第200節
      天下一 異能選手権大会
       エ ジ ソ ン から 
ノ ス ト ラ ダ ム ス まで

誠に以って、姿の好い キャッチコピーである!

この言葉が遺される事に拠って、本来は殺伐としている筈の『三国志』の印象が一変、後世の文学愛好者に迄、広く愛される一因とも成っている。
『文学は正に興こらんとす!』・・・この時代的欲求は、既に後漢末の桓帝期、官僚の卵・予備軍である 数万の太学生の間で期待されていた。若い彼等達は、固陋頑迷な太学博士の儒教一辺倒よりも、諸学に通ずる新しい学問の到来をこそ待ち望んで居た。いわゆる 〔通人〕 の語に象徴される如き 《通の意識》 ・・・・三国時代を経て、
「六朝時代」へと続く新たな思想・学問の揺り籠役を果す、時代の要求が伏流していた。
その 《通》 や 《達》 の意識を背景に、このコピーは生まれたのである。
ーーだが然し、
実は・・・・遺されて居るのは、この短いフレーズ耳なのである!!

又、その謂わんとしているコピーの狙いも、およそ「純文学」とは程遠い、「政治戦略の道具」 と しての性格が濃厚な事情を有していた。
言い出したのは、詩のガイア・曹操では無く、また詩の神・曹植でも無かった。この父子よりはガクンと文才に劣るとされる曹丕であった。原典は曹丕の手による評論集・典論であるが、殆んど全てが散逸しており、研究者の先生方も匙を投げ出しているのが実情である。・・・・その昔、曹丕は典論を著わすに際し、当時既に散逸していた七子の文跡を求めて、懸賞金付きで実物を探させたそうだが、今や我々こそが曹丕の『典論』に対して ”ウォンテッド” を しなくてはならないのである。

だが、だからとて、全く手掛かり無しかと言えば、そうでも無い。在り難い事に陳寿は『
正史・王粲伝』の部分に、所謂〔建安の七子〕と、建安文学の旗手達の事蹟を纏めて措いて呉れて在るのである。更には裴松之が、補注によって、『典論』 の1部分を提供して呉れている。→だから我々は、其の幽かな手掛かりを頼りに、【建安文学の世界】乃至は、その【時代的雰囲気】を探ってゆける事となる。ーーだが予め判っている事は伝わる詩歌の数が余りにも乏しく、故に、決して、七子の文学作品そのものの評論は
為し得無いであろう・・・・と云う事である。従って、本節が目指す所は、飽く迄も、その《 周辺の雰囲気に触れる事》 となる。


そもそも《詩歌》は、血生臭い戦国乱世とは無縁な、寧ろ正反対の究極に位置すべき〔実利〕 とは相い反する 〔精神性〕 の発露である。また当時としては、所詮、一般人民の暮らしとは乖離した、宮廷文学の範疇に類し、特殊サロンにのみ棲息する、〔埒も無い遊戯〕に過ぎ無かった。
だが
その原則を【曹操孟徳】と云う男が打ち砕いた

既述の如く、それ迄は馬鹿にされていた、軽快なテンポを有する庶民歌謡のエッセンスを掬い出し、文学としての
五言詩を生み出したのだ。
そこ迄は粋な曹操個人の、純然たる文学的衝動・活動であったと謂えよう

然し曹操が 天下を窺う英雄と成る頃から、その純粋性は次第に変容した
即ち、高尚な文学としての社会認知を獲得すると同時に、〔政治手法の斬新な1形態〕としての性格が、より全面に押し出されてゆくのであった。詰り、漢王朝を根本から支えてきた「儒教倫理」に代る〔新たな価値基準〕として文才・詩才 も亦、人を評価・登用する正当性を持つ!!との、新時代の到来感を人々に植え付け、意識させる為の”煽り行為”的性格を付与されてゆく・・・・のである。
それは「織田信長」が、単なる土くれを焼いた”茶器”を、終には1国を贖える芸術だと認知し、恩賞・封土の不足を補った政治手法と共通する。
その場合、其の事を社会上層階級に広く浸透させる為には、作るだけではダメであり、其れを評価・評論する役目の者達が必要とされる。信長で言えば差し詰め「千利休」に当る”目利き役”が介在する事に因り、其の波及効果は更に高まる。但し、曹操の五言詩は、誕生してから未だ未だ日が浅かったから、専門の批評家の出現を待って居る訳にはゆか無かった。ーーだから、
作者が評論家を兼ねた。作者達が互いに互いを評価し合った。当然、熱を帯びる。然も、昇進や人の一生を左右する事態とも成れば、其の文学行動は、弥が上にも〔時代の趨勢〕と成っていった。いみじくも 「沐並」は『終制』の中で言っていた。
儒学
は乱を収めて正に返し、鼓を鳴らして俗を矯める大義なるも未まだ理を極めて性を尽くし、陶冶変化する実論には非ざるなり。よく始を訪ね、終を求めて 天地を一区とし、万物を芻狗とし、広く観て玄に通じ、形景の宗を求め、禍福の素を同しくし、死生の命を一にするが如きは、吾はに慕うこと有り。
そして、そうした成り行きを、独りニンマリと観て居たのが曹操であった。・・・考えて見れば、土台、戦争に明け暮れる当の本人が、その先頭に立って 血刀と一緒に、新文学の旗を振る なぞ、異常事態である。又、我が子に対して、互いを煽る如くにして 其の才能で跡目を争わさせる事自体も亦、異様な政権の在り方と言わねばなるまい。そうした背景が在った事を認識した上で、
我々は〔建安の七子〕に近づいてゆこうではないか。

そもそも建安文学の旗手を
7人と絞り込んだのは曹丕で、彼の典論』「論文」篇の中にーー今の文人として
魯国の孔融広陵の陳琳、山陽の王粲
北海の
徐幹
、陳留の卩禹、汝南の王昜
東平の
であるとし、
斯ノ 七子ナル者ハ、学ニ 於イテ 遺ス所 無ク、辞ニ於イテ 仮ル所 無シ。と称讃し、皆みずから千里に駿馬を馳せ、上を向きつつ足並みを揃えて駆けている とする。

互いが互いに競い合いながら、ひたすら文学活動に打ち込んで居た〔熱い雰囲気〕・〔熱気〕が窺い知れる1文である。そして曹丕は、この後に、7人の作品に対する短い
論評を付している。ーー曰く、

王粲は辞・賦を得意とする。徐幹は時に優れた気質を示すが然し王粲の相手では無い。王粲の「初征」「登楼」「槐賦」「征思」、徐幹の「玄爰」「漏巵」「円扇」「橘賦」の如きは、張衡・蔡邑でも
及ばないものである。然しながら、他の文章については、以上の諸作品より上と謂う訳にはゆかぬ。
陳琳阮禹の章・表・書・記は、現在の傑作である。王昜は、調和が取れているが力弱く、は力強いが緻密で無い。
孔融
は骨格・気品ともに優れていて見事で他人の及ばぬものが有る。然し 論議を展開する事は 上手く無い。その論理は文辞に及ばず、戯れ・からかい の 言葉を混じえるに至っている。 然しその優れた点になると、揚雄・班固の仲間である。

また此の7人以外にも、多くの「名士層」が文学活動に熱中していた事を示して、次の様に記している。
潁川の邯鄲淳・陳留の路粋・沛国の丁儀・丁翼、弘農の楊脩、河内の荀緯らも亦、文学的才能を持って居たが、この7人の仲間には入らない。 ーー孔融は 父・曹操の政敵。丁儀、丁翼は 曹丕自身の政敵で在った。 そんな相手をも含めて、冷静な態度で評論を為し得たのだから、『典論』の著述作業が行なわれた ”時期” は、跡目争いがすっかり決着した後の、曹丕が魏皇帝に納まった後の事であろう。

その以前の様子は、
正史・王粲伝の中にも記されている。
『曹丕が五官中郎将と成った頃、平原侯の曹植と並んで文学を愛好した。王粲は、北海の徐幹(偉長)、広陵の陳琳(孔璋)、陳留の阮卩禹(元瑜)、汝南の応王昜(徳l)、東平の劉(公幹)と共に友人として親愛された。』


ところで、この
7人ともが全滅したのは、今から2年後の建安22年(217年)である。因みに建安年間は25年を以って潰える。いみじくも年号の終り、即ち後漢王朝が滅ぶ直前迄には、その終末期を代表した7人全員が此の世を去っている。最後は、陳琳・徐幹・応昜・劉驍フ4人が一緒に、バタバタと疫病に倒れてしまう・・・・と云う事は彼等が活躍したのは、未だ跡目争いに決着がついて居無い期間、否、後継争い真っ只中の時期であった!!と云う事になる。だから当然の事として、曹丕も曹植も彼等との交友を深め、出来得れば、自分の後ろ楯に成って欲しいと望んだであろう。ーーだが、賢明なる彼等は共通して、どちらかに偏派する如き、政治的な態度表明は仕無かった風である。「来る者は拒まず」の態度を示し続け、また其れ程の政治力も持って居無かった様でもある。
寧ろ【曹植】に対し、危険を承知で肩入れしたのは、七子では無い【楊脩】であった。彼は太尉・楊彪の子で在ったから、いずれにせよ 曹操からは〔廷臣派!〕との烙印を押され、いずれは粛清される運命を予知して居たのかも知れ無い。だが今は其の問題は棚上げして置き、その2人の間に交わされた往復書簡の中味に注目しよう。ーー何故なら其処には、純粋な「文学論・文学評論」が遺されているからである。曹植は其の書簡の中で〔今世の作者〕として5人の名を挙げつつ、己の文学論を披瀝している。
やや長めだが曹植と云う人物を識る上でも、また彼の《青春の熱き思い》の吐露としてまた彼の”自負”を知り、やがて来る”失意の人生”を送る以前の曹植の姿を、じっくりと読んで措いてやろうではないか。自分宛てに来た曹植からの手紙だと想って読めば、一層愉快である。
尚この
曹植の書簡は、丁度216年の今年 (25歳時) に認められたものであるーー出典は補注の『典略』に拠るーー
                       

『数日 お目に掛からないと、君の事が思われて 苛々して参ります。 君も思いは是れと同じで在りましょう。僕は幼少の頃から辞賦が好きで、それから現在まで25年経ちました。その為、現代の作者については、だいたい語る事が出来ます。
昔、
王粲は漢水の南方に在って並び無き者とされ、陳琳は黄河の北方に在って鷹の様に羽ばたき、徐幹は青州に在って名声を欲しい儘にし、は 山東に在って文才を振い、応昜は大魏に於いて才能を発揮し、足下(楊脩)は都に在って辺りを見下して居られました。
この当時、各人は霊蛇の珠を自分が持って居ると思い込み、各人は荊山の玉を自分が抱いていると思い込んで居ました。そこで我が王(曹操)は、天を蔽う網を設けて彼等を包み込み、世界の果てまで手を伸ばして 彼等を取り込みまして、今では全て 此の国に集まって居ります。然し ながら、この数人の者さえ、羽を振えば彼方に飛び去り、一気に千里を天がけると云う訳には参りません。
陳琳の才能を以ってしても 辞賦には熟達しておらず、自惚れから自分では司馬相如 (前漢の文豪) と同じ風格が有ると思い込んで居ますが、喩えてみれば・・・虎の絵を画こうとして上手くゆかず、却って犬の絵に成ってしまう様なものです。
以前、手紙で其れをからかったのですが、逆に論文に書いて、僕が彼の文章を褒めたと、盛んに述べて居ります。そもそも鍾子期は音楽に対する真の理解を示した為、現在でも讃えられて居ります。私が思い切って好い加減な称讃をしないのは 後世の人々から 物笑いと成る事を懸念するからです。世間の人の書く物に欠点が無いと云う事は不可能です。ですから僕は常々、他人が自分の文章を批判し、欠点を指摘して呉れる事を歓迎して参りました。良くない点が有れば、その時々に応じて改定できるからです。
昔、丁翼は小品を書いた事がありまして、僕に 其れを修飾そて呉れと申しましたが、
僕の才能はあの人を超える事が出来無いので、辞退して手を出しませんでした。すると丁翼は申しました。
『卿は何故ためらったり拒まれたり為さるのですか。文章の美しさは、私自身の責任にされるのです。後世の人の、誰が私の文章に手を入れたと知るでしょう。』ーー

私は常々この悟り切った言葉に感心し、美事な話だと考えて居ります

昔、孔子の文章表現は、他の人と同じ程度でありましたが、『春秋』を製作いたしますと子游・子夏といった弟子達は1字も置き換える事が出来ませんでした。
それに
人の作品にケチを着けても、自分の言葉に欠点が無い様な人物に、私はお目に掛かった事が御座いません詰り、南威の容姿が在って初めて美人について論ずる事が出来、龍淵の鋭利さが在って初めて刀の切れ味について語る事が出来るのです。
劉季緒 (劉脩→不明な人物) は、才能が作者に及ばないのに、好んで 人の文章にケチを着け、長所・欠点を論って居ります。昔、田巴は斉都の稷門の側で五帝を貶し、三王を咎め、五覇を謗りひと朝の間に千人を服従させましたが、魯仲連に一度説き伏せられると、一生くちを噤んだとの事です。劉生の弁舌は田氏に及ばないのに対して、現在の仲連とも謂うべき人物、それを探す事は困難ではありません。

人には夫れ夫れ愛好するものが御座います。蘭の花などの香りは、多くの人の好む物でありますのに、海浜には悪臭を放つ人の後を付いて廻る男が居りましたし、古代雅楽の演奏は、多くの人が楽しむものでありますのに、墨テキは其れを否定する論議を致しました。それに同調する訳には参りませんが、今、僕が若い頃に著わした辞賦1篇を御送り致します。
そもそも、街や道路で語られる話には、必ず取り上げるべき点が有り、車の轅を叩いて歌う農民の歌にも、風や雅に通ずるものが有るのです。1人の男の思想にも、簡単には捨て切れ無いものが御座います。
辞賦は詰らぬ技芸であって、元々立派な道義を称揚し、未来に明示する程のものでは御座いません。昔、揚子雲は先代漢に於いて、戟を手に侍衛に当る臣に過ぎませんでしたが、それでも辞賦の事を、『立派な人間の作るものでは無い!』 と申しました。
私は徳の薄い者では在りますが、列侯の位に取り立てられて居りますからには、矢張り
御国の為に力を合わせ、人民の為に恵みを行き渡らせ、永遠不変の功業を打ち立て、金石に刻まれる様な勲功を残したいと念願して居ります。ただ筆や墨を用いる事を手柄と考え、辞頌を作る事を君子の務めだと思いましょうや

もし私の希望が果されず、私の理想が行なわれないならば、矢張り史官として、事実の記録を担当し、現代の風俗の是非を判断し、人間の踏むべき道徳の真髄を定め、独自の意見を打ち立てたいと思います。司馬遷の様には之を名山に秘蔵する事は出来ませぬが、之を同好の士に伝えたいと存知ます。それも 白髪に成ってからの理解を 期待して居りまして、だいたい今日すぐの評価を問題にして居る訳では在りません。
そもそも臆面も無い言葉を吐きましたのは、貴方が私を理解して下さって居る事に拠ります。 明朝お迎え致します。手紙では充分に心の裡を述べられません。』


反語的な文辞が多い故を以って、注意深く読み直して試るべき、充二分の価値を有する書簡史料であろう。

尚、
楊脩の返書も全文が載録されているが、こちらは要点のみを抜粋して措く。
                     
『お側に侍らない日が 数日にも成りますと、年を越す程の思いが 致します。私だけが特別に目を掛けて戴いて居る為に、心の繋がりを感じ、お慕いする気持が深く成るのでしょうか。わざわざ忝くも御手紙を頂戴いたしましたが
その文章は美事なもので御座います。繰り返し朗誦いたしましたが、風・雅・頌であっても、もう是れ以上ではありません
王粲
が揚子江の向うで並ぶ者が無く、陳琳が冀地域で幅を効かせ、徐幹が青州・豫州で名声を挙げ、応昜が魏国で才能を発揮したと云った御説は、全て其の通りで御座います。私の様な者になりますと、彼等の評判を耳に致しましても その素晴しい才能を慕う余裕も無く、目は遍く 閲覧する事に 注がれて居りましたから、どうして高所より見下ろして驚く様な事がありましょう。
慎みて君侯 (曹植) の事を考えますと、御幼少時から 御成人あそばされるまで尊貴な御身分の上、周公・武王の素質を具えられ、母君の立派な御教訓を身に着けられて居られます。遠きも近きも拝察いたします者供は、ただ善く優れた(太祖の)御徳を遍く示したまい、大業を輝かせ、祐け参らせて居られるのみと思い込んで居りまして、更によく書物を広く御覧になり、文章に心を留めて居られるとは考えても居りませんでした。
今はと謂うと、
王粲を包み込み、陳琳の上を行き、徐幹・劉驕E応昜などを乗り越えて居られ、見る者は驚きの眼で目を拭い、聞く者は頭を傾けて耳を欹てて居ます。あの様に 事物の本質に通暁する能力を、自然から授けられて居無いならば、一体誰が此処まで到達できましょうか。
また以前、君侯が執事に書版を手にさせ、筆を持たせて制作されて居る所を親しく拝見致しましたが、心の中で作られた事を読み上げられ、書く事は人の手を借りられまして、全く少しの間も 御思慮の為に 一息つかれる事は有りませんでした。 孔子は、弟子の子貢から 『日月と同じで、超える事が出来無い』 とされましたが、私の仰ぎ慕う気持も、全く其れと同様であります。
                   〜〜(中略)〜〜
国を治めると云う立派な仕事を忘れず、千年に渡る優れた名声を残し、功績を景鐘に彫り付けられ、姓名を書物に記載されると云う点になりますと、それは当然、
平素から培っている幅広い才能の結果でありまして文章を書く事に因って妨げられる事でしょうか。〜後略〜』

後略の部分では、「劉脩」なぞ瑣末な事で問題にもなりません、とある。 後の世では
〔詩の神〕 とさえ 位置付けられる曹植の文章にケチを着けるとは ”フテ〜野郎 ”だが、
一切不明の者だから筆者も文句の言い様が無い。ま、このまま消え失せて貰おう。
『2人の遣り取りは、この様に非常に度々であった。』



曹丕にも、お気に入りの家臣・呉質に宛てた「書簡」が伝わっている。今から2年後の218年の物であるが、この時七子は全滅した直後の時期に相当する。彼等を愛惜しつつ、評論を下しているので、その全文を転載して措く。曹植の書簡に比べると1人1人に対する具体的な評論となっている点が有り難い。
                       
『年月は移ろいやすいもの。別れてからもう4年に成ろうとしている。3年会わないとて、「東山」の詩は尚その長きを歎いている。まして其れを越えているのだ。思慕の念をどうして持ち堪えようか。手紙を遣り取りしても、その結ぼれたやつれる思いを解きほぐすには不充分だ。 昔年、疫病が流行し、多くの親戚・知人がその災厄に見舞われた。

徐幹・陳琳・応昜・劉驍燗ッ時に皆亡くなった

痛ましき思いを何う語ったら良かろう。 昔日、共に遊んだ折、道を行く時は 同じ車に
乗り、止まれば隣合わせに座席を占めたのに、どうして僅かの間に世を去ったのか。
酒を酌み交わし杯を廻す時に、いつも管と弦を奏し、酒宴佳境に入り耳が熱くなると、天を仰いで詩を歌ったものだ。その時に於いては、恍惚として其の楽しさすら意識されない程だった。百年の人生を己が持分として、長く一緒に生き続けられると考えたのだが、数年の間に死没して殆んど居無くなるとは何うして予測し得たであろう。その事を語れば心が傷む。近ごろ彼等の遺言を選び、合わせて1つの文集とした。その姓名を見ると、既に鬼籍に入っている。昔の遊楽を思い起こせば、未だ心や目の中に残って居るのに、この諸君は糞土と変わり果ててしまったのだ。是れ以上いうべき言葉が在ろうか。

古今の文人を観察すると、概ね細かい作法を守らず、名誉・節操によって独り立ち出来る者は少ない。ところが
徐幹だけは教養と質朴さを具え、恬淡無欲、隠棲の志を抱いて居り、調和の取れた君子と謂って善いであろう。『中論』20余篇を著わし、独自の仕事をしたが、文辞・内容ともに典雅であって、後世に伝えるに足るものであり、この人は不朽であろう。
応昜は常に華々しく著作の意志を抱き、その才能・学問は書物を著わすに充分であったが其の立派な意志は完遂され無かった真に痛惜すべきである。時に緒人の文章を歴観し、其れに向き合って涙を拭う。去りし者の行為を痛み、思いに耽るのである。
陳琳の章・表は取り分け雄健であるが、少しく繁雑である。
は優れた気質を持っているが、ただ力強さが足りぬ。その五言詩となると、当世に於いて飛び抜けて優れいる。
阮禹の書・記は美事で、充分楽しめるものである。
王粲だけは独り、辞・賦が上手だったが残念な事に其の骨格が弱く、その文の溌剌さを乏しくしている。然し優れた個所は、過去の人に、そう引けを取らぬ。
昔、伯牙は鐘子期の死に遭って琴の弦を断ち切り、仲尼は子路の死に遭って醢を廃棄させた。音楽の理解者に出会う事の難しさを痛み、門人が手の届かぬ所に逝ったのを痛んだからである。
上に述べた諸君は過去の文人に及ばないと言うだけで、勿論一時代の俊才であり、現在生きて居る者は何うにも追い着けないのだ。
若者こそ畏敬すべきであり未来の人間を馬鹿には出来ぬものだ。然しながら私と足下は彼等の活躍を見る事は出来ぬであろう。年齢も既に長じ、草草の思いが湧き起こる。時に考え込む事が有ると、夜通し眠れぬ程だ。 何時の時か 再び 昔の日が蘇る事があろうか。既に老人と成ってしまって、ただ白髪が無いだけの事なのだ。
光武帝は 『年は既に30、軍に在ること10年、経験は一通りでは無い』 と言った。私の徳義は及ばぬけれど、年は彼と等しい。犬や羊の身で在りながら、虎や豹の紋様を着込み、星の持つ明るさも無いのに日や月の光を装って居る。行動は注目され、のんびり出来る時とて無い。恐らくはもう永久に昔日の遊びをする事は無理であろう。若い裡に本当に頑張らねばならぬ。1度過ぎ去った年月を、どうして手繰り寄せる事が出来よう。古人が灯を点して夜を遊ぶ事を考えたのは誠に当然の事だ。近頃は何を楽しみとして居られるか?少しは又著述する事が在られるかな?東を眺めては気は晴れず、手紙を書いて心中を述べた。』


曹植や曹丕の、この〔七子〕に対する文学評価が、正当なもので有るか否かはハッキリ言って誰にも言及は出来ぬ。何故なら、七子の作品そのものが残存して居無いのであるから、である。・・・・とは言え、彼等を取り巻く、熱気に満ちた文学的雰囲気の幾分かは伝わって来た筈である。
では次に、彼等・所謂
建安の七子と呼ばれる個々人について彼等の出仕年代順に、若干の考察を試みてみよう。
〔1〕孔融文挙・・・・彼の生涯については、既に詳述してあるので改めては述べないが、ただ『後漢書・孔融伝』の1文を紹介して措く。ーー
『曹丕は深く孔融の文章に傾倒し、前代の揚雄・班固と同等に位すると言い、懸賞付きで其の遺稿を天下に求めた。』 と記し、最後に、
彼が居ればこそ曹操は、その生前に 漢王朝簒奪の志を遂げ得無かったのである! と 結んでいる。
確かに七子のうち、この孔融だけは異質の  存在であった。年齢的にも立場的にも曹操と肩を並べる 「名士層」 の大御所であり、
然も、漢王朝を支える〔政治勢力〕として曹操の前に立ちはだかって居た。いわゆる
「廷臣派」の巨魁として、文学者で在るより、より一層、漢王室の忠臣であり、漢王朝
護持を掲げる政治家の色合いが濃厚であった。曹操は 其の孔融を、見せしめ 的に
粛清はしたものの、決して個人の抹殺に拠って 「名士層の反発」 そのものを取り除く
事には成ら無かった。否むしろ其の怨念は、地下の伏流と化し 以後も 曹操を悩ませ
苦しめ続ける・・・・そう謂った意味では、後漢書の結語は強ち抗弁では無い。
だが然し其の一方で、多くの名士層の支持を得て居た
孔融の文学活動は、本人の意識し得無いレベルに於いて、明らかな自家撞着・自己矛盾を起こして居たと謂えよう。即ち、文学の価値を高めれば高める程、その熱気が横溢すればする程、その結果は・・・・彼の標榜する旧体制を破壊する、新たな価値観・価値基準の形成に力を与え、曹操の思惑通りの状況を招来する事に繋がった!!・・・・のである。そうした観点に立てば、建安七子の内で、政治性の側面に於いて、その最大の成功例は【孔融文挙】のケースであった・・・・とも言えるであろうか。げに、
文学は平和の時にこそ有用な意義を有する抑止力で在るのであり、警鐘と成った時点では既に、抑止力とは成り得ぬもの》 なのであろう。其処にこそ、政治と文学の関係に於ける、相克の歴史の教えがあるに違い無い。かくて、建安七子の筆頭・孔融文挙は、今から8年前に
『言多令事敗』・・・・言多ければ事をして敗れしめ、たのであった。

〔2〕陳琳孔璋・陳琳と謂えば檄文である
余りにも有名なフレーズは、曹操
贅閹の遺醜!!』・・・・
陳琳は広陵の出身で「州里の才子」であった。呉の重鎮・【張昭】を最初に認めた先輩名士であり、【張紘】や【王朗】などとも交友が有った。その後、首都洛陽に出て大将軍何進の主簿と成る。だが、その何進が宦官のクーデタアに遭っての大混乱の中、陳琳は新たな主として、4世3公の大名門で西園の8校尉の1人だった【
袁紹】を選んだ。
この時、同じく8校尉の1人であった【曹操】とも面識を得て居り、会話も交わしたと思われる。その袁紹の元で「
文章を司った」彼の事蹟としては、3つ程の事が伝わっている。
1つはーーあの、妻を皆に喰わせて迄も、旧主に殉じて抵抗した 義士への誘降の
手紙の遣り取りである。袁紹は彼等が同郷人であった”好み”を利用して、陳琳に呼び掛けさせた。だが第61節に既述した如く、
臧洪は痛烈な訣別の辞を送って寄越し、その両者の生き様に於いて陳琳の節義は、風に舞う羽毛の如き軽さとあしらわれた。
去れよ孔璋。君は謂わん、「余は身死して、名滅ぶ」と。然れども僕も亦、君の生きても 死しても聞こゆる無きを笑うなり。悲しい哉本は同じくして末は離る。努力、努力。それ復た何をか言わん。
2つはーー公孫讃戦に於いて、密使を捕えた袁紹の求めに応じて、その秘密命令書の中味を書き換えて敵城内外に作戦の齟齬を来たさせ、終には滅亡に追い込んだ
・・・・と云うもの。(既述)
3つはーー例の曹操戦に対する激越なる檄文である。のち袁氏が破れた時曹操は文句を言いながらも、彼の”才能”を用いた。その時の陳琳のケロリとした言葉
矢の弦上に在れば、発せざるを得ずは亦、節義より”才能”を重視する
曹操の意に叶った。
処で、肝腎な 陳琳への文学評価であるが・・・・上記で観て来た如く、曹丕も曹植も、決して高くは観て居無かった。認めるのは「章・表・書・記」の公用文書に限られ、詩賦や辞賦に至っては→『虎を描く心算が犬に成っている!』 と辛辣であった。要するに彼は、
文章の技術屋であって、心を歌う文人では無い
と評価されて居た訳である。但し其の《文章のプロ》 としての評価は、偏頭痛に苦しむ曹操をして「彼の檄文を読み、余りの痛快さに病が吹っ飛んだ!」と言わしめる程であった、と謂う。

 飲馬長城窟      馬を長城の窟に飲えば
 水寒傷馬骨      水は寒くして馬の骨を傷む
 往謂長城吏      往きて長城の吏に謂ぐらく
 慎莫稽留太原卒  慎んで太原の卒を稽め留むる莫れ

 官作自有程      官の作は自ずと程有り
 挙築諧汝聲      挙げ築かんとして汝の声を諧す
 男兒寧當格闘死  男児は寧ろ当に格闘して死すべし
 何能怫鬱築長城  何んぞ能く怫鬱として長城を築かん

 長城何連連      長城は何ぞ連連たる
 連連三千里      連連三千里
 邊城多健少      辺城には健き少もの多ければ
 内舎多寡婦      内の舎には寡婦多し
 作書與内舎      書を作りて内の舎に与うらく
 便嫁莫留住      便ちに嫁して留まり住まる莫かれ
 善事新姑女章     善く新しき姑と女章に事え
 時時念我故      時時に我が故びとを念えと

〔3〕阮禹元瑜・・・七子の内では孔融を除けば他の者達より5年も早い212年(建安17年)に病没していた。(※王へんに禹が正字)
〔Jの悲劇〕 の起きた年であり、〔劉備が益州で軍事行動を起こした〕 年であった。

阮禹は若くして俊才有り。機に応ずること捷麗なり。蔡邑に就て学んだ。蔡邑は歎じて曰く、「童子は奇れし眉せるよ。朗朗として双ぶ者無き哉!

阮禹は陳留国の出身で、若い時に大学者の蔡邑に就いて学んだが高い評価を得た。→その後曹操の下に出仕したのは建安初年(196年)だと言うから、献帝奉戴時、七子の中でも最も早い。その時の逸話が伝わる。ーー初め彼に眼を着けたのは曹操の従弟「
曹洪」で、書簡の代作を依頼したのだが、阮禹は頑として受け付けなかった・・・・即ち武辺一辺倒の荒くれ者程度の人物への仕官を、断固拒絶したのだ。頭に来た曹洪は、ムチで打って痛め付けたが、阮禹は決して肯じ無かった。その後も病気に託けて出仕を拒否し続ける。その事を曹洪が曹操に話したのがキッカケと成って、結局、曹操に召し抱えられたのである。阮禹は其の時の感激を、
ひとたび黒雲を開きて白き日を望む事を得たり。唯ひとえに我が力を是れ視り、敢えて2心有らめやも!』 と表わし、杖を投げ捨てて立ち上がった、と伝えられる。かくて阮禹も亦、曹操の為に多くの軍国の書檄を作った。判っているものとしては
(1)→208年の荊州平定時に劉備に与えた書簡
(2)→赤壁戦敗北の後、融和戦略に転換しようとして、孫権に送った書簡(3)→211年に関中西征に同行し、韓遂に送った書簡
その時、阮禹は馬上で草稿を練り上げ、曹操に手渡したが、1字たりとも訂正する箇所は無かった、と謂う。
          『七哀
        ーー後世の「挽歌」の魁と成ったとされる詩賦ーー

  丁年難再遇
    丁んなる年は再び遇い難く
  富貴不重來    富貴は重ねて来たらず
  良時忽一過    良い時の忽ちにして一たび過ぐれば
  身體爲土灰    身体は土灰と為る
  冥冥九泉室    冥冥たる九泉の室
  漫漫長夜臺    漫漫たる長夜の台
  身盡氣力索    身は尽きて気力索せ
  精魂靡所能    精魂は能くする所靡し
  嘉肴設不御    嘉き肴は設くれども御さず
  旨酒盈觴杯    旨き酒は觴杯に盈つ
  出壙望故郷    壙を出でて故郷を望むに
  但見蒿與莱    但しく蒿と莱とを見る

阮禹が病没したのは 建安17年 (212年) だが、蔡邑 の処刑年が192年だった
事から推測するに 彼の享年は未だ 30代 であったーー
曹丕は言う。
陳留の阮元瑜は余と旧き交わり有りしが、薄命にして早く亡せぬ其の遺孤(妻子)の存するを感う毎に、未まだ嘗て愴然として心を傷ましむ と。
そして其の若き未亡人を傷んで
寡婦の賦を作った。

   惟生民兮艱危   惟に生の民の艱しく危うき
   在孤寡兮常悲   孤寡に在りて常に悲しむ
   人皆處兮歡樂   人は皆な処んじて歓楽するに
   我獨怨兮無依   我は独り怨みて依るべ無し
   撫遺孤兮太息   遺孤を撫しみて太息し
   俛哀傷兮告誰   俛して哀傷するも誰にか告げん

同じ 寡婦の賦を、王粲も 作っている。曹丕の命に応えての作だという。

   闔門兮卻掃      門を闔じて卻掃し
   幽處兮高堂      高堂に幽り処る
   提孤孩兮出戸  孤孩を提れて戸を出て
   與之歩兮東廂  之と東の廂に歩み
   顧左右兮相憐  左右を顧みて相い憐み
   意悽愴兮摧傷  意は悽愴として摧け傷む
   欲引刃而自裁  刀を引きよせ自ら裁たんと欲せしも
   顧弱子而復停  弱き子を顧みて復た停む

母1人、子1人と成った若き未亡人は、哀しみの余り、自殺まで考えたが1粒種の孤児の事を思い、思い留まった・・・・そして、この孤児 (みなしご) こそ誰あろう。次の時代を象徴する事と成る、
竹林の七賢人の筆頭・阮籍その人なのである
阮籍 と云う不可解な人物の存在を何う位置づけ、如何に評価するかは、本節の主題では無い。だが、次の時代を代表する知識人であるからには、ザッとだけは観て措こう。
乱暴に、其の表面的な生き様だけで謂えば、〔大変人〕〔大奇人〕に類する〔絶望的な虚無思想〕・〔体制へのニヒリズム〕の実践者で在った。ーー母親の死に遭いながら平然と酒を飲み肉を喰らい続けたり、泥酔して隣家の若妻の側で寝込んだり だの、およそ
儒教倫理では許されない行為を敢えて貫き通した。だが其の胸中には・・・・

  嘉き樹は下に蹊を成す      東園の桃と李と   
  秋風の飛霍を吹けば        零落は此れより始まる
  繁華には憔悴有り         堂上には荊杞を生ず
  馬を駆りて之を捨て去り      去りて西山の趾に上がる
  一身すら自ずから保たざるに   何ぞ況や妻子を恋わんや
  凝れる霜は野の草を被い     歳の暮は亦 此処に終る

一見、曹操の『存在と時間』・『存在と無』に共通する如き死生観の裡に、実は曹操とは正反対な 《虚無》 や 《孤独の自覚》ー→個人の目覚めに基づく沈鬱を超越して、超時間性を求めるデカダンス・・・・即ち、【神仙】を指向する”絶対的な高み”を欲する魂の叫びが存在した。恰もその姿は、統一王朝の安定を失った、寄る辺なき中国人の、その国の形と一致する。
その
阮籍の父親が、統一王朝を瓦解させた曹操に尽くした阮禹で在った事は、如何にもシニカルな歴史の連鎖と謂えようか・・・・。

〔4〕徐幹偉長・・・青州北海郡の人。『中論』の序文に拠れば 『彼に至る迄に10代の系図を持つ旧家の子であり、「学ニ志ス年」=14、5歳迄に既に数十万語の文を誦した。つまり早熟な乱読の子供であった。基本の古典である五経を呼んだのは、却って遅く、14歳の年に始まるが、憤を発し食を忘れて日夜その暗誦に勉め、父が其の健康を気遣う程であった。五経の研究は20歳に至らずして終り、他の分野への博覧とを合わせて、文章は立ち処に成った。
然し、多病と思索好きな性格から、世俗的な行動を好まず、世俗の貴公子達は党派を作り合って、”仲間褒め”に懸命であったが、彼は常に其の圏外に居た。且つ時に天下は麻の如く乱れていた。じっと郷里に引き籠った儘、学問と思索に耽り、そのため病を得た。やがて曹操の知遇に感じて、その招聘に応じ諸方の征討に従軍したが5〜6年で病が重り、以後は家居した。生活は大変困難であったが、志を曲げ無かった。世間
一般の好尚は、辞人美麗の文であったが、それらは「大義を闡弘し、道教を敷散する」もので無い事を悟り、みずからも 詩・賦・頌・銘・賛など 美文の制作をやめて、精力を
『中論』 の完成に集中した。
建安22年春2月、疫病の為に亡くなった。48歳であった。『中論』20篇は、その思想の一端に過ぎ無い。

物静かで派閥を好まず、晩年には美文を捨て、もっぱら
思索家として矜持を立てた人物で在った。ーー曹操が未だ「司空」であった時期に、「軍謀祭酒掾属」 として出仕するが、211年(建安17年) に曹丕が五官中郎将と成ると、その〔五官将文学〕に就く。 然し 其の3年後の214年には、今度は曹植の〔文学〕とも成っているから、兄弟の両方共と親しかったと観るべきであろう。

曹丕の”文学職”でも 在った【
王昶おうちょう】は、周囲の人物を評価する場合・・・・
〔我が子が→其の人物を手本にすべきか何うか?を附す〕・・・・と云う 独特のスタイルを残したが、この徐幹については、次の様に絶賛している。
北海の徐幹は、高い名声を得る為に細工せず、軽々しく欲しいものを手に入れる事を求めず、淡泊な態度を貫き、ただ道義にのみ励んで居る。彼が是非の評価を下す場合には古人に託して其の内容を示し、当代に対して直接評価を下す事は無い。私は彼を尊敬し重んじて居り我が子が彼を手本とする事を希望する。

又、晩年の(他人からみれば不遇に思える)徐幹に送った、【曹植】の詩賦が『文選』にある。

 顧念蓬室士  汚い家に住む きみ
 貧賤誠足憐  気の毒にも貧乏の中に居る きみ
 薇霍弗充虚  雑草は空きっ腹の足しともならぬ きみ
 皮褐猶不全  なま皮の上着さえも不完全な きみ
 慷慨有悲心  憤りに悲しい心を昂ぶらせる きみ
 興文自成篇  その興奮を文章に写せば自然と書物に成る きみ
 寳棄怨何人  棄てられた宝石の様な境涯に在るのは誰を怨むべきか
 和氏有其愆  其の責めは昔の宝石商・卞和の様な役割の為政者が人物眼を持たぬからだ
 彈冠俟知己  冠の塵を払って、さぞや知己の出現を待って居るであろう
 知己誰不然  然し知己と称する者の中で、真にきみを認める者は誰であろうか
 良田無晩歳  歎くまい良き田には衰えは無く
 膏澤多豊年  必ず豊かな実りが多い
 亮懐與燔美  本当の美しさを懐いて居る限り、宝石は必ず認められるものだ
 積久徳愈宣  長く努力を積めば、自ずから徳は益々明らかにされるものだ
 親交義在敦  せめてお互いに 従来の親交を持ち続けようではないか
 申章復何言  これ以上 きみに詩を差し上げても、外にもう言葉は無いのだから

5世紀末の「劉キョウ」は徐幹の詩賦を評して『徐幹は
博通にして、時に壮釆に逢う』 と言い、『建安の頃の哀辞は、ただ徐幹のみ、やや善ろしく「行女」の一篇は、時に
惻怛
そくだつの心有り』と評する。
ーー然し 残念ながら、
徐幹自身の辞詩賦は殆んど残らない・・・・。


〔5〕王粲 仲宣・・・・
『正史』に於いては〔七子〕の中で此の王粲にのみ
「伝」が立てられているに過ぎない。
  ( より政治家で在った 「孔融」 の記述量は多いが、”大罪人”であるから、その記事は各巻に分散させられている。)

容姿は貧弱、風采あがらず 身体ひ弱。通イ兌な性格であった為に周囲からの評価は低かった。だが曽祖父と祖父は「三公」、父は何進の長史と云う名門の家柄であった。だから董卓政権(献帝)が長安に移った時に同行したが、其処で董卓のブレーン・大学者であった【蔡邑】から認められる。15歳の貧相な子供に対し、蔡邑は履物をあべこべに引っ掛けて飛び出して来て迎えると、周囲の驚愕も物かわ、
「この方は王公の孫じゃ。特別な才能を持ち儂も及ばない。儂の家の書籍や文学作品は全部彼にやるがよい!」 として、天下随一の蔵書を全て彼に譲られた。政権からも招聘されたが、《動乱に在って其の時に非ず》 と観て出仕しなかった。

その後、劉表の下に行くが、風采が上がらぬ為に重用され無い儘、曹操の荊州平定戦を迎える。その時、2代眼の劉jに全面降伏を勧めて実現させた。
その時32歳、208年に〔丞相掾〕と成り、以後→〔軍謀祭酒〕→37歳、213年に魏国が立てられると〔侍中〕と成って居た。
博学多識。新しい制度を制定する場合、王粲が常に主宰したという。
エピソードとしては・・・・(1)古代から伝わる玉王凧ぎょくはい (帯どめの玉) が、動乱の為に世の中から消滅してしまったが、独り王粲だけが識って居て復刻し得た。
(2)道を歩いている時に、友人から「傍らの石碑を暗誦できるか?」 と訊ねられ、一見しただけで諳んじてみせ、1文字も間違え無かった。
(3)囲碁を見物している時、偶々碁盤が引っ繰り返ってしまったが、王粲は全て元通りに並べ戻した。対局者は信用せず2幅の布で碁盤を覆い隠し、他の碁盤に同じ様に並ばせた処、1筋の違いも無かった・・・・などなど、
『才能がずば抜けている上に、弁論も臨機応変の美事さだった。』  また、
『朝廷への上奏文や議論文は、外の誰も筆を執る事が出来無い程であった。』 と謂う。

翌年217年に呉への遠征に従軍するが、道中で疫病に倒れる事となる。時に41歳。



〔建安の7子〕のうち、あとの2人の史料は極めて少ない。
〔6〕応昜 徳王連・・・・(※王へんに昜が正字)
判っているのはーー汝南の人で、そこそこの家柄の出身であり、曹操が丞相に就いた時に招聘され、〔丞相掾属〕と成り→曹植の〔庶子〕→五官将・曹丕の〔文学〕を歴任した事だけである。

〔7〕 公幹・・・・彼に関する史料も少ないが、ただーー
この劉驍セけは、ハッキリした
曹丕派であった事が明らかである。その事は、曹丕が腹心と恃んでいた「呉質」と共に、〔曹丕の客〕として頻繁に出入りしていた事からも推測できる。更には、珍品(鮮卑族の革バンド)の貸し借りの逸話や、寧ろ此方の方が有名な『劉驛n不敬罪デ刑ヲ受ケ』た経緯から観ても、彼が曹丕派で在った事は明らかである。その不敬罪とは・・・・
或る時、曹丕が文学 (腹心) 達を招待し、酒宴たけなわで座中が楽しんで居る時に、
夫人の甄氏に命じて、出て来て挨拶させた。 座中の人々は皆 平伏したのに劉驍セけが直視した。太祖は其れを聞くや、劉驍逮捕し、死刑を免除して懲役にした。
』ーー
所謂、
甄氏みちゃった!事件である。当時、人の妻、まして高貴な者の夫人を他人の前に見せるなぞ、およそ常識外れな絶対のタブーであった。それをモロに見ちゃったのだ。既述の如く、その行為は・・・・全裸の妻を他人に見せる以上の破廉恥行為であったのだ。無論、死刑が減刑されたのは曹丕の助命嘆願が有ったからである。
そもそもが曹丕派のドンチャン騒ぎの席で起きた、主宰者・曹丕が父親の風骨 (型破り精神) を真似して試みた御粗末。
先の王昶おうちょう】は、『東平の劉驍ヘ、博学で高い才能を持っており、誠実な生き方をし、大きな志を抱いて居た。
然しながら、人柄と行為とに均質性が無く、自己を拘束したり遠慮したりする事が少なく、長所と短所は差し引きゼロであった。 私は 彼を愛し
重んじては居るが、
我が子が彼を慕う事を希望しない。』 とハッキリ言い切られている。→アリャマ・・・・之じゃあ、”戦力”には成らないワナア〜〜・・・・

とは言い状、実は矢張り・・・彼も亦、他の七子と同様に中立派で在った証拠が、『正史・形禺頁けいぎょう伝』に記されているのである。形ギョウが曹植の〔庶子の任〕に在った時飽くまで是々非々の態度で臨んだ為に、2人の仲はシックリ行か無くか成った。それを見た劉驍フ諫言の手紙に曰く・・・・
『家丞の形ギョウは北方の俊英で在りまして、若い頃から節操高く、奥床しく淡泊で、少ない言葉に道理多く、真に立派な人物です。私は実際この人の同僚として、共にお側に列する価値は御座いません。処が、私への礼遇は特別で、彼に対しては却って疎略です。私は観察者が、『曹植様は詰らぬ人物と昵懇にされ、賢者への礼遇は不充分である!同じ任に在る劉驍フ、春の花の如き華やかさを取り上げ、形ギョウの秋の実りの如き堅実さを忘れて居られる!』 と 判断する事を
密かに恐れて居ります。今の儘では、この様な、お上に対する非難を招き寄せる事とも成り兼ねず、その場合、私の罪は小さくありません。それ故に、居ても立っても居られませぬ。』

蓋し七子は全員が、兄弟の片方に偏頗して付き合う様な事はせず、平等公平な態度で臨み続け、良き友で在り続けたいと欲して居た・・・・ので在る。


長くなってしまったので、最後に、文学面の評価のみを、もう1度まとめて措く。劈頭の文であるが、味わいは異なる筈である・・・。
斯ノ 七子ナル者ハ、学ニ 於イテ 遺ス所 無ク、辞ニ於イテ 仮ル所 無シ。 皆みずから千里に
駿馬を馳せ、上を向きつつ足並みを揃えて駆けている。

王粲
は、辞・賦を得意とする。
徐幹
は時に優れた気質を示すが、然し 王粲の相手では無い。王粲の「初征」「登楼」「槐賦」「征思」、徐幹の「玄爰」「漏巵」「円扇」「橘賦」の如きは、張衡・蔡邑でも及ばないものである。然しながら、他の文章については、以上の諸作品より上と謂う訳にはゆかぬ。
陳琳阮禹の章・表・書・記は、現在の傑作である。
王昜
は、調和が取れているが力弱く、
は力強いが緻密で無い。
孔融
は骨格・気品ともに優れていて見事で他人の及ばぬものが有るが、然し 論議を展開する事は 上手く無い。その論理は 文辞に及ばず、戯れ・からかい の 言葉を混じえるに至っている。 然し、その優れた点になると、揚雄・班固の仲間である。

上に述べた諸君は過去の文人に及ばないと言うだけで、勿論、一時代の俊才であり、現在生きて居る者は何うにも追い着けないのだ。

徐幹は 教養と質朴さを具え、恬淡無欲、隠棲の志を抱いて居り、調和の取れた君子と謂って善いであろう。『中論』20余篇を著わし、独自の仕事をしたが、文辞・内容ともに典雅であって、後世に伝えるに足るものであり、この人物は不朽であろう。
応昜は常に華々しく著作の意志を抱き、その才能・学問は書物を著わすに充分であったが、その立派な意志は完遂され無かった。まことに痛惜すべきである。時に緒人の文章を歴観し、其れに向き合って涙を拭う。去りし者の行為を痛み、思いに耽るのである。
陳琳の章・表は取り分け雄健であるが、少しく繁雑である。
は 優れた気質を持っているが、ただ力強さが足りぬ。その五言詩となると、当世に於いて飛び抜けて優れいる。
阮禹の書・記は美事で、充分楽しめるものである。
王粲だけは独り、辞・賦が上手だったが、残念な事に 其の骨格が弱く、その文の
溌剌 さを乏しくしている。然し優れた個所は、過去の人に、そう引けを取らぬ


建安の七子・・・・所詮、彼等はーー曹操・曹植・曹丕、その父子3人の”陽炎”ないしは”エピゴーネン”に過ぎず、2000年後の現代となっては、単に只、グループとしての〔七子〕としてしか文学好きな人々の記憶にさえ 留まっては居まい。だが然し、『三国志』の中に現われる彼等の存在意義こそは此の史書に本格的な品格を与える”隠し味”以上の気品の源と成っているのである。
       エ ジ ソ ン から 
ノ ス ト ラ ダ ム ス まで
〔文学の独立〕を高らかに宣言した、このフレーズは、
一体、何からの独立を宣したものだったのか!?・・・・それは、
後漢王朝が唯一の”国教”として、他の学問を全て禁止していた「儒教絶対時代」の閉塞感に対する、訣別宣言であり、新たな《学》としての〔詩歌文学〕の誕生を意味する、三国時代の吼吼の声・雄叫びでも在ったのである・・・・。



                
話しが随分と堅苦しく成ってしまった。まあ、偶には好いカモカモである。・・・・で、お次はグッと砕けてーー2000年前の、

曹操が世界中の
その道のプロを一同に集めて開催した、
有りとあらゆる才能の持主達の集いにお邪魔しよう。

その
大召集令の日に参集した者達の顔ぶれたるや、正に
当時の
大家ばかり・・・・大発明家あり、大音楽家ありかと思えば、大占い師 あり、妖術使いあり、自称300歳の
大仙人様あり、求道の剣豪さえも集う。

謂わば、
天下一異能選手権大会の話とゆこう。 【第201節】 天下一異能選手権大会!! 
               (エジソンからノストラダムスまで) →へ