【第197節】
前方を観た孫権、愕然とした。明らかに人為的破壊工作に拠って橋の中央地点が
10メートルに渡り、完全に陥没していたのであった!!
「ウヌ〜、敵は此処にまで手を廻しておったのか!」
孫権は泳げ無かった。完全な”金槌”であった。皆それを知って居たから蒼ざめた。時間に余裕が有れば救助ロープを使って向こう側に渡す事も出来ようが、直ぐ背後に張遼本人が迫って居た。
前門の狼、後門の虎・・・・進退に窮した孫権一行
・・・・と、パシリの谷利が、孫権に命ずる様な口調で言った。
「殿、しっかり鞍を掴んで居て下され!今、私が思いっ切り強く、
馬の尻を叩きまする。怯まずに飛び越えるので御座います!」
「よう〜し、こう成れば其れしか有るまい!構わぬ、やれ〜!!」
「万一 失敗したら、形振り構わず橋桁にしがみ付くのですぞ!」
「泳ぎは駄目じゃが馬術なら自信が有るワイ! あとはコヤツが
真に名馬で在る事を祈るだけじゃ。」
名馬の要素は、単に脚が速いだけではダメである。人間同様に、どんな極限状況に於いても平常心を保てる”肝っ玉”が備わって居なければならぬ。又、主人の危難に際してこそ、潜在する能力を120%発揮する”心意気”を保有しているのが、真の〔名馬〕である。だが然し、如何に厳選された名馬とは謂え所詮は動物である。こんな異常事態の渦中に巻き込まれたら、すっかり興奮してしまい、制御を振り解いて暴れまくる事も有り得た。
やや愛馬を後退させて助走距離を確保すると・・・・
命を賭けた一大飛躍が敢行された。
「天よ、我が命を如何に為すかア〜!!」
孫権、運を天に任せた賭けであった。
「そりゃア〜!!」 ーーと孫権の剛胆が愛馬に伝わった。スローモーションの如き、美事な人馬の放物線が其処に出現し、
そして孫権の命は、ギリギリの所で死の顎を飛び越え、何とか
”生存の領域”に到達したのであったーーもし、この橋の破壊が、あと2mも広く為されていたならば・・・・孫権仲謀の一生は此処で涯てていたかも知れぬ、と謂う正に九死に一生の危機であった。余りにも劇的で、”講談的な話”であると、疑いたくなる様な場面であるが、ちゃ〜んと『正史』が記述しているのである。
かくて〔逍遥津の危機〕は去った。
だが、それは飽くまで君主1人の事であった。未だ北岸には多くの将兵が取り残された儘であった。
「退け〜、殿は御無事であるぞ〜!」
「よく戦ったア!後は無事に帰って来て呉れ〜!!」
届かぬ叫びでは有ったが、そう叫ばずには居られ無い諸将であった。 橋は既に、孫権の跳梁に因って完全に床板が抜け落ち、使い物には成ら無くなっていた。
「是れ以上の戦闘は無用じゃ。飛び込むぞ!」 言うや呂蒙は愛馬ごと、ザンブと川の中へ乗り入れた。いざとなれば、あの巨象ですら川を泳ぐのだ。馬にも泳ぐ能力・本能はある。甘寧・蒋欽らも次々に続いた。谷利や徒歩の者達は、潜水泳法で橋の向こう側に攀じ登った。この時代の中国人は殆んどの者が”泳ぎ”を知ら無かった。だが、〔水の民〕とも言える呉の将兵士達は、潜水に熟達していた。中原出身の”魏兵”には、其れが出来無い。その張遼の追撃部隊が橋の中央
に届いたのは、正に間一髪の差であった。弓矢を射て試たが、既に彼等は有効射程の外に脱して
居たのである。
「悪運の強い奴じゃ・・・。ま、是れだけの戦果を挙げたのだから、
善しとしよう。」
この張遼の言を以って、合肥の戦役は事実上、終結した。
後は、戦場からの生還を期す、個々の凄絶な退却エピソードのみが残るだけであった。ーーそんな敗残部隊の中で、最も気掛かりなのは・・・・身を挺して、最後まで孫権を護り切って見せた満身創痍の陵統の身の上である。引き返した陵統は、独り橋の袂に踏み止まり、追撃の部隊と暫し交戦して居たが、圧倒的な敵兵を前にして流石に戦闘を断念。孫権が脱出した頃合を見計らって、独り川岸に逃れた。橋は既に敵兵に占拠・破壊されてしまっていた。川を泳いで渡り切るしか方法は無かった。だが、身は既に数十ヶ所の傷を負い、出血に因る意識の混濁が起こり掛けて居り鎧を脱ぐ事も困難と成っていた。《ーー儘よ!》陵統は最後の気力を振り絞って川の中へ身を投じた。《 もし天が 我を必要とするなら、俺を、向う岸に辿り着かせて呉れるだろう・・・・》
陵統の姿を発見した敵が、ビュンビュンと弓矢を射掛けて来た。水面深く潜って行くしか生き残る手立は無さそうであった。この手傷で、果して何処まで息が続くであろうか・・・・!?
孫権は驚喜した。信じられ無かった。そして、その
陵統の悲惨・悲愴な姿を見て叫んでいた。
「医者じゃ!卓氏よ呼べ!大至急くる様に伝えよ!」
陵統は気力と若さだけで、かろうじて生きて居た。だが意識は無かった。孫権はそんな陵統を掻き抱くと叫び祈った。
「嗚呼、天よ。こんな忠烈な者を 死なせないで呉れ〜!」
程無く、呉国随一の名医と謂われる卓氏が駆け付けたが、その無数の傷口を診て絶句した。「こんな深手で、よくも、まあ・・・!」
この名医、『呉書』に此処1ヶ所の人物である。
「頼む、是非にも助けてやって呉れ!!」
「出来る限りの手立ては施しましょう。」
やがて、この名医の救命処置に拠って、陵統は意識混濁の危機を脱した。 「と、殿!御無事で・・・・!」
「ああ、そなたの御蔭で死地を脱せたのだ!」
「わ、わ、我が配下の者達は・・・・!?」
己の事より部下の安否を尋ねる若き武将・陵統。
「おっつけ戻って来よう。心配せずに、今はゆっくり身体を癒すのじゃ。」ーーだが実際には、陵統の直属部隊300名は全滅。唯の1人たりとも帰っては来なかったのである。ばかりでは無かった。撤退時に千余名いた孫権の近衛部隊も亦、ほぼ全滅していた。救援に駆け付けて者達の戦死の数も夥しかったのであるーー
絶対優勢な、圧倒的兵力差で臨んだ合肥戦であったものを、こうまで悲惨な結末を招くとは・・・・!!
だが孫権は、兎にも角にも 無事生還して来た諸将を御座船に招くと、せめてもの慰労の心算で
ささやかな酒宴を開いた。すると、南岸から駆け付けて孫権を救出した賀斉が、敷物を遠慮して
退がると、涙ながらに孫権に言った。
「至尊の君主たる者、いつ如何なる時も、常に万全の行動を取って戴かねばなりません!今回の如き軽々しき御振舞いの為に、あたら死ななくてよい者達が、どれ程多く犠牲と成りました事か。
どうか殿には、この出来事を一生の誡めと為されて戴きます様に!」
言われた孫権、元よりガックリ来ていたから、神妙に答えた。
「全く恥ずかしい限りじゃ。この誡めは単に”紳”に書き付けるだけ
では無く、我が心深くに しっかと刻み付ける事と致すぞよ!」
”紳”は正装時に体の正面に垂らす、幅広の飾り帯の事である。古来より、君子が己を誡める時にその帯に誓いの言葉を書き付ける習慣が在った。
この合肥の戦後譚・・・・
誰1人として帰って来なかった部下を思い、深く沈み込んだまま涙ぐむ、療養中の陵統の姿を見た孫権。自らの袖で彼の涙を拭ってやりながら慰めて言った。
「公績どの、死んだ者は帰って来ない。貴方さえ健在ならば、
『呉にはもう有能な者が居無い』などと、私が心配などするものか。早く元気に成って呉れよ!」
戦死した陳武に対して孫権は、その奮戦と是れ迄の勲功を鑑み、その葬儀を君主葬とした。更には前例の無い措置を施した。何と、彼の愛妾を殉死させた のである!
これは正史では無く『江表伝』の記述ではあるが、のちに【孫盛】が、「生きた妾を、死んだ陳武に付き従わせるとは何事か!」 と噛み付いているから、ほぼ事実であろうか。確かに愛情の履き違えも甚だしい。それでも罷り通ってしまうのが、三国時代の恐ろしい一面であったのだ。
更に筆者は、この後に続く正史陳武伝の記述に眼を惹かれる。
『息子の陳脩には父親・陳武の風が在った。年19の時、孫権は彼を正式に目通りさせて励まし、別部司馬の任を与え、兵士500を預けた。この当時新しく軍に入れられた兵士達には逃亡してゆく者が多かった。然し陳脩は、彼等を大切に扱かって其の心を掴み、彼の下から居無くなる兵士は1人も無かった。孫権は此の事を高く評価し彼に校尉の任を授けた』
この正史の記述は 極めて重大である。表面上の時間経過
だけでは、「群雄割拠の時代」から僅か30年に過ぎぬが、その
一方に於いて、時代の中味・様相はガラリ大きく一変している事が識られるのである・・・・即ち、呉の国が成立した頃には・・・・
《一旗上げる!》 心算の”志願兵”が主力であり、その兵制は、
謂わば 〔自由希望制〕であったものが、今では 国民皆兵の、謂わば強制的〔徴兵制〕 へと 移行していた! と云う事が窺い知れるからである。既述の如く、呉の兵制は独り特殊な、豪族分担の如き因習が根強かったのであるが、それが通用した時代は過ぎ去り、今や国力挙げての総力戦の時代へと変貌し、もはや個々人の希望や都合は無視され、兵役としての義務化が進行していたのである。だから、逃亡兵の比率もグンと急上昇していた訳である。皆が皆、喜び勇んで兵士に成っていたのでは無かった。10万、20万とは言っても、その大部分を占める兵卒達の多くは、故郷に妻子を養う農民達であったのだ。
とかく歴史は上層の者達だけの、栄枯盛衰物語と成るのではあるが、心の隅には常に、多くの支配される者達の悲嘆や苦しみを忘れてはなるまい・・・・。
★最後に、この節 (戦役後半部) の基礎史料を載録して措く。
『紀伝体』の”宿命”として、この合肥の戦い も亦、その全体像は、個々人の「伝」の中に分散 (四散) されている。だが以下の如く、戦役の記事を1ヶ所に集約 して見ると、その情報量は相当なものである事が判明して来る。殊に緒戦の「張遼伝」と、退却時の「陵統伝」は、極めて稀な事だが《戦闘場面》に詳しい。
〔官渡戦の武帝紀〕程では無いにせよ、戦闘の描写にまで踏み込んだ記述は、〔赤壁戦の周瑜伝〕を凌ぐ程で、我々にとっては誠に有難い。逆に謂えば、陳寿の眼から観ても、此の合肥の戦いの帰結は、三国志のエポックの1つとして、非常に重大だったと判定した事を示していよう。
この合肥戦の様子を【陳寿】はその《前半戦》を張遼伝にそして《後半戦》を〔呉の部将の伝〕特に陵統伝の中に詳しく記している。陳寿が「戦記」の
如き記述を著わすのは稀有な事例である。まして張遼の様な戦歴豊富な部将の「伝」中に、是れだけのスペースを与えたと云う事は、如何に此の時の「張遼」の武功が特筆されるべきものであったか!の証明である。
以下、幾人もの「部将伝」の全文を掲載し、
【史料だけに拠る合肥戦の全貌】を提供して措く。
『正史・張遼伝』ーー
『太祖は、孫権征討から帰還した後、張遼に命じて 楽進・李典らと共に7千余人を率い
て合肥に駐屯させた。太祖は張魯征討に向ったが、護軍・薛悌に命令書を与え、箱の
縁に『
賊が来たら開け』と記して措いた。急に孫権が10万の軍勢を率いて合肥を包囲
した。 そこで一緒に命令書を開くと、命令書には、《 もし孫権が来たら、張遼・李典の
将軍は 城を出て戦え。楽進将軍は護軍を守り、彼等と戦う事ならぬぞ。》 とあった。
将軍達は皆ためらったが張遼は言った。
「公は 遠征で外に居られる。救援が着く頃には、奴等は 我が軍を破っている事は
間違い無い。だからこそ、奴等の包囲網が完成しない裡に迎え撃ち、その盛んな勢力を挫いて人々の心を落ち着かせ、その後で守備すべきだと指示されたのだ。 成功 失敗のキッカケは 此の一戦に懸かっている。諸君は何を躊躇うのだ。」
ーーこの場面だけは 正史・李典伝 からーー楽進・李典・張遼は、いずれも平素から仲が良く無かっ
たので張遼は 2人が従わない事を懸念した。李典は憤然として言った。
「之は国家の大事です。問題は、君の計略が何うかと謂う事ですぞ。我々は個人的
恨みによって公 (おおやけ) の道義を忘れは致しませぬ。」
そこで軍勢を引き連れ、張遼と共に・・・・
ーー再び 張遼伝 に戻るーー李典も亦、張遼に賛成した。そこで張遼は夜間、付き従って来る
勇気ある兵士を募り 800人 を手に入れ、牛を槌でブチ殺して将兵を労い、翌日に、
大会戦を行なう事にした。
夜が明けると、張遼は 鎧を着け戟を持ち、先登になって 敵陣を陥し、数十人を殺し、
2人の将校を斬り、大声で我が名を呼ばわりつつ 砦を突き破って侵入し、孫権の将旗
の元まで来た。孫権は仰天し、人々は 何うして よいか 分ら無かった。孫権は逃げて
小高い丘に登り、長い戟を使って身を守った。張遼は孫権に「下りて戦え!」と怒鳴った
が、孫権は 敢えて動こうとせず、張遼の率いる軍勢が少ないのを望見した。そこで兵を
集結させ、張遼を 幾重にも取り巻いた。張遼は 右に 左に 押し寄せる敵を追い払い、
真一文字に進んで激しく攻撃すると、囲みが解けた。張遼は部下数十人を引き連れて
脱出できた。残りの兵達は「将軍、私達を見棄てるのですか?」と叫んだ。 張遼は再び
引き返して 囲みを突き破り、残りの兵士を 救い出した。 孫権の兵馬は皆、道を開け、
思い切ってぶつかる者は無かった。
明け方から戦って真昼になると、呉の人々は戦意を失ったので、張遼は引き返して守備を
固めた。人々の心はやっと落ち着き、将軍達は皆、感服した。』
『正史・甘寧伝』ーー
『建安20年、合肥の攻撃に参加した。この時には 伝染病 が 流行した為、撤退の命令が出され、軍団は皆すでに引き上げて、ただ御召し車に扈従する近衛兵千余人と、呂蒙・蒋欽・陵統、それに甘寧とが、孫権に付き従って逍遥の津の北に在った。張遼は、そうした様子を遠くから窺い知ると直ちに歩兵と騎兵とを率いて之に急襲を掛けて来た。
甘寧は弓を手に持って敵に射掛け、陵統らと共に命を的にして戦った。甘寧は大声で、茫然自失して居る軍楽隊に、「なぜ音楽を鳴らさぬのか!」と叱り付け、その雄々しさは何者も犯せぬ様であった。孫権は甘寧の此の働きを事の外に喜んだ。』
『正史・蒋欽伝』ーー
『合肥への遠征に参加した。魏の部将・張遼が 逍遥津の北で 孫権に襲撃を掛けて来た時には、蒋欽は奮戦して、孫権を守り切ると云う手柄を立てた。盪寇将軍に昇進し(それ迄は討越中郎将だった )濡須の督の任務に当てられた。』
『正史・呂蒙伝』ーー
『荊州(益陽)から軍が戻った後、引き続いて合肥への遠征が行なわれた。合肥からの撤兵が始まった処で、張遼らの襲撃を受け、呂蒙と陵統とは、生命を賭けて孫権を守った。』
『正史・陳武伝』ーー
『建安20年、合肥の攻撃に参加し、命を的に奮戦する中で 戦死した。 孫権は 彼の死を哀惜し、親しく其の葬儀に臨席した。』
『正史・潘璋伝』ーー
『合肥の戦役で、張遼が急襲を掛けて来た時、 呉の部将達には備えが無く、 陳武が戦闘の中で死に、宋謙 や 徐盛 の軍勢は 我勝ちに逃げ出した。潘璋は後方に居たのであるが、急いで駆け付けると、馬を横にして宋謙や徐盛配下の、逃げ様として居る兵士2人を斬り捨てた。それを見た兵士達は皆、取って返して戦った。孫権は 潘璋のこうした 勇猛な働きを 特に高く 評価し
偏将軍に任じ、百校の役目を授けて、半州に駐屯させた。』
(※宋謙に「伝」は無いが、孫策の”華の一騎打”の場面に立会い、後には夷陵の戦いでも活躍し、将軍と成る人物。)
『正史・賀斉伝』ーー
『建安20年、孫権の指揮の下で、合肥へ遠征した。この時、城内から繰り出して来た魏の兵と戦う裡に、徐盛が負傷して牙旗を失ったが、賀斉は兵を指揮して拒ぎ戦い、徐盛が失った旗を奪い返した。』・・・・(※カッコワルイので?「徐盛伝」には記述無し。)
『江表伝』ーー
『孫権が合肥に遠征し、軍を引き上げる事になった時、逍遥津の北側で張遼の急襲を受け、寸手の所で生命も殆うかった。賀斉は此の時、3千人の兵を率いて 渡し場の南に在り、虎口を逃れて来た孫権を迎え入れた。孫権は大きな軍船に乗り込むと、部将達を集めて(慰労の)酒宴を開いた。賀斉は敷物を外すと、涙を流しながら言った。
「至尊の位に在られる御主君には、常に万全の御行動を取って戴かねばなりません。今日の出来 事は、御生命にも係わり兼ねぬもので、臣下達は 怖れに 心を慄かせ、天も地も 失ってしまった かの様で御座いました。 どうか 此の事件を、一生の誡めとして戴きます様に!」
孫権は進み出て、賀斉の涙を拭いてやりながら言った。
「全く恥ずかしい次第だ。 この誡めを、単に紳 (幅広の前に垂らす飾り帯) に書き付けるだけでは
無く、深く心にも刻み付けよう・・・・」
ーー『正史・呉主伝』ーー
『孫権は陸口から軍を返すと、そのまま合肥を征めた。合肥がなかなか降ら無いので、軍を纏めて帰還する事になった。兵士達は 既に帰途に着き、孫権が陵統や甘寧らと共に 津の北に居る所を魏の部将・張遼の襲撃を受けた。 陵統らが 死に物狂いで防戦して居る間に、孫権は 駿馬を駆けさせ、津の橋を渡って逃げる事が出来た。』
ーー『江表伝』ーー
『孫権が駿馬に乗って津の橋を渡って行った処、橋の南端は既に撤去され、1丈余りに渡って板が無かった。谷利が馬の後に従って居たが、孫権に「鞍をしっかり持って控を緩める様に!」と言うと谷利が後から鞭を当てて、馬に勢いをつけた為、其処を飛び越す事が出来た。孫権は此の危機を逃れると、直ちに谷利に都亭侯の位を与えた。』
ーー『正史・陵統伝』ーー
『益陽から帰還すると、合肥への出兵に加わって、右部督に任ぜられた。
この出兵の際、孫権が軍の撤退を命じ、先発の部隊が 既に出発した後へ、 魏の部将・張遼らが津の北に急襲を掛けて来た。孫権は、人を遣って 先に出発した兵士達を戻らせ様としたが、
兵士達は既に遠くまで行ってしまっていて、間に合いそうも無かった。
陵統は、近習の者達 300人を指揮して包囲を崩し、孫権を守りつつ脱出させた。 敵は 既に橋を壊して、2枚の板だけで橋が繋がっていた。孫権が馬に鞭打って其の橋を駆け抜けると、陵統は再び戻って戦いに加わった。側近の者は皆死に、彼も身に傷を被りつつ、数十人の敵を殺した。
孫権が既に難を逃れて安全な場所に着いた自分を見計らってから、退却した。橋が壊れて退路が無いので、陵統は鎧を着けたまま水中を潜って川を渡った。
孫権は既に船に乗って居り、彼が帰って来たのを見ると驚喜した。陵統は、近習の者達が誰も戻って来ぬのを痛み、悲しみに沈んで居た。孫権は、自らの袖で涙を拭いてやると、言った。
「公績どの、死んだ者は帰っては来ない。貴方さえ健在ならば、外に有能な人物が居無いなどと、どうして心配したりしようぞ。」
偏将軍の官を授かり、これ迄に倍する兵士を与えられた。』
ーー『呉書』ーー
『陵統は傷がひどく、孫権は、そのまま陵統を御座船の中に留めて、その衣服を全て更えさせた。
彼の傷は、卓氏の良薬の効目で快方に向い、死なずに済んだ。』・・・・(※卓氏は、唯ここ1ヶ所に名だけ出て来る、呉の名医。)
尚、重複を避けるため『張遼伝』には、この追撃戦の場面記述は一切無い。 また蛇足の史料としては、黶w献帝春秋』が在る。馬鹿馬鹿しいが、但し、〔孫権の容貌〕を伝える史料として補注に載録されているので、一応載せて措く。
『張遼が呉の捕虜に尋ねた。「今さっき紫髯あかひげの将軍で、背丈は高いが足が短く、馬に達者で弓の上手い者が居たが、あれは誰だ?」 捕虜が答えた。「あれが孫会稽さまです。」
張遼は楽進に出会うと言った。「手遅れだった。知っておれば、急いで追って捕まえて呉れたものを!」 軍を挙げて孫権の行動を賛嘆し、捕え損ねた事を惜しんだ。
この合肥の戦いに於ける、孫権の大敗北・・・・
10万の国軍が、僅か7千の守備部隊に徹底的に打ちのめされ、2度までに渡って君主の生命が窮地に追い込まれた。
歴史的な大敗北!と謂える。孫策や周瑜の時代には 考えられぬ負け方であった。2人とて失敗は有ったが必ず盛り返した。こうまで屈辱的で一方的な、完膚無き迄の完全敗北は呉国創立以来、夢想だに出来ぬ事態であった。謂ってみればせっかく孫策・周瑜が勝ち取った軍事的優越感を喰い潰し、その遺産を跡形も無く潰え去らせてしまった!!・・・・のである。もっと厳しく謂えば、周瑜が成し遂げた 《赤壁の栄光》 を取り返され、
逆に〔赤壁の屈辱〕と同等の結果を齎してしまったのである。
この大敗北は堪えた!!孫権の自信を喪失させ、その奥処に恐怖心を
植え着けた。孫権の幕僚達に《曹軍恐るべし!》 の、脱却し難い、”トラウマ”を発生させた。
《この儘では、魏には勝てない・・・・!》 負け犬根性の芽生えであった。元々から長江以南の者達は〔北方に対する強い劣等感〕を抱いて居た。その深刻な〔北方コンプレックス〕は、主として上層知識階層の者達が抱く文化の遅れに対する自信の無さで在った
《だが、軍事では負けぬぞ!!》と謂う自負を、ようやく孫策・周瑜の時に抱き始めたばかりで在ったのだ。それを又再び、打ち砕かれた・・・・では何うすべきか!?ーー自ずから、自己保身の道を探る動きが濫觴する。蓋し、この合肥戦の大敗北・即ち
遼来来は、呉の生き残り戦略に対する、
根本的な見直しを強要する事と成ったのである!!
〔魏〕VS〔呉・蜀連合〕・・その対立軸への〔見直し気運〕が醸成される原点が、此処に発生したのである。もっとハッキリ言えばーー
蜀を裏切り、魏と手を組んで
「荊州」を奪い取る!!
それに拠って国力の拡大を果し、魏と対抗し直す!・・・となれば邪魔者は関羽!である。関羽を葬らねばならぬーーだが【関羽】は【張遼】以上の難敵であった。だとすれば・・・・魏と手を組み、南北から関羽を挟み撃ちにする!
そんな、自己中心的な生き残り戦略の源が、この合肥大敗北の帰結であり、同時にシビアで虚々実々の、出し抜き・騙まし討ち戦略を生んだ・・・・のである。
だが、其のトラウマは、いま直ちに表面化する事は、未だ無い。 呉・蜀同盟、即ち3国鼎立・天下3分の計の推進者たる魯粛が、それを阻むであろう。ーーだが然し、この2年後の217年
・・・・疫病の猖獗が 中国全土を蔽う。”建安の七子”も全滅する。そしてその【魯粛】も亦、46歳の若さで三国志から去ってゆくのである。ーー必然、呉蜀同盟の推進者を失った呉の国論は、この裏切り戦略の実行に向って動き出す・・・・
そんな近未来が待ち受けて居ようとは、未だ誰も意識して居無い此の時、同時刻、漢中の【曹操】は、終に【張魯】を捕える寸前に在った。敵側の勘違いで〔陽平関〕を陥落させたのが7月、この〔合肥戦〕が8月、現在【張魯】は、漢中盆地を棄てて南山を越え、劉備の版図と成った 《巴中》 へと逃亡中である。 一体、張魯は此のあと、我が身を如何に処す心算なのであろうか?又、自身の領地内に逃れて来た張魯を、【劉備】は 何うする心算なのであろうか??彼の施策を高く評価して居る【諸葛亮】は?はた又、【曹操】は 之を口実に、一気に益州・蜀の国へと侵攻を目論むのか・・・!?
合肥から1000キロ彼方の漢中盆地・・・・
我々は空間を瞬間移動して、再び曹操の元に戻る。漢中・五斗米道の張魯の運命や如何に!?
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