【第194節】
泣く子も黙る 張 来来!
                                    合肥戦の オールキャスト

呉国の 一般庶民の家々では、子供が夜泣きしたり、 駄々を捏ねて 泣き止まぬ時
幾等あやしても叱ってもダメな場合・・・・親は最後には必ずこう言った。

リョウ 来来ライライ!!
そんなに泣いて居ると張遼がやって来るよ

すると、泣きじゃくって居た子供は親にしがみ付き、ピタリと泣き止むのだった。
・・・・この泣く子封じの ”御まじない” に使われる程までに、敵国庶民の間で畏怖され、恐れられた猛将ーー

それが・・・・
張遼 であった。字は文遠   ーー何故、それ程までに
恐がられたのか
!? ・・・・それには チャ〜ンとした理由が在るのであり、その原因と成る
勇壮なる史劇が、今まさに始まろうとして居たのである。

しかも、幸いな事に、史書の性質上、戦闘場面を描写する事の 極めて稀な、あの
正史 が、 敢えて其の範を越えてまで、逐一、戦闘の細部までを 全て記述して呉れているのである!!

無論補注の「脇史料」も豊富である。詰り、
『正史三国志』の中でも特筆すべき壮挙
張遼 と云う男によって130倍!孫呉軍相手に 小説では荒唐無稽として、作家が虚構設定する事さえ憚られる様な、信じ難い事実 を、
今まさに、青史に刻み込まれ様として居るのである。
呂布の突撃を上回り、関羽をも凌ぐ 三国史上最高強襲劇の始まりである!

然も唯1度では無く、
2度までも敢行され、その都度、孫権自身はあわや!と云う
危機に追い込まれ、呉軍の被害は甚大となって、終には敵の全軍撤退を強いてしまう・・・・!!

史実は小説より物凄い!!その屈指の史劇を、我々はこれから眼の 当りにするのである。無論、同僚の楽進李典2将との連繋が在ったればこその 壮挙ではあるが、やはり其のヒーローの栄冠、は断然張遼のものである!!




ーーだが、それにしても、である。
孫権呉国・・・・ここの処、全くの鳴かず飛ばず
状態の儘で、一向に 『本書』 に登場する機会に恵まれて居無い。改めて、顧みて観てみるに・・・・

者のうち・・・此処まで、常に割りを喰わされて居るのが
である。老獪な曹操(61歳) と劉備(55歳) に挟まれて、独り34歳の
孫権好い様に あしらわれて居る感が否めない。年前の赤壁戦以後
特に
「周瑜公瑾が逝去」してからは、《 之ぞ正に!!》 と云った類いの功績を、 唯の1つたりとも挙げて居ない。それ処か虚仮にされ、オモチャにされて来続けて居た。

【曹操】
には復活宣伝の為に、チョコチョコ利用され、今は〔漢中〕を平定されてしまった。
根無し草だった
【劉備】には荊州を占拠され、挙句の果には〔蜀〕を掻っ攫われた。その間に
孫権が やった事と謂えば・・・・曹操の侵攻を恐れて濡須に砦を築いた事と、劉備が
騙し取っていた
荊州の東半分を取り戻した事だけである。他の2者とは、比べ物にも為らぬ
レベルの低い話である。 あの赫赫たる、赤壁の栄光や 今いずこ・・・・・

あの
颯爽たる男組心意気は、一体 何処へ行ってしまったのか・・・・「呉ファン」ならずとも、お寒く 淋しい限りである。果して之は、どう云う事なのであろう哉!?
孫権仲謀
とは、そんなに愚図で駄目な男だったのか??はた又、呉の家臣団には
周瑜公瑾
に続く様な
”人物”人も居無いのであるのだろうか??

答えは
「然り!」でもあり、また「否!」でもある。本書の愛読者諸氏にはもう、その理由
・原因はお判りの事であろうーー

深刻な国内問題呉の宿痾・絶え間ない山越の叛乱

蜂起の所為であった。その果てる事の無い、連綿とした猛烈な反抗・叛乱の歴史は、『正史・呉書』

に記されて居る者達の、ほぼ全員の「伝」に、次から次に各地で頻発する彼等との戦闘がビッシリ

記されている事からも その苦難の様子が手に取る様に判る。取り分けても 『
賀斉伝』などは其の

最たる例である。たった彼1人の「伝」の中に出て来る叛乱だけでも、その規模の大きさ (最低でも

千〜万、多い時は 数万 ) と、場所の広範囲さ、首都圏中枢部でさえも起きる事例の前には、

ただ驚愕するばかりである。・・・・・そもそも【賀斉】は、彼のデビューからして、〔
山越討伐〕の功に

因り郡に登用されたのであるが、その時期は 「孫策」 が江東に進出して来る以前の事であった。

爾来、彼の「伝」に載る〔山越討伐〕の記述を羅列してみるとーー

196年
ーー侯官・東治(建安郡)・・・・・ 203年ーー建安・漢興・南平・・・・
204年
ーー漢興・大潭・蓋竹(余汗)・・・・205年ーー上饒(県平)・・・・
208年
ーー丹陽・黒多(い)・歙(しょう)・・・211年ーー余杭(呉郡)・・・・
213年ーー豫章の東部 (今は215年) だが・・・216年ーー番卩陽・陵陽・始安・県ーー
と云う次第である。

だが之は飽くまで彼1人が関わった討伐戦である。この外の者達が関わった事例は無数に在るの
であり、同じ年内に同時多発的に勃発するのが常の事であった。詰り一口に言えば、
呉国連年に渡り山越叛乱揺さぶられ続けていたのである


その異民族との抗争の歴史は、既に赤壁戦以前からの連鎖である。思えば遊牧騎馬民族の「羌」

や「氏」も、西方で連綿たる抵抗を続けて来て居た。但し彼等と山越との
決定的な違いが在った。

西方の羌や氏は少数マイノリティではあったが、漢人とは一種、
住み分けが保たれて居た。
だが彼ら
山越の場合は決して少数では無く、然も呉国領土内にモザイク状に
混在・並存して居たのである。観方によれば融合・同化とすら見える程に混交していた。

然し、外見上は幾等そうで在っても、心の中・民族の誇りや魂までは同化・屈服はしない・・・・

孫権は、この山越の鎮圧と慰撫に、その麾下の武将達を恒常的に、自国領内各地に分散派遣し、その軍事力の殆んどを、国内の治安維持に用いる事を強要され続けて居たのであった!!

ーー是れでは、他国への進攻など、とても実行し得無い。

赫赫たる版図拡大など夢のまた夢である。とは言え、同じ悩み・状況は既に「孫策」・「周瑜」の時

にも在ったのである。にも関わらず、孫策も周瑜も、其の懸案を乗り越えて尚、天下への覇望を

持ち続け、挑戦した・・・・その事を思えば、如何に時局が大きく変貌したとは言い状、孫権仲謀の

器は小さい
のかも知れ無い。国内問題のみに汲々として、対外的には防戦一方で在った。

だが、その”負い目”を一番強く感じて居たのは誰あろう、外ならぬ孫権自身であった。

見ていよ俺とて一端の君主たるを天下に知らしめてやる

その機会を窺って居た孫権に、やっと今、その憂さを晴らして見せる時が巡って来たのである。

215年8月の今現在・・・・【曹操は遙か漢中の山の中、劉備も泡を

喰らって
益州(蜀)に引き返して行った。そのうえ一番気掛かりな〔山越〕達も、機を観るに敏な

だけに、どうやら今のところは鳴りを潜めていた。そして何と謂っても、今、孫権の手元には・・・・

いざとなれば、本気で劉備・関羽と全面戦争をする覚悟で整えた、挙国態勢の全軍

10余万が備わっていたいま孫権の居る「陸口」に諸軍を呼び戻しさえすれば、レベル

1の臨戦モードを維持した儘、憎っくき曹操に大敗北を喰らわしてやれるのだ。狙うは唯
点・・・・

曹操の東の要衝合肥〕!!

然も現在、その城を守る兵力は、僅か
7千に過ぎぬ。この合肥城を奪い取ってしまえば、最早

その北には何の要害も無い。曹操は呉国進攻の唯一の足場を失い、今度は逆に孫権からの侵攻

に脅える状況に追い込まれるのだ。 そして一挙に、長江北岸の広大な地域が 呉の版図と成り、

その周辺に曹操側が営々として開墾して来たと”屯田”その”住民”もが、孫呉の手に入る。

天下の情勢が一気に大転換して
孫呉の逆襲が 始められるのだ!! 孫権は改めて、取り戻した荊州東半分の担当者を決めると同時に合肥攻撃軍

再編成を試みた。(それは我々が、呉の諸将を紹介される事でもある。) ーー蓋し、呉でも・・・・

世代交代の波が近づきつつ在った。200年に【孫策】が逝った後、206年には【太史慈】が

207年には母親の【
呉夫人】が、210年には【周瑜】が、そして212年には【張紘】が没していた。

213年の「濡須戦」では、8尺の巨漢・【
董襲】が、〔五楼戦艦〕と運命を共にして沈没死しており、
又この215年には生え抜きの重鎮であった、あの赤壁戦の立役者
黄蓋が先日益陽の
地で逝去したばかりであった。また最長老の元老
程普も病に倒れ、翌216年に没する。

・・・・何がし、呉でも1つの時代が去り行き、又新たな時代が始まろうとしている様子が窺える。

そんな中に在って、還暦を迎えた(61歳)のに独り元気バンバンなのは、孫権にとっては煙ったくて

五月蝿くて堪らない
張昭であった。ちっとやそっとでは、未だ未だヘコタレそうも無い。

「ーーこの際ひとつ、御老体にも働いて貰おうか・・・・。」

と云う訳で、この張昭は、”
別働隊”として「匡埼」を討伐する事となった。

この匡埼は此処1ヶ所に名のみ出て来る部将で、何処に居たのかすら判ら無い。但しちゃんと?張昭に討たれたらしい。

同じ61歳でも、大功臣
朱治の場合は、孫権の態度が全然違った。朱治は初代・孫堅

からの譜代中の譜代で、2代目・孫策を袁術の下での雌伏時代から独り励まし続け、遂に呉国を

誕生させた苦労人であった。そして其の政権の中心都市である
呉郡太守を、永年勤め続けて

来て呉れて居た。その積年の疲れからか、最近はとみに老いが目立って来ていた。だから孫権は

非常に気を遣い、太守としての彼の実務範囲を極端に縮小してやり、事実上の 「楽隠居」 を実施

していたのである。ところが、朱治を敬愛する者達が後を絶たず、彼の下で働きたい!と願う者が

続出し、その政庁は逆に通常の30倍以上の人員で活気に溢れていた。だが本人は自身の老い

を自覚し、そろそろ故郷で閑職に就こうかナ・・・・と考え始めて居た。

その朱治には子(男児)が無かった為、孫策に烏帽子親と成って貰い、13歳だった姉の子を養子

縁組して育てたのが、彼の自慢の息子
偏将軍朱然である。身の丈は7尺(158cm)

に満たぬチビであったが、カラッとした人柄で質素を重んじ、一旦事ある時にも平常心を失わず、

その肝っ玉の据わり具合は、誰にも真似できぬ程であった。現在35歳の働き盛り。



ーーそして、もう1人・・・・孫権としては余り大きな声では言えない相手が居た。何故なら、その同じ

人物の言動を、兄の孫策は豪快に笑い飛ばしながら自在に用いて居たからである。どうも、兄の

器量と自分の器の大きさを、その人物を通して
バロメーター代りに 観られる雰囲気が在った。

だがキライなものはキライであった。兎に角、カッと頭に来る様な事を平然と言い放つ。1度や2度

や3度や4度なら眼も瞑ろうが、年がら年中、場所柄や 君臣の立場も無視して、好き放題に言い

募る。然も頭が切れるから、孫権も咄嗟には反撃でき無い。時に素晴しい進言をし、広学博識で

医療や占いの分野でも一流、全国的な高い名声を有して居た。扱いに困る”難物”であった。
その相手とは・・・
いにしえ狂直きょうちょくこと虞翻ぐはんであった。ーーだが只今現在、その虞翻は
              彼の”狂直”が仇となり
強制移住
させられて居た
のである。ハッキリ言えば 「所払い」・「お側追放」の処分を喰らって居たので

ある。だが今の処は孫権も未だ、本気の本気で憎んで居る訳でも無かったから、その流罪地は

割りと近くの「丹楊郡県」に過ぎ無かった・・・のではあるが。

まあ取り合えず《頭を冷やして反省しろ!!》 と謂った塩梅であった。無論、事は之で収まる筈は

無く、彼の最晩年10余年は、終にベトナムへの強制移住で幕を閉じる事となる。
(ヤレヤレ)

但し、そんな虞翻の才能を惜しみ、心配して呉れる人物も居た。軍部の重鎮と成って来ている

【呂蒙】であった。呂蒙は内心、何とかして虞翻を復帰せせようと考えて居てくれたのだった。





さて本題の
合肥攻撃 本軍であるが・・・何と言っても ”実戦”で頼りに成る

のは、
将軍や若手の将官連中であった。ーー中でも偏将軍韓当は、初代・

孫堅以来の譜代の猛将であるが、未まだに衰えと云うものを知らず、先鋒の任や特攻隊の司令
官を望んだ。また同じ
偏将軍と謂えば呂蒙である。
      周瑜亡き後は、事実上の 呉軍
総司令官を代行して来て居た。国家戦略の方面は、周瑜に指名された【魯粛】が担当して居るが、

こと軍事方面に関しては、この呂蒙こそが全軍を束ねて居た。又彼の
赤備え部隊は「赤鬼」として

敵に知れ渡っていた。 ーーところで、”派手派手しさ”では・・・・其の上をゆくのが
奮武将軍

賀斉であった。正史は伝の中で其の超ド派手な彼の部隊をこう記している。

賀斉は、豪奢で煌びやかな事を好む性格で、特にそれを 軍事面で発揮した。武器
甲冑や軍用機具は、飛び切り精巧で上等な物で、乗っている船には雕刻や色彩を施し 透かし雕りで飾り、
青いパラソル天蓋を立て赤いカーテン帷幕を垂らし、大小の楯や戈矛には花模様を色あざやかに画き、弓や矢には全て最高の材質の物を用い、蒙衝(駆逐艦級の突撃艦)や戦艦の類いは、遠くから見ると 恰も 山の様であった。・・・・

う〜ん、参った
!!・・・・電飾トラックの兄サン達も顔負けの、何とも目立たがりの超怒級!!
20年間の山越討伐は伊達じゃ無い!? 


でー→
ド派手と言えば、その元祖。婆沙羅のヤクザ出身で、今や必殺の斬り込み隊長・・・・・
折衝将軍甘寧 を忘れちゃ〜ならない。
その余りに豊富なエピソードは既に紹介済みだが、未だ未だ是れからも我々を楽しませて呉れる。 但し、此方は、もうとっくの昔に、見た目の

派手派手競争は卒業。その代りに、”見た目”では無く、軍事行動の中での
”度肝抜き”に、男の花道を見い出して居るのであった。念の為に記して置くなら、彼は已むを得ぬ状況

だったとは雖も、
【陵統】の父親「陵操」を弓で射殺しており、未まだに深く怨まれ続けて居た

のではあった。その関係を 常に執り成し、気配りして居るのが「呂蒙」であり「孫権」でもあったーー

《いずれは、両者の任地を遠ざけてやらねばナ・・・・》 と思う。


その
陵統未だ23歳と若く、現在は将軍一歩手前の盪寇中郎将。但しその勇猛
果敢さと烈さは誰にも負けない。また
『彼は 軍旅の裡に在っても、賢者や有能 の人物と接触を持つ事に努め、財貨を軽んじて信義を重んじ、
一国を背負って立つ国士の風があった。』

元来はスッキリとして、蟠りを一切持たぬた 好青年であった。だが唯、甘寧に対する恩讐だけは

拭い去れずに居た。無論、公務に支障を来たす様な振る舞いは謹んでいた。だが以前、未だ父の

後を継いだばかりの頃、酒席で無茶苦茶をして、父親への罵詈雑言をはいた上官 (陳勤) を斬り

捨て、「死んで侘びるしか無い!」と力戦奮闘して見せた為に、孫権から特別の免赦を得ていた。

だから孫権は今回、そんな若手の有望株彼を
右部督に任命する事とした。


もう1人の
偏将軍身の丈7尺7寸の巨漢。18歳から23年間、無敵を誇り、五校尉(首都防衛 隊)の目付などを歴任して来た陳武である。今41歳。

平南将軍呂範は孫策時代に囲碁都督として有名となったが、実力は申し分

無い。孫権は兄の時代、金庫番の呂範からは遊興費を出して貰えず、ひどく怨んだものだったが

今や却って、其の実直さを深く信任して居た。逆に融通して呉れた者は任用しなかった。



もう1人ーー「呂蒙」と吊るんで一緒に仕官し、武功だけで言えば、とっくに将軍に成って居ても不可 しく無い男・・・
討越中郎将蒋欽が居た。彼ら2人は共に無学文盲で武勇一辺倒

の勉強嫌い。文字アレルギーの典型だった。そこで見兼ねた孫権は (既述の如く)、2人に学問の

要を懇々と説諭した。それに発奮した
呂蒙の方は、刮目の語源と成る程の大変貌を

遂げた。だが、どうやら「蒋欽」の方は其れ程では無かったと見えて、遅れ馳せながら、この戦役

後に漸く
盪寇将軍に昇進するのである。だが其の質素の暮らし振りは徹底したもので、或る日、

孫権が自宅を訪ねて見ると、何と彼の母親は粗略な夜着を纏い、妻妾達もみな麻布の青いスカー

トを身に着けているだけだった。その日頃からの質素を重んずる蒋欽の姿に甚く感動した孫権は

直ちに宮中の蔵から上等な衣類を取り寄せ、母親や妻達に着替えさせる程であった。


その他の下士官クラスで目星しいのはーー
中郎将徐盛宋謙

また「出世払い」で金貸し泣かせの
武猛校尉潘障ーーと謂った所か・・・・!?


そして、既に
濡須塢で、以前から守備に就き、合肥の曹操軍と対峙して居る

平虜将軍周泰。先日、孫権の栄誉礼を受けて以来 (寒門の為に部将達から軽視されて

居たのを、皆の前で肌脱ぎにさせ、その傷跡の武功を1つ1つ説明させた=既述。)
 益々感激して、この機会を

待ち侘びて居るに違い無かった・・・・



そして身内にも、優秀な人材が在った。叔父(孫堅の末弟)「孫静」の3男ーー都護で征虜将軍の

孫皎・・・・字は叔朗 (33歳位)。『この当時、曹公がしばしば濡須へ軍を繰り出して来て

おり、孫皎は其の度ごとに駆け付けて防ぎ止めた為、精鋭デアル!との評判を取った』 と云う

人物。だから征虜将軍の肩書は、決して伊達では無い。君主の身内だからとて、何となく就任して

いる所謂「白地将軍」では無かった。だから孫権は大いに期待し、贔屓目では無く、孫皎の器量は

【呂蒙】に匹敵するのではないか?・・・・とさえ思って居た。後日の事、「関羽討伐」の総司令官を

任命する際、両者どちらにするか迷う程の文武・人望を兼ね備えた甥で在った。彼の理性を示す

エピソードとしては次の様な話が記されている。ーー或るとき孫皎が偵察の兵を出すと、その兵は

魏の辺境守備の部将や軍吏の元に居た美女を捕まえて来て孫皎に差し出した。だが孫皎は彼女

の衣服を新しい物に取り替えて送り返して遣り、命令を出した。

『いま誅伐を加えようといるのは曹氏である。民衆達に何の罪があろう。之よりのち、老人や幼い

者に危害を加える事が有ってはならぬ!』こうした事から、長江〜准水の一帯では、彼の下に身を

寄せて来る者達が多かった・・・・。また【甘寧】と大喧嘩して、後世に有名と成る甘寧の主張ーー

「臣下も公子と同列で在る筈だ!」との発言を誘発させている。無論いまでは却って、両者は益々

親密と成って居る。尚、彼の兄(次男)に「孫瑜」が在ったが、惜しくも今年39歳で逝去したばかりで

あった。この孫瑜も中々の人物で、特に周瑜からは認められ、周瑜の壮大な夢の一角を担う者と

して厚く信頼されていたのだが・・・・。




更に、もう1人、今は
〔山越〕討伐に出掛けて居る、
帳下右部督陸遜。やがては 呉国の屋台骨を背負って立つ、大人物と成る
のだが、
215年 (33歳) の此の段階では未だ

彼の名前は敵国には無論の事、呉の国内に於いてさえも、余り高く評価されては居無かった。

だが元々彼は、地元豪族 (呉の4姓) の中でも最大名門・「陸氏」の御曹司であった。既述の如く、

2代目・孫策が袁術の命令で、当時「盧江郡」を治めていた「陸氏一族」と戦い、その成人男子の

殆んどを戦死させてしまっていたのだった。孫策は江東を平定した後、再三に渡り彼を召請したが

その怨讐の気持が去らぬ陸遜は、一族の他の者(陸績)は出仕させたが、自身は断固出仕を拒否

し続け、ついに孫策存命中には姿を見せ無かったのである・・・・。

やがて孫権の代と成り、その3年後、やっと召請に応じて出仕したのは、彼が21歳の203年の

事であった。だが 孫権としても 中々に、地元大名門の御曹司たる 彼の ”治まり所” が見つから

無かった。ひと先ずは
兄・孫策の娘を 妻として与えると云う 破格の待遇を与えた。

だが、一族を直接的に滅ぼした 古参部将と顔を合わす のを嫌った、本人の希望 も 在ったので

あろう。主として〔地方の任務〕を歴任する事に専念して居た・・・・現在33歳であるから12年もの

間、中央には仕える事の無い儘に 来て居たのである。 無論、どの地方務めも、仁愛 と 峻厳に

満ちた素晴しい成績を残していた。今現在も 〔山越〕 の討伐と慰撫に専心し、何と此の直後には、

新たな数万の兵力生み出して見せるのである!!

大袈裟な数字では無く、「正史」の彼の「伝」に記されている数字である。ーーそんな
陸遜

人物に、密かに注目して居たのは誰あろう・・・・
呂蒙であった。やがて此の新旧のコンビは、

あの
関羽 をして、その破滅の淵に追い込む 事と 成るのである。


処で、こうして呉の部将達を観て来ると気付く事だが、呂蒙の存在が光る

あの悪ガキだった同じ人物とは、とても思えない。孫策に拾われ、周瑜に育てられはしたが、特段

の後ろ楯が在る訳でも、まして名門の出身でも無かった。にも関わらず、己の努力と実力と人望に

拠って此処まで伸し上がって来て居る。ーー独り、「虞翻」の才能を惜しみ、「甘寧と陵統」の関係を

気遣い、「陸遜」の将来を嘱望している。・・・・其処に在るのは最早、己の損得では無い、国家の

視点で物を観、判断する器の佇まいである。いずれ【関羽】を追い詰めるのも頷けよう・・・・・。




さて合肥曹操陣営・・・・此の城の持つ重要さは今更改めて述べる迄も無い。

曹操は、此の劉馥が築いた合肥の城に
3人の勇将を配置して居た。本軍・本拠地からは遠隔の

殆んど孤立状態の出城である。然も敵の鼻っ面に位置し、何時なんどき敵の総攻撃が有るやも

知れぬ、常時臨戦態勢を強いられる「緊迫・緊要の城砦」であった。その上もし今、敵の総攻撃を

浴びたとしても、援軍は何処からも遣って来ては呉れない。自力で防ぎ切るしか方法は無かった。

必然、将兵の心構えは、決死の意気込みに満ちて居た。 肝も腹も据わって居る者達だけが選抜

されて、その守備に当っていた。正に
少数精鋭!典型だったと謂えよう。

そんな将兵を率いているのが・・・
張遼楽進李典将であった。さぞかし皆

同じ辛い環境に在って一致団結、互いを心の友としてがっちりスクラムを組んで居たであろう・・・・

と思いきや、意外や意外。現実は其の正反対であったのである! こんな狭い 城の中の世界だと

云うのに、普段から3人は互いに顔を合わせる事すら稀で、軍務上以外の私的な付き合いは全く

無いーーそれ処か
楽進・李典・張遼ハいずれも平素カラ仲ガ良ク無カッタ

云う有様・・・・おいおい大丈夫かよ?と 心配したく成る程の 犬猿の間柄でしか無かったのである。

それにしても無茶苦茶な人員配置である。選りに選ってこんな
仲の悪い トリオ を組ませる

とは、開いた口が塞がらない。 外に幾等でも 人材は居るのだから、もっと 相性の好い者同士を

組み合わせるのが普通であろう。・・・・だが其処は曹操の事、ちゃ〜んと一石 置いて有ったのだ。

彼等を調整する目付役の人物を、
護軍として同時に配置して在ったのである。ちなみに護軍

とは『諸将ヲ取締リ、武官ノ登用ヲ司ル職制』。そして、その人物とは
薛悌せつていである。

ーーん?薛悌??・・・聞いた事の無い名前だぞ。それも其の筈、「伝」を立てられて居無いのだ。

但し、
22歳で太山太守に就き、その後に曹操に召請されて出仕するや直ちに〔長史〕に取り立て

られ、〔中領軍〕を拝命する程の人物ではある。”
城死守”の時には、〔兌州従事〕として程cと

共に曹操の帰還をバックアップしている。字は
孝威で、現在45歳位。この後には〔魏郡太守〕

や〔尚書令〕にまで昇進する。まあ一級の人物では在るには違い無い。が然し、その職歴を観ると

明らかに
文官である。また曹操は、張遼や楽進に対して『揚州の刺史は、軍事にも通達して

居る。一緒に相談して行動せよ!』と言って寄越していた。刺史に成る前は丞相主簿の任に在った

【温恢】である。そして彼の副官が、【蒋済】であった。優秀では在るが2人とも武人

では無かった。猛者揃いの曹魏軍団の中でも屈指の、猛将3人の不和を調整すると成ると、可也

不安である・・・・。だが、この一見すると無茶苦茶な曹操の人選は・・・・およそ我々凡人の杞憂に

過ぎ無いのである。そこら辺の
深〜い機微については、【孫盛】が『魏氏春秋』の中で次の如く、

解説して見せている。
(裴松之は補注に、この孫盛の史料を大量に載録しているが、その癖に、
                  「史実を潤色した2流のモノである!」  と糾弾している。
ーーまあ感想ならOKであろう。)

『そもそも戦さは 本来、正常に反した手段であり、奇策と正策が補い合う ものである。もし将軍に
命令を下し征伐に出す場合、将軍の車を推しながら権力を委任する。或る時は首尾あい助け合う
形勢を頼りとし、或る時は前後あい応ずる形勢を恃みとするが、夫れ夫れの指揮官達が 不和で
在れば、軍を放棄する結果と成る。
合肥の守備に於いては県は弱く 援軍は無かった。もっぱら勇気の有る者に任せれば戦闘を
好んで災難を惹き起こす。もっぱら臆病者に任せれば、怖気づいて保持する事は難しい。そのうえ 向うは多数、我が方は少数となれば、向うは必ず怠惰を貪る気持を抱くものだ。身命を投げ打つ
兵士を以って、怠惰を貪る兵卒を 攻撃するのだ。 状勢から謂って 必ず勝つ。勝った後で守る。
守れば 必ず堅固である。
だからこそ魏の武帝は適当な人物を選び出し、似た性格や異なった性格を混ぜ合わせ、彼等に
対して
秘密の命令書 を作り、その行動を制約した。事態が起こった後の対応は、割符を合せる 様にピッタリしていた。美事なことよ!』

無論、曹操は全てお見通し。先刻承知の上での人員配置であった・・・・と云う事である。



さて、その
3人の守将の紹介であるが・・・その内の2人までは、この合肥戦を最後の華として 程なく病没する。楽進は3年後に、李典も36歳の若さで没する。従って本書では、この 2人についての記述は、此処が最後となるであろう。よって少し詳しくその生涯を振り返って措く。

先ず、魏の五星将の1人・・・・
楽進についてだが、彼の短い「伝」は正に、叩き上げの 生粋の部将らしい内容で 占められている。 即ち、戦功の羅列のみで、人間的は逸話は
皆無である。まあ、それが軍人の本分であるのだから詮方ないが、チト淋しい気がする。

楽進は字を文謙。陽平郡衛国県の人である。身体つきは小柄であったが、肝っ玉の激しさ によって太祖に付き従い、帳下の吏と成った。太祖は出身の郡に楽進を帰して兵を募集させたが、千余人を手に入れ、帰って軍の仮司馬・陥陣都尉と成った。

濮陽に於ける呂布攻撃
雍丘に於ける張超攻撃苦に於ける橋ズイ攻撃に参加し、全て一番乗りとして戦功を立て、広昌亭侯に取り立てられた。安衆に於ける張繍征討下丕に於ける呂布包囲に参加し、別将を撃ち破った。スイ固を射犬に攻撃し、劉備を沛に攻め、全て其れ等を打ち破り、討寇校尉に任命された。黄河を渡って獲嘉を攻撃し、帰還すると官渡に於ける袁紹攻撃に参加し、力の限り戦い、袁紹の将軍・淳于瓊を斬った

黎陽に於ける袁譚・袁尚攻撃
に参加し、その大将の厳敬を斬り、行遊撃将軍と成った。別軍として黄巾の賊を攻撃し、其れを撃ち破り楽安郡を平定した。業卩の包囲に参加し、業卩が平定すると、南皮に於ける袁譚攻撃に参加し、一番乗りして袁譚の東門に突入した。袁譚が敗れると、別軍として雍奴を攻撃、之を撃ち破った。

建安11年(206年)、太祖は漢帝に上奏文を奉り、楽進および于禁・張遼を讃えて述べた。

武力が優れている上に、計略は行き届き、忠義にして純一なる性質を持ち、固い操を保持して居ります。戦闘攻撃に臨めば常に指揮を取り、刀を振るって堅陣を突き破り、堅固であっても陥落させない事は無く、自身がバチと太鼓を取り、手は倦む事を知りません。また別軍として征討に派遣されると軍隊を統率し、兵士達を可愛がっては和を基本とし、命令を畏こみ違反する事なく、敵にぶつかって決断する場合も失敗は御座いません。功績を調べ働きを記し、夫れ夫れ顕彰され恩寵を下されるべきと存知ます。」 
この結果、于禁は虎威将軍に、楽進は折衝将軍に、張遼は盪寇将軍に取り立てられた。

楽進は別軍として
高幹を征討し、北道を通って上党に入り、迂回して其の背後に出た。高幹らは引き返して壺関を守ったが、連戦して敵兵の首を斬った。高幹は固守して降らなかったが、偶々太祖自身が彼を征伐し、やっと陥とした。太祖は管承を征討し淳于に陣を置き、楽進と李典を派遣して彼を攻撃させた。管承は敗走し海中の島に逃げ込み、海岸地帯は平定された。
荊州が未だ服従していないので、派遣されて陽櫂に駐屯した。のちに
荊州平定に参加し、留まって襄陽に駐屯した。関羽・蘇非らを攻撃し彼等を全て敗走させた。南郡の諸県の山谷に居る蛮族達が楽進の下に来て降伏した。また劉備の臨沮の長・杜普、旌陽の長・梁大を討伐し、全て散々に撃ち破った。後に孫権征討に参加し、楽進には節が貸し与えられた。太祖は帰還する時、楽進を留め置き張遼・李典と共に合肥に駐屯させた。500戸を加増され、前と合計して1200戸と成った。楽進が度々戦功を立てた事から、500戸を分割して1子を列侯に取り立てた。楽進は右将軍に昇進した。建安23年 (今から3年後の218年) 逝去し、威侯と諡された。』

ーーと、以上が
楽進の「伝」の全てである。真に凄絶な、部将・武人としての生涯であった事が偲ばれる。それにしても凄まじい・・・・!!



3人の内、
李典はやや趣きが異なる。部将では在ったが、『李典は学問が好きで、儒教
の教養を尊び、諸将と功績を争わ無かった。優れた士大夫(名士)を尊敬し、謙虚そのものの態度
を取ったので、軍中では彼の長者ぶりを讃えた。36歳で逝去した。』
ーー(正史)ーー又、(魏書)には・・・

『李典は若い頃、学問が好きで軍事は好まなかった。そして先生について「春秋左氏伝」を読み、
広く種々の書物を見た。太祖はそれを好ましく思ったので、試しに人民を統治させてみた』 とある。

元々は、曹操の最初の根拠地となった、兌州・山陽郡乗氏県の豪族の家柄だった。当時、曹操は

官渡で袁紹と対峙して居たが、李典は地元から兵糧を供給し続け、その功によって裨将軍に取り

立てられた事が 部将としてのスタートであった。その後、数々の武功により捕虜将軍に昇進した。

最近では、魏公に就任して独立に備える曹操の企図を察知し、故郷の兌州 (乗氏) から
一族郎党

3千余家 (1万3千人) を全て業卩に移住させ
、将来、国の首都となる魏郡の人口充実に備えた。

それを嘉した曹操は彼を破虜将軍に昇進させ、そして現在
合肥に駐屯して居たのである。

字は
曼成。36歳で没したとあるが、彼の「伝」には此の215年の合肥の戦い以後の記述が

無い事から推すと、今の時点では35歳位であったであろう。未だ若い。



3人の守将のうち、生没年がハッキリ判っているのは
張遼である。164年に生まれて多分
222年に病没している。だから現在は満50歳。2千年前の50歳にして尚、最大の奮戦・最大

の武勲を挙げるのであるから現代の我々としては大いに励みとなる。一顧してみれば、三国志の

英雄・豪傑のほぼ全員が、20〜30代よりは寧ろ50代に成ってから超人的な大活躍を致すので

ある。60代や70代になっても尚、戦場の第一線に立つ者達が在った事を思えば、人生80年の

現代に在る筆者なぞは、大変勇気づけられる。
ーーさて、
張遼についても、その半生を、彼の「伝」の中から抜粋して観て措こう。字は文遠

出身は并州 雁門郡 馬邑県。直ぐ背後には万里の長城が迫り、まあ北の辺境と言ってよい場所。

元々の姓は「聶」だったと言う。先祖に阿漕な「聶壱」と云う交易商人が居り、匈奴を騙して怨みを

買い、為に子孫の者達までが復讐の的のされ、已む無く姓を変えたのだと謂う。

その張遼が最初に仕えたのは并州刺史の「
丁原」であった。ほぼ同期の先輩に 「呂布」 が居た。

漢末の動乱で「
董卓」の配下となり、董卓が暗殺された後は「呂布」に従った。その呂布が亡ぼさ

れた折、張遼は曹操に帰服した。時に28歳であった。爾来、曹操の全ての遠征に従い、万里の

長城越えでトウトツの首を斬った。また別働軍として休む暇も無く全国各地に派遣され、八面六臂

の大車輪で今日を迎えて居た。
魏の五星将の中 ナンバーワンの部将と言ってよいであろう。

有名な逸話としては、『
一与一の闘い』 と謂う語の生みの親である事。

一時期、曹操に降って居た『
関羽との友情』などが記憶に鮮明である。




さあ、是れで
勇壮なる史劇準備は万事整った。 いよいよ次の節では、

その
遼来来!物語をじっくり堪能しようではないか!!
【第195節】 逆赤壁、合肥の戦いT(孫権の歴史的大敗北)→へ
〔お断り〕ー→筆者、老眼の故を以って、次節より 再び 文字
   ポイントを 「5」 に拡大させて戴きますので 悪しからず。