【第201節】
呉の将軍・【賀斉】が、山越の叛乱を鎮圧する為に出動した時の事・・・・叛徒の中に〔禁の術〕を良くする者が居た。戦いを交えようとする毎に、その術の為に呉軍は刀剣を抜く事が出来ず、弓や弩で矢を放っても全て此方に戻って来る為、戦いは何時 も不利であった。賀斉は事態をジックリ読み取り、思案を巡らせた後に言った。
「金属でも刃の有る物は其の働きを封じられ、虫でも毒の有る物は封じられるが、刃の無い物や毒を持たぬ虫は封じる事が出来無い・・・と聞いている。敵は確かに我々の兵器の働きを封じる事は出来ても、刃の無い物は封じる事が出来ぬに違い無い。」ー→そこで、堅い木材で”棍棒”を多数作らせると、力の有る精鋭5千の兵を選んで突撃隊とし全員に棍棒を持たせた。敵方は禁の術に巧みな者が居る事を恃んで、しっかり
した備えは1つも設けて居無かった。そこで呉軍が棍棒に拠って攻撃すると敵方の
禁の術師も、其の威力を発揮する事が出来ず、打ち殺された者が何万と云う数にのぼった。
アハハ・・・・ハハ・・・である←(流石に『正史』では無く、補注の『抱朴子』の記述。)
各問の正しい答えを、3選択肢から1つ選べ。
(※ 尚、出題は全て、正史・三国志の本文に基づくものである )
b1→曹操に召集された「左慈」「甘始」「郤倹」らの”方士”達は、
自分の年齢を何歳だと申告していたか?
(1)・・・・およそ 120歳 だと言った。
(2)・・・・およそ 200歳 だと言った。
(3)・・・・およそ 300歳 だと言った。
」2→4本足の蛇が門の中に穴を掘って住み着いた”夢”を見た。その解釈は?
(1)・・・・凶兆。蛇は家の守り神なのに余計な足が有り、その家には不幸が訪れる。
(2)・・・・吉兆。無い筈の足が有るのだから、その家には思わぬ幸運が訪れる。
(3)・・・・無関係。蛇は女子の象徴で、女賊が取り除かれる予兆である。
「3→高さ3尺の旋風が西南西(申)から吹いて庭先で回転して消えた。解釈は?
(1)・・・・吉兆。申は猿で智恵を表わし、庭先(家)に賢者が生まれる予兆。
(2)・・・・凶兆。智恵が消えてしまったのだから、家には災厄が襲う。
(3)・・・・悲報。申の方角から使者が遣って来て子の為に父親が泣く事を告げるもの
、4→烏が部屋の中に飛び込んで来て燕と喧嘩し、燕は死んで烏は飛び去った
(1)・・・・凶兆。家燕が外来の烏に殺されたのだから、家には不幸が訪れる。
(2)・・・・吉兆。居座っていた厄介者が取り除かれたのだから、家には隆盛が訪れる。
(3)・・・・無関係。魑魅魍魎の仕業で、老いた守衛のイタズラ心の反映に過ぎぬ。
。5→ベッド(牀)の上に大蛇が筆を咥えて現われ、やがて姿を消した。解釈は?
(1)・・・・吉兆。守神が智恵の象徴を持って来たのだから、家から偉大な学者が出る
(2)・・・・凶兆。筆も一緒に消えたのだから、暗愚な子が生まれるお告げである。
(3)・・・・無関係。魑魅魍魎の仕業で、老いた書記のイタズラ心の反映に過ぎぬ。
6→鳩が飛んで来て、梁の上で 凄く 悲しげに 鳴いた。その解釈は?
(1)・・・・凶兆。平和の象徴が悲しんでいるのだから、戦争が起きる予兆である。
(2)・・・・吉兆。屋根では無く、梁の上で鳴いたのだから、やがて家は栄える前兆。
(3)・・・・喜ばしい客が来るが、チョットした事故が起こる警告である。
7→鵲(カササギ)が役所の屋根にとまって切迫した調子で鳴いた。その解釈は?
(1)・・・・叛乱が起きる前兆を告げたのだから、直ぐに備えるべきである。
(2)・・・・敵国が攻め込んでくる予兆だから、直ちに援軍を要請すべきである。
(3)・・・・殺人者が他人に濡れ衣を着せようとしているから役所は正しく判定すべき。
8→雄の雉(キジ)が、呼び鈴を掛けた柱の上にとまった。その解釈は?
(1)・・・・吉兆。雌の雉なら凶兆だが、将来有望な男子が生まれる前兆である。
(2)・・・・凶兆。雄は子を産まないから、妊婦は流産してしまうであろう。
(3)・・・・朗報。やがて”御上”から呼び出しが有って、家主は昇進するであろう。
9→夢の中に祭祀用のワラ犬 (芻狗すうく) が出て来たのだが、その解釈は?
(1)・・・・芻狗は神を祭る物だから、御馳走の宴に招かれる先触れである。
(2)・・・・芻狗は祭りの後に車輪で轢かれる物だから、落車して怪我をする警告。
(3)・・・・芻狗は轢かれた後に燃やされる物だから、火事を出す警鐘である。
g10→或る家の女達が次々と病気に罹る原因は、筮竹(八卦)によって・・・昔、この家の場所で戦死した兵士達の”怨霊”が、その手にした武器で生者を攻撃するからだと判った。では、その悪霊を追い払う為の方策・措置 (エクゾシスト) はどれか?
(1)・・・・香を焚き込めた”護符”を、家の八方の門に貼り付けて追い払う。
(2)・・・・”陰陽士”が夜間に直接、悪霊と闘い、冥界へ戻させる。
(3)・・・・死骸を掘り出し、慰霊した後、別の場所に埋葬してやる。
話は今から約2000年も昔の事である。21世紀の我々から観れば人々は未だ未だ純粋素朴な、キマジメで原始的な人間の原点の儘に存在して居たーー現代人の常識からすれば、それこそ 噴飯モノの事供 がオオマジメで探求され、信じられ、そして畏怖・畏敬されて居たのである。
蓋し、そうした世界観の中にこそ、我らが曹操も劉備も諸葛亮も、そして亦関羽も孫権も・・・・全ての英雄達も生きて居たのである。
三国志の人々は日々、様々な卜占(予言)を気に掛けて暮らして居たのだ。単なる迷信なのか? はたまた邪教なのか?それとも真理なのか!?
大いに悩み、ドキドキ心配した。ーーだがそんな人間達の不安に対しては、ちゃ〜んと必要の受け皿が生まれて来る。然も、正式な”学問”と云う
権威の衣裳を纏って現われて来ていたのである。
ー→その学問を 《讖緯しんいの学》 と謂う。
《讖 しん》 乃至は 《図讖 としん》 と呼ばれる 〔予言学〕 の事である。
この妙チキリンな学問が、ちゃんと後漢国家から公認されたのには、それなりの理由が有る。そもそも「儒教・儒学」を唯一の国学と決め、他の学問を全て禁止してしまったのは、後漢王朝であった。無理矢理そんな事をしたものだから、弾き出された学問領域の全部を、儒教は一手に引き受けざるを得無く為ってしまったのである。だから本来なら儒教では扱わない無い筈の不純物・異端分野までもが混入し、大手を振って罷り通る事態と成っていた訳なのだった。
処で、先程の問題の【解答】であるが・・・・正解は全て(3)である。
但し、問9だけは、(1)〜(3)みな正解である。何故なら、この夢の話しは占い師を試す為の3回に及ぶ嘘だったからである。然しながら、偽りであっても、一旦口に出た言葉は夢と同じであると観られる事から、3件とも予言通りに成ったのだった。
尚、ここで強調して置きたいのは・・・上記の設問の全て( これに倍する
事例を含めて)が、決して『捜神記』などと謂った妖異小説では無く、
『正史・三国志』 の 【本伝】に、大真面目で、然も
厖大な量の頁を割いて載録されている事実である。
其の事実こそが当時の知識人達の常識レベル・思想の程を窺い知らせて呉れる事だ。
原初人類が抱き続けて来た「アニミズム」や、当時の人智では理解不能な答えを、シャーマニズムの中に求め、其処に解決を求めざるを得無い時代の只中に在ったのだ。 人々の心には、魑魅魍魎や霊魂・天意・天命など陰陽様々な超常現象=個人を支配する運命観や宿命観が脈々と受け継がれて居たのであり、当時、「知識人」と謂われる者達にしても、自ら時代的限界の裡に在ったのであり、寧ろ其の傾向は一層強かった。
だが其れを非科学的と笑う事なかれ・・・21世紀の人類と雖も、ロケットで宇宙へ往復する究極の処では、唯、神に祈る事しか出来ぬではないか。また科学の塊りである宇宙船の窓から外を見た飛行士の心には、共通な感情として”神秘の印象”が極く自然に湧き出して来ると謂う。3世紀でも21世紀でも 50世紀 (存在するならばだが) でも、同じ人類で在る限り・・・・その奥処には
時代を超えて相い通ずる ”何か” が存在するに違い無い。
この節では、そんな古代・『三国志』の人々の死生観・人生観の背後に存在した、その《何か》を垣間見る事としたい。
さて本節のタイトル・〔天下一異能選手権大会〕 だが・・・・その着想は、曹植 が著わした 『弁道論』 劈頭部分の記述に由来している。
詳しくは後廻しとして、先ずは、其の冒頭部分ーー
『我が王(曹操)は、世に居る方士達を悉く、
その宮殿に招き集められた。』
『曹操が 彼等を魏国の宮廷に集めた 其の真意は、こうした
連中が悪人達とグルに成って人々を騙し迷信を煽り立てて民衆を惑わせるのを恐れたからであって、瀛州えいしゅうで神仙達に会い、大海の中の島の安期生仙人を捜そうとし、王者の乗る黄金作りの馬車を放ったらかして仙人の乗る 雲の輿 に乗りたいと願い、6匹の駿馬を見棄てて、天翔ける龍に乗る事の素晴しさに 心を奪われた為 などでは決して無いのである。
家王(曹操)から曹丕以下、我ら兄弟に至るまで、みな「お笑い草」だとして、方士なぞを信じては居無かった。だから彼等に与えられる待遇には一定に限度が在って俸禄も役人達に過ぎる事は無く、何の手柄も無いのに特別の恩顧を被る事は無く、秦の始皇帝を欺いた徐市の様に東海の島に舟出する事は出来ず、六黻りくふつを佩びる事も難しい事を知って居て、デタラメな事を上言したり、不可思議な話を口に出したりする事は絶えて無かったのである。』 〜〜云々〜〜
元来”好事家”で、何にでも興味津々の曹操の事だ。
その道に於いて 天下一!と謂われる者達を 放って置く筈が無い。
とは言え、何ぶん世界で1番忙しい男で在ったから、どうせ謁見するなら、いっそのこと
全〜んぶ纏めて 面倒見ちゃおう!・・・・てな塩梅だったのであろう。
尚、この弁道論の記述は、『正史・方技伝』 の中の1部であり、この陳寿および (特にこう言った分野はお手の物の) 裴松之が載録して呉れた史料が中心と成る。ちなみに《方技》 とは 「方術」と「技術」・・・・当時の職業観に於いて、未だ正式な地位が確立して居無い、様々な異能分野の総称であった。現代人から観れば、とても同じ分野・範疇には納まらないモノであっても、当時の人々にとっての共通認識
・〔不可思議〕・〔特殊技能〕・〔異能〕と思われるモノ・・・・即ち【術】として、全て《方
技》の中に一括りとされて居たのである。科学未発達の2000年も昔の事だから、医学も亦、医の【術】に過ぎ無かった。 その”術”の範疇にはーー現代で言うなら、
「発明家=技術革新者」も含まれたし、様々な「占い師」も同列であった。殊に「合理性」や「実利・実用性」を重んじた曹操政権に於いては、上記の如く、政権拡大に直結しない(有用性に疑問が有る)からとて、その地位を決して高くは認めず、〔名士〕・〔士大夫〕とは厳しく一線を画す措置を採用していたのだった。
ーーと、まあ、小難しい話は さて置き・・・・ひたすら興味本位で、
同じ三国時代に生きて居た、超人または異能の人々と、
そんな彼等に応対する場合の英雄達の姿を観てゆこう。
〔忙中閑あり〕の気軽さを、曹操と一緒に、我々も暫し愉しみましょうぞ!!
そんな彼等の中で最も名高く有用な人物ーーそれは・・・・曹操に殺されてしまった、名医・【華佗】であろう。 『曹操は、溺愛していた息子の曹沖が危篤に成った時、歎息して言った。「 華佗を殺してしまった事が残念だ。その為に、此の子を
むざむざと死なせる事に成ってしまった!」 と後悔した 』 のであった
然し、彼については既に、第139節 〔伝説上の名医〕 で述べてあるから(個々の事例は随分と端折ってはあるが)、割愛して措く。
但、恐らく彼は、人類初の、麻酔(麻沸散)に拠る 外科手術を会得実施した医者で在った事。現代医学にも採用されている鍼(針)治療の先駆者でも在った事。更には〔五禽の戯=虎・鹿・熊・猿・鳥〕と云う動物の動きを採り入れた健康体操や、〔漆葉青黏散〕なる身体強壮の薬用食の創作開発などの長生法を行ない、対処療法・治病のみならず、健康概念・保健思想の魁・実践者で在った事を掲げて置く。又、華佗は2人の高名な弟子を育てた。「呉普」と「樊阿」である。
呉普の方は、師匠の医術をキチンと継承する事を目指して成功した。
樊阿の方は、更なる向上を目指し、特に〔鍼はりの術〕では師匠を超える 域にまで達し、その道では現代でも”神医”と呼ばれて尊敬されている。
尤も、この華佗とて、かなり胡散臭い治病例の記述が多々あり、決して全てが科学的だったとは言い難い。ーーその根本背景には、中国人独特の思想・死生観が受け継がれて居た故でもあった。それは・・・・他ならぬ、
”不老不死”への憧憬・信仰である。その「神仙思想」 と 「医学」とが
ゴチャ混ぜと成り、更には此の時代に生まれた「道教」とも合体していた故である。 古代中国人は、〔不死=永遠〕を、精神的なものとしてでは無く、
肉体そのものの不滅→長生として認識し理想として居たのである
だが是れはもう、「医学」と謂うより寧ろ、〔方術〕・〔神仙〕の世界であり、《方士》 と呼ばれる者達の領域であった。その代表選手が・・・・
【左慈さ じ】【甘始かんし】【郤倹げきけん】
の
〔300歳 トリオ〕である。
以後は、批判がましい 現代人の態度 を全て放棄して ( 若干の解説は伴うが )、ひたすら当時の人々と同じレベルの視点から、特殊な技術を有する異能者達の話しを繰り広げてゆこうと思う。
「アリエネ〜!」 なぞの堅っ苦しい話は一切無し!!・・・で、無批判に参ります。
先の曹植の『弁道論』は、彼等の事を次の如くに紹介している。
『世に居る方士達を、我が王 (曹操) は悉く、其の宮殿に招き集められた。
甘陵の甘始はー→〔行気 導引〕 に巧みで、
盧江の左慈はー→〔房中の術〕 に明るく、
陽城の郤倹はー→〔穀断ち〕 をよくし、
みな、300歳に成ると公言していた。』
この3者の”特殊技能”については、些かの解説を要するであろう。
彼等はみな所謂、《仙人》サマなので在り、不老不死の具現者実践者と見做されて居たのである。既述の如く 古代中国人は・・
人体も1つの宇宙だと考え、肉体の中にも様々な神が宿るとしたその際、人体は3つの宇宙の集合体で在ると観た。そして3つの宇宙の夫れ夫れには〔丹田たんでん〕と呼ばれる生命中枢が存在すると考えられていた。ちなみに〔丹〕とは・・・・不老不死の薬の中心成分の事で、「××丹」なぞの薬品名は之に由来する。
第1の丹田は脳髄に在り、第2の丹田は心臓の脇、第3の丹田は臍の下に在る、とされた。 ( 成る程、謂われて見れば 確かに、知能・肉体・生殖を司る 3つの象徴 ではある。また、臍下丹田に力を込める!の由来。)処が、この丹田の直ぐ傍には・・・・不吉な精霊たる3匹の虫が棲んで居るのである。之を〔三尸さんし〕と謂う。
この3匹の虫は放って置くと、生命中枢である「丹田」に害を為し生命の衰弱や老化をもたらし終には死に至らしめる所業を働く。
更には 夜になると、眠って居る者の 人体から抜け出し、天帝に人間の悪事を告げ、その報いとして寿命を縮める様に申告する厄介者なのであった。そんな事をされては困るから、何とかして、この三尸を駆除せねばならぬ。はて其の方策は?→→そうだ、虫達に栄養を与えなければよいのだ!!飢え死にさせてしまうに限る!・・・・だが待てよ??虫達の栄養源は、人間が食べる穀物なのである。穀物を食べなければ、肝腎な人間の方が先に参ってしまうではないか!?
そこで登場するのが、〔穀断ち〕の奥義である!!
〔辟穀へきこく〕=穀物を辟けて、その代りに特別な「服食」を採る秘儀である。秘伝の丸薬や散薬 (華陀の漆葉青黏散など)を服用しつつ草の葉や木の皮などを食して生命を維持してゆく。・・・・そうすれば、体内に三尸は居無くなり、不老不死は実現するのである。だから100歳、200歳は当り前。300歳も不思議では無く、500歳でも1万年でも生き続けられる・・・と謂う理屈になる。凄〜い!!
ちなみに、この道教的思想は本邦にも伝わった。この三尸 (3匹の虫) が人体を抜け出すのは庚申 こうしん の夜であるから、その夜は寝ないで過す風習、即ち 〔庚申待ち〕 が、近代まで広く行なわれていたのである。
尚、晋の「葛洪」が神仙思想を集大成した『抱朴子』に拠れば・・・
『身中に三尸あり。三尸の物たるは形無しと雖も、実に霊魂鬼神の属なり。人をして早く死なしめんと欲す。此の尸まさに鬼と成り、自ら放縦遊行して、人の祭孚を享くるを得べけなり。ここを以って庚申の日に到る毎に、即ち
天に上り、司命に白して 人の為す所の過失を言う 』とする。
又、仙人にランク付けして 『上士は形を挙げて虚に昇る。これを天仙と謂う。中士は名山に遊ぶ。これを地仙と謂う。下士は先に死し、後に蛻する。これを尸解仙と謂う。』 とする。
次の〔導引〕も長生き法の1つで、簡単に言えば健康美容体操の事。体の各部位をシッカリ動かして筋力の衰えを防止し、健康増進をも兼ねる。美容にも良い。現代から観ても誠に理に適っている。華陀の「五禽の戯」などが其の具体例である。又〔胎息〕と云う腹式?呼吸法も在った。
〔房中術〕は、乱暴に言えば、「座禅の行」に似ている (らしい)。
体内小宇宙の《気》と、自然天然の大宇宙の《気》とを融合一体化させ、精神と身体との全き調和に拠り、元気
(生命の元と成る気) を保つ。ーー実際には・・・・自己内省と対峙して 神々と向き合い、座って意識を無くす(瞑想する)行為の中で、その目的を達成せんとする。 元来は(行気と共に)、そうした瞑想行であったのだが、どうも三国時代の後半辺りからは、「房」が「閨房」の事と混同され?【ソッチの方】の精度を高める為の秘儀に成っていってしまうのである。(まあ大切には違い無い?が・・・・)
現代の我々はダイエット食品で 〔穀断ち〕 し、スポーツジムなどで 〔導引〕 を行なうが、それでも100歳どまりとは・・・・生きて居る間に、余っぽど悪い事を 積み重ねて居る
らしい?? 3匹の虫サン達も、さぞや往復に忙しい事であろう。
ーーさて曹植の『弁道論』の続きだが・・・・
「俺達 (合理性を求める曹操父子) は、こんな胡乱な摩耶化しはジェ〜ジェン信じては居ないのだ!!」 と言い放ちつつも、ホントかウソか?の実証実験を試みている。ーー曰くーー
『私は或る時、郤倹を試み様として、穀断ちを100日行なわせ、自ら彼と寝処を共にして観察したが、彼の立居振舞は普段と何ら変わる所が無かった。人は食事せぬ事が7日も続けば死んでしまう。然し郤倹は其んな風で在った。だとすれば、彼の術が必ずしも寿命を延ばしたり病気を治すとは限ら無くとも、飢えの心配をせずに済む事にはなろう。→ ( 負け惜しみ?)
左慈は房中術によく通じ、天から与えられた寿命をほぼ完全に生き尽くす事が出来た。然し其れは、固い意志を持ち、深く其の方法に精通した者で無ければ、実行して効果を挙げる事が出来無いのである。
甘始は、歳を取っても若々しい顔色をして居り、他の方術士たちもみな心服して居た。然し甘始は、様々な事を述べるが、事実の裏付が乏しく、時に怪し気な事も言った。私は或る時、側近の者を下がらせて、彼と2人だけで話をし、彼が行なってきた”術”について尋ねた。私は優しい顔付で彼の気持を誘い、巧みな言葉で彼の口を滑らかにすると、甘始は語った。
「私が前に仕えた師匠は、韓世雄 と申します。かつて私は、師匠と共に何度か南海で黄金を作り、数万斤の黄金を海に投じたものです。」 また言った。
「梁冀の一族が権力を握って居た時代 (今から80位前)、西域の胡人が遣って来て、香ケイ?と腰帯と割玉刀を献上いたしました。今でも 時々、其れを自分の物にして措か無かった事を後悔して居ります。」 また言った。
「トルファンの西の国では子供が生まれると背中を裂いて脾臓を取り去ってしまいます食事の量が少なく然も健脚に成る様にと願って、そうするのです。」 また言った。
「5寸程の鯉を2匹用意し、1匹の口には秘薬を含ませ、2匹とも煮立った油の中に放り込みますと、薬を飲んだ方は平気で泳ぎ廻り、飲ま無かった方は丁度食べ頃に煮え上がりました。」ーー私は此のとき尋ねた。
「お前の言う事を、直ぐ試してみる事が出来るのか!?」
「その薬は此処から1万里以上も彼方に在ります上、直接に私が行かねば手に入らないのです。」
彼の語った事は無数にあるが、その内で特に怪し気な事だけを少々此処に述べた。
もし、甘始が (迷信の類いを信じていた) 、秦の始皇帝や漢の武帝の時代に生まれ合わせて居れば、彼も亦、徐市や欒大の仲間入りをしたのである。』
些か腰が引け気味だが・・・・曹植も亦、合理主義・曹操の子で
在るのだった。
曹丕も亦、その『典論』の中で、彼等を冷静に批判している。
『潁水の郤倹は穀断ちが出来、茯苓(松の根に生える茸)を服用していた
甘陵の甘始も行気に巧みで、歳を取っても若々しい顔色をして居た。盧江の左慈は補導の術(房中術)に精通していた。
彼等は皆、軍の役人と成った。
郤倹が初めて遣って来た時には、市場の茯苓の値段が数倍に跳ね上がった。安平郡出身の議郎・李覃は、彼の穀断ちの術を学び、茯苓を食べ、冷たい水を飲んだ為に下痢を起こし、殆んど生命も危なかった。 のちに甘始が遣って来ると、人々は揃って鴟視狼顧の体操や、呼吸吐納の呼吸術を行なった。弘農郡出身の軍謀祭酒・董芬は、之をやり過ぎて、気が詰って通じ無く成り、暫らく経ってやっと息を吹き返した。左慈が遣って来ると今度も亦争って彼の補導の術を習った。宦官の厳峻までが左慈の元を訪れて教えを受けた。宦官には房中術なぞ何の関係も無い筈なのに、人々が流行を追うと、こんな風にまで成るのだ。
光和年間(40年ほど前)北海郡の王和平が亦、道術を好み、自分は仙人に成るのだと称した。済南郡の孫邑が若い時から彼に仕え師と共に都へ遣って来た。たまたま王和平が病気で死んでしまうと、孫邑は其のまま東陶の地に遺骸を葬り、書物が百余巻・薬が数袋あったが全部一緒に棺に収めて埋めた。後に弟子夏栄が王和平は尸解したのだと述べた。孫邑は今でも、貴重な書物と仙薬とを自分の物としなかった事を悔やんで居る。
かつて劉向は『枕中鴻宝苑秘書』を見て錬金術を信じ、皇帝の前で失敗して死刑に成りかかった。その劉向の言葉に、君游も亦、眩惑された。
斯様に古今を通じ間違った事を信じて馬鹿な事を仕出かすのは何も1人だけとは限ら無いのである。』
こうした仙人サマ達より、もっと重要視された者達が居た。
それはーー【占い師】達であった!!
その占いの方法は千差万別・百花繚乱??何しろ中国は有史以来、占いの国家 天子の国家で在り続けて居たから、天の警告に相当する自然現象の異変を逸早く見つけ出し、その因果関係を明らかにする事が臣下最大の責務であった。そんな卜占の歴史を有して居るのだから、国家民間を問わず、様々な占いが行なわれ、信じられた。
星座占い・筮竹占い・人相 (骨相や手相)占い・風占い・夢占い・鳥占い・花占い・・・・・
果ては三国志占い?何でも有りの制限無し状態・・・広く言えば例の〔月旦評〕なども人相見の一種だし、そもそも宮廷の天文台(霊台)は国家的な占いである。・・・・だが本節で扱うのは、民間の方である。
そんな中でも、天下に其の名を轟かせた絶対的な有名人が居た。
【管輅かんろ】であった。字は公明・・・・平原の人であったが、容貌は厳つくて 醜く、風采は 全く上がらなかった。しかも
酒好きで、宴会などには素性の知れ無い者達でも 頓着無しに
招き入れた為に、人々 (名士達) は 管輅を愛しはしたが、尊重は
しなかった。ーー『正史・管輅伝』ーー
7、8歳の頃から星座を見上げるのが好きで、睡眠時間も碌に取ら無かったので 心配
した両親は其れを禁じたが、止めさせる事は出来無かった。
頭も良く ( 狭い地域では
あったが) 『神童』と言われる程で、一般教養に於いても優秀な人物で在った。決して
《山師》 では無かったと謂う事だ。成人すると、〔天文占い〕は 勿論の事、〔風占い〕・〔吉凶占い〕・〔人相見〕・〔夢占い〕・〔筮竹=易〕・〔音律占い〕・〔亀甲〕 などなど、
精通
せぬものは無い! と 云うオールマイティ に 成っていった。
だが、彼が”生き様の手本”とした先達は、清廉な漁父では無く、俗世に混じって暮らした司馬季主の方であった。そして嘯いた。
「自分を知って呉れる者が 稀で在ると云う事は、取りも直さず、
自分が高貴で在ると謂う事なのだ!!」 と。又こうも言い放つ。
「犬の耳で以って、どうして龍の声を聞く事が出来ようぞ!」と。
蓋し、当る!当らない?は、信心次第・・・・だが、当る確立の高い者が《達人》とされるのは当然の理わり。多少、変わり者でも、その占いが当りさえすれば、管輅の名は否が応にも高まった。
如何に 管輅の名声が 不動のもので 在ったかーーそれは・・・・『正史の扱い方』を観ただけでも判然明瞭である。その『方技伝』の大部分を占め載録されて居るのは「華陀伝」と、この「管輅伝」の両者であるからだ。同時代人の【陳寿】が
(大袈裟に言えば) 『諸葛亮伝に匹敵する頁数』を割り振って迄も、後世に伝えるべきである!と考えて居た証左であろう。又、彼が占いの名声に拠って己の栄達を望ま無かった
(権力に取り入ら無かった) 点が、人々の心象を好くして居た点も 加味されていたであろうか。
彼の真骨頂を示す記述が『正史』に有る。
問題 (4)=烏と燕の喧嘩と(5)=大蛇が筆を咥えて出現・・の際の王基へのアドバイス。
『どうか太守様(王基)には、心身を安らかにして徳を養われ、ゆったりとした態度で、公明正大に処せられ、妖しい物の怪たちの仕業を目撃されても、天から授かった本然の性を汚したり曲げたり為されませぬ様に!』ー→慌てず騒がず泰然自若・・・・日頃から公明正大な生き方さえして居れば、何の、物の怪ごときに驚く必要が有ろう哉!ただ己を信ずれば足る!!と謂う訳なのだ。
さて、管輅が為した、占いの”具体例”であるが・・・・
実は、劈頭の問題事例も、その殆んど(1、2、9以外)が彼の占い事例である。この外にも易・〔筮竹ぜいちく〕=蓍めどき占いの事例が多々在る。
或る住民 (郭恩と云う占いの先輩?) の 3兄弟の足が萎える病気 の原因を 筮竹で占い、
その原因はー→かつて飢饉の際に、僅かな米を持っていた老婆を殺した為、その怨霊が
天帝に訴えたとの《卦》が出た。果して其れは事実であり、本人が深く懺悔した。
筮竹に拠って、或る士人の病気の妻の死亡日時をピタリと当てた。
生まれたばかりの児が、走って釜戸の中に飛び込んでしまった。それは「宋無忌」
と云う火の
妖怪が、釜戸に引き込んだ為だと判った。ー→が、それは飽くまで魑魅魍魎の仕業に過ぎず
易の卦に〔凶兆の気配〕は無いから心配せずともよい。
或る夜、辞職した者の懐に「小鳥の様な光」が飛び込んで来た。
ー→それは吉兆で昇進の前触れだった。
共に招待された客が帰った後、「あの2人は間も無く死ぬであろう」 と主人に告げた。ー→
何故なら、2人額と口耳の間に〔凶の相〕が出ていたからであった。果して牽牛がものに驚き
河に飛び込んで、牛車の2人とも溺死した。
。長期間の旱で困って居る時、カンカン照りの真っ最中に、「今日は 必ず大雨に成る!」 と
予言ー→みな馬鹿にしたが、果して夕刻から大雨と成った。
」・・・・etc.etc・・・・と、まあ、枚挙には暇が無いのである。然し気が付いて見るとーー管輅が為した〔卜占〕は、専ら私的で個人的な事例に限られている事が判る。これだけの的中率 (10のうち9は当ったとある) を誇るのに、『官』には重用され無かった、と云う事でもある。彼が生まれたのはちょうど今 (216年) 頃であり、その活躍期は、
司馬懿仲達がクーデタアを起こし、魏が晋に変る時期であった。だから大局的に謂えば、中国は既に政治の中心に占いを据えると云う《卜占国家》からは完全に脱却し、随分と 《合理性主義的国家体制》 へと移行していた・・・・と謂えようか。
故に、管輅に向って、直に反論を口にする者も多々あった事が併記されている。(尤も其れは、管輅に【卜占の理論】を述べさせる為の構成ではあるが。)
「占いなどデタラメじゃ!!」とは王経。対する管輅の答え。
『そもそも卜占と謂うものは、必ず天地に法り、4つの季節を象り、仁義に順ったものでなけらばならない。「伏議」が【八卦】を作り、周の「文王」が 其れを 384の【爻こう】=64卦 にした事に拠って、天下は治まったのだ。 病気の者も 其れに因って治る事があり、
死に掛かって居る者も其れに因って蘇生する事がある。災難も其れに因って免れる事があり、事業も其れに拠って成功する事がある。娘を嫁にやったり妻を娶ったりする場合にも、其れに因って子孫が繁栄する事があるのだ。故に卜占は必要欠くべからざるものなのだ。』
※ちなみに、【爻】とは・・・易占いの根本を為すー (陽爻) と -- (陰爻) の2種の符合・記号を言う。コンピュータアの2進法に似ている?その2種の符牒の組み合わせで64の基本的理念を現わす。また、【象】は・・・その卦や爻を、現実に当て嵌めた解釈の事をいう (そうだ。)
「君が勝手に其う考えたからではないか!」と乃太原
「まぐれ当たりじゃ!」・・・・とは清河郡太守の倪氏。
「鳥の鳴き声を 言葉とは 笑止!」・・・・と渤海の劉長仁。
「人の生死 寿命は 天によって定められるもので
あって何も君の定めるものでは無い!」魏郡太守の鐘毓。
それに対応する管輅の答えを、逐一紹介するのは煩雑に過ぎよう。抜粋したものを拾い集め、その中から彼の
(卜占の) 言わんとする理念を垣間見る事として措こう。
( 但し 当然ながら、事が事だけに、当時の人々にさえ理解不能な、意味不明な理念が多い。いみじくも劉長仁は言っている。
君の言葉は豊かではあるが、花が咲いても実が成らぬ様なもので、私には信じる事が出来無い!
まあ、現代に在る我々としては、面白半分な態度で構わないであろう。
〔1〕→『天と云うものは 大きな象かたちを持っているが、言葉を話さない。故に星々を運行させ、明智を地上の人間に伝え風や雲を働かせて霊異を表し、鳥獣を用いて霊妙な「天の意志」を人々に知らせるのである。 ( ※ この【天の思想】 自体は、中国人にとって 永遠不変な 絶対根本 として、論議の余地は無かった。詳しくは第22節に既述。)
その霊異を表わす風雲は、必ず高く昇ったり低く淀んだりする事によって兆候を示し、霊妙な天意を報せる鳥獣は、必ず鳴き声を宮商の音階に対応させる事によって応しるしを示すのである。
だから、こうした事(鳥の鳴き声など)は、上天の意志によって出たものであり、人為を超えた明らかな符しるしなのである。』
〔2〕→『”風”と云うものは、時に応じて動くものであり『易』の爻は象に顕われて事物に反応する。”時間”は神秘な存在が働かせているものであり、象は神秘なものが形として現われたものである。それ故に、時間を事物の根本に在る法則と重ね合わせて考えれば、その意味を知るのに何の困難が在ろうか。』
〔3〕→『太陽が天に登る時、光を万里に送り照らさぬものとて無いが、ひとたび地中に入ってしまえば、一塊の炭ほどの光も見られ無くなる。 15夜の満月が澄み切った輝きで夜空を照らす時、遙か遠くまで望む事が出来るが、その月が昼に出れば、その明るさは鏡にも及ば無い。
この日月の光から身を隠せる(姿を消す術を行なう)のは、必ずや陰陽の働きに則るからであり、陰陽の働きと云うものは万物すべてに貫通している。鳥獣ですら陰陽の働きに従って変化してゆくのだから、況して人間なれば言う迄も無い事である。その原理の働きを把握した者は精妙な存在と成り、その原理の神秘さを把握する者は不思議な力を持った存在と成るのである。
是れは生者のみに実証され得るだけでは無く、死者についても同様である。だから生きて居る者は形を取ると同時に形を消す事も出来、死んだ者も姿を現わす事が出来、同時に姿を隠す事も出来るのである。之こそ万物の精気の働きであり、其れが変化してゆく過程で、物から離れて遊魂と成り、奇怪な現象を惹き起こすのであって、生者と死者とが感応し合うのも、陰陽の働きが其うさせるのである。』
・・・・etc、etc・・・・説明されれば、される程、尚一層訳が解ら無く成る。そんな
ボンクラな我々を慰める様に、管輅は言って居る。
『孔子サマも仰って居られる→「書物は言葉の全てを表現してはいない。言葉は心を全て表現はしていない」 と。これ等はみな、本源的なものは、言葉には表現され無い、不思議な微妙な所に在る事を謂っているのだ。』ーーそして結局、最後は、こう結ぶのであった。
《ーー結論ーー》
こうした事に縁の無い人々にとっては、完全に
理解を越えた事であり、永遠に 分から無い事
なのである!!
この管輅ーー36歳に成って、漸く冀州刺史の裴徽から召請される。その道中で、「もし古い町で3匹の狸 (野良ネコ) を見たら 私は出世する」と占い、弟に告げた。当るのが当然のセコイ占いだが、まあ其の通りになり、248年には〔秀才〕に推薦される。
そして此の年、時の権勢者の1人と成って居た【何晏】と交流する。その話は いずれ 語るが、管輅は其の第一印象を〔鬼幽〕である!と人に告げた。ちなみに、何晏は翌年の249年、《司馬懿のクーデタア》 で、首魁の【曹爽】=曹真の子 ら と共に処刑される。
ーーその後、管輅は 大将軍と成った【司馬昭】から眼を掛けられる。
だから弟の管辰は兄の富貴を予想したが、管輅は長い嘆息を吐いて言った。
「私は自分が、そう成ってもよいだけの資質を備えて居る事を
知っている。然し、天は私に才能と聡明さを与えたが、寿命は
与えて呉れ無かった。 恐らく 48歳位で終るであろう。他人の人相を占って
外れる事の無かった私が、自分の寿命についても判断を誤る事は有るまいよ。」
少府の丞に昇進したが、その翌年の256年 (今から40年後の事だが)、己の占い通りに、48歳で卒した。
尚、魏書の『方技伝』は、この管輅の他に、もう2人の占い名人を記載している。1人は 〔人相見〕の達人・【朱建平】である。
『太祖が魏公であった時、召し寄せて ”郎官” に就けた』 とある。が、大した地位では無かった様だ。彼は、〔馬相〕についても詳しかったらしい。そして彼の最も有名な占いは・・・・
曹丕が五官将で在る今の時点で自身の寿命を尋ねた事である。
「曹丕様の御寿命は80歳ですが、40に 成られた時に
些か御災難が御座いましょう。どうか気をつけて御身を守られ
ますよう。」・・・・果して、この占いの結果や如何に・・・・!??
もう1人は 〔夢占い〕の【周宣】である。
彼も曹丕に召し抱えられるが、先のワラ犬(芻狗)の事例は、その曹丕との遣り取りに拠る。そして『正史・周宣伝』は、より重大な歴史の目撃者として曹丕の”夢”を占った事にしてある。
「私は昨夜、青い気が地面から立ち昇っている夢を見たのだが・・・・」
「この天下の何処で、高貴な女性が冤罪の為に死ぬ事に成りましょう。」
折しも曹丕は使者を遣って甄夫人に自殺を命ずる書を届けさせていた。曹丕は
後悔し慌てて使者を追わせたが間に合わ無かった、とする。
「私は夢の中で、銅銭を擦って 紋様を摩滅させようとするのだが、却って益々ハッキリ
して来るのだが・・・・」
「之は御家庭内の事です。其う したいと思っても、母君が其れを御許しにならない。
だから紋様を消そうとしても、却ってハッキリするのです。」
一体、何の事か!?いずれ史実が全貌を明らかにするであろう
ついでだから?他国の占い名人も見てみると正史・呉書の中にもちゃ〜んと最後に、其のコーナーが設けられている。そして・・・・
『世の人々は皆、彼等の技術の絶妙さを称讃して八絶と呼んだと して8人を紹介している。その中で、ちゃんと『伝』を立てられて居るのは〔卜占家〕の3人で、
〔風気の術〕=風占いの【呉範】と、
〔太乙の術〕=(内容不明)で「神明」と呼ばれた【劉惇】、
算木を用いた〔九宮一算の術〕の【趙達】である。
だが此の3人は《秘密主義者》で、君主・孫権の要請に対しても、その奥義を教えず、結局は一代限りで其の秘法は絶えたとしており、よ〜判らぬ。
【宋寿】は〔夢占い〕、【鄭嫗】は〔人相判断〕に巧みであったと『呉録』の記述
残りの3人は”占い師”では無く、芸術家や発明家である。後述する。
当然ながら正史・蜀書にも同様なコーナーが設けられている。主たる人物は
周羣・張裕・杜瓊・李異・焦周等であるが、(長くなったので)別の機会に、もう少し丁寧に紹介する事とする。ーー此処では唯、【張裕】は密かに「劉備にとって不吉な予言」をしたのを密告され、為に、諸葛亮の助命嘆願にも関わらず、処刑されてしまった・・・事だけを簡単に付して措くに留める。三国志の英雄・劉備にとっても
〔占い〕 は、決して笑い事では済まされぬ、深刻なモノだった事の証明である。
卜占コーナーの最後に少し、我々が日常に使っている言葉についての余談を少々。但し、結局の所は、何のコッチャか?よ〜解らぬ???のだが、兎にも角にも達人・管輅が、のたまっているのだから「占い用語」・「卜占思想」から来ているのだけは確か・・・とい言う程度ではあるが。
〔乾坤一擲〕・・・・『乾と坤と云うものは「易」の大元であり、万物の変化の根源である。天地と云うものは乾と坤の
卦の原理に対応するもの。蓍や亀甲は卜筮の原理の働きを捉えるものである。日と月とは離と坎の卦が象かたちとして表れたもの、万物変化は陰と陽との爻こう(交わり)であって、幽冥な存在が不思議な変化の源であり、未来と云うのは暗く幽かなものの先に在るのである。』・・・・う〜ん→そんな重大で根源で在る「乾=天」 と 「坤=地」の両方を、同時に放擲 (なげうって) 迄も
賭ける強い思い・・・として用いる。
〔天中殺〕・・・・『人相占いでは鼻のある所を「天中」と謂う。鼻は艮こんの卦に対応するもので、これこそ天中の山であって、高くても危うい。→だから地上の山の事を「謙」と言い、自分の多い部分を減らして少ないものを増してやる事を意味する。雷が天上に有るのを「壮」と言い、礼に外れた道を行なわない勇気を持つ事である。』
・・・・う〜んー→
〔太極拳〕・・・・『生(目に見える現象)と死(現象の背後に有るもの)は同じ1つの原理の上にあって変化する。陰 陽 2気の元に成る 宇宙の根本的な存在 であって 悠久不変の
太極は、終っては初めへと無限に循環してゆくのである。』・・・・う〜ん→仏教で謂う「輪廻転生」に近いか?ま、ゆ〜ったりした悠久の気持で行ないましょう。
〔六甲降ろし〕・・・・10干12支の1循環(干支の60組み合わせ=還暦)の中から「甲」の付く6つを取り出し特別な意味を持たせる。兵法で六甲と結び付かせて説く書も多い。因みに〔甲子園球場〕の「甲子」は・・・・王者が地上に現われる時
(場所)を意味するから、高校野球の王者が現われるのには相応しい。 ー→但し、本家本元のタイガースが王者に成るか否かは、永遠に阪神半疑の儘である。
〔龍虎〕・・・・西暦2005年の某国ではドラゴンとタイガーが龍虎あい討ち、風雲急を告げて居るが、『龍と云うものは 陽の精 (春に配当されていた)であるが、潜めば陰となる。その陰陽を兼ねる霊妙な力が密かに天に伝わり、気を調和させ神々を動かし、調和した気と神々の力とが夫れ夫れの作用を助長し合って、それ故に雲を起こす事が出来るのである。虎と云うものは陰の精(秋に配当されていた)であるが、陽なる位置
(淵に対して山)に居り樹木の元で長く嘯き、巽の林に其の力を働かせれば、陰陽の2気が感応し合って、それ故に風を吹き起こす事が出来るのである。龍は淵に潜んだり天を翔けたりする変化の力を持ち、虎にはクッキリとした文采が有って〔虎変の能力〕を具えているのだから、雲を呼び風を招く事は当然の能力である。→優勝争いをするのは当然の能力である・・・・と2005年度に関しては当っている??
〔甘露〕・・・・究極例では、太陽から火を取り、月から水を取る事が出来る。陰燧と陽燧 (近代五輪アテネ採火式の凹面鏡の様な物)を手に持てば一呼吸の間に、其処に水気 と火気 とが降って来るのだ。純粋な気が感応し合いさえすれば大空に掛かる日月も、陰陽2つの燧 (すい) に反応するのである。ーー
陰燧 (銅製の盤状容器か?) を夜中に戸外に出して置き結んだ露を集める。その夜露は月から得られたものとされ、若返りの力を持つ!!
尚、この当時、名士達の間では、〔射覆せきほく〕と云う、当て物ゲームが流行しており、主人が密かに容器の中に潜ませた物を ”当てっ こ” して楽しんだ事が、正史に見られる。占い師レベルの者は、一切NOヒントであり、遊び処では無く、名声を賭けた真剣勝負だった訳だ。
お次のコーナーは現代から観れば〔科学者〕乃至は〔発明家〕や〔芸術家〕の範疇に入る者達の話である。こちらの方は 我々にも 何とか理解・納得できそうな事柄が多い。ーー先ずは発明王エジソンたるの
【馬鈞】・・・・字は徳衡。扶風の人で、木材を素材とした様々な工夫発明を行なう事で、世に並ぶ者は無く、《木聖》と呼ばれた。
「刻削を善くして最も巧みなる者は、即ち之を木聖と謂う。故に
(後漢の)張衡と馬鈞は、今に於いて木聖の名あり。」
尚、馬鈞は三国時代末頃の人物で在った為、残念ながら曹操とは顔を合わせる事は無かった。もし出会っていたら、片時も側から離さず最大の理解者と成っていたに違い無いーーそんな馬鈞も若い頃には未だ、自分が器用である事を自覚せず、放蕩の余りに生活に窮した。そこで仕方無しに綾織機の改良をして見せ急場を凌いだ処がコレが又、素晴しい技術革新だった (旧来の綾織機は50〜60の手綜とペダルを一々作動させる物を、全て12のペダルだけで済む様に改良した。)
為に、おのずと
彼の名は天下に知れ渡ったのだった。以下、馬鈞の主な発明・改良を列挙して見よう
翻車→水を引く事の出来ぬ高い土地に、足踏み式水車を作り、子供達に踏ませると、自動的に水を汲み上げては回り、普通の手仕事の100倍以上の効率を持たらした。倭国なぞ
コレ(踏車)が普及するのは1400年も後の江戸時代 (1670年頃) からであるから、その
度外れた先進性は驚嘆に値する。
指南車→幻のナビゲーターシステムで、どの方角に走っても常に南を指す人形を搭載した車の事。ーーその昔、聖「黄帝」が冥界の王・蚩尤しゆうと決戦した時に創案し周公・丹も用いた・・・・とされていた。周囲の者達は皆、実在などして居無かったと論争になったが馬鈞だけは実在を主張し、遂には明帝から試作の詔勅が下される事態にまで発展。だが馬鈞は美事にコレを完成させて見せた。ーー磁気を利用した「羅針盤説」と、左右の回転数に差をつけた「歯車説」とが在るが、後者が有力と観られている。
百戯人形→或る細工師が、人形達が演奏したりアクロバットを演じたりしている姿の精巧なパノラマを献上して来た。そこで明帝は 「動かせるか?」 と問うた処、馬鈞は 「もっと巧妙に出来まする」と答え、全部を機械じかけにして動く工夫をした。カラクリ人形である。
『大きな木材を削って組み合わせ、その形を車輪の様にし、平らな地面の上に装置し、下部に水を通して動かした。女の楽隊と舞を踊る人形をペアとし、木製の人形達が太鼓を叩き簫の笛を吹く様にした。山の作り物を置いて、お手玉や擲剣の曲芸をさせ綱渡りや逆立ちをし、人形達は自在に現われたり隠れたりした。また百官が部署に整列する様や、臼で穀物を突いたり挽いたり様、闘鶏の様など、実に様々の不思議な働きをした。』・・・・倭国にも江戸時代に巧妙なカラクリ人形が作られるが、単体では無く、こうまで大掛かりなモノは絶無である。微笑ましくも凄い!!
連弩→その改良型の発明。・・・・諸葛亮が作った連弩を見て、「巧妙な事は巧妙だが、改良の余地が無い訳では無い」と言い、自分が作れば5倍の性能に出来る!と称した。
新型発石車→曹操が発明した発石車には、敵が楼の所に濡らした牛皮を垂らすと、当ってもそのまま落ちてしまい、また石を連続して飛ばす事が出来ぬと云う欠点が有ったそこで・・・・車輪の形をした物を1つ作り、其れに大きな石を数十個ぶら下げ、機械装置によって車輪の回転速度を上げて、一定の速度にする。その上で吊り下げた石を切り離せば、敵の城壁に向けて稲妻の様に続けざまに打ち当てられる・・・・だろうと考えた。その予備実験として、車輪に瓦数十枚をぶら下げ、数百歩の距離まで飛ばしたりした。
ところが、この記述者である《傅子》が、「馬鈞の実験は国家的な重大発明である!」と上奏したにも関わらず、時の権勢者だった「曹爽」が放置したので、結局は 完成され
無かった。傅子は返す返すも残念がって居る。
あと1人は大音楽家♪【杜キ】である。字は公良。河南の人で
音楽に通じている事により、霊帝期の「雅楽郎」に任じられた。然し病を得て188年(霊帝没1年前)に退官。 その後、動乱を避けて 荊州に移住する。 其処で 劉表から (献帝を迎える準備と称して)、宮廷オーケストラの編成を命ぜられる。編成が完了すると、劉表は演奏させようとしたが、杜キは諌めて演奏させなかった。劉jが降伏すると、曹操は杜キを軍謀祭酒に任じた上で、宮廷音楽(太楽)を司らせ、新しい楽曲の制定を命じた。
杜キは優れた音程感覚を持ち、並外れた鋭い耳を持っていて、弦楽器・管楽など8種類の楽器も全て演奏できたが、ただ歌と舞だけは余り巧みでは無かった。杜キは色々な技芸や古典、近代の事例を研究し、演奏家を養成教育し、楽器も作り揃えた。先代の古楽が復興され、後世に引き継がれたのは、全く杜キの努力に始まるとされる。
この当時、鋳造の名人として「柴玉」と云う男が居た。杜キは彼に楽器用の銅鐘の鋳造を命じた。だが出来上がって来た鐘を聴くと、音色や音階が規定に合わず、幾度も壊して造り直しさせた。すると柴玉の方は 向かっ腹を立て、両者が共に曹操に上言して、己の音階感覚の正しさを主張し合った。そこで曹操は鐘を持って来させ態とゴチャゴチャにし、自らが審査官と成って2人に並び直させて判定した。若い頃から色町で鍛えた曹操の耳は鋭い。その結果、柴玉の方がデタラメと判り、怒った曹操は、彼と其の子供達までをも「養馬士」の官に就けてしまった。然し曹丕は以前から柴玉を寵愛して居たので、内心は面白く無かった。又、曹丕の私的な宴会で「左顛」 らと共に 杜キに琴演奏や笙の吹奏を命じたが、宮廷専任官を自負する杜キは不満そうな顔を示した。そんな事から曹丕は杜キを心良く思わなく成っていった
のち曹操が没すると、曹丕は些細な事に託けて、杜キを獄に繋いだ。曹丕の粘着質な性格を示すものだが、彼の才能は高く評価して居たので、寵愛する「左顛」達を、獄中の杜キの元に遣って、音楽を習わせようとした。ーーだが杜キは、「自分が修得してしているのは由緒正しい音楽であって、左顛らの様な俗な音楽家に教える事は出来無い!」 と言い、又、「君達は楽官に在る以上は、キチンとした素養は持っている筈だ!」 として、教える事に難色を示した。その為に官位を剥奪され、無官のまま死んでいった・・・・。
『文学は経国の偉業、不朽の盛事!』などと謂った曹丕では在るが、その裏では、こんな事をして居たのである。
随分と長くなってしまった。最後に〔呉の八絶〕の、残り3人なぞを簡単に紹介して、この節を閉じる事としよう。ーー『呉録』に謂う。
【皇象】は→〔書〕に巧みであった。当時、張超と陳梁甫の2人が特に書に優れていたが、陳には奔放すぎる欠点が有り、張には厳し過ぎる欠点が有った。皇象は、この2人の異なった書風の間を上手く取捨して書法の奥妙を極め、中原地帯の書の達人の中にも肩を並べられる様な者が無かった。・・・・・( ※ 但し、その評価は手前味噌の観は否めない)
【厳武】は→〔囲碁〕に巧みで、並ぶ者が無かった。
【曹不興】は→〔絵画〕に巧みであった。孫権の命を受けて屏風に絵を画いた時、誤って筆を落として白絹の上に汚点を付けてしまった。そこで其の汚点を利用して、其れをハエの絵にした。その屏風が進上されて使用に供さた時、孫権は本物のハエだと思い、手で其れを払う程であった。
【葛衡】は→〔渾天儀〕=天球儀を作った。それは大地を中心に置き、機械仕掛けで 之を動かすと、天球が回転して、大地は 静止した儘であって、実際の天体の運行と一致した。
以上、当時は 方技 として十巴一絡げにされて居た様々な分野の達人・名人を観て来た。と同時に我々は・・・・三国時代の背景・底流に在った、人々の死生観・世界観・倫理観や信仰・畏敬の念など、形而上の雰囲気に、この節を読む前よりかは若干なりとも触れ得た筈である。
我等が英傑達は、そうした時代の中に生き、そして死を受け容れたのである。
【第202節】文官の日々(知られざる叛乱・伏流は涸れず・正史総覧)→へ