第192節
天 空 の 牢 獄
                                   無念!敵前の撤退

世の中、押し並べて・・・・見ると聞くでは大違い!!曹操、実際に来て見て愕然とした

流石の曹操も、その地形の物凄さと、それを活用した 張魯軍の 鉄壁な要害や、輜重を通すべき
道筋の険峻さを目の当たりにした時、思わず背筋が氷ついた。
全滅の2文字が頭を過った。

そして終に
曹操はこの漢中平定戦断念した。
      中途で投げ出し、放棄したのである。


その時の曹操の言葉・・・
漢中は正に牢獄である

そして此処は、化け物の国だぞ!!
  中間の斜谷街道は、五百里に渡る
石の洞窟だ!・・・・・

その曹操の大落胆の様子は、正史の彼方此方に散見できるが、その前に先ず、この断念に至る迄の経緯を観て措くとしよう。ーーそもそも・・・・

関中(長安方面)から漢中へ行く場合、普通(旅行者)であれば、つのルートが存在した。
あの4千mの太白山の西側に”
五丈原”と呼ばれる、舌の形をした台地状の出っ張りが在る。

後年、【諸葛亮孔明】 と 【司馬懿仲達】 が死闘を展開し、終には 諸葛亮が陣没する、あの
怨みも
深き五丈原
である。その五丈原を挟んで左右に1つずつ、秦嶺山脈越えの為の入口が在った。

長安から近い方が
斜谷の街道で、これが通常の本線であった。だが此のルートには、侵攻
する側の昔にとっては厄介な”難所”が存在した。斜谷に懸かる吊り橋である。その以前、〔蜀〕を
立ち上げた【劉焉】が、外部からの干渉を排除して独立国家を築く為に、この吊り橋を断ち切った
事は余りにも有名であった。ーー当然、張魯も事前に其の挙に出るであろうし、又もし踏み込んだ
後に橋を落とされたら、その場合は立ち往生で自滅する・・・・だから大軍団が、この本街道に頼る
事は危険この上無い事であり、作戦の要路として使う事は、最初から除外されていたのである。
そうなると残るルートは唯1つーーその斜谷口を更に西に進み、五丈原の出っ張りを過ぎた地点
に在る〔
散関〕から武都を経て、西廻りに大きく迂回して、漢中盆地の西の縁に出てゆくルートで
ある。だが元々こちらは「武都」へ行く為のルートであり、「漢中」へ抜ける為の道筋では無かった。 だから其の行軍の困難さは、前者に数倍するものとなった。・・・・曹操は先ず、自身が
陳倉から 秦嶺山脈に踏み入る前に、抵抗が予想される氏族の中でも最大勢力の殲滅を張合卩に命じた。
部族王の
竇茂とうぼうであった。こんな山中で万余もの兵力を糾合し得る者は彼以外には無かった。
そこで諸軍を張合卩の指揮下に付け、
2ヶ月掛かって、やっとの事で竇茂を殲滅した。その間に
曹操は ゆるゆると進み、
80キロ南西の河池へ到達したに過ぎ無かった。(この辺りの小さな
部落の位置はハッキリしない。古地図に従えば河池の位置は武都より更に西に在るのだが、それ だと曹操は、秦嶺山脈の尾根伝いを延々200キロも遠廻りした事になる??) その後も 曹操は
常に先ず張合卩に5千の歩兵を指揮させて前方を行かせ、道路を開鑿させる措置を構じ続けた。

5月ーー「下弁」に先行し、兵糧10万石を現地調達し終えた夏侯淵休亭

曹操本軍に合流を果した。曹操は大喜びし、以後は羌族を脅す時には必ず、この夏侯淵を使って

彼等の帰順を引き出す材料とするのだった。尚、このとき武都郡の太守であった
蘇則と言う者

が初めて曹操に拝謁した。今まで「武都郡」は曹操の版図では無かったのだから、漢王朝が任命

した辺地の太守などに関心も面識も無かったのである。ところが会って見ると、是れがまた剛直で

中々の人物であった。「酒泉太守」・「安定太守」を歴任して「武都太守」を務めて居た。

のちに張既が彼を評した時の言に拠れば、『人民を労わった功績が在ります上に、また善く蛮族を

懐け、忠誠を尽くして居ります』と云う男・・・・元々地元の
扶風郡 陳倉・五丈原・斜谷・散関を含む 出身で

若い頃には太白山の中に隠れ住む体験すら有していた。この辺り一帯の地勢を知り尽くした人物

と言って良い。「これぞ、天が遣わした儂の道先案内人じゃ!」 とばかり、曹操は以後の先導役を

蘇則に命じた。ーーとは言え、曹操軍が最初の目的地としている
陽平関に到達するのは、
更に数十日
を要した後の7月の事となる・・・・それは又、
如何に 食糧・輜重の搬送が困難を極めたかを示す苦難・辛酸の日数である
ーーだが
同じ5月でも・・・・洛陽の北方に在る「孟津」の小城に留まり、後方の任務に在った
曹丕なぞは、父・曹操の悪戦苦闘の様子など露知らず、至って呑気なものであった。

曹丕派の謀臣・呉質に対しての〜んびりした手紙を送っている。当時の上流階級に於ける、〔宴の楽しみ方〕が窺い知れる貴重な一文なので掲載して措く事にする。

『季重
呉質にはお変りは無いか。道は近いとは言え、職務には制約が在り会いに行く事も出来ぬ。
君を思い誠に耐え切れぬ感がして居る。足下が行政を担当している所は僻地であり、たよりも余り頻繁では無く、いよいよ以って心労が増す。 いつも昔日の 南皮 への遊楽 を思い出して居るが、本当に忘れる事が出来無いで居る。
六経に思いを凝らし、諸子百家の世界を彷徨った上、その合間に弾棊(お弾きゲーム)を行ない、挙句の果ては博打までし高らかな談話に心を楽しませ哀調を帯びた琴の音に耳をうっとりさせた。北の馬場で馬を馳せ、南の館で皆で食事し、甘い瓜を清らかな泉に浮かべ、赤いスモモ(李)を冷たい水に沈めた。 輝く太陽が没したのちは、明るい月を其の代りとし、皆一緒に 車に乗って裏の庭園に遊んだ。車輪は静かに動き、随行する賓客は声も無く、清らかな夜の静寂に吹き起こり、
悲哀を込めた葦笛 (笳)、低く歌う吟詠、歓楽が去って哀感が湧き起り、しんみりとした胸の思いを傷ませた。
私は振り返って、この楽しみは滅多に無いものだ!と言ったが、足下の仲間達もみな、その通りだと言った。
いま心配した通り別れ別れになり、夫れ夫れ別の方向に居る。元瑜 (建安の七子・阮
王禹)は永の暇を告げ、異物に変化してしまった。・・・・常に一途な追憶の念が沸いて来るが、何時になったら語り合う事が出来ようか。今まさに季節は五月、南の風が万物に吹き渡り、天気は和やかで暖かく、色々な果物が盛んに実っている。時には車に乗って遊山に赴き、北方に向って黄河の屈曲に沿って進む。従者は車の鈴(笳)を鳴らして道を先導し、文学(教養文官)は後方の車に身を預けている。季節は前と同じだが時日は異なっており、景物は宜しいが人はかつての友では無い。君を思う私の心を如何せん。今、騎馬を業卩に行かせる故、寄り道をして訪問させる。自愛されよ。』


まさか秦嶺山中で父・曹操が、内心では撤退も韓考え始めて居たなど、思いも寄らぬ風情である。

さて、この
5月ーー曹操は此の大山塊の裡で、思わぬ人物 と再会したのである!

あの一種親しみを籠めた
糞ジジイこと韓遂である。ーーえっ!?こんな所に韓遂 が

居る訳が無いではないか
?? 夏侯淵軍に追い捲られて、遙か涼州の奥深くに 姿を消した儘の

消息不明であった筈
ー→正に其の通り、居る筈は無いのである。それなのに何故、こんな

人跡未踏の奥山で再会を果したのか
??・・・・曹操にとっては古馴染みの韓遂の、その後の

足取りを追って試る。(※但し、その地名の位置は判然としないのだが)

韓遂が決定的なダメージを蒙ったのは、2年前に、馬超が復活して【夏侯淵】に破れ去った時、

その支援の為に涼州から「
顕親」に駆け付けた時であった。合流する直前に、馬超は独り漢中の

張魯の元へと逃亡した為、夏侯淵の狙いは韓遂独りに絞られた。戦況不利!と観た韓遂は、一旦

地形が険峻な「
略陽」へと撤退。そのため夏侯淵は交戦を断念した。だが此処で夏侯淵は、韓遂

の弱味を突く作戦に出た。ーー韓遂の率いる軍勢の主力は、異民族 ”羌族”の連合軍であった。

そこで夏侯淵は”
彼等の人情を逆利用”したのである。・・・・・彼ら異民族は、中国人によって父祖

の地を追われ、山間部に 肩を寄せ合いながら 散在して暮す、素朴な 〔
少数民族〕であった。

少数であるだけに其の家族や同胞に対する愛情は大変深く、また強いものだった。その事を熟知

していた夏侯淵はその家族の方を狙ったのである。ーー彼等の妻子や父母は、平地の「
長離」に

暮らして居た。もし韓遂が救援に出て来なければ、彼等の信頼を一挙に失い瓦解するであろう。

出て来れば平地での会戦となり、夏侯淵側に有利となる。・・・・果して韓遂は要害を棄て、平地に

出て来た。ーーそして大敗北した。負けると判って居ながら、人の情に於いて見捨てて置く訳には

ゆかなかったのである。この敗戦は、韓遂にとって再起不能に近い、致命的な大打撃であった。

「雍州」を落ち延び「涼州」 内へと逃げ込んだ。その国境の郡を2つ涼州側へ入った所に在るのが

西平郡」である。いま曹操の居る武都からは800キロも離れた奥地の位置である。その西平郡

には 地元名家の【
郭憲】と言う人物が居た。代々 仁愛と誠実さによって 郡全体から心を寄せら

れて居た。韓遂は、その郭憲を頼って身を寄せた。

その韓遂には、彼が目を掛け期待していた3人の後継者が居た事を、読者諸氏は覚えて
居られるであろうか? 夫れ夫れに個性の異なった
【馬超】閻行えんこう成公せいこう えいであった。

その内の
馬超は結局、現在蜀の劉備に帰順して主要部将の1人と成り、韓遂とは

別れ別れの位置に在った。・・・・問題はあとの2人である。その1人ーー

成公 英は最後の最後まで韓遂と行動を共にした。夏侯淵に破れた直後、韓遂は

成公 英に相談した。「今、親戚は離反し、人数は一転して少なくなった。羌族の中を通って西南に

向かい、”蜀”に行くしか手は無いと思うのだが・・・・?」

「軍を起こしてから数十年、現在は疲弊し 敗北したとは申せ、どうして 自分の家を棄てて 他人に 頼る必要が有りましょうや。」

「ーー儂はもう歳を取った。・・・・で、君なら何ういう手を打つ心算じゃ?」

「暫らく羌族の中で休息し、夏侯淵の去るのを待ち、以前の部下を呼び寄せ、羌族を落ち着かせ、 再び寄せ集めれば、未だ手段は有るでしょう。」

韓遂は其の計略に従った。そのとき随行する者が男女なお数千あった。韓遂は以前から羌族に

恩を売って居たので、羌族は彼を守り保護した。

問題は
閻行であった。馬超が徹底した”反曹操”で在ったのに対し、この閻行は最初から

親曹操”の立場に在った。海千山千の韓遂は其れを承知の上で、左右両方の手駒として手元に

置いて来て居たのである。韓遂としては、万が一の”曹操カード”として閻行の方向性も取り込んで

措いた訳なのだ。だから閻行の勧めに従い、我が子を閻行の父母と共に、曹操の元へ人質として

差し出す措置さえ採っていた。(曹操は韓遂の子だけを処刑し、閻行の父母は助けていた。)

だが時局は最早、曹操との和解困難と成った為、韓遂は閻行の離反を危惧し、その予防措置とし

て我が娘を閻行に嫁がせ、親戚関係を構築していたのであった。ーー然しそれでも矢張り閻行は

いざと成って韓遂を裏切った。夏侯淵の下へ奔ったのである。ばかりか、夏侯淵が引き上げる際

には、逆に韓遂を襲う任務を命じられたのである。だが失敗し、何うしようかと困っていた矢先に、

韓遂が病死した為、家族を引き連れ東方へと去った・・・此の、若い時に馬超と闘いあわや

馬超を突き殺す迄の武勇を誇る【
閻行】ーー 「のち曹操は 閻行を列侯に取り立てた」 との記述

を最後に、三国志からは一切姿を消す。裏切り者は幾等でも居るのだから、特別に彼だけが排除

されたとは思えないが、若くして病死したものであろうか??


尚、この後の
〔韓遂の生死〕については他にも未だ説ある。

つは、先の【郭憲】を頼って西平郡に落ち着いた後の事・・・・多くの者は此の際、韓遂を捕えて

己の手柄にしようと望んだ。だが郭憲は人々を咎め、怒って言った。

「人が追い詰められて私を頼って来たのだ。それを何うして危険に陥れ様とするのか!」

かくて韓遂を手厚く待遇した。その後、
韓遂は病死した・・・・とするもの。

但し、話は其れだけでは終らなかったのであるーーその地に在った田楽・陽逵と云う者が、死んだ

韓遂の首を斬り落とし、それを武都に居る曹操の元へ届けたのである。即ち曹操が再会を果した

のは・・・・生きた韓遂本人では無く、〔塩漬けにされた韓遂の生首〕であったのだ・・・・。

その時の曹操の反応を記す史書は無いが、恐らく丁重に葬る事を命じたであろう。何せ、曹操が

世にデビューする以前から、終始一貫して西方の暴れん坊として、一代を風靡した英傑で在った

のだ。己に敵対して天下統一の日程を遅らせた張本人の1人では在ったが、その徹底した生き様

に対する評価を、最も正当に理解できたのは同じ血を引く乱世の英雄・曹操孟徳を置いて外には

無かったのであるから・・・・。

韓遂よ、お前も亦、一世の英雄で在った事よなあ〜!!

こうした場合、曹操は死者の首を持って来た者を叱責などしない。大いに褒めて恩賞を与える。で

なければ示しが着かない。そこで此の挙に加わった者達の名簿を見た。処が肝腎な郭憲の名が

載っていない。事情を聞くと、その時の様子が明らかになった。郭憲は言った。

「私は生きて居る時でさえ、手を下すのには耐えられ無かったのだ。まして死人を捕まえて功績を

求める事に耐えられようか!」ーーそこで曹操は郭憲の節義を嘉し、恩賞の名簿に彼の名を付け

加えさせ、持参した者達同様の爵位を与えた・・・・。

最後の1説は『後漢書』によるが、こちらでは病死説と同時に「部下の手により殺された」ともある。

真偽の程は定かでは無いが、記述の量から言えば”病死説”の方が妥当であろうか?


さて最後まで韓遂と行動を共にした
成公 英であるが・・・・彼は韓遂が挙兵した頃から

の部下で、ほぼ30年近くを無二の腹心として仕えた人物であった。のち降伏するが、曹操は彼と

会った時に非常に喜び、軍師とし列侯に取り立てる。狩りに同行した際、眼の前に現われた3匹の

鹿を突然射るよう命じられたが、彼は3発3中みごと全てを射た。その時の事、曹操は言った。

「君は韓遂に対しては節義を尽したと言ってよいが、私に対してはダメかね?」

「殿には嘘は申せませぬ。仮に元の主君が健在であれば、実際私は此処には来ませんでした。」

咽び泣く彼の姿を見た曹操は、旧主への真心を褒め、かくて彼を愛し尊敬した。 この成公 英に

ついては、その後も西方軍の参謀 (参軍) として活躍した記述が在る。


かくて、関中(長安)〜涼州までの長大な、中国の国際的玄関口で在る〔西方〕を、己の庭の如くに暴れ捲くり、主として少数異民族の人々の自存と自尊を守り続けた一代の快人物・・・・
韓遂 文約ーー時に享年は70余歳であったと言う。



さて話は、曹操の侵攻を知った張魯であるが・・・・
五斗米道
主宰者である。 (教祖かどうかについては論議の喧しい処)

その教義や経営方法については《第26節》に詳述したので繰り返さないが、張魯の現在の官位は

一応、
鎮民中郎将漢寧太守と云う事になっていた。この官位は後漢朝廷から

授かった、謂わば世俗的な、而して正式な (教団内での地位とは別の) 爵位である。

後漢末、朝廷は征伐する力が無かったので張魯の元に使者を遣り、鎮民中郎将に任じ、    
 漢寧 太守の官に就け、貢物を献上する義務だけを課す、と云う恩寵を与えた。
』 のである。

だが其れはもう20年以上も前の事・・・・現在では実力もグンとアップして居た。だから教団の内部

からは、もっと上の官位を名乗るべきだ!と言う声が圧倒的に多かった。そんな俗世の官位など

何うでも好い、と思わない処が 生身の人間世界の面白さ。 住民の或る者が
(お定まりのコースだが)
地中から”玉印”を手に入れた為、部下達は張魯が
漢寧の尊号を名乗る事を望んだ。
そこで張魯も其の気に成ったのだが、腹心に
閻圃えんぽと云う 賢者が居て諌めた。

「漢川の住民は10万戸を越え、財力は豊か、土壌は肥沃、四方は険固な地勢によって守られて
居ります故、上手く行って天子をお助け出来れば、斉の桓公や晋の文公の様に(覇者の地位に)
成れましょうし、それがダメでも (光武帝に帰服した) 竇融となって、富貴の身分を失う事は無いで
しょう。今現在、既に貴方様は、独断で物事を処置できる権限を有し、刑罰を断行するにも充分な
勢力を持たれて居られます。今更、別に”王”に成る迄も御座いません。どうか 暫らくは ”王”と
名乗る事は御止め下さい。王など名乗って、真っ先に厄災を受ける羽目に陥る様な、バカな事の
無い様に為さるべきです!


蓋し至言である。あの曹操ですら”魏王”と名乗る事に万全の注意を払い逡巡しているのだ。それ

を突然に”漢寧王”なぞと名乗ったら、世界中からバッシングされるに決まっている。曹操の侵略に

格好の口実を与えるだけである。そこで張魯はもっともだと考え、閻圃の意見に従った。

その後、韓遂・馬超の乱が起こったが、その時さらに関中の住民が数万家族、この漢中に逃げ込

んで来た。為に張魯の陣営は一段と強固に成っていたのである。ーーさて、この緊急事態・・・・


どうも張魯本人には、最初から徹底抗戦の意志は無かった様に思われる。無論、無抵抗に降伏

する心算も無い。・・・・では一体、張魯と云う人物は何を考えて居たのか!?・・・・と謂う事に行き

着くのだが、
その点についての考察は 後でジックリする事にして、先ずは 張魯陣営が 実際に取った 動きに

ついて観て措こう。ちなみに、
張魯五斗米道を営む漢中盆地はー→北の秦嶺

山脈と 南の大巴山脈に挟まれた 東西に細長い、峡谷の如き盆地である。敵が其の盆地の真北

から侵入して来た場合には
〔東狼関〕と云う要害が在る。 然 し曹操軍は 今回、其の北に切れ

込んだ長細い隘路を避け、武都を経由して
西の方向から侵攻して来るのは明白であった。故に 張魯軍の防禦陣は、その西方に全力が注がれていた。総司令官は張魯の弟張衛であった。

弟の張衛は兄の弱腰に頑強に反対し、徹底抗戦を主張していたのである。軍事力を有する国の

中で、和戦の議論が交わされる場合、絶対に武闘派が和平派を屈服させる事例は、古今東西を

通じてのお定まりである。軍部の方が威勢が好いに決まっている。軍人が戦う前から白旗を揚げ

る場合は、100対1位の大差がハッキリしている時だけである。(尤も20世紀の、何処かの島国

の軍部首脳は、事前にそのスコアー以上の実力差が在る事を、若手グループが作成した詳細な

データとして提出され、明々白々で在ったにも関わらず、神がかりの精神力と、自分達だけに都合

の好い優越民族意識を以って、無責任極まりない開戦に踏み切ったのでは有るが・・・)


張魯も押し切られた。但し彼の場合は、
実際に勝てる可能性が可なり高かった のである。勝敗の帰趨は、偏に曹操軍の兵糧の確保に懸かっていたのだ。
直接的に戦闘を交えずとも長期戦に持ち込みさえすれば曹操側の輜重搬送は

追い着かなく成る。大軍で在れば在る程、それが過重な負担と成り、やがて自壊する・・・・それを

聴かされた張魯は、一先ず其の作戦を弟に任せる事としたのであった。

備える時間はたっぷり有った。天然の要害を活用した、考えられる限りの有りと有らゆる砦や罠を

全ての場所に濃密に設置した。曹操軍が縦長の小部隊でしか動けぬ様に仕掛けた。秘密の抜け

道や囮のニセ間道も作った。・・・・こうして手薬煉しいて待ち構える万全の態勢が完成した後の

7月
ーーついに曹操軍が、盆地の西の端に姿を現したのである。そして其の、漢中盆地の西端に在るのが、所謂陽平関であった。「関」とは言い状、実際には急峰また峻峰が連なる山塊そのものである。其処に1キロに及ぶ濃密な縦陣地が構築されていた。
尚、漢中盆地の首都名は「漢中」では無い。チト紛らわしいが、この陽平関から東へ100キロ程に 在る
南鄭 なんてい と言う。張魯自身は其の「南鄭」で、戦闘の行方を見守る塩梅であった。そして 陽平関の防衛戦は、もっぱら弟の張衛や、以前に派遣されて馬超を支援した事の有る、勇将の楊昂、その他楊任等の諸将に任せた。

さて
曹操だがーー『軍は武都から山道を千里行軍したが険阻な道を 登り降りし、軍人は辛酸を嘗めた。 公は此のとき、
大饗宴を催したので、その苦労を忘れ無い者は無かった。』
・・・・と

「魏書」は記す。稀少な兵糧では在ったが、出し惜しみはせずに、使う時はタップリ使って見せたのだ。ーーだが、現実の処・・・・・

此の「陽平関」に着いた時点ですら、もはや
食糧事情は既に火の車と成りつつ在った
のである!


正史・劉曄伝には、この陽平関に到達した時の曹操軍の様子・惨状が記されている。

漢中に着くと山は険しく登るも困難であり兵糧も可也欠乏した。
太祖は、「此処は 化け物の国 だぞ。 どうして アレコレと手を打つ事が出来ようぞ。
我が軍は食糧も少ないし、早く帰る方が善い」と言い、すぐさま自分から撤退し、劉曄に命じて後続の諸軍を取り仕切らせ、順序に従って 引き上げさせた。

ちなみに曹操軍の〔軍師〕と謂えば、それは【荀攸】の代名詞であった。だが、其の荀攸は去年の
7月に逝去していた。その為も有り曹操は、此の張魯討伐戦に際して、”軍師参謀”を新しく任用
する必要に迫られていた。そこでひと先ずは正式な職制としての「軍師」を置く代りに、〔丞相主簿〕と云う形で参謀層の強化を図っていた。そして全くの新人と経験者を併用した。
新人の代表が【司馬懿】であり、経験者の代表がこの【劉曄】であった。


正史・陳羣伝中の回想にはーー太祖は昔、陽平関まで行き張魯を攻撃されました時、豆と麦を 沢山 収穫して兵糧の足しにされましたが、張魯が未だ降らぬ内に食糧はもう欠乏しました


更に『
世語』にはーー張魯は巴中に逃亡したものの
    軍の兵糧が尽きてしまい
太祖は帰還しようとした。 とある。

書き方はやや異なるが、曹操軍の食糧搬送が追い着かず、曹操軍
10余万は、目的地に到達した途端、既に兵糧の危機に瀕して居た事実は間違い無い
10万と云う大軍が却って足枷に成ってしまった格好である。
ーー確かに、計算して試ると・・・・

普段の何倍ものエネルギーを消耗する大登山の隊員が
10万人も居るのだ。その胃袋を満たし
兵士としての必要カロリーを保つ為には・・・・
日に人オニギリ個としても30万個!それが
ヶ月だと→30万×150日=4500万個・・・想像も着かない物凄さである。差し詰め 現代なら、コンビニの店舗 (1店舗300ヶ置いたとしても) 15万軒分に相当するのである!!

それだけの莫大な分量を、道無き道のアルプス山脈の中を、登り下りを繰り返しつつ人力だけで

運び上げるのだ・・・・ピストン輸送 とは行かない。 いくら頑張っても 限度が有る。 上手く 行く方が

奇跡であろう。
それを思うと、後年の諸葛亮の、再三再四の大遠征は、信じ難い偉業?であるーーいずれにせよ

攻撃に費やせる時間が、極端に制約されてしまった事になる。精々
日、ギリギリに踏ん張っても 5〜6日以内に敵を降伏させなければ、今度は逆にコッチが危なく成ってしまう・・・・!!

そこで曹操は、直ちに攻撃命令を下した。ーーだが、だが然し、である。攻めるに攻められないの

だった。敵の陣地そのものに近づけ無いのである。まして直接、敵と刃を交えるなど、とてもの事

至難の業であった。・・・・張魯軍は、鋭い峰々の、その頂上に、城砦を連ね、築いて居た。だから

曹操軍は、其れを陥とそうとして、山麓から 這い登って行く しか無かった。全くの 無防備状態の

格好で”203高地”に突っ込む乃木軍団の歩兵である。狙い射ちでバタバタやられた。

また違う場所ではーー狭い登山路?に蝟集した部隊めがけて、頭の上から巨岩や巨木が落ちて

来ては、その部隊の殆んどをグチャグチャにしてしまう。ーーこれでは如何に猛将・勇将が揃って

居ても、何の役にも立て無い。未だに敵の顔さえ視認できぬ、不気味な闘いであった。無理押しに

攻めれば攻める程、ただ味方の損害が増える一方であった。

「一体、どんな手が有ると言うのじゃ!?」

次々に飛び込んで来る悪戦苦闘の報に、流石の曹操もお手上げ状態であった。たっぷりと時間が

有るのであれば、何等かの打開策も着想し得ようが、何せ尻に火が着いた状況で在った。気鋭の

参謀連中も、誰一人として名案は浮かんで来無い。1日、2日、そして3日・・・・同じ惨劇の繰り返し

ばかりと成っていた。ーー
正史・武帝紀の記述ーー

秋七月、公は陽平に到達した。張魯は弟の張衛と将軍の楊昂らを陽平関に立て籠もらせた。(彼等は) 山を横切って10余里に渡り城を築いて居り、攻撃したが陥せ無かったので軍を引き上げた

また補注の『魏名臣奏』の「
楊既の上表文」に拠ればーー

武皇帝曹操が初めて張魯を征伐なされました際には、10万の軍勢を率い、おん自ら
御出陣なさり計略をお授けになり、住民の麦を頼りとして兵糧に当てられました。そして
張衛の守備など問題にならぬ と御考えに為って お居いででした。
処が地勢険固で守備側に有利な土地、我が軍に精鋭の兵士や勇猛な部将が居ても、
手の打ち様の無い情勢でした。対峙する事3日、軍を引き上げて帰還なさる御心算で、
「兵を挙げてから30年になるが、一旦ひとに呉れて遣るのは何うかな?」 と 仰り、

                       撤退計画が決定しました


同じく「董昭の上表文」に拠ればーー
武皇帝(曹操)は、涼州の従事と武都の降伏者の言葉に、
「張魯を攻撃するのは容易である。陽平の城下は南北ともに山から遠く隔たって居て守りきる事は出来無い!」とお聞きになり、真に其の通りだと考えられました。ところが、出掛けられて実際に其の場に臨まれますと、聞いていたのとは大違いでした。そして「他人の判断が自分の考えと同じである事は少ないものだ!」と慨歎なさったのでした。

陽平山の山頂に在る諸陣営を攻撃された時、なかなか攻め落とせ無かった上に兵士達の中に多数の負傷者が出る有様でした。

武皇帝は意気沮喪なされ、直ぐに軍隊を引き上げ、山上からの追撃路を断ち切りながら帰還しようとお考えになり、未だ山上に居る味方の軍を呼び戻すよう命じ、夏侯惇将軍 と 許猪将軍を
派遣されました。



《ーーやんぬる哉!!》・・・・終に曹操は

自身の判断に於いて作戦中止を決断し実際に撤退命令を下したのである!!


此処に曹操の、漢中平定張魯討伐
大遠征は
大失敗に帰すのであろうか【第193節】史上最大の珍勝?(アレレのレ?勝っちゃったの!大作戦)→へ