第195節
逆赤壁 合肥の戦い!
                                     裏切り戦略 の 原点
視力3・0の物見兵が叫んだ。「あっ、烽火台からの緊急通報じゃ!」 言われて、もう1人の物見が確認する。
敵軍、来襲ス!!・・・・そのノロシ信号が上がった。
程無く次々と、斥候の早騎馬が合肥の城内へ駆け込んで来る。
「ご注〜進!孫権軍が続々と、濡須の塢に集結して居りまする〜!」 「その先鋒、およそ3万!」  
「呂蒙の赤備や、賀斉のド派手な戦艦が確認できまする!」
「甘寧と陵統に蒋欽の旗も御座います〜!」
「本軍は7万!合わせると10万を越える兵力と観えまする!」
「孫権の牙門旗を確認!
孫権みずからの親征に御座いまする!


「ーーム、来たか・・・!!」
呉蜀あわや全面戦争へ突入かと云う険悪な状況が急転直下曹操漢中平定の急報に接した劉備は急遽、荊州の東半分を孫権に返還して益州へ引き返した。その為、後顧の憂いが無くなった孫権は、挙国態勢で準備した大軍団を其の儘のシフトで横滑りさせ、その鉾先を此の合肥に向けて来たのであった!!

時に
215年8月 状勢から推して近々必ずや孫呉軍の攻撃が有るであろうとの認識は持って居た合肥城内ではあった。
では有ったが矢張り、いざと判ると大いなる緊張と微かな動揺が兵士達の間に起こった。 ーー斥候の判定に 間違いが無ければ
孫権軍 は、総力規模の10万余 だと言う。如何に天下に名立たる難攻不落劉馥城とは雖も、誰しもが、その圧倒的な兵力差に愕然とした。守る側は僅か7千!万にも満たぬ兵力に過ぎぬ・・・・。援軍が見込める なら未だしも、曹操本軍は遙か
1000キロも彼方の
漢中に在る。
《援軍は絶対に、何処からも遣って来無い!!》
自分達だけの独力で対抗するしか無かった。その状況は1兵卒の隅々までが識って居た。 流石に怯んだ。
城外の野戦を挑む
なぞ思いも寄らぬ事であったーー圧倒的な多勢に無勢・挑めば必ず包囲され、100パーセントの確率で殲滅される。だから此の場合は
兵理の常道とされる10倍の敵に抗するには城に籠って相手の被害を逐次増大させ、終には諦めさせて撤退を強いる・・・・に、従うしか外に、選択の余地は無かった。 徹底的な籠城戦で持ち堪えるしか無かった。思えば7年前の赤壁戦の折り孫権は此の合肥を攻めたが、結局その固い守りに手出しすら叶わず、早々に退散していた。

とは言え、今回の場合は状況が全く異なっていた。 一体、いつ迄持ち堪えれば、援軍が遣って来るのか・・・・半年間は絶対無理である。早くて1年か? もし 曹操本軍が漢中平定に引き続き、そのまま〔蜀への侵攻〕を敢行すると成れば、2年〜3年を要するかも知れ無かった。 かと言って、もしも此の合肥城を放棄撤退する様な事態になれば・・・孫権軍は勢いに乗じて一挙に曹魏本国内へ怒濤の電撃作戦を敢行して来るかも知れ無かった。そうなれば荊州に在る【
関羽軍】も亦、北上を開始して「許都」は奪われ、曹操陣営は一挙に崩壊。黄河以南は確実に敵の手に占領される事と成ろう。更には「漢中〜蜀」を徹底した曹操本軍も亦、今度は逆に【劉備】の追撃を受け大打撃を被って潰走・・・・それを観た各地では叛乱勢力が呼応し、打倒曹操の火の手は、終には根拠地の「業卩」の包囲にまで及ぶ可能性すら有る。ーー是は決して大袈裟な取り越し苦労・杞憂では無い。張り詰めた軍事バランス均衡状態が崩れた場合には、得てして、一大逆転の史実が過去に於いて多数存在していたのである。そして其の重大さを識って居ればこそ曹操は此の張遼楽進李典3将を選んで合肥に配置し、そして更には・・・・万が一に備えて護軍の薛悌敵が襲来した時に開封せよ!との 制約付きの、或る秘策を授けて有ったのである
果して其の
秘密の命令書の内容とは!?




さて一方の
孫権軍・・・・自信満々であった。元々〔陸口〕に在った孫権だが、〔益陽〕 の対陣を解いた 諸将の軍船と合流すると、一路 〔濡須口 (濡須水の入口) 目指して長江を下った。
その大艦隊の威容は、あの赤壁戦の時に引けを取らぬ。いや寧ろ、周瑜が率いた3万に比べたら、孫権自身が加わった分、その3倍以上の圧倒的な軍影であった。呉国開闢以来空前の大艦隊であった。と云う事は又
中国の軍事史上でも最大最強の艦隊が今、長江の水面をビッシリと埋め尽している・・・と謂う事でもあった。ーーやがて〔濡須口〕に到達した呉艦隊は、此処で一旦碇泊、「乗り換え」を行なった。支流に過ぎ無い〔濡須水〕には五楼船を含めた巨大戦艦は入れ無い。吃水船の浅い当時の艦船の事であるから(基本原理は丸木舟であり双胴船であった) 無理をすれば進入出来たが、小廻りが利かぬ為、却って支障を来たす。巨大艦艇は 此処に碇泊させ、次の〔濡須塢 濡須の砦 までは中型船で行く。 更に其の先は小型船と陸上から合肥を目指す。
孫権は悠悠とお召車に乗っての進軍であった。その廻りには無論 呂蒙甘寧などの諸将が警護態勢で付き従っては居た。だが何せ 10余万の人間と騎馬の大群団である。中には大編成の軍楽隊まで混じって居る。まして地理にも詳しくは無い。先頭が一旦渋滞すると忽ち全軍が大混雑の観を呈してしまう。そんな事が屡々重なると、《まあ、焦る事は無い。ボチボチ参ろうや》と云う気分にも成ってゆく。
《まあ敵地に入ってから其処でジックリ 陣立て致せば宜しかろう》
実際、合肥の城の前 (南側)には、その名は不詳だが、結構
大きな川が流れて居り、その川を越えて初めて、直接に敵城と対峙する事となるのであった。だから其の逍遥の渡し=逍遥津を渡った後からが本番の戦さ備えと成る。その逍遥津には、当時の津としては珍しい事だが「橋」が架けられていた。但しどうも10万の軍隊がドカドカ渡れる様な代物では無かった様である。だから城方も、特に破壊する必要を認めず、そのまま放置してあった。孫権も亦、その簡易な板橋には拘らず、単に連絡用位の心算で重視はせず、渡河は船を用いて行なったーー処が後日、此の傷み掛けの板橋が、トンデモナイ注目を浴びる事と成るのである。

(※若しくは此の”橋”が大型軍用の物で在ったとするなら、其処には城方の”企図”が潜んで居た事となる。更に言えば、最初に橋は存在せず、孫権側が工兵を繰り出して架設した物である可能性も存在する。いずれにせよ城の南に《》は在り、そして少なくとも孫権が撤退する時には、その川の逍遥津には、《板橋》 が架かっていた事だけは、正史の記述する処である。)

ーーやがて・・・・合肥城の南側一面に、孫権軍の大兵力が続々と揚陸を始め、包囲の網を 城の全周に押し広げようとして
ゆく。その兵力は
10万を超える!!
そのとき
城内では・・・護軍の薛悌を含めた、盪寇将軍張遼折衝将軍楽進破虜将軍李典 の3部将を中心に、この非常事態への対応について、その態度決定 ・ 戦術の意志統一を行なうべく、最終の協議を行なって居た。史書には具体的な姓名は記されて居無いが、3人の外に未だ、揚州刺史の【温恢】別駕の【蒋済】ら複数の将軍達が居た模様である。但し重臣と呼べる者は彼等3人だけであった。ちなみに 此の時点では未だ、3者夫れ夫れに意見が分かれていたのである。ーー大まかに言えば、 張遼孫権の首狙い策、李典完全籠城策、
楽進
1戦後籠城策を主張して居た。だがどの策を採るにしても、各自がバラバラでは話にもならない。いくら 普段から仲が悪かった とは言え、流石に 此の緊急事態に 直面した上は、何としてでも 意見を1つに 纏め上げねばならなかった。とは言い状、3者3様の個性が有り、又、得意な戦法も異なった。困った軍目付(護軍)の薛悌は、そこで終に、曹操から密かに授けられていた秘密の命令書を一同の眼の前で開封する事とした。見ると、其の指令書の箱の縁には、賊が来たらば開けよ!との
”特別書き”が付されている。一同、固唾を飲んで見守る中、遂に1000キロ彼方の曹操からの、〔絶対命令〕の中味が読み上げられた。曰く・・・・

もし孫権が来たらば、張遼・李典将軍城を出て戦え!楽進将軍護軍を守り彼等と戦う事は罷りならんぞ!

だが、この内容を知って、会心の笑みを漏らしたのは唯、
張遼 独りであった。皆、恐れ躊躇した表情を見せて居た。特に張遼から一緒の行動を指名されそうな将軍達は、全員が臆した様な素振で腰が引け気味だった。然し張遼は声を励まして言った。

公は遠征で外に居られる。救援が着く頃には、奴等は 我が軍を破っている事は間違い無い。だからこそ奴等の包囲網が完成しない裡に迎え撃ち、その盛んな勢力を挫いて人々の心を落ち着かせ、その後で守備すべきだと指示されたのだ。
成功失敗の切っ掛けは、此の一戦に掛かっているのだ! 一体、諸君は何を躊躇らうのだ!?


慮るに、其の命令書の中味だがーーほぼ、張遼・楽進の主張に近い至上命令であった。だが然し、決定的に相違している点は、是れ迄の戦歴を観れば一目瞭然常の、
常に斬り込み隊長役の先鋒を担って来た楽進が、その行動を封じられた点。
逆にどちらかと言えば日頃は後方部隊を担当して来た李典が斬り込み役を命ぜられた点である。筆者も思わず書き間違えそうに成ってしまった異例の、いや不適任の分担ではないか!?

そこで吾人は、つらつら 考えて試るに・・・・結局は 「参った!」、「流石は曹操は!!」 と云う事に辿り着く。即ち我々は、改めて己の浅はかさに気付かされる次第なのである。ーーもし、常識の予想通りに分担した場合、其処に待っている陥穽は両者共に揃って勇猛なるが故の、退き時を誤るの危険であろう。 互いをライバル視して 無理をしたり、逆に 互いを庇い合って 己の自在な動きに支障を来たしたり、独りなら為せる事も、同じ資質や気性が却って個人の力量を相殺し合ってしまう・・・独りなら捌ける戦局も、己だけの判断が出来無くなる。更に言えば、独りの方が死力を尽すであろうし、もっと穿った観方をするならば・・・・ 万が一、敢え無く”討ち死に” と云う事も考えられる。その場合、攻撃型の勇将が一遍に2人とも消えてしまったら後が大変だ。無論、張遼なら、そんな馬鹿な事態を招く様な事なく、曹操の本意である城を守り抜く事を最優先にして、美事に達成して呉れるであろう。ーーと同時に、慎重居士の【李典】なら、張遼と一緒に出撃しても、張遼の掩護に徹し、決して其の足を引っ張る様な事もすまい。

更に言えば、この3人の中で最も命令に忠実で、絶対に主君の命に異議を唱える様な自己主張をしないのが【
楽進】である。その点、張遼は過去に於いて、自己判断して曹操に大目玉を喰らった経歴が有った。( 包囲後の降伏は認めない軍律に反して、東海の昌希を助命した。)内心では幾ら不服で在っても、突撃が得意であっても、絶対に主君の言う事だけを聞くのが楽進である。ーー放って置けば (全任した場合)、日頃から反りの合わぬ3人は、敵を前にしてケンカを始めるに決まっている・・・・却って此方が3人に制約を掛けた方が、スッキリ納得し喜ぶーー畢竟、
曹操は全て御見通しだった
訳である!!そして事態は其の通りに嵌ってゆくまあ何ともハヤ、恐れ入谷の鬼子母神・・・・←(もはや 死語 デアルか?)・・・・それにしても、恐るべきは 曹操リモートコントロールである 魏軍最強の暴れん坊将軍達を、丸で掌の上で自在に操つる如き、孫悟空に出て来る御釈迦サマ同然である。


とは言うものの 実際には、曹操は御釈迦サマでも基督サマでもアッラーの神でも無い。最前線の現場では、そうそう事は上手く 運ばなかった・・・のである。命令 内容 云々の問題では無かった
寧ろ日頃の不和から来る
心情的な反発 が懸念されたのである。殊に、希望通りの役廻りを仰せ付かった張遼は、3人の中で孤立状態に在ったらしい。ーー曹操の秘密命令は飽く迄も大戦術を指令したものであり、細かい戦闘方法は現地の判断に委ねられていた。となると、互いに出撃を命ぜられた「李典」の元々の考えは”完全固守”だったから、敢えて協同歩調を採らずに単独出撃を言い張るかも知れぬ・・・と張遼は危惧した。と同時に「楽進」は李典寄りに違い無いと思い込んでも居た様だ。

「儂は殿の御命令通りに働く心算じゃが・・・・全体、君達の考えは何うなんだ??」
するや奥歯に物の挟まった様な張遼の言い様を聞いた李典は彼らしく憤然として言い放った。
是れは国家の大事です。問題は君の計略が何うか!と云う事であって、我々は個人的な恨みに因って、公の道義を忘れる者では在りませぬぞ! この李典の潔い一言によって、それ迄の3者の蟠りは一気に氷解した。

「いや誠に其の通りじゃ。是れ迄の儂の狭い心を許して呉れ!」
張遼も己の狭量を詫びて 15歳も年下の李典に潔く頭を下げた。

「いや私の方こそ御無礼仕りました。今にして思えば汗顔の至りに御座いまする。」
「有り難し!では・・・・。」 と張遼は早速、自分の戦術を将軍達に語り始めた。


「ーーウム、凄まじくも惚れ惚れする様な作戦じゃ!!後の事は我々に任せて、貴公の思う存分に お働き下され!」 と 楽進

かくて張遼の
ド肝を抜く様な戦術の為に、全員が支援する態勢が確認された。あとは只その実行部隊の編成だけであった。ーーそこで張遼は直ちに、其の夜・・・・自ずから志願の特攻隊員を募り、死をも恐れず最後まで自分に付き従って来る、勇気ある兵士を、合計 800人手に入れる事に成功した。
最精鋭の
奇襲部隊の成立であった。千の内の800 は1割強の比率であるが、10万に対しては 全くのゼロに等しい。蟷螂の斧にすら届かぬ微勢 に過ぎ無い。一体、張遼は、それで 何を 企図 しようと 謂うのであろうか!?

・・・・同夜の事・・・・自分の呼び掛けに応じて呉れた、忠烈無比な勇者達の為に、張遼は、せめてもの宴を開いた。隊員一同の眼の前で、みずから大槌を振るって牛を叩っ殺すや、その血を啜り合い、酒の肴とし、彼等のエネルギー源に供したのである。そして最後に告げた。
決行は明朝!孫権の本陣居が確認され次第に之を敢行する!曹公の日頃の恩に報い、我が名を天下に知らしめる絶好の機会である。諸君の命は只今、此の張遼文遠が確かに貰い受けた。 我が張遼の分身達に、恐れる物など何も無し!ただ只管の勇猛ある耳!そして・・・・狙うは唯、逆賊・孫権仲謀の首1〜つ!!
おのおの粉骨砕身の功を成せ〜イ!!

隠密行動である為、兵士達は”鬨の声”こそ上げ無かったもののその双眸には篝火以上に燃え盛る、熱い心意気が赤赤と映って居た・・・・。そして特別に、
明日は全員が、張遼文遠の名を呼ばわって好し!との通達が出された。

800人の張遼が
10万分の1孫権の命を狙う 白々8月の夜が明けた。先ず張遼が行なったのは、城壁上からの敵陣の確認であった。向う相手は130倍の孫呉軍であり真一文字の突撃である。万が一にも突撃の方向に誤りが在ってはならぬ。・・・・小手を翳して望見するに・・・・合肥城の南、逍遥津からの平地一面にビッシリと、呉の大軍団が眠りコケて居た。昨日到着したばかりであった為か、果また 城内の少数を見縊り侮った所為か、ゴチャゴチャ雑然と諸軍が入り乱れた儘の見るからに傲慢で無警戒の様が窺い知れた。後方部隊は未だ《逍遥津》 の向こう側 (南) に留まった儘で、今日にでも 此方側 (北) に布陣する心算であるらしい。

さて肝腎の
孫権の本陣であるがーー《在った!!》

逍遥津に接した此方側の北岸・・・・直線距離にして凡そ150里、600m程の地点ーー小高い丘の上、己の存在を見せ付け戦場を睥睨するかの如くーー孫権の牙門旗 が、朝まだ来の川風を受けて鷹揚に揺れていた。そして予想していた通り、その牙門旗の周囲には 未まだ、諸将の存在を示す”将軍旗”は到着して居無かった のである。

「好し! これなら やれる!!」
もしも孫権が逍遥津の川向う(南岸)に留まって居たならば、首は狙えぬ。然し幸いな事に、いま確かに孫権は此方のエリア内に在った。長年この地に住む張遼部隊にとっては、眼を瞑って居てさえも熟知し切った”己の庭先”である。その目標座標をしっかり胸に刻み込むと、特攻奇襲隊員達も、直ちに出撃準備に取り掛かった。
張遼は 鎧を身に纏うと、得意の長戟 を 引っ提げ、愛馬に 打ち跨った。
「雑魚どもには目を呉れるな!ひたすら真一文字に突き進め! それが 張遼の戦さである!!」

南口の大手門が、静かに左右に開かれた。陽の出まえの冷気がサッと吹き込んだ。
「張遼参る!」 「李典も後に続く!」
見送る城内に、緊迫の一瞬が訪れた。張遼の800が主役である。李典部隊は飽く迄、その後方支援に留まる。・・・・と、
張遼が一声叫んだ
狙うは唯、孫権の首1〜つ!我に続け〜ィ!

ついに空前絶後の、白昼の奇襲攻撃の幕が切って落とされた。たった800で10万の真っ只中へ斬り込むなぞ常識では到底考えられぬ、無謀かつ破茶目茶な作戦であった。 周瑜が
赤壁に曹軍30万を撃破した時ですら、周瑜は3万の精鋭艦隊を率いていた。又至弱が至強に挑んだとされる官渡でも、袁紹15万に対して曹操は、実質5万の兵を率いていたのである。その事を想起すれば、この張遼合肥戦いが如何に破天荒なもので在ったかが判る。


ーーそれは
怒濤であった。大軍の上に胡坐を掻いて怠惰を貪る、孫呉軍に下された雷撃であった・・・まさか城を出て、襲って来る者の在ろう筈は無い・・・と誰しもが考えて居た。まして本気で、陣営の最も奥に位置する本陣う狙うなど、一体誰が予想し得たであろうか?
合肥の城下に野営して居た呉の諸陣は、最初しばらくの間、何事が巻き起こったのか理解する事すら出来ずに在った。突如、全身が地鳴りに揺り醒まされ、地震でも起きたかと思った其の瞬間、野営のテントを踏み潰し、駆け抜けて行く馬蹄の轟き・・・・
我は張遼なり〜! 寝起きの眠気を劈く大声に ギョッとして振り返った時には、既に其の相手の姿は、怪鳥の如く消えていた。
「張遼じゃあ〜!張遼の奇襲攻撃だぞ〜!!」
「起きろ〜!敵が攻め入って来たのだア〜!」

漸くにして呉側が気付いた時点で、既に張遼部隊は数里の距離を叩き出していた。飛び出して来る敵はアッと云う間に突き殺された。茫然と立ち竦む敵は、馬群の生け贄と化したーーが時と共に呉側でも、少しは組織的な迎撃の姿勢が散見し始めた。

「慌てるな!敵は大した数では無いぞ!押し包んで殲滅せよ!」

中には指揮する将校の姿も現われ始めた。ーー然し、そんな事
位で馬の脚が止まる様な特攻隊では無かった。未だ唯の1騎も失われて居無い凄まじさである。その騎馬部隊の先頭で傲然と我が名を呼ばわりつつ戟を振るう剛胆な武将・・・・その姿は8月の旭日を浴びて燦然と輝く。

「密集隊形を取れ〜!長矛部隊〜、槍先を揃えよ!!」
「おのれ〜小癪な真似を!」「怯むな!此方からも押し出すぞ!」

暫らくは大パニックに陥って居た呉軍であったが、流石に、状況が判然として来るに連れて、迎撃の姿勢が現われた。何せ元々から、密集した陣地で野営して居た呉軍であったから、人数だけは物凄い。奇襲部隊の馬速が幾分か落ち始めた。逆に反撃して打ち掛かって来る者の数が増して来る。それまで一丸だった800騎も、次第と、其の間を敵兵に割り込まれ、分断され始めた。但しその先頭集団の突破力だけは少しも衰えを見せない。
「張遼推参!我は張遼なり〜
その声と共に、呉軍兵士の血飛沫が飛び散ってゆく。
1020人、30人・・・!!既に張遼独りだけによって40人以上の敵兵が突き殺されていた。奇襲部隊全体では、一体どれ程の軍功を挙げている事であろうか!?
仮に800倍したら、40×800=32000で3万!である。まあ、張遼の数字は余りにも度外れた武威であるから、1人で5人だとしても、5×800=4000と成る。『雑兵には眼を呉れるな!』の厳命下に在りながらも尚この数字である。ーーもし此の猛烈極る張遼部隊の 突貫の模様を、上空の 「とんびアイ」 から俯瞰したならば、それこそ信じ難い情景であったに違い無い。・・・・眼下
一面をビッシリと埋め尽くす10万の敵兵の中に、唯一筋の細い割れ目が、鋭い錐の如く、ひたすら南へ南へと真一文字に向って行く。恰も其の様は止め処ない暴挙の稲妻!
突如巻き起こった一陣の烈風か!!・・・抗う敵は悉く叩き伏せられ、斬り捨てられ、突き殺されてゆく・・・・。
背後に敵兵の恐怖の声を聞き流しつつ、張遼の突撃は猶も続く。すっかり縮み竦み、怯みきった敵兵は、張遼の姿を見るやサッと左右に逃げ惑うばかりで、張遼の行く手には、自ずから無人の空間が生じていた。ーーやがて眼の前に孫権の砦が見えて来た。だが砦と謂っても未だ、簡単な逆モギが設置されただけの、小高い丘に過ぎぬ。着陣したばかりの翌朝である。防禦の塹壕も土塁も無い。当然ながら、まさか 此処まで敵が接近して来るなぞ、想定しては居無かった。攻めるのは呉軍であり、魏兵は守る側なのであった。迫り行く
張遼!!ーーそして遂に
孫権の牙門旗が現われた!!

・・・・史料を読み解くに・・・・どうも此の朝の段階では、孫権の周囲には【呂蒙】・【甘寧】・【陵統】・【蒋欽】などと云った将軍連中は 居無かった模様である。無論、孫権が単独で宿営して居た筈は無いが、兎に角、張遼の突撃が孫権の本陣に到達する迄には、応戦する場面が無かった様だ。
史書には1文字も、1人の名も著わされて居無いのである。

仰天したのは孫権であった!!

「な、なんじゃ?何事じゃ!?」
最初、夢うつつの裡にムニャムニャ寝返って居た孫権で在ったが次第に大きくなる騒音に流石に異変を感じて飛び起きた。
と、
親近監(身の廻りの使いっ走り)である谷利が、眼の玉を引ん剥いて 飛び込んで来た。
「アワワワ!た、た、大変で御座います!」
「ん、どうした阿利
(谷ちゃん) ?一体、何事ぞ?」
「て、敵が、直ぐ其処まで来ております!」
「何を 寝呆けた事を のたくって居るのじゃ??」
「ち、ち、張遼の、突貫攻撃で御座います
「なに!張遼が自身でか!?」
「ハ、ハイ〜ッ!直ぐに甲冑を御着け下さい。
 私は駒を引いて参りまする〜!」 殆んど涙声。
「そんな大軍団で差し迫って居るのか!?」
「兵力は判りませぬ。ですが味方の陣は次々に破られている
 模様に御座います。」
ちょっと直ぐには信じられぬ事であったが、この親近監の
谷利と云う人物は、『忠義で一本気であって、決して好い加減な事を言わ無かった為、孫権は彼を愛し信頼していた。』・・・・と云う男であった(江表伝)ーー但し是れといった仕事が有る訳では無く、要するに 〔使いっパシリ〕で在った為、孫権は常に阿利と呼んで居た。
阿は「○○ちゃん」との愛称だが、やや小馬鹿にした揶揄のニュアンスを含む。



こんな緊迫した場面に併記するのは艶消しも甚だしいのだが、
紹介し漏らす可能性が大きいので、敢えて彼のエピソード (江表伝
のみに記載されている人物ではある
) を 此処に挿入して措く。
大分のちの事・・・・孫権は「武昌」に於いて、新しく建造した大船の艤装が完了したので、その 大型戦艦を長安と命名。みずから乗船し、釣台圻で進水式を行なった。その折り、急に天候が悪化し、暴風雨と成った。そこで谷利は”舵取り”に命じて、予定のコースを変更して 樊口 へ行く様に指示した。ところが剛胆な孫権は、嵐なぞ無視。
「予定通り頑張って
羅州まで行く様に」 と言った。 だが谷利は、ズラリと抜刀して操舵手を脅しつけると、「樊口へ船を向けぬ者は斬る!」 と言い、主君の命令を拒絶して、船を樊口に入港させた。するや其の直後、暴風雨は更に激しくなり、もう進む事は出来ぬ凄じさと成った。そこで急遽、引き返した。武昌に辿り着いた時、孫権は言った。
「阿利よ、水を恐がって、ひどく臆病だったじゃないか。」 すると谷利は跪いて言った。 
「大王様は万乗の主で在らせられながら、何が起こるか判らぬ深い淵に軽々しく乗り出され、遊び半分で激浪を冒されました。船の楼は 高く造られており、もし 転覆する様な事が有りましたならば社稷を 何と 為されるので御座いますか!!それ故に私は、敢えて死を賭けて御引止めしたので御座います。」 ーーこの事が有ってから、孫権は特に谷利を大切にし、以後は彼を名では呼ばず、「谷」と呼んだ。』


その忠義一筋の谷利は今、孫権の〔馬の口取り役〕を勤めて居たのだった。何せ孫権の体型と来た比には・・・・胴長超短足!で有ったから、愛馬への騎乗の際は、一騒動であったのだ。余りにも短足の為に、己独りでヒラリと打ち跨るなぞは絶対不可能であった。ーーうんこらしょ、どっこいしょ!・・・・と云う塩梅と成る。
ちなみに此う云う場合、孫権の愛馬の名前が判れば カッコイイのであるが、残念ながら史書には無い。
「やっこらさ!」・・・・兎にも角にも、「谷利」が引いて来た愛馬に、孫権が乗った途端であった。
見つけたぞ孫権!我は張遼なり〜
ギョッ!と振り返る孫権仲謀・・・・

「お命頂戴つかまつる!!」
もう逃れ様も無い眼の前に、鬼神が迫って居た。
孫権 度肝芯から仰天した!!

「殿を、殿を御守り致せ〜!!」

だが谷利の絶叫も空しく、
遼来来であった!!

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