問に対して 『士人の精華』です!と絶賛する程の経歴の持主で在ったのだ。
11歳の時に父親を亡くした為に、家は貧乏で早くから孤児であった。直ぐ隣りに寺子屋が在ったが、その脇を通る度に、涙が零れて泣いた。それを見た先生が訊ねた。
「坊主、何が悲しいのだ?」 「孤児であると傷付き易く、貧乏であると感じ易いもので御座います。大体勉学している者は、必ずみな父兄が揃って居る方達です。1つは、彼等が孤児で無い事が羨ましく思い、2つは、彼等の勉学できる事を羨ましく思い、心中悲しくなって、その為に涙が零れたのです。」
先生も丙卩原の言葉を哀れに思い、彼の為に泣いて言って呉れた。
「勉強する気が有れば良いのだ。」 「月謝が御座いません。」
「坊主、仮にも意志が有るならば、儂は兎にかく 教えよう。報酬は 求めはしないから、思う存分に学ぶがよい!」
そこで丙卩原少年は、この名も無い一介の先生の温情と厚意とに拠って 勉強をする事が出来る様になったのである。するや1年もしない内に先生も眼を見張る様な優秀さを見せるのであった。成長すると、金玉にも比せられる程の立派な品行を身に着けた。先生は我が事の様に喜び、言った。
「私は君から”青藍の誉れ” を受けた。更なる 師を求めて、広 く天下に遊学せよ!」
そこで安丘の孫ッそんすうの元に赴いたが、孫ッは辞退して言った。
「君の郷里に”鄭玄”が居る事を知っているかね? 彼こそ学者の師表じゃ。君は彼を
差し置いて千里を旅して来て呉れたが、戻るが良い。」
「人には夫れ夫れ希望が御座います。私は自分で師を求めたいのです。」
然し孫ッはなお断わり続けて言った。「君ほどの人には会った事が無い。書物を分けてあげよう。」丙卩原は心中、《 師を求めて学問を始めるのは、気高い思想を持って居る人物と心を通じ合う為であって、物を分け合う交際の場合とは同様では無い!と考えて居たのだが、孫ッの気持を尊重し断わる事もしにくかったので、書物を貰って別れた。だが、《書物など何の役に立つか!》と思い、そこで書物を家に閉って旅に出た。(後に気持を述べて返却する) 丙卩原は元は酒をよく呑んだが、旅に出てから以後は8、9年間は口にしなかった。独りで歩き、行李を背負って刻苦勉励した。西へ南へ北へと旅を重ね、陳留の「韓卓」、潁川の「陳寔」、汝南では「范ウ」、啄郡では「盧植」を師と仰ぎ親しんだ。別離に臨むと 師や友人は、彼が酒を飲まない事から米と肉を集めて送った。すると丙卩原は言った。
「元来は酒をよく飲んだのですが、酒はただ気持を荒ませ学業をダメにする事から断っただけです。いま遠くに離れるに当って、餞(馬の鼻向け=祖道)をして下さるのですから、1度酒宴を催しましょう!」 そこで一緒に座って朝から晩まで飲んでも酔わなかった。
当時、郷里の北海国では【孔融】が相の任に就いて居り、丙卩原を推挙したが、折しも《黄巾の乱》が勃発した為、丙卩原は一族郎党を引き連れて海に出、結局は 遼東太守の【公孫度】の元に赴いた。どうやら丙卩原は遊学の間、頭だけでは無く、武芸も修練したらしい。だから此の当時では〔武略勇気の持主〕として同郷の劉政と並び称されて居た。処が公孫度は何故か劉政を恐れ憎み、殺そうと考え指名手配した。追い詰められた劉政は身1つとなって丙卩原を頼って来たので1月余り隠まった。その頃丁度、東莱の【太史慈】が帰郷する時であった。(その詳細は既述) そこで丙卩原は劉政を太史慈に預けて逃がした。その後で公孫度に面会して言った。
「いま劉政は既に去りました。貴方の害は除かれたのです。それなのに何故、彼の家族を拘留して置くのですか?怨みを二重にしては為りません。」
それを聴いた公孫度はやっと彼等を釈放した。丙卩原は彼等に旅費を送り無事に劉政の所へ送ってやった。そんな丙卩原の下へは、1年の内に、数百軒の者達が身を寄せ遊学の士と教育の声が絶え無かった。
そんな或る日、丙卩原は道端で落ちている銭を見つけたので、拾って木の枝に掛けて置いた。すると、其の銭は盗られる処か、銭を掛けて置く者が増々多くなった。その理由を訊ねると、答えた者は其れを”神樹”だと思ったと言った。丙卩原は自分が原因で《淫祀》が出来た事を嫌悪して、事実を説明してやった。そこで村内では其れを鎮守の供物とした。ーー10余年を経た後、やっと故郷へ戻ったが、高い理想と清潔さ、精神の淡泊さを有した為、優れた人物は彼に靡いた。門下生数百人、道義に帰服する者が数十人も居た。故を以って国内では『青州に丙卩・鄭の学問あり!』 と言われたーー。
そんな丙卩原を、【曹操】は召し出して〔司空掾属〕とした。
曹操が長城遠征の帰途、丙卩原は真っ先に出迎えて感動させたが、目通りを終えて出て来た後、彼の元へは遠征に参加した士大夫たちが数百人も訪れた。曹操は驚いて其の訳を荀ケに訊ねた。その時に荀ケが答えたのが先の言葉・・・・
「この人は一代の優れた人物で、士人の精華です!!公は礼を尽して彼を待遇するのが宜しいでしょう。」
「勿論、儂の予てからの気持じゃが、それにしても、この人の名の重みは、士大夫の心までも傾けるのか!」 それ以後、ますます強く尊敬された。
丙卩原は娘を早く亡くしたが、その時、曹操の愛息【曹沖】も亡くなった。
曹操は2人を《合葬》したいと望んだ。だが丙卩原は断わって言った。
「合葬は、礼に外れております。私が殿に認めら処遇されて居ります理由は、私がよく聖賢の教えを守って 改めないからで御座います。もし殿の御命令を承わりますれば、
それは凡俗です。どうして殿は、そんな事を考えられるのでしょうか。」
そこで曹操は取り止めた。 東曹掾の【崔炎】は上書して言った。
『丙卩原の、清らかな静けさは俗を励ますに充分であり、操の堅固さは事を為すに充分であります。龍の羽、鳳の翼とも謂うべきで、国家の重宝で御座います。引き立てて用いますれば、不仁の者は遠く去るで御座いましょう。』
五官将の長史となったが、門を閉じて引き籠り、公事でなければ外出しなかった。・・・・翌217年、建安の七子と同様に、呉への遠征途次、疫病に因り没する。恐らく50代後半であったと想われる。
だが誰も彼もが、こんな調子では無かった。 あの七子の【王粲】などは、
こんなエピソードを残している。
『王粲は太祖が物見に出る度に、同じ車に乗せて貰う事が多かった。或る時、杜襲が
1人で目通りし、夜半まで過した。王粲は競争心の強い性格だったから、立ったり座ったりしなが言った。 「ん〜もう〜、いったい 公は 杜襲に何を話して居られるのだろうか?」オロオロ、ソワソワ、モゾモゾ、イライラ 和洽はニヤニヤしながら言った。
「天下の事です、キリが有りませんよ。貴方は 昼間に近侍を為されば宜しいのです。
此処で苛々して居るのは、昼も夜もお勤めする心算かな?」 →チョット笑える。
【韓宣】と云う人物の場合・・・・・
曹操は建安年間に召し出して〔軍謀掾〕に任じたが、之と謂った仕事も無く業卩に滞在して居た。或る日の事、東掖門の内で「曹植」と出会った。丁度雨が降った直後で地面には泥濘があった。韓宣は曹植を避けようとしたが、チビの彼は大きな水溜りに邪魔されて行く事が出来無かった。そこで扇で顔を隠しながら道端にジッとして居た。
ちなみに漢の朝廷では、雨で濡れた儘の参内を禁止していた。帝に対して失礼であったし、本人が風邪をひくのを懸念したのでもあろうか?なお、定例の朝議が中止される場合の〔4つの中止〕が定められていた。
1→大廟の火災。 2→日蝕。 3→皇后の葬儀。
4→雨に濡れて衣服の形が崩れた時 の4つであった。
業卩でも同様な慣例であったと想われる。だから韓宣は動かなかった。
曹植は韓宣が去らない上に、礼を取らないので癪に障り、車を止め、その侍従に相手の官職を訊ねさせた。
「丞相軍謀掾です。」 臨シ侯の曹植はまた質問した。
「列侯を邪魔して善い筈が有るか。どうじゃ?」
「春秋の建前では、王の直臣は卑しくは在っても諸侯の上に位置します。丞相の属官で在りながら、田舎の諸侯に対して
礼を取るとは 聞いた事が御座いません。」
「 たとえ謂う通りだとしても、人の父の役人と成って居て、其の子に出会えば礼を取る
べきじゃあないか。ん、どうじゃ?」
「礼に於きましては、臣と子は等し並です。それに私の歳も亦、上です。」
曹植は彼が抵抗して、中々 遣り込められないと悟ると、そのまま放置して去り、兄の
曹丕に話し、「弁舌の立つ奴だ!」と伝えた。
後年、韓宣は尚書郎と成ったが、職務上の失態に因り、殿前で
杖打の罰を受ける事になった。極寒の時期ではあったが、背中ではなく、体の前に杖打を受けねばならなかったので、袴を脱ぎ褌1つで後手に縛られて居た。寒さにガタガタ震えながら、処罰が実行される直前、偶々曹丕の車が通り掛かった。
「この者は誰じゃ?」 「尚書郎、渤海の韓宣であります。」
「・・・・ン?昔、曹植が言っていた韓宣か?」
そこで特に許され、戒めも解かれた。赦免になるや韓宣は、あの曹植への剛情も何処へやら、袴も着けずに尻を出した儘の姿でピューッ〜〜!!曹丕は目で彼の後姿を追いながら吹き出した。
「こりゃ又、エラク C調な奴よの〜・・・・!」
この韓宣、3代の明帝まで仕え、最後は 〔尚書大鴻臚〕 の大官位にまで成るがーー『韓宣は前後に渡って官位に在ったが、
有能と無能の中間に存在して居た』 のであった。
最後は【王脩】についてだが・・・・何故、彼を最後に
持って来たかと謂うと→実は、彼の「伝」の中に、この216年頃と思われる、トンデモナイ由々しき重大事件がほんの1行の間に、軽〜い筆致で、そっと忍び込まされている!! からなのである。
先ず【王脩】本人だが・・・・青州北海郡の人で、最初は 北海国太守だった「孔融」の
功曹となり、『孔融は常に王脩の御蔭で難を免れた』 と謂う逸材だった。
やがて青州へ来た「袁譚」の別駕と成った。 その袁譚が 南皮城で曹操に破れた時、
彼は兵糧運送の為に死に目に会え無かった。駆け付けた時、既に袁譚は討ち死にした後だった。王脩は曹操に願い出て言った。
「私は袁氏の厚き御恩を受けて居ります。もし譚の遺体を収容できましたならば、その後に死刑に処せられましても、悔恨する事は御座いません。」
曹操は其の義心を嘉し聞き届けた上、召し抱えた。戦後に調べてみると王脩の家には穀物の10石も無く、書物数百巻だけしか無かった。曹操は歎息して、「士は濫りに名声が有るのでは無い!」と言い、司金中郎将を任せた。『軍師よりも司金の方が功績が大きい。〜〜云々〜〜』 の話は、この時の事である。やがて魏郡太守を拝命する。
・・・・さて問題の記述は、この後に続いて記されている。
何処が由々しき重大事件なのか、目を凝らして読んで戴きたい。
『魏国建国の後、大司農業・郎中令と成った。太祖は肉刑の施行について意見を述べさせた。王脩は現時点では未だ施行すべきでは無いと主張し、太祖は其の意見に従った。奉常に転任した。その後、厳才が叛乱を起し、その仲間の連中数十人と共に掖門を攻撃した事があった。王脩は変事を聞き付けると、車馬を呼び寄せたが、其れが到着しない裡に、もう配下の役人達を引き連れて宮門まで遣って来た。太祖は銅雀台に居て、其れを望見して居たが、「あこに遣って来るのは王叔治に違い無い!」と言った。
相国の鐘遙は王脩に向って言った。
「仕来りでは、京城に変事が有れば、九卿は夫れ夫れの役所を動かずに、その管轄場所を掌握する事になっている。」
「禄を食みながら、どうして其の危難を捨てて置けましょう。役所に居るのが仕来りではありますが、危難に駆け付ける道義には外れて居ります!」
暫らくして病気で在職中に亡くなった。』 ー(正史・王脩伝)ー
今、魏公曹操は 100万の軍を擁し、万全を期した周到な準備の下、漢の皇帝(献帝)からも 特別な厚遇を 次々と認められ、いよいよ魏王と成るべく・・・・娘は皇后と成り、関中・漢中ともを平定し終え、準備万端、細心の警戒を怠る事無く、万難を排した万全磐石の体勢を整え、銅雀3台の高みから万人の畏敬を一身に浴びて居た。正に曹操孟徳、一世一代の頂点に昇り詰め様とする今、な、何と・・・・その御膝元の業卩城内に於いて、
『厳才が叛乱を起し、その仲間の数十人と共に掖門を攻撃した』 のである!!
人数は僅か50〜60人に過ぎ無かった。そして其の拙劣な行動を観ても、目的は曹操自身の暗殺・抹殺よりも、寧ろ、最初から自爆覚悟の警鐘的決起に留まっている。そして1矢すら報えぬ、泡沫の騒動で終っている。時間的にも、ホンの一瞬の裡に片付られた、瑣末な出来事であった。
ーーだが、だが然し、である。場所は「掖門」であった!!
遠く離れた「許都」でなら未だ知らず、己の拠点「業卩城」の内側銅雀台からは一部始終が手に取る様に見える、足元の叛乱であったのだ!!どんなに平静を装っても、曹操に与えた衝撃の大きさは測り知れ無いものであったに相違無い。
《ーーまさか!?》・・・・絶句し、激怒し、そして改めて、
漢王朝400年が有する、巨大な歴史の凄さを再認識させられる・・・・
この〔小さな叛乱劇〕は現代では殆んど注目されて居ない。何しろ史料がこの1行だけしか無いのだから、書くに書けないのである
【厳才】なる人物も、此処に唯1ヶ所、忽然と名前のみが記されているだけで官職は
無論の事、字すら 伝わらず、事後の処断を含めて、その事変の一切が記されて居ない。逆に謂えば、よくぞ陳寿は挿入して措いて呉れたものである・・・・
如何に巨大な権力と軍事力を以って万全の措置を講じた心算であっても、人の心を完全に支配・コントロールし尽くす事は 不可能である 事を示す、歴史の教訓ではあろう。
恐らく、この足元の叛乱に対する曹操の処断は、見せしめの予防措置的な苛斂誅求を極め、3族皆殺しは無論の事、凄惨な光景を産んだかも知れ無い。又は却って全てを密かに葬り去って、人々の叛心を刺激しない措置を採用したのかも知れ無い。
いずれにせよ、この〔厳才の叛乱〕は彼個人が為した特異な行動では無かったのであり、その本質は・・・・既得権益層である〔名士・士大夫〕と、新興勢力たる〔曹魏政権〕との、精神性を含めた、最後の激突の表層であった。ーー然し圧倒的優位に立つ魏公 曹操は、この216年 (建安21年)終に《皇帝》への最後1歩である、【魏王】の高みに昇るのである!
而して、その曹操の行為を憎み、面従しつつも、この厳才の拙劣で短絡的な失敗を教訓とした、より緻密で計画性に裏打された、
大規模な叛乱計画が 密かな”伏流”として、曹操も仰天する様な人物達を巻き込んで着々と 進められて居たのである!!
この「厳才」を 訊問しながら【その男】は内心で舌打して居た。
《チッ、何と稚拙な者達よ!この私なら完璧な計画を成功させたものを!!》 ーーと 同時に、その男は喜んでも居た。
《これで、ひと安心した曹操側の警戒は弛む。お蔭で私の計画は
益々容易に成るであろう事よ・・・・。》
その男→Z、曹操をして心胆を寒からしめる・・・
【第203節】天誅の志士たち叛逆の火種・面従のステルス作戦→ へ