第198節
 建安の七子
                                    文章は
張魯
は逃亡した。逃亡せず、直ちに降伏・帰順する心算で
あったが、腹心の
閻圃が進言した。以前、張魯を〔漢寧王〕 に
祭り上げようとする動きが有った時、諌めた賢臣である。

『いま追い詰められた状態で出向いて行ったならば、きっと貴方様への評価は 小さく成りましょう。この際は杜コ(竇邑侯)を頼るか、
朴胡
フコ の元へ赴き抵抗した後で臣礼を取られるならば、必ずや評価は大きく成りましょう。」
閻圃の真意も亦、曹操への帰順に在る。否、曹操への帰服を最も強く張魯に勧めたのは、この人物であった。だが其処は強かな策士の事、主従を共に高く売り付ける手立てを講じたのである

但し曹操から誤解されぬ為の手立ても、同時に又、講じて措いたーー即ち、既述の如く、宝物倉の全てを封印し、宝物貨財一切の持ち出しを禁じ、焼き払う事も許さず、五斗米国の全財産を其処に置き残したのである・・・・
《これ等は全て差し上げます。どうぞ御随意に御使い下さい!》
そうして措いてから脱出したのである。必ずや其の真意は、曹操に伝わる筈である。その張魯、家族を引き連れて「南鄭」を棄て、南の山岳地帯を抜けて益州平原 (現・四川盆地) へ脱出した。其の地を”巴中”と言ったが、やがて抗戦していた弟の張衛や諸将達も合流した。だが全員が同意して一緒に脱出した訳では無かった。南鄭城に残り、そのまま降伏した者達の方が多かったのである。
そして、その
降伏者の中には馬超がらみの武将達も多く居た。

曹操は其れ等の投降者を引見した。一番の大物は广龍 ほう とくであった。(筆者の怠慢で) 广龍の事蹟については殆んど語って来て居ないのだが、彼が仕えて来た親分(主君と言うにはチト憚りが有る) が、余りにも個性強烈な為に、ついつい書きそびれた一面も有るノデアル。
何しろ仕えた主人が
馬騰馬超だったから、どうしても出来事・事件の中心は此の主人の方に集中してしまったノデアルだが実際には此の广龍悳こそは、家臣の中では 間違い無く
断トツ 群を抜いた武勇
を誇り、数々の武勲を挙げて主人の叛乱人生を直接に支えて来た第一人者だったのである。だから广龍悳の武名は、既に此の時点で、知らぬ者は誰も居無い程であったのだった。遅れ馳せながら、彼の半生を観て措こう。何故なら广龍悳と云う男は、この僅か4年後に 曹操の家臣として関羽と激闘を演じ、武人としての”潔い死に様”を貫く場面を迎える人物と成るからである。そして同じ場面で、曹操譜代の5星将の1人が降伏して生き永らえた事と対比される日が来るからである。

广龍・・・・字は令明ーー北で涼州と接する南安郡桓道県の出身だから、必然的に【馬騰】の配下と成った。馬騰は晩年に成ると曹操と友好関係を結んだ関係から、後方支援として袁氏側 の「高幹」・「郭援」 軍と平陽で戦い、派遣された馬超軍の先鋒と成り、广龍悳みずから敵将郭援の首を斬った。また数多の戦闘に於いても、常に獅子奮迅の活躍をし続けた。
戦闘の度に常に陣を陥いれ敵を撃退し 武勇は馬騰の軍で第一だった・・・・と、『正史・广龍悳伝』 は記している。
馬騰が引退して曹操の元に出仕すると、广龍悳は今度は馬超に付き従い馬超の叛乱全てに勇猛を発揮した。当然、曹操とは徹底的に抗戦する事と成った。結局 (既述の如く) 馬超は破れ、復活にも失敗して張魯の元に奔った。そして此処で广龍悳は、馬超と袂を別った。一緒に劉備に帰参するのを善しとしなかったのである。その理由は劉備と張魯の比較と謂うよりは、恐らく、
广龍悳と云う男の潔さから来る選択で有ったと思われる。つまり事情が何うであれコロコロと主人を変える生き方を嫌った・・のである。無論、張魯には馬超とは正反対の、人を憎み反発するのでは無い、人を愛し包容する大きな温か味を感じたでは在ろう。

だが、漢中に残った一番の理由は、己の生き様・死に様を貫く、彼のアイデンティに関わる決断であった筈だ。ーーだが個人の
事情は何うであれ、馬超の下でも、そして張魯の下でも、曹操に一貫して敵対した事実は事実で有った。 だから 广龍悳自身も、
命永らえ様などの気持は更々無かった。
但、出来るものなら部下の命だけは助けたかった。が、それとて虫の好い話である。つい見遣ると部下達も 昂然と 顔を上げ、誰一人として 肝の据わらぬ者とて居無かった。 故に 其の一画には、おのずから、死生を超えた、凛とした男に意気地が漲って居た。

「广龍悳よ、君の部下は皆、実に好い面魂をして居るなア〜!!その心意気を此の儂に譲っては呉れまいか?無論、タダとは言わぬ。广龍悳どのは只今から、我が
立義将軍で在り、関門亭侯で在る。領邑は取り合えず300戸と致して措こう。どうじゃ、その武勇、天下の為に使って見せよ!」

思いも寄らぬ言葉であった。厚遇の事より其の目的に打たれた。 「天下・・・の為に・・・で、御座いますか!?」
「そうだ。1日も早く天下に静謐を施し、万民に安寧を齎すのじゃ」 馬騰・馬超・張魯の下では考えも及ばぬ、”天下”と云う宇宙であった。

「私に異存の在ろう筈も御座いませぬ。只々有り難く、我等一同恐悦の極みで御座いまする・・・・。御座いまするが、それで本当に宜しいので在りましょうや?」
广龍悳は、敵対し続けて来た己の行為を、全く不問に附す曹操の気持が理解出来無かった。

「君がもし、人を任ずる場合、一体、相手を信ぜずして、如何に
 相手の信頼を得られようかナ?」

「ーー!!ハハッ〜!恐れ入りました。」 かくて 广龍悳令明と
云う男は、完全に曹操の魅力に絆され、以後は常に公言した。

儂は 国恩を受けた身じゃ。 道義から謂って、
 死を捧げねばならんのだ!


 是れとは正反対に、曹操が茶目っ気たっぷりにカラかった相手が捕虜の中に1人紛れ込んで居た。
長い髯も真っ白な老人である。曹操は彼を見つけるや、半ば愉しげに近づくと、その老人の顎ヒゲを引っ掴み、ギュウギュウ引っ張りながら可笑しさを押し殺しつつ言ったものである。

「やい、この老賊め!今度こそ本当に御前を手に入れる事になったナ!」
「あ痛イテテテ、お許し下さい。あっ、痛イテテ。」
「何をほざくか此の老賊め!儂の面目を丸潰れにした癖に。
それ、引っ張り、引っ張りの刑じゃ!」
「あ〜、そんなにグイグイ引っ張っては・・・・あ痛イテテテ・・・・
痛デデデデ・・・・!!」
「ふん、之が愉しみで我慢して来たんじゃ。放してやるもんか。
それ引っ張り、引っ張りの刑じゃ。」
「あひ〜、あイヂヂヂヂ・・・・!お許し、オヒュルシュ下ちゃいマヒ
・・・・あ痛ヂヂヂヂ・・・!!」 廻りで見て居る方が、つい吹き出してしまう滑稽な ”イジメ” であった。この老人、名を
劉雄鳴と言った。若い時から薬草採りと狩猟を生業にして居たが、どんな霧の深い日でも 決して道に迷わず 帰宅したので、人々は彼には 〔雲霧を起す超能力〕が有ると噂し合った。
まあ今は未だ”仙人サマ”の域までは至って居無いが、その裡に成るかも知れ無いと思ったのであろう。それで何となく人望が集まったと謂うのだから、山ガツ暮しも捨てたモンでは無い?人生、何が幸いするか判らない例であろうか?ーー折しも李催・郭の乱
第3次長安政権が起こり、騒乱を避けた多くの人々が彼の名を頼って集まった。是れで一気に地方豪族に成ってしまった訳だった。
まあ其れ成りに上手くやって居たのであるが、最近になって馬超が叛乱した。その時、劉雄鳴は馬超に味方しなかった為に撃ち破られ、仕方なく独り曹操の元に逃げ込んだ。するや曹操、彼の噂を聞いて居たし、兎にも角にも ”反馬超” を貫いた 数少ない味方でも在ったから手を握りながら、御世辞たらたらの大袈裟な言葉で迎え入れた。
儂が丁度、潼関を越えた時1人の神の様な人を手に入れる
 夢を見た。それが君だったのか!

そして充分に礼遇し、将軍の位まで与え、部下を迎えに遣った。
処が部下達は曹操に降伏する事を善しとはせず、彼を脅迫して叛旗を翻えさせてしまったのである!するやアレアレ、敗残の者達が数千人も集まってしまい、武関の街道口に立て籠もる羽目に成った。ーー
曹操の面目は丸潰れ
こう成っては曹操も 黙って居る訳にもゆかず、夏侯淵を派遣して ボコボコにした。そこで仕方なく劉雄鳴は南下して、漢中の張魯の元に逃げ込んだ。然し其の張魯も破れて逃亡してしまい、行き場を失った劉雄鳴は、また再び曹操の元へ帰順した・・・・と謂う長い経緯が在ったのでアル。まあ、雲霧を発生させて「霧隠れ」・「雲隠れ」する事は出来無かった訳だ。

「やい、ニセ仙人!トレードマークの顎ヒゲだけは 引っこ抜かずに措いてやるから・・・お前なんかドッカ遠い所へ飛んでけ〜!」
と謂う次第で、この
劉雄鳴のジッチャン・・・官位は元通りの儘として、遠く渤海の地に放り投げられたのでアリマスル(チャンチャン♪)ー→無論、正史では無く魏略に拠る

この外にも未だ、勝利に気を好くした曹操の、寛大な措置を受けた降伏者達が居た。4年前 (211年) に馬超と合流した河東郡の3人衆である。馬超が敗走した時に「李堪」は戦死。「程銀」と「侯選」は南下して漢中へ逃れた。だが其の漢中・張魯が破れた為に、曹操の元へ出頭し、帰順を乞うた。もはや行き場所を失った彼等に対し、曹操は”目溢し”の余裕を見せ、2人共に元通りの官位を与えた。
馬超に関した捕虜としては、最も近い者の姿も在った。馬超の愛妾
董氏と 息子のであった。馬超は劉備に出仕した時、この2人を張魯に預けた儘であったのだ。いずれ折を見て引き取る心算だったのであろうが、張魯の逃亡時に、置いてけ掘りにされる結果と成っていたのを発見された。恨み骨髄の馬超に近い此の人の運命ーー流石に曹操は 甘い顔を見せ無かった。その結末は、張魯が曹操の下に出頭する時点で決定されるのである

許都の献帝から早馬の勅使が送られて来た。
そもそも軍事に於いて大切なことは其の賞罰にある。善を勧め悪を懲らしめる事は、即時に実施しなければならない。〜〜(中略)〜〜軍が支配地域の外に出陣した際、得失は短期間の処置に懸かっているのだ。恩賞を引き延ばし詔勅を待つ事に因って事務を滞らせるのは、当然 朕の目的とする処では無い。
 今後は事に当って調査した結果、恩寵称号を与えるべき者が居れば、即刻に印章を刻んで仮に授与し、皆々忠義を以って励まし与える様にさせ、疑念を持たせる事の無きように致せ。


皇帝は正式に、曹操に独断で諸侯・太守・国相を任命する権限を与えたのである。今更ながら・・・とも思えるが実は是れは大きな
特権の獲得であった。古来より、この任命権は皇帝の占有 だったのだから、曹操は 実質上、皇帝と同じ専断権を持つ
事と成った
・・・・訳である
曹操は又一歩、皇帝に近づいた
!!

そして曹操は、直ちに其の獲得したばかりの特権を行使したーーこの同じ
月、巴地方の豪族の内、族王の 「朴胡」 と竇邑侯の 「杜胡」 が、住民挙げて帰順を申し入れて来たのだ。曹操は直ぐ之を容すと巴郡を分割し、朴胡を巴東太守に、杜胡を巴西太守に任命し、2人を共に列侯とした。さぞ気持よい任命劇であった事だろう。尚ここで注目すべきは、此の両者共が、逃走した張魯が身を寄せた相手である事だ。当然の事として、張魯に対する態度についての方針も、この時に指示された筈である。果して如何なる処置が命じられたのか・・・・??
また 此の地方豪族の帰順を
劉備の側から観ればーー てっきり自分の領土・己の家臣だと思っていた地続きの版図の中に、又 再び 〔反劉備勢力〕 が、公然と叛旗を翻した!!事となる。
年前に折角 立ち上げた蜀の国は、未だ足元も固まらぬ裡に 早くも崩壊の危機を迎え、緊迫 状況に曝された!!・・・のであるその大恐慌の様子は史書に詳しくは記されて居無いが、劉備の 「成都政権」 としては生きた心地がし無かったであろう、とは想像が着く。もし此のまま、20万近くに膨れ上がった曹操軍が、本気で蜀へ雪崩れ込んで来たら当然、寝返りや裏切りが州全体に燃え拡るであろう・・・・そう成ったら何うすべきか!?
荊州を棄て、「関羽軍」全てを呼び寄せるか!?逆に蜀を棄て、荊州へ逃げ還るか!?同盟者の孫権に蜀の分割統治を提案し救援軍の派遣を要請するか!?その場合、果して孫権は遣って来て呉れるであろうか??
ーーそうした緊急戦略・スクランブル戦術が、必死の形相で 検討されて居た筈である。 一体、その
デーは何時に成るのか!?・・・・・
10ーー更に曹操は、この特権に
中国史上初の、斬新な?ひと工夫を加えた。所謂名号侯を創設したのである。実際には封土を持たない名称だけの諸侯の 誕生であり、虚封の始まりであった。いかにも曹操と云う男の〔発想の自由さ〕・その合理性を重んずる姿勢を示す、旧習に拘らぬ驚きの処断ではある。
ちなみに『魏書』に拠ればーー設置された名号侯の爵位は18級。関中侯は17級で、全て金印紫綬。また新設された関内侯と関外侯は16級で銅印亀紐 (亀の摘み) 黒綬。
五大夫は
15級、銅印環紐 (丸ポチの摘み) で黒綬。全て租税を食まず、旧来の列侯・関内侯と合わせて等級となったーーとある。

さて
張魯だがーー張魯と謂えば・・・・五斗米道である。中国史上初の〔宗教政権〕を地上に現出させて凡そ20年を経ていた。ちなみに 「五斗米道」 は通称であって、
教団自身は《新出 正一盟威》之道と呼称した。・・・・その教義や経営理念・具体的な機構組織などについては、再三紹介してあるので此処では触れない。だが張魯個人の来歴についてはザッと観て措こう。

張魯は字を公祺と言い、沛国豊県の人である。祖父の
張陵は蜀に身を寄せ、鵠鳴山の山中で〔道術〕を学び、道術の書物を著わして人民を惑わした。彼の元で道術を学ぶ者は五斗(日本の5升)の米を御礼に出した。その為に世間では米賊と呼んだ。張陵が死ぬと息子の張衡が其の道術を行なった。張衡が死ぬと張魯が亦これを行なった。』

即ち
五斗米道は、〔益州の最北盆地〕に既に代前から (曹操や劉備が生まれる以前から)
布教され始めていたのである。全く 同じ時期に、広大な中原一帯には、この五斗米道とは共通の黄老思想理念を持つ太平道が布教され始めていた。そして今から丁度30年前184甲子の年黄巾の乱が勃発。だが五斗米道蜂起し無かった。張角は、事前に連絡を取る事すらも、していない。両者が共闘しなかった理由や原因は、様々に考えられるが、互いは根本の所で異なっていたのだ。「動」 と 「静」 とでも 謂おうか。 或いは「覇権主義」 と「分権主義」、「中央思考」 と「地方思考」 の差異だった、とでも謂えようか。教団の創設時から、存在意義や布教戦略に大きな差が在った訳である。即ち五斗米道は〔専守防衛〕に徹するのである。『他国を侵さず、犯されない!』・・・是れを戦略の根本とした。結果、張角本軍は其の年内に鎮圧・潰滅するが、以後、黄巾を名乗る反乱は全国各地に頻発し続ける。そんな中、3年後の188年、漢王室の縁戚劉焉〔州牧制〕を建議し、自ら益州牧と成ってこの蜀の地に遣って来る。
張魯の母は巫術を使う上に、若々しい姿をしていて (少容有り) いつも劉焉の家と行き来していた為に劉焉は張魯を督義司馬として漢中に派遣し・・・』
劉璋が劉焉の跡を継いだが、張魯が だんだん驕って勝手放題と成り、劉璋に従う事を承知しなく成ったので、劉璋は張魯の母と弟を殺し、かくて2人は仇敵と成った。劉璋は頻りに将を派遣して張魯を攻撃したが、たびたび撃ち破られた。』
『張魯は其のまま漢中を占領し、妖術に拠って住民を導き、みずから
師君と号した。』

この”師君”・・・・教団内での正式名称は
天師である。又、南朝時代の道教の経典に拠れば真人の称号をも用いていた。張魯の祖父、五斗米道の開祖であるとされる張陵の肩書は『太上正一真人三天大法天師 と謂う、物凄〜く エライ ものと記されている。当然その初代「張陵」から2代目「張衡」そして3代目「張魯」も亦、この称号を継承したであろう。即ち『何とかカンとか真人何たら此うたら天師
だが、この
真人思想・・・・何も 五斗米道の 占有物では無かった。
既述の如く、ーー(以下、第177節から抜粋)ーー

古来より、1つの時代が亡ぶ時、1つの王朝が衰退して、その崩壊を待つばかりの状況になった時には、末法思想 とか末世の法などと呼ばれる 虚無思想が 巷に溢れ出してくる。是れは 上層に位置する支配階級の間から発生するものでは無く、反対の下層人民階級の間に自然発生的に流布され始める、ニヒルな絶望感の
変種である。 時代の閉塞感や貧困の無限地獄を呪い怨嗟する、弱者階層の呻吟であり、渦巻く不満の発露である。と同時に救世主の登場待望する言い伝えが復活して来るものだ。
時は今まさに、後漢王朝の断末を迎え、その滅亡は今日明日の事態と成り涯てていた。もう、ウンザリであった。何とか変って欲しい。天に代わって世直しをして呉れる超人が現われて欲しい!

当時の中国で言えば
真人まひと〕出現の信仰・言い伝えが、世を蔽い始めていたのである・・・・

その【言い伝え】の原初は、今から凡そ200年前、前漢が滅亡した直後の世に由来する。

劉邦が建国 した漢王朝 (前漢) は200年間続いた後、西暦8年に王莽の手によって 簒奪され、
一旦亡びた。
の皇帝を名乗った王莽は、当然ながらの復活=即ち劉氏が再興して来るのを最も警戒した。そこで劉氏を連想させる様な事を一切禁止し、人心の収攬を果そうと図った。
現代の我々から見れば 失笑する様な 姑息な手法であるが、そもそも王莽の権威は、そうした祭祀的な基盤の上に拠って立つものであったから、当の王莽としてはオオマジメな対抗策であった。

「劉氏」の
の字を解体してみると・・・「」と「」と「」になる。 所謂、『卯金刀うきんとう』である
この中の 「刀」は、当時 流通していた
銭》刀型の鋳銅銭 からも連想され得る・・・→故に禁止して《貨泉》と云う新硬貨を鋳造した。また「卯」の字に関連しても 漢王室が正月の魔除け行事に用いていた《》 を禁止とした。・・・・ところがドッコイ・・・そんな 『ゴロ合わせ』 なら、世間の方が1枚も2枚も上手だった。逆に 王莽の仕掛けを逆手に取った。発行された貨泉の文字を、同様に解体したのである。。
は→「眞」に、は→「白」「水」に分解された。更にに分けられ・・・・此処に
白水真人が登場する事と成るのであった。ーーそも、白水真人とは何ぞや!?
先ず、
真人の方・・・・読み方は『しんじん』でも、『まひと』でも、『まびと』 でも構わぬ。
要は、
天の命を受け、天に代わって世直しを果す”超人”の事を謂う。その世直し大明神が出現する!・・・・そんな噂が、王莽の意に反して 頻りに流布され始めた。 しかも、単なる真人出現の『願望』だけでは無く、より具体的な人物の登場を予告するキャッチコピーが付けられていた。
〔白水である。ーー『白水』は地名で、南陽郡 蔡陽県 (樊城の東方)白水郷を指した。この白水出身の人物こそ・・・後の光武帝・劉秀であった
そして此の言い伝え通り、 実際に王莽は倒され (8〜23年) 、西暦25年、劉秀は漢王朝 (後漢) を再興するのであった。・・・・それから更にまた200年後の今、劉秀が建てた「後漢王朝」は 衰亡しもう1人の〔真人の出現〕が待ち望まれている・・・・   
                                               
(以上第177節より)

だから、当時の人々にとっては、就中、次の王朝を望む者達に
とっては、この思想は単なる空想・絵空事では無く、寧ろ真剣な重要対応事項であったのだ。
同時代の陳寿も『正史・武帝紀』の中で態々真人伝説を挿入して、曹操の無敵ぶりを強調する手法を採っている。
その昔、桓帝の時代に、黄星が楚・宋の分野に現われた。遼東の殷馗は天文に詳しかったが、「50年後に真人が梁・宋の地域に出現するであろう。その鋭鋒には誰も敵対できぬ!と予言したいま50年が経過し、公は袁紹を撃ち破って天下無敵となった。
即ちーー
曹操こそは”伝説の真人”なのだ!と、三国志の中で結語しているのである。

その
曹操ーー
彼こそ真人であるとの世論を獲得する事に拘った。そうした風評が立つ様に、裏で画策した。大袈裟に言えば「謀略戦」・「諜報戦」である。まあ大体の場合は、放って置いても、ちゃ〜んと、〔おべっか使い〕 が勝手に出て来て呉れる様に出来ている。曹氏(曹操・曹丕)の場合もーーその預言者として多くの者が出て来る。その1人、太史丞の「許芝」は易運期讖なる予言書を引っ張り出して来て、意味不明な文言の解き明かしをして見せる。
「この書物には
言は東に居り、西に午あり。両つの日は光を並べ日は下に居る。其の主たりしもの、かえって輔となる。五八四十、黄気受けて真人出づ』 とありますが・・・・言と午は「許」の字を意味し、両ふたつの日は「昌」に字を意味します。漢は許を以って
亡び、魏は許を以って昌
さかえる筈だ・・・・と謂う事で、現在、許に真の君主遭遇の機会が訪れたのは、それこそ此の文章に対する大きな証明です。」 ー→ (ナ〜ルホド!)

更には何と、真人天師 を戴く 五斗米道教団の中からも、
預言者が出て来る
のである。以下、その部分を『献帝伝』と云う、何やら怪しげな史料から転載するが、重要なのは其の中に、
張魯が曹操に帰順した理由
が記されている箇所
である

『元・教団幹部であった左中郎将の李伏は、魏王に上書を奉って述べた。

「昔、武帝 (曹操) が初めて魏国を建てたまいし時、国外に在る者は其れを聞いて詳細が判らず、みな、王位を拝命したと思って居りましたが、武都の李庶と姜合うが漢中に身を寄せて居て、私に向って申しました。
『間違い無く魏公と成られたのであって、未だ直ぐには”王”と成られますまい。天下を平定する者は
魏公の子桓で、神の命じ賜う方です。予言書にも合致し天と人の要請する地位に応じられるに間違いありません』 と。 (※子桓とは勿論、曹丕のアザナ)
私は姜合の言葉を、鎮南将軍の張魯に語りますと、張魯も亦、姜合に出典となる書物を知っているか?と質問しました。姜合は神秘な予言学に通暁し、関中では名を知られた男でした。
姜合は『
孔子の玉版です。王朝の運命を100代のち迄も知る事が出来ます』 と答えました。その後1ヶ月程した頃に、その 玉版文書を 所持する 亡命者が参りまして、それを写す事が出来ましたが、全て姜合の言葉通りでした。
張魯は元々、国を思う心 (曹操に帰順する気持) を持って居ましたが、異端に耽溺し、態度を変え切れずに居りました。然し、姜合の言葉に目が醒め、後に私と議論しまして服従を策しましたが、国の者は賛成せず、劉備と通ずる事を願う者も居りました。すると張魯は立腹して申しました。
『寧ろ我、魏公の奴隷と成るも、劉備の上客とは成るまじ!』 と。
その言葉には悲痛の思いが込められており、誠に筋の通った態度でした。


(※尤もらしい予言の書?
モーゼの十戒では有るまいが、玉の板に孔子の予言が刻まれていた?)


この李伏の上書を読んだ曹操の群臣達は又、更に解説して見せる。「光武帝が平民で在った時、その名は既に予言書に
記されていました」
ー→白水真人!!

さて此処で重大な事は、張魯の意図であり、その態度決定の”時期”である。(※この史料に多少なりとも信憑性を置くならばではあるが)

この史料に拠れば・・・・五斗米道の教団では、その首脳部に於いては、曹操が漢中へ侵攻して来る大分以前の段階から既に、もし 軍事進攻を受けた場合に備えての 論議が為されており
然も・・・・
曹操への帰順がベストである!! との意思疎通が出来ていた。〔曹操の魏公就任は当然の事である!曹操 (曹氏) を新しい真人として受け入れようではないか!〕・・・・と云う事になる。但し、態度決定の時期は判るが、その決定の根拠については《孔子の玉版》 などと云うアヤフヤな予言を論拠にしてしまっており、最も肝腎な張魯の論拠に関しては、我々自身が考察・推測するしか無さそうである。

だが、その場合もーー是れまで観て来た如く、曹操と張魯の両者を
”真人”と謂うフィルターで濾過して観ると・・・・其処には自ずから、〔相互の到達点〕・〔両者の合意点・妥協点〕が見えて来るではないか。魚心に水心ーー張魯は宗教家としての要望、曹操は為政者としての願望・・・・
信仰の自由さえ認めて呉れるなら政権には拘らぬ!

《曹操の国家は精々100年単位の寿命であろうが、五斗米道の信仰は千年単位の永劫で残す!いま権勢を誇る曹魏も、いずれは過去の記憶と成り果てよう。だが其の千年の後でさえも、我が五斗米道は人々の心の中で生き続けるのだ!!》・・・・

《個人の問題では無い。今ここで個人の俗欲に拘り、道教の理念と信仰を絶やしてはならぬ。今、一時の危機さえ乗り越えれば
、我が五斗米道の理念は永遠のものと成れるのだ・・・・!》

問題は、
曹操が信仰の自由を認めるか!?である。今迄の様な、〔天師→酒祭→鬼卒〕といった教団組織の存続支配は不可能だとしても、曹魏政権による、信仰の公認と保護を認めるか? 否か!であった。

然し、その点に関しても、張魯には”確信”が在った。その最大の根拠はーーもはや読者諸氏には御分かりであろう。・・・・曹操軍の基幹を成す〔大歩兵軍団〕・・・・その成立の原初から曹操を支え続け、忠実で精強な近衛部隊として特別待遇を与えられている者達ーー元は青州黄巾であったではないか!!
彼等は現在も
太平道の信徒集団で在り続けている。弾圧される処か逆に直訴権を有し、曹操直属の近衛軍団として別格の地位を保証されている。たとえ将軍であっても、勝手に彼等を処断する事が許され無い”特権”を有して居るのである・・・・そして
太平道五斗米道は、その根幹で同じ教義を奉戴する、極めて近しい同胞的な存在ではないか!!

無論、青州黄巾軍が曹操に帰服した時と現在では、時代状況が全く異なる。今から
23年も前の192年段階では、曹操集団は未だ群雄の一角にすら観られて居無い 弱小集団に過ぎ無かった。 それが、彼等青州黄巾軍30万と 家族100万とを抱える事に
拠って、一挙に覇者候補に伸し上がれたのだから、その価値の比重は比べ物には成らない。・・・だが然し、それ以後に於いても曹操の宗教(道教)に対する姿勢を観るに、曹操政権は終始一貫して弾圧政策を採っては居無かった。(仏教は未だ中原に迄は広まっていない)積極的な保護政策は見えないが、少なくとも寛容ないし無関心で居る。曹操が忌み嫌うのは、明らかに迷信・邪教と判るイカサマ教団の活動であった。青州黄巾軍が未だ曹操と死闘を演じて居る最中、和睦を推進する上層部では、曹操が嘗て、そうした邪教を潰滅させた行為・姿勢を高く評価して和睦の糸口とした経緯が存在した。・・・・そうした一連の経歴と為政を鑑みれば・・・・

曹操との帰服の交渉は、必ずや上手くゆく!


そうした見通しが立つのであった。勿論、綺麗事だけでは済まない。張魯自身も含めた教団幹部達の将来の身分保証を獲得しなくては収まらない。その為の逃避行・時間稼ぎであったのだから。その交渉・使者の往来に、ほぼ
ヶ月を要した。ヶ月である。
然も依拠して居る場所は、巴東郡で在った。劉備の領土内、成都からは400キロの距離。若干山がちな場所では在ったが、早馬なら2〜3日で充分。使節団の往復でも10日もあれば交渉可能な地点に在ったーー当然、劉備からも受け入れ・帰服の話が持ち掛けられた、筈である・・・・処が、どうも劉備側からの接触は、誠に消極的であった様だ。いや、それ処では無かったのだ。

曹操が漢中を制圧した!!・・・・と云う衝撃の事実を知った蜀の国内では、誕生したばかりの劉備政権そのものの存続自体が危うく成って居たのである!!
日に50の動揺が勃発 する事態に見舞われて居たのである。
蜀に在る誰しもが曹操の次の行動に恐れ慄いて居たのだ。
漢中の次は蜀への侵攻だ!!・・・そう成ったら劉備の政権なぞ、ひと堪りも無く 吹っ飛んでしまうであろう!! それに対処して措かねばならぬ!!蜂の巣を突いた如き大パニックが
益州全体に巻き起こって居たのである。
400キロも離れた張魯
どころの話では無く、己の足元が揺らいで居たのであった。また仮令、劉備からの使者が来たとしても、張魯は其れを邪険に追い返したであろう。何故ならば、曹操への帰順は、以前からの既定の方針。その為の措置 (財物の置き残し) を講じて来てあったのだから、曹操の方から拒絶の回答でも無い限り、今更の方針転換など有り得よう筈も無かったのである・・・・。

正史先主伝』は其の経緯をーー『
先主は黄権に兵を引き連れて張魯を迎えよと命じたが、張魯は既に曹公に降伏していた。』 と記し、その面目を糊塗しているが、実情は斯くの如しであった。


曹操とて、元より 張魯の胸の裡は御見通しであった。抗戦の意思の無い相手を、しかも実害の無い信仰の問題で 叩く心算は無かった。また戦後経営の事を考えた場合でも、何や彼や言っても、この地域一帯に及ぼす張魯の影響力は無視し得無かった。曹操は、『張魯は本来、善良な心を持っているとして、使者を立てて慰撫・説得させた。』ーーそして・・・・
215年11そうした相互の腹の裡一切を調整し終えた張魯
は・・・・其の家族全員を引き連れて、南鄭の曹操の下に出頭した。
太祖は彼を出迎えて、鎮南将軍の位を授け、賓客の礼を以って待遇し、門良中侯に取り立て1万戸を与えた。更に 張魯の5人の子と閻圃らを全て列侯に取り立て、張魯の娘を子の曹宇 (彭祖) の嫁に迎えた。』 のである。

大勝利したのに、降伏した相手の娘と我が子を結婚させるとは、何とも珍しい 〔政略結婚〕 だが、曹操は既に過去に1例を持つ。策士・賈クを擁して散々に煮え湯を飲まされた【張繍】が帰順して来た時に矢張、張繍の娘と 我が子の「曹均」を結婚させていた。降伏した相手に更なる忠誠を誓わせる為の方策である。
然しながら、今後の史実に与える影響から言えば、この「曹宇」の場合の方が遙かに大きい(曹均は早逝してしまう)。この環夫人の生んだ曹宇は、年齢が近かった「曹叡」=のちの明帝と青少年期を共に過ごした事から重用される。環夫人は神童・曹沖の母親でもある。曹宇は彼女の3男そして・・・張魯の娘(夫人)と曹宇の間に生れた子供こそ、魏王朝のラストエンペラーと成る「曹奐」その人なので在る。

斐松之が、「幾ら善良な心を持って居たとしても、要するに敗北
した後で降伏したのである。それを是れ程までに厚遇するのは
行き過ぎである!
」 と 講評する程の、充分な受け入れ態度で
あった。尚5人の子の名は「張富」・「張広」・「張盛」迄は知れる。また張魯の弟で徹底抗戦を主張した「張衛」は昭義将軍、「張傀」は附馬都尉・南郡太守を拝命したという。
更には、あの馬超の愛妾とその子の処遇も決定された。愛妾の「
董氏」は、張魯の腹心・閻圃に与えられた。子の「」の処置は張魯に委ねられた・・・心の無い証明として、自分の手で始末せよ!と言われたに等しい。それで張魯は自分の手で彼を殺した。ーー『典略』ーー


「なあ張魯よ、儂は、君の之までの善良な態度に鑑み、米道教団の存続と信仰の自由は、今後も魏国に保証させようと思って居る。」
宗教家・張魯にとって一番重要な点を曹操はズバリと許可して見せた。
「ハハアッ〜、有り難き幸せ!その事さえ叶いますれば、私に
何の不満が在りましょうや!」
「うん。じゃが場所と教団名は変えて貰いたい。よいな!」       
「はい、喜んで従いまする。」  「随分と物分りが良いな?」
「はい。宗教者にとって最も必要なのは、教義と信仰心で御座い
 ます。場所や名前など俗世の仮住まいに過ぎませぬ。」
「で、あろうな。して、民心の健康や平穏を”国”の中で活かせられそうか?」
「民心安寧の第一は、政事で御座います。それさえ約束して戴け
 れば、多少なりともお役に立てるかと考えます。」
「ほう〜、こりゃ又、えらい約束をさせられるモンじゃなあ〜。」

「私が冠していた”真人”は狭い漢中1地方の事。曹公こそは遍く
 天下を新しく為され、兎域全てを治める御方で在られまする。
おこがましい言い様では御座いますが、本物の”真人”は、曹公で御座いましょう。是れは我等一同の納得事項に御座います。」

「そうかの?では差し詰め儂は、そなたから”真人”を禅譲された事にでも成るのかナ?」
「禅譲と謂うより、本来の場所に落ち着いた・・・と申せましょうな」

「ワハハハハ!まあ、それも好かろうかの?アハハハハハ!!」

かくて曹操孟徳は、名実ともに真人の伝承者・後継者と成った・・・・か??



ちなみに、『五斗米道』の将来であるがーー張魯と共に教団の高級幹部達は「業卩」へうつった。張魯自身は程なく没し(翌年に没したとする説有り)、五斗米道の名称は消滅

するが、教団自体は「魏」及び「晋」の政権から信仰の公認と保護を獲得し、のちに

天師道 と改称したものの 魏・晋王朝との関係は良好に保たれ

4世紀劈頭の「永嘉の乱」で、司馬氏が南遷する時に随伴し、江南の「龍虎山」に本拠

を移す。・・・・一方、五斗米道の下級幹部や一般信徒達は・・・・「漢中」から「黄河流域」

へと徙され(強制移住)、各地にバラバラに散在してゆき、もはや五斗米道の教団名は

雲散霧消する。だが、《張陵→張衡→張魯》 の所謂 《3張》 が開いた 「道教」 自体は、

消滅する処か、したたかに人々の間に浸透し、423年に成立した北魏では、張魯の道

を学んだ『寇謙之』によって新天師道が国家宗教とまで成る (425年)。

折しも5世紀末には外来宗教の 〔仏教〕 が隆盛する時期を迎え ( 儒教に捕われぬ異民

族政権の影響も強い)、1時期は 個々バラバラの逼塞状況と成るが、やがて 次第に

連帯感が生まれ ( 唯一の中国人が産んだ宗教との自覚の為)、所謂 道教 として

再統一・再認識の道を歩み、爾来2000年の時空を経た現代も、東アジアにその息吹

を残し、人々の心の中に生き続けている。(台湾には末裔が居るとか)・・・故を以って・・・・

2千年の彼方から、この張魯の帰順を観た時、その判断が至当で在ったか否かの評価は、自ずから明白であろう。

蓋し、2千年の夢を見る者にとって、形有るものは 恒に儚い・・・・

かくて・・・・
漢中の張魯 を帰服させた曹操ーー何故かは判らねど、蜀への連続進攻を採用せずして1ヶ月後の12月には帰還の途に着いた。
だが、曹操・・・・タダでは帰らなかった。その地に発令したのは、
冷酷非情な戦略的施策・
漢中無人化政策
いわゆる
徙民しみんであった。この地に住む、生きとせ生けるものの全て、即ち、実質的な国家の大移動ーー漢中と云う国家を丸ごとゴッソリ、大山塊の彼方へと運び出してしまう 戦略 を 実施
させたのである!!人間と家畜・・・・当時の生産手段を悉く持ち出してしまい、跡に残る物は唯、国家にとっては無機質な存在である軍隊だけ・・・・漢中とは名ばかりで、もはや栄養分の全く無くなった
抜け殻 だけを置き残して、立ち去って行ったのである。謂わば曹操は、実質上、
漢中消滅させてしまったのだ!!

実は、此の曹魏による自国版図内への人口掻き集め戦略は何も今に始まったモノでは無かったのである。既に冀州・業卩を曹魏の根拠地と定めた政権樹立の当初から、終始一貫して採られて来ている、主として”異民族対策の”一環として、着々と推し進められて来ていたのである。そして此の漢中の
強制移住は寧ろ其の戦略の総仕上げ段階であったのだ。
既述の如く、 打ち続く 戦乱の中で、 2世紀末〜3世紀に於ける
中国大陸は未曽有の (地球規模的な) 人類史上かつて無かった人口の大激減期!に曝されて居た。その結果ーー
人間そのものが貴重な資源と化して居た!のだ。GDP=国内総生産の全ては《人力に頼る》しか無かった古代の事、人口の確保こそは富国強兵・国家存亡の基盤であったのである。「漢中」だけでも、倭は「邪馬台国」の総人口を上廻った。

この曹操の漢中平定が〔真人伝説の光の部分〕だとすれば、この後の苛烈な政策の強行は〔その影の部分〕に当たるであろうか?
その 徙民 しみん について 些かの歴史学的な考察をして措く。

( 詳しい考察はいずれ別節にて触れる予定であり、第X部で本文として描く心算では居るのだが)
取り合えずは、先ずその実態だけでも観て措こう。

(1)正史・張既伝』より・・・・『張魯が降伏すると、張既は漢中の住民数万戸を移住させて長安と三輔の人口を充実させる様に太祖に進言した。〜〜(その後)〜〜太祖は、住民を移住させ、河北の人口を充実させた為、朧西・天水・南安 3郡の 住民は 恐れ
動揺しパニックと成った
。そこで張既は 3郡出身の将校や官吏に休暇を与え、住居を
修理させ、水車臼 (水礁) を作らせた。その結果、民心は安定した。太祖は、漢中の守備を撤去しようとしたが、劉備が北に出て武都 (下弁) の氏族〔ていぞく〕を味方につけ関中に圧力を掛ける事を懸念して、張既に質問した。張既は答えた。
「氏族に勧めて北方に移動させ、穀物の在る場所に行かせ、よって賊 (劉備) を避けさせるのが善いでしょう。先に到達した者には手厚く褒美を取らせますれば、早い者勝ちとばかりに、後の者は其れに惹かれましょう。」
太祖は其の策に従い、みずから漢中に赴き、諸軍を撤退させる一方、張既を武都に行かせ、
氏族の5万余人の部落を移住させ、扶風・天水の郡界に住まわせた。』

(2)正史・和洽伝』より・・・・『太祖が張魯を打ち破ると、和洽は時宜に適した策を
述べ、時期を見て軍を引き上げ、住民を移住させ、守備隊を置く費用を節約すべきだ、と主張した。太祖は直ぐには受け入れ無かったが、結局そのあと
                              住民を移住させ、漢中を放棄した。』
(3)正史・杜襲伝』より・・・・『太祖は帰還するに当って、
丞相長史の杜襲を付馬都尉に任命し、漢中に留め置いて軍事を監督させた。杜襲は民衆を安んじ懐け、教え導いてやったので、自分から喜んで 故郷 (漢中) を出、洛・業卩に移住する者が8万余人も在った。』

(4)正史・蘇則伝』より・・・・『太祖は張魯を征討した時、彼の統治する武都郡を通ったが、彼に会って気に入り、軍の先導役とした。張魯が敗れると、蘇則は下弁(武都)に居る氏族たちを安定させ、河西の街道を開通し、金城(涼州)の太守に転任した。この時、動乱の後で、(金城郡の)官吏・人民は故郷を離れて流浪い、飢え苦しみ、(漢人の) 人口は減少していた。蘇則は彼等を精力的に慈しみ落ち着かせた。
外は
羌族を招き寄せて懐け、その牛と羊を手に入れて(漢人の) 貧困者や老人を養った人民と食糧を分け合って食べ、10ヶ月の間に流民はみな帰って来て、数千家が行政下に入った。〜〜李越が朧西で叛逆すると、蘇則は羌族を率いて李越を包囲し、直ぐに降参させた。』

以上は「漢中」〜「涼州」方面のていきょうが、漢人と共に、故郷から強制移住=徙民させられる記述の一部であるが、留意して措くべきは、これ等の記述は全て〔漢人の側〕からの書き方である・・・と云う点である。だから、彼等・少数異民族の真の苦しみや、差別に対する怨念が記されては居無いのである。
尚、【羌人】の為に弁明して措くが、彼等は決して虚弱な腰抜け
集団では無い。否、寧ろ誇り高き民族であったのだ。今を去ること凡そ100年前の西暦108年・・・・それまで強制的な漢人の要求に甘んじていた羌人達の怒りが爆発。彼等の部隊は「関東」深くにまで進攻し、爾来40余年に渡って漢軍を大敗させ続け、後漢朝廷内に涼州放棄を検討させる程迄であったのだ。その間に後漢王朝が費やした軍費は、実に240億銭の巨額に達し、王朝衰退の遠因にまで至らしめた経歴を有していたのである。
尚、山岳盆地の并州周辺に居た
【匈奴】【鮮卑】を含めた、所謂〔五胡〕全体の受難と、その歴史的帰結についての考察は別節に譲る。但・・・・この後の歴史的事実を掲げるならばーー

【司馬懿】の孫に当たる【司馬炎】が、三国時代最後の「呉」を亡ぼした280年から僅か24年後の304年・・・・南匈奴の「劉淵」は〔漢王〕を称し、氏族の「李雄」は蜀の成都を占拠。此処に所謂『五胡十六国』時代が始まるのである。我々は現在、西暦215年の中に居るのであるが、既にして《三国時代》から《魏晋時代》の次の、《大動乱の時代》へと直結する、”歴史の目撃者”と成って居るのである・・・・。

今は唯、こう結んで措くだけである。(本人は知る由も無いのだが・・・・)
曹操や劉備が自国強化の為だけに強引に行なった徙民しみんの政策は、いずれ漢民族全体を、異民族支配の下に置く事となる屈辱の歴史を招き寄せる
     元凶と成った
のである・・・・と 【第199節】 曹操孟徳、その最大の謎 (何故そのまま蜀へ進攻し無かったのか!?)→へ