【第199節】
12月、公ハ南鄭 カラ帰途ニ着キ夏侯淵ヲ漢中ニ残シテ駐屯サセタ。建安21年 (216年) 春2月公ハ業卩ニ 帰還 シタ。ーー『正史・武帝紀』
遙々1200キロ ( 本州縦断に匹敵 ) 丸1年を掛けて遣って来た 漢中 から見れば、《蜀》は目の前であった。と言うより、漢中は益州の1部であり、僅か1歩、200キロ踏み出すだけで其処はもう・・・・《劉備の蜀》 だった。然も1年半前に成立した (乗っ取った) ばかりの劉備政権は、人心未まだ定かならず日に50の憂慮が 飛び込んで来る 状態なのであった。加うるに、味方本軍10余万の損耗率は多く見ても1.5%の完全無傷。張魯軍6万と豊富な兵糧とを手に入れて居り、総兵力は20万を超え軍事態勢は完璧であった!
にも関わらず、みすみす絶好のチャンスを自ずから放擲するが如くにしてあの曹操が、いともアッサリと引き返した理由は、一体なぜか・・・??
全国制覇・天下統一を狙うのであれば、もう2度とは巡って来そうにも無い千載一遇の大チャンスであった!! 又 その為に こそ曹操は、その一生を馬上に過して東奔西走南攻北征して来た筈である。 曹操は唯、扉を一蹴りするだけで、蜀を丸ごと手に入れ
らる情勢に在った・・・・。嗚呼それなのに、この曹操の行動たるや、全く以って不可解極り無いではないか!!否、それ迄の曹操の生き様・在り方とは相入れない、寧ろ丸っきり反対の、後ろ向きの姿ではないか!?これ迄の曹操戦史を全て識る我々としては予想外の、意外な展開である。
何故だ!?何うしてなのだ!?
そう思うのが、後世に在る我々の素朴で当然な疑問・感想である。
7月の陽平関勝利から11月の張魯出頭までの間、丸4ヶ月・・・・劉備政権大パニックの情報を収集するには充分過ぎる程の時間的余裕も有った。だから当然の事として従軍していた重臣達も 《蜀への進攻》 を進言した。中でも着目すべき重大の点は・・・・
曹操のブレーンと成ったばかりの「主簿」 即ち「軍師参謀格」の2人共が、揃って曹操に
”蜀進攻策”を献言している点である。と云う事は、逆に言えばー→業卩を発ち長安を経て、陳倉から大山塊に踏み込む迄の 遠征軍の〔作戦目標〕は、『終始一貫して漢中平定オンリー』なのであった事が推測できる。それだけの苦戦・難戦が想定されて居た訳である。実際にも兵糧輸送の見通しを誤ると云う致命的なミスを犯し、曹操自身は撤退を決断した程であったのだ。だから、この漢中平定戦の結末は、曹操中枢部にとっても想定外の僥倖・超ラッキーな異常事態だったとも謂える。流石の曹操も、こんな形での完全勝利を想定する事はその直前まで為し得無かったのであり、突然の情勢変化・新事態の出現であったと謂う事が再確認されるべきである。
べきではある・・・・が寧ろ、こうした 突然の状況変化に遭遇した時に こそ、却ってビッグな飛躍を成し遂げて来たのが 非常の人・軍神たる曹操孟徳であった。その機を観るに敏な即応能力の確かさこそが、曹操孟徳の曹操孟徳たる所以で在った。
然も今回の場合は、追い込まれた状況下での苦境を打破・打開する為の「苦し紛れの奇策」や、一発逆転の〔賭博性〕が求められるものでは無く、天下統一に直結する大上段からの真っ向勝負が求められる大団円の場面を迎えたのである!
かつて呉の「周瑜」が天下統一を目論んだ際のキイポイントも亦この蜀の奪取に基づく挟撃策であった。それを全く逆の立場から為し得る絶好の機会が、曹操の目の前に出現したのである!ーー確かに《赤壁の大敗北》に拠って、以後この漢中平定が済む迄の曹操の胸中には・・・・
《もはや俺の代での天下統一は無理だ・・・!!》とする諦観が産まれて居たのは、先ず動かし難い深層心理・戦略の大転換点であったが然し、この想わぬ〔完全無傷の漢中大勝利〕は、そうした曹操の蹉跌と陰鬱とを一挙に吹き飛ばし、再び彼の野望を復活・成就させるに充分な、
人生で最大・最後のチャンスを
《天が与えて呉れた》のである!!
その事を誰よりも一番よく認識・理解して居たのは、他ならぬ曹操自身であった筈である。事実この3年後の218年、劉備が漢中を奪い取る行動を起こすや否や、泡を喰った曹操は押っ取り刀で再び自ずからが、老骨に鞭打って1200キロを遣って来るのである。その時曹操は返す返すも、この時の〔無為撤退〕を悔やんだ事であろう。そのドタバタ劇を思うと尚の事、この時点で曹操が採った行動は、不可解を通り越して曹操最大の謎と成って我々の前に立ち現われて来るのである・・・・
にも関わらず、この素朴で根本的な疑問に対して、キッチリ言及・究明した書物を吾人は知ら無い。史家の怠慢・発想の欠落である。ーーそこで必然そんな大きな謎を解かずして、なんで本書が捨て置くものか・・・と云う塩梅となる。従って本・第199節は、之まで誰も触れて来無かった、この曹操の行動に対する疑問・謎に真正面から斬り込んでゆかざるを得無い。願わくば、読者諸氏に於かれても、ぜひ御一緒に、推理の利剣を振るって戴きたく思う筆者ではアリマスル。
さて其の際、疑問解明の作業手順としてはーー
(1)史料の閲覧・吟味であろう。また同時に
(2)その時点に於ける「世界情勢の客観的考察」で
あろう。この(1)と(2)は主として外的因子・客観要因を
検証する作業である。そして次には困難だが避けては通れぬ
(3)曹操本人に纏わる様々な要因と彼を取り巻い
ていた内的因子・主観要因を探り出す作業である。
そして最後に(1)と(2)と(3)を勘案推量し、
(4)本書としての一応の断を下して、この疑問・謎に対して
納得のゆく結論に到達する・・・と云う手順を踏む
事となる。
先ずは・・・・曹操に〔蜀への進攻〕を進言した参謀(主簿)2人の、その進言の根拠と、それに対する曹操の返答ぶりを史書に観て措こう。なお、史書に伝わるのは此の2人のうちの1人だけである。さて 其の2人の参謀とは、この遠征の為に 新しく「丞相主簿」に抜擢された、新進気鋭の【司馬懿】と【劉曄】である。そして巷間に最も有名なのは 司馬懿の進言と、それに対する曹操の返答 と
されている。筆者も亦その昔、てっきり 〔其の両者の遣り取り〕 が史実だと思い込んで居た1人である・・・・処がアレレ??いざ史料に当ってみるとおんや〜?そんな記述は何処のページを捲ってみても一向に出て来無いのである。《ーーもしや!?》→→嗚呼情けない事に演義・第67回の方に堂々と載っているではないか!!《やられたア〜!》である。だが、まあ、余りにも有名な場面だから、一応は紹介して措く事にしよう。
司馬懿は進言した (事になっている)。
「劉備は劉璋を騙まし討ちにして之を奪い取った為、蜀の者達は決して心服しては居りません。然も今、呉と江陵の地を争って居ります。この機会を逃してはなりません!いま殿は既に漢中を手に入れられたのですから、蜀は大きく動揺して居ります。速やかに兵を進めて彼の地に向ったならば蜀は必ず土崩瓦解するのは必定です。勢いに乗じてこそ容易に大功を収める事が出来るのです。『聖人も時に違う能わず、また時を失わず』 と申します。
この機を逃してはなりませぬ!!」
すると曹操は溜息混じりに、こう答えた (事になっている)。
「人は足るを知らざるに苦しむ。
既に隴を得て、復た蜀を望まんや・・・・」
このフレーズが余りにも有名な為に、筆者はスカを喰らった次第。
原典は『後漢書』の〔光武帝〕の逸話である。劉氏による天下再統一を目指す光武帝・劉秀は隴右を平らげ、あと蜀一国を余すのみと成った時、ポジティブな前向き発言として此の言葉を発したとされていたのである。
「人苦不知足、既平隴復望蜀」・・人は足るを知らざるを苦しむ。既に隴を平らげて復た蜀を望むかーー即ち、〔望蜀〕・・・・貪って足る事を知らぬ、譬えである。それを上手上手と、曹操のネガティブ発言に置き換えて用いたのである。又、【司馬懿】の進言とする内容は、『正史・劉曄伝』中の劉曄の献言を小出しに切り分け、司馬懿と劉曄の2人分に〔水増し〕させて用いているのである。その演義の〔創作の手法〕には全く感心させられる!!・・・・だが、そんな事を言って居る場合では無い。我々は此処で、キッチリとした唯一の史料として、
『正史・劉曄伝』の記述をじっくりと検証しなくてはならない。
さて其の【劉曄】だが字は子揚・・・光武帝の子、阜陵王・劉延の後裔であった。漢の末裔を自称?する劉備などとは違って、此方はレッキとした家柄の人物で淮南出身。13歳の時に母親の遺言を守り、父の側近を 独りで誅殺してしまう 剛胆さを有していた。だが漢王室が衰微してゆくのを観た彼は、王族の端くれで在る自分が兵を持つ事を望まず、配下の者達を全て同族の「廬江太守・劉勲」に任せたしまった。後日その劉勲は孫策の奇計に嵌められて皖城を奪われ、〔2郎2喬を得る〕の添え物にされてしまうが、その時も劉曄だけは孫策の罠を見破った。だが、劉勲は聞き入れず結局破れたーーその後、劉曄は曹操から召し出されて〔司空倉曹掾〕に就いた。であるから入幕は司馬懿とほぼ同時期であった。そして2人は揃って此の遠征の直前に〔丞相主簿〕に抜擢されたのであった。
劉曄は進み出て述べた。
「明公には 歩兵5千に拠って、董卓を征伐しようと為され北方には袁紹を撃破し、南方は劉表を征討されました。中国の9つの州と100の郡のうち、十中その八まで併合され、御威光は天下に轟き、御威勢は国外を慄かせて居りまする。」
この前振りの部分には、曹操自身に積極果敢だった人生を想起させ、その心情的な発奮を促そうとする劉曄の思惑が込められている。その上で劉曄は本題に入っていった。
「今、漢中を攻め陥とされ、蜀の人民は其の噂に胆を潰し、ジットして居られ無い有様です。このまま進撃すれば、蜀は布令文を
廻すだけで平定できるでしょう。 劉備は人傑ではありますが、度量は有っても愚図な上蜀を手に入れてから日も浅く、蜀の人民は未だ頼りにして居りません。今、漢中を撃破し、蜀の人民は恐れ慄き、自然と倒れ掛かっている状態です。
公の神の如き御人柄を以って、倒れ掛かっているのに付け込んで之を押し潰せば、勝たない事はありません。」
この蜀の実情に関しては、あの斐松之が、こう論評している。
「張魯を平定した時、蜀の内部では1日の間に数十回もパニックが起こり、劉備は彼等を押し留める事は出来無かった。それなのに曹操は、劉曄の計略を採用しなかった為に、蜀の地を席巻する機会を取り逃がしてしまった。目算が外れた後で幾ら後悔しても追い着かないものだ・・・・」 と。
「もし少しでも弛めますと諸葛亮は政治に明るい上に丞相と成っており、関羽・張飛は3軍に冠たる武勇を以って 将軍と成って
居るのですから、蜀の人民を安定させた後、要害の地を根城と
して防備する事に成りましょう。そう成ればもう、犯す事は不可能です。いま奪い取らないと、必ず今後の頭痛の種と成りまするぞ」 太祖は聞かなかった。かくて大軍は帰還した。』
ーー(正史・劉曄伝)ーー
と、以上が唯一、曹操が撤退を決断・実行した場面の『史料』である。とは言えレコーダーに残っている訳では無い。くどい様だが『三国志』の”会話部分”の実際は、著者「陳寿」の才腕の振い所
即ち、憶測・創作なのであり、此の際、より重要なのは、
〔曹操が周囲の意見を却下して 撤退した事実〕 なのであって、誰が何の様に献言したかは2の次の問題である。 もっと穿った乱暴な言い方をするなら、進言したのが「劉曄」では無く、同僚の「司馬懿」であっても差し支え無い場面だとも言えるのである。ーー要は、幕僚達の間では、劉曄の如き作戦を考える者達が居たにも関わらず、曹操は一顧だにせず躊躇も見せずに撤退を独断専行させた・・・・と云う事であった。
と同時に、此の時点では、
〔劉備の蜀が、如何に危うい状況に在ったか!〕が強調・指摘されている点である。この点に関しては、『日に50のパニック』云々は些か大仰ではあろうが、一挙に蜀を潰す〔絶好の機会〕で在った事には異論の余地は無さそうである。実際にも9月の時点で、蜀平原北方の地続きに当たる「巴西」や「巴東」の郡からは朴胡や杜コら〔板楯夷〕=(その昔、碌な武器も持たず、板製の楯を用いて居たマイノリティ) と呼ばれる 非漢民族の部族長が、住民挙って帰順して来ていた。 彼等には 少数異民族としての特殊事情は有ったにせよ、”劉備の統制が効かぬ” と云う事態を 如実に示す傍証である。 ーーつまり、先ず、曹操の漢中に接する近隣の郡県が、崩壊の兆しを見せて来たのであり、その兆候は
今後なお一層倍 加速し、やがては雪崩現象を惹き起こす予兆と観て間違い無かった。少なくとも全ての豪族達は、〔いざ其の時!〕と成った場合に備えるべく戦々恐々として居る事は自明の理であった・・・その事が正史・劉曄伝からは窺い知れるのである。だが然しである
では一体 なぜ曹操は、そうした幕僚達の見解を無視して1200キロの彼方に在る業卩への帰還を選択したのか??
その最も肝腎な点についての記述は・・・・唯、『太祖は聞かなかった。かくて大軍は帰還した』 だけである!!誠に以って史家らしい、憶測・予断を排除した或る意味では最も正当な書き方ではある。ではあるが、我々は困惑する事と成る。良く言えば、我々に出番の余地が与えられた・・・・のでもある。
(2)次は魏国を取り巻く国際・対外情勢・・・・
此の215年の時点に於いて、曹操が帰還せねばならぬ理由として、果して、
対外的な懸念や危惧は存在して居たのか!?
である。ーーそして、それを検証する場合・・・・
〔A〕→魏・呉・蜀3国の鬩ぎ合いに関する情勢の変化
〔B〕→魏と辺境を接する異民族の動向が考えられる
先ず〔A〕の情勢であるが・・・・曹操が帰還に着手した12月の時点では
差し迫る如き懸念材料は何も無かった!!と言い切れるのである。ーー寧ろ最大の危機は・・・・その前の8月に在った。
兵糧切れ寸前に辛くも最大の難関だった〔陽平関〕を陥落させた直後ーー遙か東方の〔合肥城〕に孫呉軍10余万が総攻撃を仕掛けた・・・・是れが最大の危機であった。だが既述の如く「遼来来!」の美事な活躍に拠ってたっぷり逆ネジを喰らわせ、却って孫権にトラウマを植え付ける如き大勝を獲得していた。その孫権の受けたダメージは、とても1年や2年で払拭される様なものでは無かった。・・・・だから、曹操が此の〔合肥方面〕=即ち、〔呉〕の動きに危惧を感じて引き返した、とする見解は除外される事となる。
残るは〔劉備〕だが・・・・この時点で留意すべきは、「蜀」 と共に 荊州を領有して居る事である。そして今は寧ろ、大恐慌を来たしている「蜀」よりもその
「荊州部分」 の方が問題と成って来る。即ち、独り 魏と対峙して居る
【関羽】の状況がクローズアップされるのである。
ちなみに関羽の拠点は「江陵」であった。その関羽と北方で対峙して居るのは【曹仁】であり、その居城は「襄陽」及び「樊城」である。両者の距離は凡そ150キロ・・・・東京〜静岡・大阪〜岡山・東京〜諏訪に相当するが、中国大陸では直ぐ隣りの臨戦区画である。況てや途中に何等の自然障害(山河)も無い平地であったから、一旦動けば直ちに脅威と成る位置関係には在った。だが、本体である「蜀」そのものが危うい今、単独で攻撃して来られる訳は無かった。
又、関羽の背後を支援すべき〔呉との同盟関係〕は、漸く修復されたばかりであり、必ずしも強固だとは言い切れない状況に在った。万が一、関羽が北上したとしても、曹仁の直ぐ後背の「宛」や、東側の「汝南」・「江夏」は以前からの恩顧の地であり、命令一下、直ちに頑強な連合軍が形成し得るホームグランドであった。・・・・そうして観ると、とてもの事、関羽単独の攻撃・進攻は考えられぬと判定できるのである。
以上、〔対外的な軍事状況〕を総括するならばーー曹操が3要地に配した守護神達は、その任務をキッチリ果して居たのである。
〔X〕ー漢中→b【夏侯淵】・・・・←b〔劉備〕
〔Y〕ー荊州→b【曹仁】・・・・VS←b〔関羽〕
〔Z〕ー合肥→b【張遼】・・・・VS←b〔孫権〕
即ち、〔A〕に関しては全く問題無し!!の状況であった。
では〔B〕の、異民族に不穏な動きが在ったか?ーーであるが、今の曹魏の版図に関わる者達と謂えば・・・・大別して3つのグループが存在して居た。のちの所謂、〔五胡〕に属する者達である。
(1)→北方・・・・幽州の西部山岳地帯(上谷郡・代郡)の烏丸族、
・・・・遼東半島部に、異民族では無いが、半ば独立の形で
帰順して居る公孫淵勢力。
(2)→并州の山岳盆地に前漢時代から流入して居る南匈奴族。
(3)→西方・・・・涼州〜漢中に分布する羌・氏らの少数異民族。
後述するが、彼等 (匈奴・鮮卑・羌・氏ら五胡 ) は、三国時代の次の、
〔分裂異民族王朝時代〕 の主人公 と成るのである。が、現時点では 寧ろその原因と成るべき 〔曹操の強制移住〕 を被っている真っ最中の時期に相当していたのであり、反抗するなぞ夢想だにし得ぬ状況に追い詰められて居たのである。強制移住を架せられた彼等の悲惨な様子は後述するが、漢人からの厳しい差別への反発を招くのは、今から50年後の事である。
(1)の烏丸は、此の3年後に 小規模な叛乱を起こすが、それも謂わば五月雨型の想定内のものに過ぎず、この215年末の
〔曹操の決断〕 とは直結するものでは無い。
また(2)の南匈奴に至っては、完全に自己統率力を失い、曹操から5分割統治される有様であった。そして(3)の羌・氏は今まさに、曹操からの強制移住=徙民を突き付けられて、父祖の故郷を離れんとして居るのであった・・・・。
詰り、〔B〕に関しても問題は全く無かった!!のである
こうして観て来ると、その対外的な憂慮に関しての結論は、
〔A〕→直接の敵国・〔呉〕と〔蜀〕に不安無し!!
〔B〕→周辺異民族・その動向にも問題無し!!
と謂う事に成るのであり、曹操が撤退を敢行した理由・原因には成り得ぬ事が判明して来るのである。
と成ると・・・・残る因子・要因はーー
(3)曹操本人に纏わる様々な要因と、
彼を取り巻いていた内的因子・主観要素を探り出す作業の中に求めらる事と成る筈である。
その場合、先ず、曹操個人の〔心身の状態〕が問題とされるべきであろう。そこで真っ先に想い至る点はーー
60歳を過ぎた曹操の健康上の問題である。
もっとハッキリ言えば、”老い”が曹操と云う個人の、心身に及ぼす影響である。気力と体力の衰えの進行程度である。
『非常の人』と讃えられる曹操と雖も『人』で在る限りは、いずれ死に至る1個人である。そして、人は歳と共に
否応無く衰えてゆく。 若い方々には中々実感し得無い事ではあろうが、筆者には切実な現実問題である。或る時点からガグンと、自分の衰えを感ずる時が来る。また、自分自身は未だ未だ若い!と思って居ても、実は確実に”老い”は進行している・・・・。
さて、215年の曹操の健康状態・体力についてであるがーー
此の漢中遠征に於いて、1つ気に成る点が有る。それは・・・往復に要した日数の、異様な長さである。8年前に万里の長城を越えて烏丸を征討した日数は4月〜12月までの9ヶ月間であった。
(往きに5ヶ月、復りに4ヶ月) 些か乱暴な数値だが、単純に 距離だけを比較すれば、漢中遠征とは全く同じ距離であった。対するに今回は12月〜翌年2月までの14ヶ月間を要しているのだ。大袈裟に言えば、”半年も長く” 掛かっているのである。 無論、様々な別の事情・要因が在るから両者を一概に比較する事は乱暴ではあるが寧ろ、烏丸遠征の時の方が困難は多かったと言っても良かろう確かに今回は、”大山塊を突破”せねばならぬ地形的な苦難は有ったが、その部分は却ってスムーズで、復路は厳冬期にも関わらず、僅か3ヶ月(12月〜2月)で南鄭から業卩に到達しているのであるーー問題は往路と漢中での滞在期間中の曹操である。
史書に観る限り、曹操は頻りに”弱気発言”を口にし続けている。また「還る!」の一点張りである。
もし曹操が60歳では無く、50歳で在ったなら・・・・果して事の進展・成り行きは何うだったであろうか!?ーーそう思う事は、あながち強弁だとも言えないのでは無いだろうか。
以下、考えられる理由・要因を、徒然なる儘 (思い付く儘) に、羅列して試る事にしよう。存外、馬鹿げた様に思えるアイデアの中にこそ、歴史の真実が潜んで居るかも知れ無い。
曹操はただ単に光武帝の言葉を言って見たかったノデアル此れから〔皇帝〕の地位に就こうとする下準備の態度として、《ワシはそれ程欲の深い人間では無いのだ》・・・・と天下に見せて措く為。
曹操は馬鹿だったからデアル。ーー元々、曹操には天下統一の意思なぞは無く、その為の戦略なぞ持ち合わせて居無かったのだ。過去の全ての戦功も、実は只、眼の前に現われて来る相手を叩いて来ただけの連続に過ぎぬのである。
体調不良・肉体の衰えで、とてものこと新しい作戦続行には自信が無かった為デアルーーそれに伴い、若い頃に比べたら、気力も随分と萎え凋んで居たのだ。だから新たな冒険よりも、穏やかな安全策を選んだのである。
人生の終着点が見えて来た時期だったから、自のずから其の態勢が、〔攻め〕の姿勢から、〔守り重視〕の姿勢へと変容していたのである。
今この時期に、【司馬懿】に軍功を挙げさせたく無かったからデアル。世代交代を間近に控え、優秀な人物の台頭を許したく無かった。
どうしても業卩に帰らねばならぬ!・・・・と曹操が判断せざるを得無い様な
〔緊急事態〕が、本拠地周辺に起こりつつ有ったからデアル。
即ち、政権内部の謀叛・クーデタアの危険が強まっていたのだ。
〔軍事〕よりも最優先な、〔大局に立った政治的判断〕を要する、曹操だけに専断・理解される如き、クリプト級の機密状況が
熟した為デアル。即ちーー業卩に於いて、
皇帝への階が、準備完了した為であった。
ーーと、以上の様な事どもが考えられるであろう。そして此の内の幾つかの着想は、
間接的にではあろうが、恐らく的を射たアイデアであるに違い無い。と言うよりは、
これ等が複合した結果が、駐留軍を置き残しての本軍の撤退と云う、
何とも中途半端な曹操の決定を産んだのであろう。
但し曹操本人は、決して〔撤退〕とは思って居らず、
〔蜀への進攻を一時留保した〕だけの心算であったに違い無いーーだが、その見通しは甘かった!!逆に劉備に先を越されてしまう羽目と成るのだが・・・・その事は、この後の史実が証明する筈である。
さて我々は、そろそろ一応の結論を下さねばなるまい。
曹操が慌てて帰還すべき様な理由・原因は一体何処に在ったのか??
・・・・そこで此れ迄の検証結果を纏めて見ると、
〔A〕→対外的な軍事情勢に対する懸念は全く無かった。
〔B〕→異民族の反抗も、その気配は殆んど見られ無い。
即ち、対外的な軍事状況が原因で帰還を強いられる理由は無かった。
どうやら原因は、曹操の内的事情の方に在ると観て良さそうである。そして其の理由の1つには曹操の気力体力の衰えが背景には在ったと思われるだが重態とか危篤だとかの切迫したものでは無いから、直接的な理由では無い・・・・
だとすると矢張り、一番有力で濃厚な理由は・・・・
〔軍事〕では無く、非常に高いレベルの〔政治上の判断〕ー→即ち
皇帝即位・魏王朝樹立の為の政治日程から逆算された既定の方針であった・・・・と謂う事になる!!
曹操が蜀への連続進行を断行せず、自らは本軍を率いて業卩に帰還した最大の理由は、
〔魏王〕と成る為であった!!のだ。
知られざる、もう1つの戦いを着々と此処まで推進して来た曹操としては、事ここにまで至って、今更そのスケジュールを遅滞させる事は、一種の大敗北に匹敵する〔価値観の崩壊〕であったのだ。
残りの人生が想定される段階に来た曹操が、今、邁進すべきは 「蜀取り」よりも 〔皇帝の座〕 であり、〔魏王朝の創業〕であったのだ。あやふやな大勝利よりも、着実な皇帝への階に足を向けたのである。
この結論の際に、我々がつい失念して仕舞がちな事は・・・・それ程に迄、〔魏王〕への就任、ひいては新王朝の樹立は、尋常一様な作業では無かった!!と云う点である。それ程までに気苦労の多く風当りの強い、細心の注意と批判の矢面に立つ覚悟が要求される難事中の難事なのであった、と云う事である。「ダーウィンの進化論」や「ガリレオの地動説」・「コロンブスの卵」では無いが、何事につけ、最初に時代を切り開く者だけに架せられる荊の道を、曹操は独り歩き続けて居たのである。
そして曹操の場合は、【大漢帝国400年の重み】を一手に背負った、荊の道であったのだ!!
2番手の後続者からみれば・・・・→《な〜んだ!》で済んでしまう悪戦苦闘を引き受ける、《損な役廻り》を常に歩み続けるのが、〔乱世の英雄〕たる曹操孟徳の宿命であり、後世からも〔悪玉の総本山〕と貶される定めを自覚しながらの独り旅なのであった・・・
漢中平定を終えて業卩に凱旋した曹操を讃頌して、侍中の王粲が、曹操の生み出した 五言詩 を用いて、その
偉業を謳った。
従軍に苦楽有り、但 問う 従う所は誰ぞと。
従う所は神にして且つ武なり、
安くにか久しく師を労するを得んや。
相公は関右を征し 赫怒して天威振い 一挙して棊クを滅ぼし、
再挙して羌夷を服す。
西のかた 辺地の賊を収め、忽ちなること 俯きて遺ちたるを拾うが若し。
陳ねたる賞は 山岳を越え、酒と肉は 中州を踰ゆ。
軍中 饒飫多く、人も馬も 皆 溢肥す。
徒行に乗を兼ねて還り、 空しく出でて 余資有り。
土を拓くこと三千里なるも、往反速きこと 飛ぶが如し。
歌い舞いつつ業卩城に入り、願う所は獲て違う無し。
最後の一句・・・・願う所は獲て違う無し!・・・・の結句は、曹操の実相を識る我々には、いっそシニカルにさえ響いて来るものではある。
が、然し 余り貶しては詩歌のオーソリティから叱られるやも知れぬ。何せ、この五言詩の作者「王粲」こそは・・・・名にし負う当代きっての大詩人グループ・・・・
〔建安の七子〕の一人なのだから・・・。
処が、この建安文学・中国五言詩を創出させた7人は、一つの時代の終焉を象徴するかの如く・・・・ほぼ1年後の217年疫病の猖獗に遭って、突如、全滅してしまうのである。
紹介するにしても、全員死亡の後では、如何にもバツが悪い。そこで急遽、遅巻ながらではあるが、その前に、この世に名高いグループの在り様と、〔彼等を通しての時代の雰囲気〕を紹介して措かねばなるまい・・・・と考えた次第。そして其処には多分、之までとは次元の違った、
異世界三国志が姿を現して来るに違い無い!
そも、〔建安の七子〕とは何ぞや!?【第200節】 建安の七子 (文章は経国の大業、不朽の盛事) →へ